林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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飯田衞という人

ちょうど三年前に「飯田衞をさがせ」という記事をブログに書いた。

飯田衞をさがせ

この記事を飯田氏のご親戚の方がご覧になって、さらにご子息の御一人がご連絡をくださった。

父は、青年時代小学校の教師をする傍ら、洋画をたくさん画いていたそうです。私が生まれた昭和20年代は、絵画の活動はしておらず、毎年版画の年賀状を作っては、出していたことは、記憶しています。紹介にある酉年の絵葉書は、確かに父の作品です。絵も私が実家にいた若い頃に客間に飾っていた絵にタッチが似ています。洋画の作品は、かなりたくさん残っているようですが、小生は、洋画に興味がなく、今は、実家を離れ、東京に居を構えていますので、どのように保存されているかもまったく不明です。

三年前には紹介しなかった飯田衞の作品葉書が四種類あるので、まずそれを掲げておく。いずれも春陽会に出品されたもの。モノクロなのが残念だが、力強いタッチ、ボリュームの表現は余技の域を越えるもの(だから春陽会に入選しているわけだ)。実物が現存しているようならぜひ見つけ出していただきたいと思う。


春陽会第十一回展覧会出品 布留の渓流 一九三三年
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春陽会第十二回展覧会出品 布留の里 一九三四年
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春陽会第十三回展覧会出品 冬の布留川べり 一九三五年
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春陽会第十六回展覧会出品 磯辺 一九三八年
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以上である。三枚目と四枚目の切手面は一枚目と同じデザイン。そしてご子息よりお教えいただいた略歴と職歴は以下の通り。

明治35年(1902年)4月(生)~昭和61年(1986年)12月(没)84歳
学歴:旧奈良県畝傍中学(現畝傍高校)卒 
職歴:独学で小学校教師の資格を採り、奈良県下で小学校の教師、校長歴任定年後は、天理市の教育長を務めた後、しばらくカラー印刷製本会社で美術の仕事に従事したが、昭和35年頃完全引退 その後は、大和の石碑の拓本採りや郷土の歴史を勉強していたようです。

晩年は天理市史の編纂にも加わっておられたとのこと。だから前のブログで名前を挙げたような書物に執筆しておられたわけだ。

昭和十年当時の春陽会は以下のような会員・会友がいた。これも飯田衞宛の葉書の一部である。

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このなかで例えば田中善之助は京都出身。浅井忠の聖護院洋画研究所に学び、黒猫会、仮面会などに所属し、飯田氏も出品していた新興美術協会を昭和七年に創立している。画風はまったく違うように思えるが、田中と関係があったことは想像できるだろう。

作品それ自体が飯田衞の価値を語って余りあると思う。本格的に調査し再評価する地元の研究者を待望したい。




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by sumus2013 | 2014-04-12 20:59 | 古書日録 | Comments(2)

貘展

アトリエ箱庭


アトリエ箱庭さんも久し振り。貘展。全集や詩集、寄稿雑誌、原稿、デッサン、色紙、自筆名刺など貘好きにはたまらない展示物ばかり。なかでも、貘さんが家を建てることを夢想して描いた平面図、これには驚かされた。スケッチブックに何枚も挟んであった。9.5坪とか10.25、10.5坪などささやかな建坪を想定し、じつに精密に鉛筆で製図している。建築士の仕事かと思うくらい。床板の一枚一枚まで描き込んでいるのだ。何種類かの間取りを少しずつ変化させながら描いた図面は五、六枚ではきかなかったか。貘さんの本質はこんなところに現れているのかもしれない(これは展示されていないので、見たい方はお店の方に申し出てください)。


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山之口貘をテーマにした作家たちの作品もさまざまな手法とアイデアで楽しめた。

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白井明大、写真=當麻妙『山之口貘について』(沖縄県立図書館、二〇一三年一二月七日)を求めた。




