林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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イールのヴィーナス

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澁澤龍彦『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』(学研M文庫、二〇〇四年九月七日二刷)。装幀がいまひとつピンとこなかったので、自作のコラージュでカバーを作って被せてみた。雑文集。例えば、時々のアンケートに答えた澁澤の愛読する小説の類いがいくつかリストアップされている。そのなかの二種を引用してみる(説明文は省略)。

フランスを知るためのブックガイド・文学

1 ヴォルテール 『カンディード』
2 フロベール  『ブヴァールとペキュシェ』
3 メリメ    『イールのヴィーナス』
4 アポリネール 『虐殺された詩人』
5 澁澤龍彦編訳 『仏蘭西短篇翻譯集成』


澁澤龍彦が選ぶ私の好きな10編

1 サド     『悪徳の栄え』
2 メリメ    『イールのヴィーナス』
3 フローベール 『聖アントワヌの誘惑』
4 リラダン   『未来のイヴ』
5 シュオッブ  『架空の伝記』
6 ロラン    『仮面物語』
7 ジャリ    『超男性』
8 ルーセル   『ロクス・ソルス』
9 アポリネール 『月の王』
10 マンディアルグ 『大理石』


フランスを知るためのブックガイド・文学」は「知るため」かどうかはさておいて、これは絶妙な選択だろう(単純に5以外は全部読んだことがあるというだけですが)。このふたつのリストを知って、澁澤龍彦の晩年の小説を読むと、どこかしら澁澤の目指していた小説の形について納得させられるものがあるように思える。

そして、ふたつのリストで重なっている唯一の作品、メリメ『イールのヴィーナス』、小生、この作品はこんな本で読んだのだ。

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杉捷夫訳、細川叢書、一九四七年八月一〇日。先のリストに澁澤はこういう説明文を付している。

《恐怖小説のお手本のような見事な構成のもので、導入部の悠々たる考古学談義は、後段の怪異をひときわ効果的ならしめている。ペダントリーとは、こうでなければならいとつくづく思わせられるような作品(河出書房新社版全集)だ。きみも怪異譚の玄人をめざすのだったら、こういう小説を味わうことを学ばねばならぬ。》

そこまでほめるか? とは思うが、たしかにメリメらしい横溝正史風の身も蓋もない田舎の雰囲気は強く出ていて印象に残る作品だ。アンケート以外にも澁澤はしばしばメリメに言及しており「『エトルリアの壺』その他」ではこう述べている。

杉捷夫氏は、まるでメリメを訳すために生まれてきたようなひとで、つとに三島由紀夫が『文章読本』のなかで賞讃している通り、このひとのメリメは絶品である。『トレドの真珠』なんかは散文詩みたいなもので、切りつめられるだけ切りつめてある。『マテオ・ファルコーネ』も、簡潔と正確のお手本みたいな文章で叙してある。

《悠々とペダントリーを楽しみながら徐々に怪異の方向へ読者を引っぱってゆく。読まされるほうとしても、これこそ最高の知的愉楽だと思うのだが、どうだろうか。文学の骨頂は怪談だという説があるが、この『イールのヴィーナス』のように、技法の点でも文体の点でも間然とするところのない作品を読まされると、なるほどという気がしてくる。怪談にくらべれば、エロティシズムなんて、しごく安直なものであろう。

いやいや、そうとうな入れこみようである。次に掲げるのは、その後すぐに読んだ澁澤の作品集『犬狼都市』(福武文庫、一九八六年七月一五日)、先日読みたいとブログに書いた直後に某氏より恵投いただいたもの(深謝です)。

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表題作「犬狼都市」と「陽物神譚」「マドンナの真珠」の中編三作が収められている。犬狼都市」はマンディアルグ、「陽物神譚」が彫像を扱っているという点だけで「イールのヴィーナス」をほんの少し連想させるが、それよりも「サテユリコン」のような造形に近いか、頽廃の感じはまったくないのだが。どちらもあまりに観念的すぎてさすがに少々疲れる。

三番目、タイトルがメリメと似ている「マドンナの真珠」、これが作品としてはいちばんまとまっているように思った。怪談と言えば、怪談であるし、どこか間抜けなユーモレスクなところもあって、現代漫画「ONE PIECE」のなんでもやりたい放題のイメージと似通っている。やっぱり澁澤の好みはメリメよりも誰よりもマンガに親近しているようである。


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by sumus2013 | 2014-04-30 21:41 | 古書日録 | Comments(0)

INTERNATIONAL JAZZ DAY, APRIL 30


INTERNATIONAL JAZZ DAY, APRIL 30

ライブ!

