林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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先週末、久しぶりの善行堂で積み上げられた本の山中から見つけ出した一冊。『龍』第四号(龍詩社、一九四九年五月三〇日、題字=草野心平)。発行代表は相田謙三、編集代表は大瀧清雄(福島県白河市横町八七)。同人は相田、大瀧、泉澤浩志、菊池貞三、木村利行、粒来哲蔵。

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善行堂主人のしきりに感心するのは旧蔵者がこういう紙のファイルを作って保存していたこと。たしかに酸性紙のうすっぺらい詩誌(B5判12頁)なので、この書套があるのとないのでは大違いだろう。

詩そのものについては触れないことにして「後記」から次のような熱すぎる一節を引いておこう。

《この二三ヶ月、同人の夫々の立場に於ける自己批判は烈しかった。幾度相寄り相集まり卓を叩いて論じたことであろう。幾夜おのれをみつめて沈思したことであろう。夫々が夫々の前進への苦悩を苦悩したのであり、それが夫々個々相異なるものでありながらそのまま「龍」の前進への原動力となって結集するのである。自己批判が烈しいものであっただけに、向後の仕事への意志と情熱には期待して欲しい次第である。

恐らく大瀧が書いたのであろう。大瀧は大正三年福島県西白河郡三神町生まれ。日大芸術学部卒。北支で従軍中負傷して帰国。戦後は中学教員。平成十年歿。神奈川近代文学館で調べると『龍』は第二次八号(昭和二十六年二月)〜十六号(二十九年八月)、第三次一号(昭和三十年一月)〜十二号(三十四年四月)、第四次一号(昭和三十七年)〜となっている。大滝文庫のある矢吹町図書館には107号(一九九九年)が所蔵されているので、その年までは発行されていたようだ。

福島でもう一点。菅野俊之さんより「詩人鈴木梅子の覚え書き」という文章の抜き刷りを頂戴した。鈴木梅子は明治三十一年信夫郡鳥川村(現・福島市成川)の豪農の家に生まれ、堀口大學に師事した閨秀詩人。『四季』昭和十二年六月号には立原道造、中原中也らとともに梅子の詩も掲載された。大學は梅子の清澄な詩情を愛したという。戦後、三冊の詩集を持った。『殻』(昭森社、一九五六年)、『をんな』(昭森社、一九五九年)、『つづれさせ』(木犀書房、一九六六年)。昭和四十八年歿。

『殻』より「秋の月」。

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by sumus2013 | 2014-10-14 20:44 | 古書日録 | Comments(0)

国民須知

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樋口譲『国民須知』(公益堂、一九〇一年七月一五日)。いつも珍しい資料を提供して下さる某氏よりお借りしている。編集兼発行者の樋口譲がいかなる人物かは不明。「例言」の肩書きに《大阪上福島の僑居に於て/旭涯漁夫》とあり、奥付には大阪市北区上福島中三丁目二千三百八十一番屋敷の住所。これは公益と同じ所番地である。

巻頭文は関新吾(1854-1915)。岡山出身のジャーナリスト、官僚、政治家。太政官として官報の編集に当たり、内務省に移って各地の書記官を勤めた後、明治三十年、福井県知事に就任。三十二年の退官後は大阪朝日新聞社に入っている。この本の発行された時期がそうである。三十八年には山陽新報社の社長に転じた。「序」は濱田健次郎(1860-1918)。内閣官報局時代に送り仮名法の制定に尽した官吏。大阪商業会議所書記長も勤めた。両人とも官報と関わりがある。樋口譲もそうだったのか、または新聞記者か(旭涯漁夫の旭は朝日に通じる)。

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内容はポケット版「ニッポン何でも事典」、明治三十四年における『現代人の基礎知識』といったところ。参考までに目次を掲げておく。

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面白い項目がズラリ。どこを紹介すればいいのか迷う。とりあえず人口。

