林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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空海

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弘法大師の小さな木像を入手した。高さ93ミリ。塗りは漆のような気もするが、専門ではないのでよく分らない。手に持つ法具は失われている(右手に五鈷杵、左手に数珠)。台座には「立」?と墨書。おそらくかつては厨子に収められていただろう。ただこの汚れ方からみてかなり長い間、像だけで放置されていたようにも思われる。

弘法大師空海は讃岐国多度郡の生まれ。小生の実家も真言宗だったため小さいときから祖母に連れられて毎週のようにお寺参りのお供をした。薬師寺と千光寺というふたつの寺が贔屓(?)だった。どちらもおよそ歩いて二十分くらいの距離である。祖母は成田山にも何年かおきに参詣するほど熱心な信者だった。ところが祖母にペットのように連れられていた小生が覚えた念仏はナムダイシヘンジョウコンゴウだけだったのも情けないと言えば情けない。

薬師寺の現住職(だと思うが、最近会ってないので確かではない)は中学校の一年先輩で同じバレーボール部だった(というか入学時に薬師寺の先輩にスカウトされたのである)。高野山で修行した裏話を、もうかなり前に連絡船の中でバッタリ出会ったときに聞いた思い出がある。薬師寺には本堂を半周する地下洞窟が掘られていた。人一人がやっと通れるくらいの幅の通路にはスノコ板が敷かれ、途中に何箇所か祠堂のようなものがあってそこを順番に参詣する。蠟燭の光だけがたよりの薄暗い通路を祖母の後ろからついていくのが、ほんとに怖かった。あのひんやりとした湿っぽい岩の質感が今でも体にしみついている。

千光寺は保育園を経営しており、小生も二年間通わされた。千光寺(真言宗御室派、仁和寺が本山)は実家の檀那寺でもあり祖母も父母も現住職に送ってもらった。昨年は何十年かぶりで千光寺を訪問したが、建物はさほど変っていないようだったものの、とくに幼少時の記憶が甦ってくるということはなかった。お昼寝の時間が嫌いで『キンダーブック』が楽しみだった。

そういう昔ながらの風土に育ったわりには、根っからの不信心者だから信仰としての宗教には何宗であれ興味はない。ただ、思想としての宗教には多少のひっかかりを覚える。密教というのはインド仏教のなかでは最も新しい形態だった。そのため元来のブッダの思想からはかなり隔たった場所に到達してしまっているようでもある。中国へ入った密教がアヴァンギャルドだった時代、空海はそっくりそのまま密教を輸入して日本の宗教界(というよりも思想界か)にブランニューな一派を立てた。それはたちまち貴族階級を虜にした。そういう階級にアピールするゴージャスさ(あの豪勢な曼荼羅図を思い浮かべるだけでよろしい)を密教は持っていたのである。

この小さな弘法大師像を入手した次の日だったか、某書店の均一台に並んでいた上山春平『空海』(朝日新聞社、一九八一年九月三〇日)を買い求めた。司馬遼太郎の空海は読んでいたが、あれは小説。論文ふうの伝記が読めるかどうか危ぶんだ。しかしさすがに上山春平、じつに明快で俊才の走り過ぎ気味の筆がきわめて面白く、空海とその時代に改めて興味を掻き立てられた。空海そのものを読んでみたいと思っているところ。その『空海』の内容については明日。





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by sumus2013 | 2015-02-21 21:39 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

Galerie André-François Petit

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ギャルリ・アンドレ=フランソワ・プティ(Galerie André-François Petit)のカタログを七冊ほど頂戴した。一九六七年のピエール・ロワ展、六八年の「オブセッションとヴィジョン」展(モローからキリコ、ダリ、エルンストなどシュルレアリストばかり)、六七年の「ジョルジオ・デ・キリコへのオマージュ」展、七七年のイヴ・タンギー展、サルヴァドール・ダリ展、八三年のハンス・ベルメール写真展、八四年のミミ・パーロン展。

同ギャラリーは一九五八年にパリ七区のダニエル・レジュール通り一二番地に開店、オスマン通り一二二番地から、サンジェルマン大通り一九六番地を経て、現在はフォーブール・サントノレ通り九一番地に店を構えているようだ。これらのカタログから判断する限りシュルレアリスト専門の業者であり、一流の店だと思っていい。関係はよく分らないが、十九世紀から二十世紀にかけて活躍したジョルジュ・プティ(Georges Petit, 1856-1920)という有名な画商がいるので、おそらくその係累ではないだろうか。