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by sumus2013 | 2014-04-30 20:49 | もよおしいろいろ | Comments(0)

光の時代:レイヨグラフを中心としたマン・レイと三條廣道辺り



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マン・レイと余白で
http://d.hatena.ne.jp/manrayist/


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http://www.art16.net




本日オープニング・パーティありました。たいへん盛況でした。


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マン・レイとも三條廣道辺りとも関係ないのですが、拙作も展示させていただきました。マン・レイの住んでいたカンパーニュ・プルミエール通りの古書店とマレのユダヤ書店、パリジェンヌのデッサンの三点展示しております。下写真の右端は天野大虹作の短冊「慈姑」です。三脚は展示するための水準器です(この写真だけは昨日の搬入時のもの)。

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4日午後2時より石原氏と小生がマン・レイや京都の詩人たちについてギャラリー・トークを行います。定員30名参加費1000円(カタログ付き)。まだ定員には少し余裕があるようです。



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by sumus2013 | 2014-04-29 16:11 | もよおしいろいろ | Comments(0)

大高松の人口

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讃岐絵葉書を紹介した折に触れた戦前の「大高松」人口、その疑問が少し解ける資料の画像を頂戴した。守屋荒美雄『改版帝国精図』(帝国書院、一九二九年一月三一日訂正)掲載の「都邑及人口分布図」。

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高松市は黒丸(五万以上)であって赤丸(十万以上)ではない。昭和初め頃にはそのくらいの人口だったようだ。この地図帳を見て、はたと思い出したが、『毎日年鑑1922』(大阪毎日新聞社、一九二一年一一月一日)に日本最初の国勢調査の結果が載っているのだ。さっそく引っ張り出した。大正九年十月一日を期して執行された調査によれば総人口は

55,961,140

東京市は217万余、大阪は125万余。ということは東京市は現在の大阪市(266万)よりずっと小さい規模だったのである。京都市は59万人。そして問題の高松市は

46,551

まだ大正九年時点では5万人のカベは越えていなかった。さらに地図帳で思い出したのが『中等地理日本誌』(文学社、一八九五年九月一五日八版)。ここに日清戦争前、明治二十五年十二月の日本の人口が載っている。

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東京市は124万弱、大阪市48万、京都市31万弱。高松市は34,463。大正九年と比べると、ざっと30年で1400万人増加している。とくに日清戦争から第一次世界大戦にかけての大阪市への人口流入が激しかったことが分るがこの後さらに関東大震災によって大阪の人口は膨張することになる(大正十四年に近隣の町村を合併して203万余)。

3万人といえば、現在の感覚では町レベルだろう(ただし平成の大合併で町や村がなくなり「市」になってしまいました。小生の故郷白鳥町も東かがわ市となりました)。江戸時代の人口はもっと少ないだろうから、一面のんびりした時代だったろうし、また一面ではキツい村社会だったことも容易に想像される。

これまでの人口に関連する記事は下記の通り。

新選筆算五千題巻一

『大正デモグラフィ』(文春新書、二〇〇四年)

『トウケイ』第二号


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by sumus2013 | 2014-04-28 21:32 | うどん県あれこれ | Comments(0)

新園雨足更幽恬

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某氏より掛け物を見せて欲しいと求められて、何かまともなものはないだろうかとしばらく迷っていた。たいした数でもなし、またとっておきの浜田杏堂はもう公開してしまったしなあ…と思って、押入を物色していると「忘れていた、これがあった!」と取り出したのがこちら。

昨年の高津宮観桜会に持参してそのまま御蔵入りしていた。観桜会ではまず軸を褒められた。この軸先はそうとうに凝ったものだそうだ。「この軸先だけ見て買うても間違いがないもんですなあ」とA先生。軸先が凝っていれば、当然中味もいいだろうと想像できる、という意味(軸物は巻いてあるので、絵はいちいち開いてみないとどんなものか分らないのです、だから軸先を見てまずその善し悪しの見当をつけるわけです)。書と絵を一軸に表装しそれらの周辺を細い金箔で廻しているのも珍しいようだ。

