林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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伊藤宗看図式第八番

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三月五日のブログで『将棋精観中巻』(松井弥七編、棋研会、一九三八年八月八日)を紹介した。その日の夜から、毎晩寝る前にこの問題にチャレンジしてきた。やっと一昨日(三月十九日)自力で解けた。盤駒には並べず、頭の中だけで解いたので、小生の軟弱な棋力からすれば二週間は上出来だろう。うれしくなったので自慢げに報告しておく。

この出題図、三筋目六段目の玉方の金は後張りである。誤植だったのだろう。透かして見ると「と」と印刷されているようだ。金と「と」なら働きは同じだが……

『詰むや詰まざるや 将棋無双・将棋図巧』(東洋文庫282、平凡社、一九七六年版)を参照してみると、この作品(「将棋無双」第八番)は上の図から九・五の「と」が省かれた形で掲載されている。三・六は「金」である。

解説によれば東洋文庫版に掲載されているのは宝暦五年に幕府へ献上された「献上図式」で、作者による解答も付されていた。昭和四十一年に内閣文庫で発見されたそうだ。ただしその第八番オリジナル図には余詰めがある(まったく気付かなかったですが)。修正案として

《玉36金を36とに代える(山村氏案)か、玉方57とを56とにする(今田氏案)ことにより前記余詰は解消する。》

三・六の駒が金だと先手がそれを利用できるため詰みが生じるということである。とならば先手の手に渡ったときには歩にもどるので金の価値がなくなって詰みに貢献できないのだ。将棋が分らないと説明しても分らないだろうから、これ以上はやめておくが、ともかく複雑な相互依存パズルなのだ。

この図を補正した松井雪山もいろいろ考えたすえに「と」案を捨てたのかもしれない。作者による解答が発見される何十年も前だから無理もない。




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by sumus2013 | 2014-03-21 20:40 | 古書日録 | Comments(2)

事物はじまりの物語/旅行鞄のなか

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吉村昭『事物はじまりの物語/旅行鞄のなか』(ちくま文庫、二〇一四年二月一〇日、カバーデザイン=多田進、カバー挿画=高須賀優)。

このなかの一篇「国旗」を読むと、「日の丸」は寛文十三年(1673)に幕府が御城米を輸送する船に朱の丸の船印を立てるように命じ、それが幕末におよんだと書いてある。そして幕末の嘉永七年(1854)幕府が西洋型帆船「鳳凰丸」を薩摩藩が「昇平丸」を完成させた。それにともない西洋船と区別するために島津斉彬が日の丸の船印を立てるように老中首座阿部正弘に建言、それが容れられ、日本船には日章旗が立てられることとなったそうだ。

《その後、日の丸は船印にとどまらず、明治政府はこれを国旗とすることに定め、明治三年(一八七〇)正月二十七日、それを布達した。旗の大きさは横と縦の比率を十対七とし、中央に旗の縦の五分の三とする日の丸を、中央に描くものとした。》

『明治世相編年辞典』(東京堂出版、一九六五年)の明治三年1月27日を見ると、こう書いてある。

《旧幕府が、"日本惣船印"として定めた(嘉永7年7月9日)"白地の日の丸"を踏襲したもので、規則の上では、「商船規則」の一部に「御国旗」として定められたものであり、大きさの異なる大・中・小の三種を用いることとした。また3年から6年にかけて、陸・海軍の国旗も別に定められていたが、22年までにいずれも廃止され、この商船国旗だけが今日におよんでいる。》

要するに、平成十一年(1999)八月十三日に「国旗及び国家に関する法律」が公布・施行されるまで、日の丸は基本的には船印だったということだ。面白いのは現行規定では日章の直径は縦の五分の三と同じながら、旗の縦横比は縦が横の三分の二とされていること。吉村によれば明治政府は十対七としたわけだからタテヨコの比率は「1:1.42857」、そして現行は「1:1.5」である。

「1:1.42857」という比率は√2(ルート2)矩形(1:1.1414)にかなり近い。√2矩形というのは次のようなものである。


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《第2図は、ポルト・ダルモニー(Potrte d'Harmonie 調和の門)と呼ばれるルート2(√2)矩形で、ハンビッジやモーゼルがギリシャの基本矩形のひとつにかぞえている矩形である。
 この矩形は正方形の一辺を短辺とし、その対角線の長さを以て長辺とする矩形で、安定感のある、たっぷりしたゆたかな形がよろこばれ、古来、美術のみならず実用の世界でも広く愛用されてきた。実用上ではこの矩形のもつ特質として二つ折りにしても四つ折りにしても比が変らないので便利なところから、日本でも洋紙の規格には現在でもこの比例が採用されている。》(柳亮『黄金分割』美術出版社、一九七二年版)