ハンス・ベルメール写真展は同年ポンピドゥで開催されたベルメールの写真展に連動したもの。「未発表写真67点」という副題がある。これが凄い。

《不合理の凝結、不可能の、本当らしさの、奇蹟の実現……私はこう言いたい、日々の奇蹟……それは私の探求の、私の仕事のただひとつの内容であると。》(本カタログに引用されているベルメールの言葉、拙訳)

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自写像, 1950頃


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人形, 1935


タンギーも粒よりの展示だったようだが、デ・キリコもなかなか。

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タンギー展図録表紙


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デ・キリコ「春めくトリノ TORINO PRINTANIÈRE」1914

デ・キリコ初期作品。個人的な思い出だが、アーティチョークを見るとボローニャのレストランが浮かんでくる。イタリア人の知人と同席したら、彼がナイフとフォークを使ってじつに見事にアーティチョークを口に運んだのである。皮から身をそぐようにして……。なるほどなあと感嘆することしきり。そういえばあれは四月の初旬だった。

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by sumus2013 | 2015-02-19 20:26 | 古書日録 | Comments(0)

書影の森 筑摩書房の装幀1940-2014 再校

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臼田捷治『書影の森 筑摩書房の装幀1940-2014』(みずのわ出版)再校が届く(初校とともに)。このペースなら三月中には刊行できるだろう。

書影の森 筑摩書房の装幀1940-2014

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今回はさすがにチェックは少ない。ようやく完成が見えてきた。

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南伸坊

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祖父江慎

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金田理恵

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多田進

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クラフトエヴィング商會

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中島かほる

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栞各種

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吉岡実作と思われる三段八割広告







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by sumus2013 | 2015-02-19 19:23 | 装幀=林哲夫 | Comments(0)

実地製造化学

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上田貞治郎『富国全書実地製造化学第壹編』(青木嵩山堂、一八九四年一月五日訂正増補第二版)、表紙そしてピンクの扉。明治二十七年一月発行。日清戦争勃発が同年七月という時代。

内容は化学薬品の製造方法を図入りで述べたもの。洋書からの抜粋要約らしい。第二篇、第三篇も発行されていた。著者の上田貞治郎(うえだていじろう、松翁、一八六〇〜一九四四)は大阪の薬屋・上田済生堂の十四代。関西薬学校(大阪大学薬学部の前身)の創立者であり、また上田写真機店を開業したことでも知られる。上田写真機店に関して以前の記事にも書いたが、嵩山堂の青木恒三郎とは兄弟だそうだ。

最新写真機
http://sumus.exblog.jp/8065261/

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また貞治郎はキリスト教徒で、聖書の収集家としても知られた。奥付に印刷者として今村謙吉の名前が見えるのもキリスト教つながりだろう。今村は明治八年に神戸で『七一雑報』を創刊、キリスト教関係の出版販売のために福音社を創設したが、明治十八年に経営破綻し、この時期には印刷業を営んでいた。後に今村の印刷機や在庫を引き受けることになるのが警醒社の福永文之助である。

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巻末、姉妹編などの広告頁。立体的に見えるケイの使い方に感心する。見返しにある書き入れは次のように読める。

明治三十年旧二月二十四日求
此代価金四拾銭 外郵税五銭
東京青木嵩山房ヨリ
荒井邨字中里
主   遠[?]善八必携

「荒井村中里」は会津のようだが、どうであろう。


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こういう図版が多数挿入されている。原画は銅版画に違いないが、この印刷の版式が銅板なのかどうかよく分らない。とにかく線は細い。例えば《明治初期、最新の製版技法であったエルヘート凸版を採用した初めての切手です。それまでの手彫り方式とは異なり、原版を正確に複製し、精緻で均質な図柄を印刷できるようになりました。》(お札と切手の博物館「製版の革新 小判切手1銭」より)などという判式もあったようだ。

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大日本国民専用実地有益大全下巻』から氷の製法を引いたので同じく本書からも製氷器の説明を。(イ)にアンモニア水を入れ熱すると(ロ)の管を通って(ホ)のなかの水を冷却して氷ができるの図。