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それは嬉しいが、肝心の書画の方はどうなのか。書は岡田半江。父は岡田米山人で伊勢藤堂藩の大阪蔵屋敷に務めて居り、画家としても知られていた。米屋だったところから米山人と号した。その子、粛(半江)も父の跡を継いで蔵屋敷に務めながら文人画家として活躍し、頼山陽ら多くの文人たちと交際した。

ということで、これは介川緑堂(すけがわ・りょくどう)の新園が落成した記念に贈った七言詩のようである。不勉強ですらりと読めない。よって読まないことにする(読める方御教示ください)。

介川緑堂、名は通景(みちかげ)、通称亀治、東馬、号は緑堂、静斎。久保田藩(秋田藩)の重臣だった。文政の末頃、秋田藩大阪蔵屋敷留守居役を勤めていたようだ。文政十一年(一八二八)、秋田藩の儒員だった大窪詩仏は緑堂の仲介により大阪で頼山陽らと舟遊びをしているという。たぶん半江も同席していたのではないだろうか。

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絵の方にも讃はあるものの、ここに出てくる固有名詞を検索してみたが、何も分らない。「庚戌仲秋作柴大夫」とある。庚戌は一八五〇年(弘化三)とみなすのが妥当か……? 以下の七言絶句は半江よりよほど上手いように思う。署名は「生香舎達」、印は「皆可」。なかなかチャーミングな絵だ。ただし下手ではないけれども、プロフェッショナルとも思えない。まあ、だから貧生でも入手できたとも言えるわけだが。

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要するに今のところこれらの書と絵との因果関係は見出せない。実際何かの因縁があったのか、それとも単なる取り合わせの妙として表装したのか、その辺り、推理しようにも術がないのがちょっと歯痒い気持もする。



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by sumus2013 | 2014-04-27 21:17 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

「光の時代」展カタログ

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「石原輝雄・純子コレクション 光の時代 レイヨグラフを中心としたマン・レイと三條廣道辺り」のカタログを頂戴した。石原氏ならではの行き届いたできばえ。グローバルなネットワークを持つマン・レイ・コレクターにとっては英語版も欠かせない。会場でも販売されるが、入手は下記からも可能。

『光の時代』展 準備-9 カタログ完成

《この度の展覧会では、レイヨグラフを狂言回しに仕立て、戦前京都の詩人たちが織りなしたモダニズムの潮流が、巴里へと続いた文化の道であったことなど、謎解きの成果を示したいと思う。冒頭の中西武夫が京都帝国大学文学部に通っていたのと、俵青茅が京都詩話会を組織していたのは、どちらも一九三〇年頃なのである。京都・岡崎勧業館では一九三三年にマン・レイの油彩二点も招来した『巴里新興美術展覧会』が開かれており、これは『夜虹』の刊行年次とも一致する訳で、偶然と云うより精神の共鳴といった現象と理解されるべきであろう。しかも、俵が京都詩話会の事務所を置いた三條廣道東入ルは、この度の会場であるギャラリー16から歩いて五分の距離、画廊の前の道を俵が歩いていたと想像するのは、くらくらと目眩する幸せである。

その頃の京都における文学的な出来事としては、昭和七年に富士正晴、野間宏、桑原静雄の『三人』や井上多喜三郎の『月曜』が、昭和八年には『京大俳句』(京大俳句発行所)や『カスタニエン』(京大独逸文学研究会)もそれぞれ創刊されている。詩集では天野忠『石と豹の傍にて』(白鮑魚社)、天野隆一『紫外線』(青樹社)が昭和七年、俵青茅『夜虹』(青樹社)が昭和八年発行である。

『京大俳句』は先日も言及したように昭和十五年二月から八月にかけて同人の多くが検挙され(平畑静塔、石橋辰之助、渡辺白泉、西東三鬼ら含む)、自然と発行停止になる。戦争の拡大とともに、まず昭和十二年の取り締まり、そして十五年から十六年にかけての一斉弾圧によってリベラルな雑誌は同人雑誌と言えども一切許されなくなったようだ。

