林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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人間 小野蕪子

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『俳句』第十巻第十二号(角川書店、一九六一年一二月一日)。以前、永田耕衣と小野蕪子の関係についてごく簡単に触れたことがある。それを覚えていてくださった読者の方より頂戴した。

『澤』特集/永田耕衣
http://sumus.exblog.jp/16049678/

『鶏頭陣』第十四巻第二号
http://sumus.exblog.jp/10280103

この『俳句』は「特集/弾圧以降/戦時下俳句史」として昭和十五年の「京大俳句事件」前後のことを総合的に回顧しようという編集になっているのだが、ここに永田耕衣が「人間小野蕪子」と題して小野との関係をかなり詳しく振り返っている。改めて『澤』の永田耕衣年譜を見るとこの文章の一部が引用されていた。

年譜によれば耕衣は昭和四年頃から小野蕪子主宰の俳誌『鶏頭陣』に投句しはじめている。昭和六年には小野が編集していた『茶わん』という古陶趣味雑誌にも投稿するようになる。ここが大事で、耕衣には初めから骨董的なもの、民芸的なものへの憧憬があった。とくに昭和十二年頃に出会った棟方志功から大きな影響を受けているようだ。そしてそれ以前、蕪子において趣味人としてのスター性を認めていた。

小野蕪子は、その道の代表者の資格で世上を闊歩できた、高度の趣味人であつたと思う。古美術の蒐集と鑑賞に情熱を捧げ、古陶の鑑定に秀れた。また、みずからも陶を作り、絵を描き、随筆に耽り、書道の巧者を以て任じ、かつ味覚にも通じるという達人ぶりは、まばゆくて羨望に値した。

趣味的生活ばかりでなく蕪子の俳句をもかなり高く評価していた。

  うのとりの水面にかけるばかりなる 
  ざくろの実うつして水のとゞまらず
  うたがひは皆影にあり冬の星

《これらの諸作は、大胆簡潔で概して正座即興の風格をもつ。強健端的で思想のカオスを伴つてもいない。而も把握すべき急所を間違えていず、ちぎつて捨てたようなその裁決ぶりに快味がある。私は「うのとり」「ざくろの実」「冬の星」などに当時人生観的共鳴を感じたが、この共感は今も変っていない。》

ところが、この同じ特集で高柳重信は「「鶏頭陣」の終焉」と題して小野を解析しているなかで、その俳句について以下のようにバッサリと切り捨てている。

《雑誌『鶏頭陣』自体は、常にほとんど無力な存在でしかなかつた。そこには、俳句に関する顕著な見解が発表されたためしもなく、特に出色な作品が見られたわけでもない。

小野蕪子自身にしても、俳論らしい文章は、ほとんど書く力をもたず、くりかえし「健康な俳句」という言葉を力説していたにすぎない。また、その作品にしても、仮りに、句集「雲煙供養」の末尾の五句をここに引用してみるが、
  [略]
  白梅や大仏の膝あたゝかに
             (昭和16年の作)
 とても、当時の他の第一線作家に伍して、その優俊さを誇れる水準には達していなかつた。》

むろん耕衣とてそのことには気付いていたはずだ。年譜の昭和十五年には新風を求めて石田波郷「鶴」に二月号から投句》、同人に推され、石塚友二や波郷に面会している。また《新興俳句の結集をめざした同年創刊の『天香』にも投句(同誌は同年三号で廃刊)。蕪子に難詰される。》と見えている。そろそろ巣立ちを意識していたか。ところが……

《翌月、「天香」主要メンバーの過半が検挙され、いわゆる「俳句事件」が勃発した。当然「天香」人のリストが押収され、私の名まで発見されたという。当時情報局の俳人監視に関与していたらしい小野蕪子にこのことが伝わり、私は恩師の蕪子から直接「仮面を脱ぎたまえ」と爆弾的な難詰を受けた。この種の難詰は矢つぎ早に半年ばかりも続いた。蕪子は「君には年老いた母があるからなア」「庇護すべきや否や」等々の凄文句で私に迫り通した。

とにかくも検挙はまぬがれ、俳句を中断することを蕪子に約した。ところで石塚友二も同じこの特集に「日本文学報国会俳句部会」を執筆しており、そのなかにこういうくだりがある。俳句事件では石田波郷や友二もブラックリストに挙がっていた(それを戦後、山本健吉の文章を読んで知った)。昭和十八年の夏頃、友二は失職状態の波郷を文学報国会事務局へ入れようとして河上徹太郎、久米正雄に頼むと、彼らは快諾してくれたが、甲賀三郎が俳句部会の幹事に相談したところ「要注意人物だから」と反対された。そして友二は尋ねられた。