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もうひとつ、液体炭酸の製造方法。上右の装置で製造し左の濃縮壜に詰める。これを開けば炭酸ガスが吹き出すという仕掛け。

《炭酸瓦私ハ最モ多ク人口炭酸泉即チ「ラム子」ノ製造ニ供用ス》

ラムネの普及にはこんな装置が欠かせなかった。なお青木嵩山堂のトレードマークはライオンだった。こういうシンボルを使った版元としても他に先駆けていたようである。

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by sumus2013 | 2015-02-18 20:23 | 古書日録 | Comments(0)

今しかおへん

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川浪春香『今しかおへん 篆刻の家「鮟鱇屈」』(編集工房ノア、二〇一五年三月一日)読了。川浪さんが自ら篆刻の師と仰ぐ水野恵氏の祖父水野栄次郎の一代記を執筆した。明治十九年、金沢から京へ出て(一度台湾へ渡った後すぐに舞い戻って)判子屋へ奉公する。そこで天才を発揮して江戸時代以来の歴史をもつ印判司「鮟鱇屈」の看板を受け継ぐまでを自在な京言葉を操ってテンポよく描き切っている。

篆刻については、川浪さん自身が凄腕の篆刻家だから、じつに周到な描写で教えられることばかりだった。川浪さんの作品、一点だけだが、かつて紹介した。

児不嫌母醜
http://sumus.exblog.jp/7492948/

明治から大正にかけての京風俗もかゆいところに手が届くような描き方。それなりに昔の暮らしを知っているつもりでも(このブログでも折に触れて取り上げているように)、細部にわたっては思いの至らない場面が多々あることを教えられた。

判子についてなるほどと思ったのは「だるま」。

《だるまというのは、印材のひとつで、判子の本体に、鞘(さや)と肉池(にくち)が被せてある。そのころ認印は巾着形の財布に入れて持ち歩いていたものである。いちいち印肉を探す手間もいらず、使い勝手がよいという売れ筋の商品だった。
 一見、形が達磨に似ているのでその名前がある。》

その「だるま」なら小生も昔から所持している。しかしこれを「だるま」と呼ぶとは知らなかった。こちら。見返しに見えるのは水野惠氏の篆刻作品。

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著名なアーティストたちも数々登場する。栄次郎が息子の八百喜を京師第一の書家と言われた山本竟山の塾へ入門させるくだり。

《家は室町下長者町にあるという。
「そんなに竟山先生がよろしおすのどすか」
「何しか、同じご町内には絵師の小村大雲はん、富岡鉄斎はん。書家で漢学者の長尾雨山はんも住んだはる。そやから、あの辺りを天狗横町ていうにゃ」
「いや、えらい方がたんといやはりますな」
「そや、えらいとえいば、その鉄斎はんな。こないだ、お孫はん連れて『よろしゅう書のご指導を賜りたい』ちゅうて、わざわざ訪ねていかはったそうや、竟山先生のとこへ。あんだけ名の聞こえたお方が御自(おんみずか)ら頼みに行くて、そらたいていのことやおへん。そやろ」

富岡鉄斎邸跡
http://sumus.exblog.jp/14588833/

蛇足だが、ここで名前の挙がっている長尾雨山は讃岐高松藩士の家に生まれている。大正三年以来京都に住んでいた。また竟山先生はちっこい子どもを三人教えていた。

《「小川琢治はんとこのぼんぼんていうたはった。上が茂樹はん、次は秀樹はん、末っ子が環樹はんて、みーんな名前に樹がついたはって、面白かったわ」

と言うまでもなく小川三兄弟。小川茂樹、湯川秀樹、小川環樹。さて、後に鉄斎と栄次郎は直接対面することになるのだが、その次第は本書にてじっくり読んでいただこう。

驚いたのは水野栄次郎が奉公した福田印判所の福田武造はあの北大路魯山人の養父だった事実。ここでは兄弟子として栄次郎魯山人(房次郎)を仕込んだことになっている。魯山人伝にも一石を投じるような内容である。