光の時代」展は戦前京都のモダニズム最後の輝きとも言えるまさに光の時代において中西武夫、俵青茅、天野隆一らがどのような活動をしていたのか、マン・レイ眼鏡を通しつつ、詩集や雑誌などの貴重な関連資料によって、それを実感できるまたとない機会である。もちろんマン・レイのオリジナル作品も眼福になるだろう。期待は高まる。春の古書即売会のお帰りにぜひどうぞ。地下鉄東山駅からすぐ(みやこめっせから十分とかかりません)。


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石原輝雄『三條廣道辺り』より、『麺麭』第二号(一九三二年七月)掲載写真。左から二人目天野隆一、四人目俵青茅。そして次は天野隆一編『京都詩人年表』から昭和八年の「青樹の会」。後列左より、水町百窓、加来武臣、俵青茅、藤井芳、笠野半爾、南江治郎[二郎]、飯田実記男、前列左より、荒木文雄、天野隆一、弥永亥一郎、喜多歓一

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部分写真、上右が俵青茅、下が天野隆一。

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by sumus2013 | 2014-04-26 20:39 | おすすめ本棚 | Comments(0)

ヤスオ国吉氏洋画展覧会

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国吉康雄は一九三一年に病父を見舞うために帰国した。一九〇六年に渡米して以来だから二十五年ぶりのことだった。帰国歓迎会も催され、二科会の会員にも推され、個展も東京、大阪、岡山で開かれた。その大阪展のパンフレットがこれである。

「母國訪問記念 ヤスオ國吉氏洋畫展覽會」昭和六年十二月十八日(招待日)から二十一日まで大阪堺筋の白木屋七階で開催。主催は大阪毎日新聞社。紹介文の筆を有島生馬が執っている。

《君の画風を一瞥するとアメリカ画派といふやうなものは少しも感じられない。純然たるフランス画派の一支流である。試みに米国にはアメリカ画派といふものが存在するか否かこれを君に質したら、君は「さういふやうなものはまだ出来てゐません。皆斉しくフランス画派の影響を強く受けてゐるのです。第一米国には継承すべき伝統などといふべきものはありません。ですから今はフランスの支配から脱逸し、米国のものを創らうと藻掻いてゐるのです」と。これはわが国の現状と少しも異ならない。》(有島生馬

わが国の現状と少しも異ならない」とはどういう意味だろうか、日本にも伝統を認めないという態度か。油彩画に限定すればたしかにそうかもしれないが。

国吉には帰国によってある心境の変化が生じたようだ。

《1931年に日本へ一時帰国した後の国吉の作風は、対象の表面に潜む情感をより現実的な手法で表現するリアリズムへと向いました。物憂い雰囲気の女性像や、さまざまな静物を主題としたこの時期の作品からは、ユーモラスとみなされる要素は消えています。また、日本を意識する必要がなくなったのか、日本的なものも描かれなくなります。》(菊川雅子「ユーモアとアイデンティティー」『国吉康雄美術館館報』13号より)

そして何より帰国後すぐに妻キャサリン(一九一九年結婚)と離婚している(三五年にサラ・メゾと再婚)。遠くない将来には日米戦争も待ち受けている。これから国吉の苦しい日々は始まると言っていいようだ。



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by sumus2013 | 2014-04-25 21:23 | 古書日録 | Comments(0)

宮地團四郎日記

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小美濃清明編著『宮地團四郎日記 土佐藩士が見た戊辰戦争』(右文書院、二〇一四年四月二一日、装幀=幅雅臣)。

《宮地團四郎は土佐国香我郡植村(現在、高知県香美市土佐山田町植(うえ))に住む細木嘉作支配の七代目郷士である。天保九年(一八三八)生まれで、弘化三年(一八四六)病没した父の跡目を次相続し、七代目となっている。》

《慶応三年十一月二十一日から明治元年(一八六八)十一月一日まで、一年間一日も欠かさず、前哨隊、迅衝隊の隊士として軍隊の中から記述した日記は、他の戊辰戦争従軍日記に比較して詳細である。軍隊内部の生活がルポルタージュ風に記録されており、貴重な史料ともなっている。》