『出版事典』(出版ニュース社、一九七一年)で紙加工仕上寸法(JIS規格)を見ると全紙はどちらもたしかに√2矩形を示す数字であった。

A列 841×1189 1:1.1413
B列 1030×1456 1:1.1413

全紙だから折り畳んでいっても比率は変らない。書籍の寸法は明治時代の国旗の寸法と同じ比率だったのだ。






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by sumus2013 | 2014-03-21 17:22 | おすすめ本棚 | Comments(0)

雲遊天下 116

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『雲遊天下』116号(ビレッジプレス、二〇一四年三月二〇日)より「〈座談会〉気がつけばフリーランス」の参加者たち。分野は何であれフリーはたいへんだ。しかしその分やりたいようにやれる……はずなのだが案外とそれも難しい。身につまされる話が展開している。

書店に関する南陀楼綾繁氏の発言だけ引用しておく。

《だけど、書店がますます減るのは間違いないでしょうね。新刊書店は厳しくて、メガストアといわれる何十万冊揃えているような店も、たぶんこの十年くらいで減るんじゃないかと思う。
 この間あるところで「書店ブーム」といって今年はやたら書店に関する本が出たり雑誌の特集でも組まれていて書店が盛り上がっているように感じるけど、どう思うかって聞かれたけど、それは「書店ブーム」ではなくて「書店を語るブーム」じゃないかと言ったんです。名画座とかジャズ喫茶みたいな感じ。




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by sumus2013 | 2014-03-21 16:43 | おすすめ本棚 | Comments(0)

うつろ舟

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先日来ブログでも取り上げていたように澁澤龍彦を読み直したいなと思っているのだが、いかんせん本を持っていない。昔はそこそこあったようにも思うが、だんだん処分してしまって、現在は上の写真のように文庫でしかもサド関係だけを残した状態。とりあえずはまず『狐のだんぶくろ』が読みたいと思って「日本の古本屋」で探してみると、ビブリオテカの版が700円で出ていたので注文したところ、品切れですという返事が来た(データ消し忘れ)。無理して買うこともない、いずれ手に入るだろう。

本日、雨。買物のついでに少し足をのばして善行堂へ、久し振り。買い取りがつづいたということで店の中央に古本山脈ができている。腰から胸くらいの高さで奥までずっと平積み。西側のポスターを貼ってあっただけの壁際にも文字通りの山積。古本屋らしくなった。しかし、本がすぐに行方不明になるという。「林さん向きは、これでしょ」とトポールの『Café Panique』(Éditions du Seuil, 1982)を取り出してくれたのは有り難かったが、他に二冊ほどトポールがあって、別置きしておいてくれたというのに、それがどうしても出てこない。天に登ったか(二階も見てくれた)地に潜ったか(足許もずっと点検)「お〜い、出てこ〜い」の声もむなしい。いずれ見つかったら知らせくれるように頼んでおく。


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澁澤龍彦はあるはずだと思って、東側の整頓された本棚を見回す。どうも無いらしい。「シブサワないの?」と尋ねたら「そこにあるやないですか」と。「どこに?」。ちょうど来合わせていたデコさんが隣から指さす、「目の前ですよ、ほほほ」。なんと本当に目の前二十センチのところ澁澤龍彦の本がズラリと並んでいるではないか。この棚の上と下と右と左へ視線を投げていたのに、真ん前が盲点になっていた。

『うつろ舟』(福武書店、一九八六年六月一六日、装丁=菊地信義)は別の所から探し出してくれた(写真では棚に差してあるが、直前までここには『私のプリニウス』青土社、一九九三年、が入っていた)、平積みの底辺にはビブリオテカのシリーズが何冊もある。澁澤訳のシュペルヴィエル『ひとさらい』(大和書房、一九七九年)もいいなと悩んだ末、結局は『うつろ舟』にしておく。



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少しだけ山脈を崩して見ていると、あまりにいい本が多いので恐ろしくなって中止する。トポールと『うつろ舟』だけ清算してもらう。ちょっと値切る。

「新刊やけど、こいうのもあるよ」と善行堂が机のあたりから川崎長太郎の選集を取り出して見せてくれた。平出隆さん(+斎藤秀昭)の編になる「crystal cage 叢書」の一冊『姫の水の記』。TOKYO PUBLISHING HOUSE という版元には聞き覚えがなかったが、出版者は横田茂となっており、横田氏はギャラリストとして知られた方。シュルレアルな装幀に似つかわしいかどうかはさておいてラインナップは渋い。