《一体、要注意人物とはどういふことなのか、ーーさういふ質問であつた。私は、自分にも理由はと判然しないが、草田男、楸邨、の両氏等が、小野蕪子に依つてさまざまな方法で圧迫を加へられてゐるといふ噂があるから、多分波郷の場合もさうなのではあるまいか、と答へた。すると、久米さんがさも手を拍ちたげな笑顔を示しながら、「なんだ、小野蕪子の奴がそんなことをしてゐるのか。どうして蕪子なんかに俳句部会が動かされるのかね。相手が蕪子なら石田波郷は問題なんて何もないよ」かういつて即座に事は決定したのであつた。

久米正雄に笑い飛ばされた小野蕪子、耕衣が縮み上がらねばならなかったほど権力を握っていたかどうか、実際のところは分らないようである。


松井利彦編「現代俳句年表 昭和12年〜20年」も参考になる。

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by sumus2013 | 2014-04-22 21:03 | 古書日録 | Comments(0)

ザ・ハリケーン

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【ほんのシネマ】「ザ・ハリケーン」(ノーマン・ジュイソン監督、1999)を見た。その最初の方にカナダのトロントで開かれる古本市が登場していた。この映画は「夜の大捜査線」('67)「華麗なる賭け」('68)「屋根の上のバイオリン弾き」('71)「月の輝く夜に」('87)などわれわれの世代にはとくに親しみのある社会派映画監督ノーマン・ジュイソンの作品。

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監督もトロント出身なのでこの古本市はリアルなものに違いない。この黒人少年が無罪を主張する無期囚であるルービン・カーターの自伝をここで発見したことからこの物語は動き出す。細かいところは省くと、少年はルービン(芸がちと達者過ぎるデンゼル・ワシントンが演じる)に手紙を出し交流が始まり、少年を保護して大学へ行かせているカナダ人たちとともにルービンの無実を証明しようとする。事実に基づくストーリー。

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映画を見たのは半月ほど前のこと。本日の夕刊にルービン・カーターの死去が報じられていた。《冤罪(えんざい)事件として注目を集め、ボブ・ディランが75年に「ハリケーン」という曲を発表したほか、99年には半生が「ザ・ハリケーン」として映画化された。》

BOB Dylan - Rubin Hurricane Carter
http://www.youtube.com/watch?v=hr8Wn1Mwwwk


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by sumus2013 | 2014-04-21 20:34 | 古書日録 | Comments(0)

ブルーバード

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【喫茶店】小冊子『ブルーバード』(河野保雄、一九六三年六月二〇日、表紙画=高橋忠弥)。福島市にあった喫茶店ブルーバード。福島市上町五一番地に一九四八年八月開業、一九六二年閉店。店主は鈴木庸子。

《昭和二十一年の夏、満州から引揚げて参りまして、虚脱感を切りぬけるため、何かにとりつかなくてはならないという心理状態にあったのでしょう。取りあえず昭和二十三年の夏、父の持家の片隅で喫茶店をやってみようという気持ちになったのです。世間も知らず、対人間関係の苦労も味わったことのない私が、ひとりで商売をはじめたという事は、相当大胆なことでありました。》(「美しい時の流れに」鈴木庸子)

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《土蔵の一部を改造してうまれたこの店は、コーヒーの看板がなければとても喫茶店とはわからないほど時代ばなれした感じをあたえます。田舎の駅に捨てられたようにおいてある古い車両を思わせるといった感じなのです。店内は冷房装置とか、ステレオとか、テレビとか、電気冷蔵庫とかいうめぼしいものは何ひとつありません。六つの机と十四の椅子、せまい台所、非衛生的なトイレ、茶房としては最低の設備をそなえているだけです。こうしたなかで豪華な感じをあたえているものは、マダムの庸子さんと、壁にかけられている二、三の絵と、時折思い出したようにいけられる花などです。》(「汽車は止った」河野保雄)


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下は開店二日目、ロッパ(右から三人目)と鈴木庸子(同二人目)。
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ブルーバードに掛かっている《二、三の絵》が凄かったらしい。河野氏はこうも書いている。

鳥海青児については面白いエピソードがあります。鳥海がバードを訪れたときバードの壁には本ものの鳥海の絵が遇然にもかけられていたのです。これはバードの常連客がこの店の雰囲気に鳥海の絵がぴったりと合うということから持参したらしいのです。自己の絵をバードでみつけた鳥海は、(この町の一喫茶店にもわたくしの絵がかけられているなんて夢にも考えられませんでした)といいました。同行していた班目秀雄か高畠達四郎はこの絵のサインをみて(先生、この絵は滞欧中に書かれたものですね)といったということです。》(同前)