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by sumus2013 | 2014-04-11 20:17 | もよおしいろいろ | Comments(0)

破草鞋

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百拙元養の漢詩紀行文『破草鞋』写本を入手した。双白銅というわけにはいかなかったが、本ブログの読者諸兄に対してわざわざ断るまでもなく、そうたいして値の張るものでもなかった。

百拙についてはウィキの記述が簡明【百拙 元養(ひゃくせつ げんよう、寛文8年10月15日(1668年11月19日)– 寛延2年9月6日(1749年10月16日)。京都生まれで臨済宗から黄檗宗に転派。近衛家の帰依を受けてその菩提寺海雲山法蔵寺を復興し初代住持。七十二歳で黄檗山首座。法蔵寺に示寂、八十二。詩文や書画を得意とした。

『破草鞋』は『碧巖録』にある言葉、ここでは紀行文の意味であろう。実際に豊岡、姫路、兵庫を旅した記録と漢詩からなる。

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序文の末尾に《住但州興国禅寺百拙山僧書於聴松南軒白雲深處》とある。享保三年九月から翌年までこの寺の住持となっているからその時期にまとめられたということだろう。詩はかなりの腕前とみた。本文の一丁だけ掲げる。元椿は別号のひとつ。

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旧蔵者が書写したと思われる百拙の略歴一枚が挟まれていた。

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俗姓を「辻」としているが、ウィキでは「原田」。そしてまた旧蔵者のメモが巻末に書き込まれている。

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 時維(ときこれ)昭和乙卯孟夏
  於東都神田日本堂購入
   価金百円
            甲然誌


昭和乙卯(きのとう)は一九七五年。日本堂としてあるのはおそらく日本書房の誤り。百円だったか! 負けた(その頃、コーヒーはだいたい二百五十円だったから、当時としても安い買物だったろう)。



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by sumus2013 | 2014-04-10 21:24 | 古書日録 | Comments(0)

奥一男宛葉書

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神戸市葺合区の奥一男という人物に宛てた新潟市白山浦の小木曽均という人物からの葉書二枚。文面は連続している。昭和二十四年のようだが、消印がはっきり読めない。

《神戸は美しいところだった。六甲登山口のエクランという小喫茶店のビールの味も忘れられません。》

エクランは神戸商業大学(現神戸大学)が上井筒から六甲台へ移転した昭和九年に開業したという。神戸の震災後も営業していたようだ。



小木曽均には歿後出版された『比島スケッチ集』(元比島日本語教育要員の会、一九八九年)があるようで、小木曽の歿年は一九五五年とされている。以下の三枚は昭和二十五年一月十六日消印、自筆の絵入り葉書。玄人とは思えないにせよ、素人としてはかなり描き慣れている。新潟から阿佐ヶ谷へ転居したということだろう。

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《実存哲学とハどんな意味ですか。昨夜マニラの戦友と焼酒を四合程やりました》とあるので『比島スケッチ集』の著者とみて間違いない。



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《今年も少し絵をかいて、小説をかいて、読んで暮しませう。》とは何ともいい年頭の挨拶ではないか!


他には、奥宛のこんな貴重な葉書も残っていた。

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『日本古書通信』の誌代切れのお報せ。古書通信社の住所が東京都台東区上野広小路松坂屋内となっている。八木書店の沿革を見ると戦後の『日本古書通信』復刊は昭和二十二年、松坂屋古書部の閉鎖は二十八年だから、おおよそその間、とくにこの紙の変質具合からして二十四年頃までの葉書だろうか。

もう一枚、こちらも珍しい雑誌『蒐集時代』(蒐集時代社)創刊の案内葉書。
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『蒐集時代』は昭和十一年に第一輯が伊藤喜久男編で出ている(発行は粋古堂、少なくとも三輯までは刊行)。これはそれを昭和二十三年に復刊したもののようだ。伊藤は『旅の趣味』という雑誌を戦前から戦後にかけて発行し、趣味的な単行本を何冊も上梓している。