もうひとつ、栄次郎は大丸百貨店の商標(大丸マーク)を案出した。例えば片塩二朗氏の「最後のパンチカッター・安藤末松」(『活字に憑かれた男たち』朗文堂、一九九九年)に《大丸百貨店の「丸に大の字」のシンボルマークです。これは安藤が制作したもので、文字の尖端をよくみると「七五三」のヒゲ状の縁起文字になっています》とあるのだが、本書ではこういうことになっている。

栄次郎はふと閃いた案を言ってのけた。
「こうっと。ふん、それやったら、いっそ髭文字はどうどす」
「へ、髭文字?」
 真鍋は意表を突かれたように、へええ、と唸って、すぐに身を乗り出して来た。
 栄次郎は顎を撫でながら、
「大という文字の第一画の頭にまず、こんなふうに三本髭を足しまっしゃろ」
 美濃紙に筆で横画を引き、縦画を左右に払って大の字を書く。それから、第一画の角に、ピンと細い髭を三本伸ばした。
「第二画の左払いは、一本に纏めんと、こういうふうに稲穂みたいに広げるのどす」
「ほ、なるほど」
「ひいふうみいよういつ、と五本の髭をつける」
「はぁ」
「最後の右の払いは、さらに二本ふやして七本髭にしますにぁわ」》

……これは明治四十五年の話とされている。大丸が商標として登録したのが大正二年(ちなみに安藤末松は当時六歳である)。水野栄次郎、大した男である。

大丸の歴史 商標
http://www.daimaru.co.jp/company/about/ci.html

他にもいろいろメモしているのだが、紹介はこのくらいで。近代史ではあまり光が当てられてこなかったジャンルを照らしてくれる労作であろう。





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by sumus2013 | 2015-02-17 22:16 | おすすめ本棚 | Comments(0)

睟興伝

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河内金太楼主人『睟興伝 巻之二』(加賀屋弥介、文化六年己巳[つちのとみ、一八〇九年]春)。久々、双白銅文庫の収穫。金太楼主人についてはよく分らないらしい。浮世絵師に詳しいサイト「浮世絵文献資料館」によれば以下の通り。

きんたろうしゅじん 金太楼主人〔生没年未詳〕

○『京摂戯作者考』〔続燕石〕①339(木村黙老著・成立年未詳)
 (「浮世絵師」の項)〝金太楼主人 大坂の人、京町堀〟

○「日本古典籍総合目録」
   作品数 … 7
   画号他 … 東・秋颿・東蘭洲・伊東蘭洲・金太楼・金太楼主人
   分 野 … 洒落本1・読本2・滑稽本1・川柳1・随筆1・地誌1
   成立年 … 文化2~4・14年(5点)
         文政10年    (1点)
〈『京摂戯作者考』は「浮世絵師」の項に入れるが、すべて著作、作画はなし。二点ある読本の挿画を担当したのは、文化九年の『金屋金五郎全伝』が浅山蘆国、文政十年の『復讐棗物語』が一楊斎正信である。また、伊東蘭洲は江戸の地誌『墨水消夏録』(「燕石十種」第二巻所収)の著者として知られる〉

『睟興伝(すいきやうでん)』が上記作品数に含まれているのかどうか分らないが、含まれているとしたら滑稽本だろうか。本書には三話収められており一話と二話の主人公は角二(つのじ)とダチの青葉笛九郎(あをば・ふへくらう)。やくざだがまぬけな憎めない男たちという設定。第三話は(たぶん第一巻に登場したであろう)茶二四郎(ちやにしろう)と釜五郎(かまごらう)、釜五郎がぞっこん惚れ込む垂水(たるみ)という女が演じるドタバタ。これが案外と面白い。

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奥付で「画工 蟹亭蘆邨」としてあるが、この名前では何も見当たらない。上記引用中に出ている《浅山蘆国》と蘆が通じているので何か関係があるのかも…と思ってみるくらいのところである。

第一話、博打でスッテンテンになった角二が賭場の砕銀を口にほおばれるだけほおばって逃げ出そうとするところをバレて散々な目にあう。

第二話。角二はしばらく真面目に働いて、景気のいいその店の主人から箪笥貯金の在処を聞き出す。そして笛九郎と二人で夜中に押し入ろうとするのだが、やっぱりドジを踏んでしまう。上の挿絵は這々の体で逃げ戻った笛九郎の家で冷え切った体を付け木を燃やして温めている角二。それを見て大笑いする笛九郎。