文中《バードの常連客》とはもちろん河野氏自身のことであろう。そう、かつて喫茶店は画廊でもあった。同じく河野氏はこういう光景を回想している。

《それはある青年が一枚のカンバスをもち、それをこの店に飾ってほしいとたのんでいたのです。その時わたくしはふと自分の感情にもこの青年と何か共通しているものがあることを知りました。文学が好きだった、わたくしは何か作品を書くと、この店に持参し誰かに読んでもらいたいような気持がありました。わたくしも絵をもってきた青年も自己がとりくんでいるものを理解してくれるような空気をこの店から感じていたのでしょう。庸子さんとそこに集まっていた客にはたしかに若いものたちを魅了するだけのなにかがあったのです。》

そうなのだ、画廊喫茶については小生も『帰らざる風景』(みずのわ出版、二〇〇五年)に「画廊喫茶遍歴」という赤裸裸な文章を書いたことがあるが、独特な空間だった。最近ではほとんど聞かない。画廊喫茶で個展をするということも長らくやっていないかな、と思ったら渋谷のウィリアムモリスさんで二度やらせてもらっていた(書店ではよくやってます)。画廊喫茶の歴史を調べれば面白いかもしれないな、とふと思う。

また、ブルーバードの時代は歌声の全盛でもあったようだ。

《昔の高校の寮歌、応援歌、幼い頃の小学唱歌、各国の民謡等々果ては軍歌、君が代まで、うたいつくす頃は、時間は十二時をはるかにまわり、帰りの車がない、下宿に帰れないという人達は、イスを並べダブルベッドをつくって、三人五人と一泊を共にすることもありました。
 そんな時の歌の中に、いつもうたい出されるのが「古い顔」という歌でした。それは三年頃でしたか、河北の大平さんが、みんなに教えて下さったので、いい歌だとばかり集りのある度によくうたったものでした。
 そして、この歌をブルーバードの歌にしようなどと、勝手にきめてしまいました。》(同前、鈴木庸子)

「古い顔」はラムの詩をかつて西條八十が翻訳し発表したものに東北大学文学部の学生だった松島道也(一九四九年卒)が曲をつけた。

古い顔
http://www.youtube.com/watch?v=Fiyqh2YXb2Y

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歌詞の上の建物がブルーバードの外観である。チャールズ・ラムの原詩を参考までに掲げておく。

The Old Familiar Faces
BY CHARLES LAMB

I have had playmates, I have had companions,
In my days of childhood, in my joyful school-days,
All, all are gone, the old familiar faces.

I have been laughing, I have been carousing,
Drinking late, sitting late, with my bosom cronies,
All, all are gone, the old familiar faces.

I loved a love once, fairest among women;
Closed are her doors on me, I must not see her —
All, all are gone, the old familiar faces.

I have a friend, a kinder friend has no man;
Like an ingrate, I left my friend abruptly;
Left him, to muse on the old familiar faces.

Ghost-like, I paced round the haunts of my childhood.
Earth seemed a desert I was bound to traverse,
Seeking to find the old familiar faces.

Friend of my bosom, thou more than a brother,
Why wert not thou born in my father's dwelling?
So might we talk of the old familiar faces —

How some they have died, and some they have left me,
And some are taken from me; all are departed;
All, all are gone, the old familiar faces.


敗戦後しばらくした頃の感傷的な気分にぴったりだったのだろうか。あまりに救いの無い内容ではある。ウィキによれば、以下のような一連もあったらしいが、一八一八年刊の選詩集では作者みずから削除したそうだ。

I had a mother, but she died, and left me,
Died prematurely in a day of horrors -
All, all are gone, the old familiar faces.

ブルーバードではその他さまざまな催しが開催されたようだし、雑誌や出版も行われたという。まさに綜合文化施設だったわけだ。後に河野氏は自ら喫茶店を経営しはじめるのだから、よほどブルーバードは忘れがたい空間だったのだろうと思われる。


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by sumus2013 | 2014-04-20 20:52 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

谷根千ちいさなお店散歩

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南陀楼綾繁『谷根千ちいさなお店散歩』(WAVE出版、二〇一四年四月一七日、写真=和田高広、デザイン=横須賀拓)が届いた。文句なく楽しい一冊。

谷中の内澤旬子さんの仕事場に泊めてもらったのはもう十数年前のことになる。まだ内澤さんが巨匠になる以前のことで、四畳半の古い木造アパートを借りており、そこに寝袋で泊まったのである。このことはいずれ詳しく書くかもしれないが、朝は読経で起こされる(隣がお寺)という素晴らしい体験だった。