趣味の問屋   1936
東京附近 登山とハイキング 大村書店 1937
東京近郊神社仏閣蒐印道案内 河内書店 1940
東京蒐集家番付 旅の趣味会 1940
郷土玩具集   旅の趣味会 1941
晴風小伝と印譜 旅の趣味会 1942
藏書票作品集  旅の趣味会 1943
昭和藏書票誌  旅の趣味会

ごあいさつ 1〜4輯 旅の趣味会〜蒐集時代社 1942


奥一男はかなりの書物狂とみえる。

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by sumus2013 | 2014-04-09 20:21 | 古書日録 | Comments(4)

福引題集

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城美樹『福引題集』(虹有社、一九四九年一二月五日)。今年になって買った古本のなかでもっともその表紙デザインに魅了された一冊と言っていい。昭和二十四年の発行なのだが、これはもう戦前昭和ヒトケタのシュルレアリスム感覚だろう。たとえば西脇順三郎『シュルレアリスム文学論』(天人社、一九二九年)などを連想させる。下図は『昭和モダン 絵画と文学 1926-1936』より。

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福引についてはdaily-sumusで言及したことがある。

『トリマルキオの饗宴』と『新案福引妙珍集』

《笑ふ門には福来るとか申しまして、名からして目出度い福引に、福を引きあてて怒る人はあるまい。この福引と云ふものは好く笑ひ、席上を面白く賑はし、来会者の心を愉快に打ち解けさせてくれます。至極興味のある余興で御ざいます、他の物の遠く及ぶものではありません。宴会、祝賀会、各集会等には先づ題一番の余興でございませう。
 紳士の方に炭団や箒、令嬢に大根や薩摩芋又は髭むしやの殿方に紅白粉が当る等哄笑爆笑アハゝホゝゝと笑ひの止まらぬのが福引の名にそむかぬところ招かずして福はおのづから一座に集るのであります。》(はしがき)

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「将棋」が景品に出るものだけ参考に引用しておく。

 雷ゴロゴロ    鳴り(成り)出すと怖い   将棋

 資本       金銀がある         将棋の駒

 清水次郎長    俠客            将棋の香と角

 浮川竹の流れ身  娼妓            将棋

 雷神       なり出すと怖い       将棋

 時計屋の店頭   金銀がある         将棋の駒


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城美樹という名前で検索すると、この本の重版(一九五〇年)と『福引』(虹有社、一九五二年)がヒットする。また虹有社は昭和初期から『透視術入門』(?)、『気学入門』(一九二九)、『とらんぷの遊び方』(一九四七)、『シベリヤ抑留記』(一九四七)、『麻雀』(一九四八)、『麻雀の秘訣』(一九四八)、『夢判断』(一九四八)、『小倉百人一首』(一九五〇)などを刊行している。



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by sumus2013 | 2014-04-08 20:30 | 古書日録 | Comments(0)

架空都市ドノゴトンカ

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『架空都市ドノゴトンカ 城左門短篇集』(書肆盛林堂、二〇一四年三月二八日)。またまた盛林堂ミステリアス文庫がすごいものを刊行してくれた。

《本書は城左門名義で書かれた短編小説の、おそらく初めての集成である。驚くべきことに、これらの作品の多くは今まで詩集にも探偵小説系の単行本にもほとんど収録されたことがなく、多くが単行本初収録作品なのだ。》(長山靖生)

城の短編集に加えて城が編集していた『DONOGO-TONKA』(1928.5-1930.6, 21冊)の総目次も掲載されている。マン・レイを訪ねた竹中郁の「巴里だより」もこの雑誌に三回にわたって掲載されていたようで興味をひかれた。