人口総計 43,228,863

内 男  21,823,651
  女  21,405,212

台湾人口  2,660,122

東 京 1,425,366
大 阪 811,855
京 都 351,461
名古屋 239,152
神 戸 214,119
高 松  34,416


平均的な体格も記されているが、成人の数字をざっと平均すると男は身長160センチ・体重52キロくらい。女は147センチ・45キロあたりであろう。現在の日本人の平均からすれば男女ともに身長は10センチ、体重は女子で7キロ、男子は10キロ以上少なかったということになる。

他には軍艦がリストアップされているのが目につく。明治三十四年発行ということは大日本帝国はちょうど明治二十九年から三十八年にかけて推進された「六六艦隊計画」と称する海軍力増強の最中であった。

本計画の推進によって帝国海軍の海軍力は従前の4倍以上に達する空前の大拡張を遂げ、イギリス、フランス、ロシア、イタリアに次ぎ、アメリカ合衆国とドイツを凌駕する世界第5位の大海軍国に躍進させるものであり、その実行により明治35年度にはイギリス、フランス、ロシアに次ぐ世界第4位の海軍力を持つこととなった。》(ウィキ「六六艦隊計画」

本書には戦闘艦として、富士、八島、敷島、朝日、初瀬、三笠、扶桑、鎮遠の八隻が上がっている。鎮遠のドイツ以外はすべてイギリス製である。巡洋艦は二十隻。製造国別ではイギリスが十、フランスが三、アメリカ二、ドイツ一、横須賀が四隻。日清日露、欧米に大枚はたいて清朝とロシアを叩いたわけだ。この海軍力偏重が太平洋戦争でのつまづきへとつながるのだから何とも愚かしい。

このなかでは敷島が排水量15、088トンと最大の戦艦だった。現在の自衛艦の規模でそれに匹敵するのは護衛艦「ひゅうが」13,950トンあたりだろうか?  「ひゅうが」「いせ」はヘリコプター搭載型なので航空母艦に近いのだろう。このタイプではさらに巨大な「いずも」19、500トン(自衛艦の中では過去最大)があり同型の二番艦も平成二十四年度の予算に計上されている。

もうひとつ、西洋料理の紹介欄に「かれー」と「らいすかれー」の作り方が出ているので紹介しておこう。

《かれー 先ツ玉葱ヲ小サク刻ミにんにくヲ小シ加ヘ之ヲ油ニテ煎リかれ粉ヲ適宜ニ入レ而シテ後牛肉すーぷヲ加ヘ暫時煮タル上醤油砂糖、饂飩粉ヲ交ゼ其上牛肉或ハ鶏肉ヲ小サク切リタル者ヲ入レ克ク煮テ用フベシ

らいすかれー らいすかれーハ前法ニヨリテかれーヲ製シ飯ノ上ニ乗セ焼タル玉子ヲ加ヘテ用フルナリ》

これはもうほぼ日本料理と言っていいものになっている。

元号と干支と西暦が一目で分るカレンダー付き。

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by sumus2013 | 2014-10-13 21:20 | 古書日録 | Comments(0)

ぴのちお2

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「ピノチオ」がしばしば登場する井伏鱒二の『荻窪風土記』(新潮文庫、一九八七年、カバー=熊谷守一)を取り出して見た。永井龍男のエッセイ集も何冊かあったのだが、だいぶ前に整理してしまったのでこれは参照できない。単行本の書影はこちら。



それではまず「文学青年窶れ」より。

《阿佐ヶ谷将棋会は、荻窪、阿佐ヶ谷に住む文学青年の会で、外村繁、古谷綱武、青柳瑞穂、小田嶽夫、秋沢三郎、太宰治、中村地平などが会員であった。それが毎月会合し、後になると(昭和十五年頃になると)浅見淵、亀井勝一郎、浜野修、木山捷平、上林暁、村上菊一郎などが入って来た。元は阿佐ヶ谷南口の芋屋で兼業する将棋会席を会場に借りていたが、人数が殖えると阿佐ヶ谷北口のシナ料理店ピノチオの離れを借りて将棋を指し、会がすむとピノチオの店で二次会をするようになった。》