《漸[やうやう]燧箱[ひうちばこ]に摸[さぐ]りあたり、燧[ひ]を切[うち]、付木[いをん]一枚、〓[火+占、ぼつ]ともやしてハあたり、消んとすれば、また一枚、〓[火+占、ぼつ]と〓[火+皮、もや]してハあたりあたりする所へ笛九郎は気喘[すたすた]いふて跑[かけ]もどり、這[この]ていを見て、苦しきなかにもおかしく、戯[たわむ]れていふ、哥々[あにきあにき]付木[いほん]を五六束[ころつぱ][火+占、もやし]たらば、身も微[すこ]しあたゝまりぬらんとて可々大笑[おおひにわらひ]ぬ

「気喘[すたすた]いふて跑[かけ]もどり」のスタスタは今ならさしずめハッハッかゼイゼイか。

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二枚目の挿絵は第三話。垂水の浮気に乱入した釜五郎は垂水の首をスッパリ斬り落とす……と、じつはこれは茶二四郎の企み。すなわち、釜五郎の目をさまさせるために垂水そっくりな顔立ちの人形の首を付けて扮装した茶二四郎だった。あんな浮気女のために一生を棒に振るんだぞということで説得に成功するのである。

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by sumus2013 | 2015-02-16 21:55 | 古書日録 | Comments(0)

ソニ・テープ

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「Magnetic Sound SONY Recording Tape」(PY-5/185m 600ft)。某書店の店頭にて。この箱がコラージュに使えるかな、などと思って手にとったら中味も入っていた。ただし酸っぱい臭いがプンと漂う。ビネガーシンドローム(加水分解)と呼ばれるフィルムの劣化だ。高温多湿が長時間続くとこういうことが起きる。

説明書によればこのテープは東レテトロンをベースにしているそうだ。テトロンはポリエステル(要するにペットボトルと同じ原料)なので酢酸セルロースよりも劣化しにくいとされるようだが、それでも長年悪条件に置かれればこのような酸っぱい臭いを発するようである。

ソニーテープの歴史
http://www.sony.jp/products/Professional/ProMedia/tec/tec0104.html

画像検索してもあまり出て来ないようなので、何かの参考のため説明書を引用しておく。

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テープの巻き加減からして使用済みのようである。どんな音が入っているのだろう? 興味あるような、ないような。聴きたいような、聴きたくないような……【画像テープと勘違いしてましたので訂正しました】。

そう言えば、最近、滋賀の豊郷小学校でヴォーリズの姿が移っているフィルムが発見された、というニュースを見た。ヴォーリズ事務所が設計した小学校なのでその建設の様子や完成式典の様子が写っていたそうだ。

豊郷小学校 建設時の影像発見

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by sumus2013 | 2015-02-15 21:05 | 古書日録 | Comments(2)

深淵の諸相

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ヴァレンチノ司祭記念日にチョコレートを頂戴した。古書会館へ出かけた日以来、半月ぶりに市内のある古書店をのぞいて何冊か帳場へ持参したところ、おつりといっしょに「はい、これ、気持ちだけやけどね」とおばさん(先代の奥方、当代の母上)がチョコを呉れた。毎年お客さん全員に渡しているそうだ。これまでもらった記憶がないので二月十四日にこの店に立ち寄ったのは初めてだったのだろう。感激した。もちろん、これ以外にも何人かのご婦人方よりチョコレートの到来があったことは多少自慢げ気に書きつけておく。

上の写真でチョコが二個乗っている本、阿部六郎『深淵の諸相』(芝書店、一九三六年一〇月二四日)の裸本。函付きだとかなりの値段。気に入ったのは前見返しに木版摺り蔵書票「古松蔵書」貼付、後ろ見返しに「EX LIBRIS/TOKYO/SHIBA/SHOTEN」というレッテルが貼付してあるところ。

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「古松」が誰だかこれだけでは何とも分りかねる。シェストフ、独文系の論文集というつながりだけでドイツ語教育者として名高かった古松貞一かもしれないなどと妄想してみる。

「あとがき」の謝辞が凄い。

《この貧しい最初の著作に當つて、これらの文章を誘発して頂いた諸方の編輯者、特に谷川徹三氏、小林秀雄氏、小野松二氏等の厚意 河上徹太郎氏、吉田一穂氏、中原中也氏等の友情と啓発、並びに、芝隆一氏の不断の情誼に厚く感謝の意を表する。》