しかし、さらに興味深いのは城未亡人の稲並千枝子さんと井村君江さんの対談(昨年十二月二十七日、当時、稲並九十三歳七ヶ月、井村八十二歳)である。そこにこんなくだりがあった。稲並さんは江戸後期の医師で歌人、国学者だった清水浜臣の曾孫だそうだ

《稲並:いいえ、私はですね、春陽堂の娘なんです。
井村:春陽堂というと、あの『鏡花全集』なんかを出した春陽堂ですか?
稲並:そう、春陽堂は、春の太陽の陽。どうして太陽かって言うと、これは頼山陽からきていまして、父の出が広島の浅野の臣であり、頼山陽の家系でもありました。ですので、頼山陽は、私の父の父の父の……。
井村:ご先祖が頼山陽でらっしゃる。
稲並:先祖は頼三樹三郎。三樹三郎の孫がね、春陽堂をやって、だから頼家とは親類なんです。
[註:頼三樹三郎の息女は千枝子氏の父の父の弟へ嫁がれた由]

山崎安雄『春陽堂物語』(春陽堂書店、一九六九年)によれば、春陽堂の創業者である和田篤太郎は岐阜大垣、荒川村の出身。安政四年に生まれ、上京して巡査、西南の役に従軍後、東京に戻り露天商を経て本屋を始めた。明治十五年に最初期の出版物が確認されるという。

篤太郎は明治三十二年に歿し、妻のうめ(むめ)が二代目を継いだ。二人の間に子はなく、うめに連れ子のきんがいたがすでに嫁いでいた。きんの娘静子を和田家の養子に迎えた。うめが明治三十九年に歿すると、静子が三代目を継いだ。そして大正三年に利彦を婿養子に迎えたのである。

《利彦は広島の産で、早大を出て博文館印刷所(現在の共同印刷)に勤務していたのを、小林直造(静子の実父)に見込まれ、大橋新太郎夫妻(博文館主)の媒酌で、静子の婿に迎えられた。》(春陽堂物語

ということなので、千枝子さんの言葉ながら、春陽堂の「陽」は頼山陽とは直接の関係はないとみていいだろう。また千枝子さんの父は利彦の弟だそうだ。「春陽堂の娘」と言う以上この弟も春陽堂に関係していたのかもしれないが、『春陽堂物語』には登場しない(と思う)。

なお頼三樹三郎は頼山陽の三男、文政八年(一八二五)に京都の三本木で生まれている(だから三樹三郎なのだろう)。尊王攘夷を激しく求めたため幕府に捕らえられ幽閉の後、江戸伝馬町牢屋敷で斬首された(安政六年)。


架空都市ドノゴトンカ -城左門短篇集-
http://seirindousyobou.cart.fc2.com/ca1/11/

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by sumus2013 | 2014-04-06 20:50 | おすすめ本棚 | Comments(0)

高津宮観桜会

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恒例の一軸観桜会が大阪の高津宮で開かれた。昨年は雨だったが、今年はまずまずの天候で結婚式も執り行われていた。三十数名の参加。みなさん秘蔵作品を持参されていた。江戸初期から戦後まで幅広い出品でたいへん勉強になった。

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津高和一の一九五〇年の小品、油彩画。額も当時のもの。


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江戸初期の野菜の絵。茄子と瓜。以前取り上げた章継伯「茄子瓜図」などに通じる作品。


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北野恒富の下絵を綴じたスケッチブック(?)。これは珍しいものと思う。近代の日本画系の画家のなかでは鉛筆デッサンのもっとも達者な一人である。

小生は日本画一軸と、絵ばかりではつまらないかなと思い、藤沢南岳の漢詩軸も持参した。けれど、絵画が専門の方々ばかりなのであまり注意は引かなかったようだ。

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 花痩影流秋一羅香魂冷絶根
 闌時休言傲看等閑老自有玄
 霜白月前  七十二翁南岳