別のエッセイ「阿佐ヶ谷将棋会」によれば阿佐ヶ谷将棋会が発足したのは昭和四年頃だそうだ。ピノチオを会場にしたのは昭和八年から。次は「天沼の弁天通り」の伊馬鵜平のことを描いたくだり。

《そのころピノチオの主人は、もうジローさんからサトウさんに変っていた。私がぎこちない飲みかたをしていたためか、サトウさんは奥に入ってしまった。》

「そのころ」というのは昭和九年であろう。「ジローさん」は永井龍男の兄弟永井二郎。青柳いづみこ『青柳瑞穂の生涯』では《作家永井龍男の弟で元報知新聞記者の永井二郎が経営していた店である》となっている。そこに上林暁の「支那料理店ピノチオにて」が引用されているので孫引きしておく。

支那料理店ピノチオの飾窓には、名は知らぬが、いずれ支那の海で獲れたにちがいない大魚の鰭が飾ってある。あたりの店はみなあけ放って電燈が明るいのに、ピノチオだけはいつも硝子戸が閉っていて、支那料理店特有の薄暗い色に光が籠っている。

「阿佐ヶ谷将棋会」にもどれば、昭和十五年十二月六日にはピノチオで「阿佐ヶ谷文芸懇話会」というものも開催された。木山捷平の日記にこの日のことが詳しく出ている(これは略す)。「阿佐ヶ谷将棋会」はこう続ける。

《このころピノチオの店の主人サトウさんは、この商売を止すことにすると言っていた。その前の年あたり、毎晩のように飲みに来ていた常連客の一人が、岩手県久慈のマンガン鉱山を買わないかとサトウさんに持ちかけた。》

この「このころ」は昭和十五年であろう。次の年になってマンガン鉱が暴騰、さらにタングステン鉱山の運営も任されたサトウさんは《御伽噺の花咲爺のように俄分限者になった》。

《ピノチオの料理は、シナ蕎麦十銭、チャーハン五十銭、クーローヨー五十銭、ツァーチェー二十銭である。シナ蕎麦は出前で届けても、一人前十銭は十銭に変りがない。口銭は二銭しか入らない。マンガン鉱なら寝ころんでいて花咲爺である。「この店、もう止すことにしたいんです」と言い難そうにサトウさんが言った。
 私はピノチオが店を止すと、阿佐ヶ谷で借金のきくところが無くなってしまう。止されては困るので「君は常連客のことも少し考えろ」と言った。
「そう仰有るだろうと思っていました」
 サトウさんはそう言ったが、思い止まるというのではなかった。
 ピノチオの店は左隣の時計屋が権利を買って、次に土地の金持で岡さんという人が買い、岡さんの倅のシゲルさんというのが経営した。元のサトウさんは杉並の東田町か西田町の方の空地に新築した住宅に入った。》

昭和十六年の三月に阿佐ヶ谷将棋会が復活したときにはシゲルさんの代になっていた。木山捷平は「太宰治」で昭和十六年十一月十七日の阿佐ヶ谷会はいつものピノチオでなく阿佐ヶ谷の喫茶店「エコー」で開かれたと書き、もしかするとピノチオはすでに閉業に追い込まれていたのかもしれないと回想しているという(青柳いづみこ前掲書による)。

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『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』(幻戯書房、二〇〇七年八月一七日)に掲載されている「阿佐ヶ谷会」関係地図の一部。初期ピノチオの場所が示されている。本文に収録されている岡崎武志「阿佐ヶ谷・荻窪文学散歩」には村上護『文壇資料 阿佐ヶ谷界隈』(講談社)に拠りながらこう書かれている。