小野松二の名前を見つけて嬉しかった。小野が編輯していた雑誌『作品』に発表した論考が三篇収められているのから当然ではあるが。また「中原中也氏等の友情と啓発」にはちょっと驚いた。この年阿部は三十二歳。中原中也は二十九歳。仲がよかったのか。中也が急逝するのは本書発行日のまるまる一年後、昭和十二年十月二十二日である。






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by sumus2013 | 2015-02-14 21:12 | 古書日録 | Comments(0)

父の帽子

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森茉莉『父の帽子』(筑摩書房、一九五七年一〇月二五日四版)を某氏より頂戴した。深謝です。筑摩書房の本である。装幀者は明記されていないが、吉岡実だろう。この翌年に出た『靴の音』(筑摩書房)は拙著『文字力100』(みずのわ出版、二〇〇六年)にも選んだくらいだからちゃんと読んだ。ところがなぜかこの本はまだ手にしていなかった。小堀杏奴の回想を取り上げたので姉の本も。ちょうど読みどきである。

茉莉は杏奴より六つ上。よって鴎外に対する印象あるいは観察はかなり異なっている。性格的にも二人はかけ離れた感じを受ける。それぞれの父親(二人とも「パッパ」と呼んでいた。鴎外は茉莉のことを「おまり」、杏奴のことを「アンヌコ」と呼んだ)であり、それぞれの自画像である。

さすが鴎外、読書ばかりしていたとみえる。

《下の部屋部屋はいつも、静かだつた。夏の真昼、蝉の声に囲まれた家の中を歩いて、東の端の部屋へいくと、父が本を読んでゐた。白い縮(ちぢっみ)の襯衣(シヤツ)と、同じ洋袴下(ズボンした)を着た父は膝を揃へて坐り、疊に肱をついてゐる。開いた本の頁の端を象牙色の手が軽く、抑へてゐる。余り深く截(き)らない真白な爪をつけた指が、本の頁を持つてめくる。白い、ザラザラした紙の上には黒いかぶと虫のやうな字が、虫の喰つた跡のやうな模様を白く残してきつちりと並んでゐる。薄緑や薔薇色に光る貝殻の灰皿の上には、白い灰の積つた葉巻が、載つてゐる。襯衣の背中に顔をつけると、洗つたばかりのやうな清潔な皮膚の匂ひがした。》(幼い日々)

家の中だけでなく外でも読書していた。

《或時は私達は植物園にゐた。父は東屋(あづまや)のベンチに膝を曲げて横になり、麦藁帽子の下に半ば顔を見せて、本を読んでゐた。私達は芝生の中の小さな花を摘んだり駆け廻つたりするのに厭きると、黒い木立の底に光つてゐる池の方へ駆け下りたりしてゐた。或時は夏座敷の真中に父は肱を突いて低く坐り、本を読んでゐた。傍に白い大きな茶碗にチョコレエトが半分飲んで置いてあることもある。》(父と私)

白鬚神社(墨田区東向島)の後ろにあった祖父や不律(幼くして死んだ次男)の墓へ詣でるときには蒸気船に乗った。船中で本の行商人に出会う。

《やがて船は、びつくりするやうな大きな音を立てて、水の上を動き出した。少し経つとゴツゴツした地味な着物に、同じやうな羽織を着た男が、何處からか起ち上つて来て通路に立ち、いろいろな本を代り代りに包みから出してはバタバタと、手で敲いたり、二三冊一緒にして、扇のやうに重ねて高く差しあげたりしながら、うるさい声で説明をし始めた。「えゝ」「えゝ」と、間々に挟みながら、二冊で何銭、三冊で何銭と重ねてゆき、十冊位重ねてからポンポンとはたいた。あとからあとから出して来る手品のやうな手つきや、早口な口上を、私はいつも見て居た。石見重太郎狒狒退治、塚原卜伝の鍋蓋試合ひ、又は日本海海戦の何々といふやうな本の名を、勇ましさうに声を張りあげて言つたりする。男は散散怒鳴つたり敲いたりすると、本を片づけ、外へ出て行つた。》(幼い日々)