そんな話をしていると若い男性客が『現代思想』などを五、六冊差し出して清算した。『姫の水の記』に注目しているので手渡して見てもらった。「この人はフランス文学系ですか?」と尋ねられた。「この人」は当然編者である平出隆さんのことかと勝手に思ったが、川崎長太郎のことだったのかもしれない。「え、どうでしたかね、平出さんドイツかなあ」などと善行堂に助け舟を求めるも、善行堂も「どうやったかな…」(今調べると一橋大社会学部卒)。帯の文章は「バシュラールの言葉ですね、ガストン・バシュラール」と言うので、おおこの片言を読んでバシュラールと見分けるとは「おぬし、ただ者ではないな」と思った。善行堂によれば現代思想系の本は需要が高いらしい。そういう人たちは値段のこともとやかく言わずに買ってくれるそうだ。われわれとは違うなと二人で苦笑。

で、今、crystal cage 叢書」のサイトを見ると帯の引用の末尾に「Gaston Bachelard」と明記されているのでありました。そりゃ、フランス語が読めれば分るわな、チャン、チャン。

さっそく表題作「うつろ舟」をかなり久し振りに再読。断片的に記憶に残るイメージもあったが、こんなデタラメなストーリーだったのか! これほど奇天烈なのは、石川淳でもないし、足穂でもない。個人的には織田作之助の「猿飛佐助」くらいじゃないか、匹敵するのは、と思う。赤本漫画の世界のようだ。ひょっとして澁澤の幼少体験に根ざしているのだろうか。年取ると、こういう過去の嗜好が噴出してくることはしばしばある。ただし年取ると言っても澁澤は五十九歳三ヶ月で歿しているから、まだ老人とは呼ぶには早すぎた。


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by sumus2013 | 2014-03-20 20:47 | 古書日録 | Comments(6)

浪の雪 河田誠一

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今現在、「日本の古本屋」で「河田誠一」を検索すると青木書店の草稿の他にあきつ書店が『ヌウヴエル1』を出品している。これを見たとき、聞き覚えのある雑誌名だと思った。ひょっとして持っているのではないか……。押入の小野松二資料の箱を開けて見ると、あった、ありました。

発行所は朝日書房(東京市神田区錦町三ノ二〇)、発行者は川崎久利、編輯者は神戸雄一(1902-54)。神戸(かんべ)は宮崎県串間市(那珂郡福島村)出身の詩人。『赤と黒』に資金を提供し、大正十三年『ダムダム』を創刊。すなわち荻原恭次郎、壺井繁治、岡本潤、林芙美子、小野十三郎、高橋新吉らとともに白山南天堂書房の二階でどんちゃん騒ぎをやっていた主要メンバーの一人だったということである。昭和十九年に帰郷し二十九年に歿している。井伏鱒二の『荻窪風土記』(新潮文庫、一九八七年)にこう書かれている。

《詩人の神戸雄一は昭和六年の春から八年の暮まで弁天通りに住んでいた。場所は、弁天通りから脇道の「蔦の湯」という銭湯に行く曲り角のところである。》

《神戸君は野馬の棲息で有名な宮崎県都井岬福島という町の豪家の出身で、細君は金満家で東京育ちの美女であった。神戸君も木版刷の若殿様という仇名がある好男子だから、衆目一致で言うところの美男美女の一対であった。金はあるし酒も煙草も喫まないし、ただ詩集を読み詩を書くだけだから、知り合いの貧乏な詩人たちのため詩の同人雑誌を出してやったりした。今で言うスポンサーである。》

神戸夫妻は麻雀好きな人にそそのかれて麻雀倶楽部をつくった。

《集まるのは失業者ばかりで、文筆業者または文学青年窶れの方では、詩を書く人たちが多かった。荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺というところは、つくづく詩人の多い町であった。》

《詩人の野十郎は殆ど神戸君のうちに寝泊りする一員のようになって、麻雀の道具を出したり蔵ったりする役割を引き受けていた。詩人の矢野、劇作家の坂正、音楽家の武天佑、画家の長谷川利行、浪人者の旗頭のような感じの桑干城という人などが常連であった。先日の神戸君の奥さんの手紙に、「画家の長谷川利行氏などもたびたびお見えになり私は草むらに殿様のように立派なバッタが眼を光らせている油絵を頂いたのですが誰かがいずれかへ持ち出してしまって無くしてしまった惜しい思い出がございます」と言ってあった。
 神戸君夫婦は一人娘の可愛らしい子供を連れ、昭和八年の暮に阿佐ヶ谷に引越して行った。
 神戸君は温良恭倹という点では神品に近い人で、人間形成が殆ど完了しているかと見えていた。荻窪に引越して来る前には野村吉哉、小野十三郎、壺井繁治、金子光晴、林芙美子などと交遊していたが、弁天通りから阿佐ヶ谷に引越してからは小説作家に転向し、古谷綱武、太宰治、古木鉄太郎、外村繁、大鹿卓などと新しく交遊を始めて「海豹」の同人になり、昭和九年には「文陣」を発刊した。昭和十九年、戦争が苛烈になって来ると、宮崎に疎開して日向日日新聞社に招かれて文化部に入ってラジオの仕事もした。戦後は詩を「龍舌蘭」に発表し、詩集「岬・一点の僕」「新たなる日」を残して二十九年二月二十五日に永眠した。翌年、遺稿詩集「鶴」が出た。》