当時、すでに古い家屋を改造した目新しい店がポツリポツリと出来ており、これはなかなか楽しいエリアになりそうだな、と思っていたら、今はもうこんな賑やかな素敵な町になっているのだ(どんな町かはこの本をお読みいただきたい)。その間に様々なことが起こっては過ぎ去って行ったけれど、南陀楼氏のやっていることは基本的にほとんど変っていないようだ。変らないから新しい。

谷根千ちいさなお店散歩 WAVE出版
http://www.wave-publishers.co.jp/np/isbn/9784872906684/

不忍ブックストリート」が始まったのは二〇〇五年四月だそうだ。これもまた南陀楼氏でなければ成し遂げられなかったイベントであろう。そのせいもあって本書には本に関係する店が多く収録されている。先月、関西では『SAVVY』が新しい古本屋の特集を組んで話題を呼んだのだが、こちらもそれらのニューウェイヴとかなり共通するテイストの店が増えているのが分って面白い。

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by sumus2013 | 2014-04-19 20:47 | おすすめ本棚 | Comments(0)

太田垣蓮月尼展

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野村美術館で二十日まで開催されている「大田垣蓮月尼展」を見た。

大田垣 蓮月尼展
幽居の和歌と作品
http://www.nomura-museum.or.jp/publics/index/16/

京都に長らく住む二人のアメリカ人のコレクションだそうだ。掛け物もよかったが、とくに焼き物が良かった。これだけの数を見たのは初めて。蓮月は長生だったのと著名だったことから作品数が多く、生前から贋物が横行したという。しかしさすがにここに並んでいるのはどれも筋のいいものばかりだった。素人の手捻りには違いないのだが、かなりの多作だったようで、そこに自ずから素人なりの修練と、そして何より、努力しても得られないであろう、蓮月その人の気品が表れている。これほど佳いとは正直思わなかった。この展覧会を教えてくれたTさんに深謝。

この展覧会のちらしをもらおうと思ったら置いてなかったので(HPに掲載)、杉本秀太郎『大田垣蓮月』(中公文庫、一九八八年)のカバーを掲げておく。画は富岡鉄斎が描くところの蓮月である。讃は谷鐵臣。《予常訪老尼於西賀茂邨老尼眼光炯々射人而応接恭倹如村婆子可謂女中美傑》目つきは鋭いがやさしい村のおばあさんという感じだったそうだ。丁酉とあるから明治三十年だろう。谷七十五、鉄斎六十一。鉄斎は十五歳ごろから蓮月の侍童として同居していた時期もあり、尼の歿年(明治八)まで親しくしていたから、面影がよく写されていると思われる。

この本、かなり前に求めてずっと棚に差したままだった。これをきっかけに読んでみよう。なんとなく同業仏文・中村真一郎の頼山陽を意識していたのではないかと、今ちょっとページをめくってみて思ったりした。



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by sumus2013 | 2014-04-18 20:55 | もよおしいろいろ | Comments(0)

書誌学辞典

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植村長三郎『書誌学辞典』(教育図書、一九四二年八月二五日)。版元の教育図書株式会社は京都市中京区河原町通四条北入。発行者は田村敬男である。田村は山本宣治の同志として必ず引用される人物。『追憶の山本宣治』(昭和堂、一九六四年)などの著書もある。ウィキにはまだ名前がないので、いろいろ探してみると、『改訂増補山本覚馬傳』(宮帯出版、二〇一三年/元版は『山本覚馬伝』京都ライトハウス、一九七六年)に著者紹介として田村の略歴が出ていた。

明治37年11月18日長野縣に生まれる。立命館大学専門部法律科中退。過去、政経書院、教育図書KK、KK大雅堂各代表取締役社団法人日本出版会評議員後理事。昭和49年11月京都新聞社会賞受賞。現在、社会福祉法人京都ライトハウス常務理事兼盲人養護老人ホーム船岡寮長

歿年は一九八六年のようである。

著者の植村長三郎(1903−1994)についてもウィキがないので(いろいろ批判されますが、便利です、ウィキ)序文から略歴を拾っておく。

《このほど京都帝国大学図書館の植村司書が蹶然と起つて単身書誌学辞典の編纂を達成し》《植村君は古く帝国図書館における図書館員養成所の業を卒へて以来、多年九州および京都の両帝国大学図書館の司書を勤められ、汎く東西の群籍に通じ、普く新古の蔵書に渉り、その整理、その目録、その出納、歴任の間、究め獲たる成果を採り、経験の際、自ら備用し来たれる精華を摘み、周到を極め、該博を期しつつも、敢て煩瑣に流れず、強ひて深遠を求めず…》(新村出)