《『阿佐ヶ谷界隈』によれば、この店があった場所は「阿佐ヶ谷駅北口、いや改札は南口しかなかったから、踏切を渡って北側へ出たところの左側、現在はアーケードのある商店街となり、その取っつきのあたり、新光堂という洋品店の場所にあった」と書かれている。しかし、すでに現在、その「新光堂」がない。「ピノチオ」についての話題を集めるだけで、一冊の本ができそうだが、いまは、「井伏鱒二に会いたいと思えば、誰でもピノチオを覗くのである」という阿佐ヶ谷界隈』の記述を引いておくことにしよう。

ちなみに青柳いづみこは前掲書で

《中杉通りの拡張で跡地はなくなってしまったが、阿佐ヶ谷駅北口の現西友ストア前附近にあり、天祖神社内に住む日夏耿之介や杉並区内を転々としていた岸田國士も常連だった。》

としている。


『「阿佐ヶ谷会」文学アルバム』に掲載された写真。昨日掲げた古本屋地図に川村書店が載っているが、戦後の「ぴのちお」はこの店のすぐ近所だったようである。

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岡崎氏はこの後に続けて河北病院にも触れている。

《ここは寺山修司が最後を遂げた(一九八三年)場所として有名で、河北病院と言えば寺山、となるが、ほかにも徳川夢声がやはりここで亡くなっている。地元では「死にきた病院」などと陰口を叩かれているらしいが、文学的にはきわめて由緒ある病院である。私なら、大病を患ったらここに入院したいと思っている。中央線人の本望でしょう。》

河北病院(現在は河北総合病院)にそんな由緒があったとは…。





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by sumus2013 | 2014-10-12 20:00 | 古書日録 | Comments(9)

ぴのちお

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またまたU氏より『杉並区名鑑 附区勢要覧』(杉並区名鑑刊行会、一九五〇年一一月三〇日)を頂戴した。深謝。編集発行人は南雲武門。新潟の人だが、杉並の新聞王と呼ばれたという。詳しくは下記サイトを。

明治32年(1899年)、新潟県出身。東京農業大学高等科卒業、萬朝報社に入社。大正14年、新聞『杉並町報』を発行。杉並町報社長、杉並公論社長、杉並区民新報社長を務め、『御大典記念 杉並町人名鑑』『躍進の杉並』など多くの書籍を出版。昭和41年逝去。

U氏が注目したのは「ぴのちお」である。

「ぴのちお」といえば、永井龍男のエッセイだったと思うのですが、龍男の義理の兄?がやっていた店ではなかったかと思います。井伏鱒二の「荻窪風土記」にも出てきたと思います。

 私の母(大正14年生まれ)は阿佐ヶ谷の出身で、戦前にこの「ぴのちお」に家族で行ったことがあるそうで(同様に、東中野の「モナミ」にも行ったことが)あるそうです。「ぴのちお」という店名ですが、中華料理でした。その当時は「ぴのちお」は「尼寺通り」の、駅から尼寺(法仙庵 阿佐谷北2丁目)までは行かない、左側の崖上にあった(ということは、現在の「コンコ堂」の側)ということなので、この資料のときは移転していたと想像されます。また「ぴのちお」は、私の記憶だと、もっと駅に近い、現在の北口バス発着所の西側の、今は移転したらしい郵便局のトイメンでその看板を見た記憶もあるので(30年くらい前でしょうか)、さまよえる(笑)店だったのかもしれません。

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左下に「ぴのちお」の広告。阿佐ヶ谷北口篠原病院横と書かれている。篠原病院についてU氏はこう書いておられる。

《篠原病院は太宰治が薬物中毒で最初に?入院した病院のはずで、私もその前を(河北病院で健診を受けるために向かう途中で)通ったことがあります。》

『杉並区名鑑』によれば篠原病院の住所は阿佐ヶ谷四ノ九〇〇(現在の住所表記では阿佐ヶ谷北一丁目九)、院長は篠原静夫で外科病院だった。太宰は盲腸炎をこじらせて入院し緊急手術を受けた。そのときに使用したパビナールが原因で中毒になったとされているようだ。河北病院は小生も阿佐ヶ谷在住だった当時に知人の見舞いに行ったことがあるが、かなり大きな総合病院である。篠原病院についてははっきりした記憶はない。検索してみると、それらのあった場所が最近どうなっているのかが分る。