自力で何とか読んでみた。間違っているようなら、御教示を。これだと平仄が合わないところがあるようだが。

藤沢南岳は天保十三年(1842)讃岐国生まれ。父の東は高松生まれで大阪で泊園書院を設立した古文辞学者。高松藩に召し抱えられた。その跡を継いだのが南岳で、南岳も高松藩の講道館で督学を勤め、仁丹、寒霞渓、通天閣などの命名者でもある。南岳次男の藤沢章二郎(黄坡、三惜書屋初稿)は関西大学の教授。その息子が小説家の藤沢桓夫。

署名にある七十二翁はかぞえ年なら大正二年か。満年齢なら大正三年、ちょうど百年前の作品ということになる。大正九年(1920)歿。



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by sumus2013 | 2014-04-05 21:23 | もよおしいろいろ | Comments(4)

Banno Shoten

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昨日のパリ・メトロ地図の裏面にはさまざまな興味深い情報が掲載されている。美術館、モニュメント、寺院、森と公園、劇場とカフェ・コンセール、舞踏場、コンサート、ホテル、レストランとカフェ、ダンス場、商店、裁判所、公共機関、各種組合、飛行学校と飛行場、サーキット場、パリ近郊案内。

そして貴重なのが日本関連の連絡先。以下の通り。

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日本大使館 
講和会議日本代表団
日本大使
大使館付陸軍武官
大使館付海軍武官

伴野商店 Boul. des Italiens, 15
仏日銀行
日本倶楽部
名誉領事(シュヴァリエ氏)
堀越商会 Rue des Petites-Ecuries, 65
三菱
諏訪ホテル Boulevard de Clichy
ベルタン氏(パリ仏日協会会長)
ル・プリウール氏
マルティニ氏(仏日銀行理事)


日本大使館の住所は現在の7 AVENUE HOCHEとは違っている(日本大使の住所と同じだ)。どちらも凱旋門にほど近い。また日本大使館内にあった講和会議日本代表団だが、la conférence de la paix」というのは第一次大戦後の講和条約のことだから、この地図は一九一九年頃のものということになる(!)。とすれば「一九一五〜一六年完成予定の線」という記載はどうなるのだ?

もうひとつ気になったのは伴野商店。Shoten とあるから書店かと思った。しかし書店ではなく商店だった。伴野文三郎商店(現在は伴野貿易)はフランスのパテ社のパテ・ベビー映写機を大正十三年に初輸入し同機向けのフィルム(9.5mm)を販売していたことで知られるようだ。おそらくその販売促進のためだろうが、同商店は「鼠の留守番」「證城寺の狸囃子」などの一分余りの短篇アニメーションを自主制作している(ともに昭和六年、監督は大石郁雄)。戦前9.5mm映画については下記論考参照されたし。


伴野文三郎は講和会議でも大阪毎日新聞社特派員を手伝ったり、戦後には衆議院議員選挙にも立候補しているようだ。著書には以下のようなものがある(古書価はそれ相応に付いている)。

伴野文三郎(1883-1973)
『ヒットラー 外交の秘鑰』(教文館、一九三九年)
『パリ夜話』(教材社、一九五七年)
『仏国インフレ時代』(森山書店、一九五八年)
『花のパリの50年』(教材社、一九五九年)

さらにもうひとつ、堀越商会は何だろうか、と思って検索した。堀越は三重県出身の実業家のようである。

堀越善重郎(1863-1937)
31歳のとき「株式会社 堀越商会」設立。明治32年にはパリに支店を出す。



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by sumus2013 | 2014-04-04 20:09 | 古書日録 | Comments(0)

大正初期のパリ・メトロ地図

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以前も紹介した大正初期頃のパリ地図『NOUVEAU PLAN DU MÉTROPOLITAIN NORD-SUD DE PARIS』。第一次大戦勃発の頃かその直前ということになる。

マン・レイがパリにやってきたのは、戦争が終結した後の一九二一年、三十一歳のとき。以後およそ二十年間、ナチスが侵攻してくるまでパリで暮らすことになる。以後アメリカへ戻って活動していたが、一九五一年、再びパリの地を踏み、そして七六年にパリのアトリエで歿している。