非常に要領を得た(ただし井伏のことだから話七分目に聞いておいた方が無難ではあると思うが)神戸伝である。要するに、詩と詩人が好きなお金持ちだったわけだ。だからおそらくこの本(雑誌か?)も神戸の自費出版だったのだろう。朝日書房は実用書や文学関係の本なども少しは出していたにしても、このモダニズム感覚とはまったく縁がない版元のようである。

扉絵、カット、挿画二点は誰の作品か明記されていない。すべて同じ作者による木版画である。三角形(A?)が重なったようなサインがある。フランス・マスレール(Frans Masereel, 1889-1972)に似たような作風だが……。

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神戸が選んだ作者たちは以下の通り。横光利一、井伏鱒二、田畑修一郎、井上友一郎、織田正信、今官一、蒔田廉、久野豊彦、龍膽寺雄、大鹿卓、神戸雄一、古木鐵太郎、中山議秀、大野淳一、田村泰次郎、小田嶽夫、鹽月赴、高橋新吉、河田誠一、北村謙次郎、北原武夫、金子光晴、小野松二、辻野久憲、宮腰武助、守木清、中山省三郎、ロオトレアモン(青柳瑞穂訳)、マルセル・アルラン(那須辰造訳)、フランシス・ジヤム(秋田滋訳)、バルザツク(鹽月赴訳)。

これでおおよそ河田誠一の置かれていた文学の時代が分るような気がする。そして河田の作品掲載ページ。


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「浪の雪」と題されて八頁にわたり、最後の行に《長篇「山雀の一節』》[表記はママ]と付け加えられている。

内容はたわいもないと言えばたわいもない女一人と男二人の三角関係をいわゆる新感覚で描いてある。

《由利は改札口を入つてゆく新城を見ると、急いで切符を買つて追ひついた。新城の容貌が衰へて鼻のあたりに油汗が光つてゐる。うす暗い地下道をぬくい空気が満ちてゐるのを覚えながら、追ついて「兄さん」といつた。すると、新城はその声が由利であることをしつてゐるやうに、振向かずに、いきなり並んで歩く由利をしらぬもののやうにあるく。いつものくせであつた。だが、いつもはすぐそれをを止めるのであつた。直ぐに、物を言ひ出すのに、今日は、と、考へてゐ胸を由利は自覚した。新城の眼に、花が見えたやうに、一寸振向いただけ、声もかけず表情一つ動かしはしない。由利もまたそれにならつて、二十幾分間は電車の中で棒立ちであつた。しかしNの駅を下り人のゐない屋敷前にかゝると、いきなり、由利は、新城の腕を握つて噛みついた。
 その夜、林の深い新城の家ではあかあかとした瓦斯電球の下で、由利がひとり蒲団の中で夜の明けるのを待つやうなものであつた。
「細い手にも血が出るのね。兄さんが好きでたまらに日なのよ、けふは」とかの女がいふのである。まるで映画説明の文句だ。由利はやさしい眼をしてゐる。
「兄さんは手がいたむでしよ。手がいたむのを、かうしてじつと見つめてゐるの。そしたらね。兄さんが一層好きになるの。あたしにはね。あたしを好きな人が幾人もあるの。けどやつぱり兄さんがいゝわ。兄さんは昨夜も一昨夜も帰つて来なかつたのは、あたしが好きだからでせう」
 由利を見ると、まるで寝言のやうに、かの女は眼をつむつてゐた。新城は、まだづきづきと創が痛むのであつた。》

う〜ん、文学的判断はとりあえず保留しておこう。もう少し読まないと。



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by sumus2013 | 2014-03-19 19:49 | うどん県あれこれ | Comments(0)

魯山人おじさん

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以前、野田可堂の水墨画を手に入れたことを書いた。
http://sumus.exblog.jp/18772902/

そこにコメント下さった方が『芸術新潮』一九七九年十一月号に可堂の妹・八幡真佐子さんが「魯山人おじさん」という随筆を寄せておられるとお教えくださった。『芸術新潮』は郷里にかなり揃っているので(全部ではないが)、先日調べてみたら、この号は架蔵していた。上の写真はその随筆に付された図版の一枚《若き日の魯山人》(大正十年のようだ)。