このくだりはよく書けている。川蒸気に乗り込んだ気分。他にもミュンヘンの大きな書店へ夫山田珠樹とともに入り、そこで父親のことを想う場面(「棘」)もなかなかいいものだ。







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by sumus2013 | 2015-02-13 20:54 | 古書日録 | Comments(0)

魯迅と書籍装幀

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makino氏より『魯迅与書籍装幀』(上海魯迅記念館編、新華書店上海発行所、一九八一年八月)を恵贈いただいた。深謝です。魯迅については少し触れたことがある。

『吶喊』第17版
http://sumus.exblog.jp/17774552/

阿長と山海経
http://sumus.exblog.jp/17780215/

魯迅の熱心な読者とは言えないけれど『朝花夕拾』は何度読んでもいい本だと思う。『魯迅与書籍装幀』は魯迅自身の著者や翻訳書および魯迅がかかわった雑誌などの表紙を紹介した装幀図集である。あまり深いことを考えず表紙をポーンと再現しただけ、というこのシンプルさも近頃の凝りに凝ったブックデザイン集ばかり見ている目には何かあっけらかかんとして清々しい。

『吶喊』(新潮社、一九二三年初版)は魯迅自身が装幀した。本書でもその北新書局版が巻頭に置かれている。赤い表紙に黒ベタの四角形を中央やや上方に置き、そこに表紙と同じ色で囲みケイ、吶喊、魯迅、二重山パーレンを抜いただけ。要するにスミ一色刷りなのだが、非常に強い効果を上げているように思う。これが魯迅のセンスなら大したものだ。

以下、小生好みの表紙を本書からいくつか選んでみた。同業の観点からはレイアウトなどに厳密さを欠くきらいもあるが、それはそのまま図太さでもあると思う。

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題字「海燕」は魯迅による


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銭君匋装幀


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銭君匋装幀


ここに引用した銭君匋の他に魯迅が何冊も装幀を任せた陶元慶という画家がいる。彼の装幀はなかなか華やかで、やはり画家らしい優美さを見せている。魯迅と陶元慶のかかわりについては陸偉榮「近代中国装幀人物(1)陶元慶」という論考がpdf.で読めるのは有り難い(日本語、カラー図版多)。

www.geocities.jp/ncgeiken/taoyuanqing.pdf

また朗文堂さんが魯迅およびこの本のことを懇切に解説しておられるのも参考になった。

紹興と魯迅、魯迅と版画、魯迅の図書装幀

魯迅が美術が好きだったことは『朝花夕拾』からでもよく分る。「百草園から三昧書屋へ」という少年時代の書塾の思い出を書いた一篇には次のようにある。

《私は絵を描いた。「荊川紙」と呼ばれる紙を、小説本の挿絵の上にあてて、習字の時にすき写しをするのと同じ工合に、一つ一つ写した。読む本が多くなるとともに、描いた絵も増えた。本は一向読めるようにならないのに、絵の方は随分よい成績をあげた。最もまとまったものは『蕩寇志』と『西遊記』の挿絵で、どちらも一冊の大部の本になった。その後、金が欲しかったので、ある金持の同窓に売った。》

これは岩波文庫版からの引用だが、同書の図版のなかにも魯迅が自ら『二十四孝図詩合刊』にある「五色鸚鵡の衣を著け嬰児と為りて親の側に戯る」の挿絵をすき写した一図が収められている。中央の右の小さい絵。

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魯迅にとってこれら「孝図」(孝行な子供の絵話)はひとつのトラウマとでも言うべきものらしい。

《私が手に入れた最初の絵の本は、ある同族の老人からの贈り物で、『二十四孝図』であった。これはごく薄っぺな一冊の本にすぎなかったが、絵の上方に説明書がついており、鬼よりも人間の絵が多かった。

《だが私は喜んだあげくの果て、つづいて忽ち興がさめてしまったのである。というのは、私は人にねだって二十四の故事を話してもらって後、「孝」というものがこんなにもむずかしいということを知って、それまで頑是ない子供心に妄想を逞しゅうし、孝子に成ろうと考えていた計画に、全く絶望を感じたからである。

絶望……するところが幼いなりのインテリジェンスなのだろうなあ。



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by sumus2013 | 2015-02-12 21:06 | 古書日録 | Comments(0)