《君は嘗て文部省図書館講習所に於て書誌学及び図書館学を履修し九州帝国大学司書として付属図書館並に同法学部研究室に勤務し、現に京都帝国大学司書として在勤中である。余は時恰も付属図書館長の職に在り、君が繁劇なる本務の余暇を以て本書を著述せられた労苦を多とし…》(本庄栄治郎)

《著者植村氏は早く文部省図書館講習所を卒へ山梨高等工業学校図書課を経て、九州帝国大学付属図書館に入り最近京都帝国大学付属図書館に転ぜられたのであるが…》(間宮不二雄

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辞典的な記述でありながら、著者の意見も反映されているためなかなかに読み応えがある。間宮不二雄の『欧和対訳図書館辞典』でも取り上げた「露天文庫」についてはこう書かれている。

《ロテンブンコ[露天文庫](Out door library, Open air library)神社、仏閣、公園等多数の人の集合する所を選定して図書の陳列台を設け、四、五十冊の新刊書を紐又は鎖などで陳列台に結付け、さながら欧州の中世期寺院図書館の鎖付図書又は停車場の列車時間表の如く紛失予防を行ふ。これを露天文庫といふ。此に備へる図書は便覧書、年鑑書其の他一般向きの図書が宜しい。近時「林間図書館」又は「海水浴場図書館」等を実験的に行ふ図書館がある。》

鎖付図書については以前紹介したことがあった。

本の背中

また「フランス装」が出ていないか期待したが、出ていなかった。その代わり「仏蘭西仕立」(箔押が背だけの革装本)、「仏蘭西ジョイント」(ヒラと背の間の溝を幅広く取った仕立法)、そして「仏蘭西綴」が立項されていた。

《フランストヂ[仏蘭西綴](Uncut edges)アンカット小口又は丸縁小口ともいひ、小口の截断を行はぬもので読み進むにつれて紙ナイフで切り進むもの。仏蘭西本に多いところから其の称がある。仏蘭西人は自家装釘を好むため出版書は殆ど仮綴本で販売される。》

「仏蘭西綴」はアンカットのことか……。フランス装のことかと思っていたのだが。

フランス装考2

植村は終始「装釘」を採用しているのも気になった。植村の著書は下記の通り。

書誌学辞典 教育図書 昭17
新制学校の図書館運営法 文徳社 昭和23年
学校図書館の運営法 文徳社 昭和24年
書物の本 文徳社 昭和25年
図書・図書館事典 文徳社 昭和26年
書物の本 明玄書房 昭和29年 
学校図書館入門 : 設備と経営の技術 明玄書房 昭和30年


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by sumus2013 | 2014-04-17 19:57 | 古書日録 | Comments(0)

原色千種昆虫図譜

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平山修次郎『原色千種昆虫図譜』(三省堂、一九四一年五月三〇日、四十四版)。均一で見付け、すぐに決心がつかなくて(昆虫にはあまり興味がないため)ぐずぐずしていたのだが、図版がなかなかいいので買ってしまった。そのとき、ちらっと手塚治虫が図鑑の模写をしていたのを思い出した。この図版と似たようなのがあったな……と。

帰って検索してみると、やはりこの本だった。治虫というペンネームの由来にもなったというヲサムシ(治もヲサム)のページはこちら。(オサムシじゃありません)

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平山修次郎については目下のところウィキが立っていないため、あちらこちらから断片的に拾うしかない。

60年代の蝶類図鑑について以前書いたが、今回はそれより更に古く、また、より有名な図鑑の話。三省堂刊、平山修次郎著、松村松年校閲、「原色千種・續昆蟲圖譜」(1937年)がそれ。ちなみに私の蔵書は昭和十七年十一月十日第4版印刷発行、太平洋戦争まっただ中のもので、今でも古書店でたまに見かける。校閲された松村博士(1872 -1960)は明石市生まれ。北大名誉教授にして日本昆虫学の黎明を築いた偉人だが、一般に本書は「平山著の...」と冠されることが圧倒的に多い。平山修次郎氏(1889-1954)はまた、その名をいまでも吉祥寺・井の頭公園「平山博物館」に残す。手塚治虫氏にも大きく影響を与えたというこの図鑑、往年の昆虫少年達をその道に誘(いざな)った書として、ある年齢以上の層では実に頻繁に口の端に上る。昆蟲図鑑を嗜む その2 倉谷滋