八幡女史の記述はほとんど魯山人の想い出である。それはそれでなかなか興味深い。女史にとって魯山人は《私に無言の情操教育をしてくださったやさしいとてもいいおじさんでした》ということだ。

《大正九年頃、中村竹四郎さんと魯山人が、美術品と美食倶楽部を始めた大雅堂は、京橋南鞘町(現京橋二丁目)にありました。それは関東の大震災の際にこわれ、神田方面からの火勢で焼失しました。赤坂山王に星ヶ岡茶寮をひらいたのはそのためでした。》

大雅堂は大正八年開業のようだ。はじめは二階に魯山人と中村が住んでいた。大家である可堂の父・野田峰吉は宮城県出身で一貫堂という薬屋を経営していたそうだ。その長男が利衛こと可童(可堂)である。

《亡父の持ち家を貸していたのです。魯山人とは古くからの付き合いで、その関係で私の亡兄(雅号は野田可童、のちに可堂)は明治三十八年、三歳の時から町内の岡本可亭さんに、書を習いにいっていました。魯山人は、印を造ってくれたり、日本画をすすめて山岡米華さんにつかせたそうです。

中村竹四郎は美術印刷で知られる便利堂の兄弟の一人で「大参社」を経営していた(後には便利堂の代表者となる)。岡本可亭は書家で、漫画家・岡本一平の父親(要するに岡本太郎のおじいさん)。下の写真は以前にも掲げたけれども、小生所蔵の墨画に捺された可堂の印章二顆。魯山人が造ってくれたのかどうか、それは分らないが……。上は可能性ありか? 下は自刻かとも思える。


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《神童と世間で騒がれた兄は、天皇の前で書を書き、魯山人と父は、京都方面に連れていって、書の会をひらいたりして、二人は興行師のようだったと、兄は死ぬ数年前にいっていました。そして「僕は、魯山人より桜一さん(魯山人の長男)の作陶の方が好きだ。でもこの紅葉の徳利はいいよ」と、酒好きの兄は、ことのほかその徳利を大事にしていました。長じて兄は洋画に転向し、魯山人とは疎遠になりました。》

八幡女史によれば昭和十七年に魯山人と中村竹四郎は仲違いして裁判沙汰にまでなってしまう(中村が魯山人を解雇したのは昭和十一年)。野田峰吉は心を痛めた。

《中村さん側に立った父は、怪我がもとで二度と起てなくなりましたが、それを知った魯山人は、鎌倉から、時折米、漬物(自作の器に入れて)、野菜(その盛り合わせの美しいこと)等を、俥夫や武山一太さんにわざわざ届けさせて見舞って下さいました。》

武山一太は少年の頃より魯山人の料理を手伝っていた料理人。

《父の葬式には魯山人も、中村さんも肩をならべて参列して下さいました。》

可堂の水墨画、言うまでもなく今もマクリのままだが、これはいよいよ表装しないといけないようだ。



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by sumus2013 | 2014-03-18 20:40 | 古書日録 | Comments(0)

大西巨人さん死去

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去る12日に大西巨人さんが亡くなられた、留守中のことだったので新聞を見ていなかった。ローカルTVではなにも報道されなかったため帰宅するまで知らなかった。拙作で飾られた光文社文庫の大西本を取り出して追悼の意を表する。

間村俊一さんと、大西さん担当だった編集者Sさんと、三人で埼玉県のご自宅にうかがったのは光文社文庫版『神聖喜劇』が刊行された翌年二〇〇三年十一月だった。日記を確かめてみると六本木のギャラリー柳井で個展をするために上京した機会をとらえてのことである。

いつもながら上京したときには知人宅に泊めてもらう。かつては岡崎武志氏のところや生田誠氏のところにもお邪魔したし、このときはまず新浦安のTさん宅に泊めてもらった。じつはこのときお世話になったTさん宅(当時築二十年だとおっしゃっていた)、つい最近、火事を出して全焼してしまったというのでビックリ。幸いTさんはご無事だったが、それでも一週間ほど病院で意識不明だったとか。書物の重みを支えるため居間の中央に柱を一本増やしたほどの蔵書家だった。それらはすべて灰燼に帰した。

十一月十九日の日記の一部を書き写しておく。この日、池袋へ移動している。

《リブロの光文社棚を確認し、ちくま学芸文庫にバシュラール『空間の詩学』を見つけて買う。そのすぐ横のカフェキャビンでグレープフルーツジュース。14:05 光文社棚のところへ移動。しばらくきょろきょろしていると、中年女性から「林さんですか?」と声をかけられた。》