支那料理店「ピノチオ」
http://www.fabslab.net/asagaya-scape/2010/07/post-143.html

太宰治 篠原病院で手術
http://tushima.exblog.jp/22071176/

閉院した篠原病院
http://snbungakusanpo.com/snsanpo5.html

手許の資料ではまず一九八五年四月発行の『エリアマップ ニューエスト1 新版東京都区分地図』(昭文社)を掲げてみる。ちょうどノドのところにかかって見にくいが。

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それから以前にも引用したことのある『angle 別冊 街と地図の大特集』(主婦と生活社、一九八〇年八月一日第十一刷)ではこうなっている。病院は記載されていない。

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もうひとつ少し古い地図を。『昭和三十四年版 中央沿線古書店案内図』(東京都古書籍商業協同組合中央線支部)より阿佐ヶ谷。

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本日はここまで。もう少しこの記事を続ける。







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by sumus2013 | 2014-10-11 21:29 | 古書日録 | Comments(0)

読書の腕前

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岡崎武志『読書の腕前』(光文社智恵の森文庫、二〇一四年一〇月二〇日、カバーデザイン=長坂勇司)が出来た。光文社新書版を紹介してからもう七年半も経ってしまったとは……(近頃この手の慨嘆が多いのはよろしくないのだが、ついため息ももれようというもの)。

岡崎武志『読書の腕前』(光文社新書、二〇〇七年)

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前著同様に章扉に拙作「読む人」をカットとして使ってくれている。有り難いことだ。

久しぶりに読み直してみて、やはり自伝的な事件にひきこまれた。つい目頭が熱くなった。

《決定的だったあるできごと

 子どもの頃、「文章を読む」ことに関して、自分が人より長けていることを強く意識したできごとがあった。大阪市内の小学校に通っていた頃のことである。
 三年生のときの担任はHという男の先生。しかし、私はどうもこの人とそりが合わなかった。私は学校で学んでいた時期を通して、よい先生、よき理解者に当たる確率が高く、その点で恵まれていたと思うが、この先生だけはダメだった。自分はおとなしい生徒だったと思うのだが、どうも目の敵にされる。いま考えても、私のせいではないのに、その場にいた同級生のなかで私だけが怒られるということが何回かあった。つねにH先生の目を意識するばかりに、いつしかおどおどとした子どもになっていた。
 ある日、決定的なことが起こった。国語の授業で、童話のような物語が書かれたプリント一枚を渡され、それを決められた時間内にどれだけ読めるか、というテストがあった。》

……とこのづつきは本書で読んでいただきたい。岡崎武志が岡崎武志になる自覚が芽生えた、その瞬間が描かれている。

装幀もシンプルで素敵だ。


光文社 読書の腕前

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by sumus2013 | 2014-10-10 20:50 | おすすめ本棚 | Comments(1)

ン?

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これはもう手放してしまったので詳細は記しようもないが、『コロムビアレコード総目録 洋楽』一九三二年版である。

じつは先日、ある文章に「コロンビアレコード」とあったので「コロムビア」ではないですかと書き送った。いらぬおせっかいかとも思ったが、これは小生自身が昔「コロンビア」と書いて誤植を指摘されたことがあり、そのため今でも「コロンビア」には苦い思いをかみしめつつ注意しているからなのだった。

するとご返事いただいた文面に《「コロムビアレコード」を出しながら戦前の社名はコロンビアでした。戦中の敵性語からの変更を経て、戦後、社名もコロムビアにしたようです》とあった。