兵庫県昆虫館の展示の目玉は,世界各地の蝶,甲虫 など 4000 種 3 万頭にも及ぶ「平山コレクション」だった. 「原色千種昆蟲図譜」など,多くの図鑑を手がけた昆虫学者,平山修次郎が収集した標本である.平山は,東 京・井之頭に個人の昆虫博物館を持ち,渋谷には分室ま であった.》(こどもとむしの秘密基地 佐用町昆虫館小史

チョウ類は「原色千種昆蟲図譜」などの著者として知られる平山修次郎氏のコレクション。》(東京大学総合研究博物館

本書には校閲者の松村の序があるが、そこにはこう書かれている。(例にならって旧漢字は改めた)

平山修次郎氏が始めて余に昆虫標本を送付し来たり、その種名の同定を求めたるは既に二十数年の昔なり。その当時氏の標本製作の堪能なるを見て余は如何なる人なるかを知るに迷へり。而して氏の余に送付せる標本は裕に三千種に達せり。余はこれによりて稀有なる標本と、美作なる標本とを得て、大いに日本昆虫の研究に便を得たり。

序の日付は昭和八年だから《二十数年の昔》は明治末年頃ということになる。また、平山自身の「はしがき」にはこうある。

《本書に載せた昆虫は、著者の所蔵標本の中から努めて新鮮で完全な材料を用ひ、鮮明な原色版で天然色を表はすことに務めた。》

《本書の校閲を賜はりました理、農学博士松村松年先生、常々標本を頂いて居る萩原一郎氏、製版の市村駒之助氏の諸彦に厚く感謝の意を表する次第であります。
   昭和八年七月 井之頭公園池畔にて 平山修次郎識》

製版の市村駒之助とわざわざ名前を挙げているのは、よほど苦労をかけたとみえる。その図版、これがいい味わいなのだ。ごく一部だが見て頂こう。

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説明文も宜しい。一例としてすぐ上の「テナガコガネ」を引用しておく。ここでは旧字をできるだけ残した。旧字がまた宜しい。台湾も日本であったわけだ。

《體ハ赤銅色。光澤アリ。翅鞘ハ黒褐、稍々緑色ヲ帯ビ黄褐色ノ斑紋ヲ装フ。雄ノ前脚ハ長ク脛節ハ殊ニ發達ス。雌ノ前脚ハ雄ノ如ク長カラズ。稀ナリ。/臺湾ニ産ス。》


さらには巻末に昆虫採集の方法が図入りで説明されており、これもまた人気の理由だったらしい。

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by sumus2013 | 2014-04-16 20:53 | 古書日録 | Comments(0)

村上朝日堂月報

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「村上朝日堂月報」、これは古本関係のクリアファイルに入れておいたもの。目下、村上春樹の本は一冊も持っていない。昔、均一で買ったときのものだろう。それが村上朝日堂シリーズのどの本だったのかも分らないし、興味もないが、この二つ折りの栞が好きなので本は売っても栞は残しておいた。

「安西水丸が死んだよ」……三月末に新潟へ出張しているとき、携帯電話のメールにこの一行が入っていて「まだ若いのに」とちょっと驚いた(でも実際はそう若いわけでもなかった)。そのときすぐに思い浮かんだのがこの月報なのだった。

そんなこともあって『週刊朝日』の安西水丸追悼号を買おうと思っていた。のだが、つい買いそびれてしまった。そこで図書館へ寄ったついでにざっと読んでみた。村上春樹の追悼文「描かれずに終わった一枚の絵 安西水丸さんのこと」にはこの月報の浴衣で並ぶ二人のイラストが使われていた。

偶然にもそこには村上が新潟県村上市で開かれるトライアスロンに参加した後、応援に駆けつけた安西と二人で〆張鶴の蔵元を訪れ〆張鶴を心ゆくまで飲みながら温泉につかるのが至福の時だったという話も書かれていた。

「描かれずに終わった一枚の絵」とは村上が近刊の著書『セロニアス・モンクのいた風景』の表紙画としてモンクの絵を安西に依頼したことをさしている。死ぬ数週間前だった。

《水丸さんは「いいよ、やりましょう」と快諾してくれ、ついでにニューヨークでモンクに会ったときの話をしてくれた。1960年代後半、彼がニューヨークに住んでいたとき、あるジャズ・クラブにモンクの演奏を聴きに行った。いちばん前の席で聴いているとモンクがやってきて彼に煙草をねだった。水丸さんは持っていたハイライトを一本彼に進呈し、マッチで火もつけてあげた。モンクはそれを吸って、「うん、うまい」と言った。「モンクにハイライトをあげたのは、たぶん僕くらいだよね」と嬉しそうに水丸さんは電話で語っていた。
 水丸さんの描いたセロニアス・モンクの絵を見ることなく終わってしまったのは、悲しく、また心残りだ。その絵の中でモンクはあるいはハイライトを吸っていたかもしれない。その絵を失ったことを、僕は心から惜しく思う。人の死はあるときには、描かれていたはずの一枚の絵を永遠に失ってしまうことなのだ。》