同行することになっていたSさんが急に具合が悪くなったとその女性は告げに来てくれたのだったが、そこへ当のSさん現れ、大丈夫ですと言うので、結局、間村俊一さんと三人でタクシーを拾って与野市へ向かった。

《14:50ごろ大西宅着。高速降りて5分もかからなかった。メーターは7千円ほど。大西先生、ご機嫌の様子でそれから文学談義を2時間ほど。お菓子につづいて 16:00 すぎに茶巾ずしとつけもの出る(浅漬とサラミ!) ワープロを使って最新作を書き上げたが、ワープロだと文体が崩れるような気がして、息子の大西赤人(昭和30年生)さんに相談したら、ワープロで崩れるようなら大した作家じゃないと言われてふんぎりがついたとか、いろいろな話。17:00 ごろまで。タクシー呼んでもらい飯田橋まで帰る8千円。Sさんは帰宅。間村さんの行きつけもー吉へ。》

いや、ほんとに今もよく覚えているが、大西先生、間村さんの俳句を口ずさんだりして(間村句が気に入って暗記していた!)じつに上機嫌。間村さんビックリしていた。壁には平野甲賀さんが装幀した以前の『神聖喜劇』(ちくま文庫)の表紙が額に入れて飾られていた。

なんと、会話の一部は「大西巨人談」として日記にまとめてあった。これは自分をほめてやりたい。

《岡本かの子全集(ちくま文庫、間村装)が本棚にあり、かのこの小説が好きだという話から、岡本太郎に会ったことはないのかという質問に対して、「新日本文学」の時代に、会合に欠席していたため長谷川四郎と二人で、年末に雑誌の赤字を何とかするために、寄付金をもらいに歩いた。松本清張、岡本太郎、水上勉、有馬頼義などを歴訪したそうだ。交渉は長谷川四郎が主にやったそうで、大西さんは若かったこともあり、人づきあいは苦手な方なので、みんな初対面で、うしろにくっついていた、ということである。

画家ではキリコが好き、なかでも輪を走らせる少女がすきとのこと。

「神聖喜劇」が光文社から出た経緯は、「新日本文学」連載中に早く、松本清張が、取り上げて評価してくれたことがまずあり、光文社の編集者の一人が出版したいと言ってきた。中間小説として傑作で原稿のまま出版しますという話だった(カッパは、かなり原作を変えるということで有名だったそうだ)。そのころすでに5年間書きつづけていて、あと数ヶ月か半年で完結させる予定で引き受けたが、それから15年以上かかってしまった。批評家に原稿がおそいのは才能がないからだと言われたりした。

ある年、どうしても金が必要になり、光文社へ前借りに出かけた。俺は借金に来たんじゃないゾ、借の印税をもらいに来たんだとどなった。会社中がシーンとしたらしい。そこでなんとか都合はついたが、上の方から刊行打ち切りの話が出たらしい。担当の編集者はいつもポケットに辞表を持ち歩いていた(辞表の件はS氏の聞いた話、大西さんは知らなかった。)》

とまあ、このくらいのことだが、大西さんの口から直接うかがったのだから感慨は深い。ご冥福をお祈りします。




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by sumus2013 | 2014-03-17 22:07 | 装幀=林哲夫 | Comments(2)

春の港

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    春の港

 ちち色の夕のそら。
 おびえた おとろへたこころをいだいて
 さびしくなだめてわかれた
 港のまちのひと
 小さなこひびと。

 苦悩に死んだオレのこころの墓に
 ゆふべ ゆふべの祈りを捧げる
 みなとの 晴れわたつた春の日

 東京の かぜのきびしい日に
 肺がうつろになり
 げくろげくろとうごめくものが
 心のつまつてゐるふくろを蝕んでゐるんだ
 俺のこころにうかんでくる港のまちのふるさとに
 どつかで どらがなり
 ばあんとあがるつかれたパツシヨン。
 いまこの花壺にいううつの花が咲いたが
 そのいろに映ずる 船 船
 港 いううつにすすけたみなと。

 あの人の船がもう あの港の春をたづねないので
 あらうか。



『河田誠一詩集』(昭森社、一九四〇年)から詩三篇が『ふるさと文学館 第四三巻【香川】』(ぎょうせい、一九九四年)に再録されている。河田誠一については無知だったのだが、同県人のKさんが教えてくださった。

青木正美「古本探偵追跡簿」マルジュ社 「名家の日記」という章で河田誠一を取り上げていました。詩人、三豊市仁尾町生れ、1911年~1934年23歳早逝、三豊中学(観音寺一高)出身。田村泰次郎と早稲田同窓、坂口安吾とも同人。大層な天才がいたと感激し、墓参したいと思っています。