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パリ到着以来、住所は転々とするものの、おおむねセーヌ川の左岸、モンパルナス界隈に住んでいた。緑点の一番上がフェルー通り、戦後にアトリエとしていた場所。

フェルー通りのランボオ

フェルー通り

二番目の緑点は縁の深いカンパーニュ・プルミエール通り。

下の緑点がモンパルナス墓地、マン・レイ墓のあたり。

石原氏は『三條廣道辺り』のなかでカンパーニュ・プルミエール街についてこう書いておられる。

《エコール・ド・パリの喧噪が渦巻くモンパルナス大通りとラスパイユ大通りが交わる華やかな四辻から離れた、三〇〇メートル程の短い通りは、いかがわしさを残した下町で、画家や旅行者や流れ者が多く住んだ。詩人ランボーはしばらく一四番地に滞在したと云うし、巴里の記録写真家ウジェーヌ・アジェが住んだのは一七番乙。乳白色の画家藤田嗣治のアトリエは二三番地、客死した佐伯祐三の絶筆はその並び側二七番地にある扉を描いた油彩。》

《多くの日本人がこの通りを行き交いマン・レイのアトリエを訪問した。確証は無いが第一章で取り上げた中西武夫(一九三二年九月)もその一人だったし、興味深い訪問記を残している人には雑誌『フォトタイムス』の主幹木村専一(一九三一年一一月)や雑誌『廣告界』の編集長室田庫造(一九三五年七月)、それに詩人竹中郁がいる。》

今、歩くと、なんということもない通りなのだが、この文章を読むと様々なドラマが演じられて来たに違いない街だということが分る……。

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by sumus2013 | 2014-04-03 20:56 | 古書日録 | Comments(0)

哄笑十八番

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熊本謙二郎訳註『哄笑十八番』(有朋堂書店、一九〇七年一〇月二八日四版)を手頃な値段で入手した。これはちょっと嬉しい収穫。熊本謙二郎(1867-1938)は多数の英語教科書を執筆した有名な英語教師、英語学者だったようだ。

本書は笑い話で英語を覚えようというもので、民話や笑話、コミカルな詩など十八篇が紹介されている。目次の一部を紹介しておく。

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作家としてはマーク・トゥエインとジェローム・K・ジェロームくらいしか知らないが、Max O'Rell はフランス人レオン・ポール・ブルーエ( Léon Paul Blouet)のペンネームで『ジョンブルとその島』というイギリスでの体験談を綴った本がベストセラーとなったそうだ。ジェーン・テイラー(Jane Taylor)はイギリスの詩人、「Twinkle, Twinkle, Little Star」で知られる。E. W. コール(Edward William Cole)はオーストラリアの書店主だそうだ。W. Sapte jun. は検索してもよく分らなかった。次の頁に出ているマックエリゴット(James Napoleon McElligott)はアメリカの教育者、トーマス・アルドリッチ(Tomas Bailey Aldrich)はアメリカの詩人のようである。

他に無名氏(Anonymous)が四篇。"St.Nicholas"(St.Nicholas Folk Tales、聖ニコラウスばなし)二篇と"The Blackwood"(ヴィクトリア朝の物語雑誌)そして"Kind Words"がそれぞれ一篇。"Kind Words"は風俗をうたった滑稽詩だが、検索語としては広すぎてどういうものだか分らなかった。

翻訳がなかなか名調子なので一例を引いておく。
「懺悔 The Confession」("The Blackwood"より)

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キュウリの食べ過ぎで胸が苦しかったとさ、チャン、チャン。たわいもないお話でした。Janet を順子と「J」で揃えたあたりに翻訳者の苦心がうかがえる。

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by sumus2013 | 2014-04-02 21:22 | 古書日録 | Comments(0)