当たり前のことを上手に書くなあ……。






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by sumus2013 | 2014-04-15 20:18 | 古書日録 | Comments(0)

欧和対訳図書館辞典

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間宮不二雄編纂『欧和対訳図書館辞典』(文友堂書店、一九二五年一〇月五日)。東京本郷で生まれた間宮は小学校卒業後、丸善で丁稚として働きながら東京府立工芸学校(現東京都立工芸高等学校)の夜学でタイプライターを学んだ。タイプライターの製造をしていた黒澤貞次郎に認められアメリカへ留学、そこで図書館の重要性に気付き、帰国後は大阪で図書館用具の販売を行う間宮商店を開いた。大正十年のこと。間宮商店の社員だった森清(後、国立国会図書館職員)は日本十進分類法を考案した。間宮はその普及に尽力したという。その蔵書は富山県立図書館に寄贈された。(以上ウィキによる)

本書の「序」において間宮はまず図書館の分類基準や用語の不統一を、また類書のないことを嘆いている。その不便を埋めるため自ら用語集を作ったところ文友堂の堀徳次郎に勧められて出版することになった。草稿は東北帝大図書館の司書田中敬(後、大阪帝大図書館嘱託、近畿大学図書館長)に見てもらった。印刷中に笹岡民次郎が近代欧米著述家の雅号と本名対照表を寄せてくれたので収録した、そのような事情が述べられている。

間宮が欧米の書を参考にして作った本書の標題紙(タイトル・ページ、扉)。こうしておけば図書館員の目録作製が楽になるという意図だそうだ。

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目次。

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ざっと目を通していると「Open air library. 露天文庫」という項目が目にとまった。

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《十数種又は数十種の図書を各別に鏝を通し, 是に紐又は鎖を付して, 簡単なる展列台に装置し, 神社仏閣, 公園等多人数の集まる場所に出陳し, 全く無制限に市民の閲覧に供するものにして, 我国にては, 大阪市立図書館が試みたる事あり.》

露天文庫は昭和十七年の日比谷図書館にもあったそうだが、これとは少し違うようだ。


和書と洋書の形状名称と寸法の一覧。

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校正記号(洋書、和書)と校正の見本も附録している。

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これでもかと詰め込んである。間宮の情熱が伝わってくるようだ。判型は新書サイズ。これも持ち運びや参照するときの手軽さを考慮したのだろう。

最後に奥付・検印紙と古書店レッテル。

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昭和十年版『古本年鑑』(古典社)を見ると津田書店の住所は大阪市西成区西萩町8、専門は「詩歌、絶版」となっている。ただし旧蔵者によってこの住所は消され「南区大淀南町中之町六二」とペンで上書きされている。さて、どういうことか? 

なお、このレッテルにある地下鉄花園駅(花園町駅、大阪市西成区)は昭和十七年五月十日開業。ということはそれ以後に印刷されたもののはずである。


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by sumus2013 | 2014-04-14 21:01 | 古書日録 | Comments(0)

書物のエロティックス

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谷川渥『書物のエロティックス』(右文書院、二〇一四年四月二〇日)。二〇一二年に阿佐ヶ谷のアートスペース・煌翔で「谷川渥が選ぶ百冊と萩原朔美が作る三冊」という展覧会が開かれた。そのときに小冊子が作られた。

《本書は、七十ページほどの小冊子のかたちで刊行されたこの『書物のエロティックス』を核に大幅に加筆し、さらにエッセイや書評や対談などを付加して立体的に構成し直したものである。》(おわりに)

書物のエロティックス ニュース@スペース煌翔

谷川渥のよき読者ではなかったが(よきも何も断片的にしか読んでいないが)、一読してその美的な判断に対して共感するところが少なくないことを納得した。言及された書物は美術(あるいはもっと広く「表象」)関連書のみならず多岐にわたる。美術・文学を核とした戦後思想史の見取り図がきわめてスマートな形で展開されており、しかも多数の書影が付されており、それらのほとんどは小生にとっては古本屋の小僧くらいに背文字学問程度に聞きかじったていのものであるが、その論じるところは濃く薄くさまざまに変型された媒体を通して吸収してきた、いわば文化的な空気のようなもののなかに拡散しているために吸収せざるを得なかった、すなわち一種の美的な倫理観を共有していたということがはっきり分る内容だった。