いろいろ検索してみると、青木書店さんが河田の原稿を日本の古本屋にたいした値段で出品しているのが分った。また紅野敏郎に「逍遥・文学誌-9-「桜」の河田誠一追悼号と昭森社の『河田誠一詩集』」(『国文学解釈と教材の研究』一九九二年三月)がある。坂口安吾は「二十七歳」という作品で矢田津世子とのからみで河田のことを書いているし、田村泰次郎は森谷圴(昭森社主)宛の昭和十五年五月十七日付けの葉書でこう依頼している。

河田の詩集は、草野君と、河田/井上友一郎君とに宜敷頼んで来ました。/どうか宜敷御願ひ申上げます。

同じ早稲田出身で同人雑誌『東京派』をいっしょにやっていた仲間だった。黒島伝治ももちろんいいけれど、河田誠一詩集、覆刻してくれないかなあ……

写真は淡路PAから明石海峡を望んだところ。



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by sumus2013 | 2014-03-16 19:59 | うどん県あれこれ | Comments(0)

鎌倉の書斎

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昨日引用した種村「サロン、庭園、書斎」は『みづゑ 追悼澁澤龍彦』(美術出版社、一九八七年一二月二五日)に執筆されたもの。上の写真はその表紙の一部。巻頭には篠山紀信撮影によって余すところなく(たぶん)とらえられた邸宅の内外観が展開されている。

篠山写真は実際以上に立派に見えるらしい。何度も訪問したという某氏よりうかがったことがあるが、サロンも書斎も狭く、蔵書もサド関係は見事に揃っているものの全体でみればそれほどでもないという(それほどってどれほどなのか、その人の感覚によるのだろうが。そう言えば『澁澤龍彦蔵書目録』が出ているのにまだじっくり見たことがない)。

外観はコテージ風とでも言えばいいのか。たしかにこじんまりとした感じ。身近な自然を謳歌するというのは澁澤が文筆によって形成しているマニアックな宇宙からはほど遠い気もしないではないが、そういう頽廃的な気分の稀薄な、しっとりした自然のなかで彼は読書をし、筆を執っていたのもまた事実のようである。


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《北鎌倉の円覚寺につづく山の中腹に住んでいるので、四季を分かず、鳥の声や虫の声を耳にする。》

《私は手帳に、ウグイスやトラツグミやホトトギスや、あるいはヒグラシやミンミンゼミの声を初めて聞いた日を、忘れずに書きとめておくことにしている。》

《ウグイスはだいたい三月十日ごろに初めて鳴き出し、夏までさかんに鳴きつづける。夏に聞くウグイスの声は、一抹の涼感をあたえて、じつにいいものだ。》

《書斎のガラス戸をあけると、正面のなだらかな稜線を描いてつらなる、東慶寺や浄智寺の裏山が見える。季節の移り変わりがはっきりと感じられるのは、この山の色がたえず変化しているのを目にするときだ。いまは樹々のあいだに、薄紅色をした桜の蕾がふくらんでいるのが分る。もう数日もすれば咲き出すにちがいない。》

《私の住んでいる土地はかつて北条氏の邸のあったところだが、ここから見えるあの山のかたち、あの山の色は、おそらく鎌倉時代から少しも変わっていないのではないかと思うと、なんとなく愉快になる。》

以上は「初音がつづる鎌倉の四季」(『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』学研M文庫)より。

下は細江英公が撮影した書斎の写真(『鳩よ! 万有博士澁澤龍彦』マガジンハウス、一九九二年四月一日、掲載)。紅いカーテンを開けば、鎌倉時代から変らぬ自然を目にすることができたわけである。最初の篠山写真は鏡像なので細江写真とは左右が逆転している。

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ついでに『澁澤龍彦翻訳全集』(河出書房新社)の内容見本(一九九六年)と上述の『書物の宇宙誌 澁澤龍彦蔵書目録』(国書刊行会、二〇〇六年)の内容見本。翻訳全集は全15巻別巻1。

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もう何年も前になるが地方のブックオフに『澁澤龍彦全集』(全22巻、別巻2、今だいたい揃いで四〜五万円が相場のようである)十冊ほどバラで出ていた。千円均一だった。かなり迷ったが、バラで買ってもしかたないなと思い、別巻2(年譜他)だけ拾った。まあ、それで正解だったようだ。

***

所用のためしばらくブログを休みます。


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by sumus2013 | 2014-03-11 21:09 | 古書日録 | Comments(0)