これにはビックリ。そうだったのか……まったく思い至らなかった。ちょっとショックを受けつつ一応念のため日本コロムビアのホームページで沿革を参照してみた。

1910 明治43年
(株)日本蓄音器商会として発足(F.W.ホーン社長)。「シンホニー」「ローヤル」「アメリカン」「ユニバーサル」「グローブ」などのレーベルによる片面盤発売。「ニッポノホン」蓄音器4機種発売(始めての国産機)。

最初の名称は日本蓄音器商会だった(前身は明治四十年に日米蓄音器製造株式会社として創立された)。昭和二年に米コロムビア・レコードと提携して、すべてのレコードで商標を現在と同じ音符のマークに統一した。上の総目録はそれを記念したものだったのかもしれない(?)。

1946 昭和21年
社名を日本コロムビア(株)と変更。霧島昇・並木路子の「リンゴの唄」大ヒット。

たしかに正式社名としてコロムビアを使ったのは戦後になってからである。それまでは日本蓄音器商会だったのかなと思うと、上記のご返事にも書かれているように、ウィキ「日本コロムビア」にはこう書かれている(日本コロムビアHPの沿革には記載されていない)。

1942年(昭和17年) - 商号を日蓄工業株式会社(Nitchiku Kogyo K.K.:通称ニッチク)に変更。これは戦時下での外来語(敵性語)禁止に伴うもので、レーベルもコロムビアからニッチクへと改められた。

とあって納得。いずれにせよ「コロンビア」の名前はどちらのソースにも登場していない。よって別会社なのかもしれないと予想しておいた。

ところが、上記記事を踏まえてさらに御教示いただいたところでは『コロンムビア50年史』(日本コロムビア、一九六一年)には昭和三年に「日本コロンビア蓄音器株式会社」を設立したと記載されており、それを根拠に「コロンビア」と書いておられるとのこと。

それにしても腑に落ちない。そういうときには論拠となった原典に当たるにしくはない。図書館で『コロンムビア50年史』を閲覧してみた。結論から言えば、昭和三年に設立された「日本コロンビア蓄音器株式会社」は日本蓄音器商会の傍系会社であった。

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昭和二年、英米のコロムビアによって日本蓄音器商会の株式約48パーセントが占められた。提携ではなくその傘下に入ったと言った方がいいだろう。その翌年早々、副社長ホワイトの意向で新たに設立したのが「日本コロンビア蓄音器株式会社」であって、日本蓄音器商会がコロンビアに名称を変更したわけではない。本書には具体的に日本コロンビアがどういう業務を行ったのか明記されていないように思ったが(精読はしてませんのであしからず)、資本金1万円では大きな会社とは言えないだろう(日蓄は昭和四年で資本金280万円)。

そして年表によれば、昭和二十一年四月一日に日蓄工業株式会社の商号は日本コロムビア株式会社となり、同日、日本コロンビア蓄音器株式会社の商号を日蓄工業株式会社と変更した。う〜ん……たしかにややこしい。

要するに「コロンビア」は間違いではない。しかし、よほど厳密に用いないと混乱を招くのではないかと思う。


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by sumus2013 | 2014-10-09 20:57 | おすすめ本棚 | Comments(0)

かきのもと

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昨日(八日)は某氏宅にて打ち合わせあり。めったにないことながら、少々日本酒を過ごした。サラダ代わりの食用菊「かきのもと」が美味なり。

新潟の秋の食卓を飾る食用菊「かきのもと」
http://www.city.niigata.lg.jp/shisei/koho/kohosasshi/photoshi/15_b.html


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by sumus2013 | 2014-10-09 20:21 | 画家=林哲夫 | Comments(0)

最新大日本地理集成

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角田政治『最新大日本地理集成』(隆文館)、上巻は大正三年八月二十五日、下巻は大正七年九月十二日(十一版)発行。

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角田政治(スミダ・マサジ)、号は黄山。詳しい情報を持たないが、地理関係を中心にして著作は多く、なかに『熊本県誌』(金書堂、一九一七年)や『肥後人名辞書』(肥後地歴叢書刊行会、一九三六年)などの書名があることからしてどうやら肥後出身のようである。