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その内容について詳述する気力はないけれども、ひとつだけ、例えば、先日再読したいと書いたばかりの澁澤龍彦やそのきっかけとなった種村季弘、彼らに対して本書では重要な柱として多くの紙幅が割かれている。なかでは種村季弘・矢川澄子訳『迷宮としての世界』(グスタフ・ルネ・ホッケ、美術出版社、一九六六年)は、

《この本がどんな衝撃をもって迎えられたかは、いくら強調してもし過ぎることはあるまい。》

などと何度も言及されている。『迷宮としての世界』はさすがの小生もかつて架蔵していた。読了はしなかった、というかできなかった。とは言え、このじつに雑多な内容の書物は戦後思想のあるひとつの方向をはっきり示していると思う。それはオルソドクスでなくヘテロドクス、中心の喪失ということではないか。そしてその喪失した中心には善くも悪くも理屈ではなくこんな感情が巣食っていた。

《谷川 それは、僕も種村さんと前にちょっとお話ししたことがあるけれども、戦中から戦後にかけての、今まで鬼畜米英だとか、アメリカ軍が上陸してきたら竹槍で最後までやるんだとかいっていた連中が、突然、進歩主義者の顔をして批判なんかをし始めた。あのあたりのことを種村さんは心の中にいつまでも持っていて、いかにいいかげんな連中で、言葉というものがそういうふうに突然回転してしまうというかな……。
諏訪 転向というか転回ですね。
谷川 何かの本のあとがきにそのことを書いているんだけれども、やっぱり種村さんの問題意識には、戦争体験ということがすごくあったと思うんですよ。
諏訪 そうなんですよね。焼け跡ですね。》(「アサッテの人」執筆前後)

先には澁澤龍彦の病院での様子を種村が描いているのを紹介したが、ここには谷川が種村の病院を訪ねたときの発言が出ている。

《谷川 [略]そして病院の名前を聞いて種村さんのお見舞いに行ったことがあるんですよ。軽い脳梗塞だということだったんだけれども、病室に入るとき、どういう状態でおられるのかなと思ってちょっとドキドキして戸をあけたらね、寝巻きを着たままベッドの上に座って、原稿の山に赤入れているの。
諏訪 うわあ。
谷川 それで、僕は思わず「先生、大丈夫ですか」と叫んだわけ。そうしたら、「大丈夫だよ」とかいってね、まだ口がもつれているんですよ。[略]口をもつれさせながら、ものすごい量のゲラの手入れをされている。そのゲラがヴィルヘルム・イエンゼンの『グラディーヴァ』なんですよ。フロイトの論文も一緒に翻訳していたものだから……。
諏訪 W・イエンゼンとフロイトの『グラディーヴァ/妄想と夢』ですね。

文筆家は死ぬまで筆が離せないようである。もうひとつ、谷川のユイスマンス『さかしま』についてのコメントはなるほどと思った。

《デ・ゼッサントが行きついたのは、ペプトンの滋養灌腸だった。つまり、肛門から栄養を摂取しようというのである。
 ここにおいて、われわれは『さかしま』という書名の本当の意味を知るにいたる。それは、小説の主人公が意識的に背を向けた十九世紀末フランスの大衆社会への反逆の姿勢を意味するだけではない。「さかしま」は口からではなく肛門から栄養を摂取しようという文字通り即物的な意味を担わされていたのである。》(終りをめぐる断章)

原文で灌腸(lavement)を探してみるとたしかに最後の方に出ていた。ペプトン入りを一日三回。

《et un pâle sourie remua les lèvres quand le domestique apporta un lavement nourrissant à la peptone et le prévint qu'il répéterait cet exercice trois fois dans les vingt-quatre heures.

さらにこの何日か後に召使いは変った色と匂いの灌腸液を用意した。ペプトンとは違うようだ。医師の処方箋にはこうあった。

  肝油       Huile de foie de morue
  牛肉スープ    Thé de boeuf 
  ブルゴオニュ酒  Vin de Bourgogne
  卵黄       Jaune d'oeuf 

これはレストランと同じだな……と主人公はつぶやく。カンチョーで食事をとる(星新一の「宇宙のあいさつ」みたい?)、だから原題は「A Rebour「さかしまに」と「に à」が付いているわけだ(ほんとかな)。

例によって細かいところばかり引用したが、どこをめくっても知的好奇心をかきたてられる、まさに『書物のエロティックス』だった。ごちそうさま。






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by sumus2013 | 2014-04-13 20:48 | おすすめ本棚 | Comments(0)