澁澤さん家で午後五時にお茶を

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種村季弘『澁澤さん家で午後五時にお茶を』(河出書房新社、一九九四年八月一一日再版、装丁=中島かほる、装画=野田弘志)を読んだ。二十年前の本だとは思わなかった。先日、神戸六甲で買った種村季弘『食物漫遊記』(ちくま文庫、一九八五年)がめっぽう面白かったので、ちょっとした種村風が巻き起こった。これまであまり種村本を読んだことがなかったのは、どうももうひとつピンとこないところがあったためである。『食物漫遊記』は文句なしの傑作、食味随筆として個人的なベスト5に入れることにした。

その種村風に押され、ある目録に出ていた『澁澤さん家で午後五時にお茶を』を注文。読了。『食物漫遊記』ほどではないにせよ、いろいろ興味をそそられる記述があった。

まずは澁澤龍彦の入院中の様子。

《病中の故人はベッドの周囲に堆く本を積み上げ、鎌倉の書斎を小型移動したようなその環境のなかで、肉体の苦痛をおして、平静に、しかも営々孜々として晩年の仕事を続けました。》(出棺の辞)

《そう、ほぼ二十四時間前、昨日のこの時間に私はここにいたのだ。一年近い病床生活の人が通常の意味で「元気」であるわけはない。しかし病中のペースでは、元気といっていい過ぎではない面持ちで不意の客を迎えてくれた。ベッドの足下にはうずたかく本が積まれ、鎌倉の書斎を小型にして持ち込んだような病室のたたずまいも常に変わりはない。》(精神のアラベスク)

微妙に表現が異なる所が気になるのだが、鎌倉の書斎とは、『みづゑ』はじめいろいろな媒体で紹介されたあの書斎を指すのであろう。その書斎についてはこう書かれている。まず鎌倉市小町四一〇番地の借家。

《そこには何もなかった。いや正確には、一組の机と椅子があり、部屋の一隅に高い本棚があって、仮綴じのフランス本がぎっしり並べてあった。そのほかには何もなくて、青畳がさらさらとひろがっていた。鎌倉小町に住んでいた頃の書斎である。

小町には昭和二十一年に移り、昭和四十一年八月に鎌倉市山ノ内の新居が完成するまでそこに住んでいた(全集年譜による)。

《鎌倉山ノ内の家は、有田和夫という田村隆一の友人の建築家の設計である。円覚寺の裏手に同寺の寺大工の地所を借りて建てた二階家で、吹抜けに天井を高くとったサロンから階段が二階の寝室に通じていた。サロンの奥が書斎。間に引き手扉があるが、使われているのをめったに見たことはなく、たいがいは開けっ放しだった。サロンの西側と書斎のつき当たりに長窓。したがってサロンには外光がほとんど入らず、いつもいくぶん湿気のある夕暮れの気分がやわらかくたちこめていた。猫足のひくい丸テーブルを中心にソファと椅子数脚。フランスの室内劇の舞台装置のような古い家具の配置は、底の抜けたソファを換えたほか、ここ二十数年来変っていない。本がふえすぎて寝室のなかにまで侵入して来た。書庫を建て増しした。それでもサロンのなかには一冊の本も入れなかったのは、この家の主人の来客に対するホスピタリティを如実に物語る。》(サロン、庭園、書斎)

澁澤邸へ・・・
http://www.nakashimaya.com/cgi-local/asobi/asobi.cgi?mode=view_past&year=2009&mon=06

J-J.ポヴェール社の名前も二度ほど出ている。

《種村 松山[俊太郎]さんていう人も一大奇人でして、学生時代、サドの最初の全集がポーヴェール社から出たでしょ。あれを紀伊國屋に注文したら、自分以外に日本で二人注文しているやつがいて、一人は遠藤周作で、もう一人が澁澤龍彦ってやつだと。お互い、こんな変なものに興味をもっているんだから、じゃあ一緒に会おうじゃないかって、その二人に手紙を出してね。で、紀伊國屋の洋書棚の前で白いハンカチを持って立っているからそれを目印にして、なんてかなりキザなランデブーをやったわけ(笑)。》

《スキャンダラスなオスカル・パニッツァについては、私自身も何度も書いたことがあるのでくり返さない。むしろ個人的なエピソードをいっておこう。ブルトン序文によるポーヴェール社版のパニッツァの戯曲『性愛公会議』のことをはじめて耳にしたのも、やはり澁澤さん家の午後五時のお茶の席でだった。

ポヴェール社の最初のサド全集は一九五五年に出ているのでその頃のことだろう。白っぽい表紙のやや小型の判である。この松山俊太郎は『食物漫遊記』に非常に強烈なキャラクターとして登場しているが、じつに興味深い人物ではないだろうか。現在、闘病中でいらっしゃる。

松山会報告
http://matsuyamainukai.blog.fc2.com

この本についてはもう少し続けよう。


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by sumus2013 | 2014-03-10 20:56 | 古書日録 | Comments(0)