上巻の序文にはこのように言ってある。明治三十九年陽春の頃『大日本地理集成』を上梓したところ、一年もしないうちに十数版を重ねた。ところが明治四十一年、不幸にして版型が溶けてしまうという災難に遭い、絶版となってしまった。しかし求めが多く四十四年の春、改訂版を発行した。これも八、九版を重ねた。しかし地理というのは日に日に変化してゆく。よってここに膨張しつつある我国の国状を反映した第三版を発行する。

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内容は太陽系の説明から入って、地球、日本の位置、構造、山系、地殻、水系、気候、天産物などを説き、地方誌として各県ごと個別にその概要を述べてある。上巻に関東地方から近畿地方まで、下巻に中国、四国、九州、台湾。人文地理として教育、宗教、交通、産業、政治、軍備についての記述も。上下巻とも付録が面白い。上巻は「五十万円以上資産家人名表」と「各港貿易品並輸出入額一覧表」、下巻は「新占領地南洋諸島」と「各種統計表」である。

やはり貧乏人としては「五十万円以上資産家人名表」が気になる(笑)。データの元は三種類示されており、第一表(時事新報社調査)、第二(實業之世界社調査)、第三表(大阪朝日新聞社調査)となっている。数字は大正初めなので現在の一万分の一と仮に考えておいていいかもしれない(?)。

先だって柳原白蓮の夫だった伊藤伝右衛門が話題になったが、この表で福岡県を見てみると、第一表ではトップに(金額表示なし、とにかく五十万円以上)、第二表にはなく第三表では百万円以上として掲載されている。

京都はどうかというと、第一表四十五人、第二六人、第三表十七人の名前がある。むろんそれぞれに重複している人物もあるが、二百万円以上とされているのは辻忠郎兵衛ただ一人。日本一の太物(綿、麻を原料とした織物)商である。第二表の六人だけ紹介しておくと、辻の次が百万円以上で杉本新左衛門(呉服商奈良屋。杉本秀太郎さんのお爺さん?)、飯田新七(高島屋)、西村總左衛門(京友禅の千總)、中江種造(古河鉱業)、柏原孫左衛門(洋紙店)と続く。他にも内貴清兵衛、下村正太郎など呉服商が多数を占めているのは京都ならでは。祇園祭を支えた豪商たちであろう。

うどん県こと讃岐香川県はどうかというと、百万円以上が三人だけ。大西行礼、塩田角治、塩田長左衛門。大西行礼は四国財界の代表者とされた素封家で蔵書家としても知られていたらしい。塩田角治は代々の富豪のようで土地、株券を所有し大正四年には県内多額納税者第一位となっている。

ついでに人口も見てみると、この時点(大正二年末、五年毎の人口調査を修正したもの)で高松市は42,000。香川県全体では719,900。ちなみに京都府は1,193,000、大阪府が2,265,300、東京府が3,194,900。

大高松の人口
http://sumus2013.exblog.jp/21915953/

「新占領地南洋諸島」というのは知らなかったが、こういうことらしい。

《今回の大戦乱により我が海軍が占領したる南洋諸島は、独逸領マリアナ群島、カロリン群島(パラウ諸島をも含む)、マーシャル群島とす。然しマーシャル群島に属するも、ナウル島(南緯〇度三十二分)の如きは赤道以南にあるを以て英吉利之れを占領せり。又赤道以北にありと雖も、カロリン群島に接近しつゝ同群島に属せざる二三の小島嶼は、これ亦英吉利に占領せられたり。

海軍の南洋進出はこんなところから始まっていたのか。


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by sumus2013 | 2014-10-07 19:36 | 古書日録 | Comments(5)

観楓紀行6

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明治二十九年十一月十八日。いよいよ中桐絢海は箕面へ観楓に出かける。午前九時、腕車(人力車)二輪を貸し切って久保墨仙とともに出発。野中村を過ぎ中津川、神崎川を渡り、岡町の茶店で小休した。午前十一時頃、箕面山の麓に到着。大阪より五里余りの路程である。