これがとてつもなく面白い。淡々とした描写にリアリズムを感じる。リアリズムはたいがい退屈なものだ。その退屈さまで面白いのである。

宮地團四郎が土佐の自邸を出たのが慶応三年十一月二十一日。

  二十二日 汽船(外国船)に乗り込み出帆
  二十三日 兵庫湊に上陸《先一番遊郭に至る》
  二十四日 西宮を経て大阪長堀土佐藩屋敷到着、分宿
 十二月七日 守口〜橋本〜枚方〜淀〜伏見
 十二月八日 伏見〜京都、智積院の宿舎
[鳥羽伏見の戦い]
正月  九日 伏見〜淀
    十日 淀〜橋本〜大阪、浄久寺
   十二日 堺、堺町奉行所屋敷
   十七日 大阪
  二十八日 大阪〜枚方〜淀〜鳥羽〜東寺〜御所〜智積院
二月 十四日 京都〜膳所〜草津
   十五日 守山
   十六日 鳥居本
   十七日 関ヶ原
   十八日 美濃大垣
  二十一日 合渡(ごうど)
  二十二日 鵜沼
  二十三日 伏見
  二十四日 細久手 
  二十五日 中津川
  二十六日 妻籠
  二十七日 須原
  二十八日 宮ノ越
  二十九日 贄川
   三十日 塩尻
三月  一日 上諏訪
    三日 蔦木
    四日 甲府〜山崎
    五日 石和
    六日 勝沼[観音坂で戦]
    七日 初狩
    八日 野田尻
    九日 吉野
    十日 八王子
   十四日 府中
   十五日 江戸新宿
   十九日 市ヶ谷、尾州屋敷
四月二十三日 草加
  二十四日 越谷〜間久里〜粕壁〜杉戸
  二十五日 杉戸〜川越〜杉戸〜栗橋
  二十六日 壬生城
  二十八日 鹿沼
  二十九日 今市
閏四月 一日 日光
    九日 今市
[この時期、賊軍の抵抗激しいようす]
五月 十八日 今市〜大沢〜宇都宮
  二十六日 喜連川
  二十七日 鍋掛
  二十八日 白河
六月二十八日 棚倉
七月二十六日 三春
  二十八日 本宮
八月二十一日 母成峠で野営
  二十二日 猪苗代
  二十三日 滝沢口の病院で夜明かし
[若松城攻めの激戦]

《九月十九日 曇 今朝は格別無し。至而静也。又夕方大砲城中へ打
 九月廿日 晴 今日も右同断》

《九月廿二日 晴 今日四ツ時当城主肥後守降参に相成籏立つ。》

十月  六日 会津出発〜三代
    七日 マキノ
    八日 白河
    九日 茅野
    十日 大田原
   十一日 阿久津
   十二日 鬼怒川を舟で下り久保田
   十三日 矢貝〜境〜舟中泊
   十四日 江戸芝口、仙台藩中屋敷
  二十七日 品川沖の英国船で船中泊
  二十九日 十市沖に停泊
   三十日 高知・浦戸〜松ヶ鼻
十一月 一日 布師田に到着

以上ざっと行軍の旅程(宿泊地を中心に)だけ書き出してみたが、まあ、勝ち戦ではあったものの、やはりたいへんな大冒険だったろう。引用はしないけれど、若松城攻めは特段に迫力がある。「八重の桜」で砲撃の激しさが強調されていたのも納得できるような気がした。そんな難儀な戦の最中にも毎日欠かさず日記をつける、そんな男がいたというのも驚きに値するだろう。(原文だけ引用しましたが、もちろん現代語訳もついていますので御心配なく)

  




  






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by sumus2013 | 2014-04-24 21:32 | おすすめ本棚 | Comments(0)

林哲夫展 パリの書店より in 北書店

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絵屋の展示が北書店へ移動しました。
5月6日まで展示延長になります!

北書店 on Twitter
https://twitter.com/kitashoten

北書店HP
http://kitashoten.net


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by sumus2013 | 2014-04-24 14:05 | 画家=林哲夫 | Comments(0)

讃岐絵葉書

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先週のことだが、目録で注文した「讃岐金刀比羅市街」絵葉書(200円)が送られて来た。カラーとあったので楽しみにしていたが、なるほど着色写真である。たぶん大正の終り頃ではないかと思う。切手面には「TSUTSUI SEIKADO SEI/KANDABASHI, TOKYO」と印刷されている。神田橋筒井精華堂のようだ。検索すると他に二種類の絵葉書が見つかった。

この絵葉書を眺めながら、そう言えば、かなり前に買い求めた絵葉書箱(箱ごと買ったようなもの)に讃岐の観光絵葉書のセットが何種類かあったのを思い出した。さっそく押入をゴソゴソやって掘り出したのがこちら。

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国立公園/瀬戸内海/小豆島/寒霞渓の絶勝」「瀬戸内海国立公園小豆島/寒霞渓の彩」「聖境/金比羅宮に参拝して」「瀬戸内海国立公園に冠たる屋島の麗景」「栗林公園/天下の名園/南庭の巻」「瀬戸内海国立公園/小豆島の彩色」「明朗の観光都/大高松の彩色」、その他一番上に見ているのはバラの讃岐関連絵葉書。

「瀬戸内海国立公園」と冠がついている。国立公園指定は昭和九年三月十六日だから、おそらくそれを記念したもの。だから指定日とそう隔たらない時期の製作ではないだろうか。それから「大高松」という言い方、むろん「大大阪」だとか「大東京」の真似をしたのだろうが、そんなに「大」な街だったとはとうてい思えないのである。

この「大〜」は元々英国で用いられた「greater London」から来ているようだ。人口の膨張とともにロンドンが郊外へと拡がって行く過程で一九〇一年頃から用いられた例があるらしい。一九二七年には「The Greater London Arterial Road Programme」というものが計画され、これが一九六五年の「グレーター・ロンドン」へとつながる。当時ロンドンの人口は九百万だった。

「大高松」の人口は現在でも42万人を切る。小生が高校生だった頃には30万と言われていた。昭和ヒトケタとなると、どのくらいだろうか。その半分くらいかな……?

もうひとつ、河野仁昭『京都の文人 近代』(京都新聞社、一九八八年)の「矢野峰人」を読んでいると、次のようなくだりにぶつかった。矢野は明治二十六年岡山県久米郡生まれ。津山中学を経て三高へ無試験で入学、京大英文科、大学院からオックスフォード大学へ留学している穎才である。その矢野が津山中学の修学旅行で金比羅へ参詣したときのこと。

《明治四十二年四月、二年生に進級した峰人たちは、四国の金比羅参りに行ったのであったが、そのころ、金比羅の石段登り口ちかくに、書店があった。
 「私はそのときある書店で偶然にも歌集『恋衣』を購ったのであった。これこそは、実に、私が生まれてはじめて買った歌集なのである」
 『恋衣』(明治三八年一月)は、与謝野晶子、山川登美子、増田(茅野)雅子の合同歌集だが、少年峰人がこれを買ったのは、その巻末にそえられていた晶子の詩「君死にたまふことなかれ」が読みたくてであった。その評判はきいていたが、読むのははじめてで、明治期の詩のなかで、これは最も愛誦した一篇になった。

この書店が写っていれば文句なしなのだが、そうは都合良く事は運ばない。

絵葉書箱にあった「聖境/金比羅宮に参拝して」から一枚「参拝道・大宮橋と大鳥居」がこちら。中央の建物は琴平電鉄(大正九年開業=金比羅電鉄、同年琴平電鉄に改称、昭和二年に全通)の駅舎である。

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小生が琴平へ行ったのはもう五十年近くも前で、石段以外には何も記憶がない。最初の市街写真の橋もこちらと同じ大宮橋だとすれば、逆向きを見ていることになる(欄干がまったく違うが、これは時代の違いかも?)。最初の方は金比羅の石段へ向かう道筋、商店街。モノクロの方は商店街側から国電の琴平駅方向を望んだものということになろうか。現在の参詣道の様子は下記サイトで(石段前に書店が写っていれば文句なし、だったがやはりそう都合良くは行きません)。

一生に一度はこんぴら参り
http://www.tureduregusa.com/album/common/common_351_400/common_album_387.php



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by sumus2013 | 2014-04-23 21:42 | うどん県あれこれ | Comments(0)