そこから山を登り始める。紅葉楼で車を降りて楼に上がる。

《楼前ニ巨大ナル老楓ノ今ヲ盛リニ霜酔スルアリ楼後ハ層巒ヲ擁シ夥多ノ紅葉燦爛トシテ霜錦ヲ晒ス楼上人顔宴具相映シテ腥血ニ染ルカ如シ》

ここで昼飯をとり、酒を飲んだ。しかし観光地にありがちのマズくて高い店だった。

《会席料理ナリト云フナレドモ田舎風ニシテ器具亦粗笨箸ヲ下スヘキモノナシ然カモ値頗ル不廉ナリ》

本地蔵堂で如意輪観音を拝観し、瀧安寺へ。弁天社から山道を登って紅葉の艶麗を眺めた。しかし谷風が吹き下ろして肌を刺すようだった。

 風樹経霜葉欲零
 瀑声淅瀝隔雲聴
 渓中日午山嵐冷
 奈此吟人酒易醒

さらに登って滝に到る。その奥の勝尾寺へ行くのは断念する。滝の前に料理屋が幾つかあるが、観光客がひしめいている姿は見苦しい。墨仙と岩に腰掛けてひょうたんの酒を飲んだ。あんな料亭でボラれて馬鹿をみたなあ、ここで弁当でも食べた方がよっぽど良かった、と思っても後悔先に立たず。

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『日本地理辞典』(郁文舎、明治三十九年)より


そこから引き返すと風景写真を売っている店があったが、見るに堪えない。「羽衣」という紅葉の天ぷらを買ってみた。これはうまい。そのそばに唐人石というものがあった。黒っぽい大きな石が斜めに転がっている。寒霞渓の画帖石に似て非なるものだ。紅葉楼の前で紅葉の枝を売っている老婆がいたのでいくつか買い求め帰路についた。

《大阪ニ帰リシハ午後七時ニシテ寒威甚シ直チニ浴ニ投シ「ビール」ヲ煖メテ飲ム》

ビールを温めて飲む……そう言えばホットコーラという飲み物もあった……。日柳三舟から今晩パーティやるから参加しろという手紙が届いていたが、さすがに疲労困憊のため駆けつけられず。墨仙と対酌してそのまま寝てしまった。

つづく




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by sumus2013 | 2014-10-06 19:26 | うどん県あれこれ | Comments(0)

ぽかん別冊 女ともだち

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思いもかけず『ぽかん別冊 女ともだち』(ぽかん編集室、二〇一四年九月一四日)が届いた。封筒を開いて、あまりにゴーカなのでちょっと驚いた。真治さんの編集後記によれば、湯河原へ向かう車中で向いに座っていた少女に《夏の白い光がかんむりのように降りそそいでいた。そのとき、ささやかな冊子をつくろうと、そう思った》という。が、ご覧のようにささやかとはほど遠いできばえだ。

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蛇腹の折帖本になっている。しかも手製本。

《今回、レイアウトを組んで、簡単な製本もひとりでやってみた。(正確に言うと、これを書いている時点では製本はまだやっていない。はたしてうまくいくだろうか。)やっぱり難しくて、うまくいかない部分もあった。ただ、軽やかな気持ちでつくることはできたんじゃないかなと、思う。》

執筆者は詩の片山令子、エッセイは佐藤和美、中野もえぎ、真治彩、渡辺尚子、福田和美、郷田貴子。みなさん、うまい。読ませる。それにしても、真治さんの雑誌作りには毎度意表をつかれる。最初に引用したようなヒラメキが彼女のなかで火花を散らしているのだろうね、きっと。

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定価八〇〇円と書いてあるので販売していると思います。

ぽかん編集室
http://pokan00.blogspot.jp


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by sumus2013 | 2014-10-05 20:19 | おすすめ本棚 | Comments(0)