林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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月歌論

Loggia ロッジア』13号(時里二郎、二〇一四年一月三一日)を頂戴した。今号は短歌集「円周率のサル」と「月歌論」というエッセイ、そして歌の錬成を描いた物語「歌窯」からなる。古典とアヴァンギャルド(ああ、これはちょっと響きがなつかしすぎですかねえ)の溶かし合いというのか、時里氏ならではの世界。


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「月をかたしく 或いは《月歌論》のための仮縫い」は和歌における月との関係をさぐる試論で、西行、定家、そしてとくに九条良経に焦点を当てている。

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《良経の歌は、月に心がしみこんでいる。近代的な憂愁さえ嗅ぎ取ることができはしまいか。》と氏は書いておられるが、たまたま、このくだりを読んだ直後に、ある方より「真山民作で好きな作品があります」というメールを頂戴して驚いた。

 我愛山中月  我は愛す 山中の月
 烱然掛疎林  烱然として疎林に掛るを
 為憐幽独人  幽独の人を憐れむが為に
 流光散衣襟  流光衣襟に散ず
 我心本如月  我が心 もと月の如く
 月亦如我心  月もまた我が心の如し
 心月両相照  心と月とふたつながら相照らし
 清夜長相尋  清夜とこしなえに 相尋ぬ

月と心と相照らすとは……。時里氏の言わんとするところに一致するのではないだろうか。真山民は南宋の詩人、隠士。詳しい経歴などは分っていないそうだが、日本ではよく読まれてきたようだし、詩吟の定番でもある。真山民「山中月」についてはこちらのサイトに詳しい。


南宋というと、九条良経(1169-1206)と重なるか、少し後になるのだろうか。まさか同時代性というわけでもなかろうが、モチーフはほとんど同じだと考えてもいいように思われる。今更ながら、漢詩と和歌の距離は、表現形式からするとはるかに離れているように見えても、『倭漢朗詠集』が示しているごとく、じつは裏表のように密着しているのかもしれない。


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by sumus2013 | 2014-02-13 21:36 | おすすめ本棚 | Comments(2)

生誕130年永久保存版 竹久夢二

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竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』(河出書房新社、二〇一四年一月三〇日)。表紙の執筆者でおおよそ分るように、実際に夢二を知る人間から最近の夢二ファンまで、広く夢二に関する言説をコレクションし、読物として夢二の全体像に迫った一冊である。夢二といえば画集やカタログ類、また雑誌特集など多数出ており、それぞれに研究者なり、誰なりが文章を寄せているのだが、本書は「永久保存版」と謳うだけに、選び抜かれた貴重な記録が採録されて、たしかに書架にとどめておきたいと思わせるものになっている。

しかし、何と言っても、岸たまき「夢二の想出」(初出は『書窓』、昭和十六年から十八年にかけて六回連載された)がキョーレツである。以下少し抜き書きしてみる。

二十四歳で未亡人になったたまきは兄の家にいる母をたよって上京した。独立して子供を育てたいという願いが容れられて絵葉書店を早稲田鶴巻町に出したのが明治三十八、九年。当時は早稲田が大人気で中国留学生が千五百人もいたそうだ。絵葉書もよく売れた。開店五日目に《長髪の異様の青年》夢二が客としてやって来た。早慶戦のエハガキを夢二がスケッチして売り出したり、絵葉書の仕入れ先を教えてもらったりした。

《店が少しハヤリ出すと青年達からいろいろと求愛される求婚される、中には支那の貴族の留学生などダイヤの指輪をくれたり困ってしまいました。夢二もその中の一人で第一に申込を兄夫婦にしたのでした。》

ほどなく二人は結婚。夢二は読売新聞に入社する。月給は十五円で小川未明の十三円より高かった。しかし主任ともめて退社。太平洋画会の画塾に通ったりするようになる。

《暫くは遊んでいましたけれど、そろそろ嫉妬が始まり出し、私を焼火箸でついたり、大きなお腹の上に板をのせて、坐ったり、乱暴を始め出しましたので、それでも皆が私の為によく慰めてお手伝いして下さいました。》

《それから早稲田大学の裏に小さな家を借り移りました。宮崎与平氏が田舎上りの草鞋をぬいだのもこの家でした。少しの金もなくて私のコートを質に入れて六十銭作り、おそばの御馳走をしました。》

《その頃は毎日カタパン二銭が常食でした。八日に本屋の名は忘れましたが音楽の本の装幀を頼まれて八円ほど金が入りましたが、金を受取りに行きながら帰ってきません、夜十二時頃、そして懐におすしを入れ、牛乳を二本と、私にクリームを買って帰りました。お金は、と聞きますと前を通ったので芝居をのぞき、おすし屋で一喰やったのでなくなっちゃったとて五十銭私に渡しました。泣くにも泣かれぬ気持でした。また十六日までに蒲団まで質に入れて過ごしました。》

この生活破綻ぶりを見かねた親たちが、二人を無理矢理に離縁させ、子供は九州に預けられた。

《折角自立の為のつるやも兄の手に渡ってしまい資本もないしいろいろ考え洗濯屋がよろしいと思いましたけれどやはり資本が出来ないし、幼稚園の保母になる決心をして、神田橋の和強学堂にある東京府保母伝習所に入り、昼は岸辺先生の東洋幼稚園(牛込時代)に通い、四時には学堂の伝習所に通う事となりました。

ところが夢二とたまきは偶然にも同じ下宿に引っ越して再会、結局そこで復縁してしまう。しかしそれもそう長くは続かず、夢二は余所の女に入れあげて別居状態になった。

《大森の家は懇意な人と母とで引き上げて荷物が運ばれ、私は本の行商でもしてゆく事にきめ、向横町の裏に四畳半と二畳の家を借り住い、やれやれと少し落着きましたら、夕方十月頃に白がすりの単衣もの一枚で夢二が顔を出し、すまなかった、もう一度救って呉れと頭を下げて帰って来ました。》

洋行するつもりだと言い出し、京都の堀内氏の世話で湯浅半月が図書館長をしていた市立図書館で展覧会を開くことになった。恩地孝四郎や田中恭吉が手伝いに京都へ出かけた。しかし売り上げの大半を芸者遊びに費やしてしまい、東京に帰って来たときには十五円しか残っていなかった。

《どうしてそればかり残したのですと聞きますと春芝居も見なきゃならんし春相撲も見なきゃならんし残して来たのだと、おれはもう駄目なやつだと泣き出してしまいました。私も泣かされました。

大正二年。

《その秋五ヶ月の流産が因で貧血に陥り寝込んで了いましたが、その時医者を迎えにゆくとて貯金帳を持って出た儘一ヶ月も帰らず、徳田秋江[ママ]氏と東北に雪見をして来たと十二月も末に戻って来これから楽しませると大晦日の前日に連れ立って出かけ、向島の太陽閣で昼食、言問だんごを喰べ、竹やの渡しから三や森に渡り、夕方「仲」に繰込みました。

う〜ん、夢二も夢二だが、たまきもたまきか……。大正三年になると、突然たまきは離縁状を渡され、その代わりと日本橋の呉服橋通りに「港屋」を開いてやると言われた。下は港屋の前の夢二。

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夢二は彦乃と親しくなる。まだ十八九だった東郷青児が店を助けてくれたが、夢二は二人の仲を疑って、画会で滞在していた富山へたまきを呼びつけた。このくだりに凄みがある。

《泊の近くの海岸で私を責め、一夜中九寸五分をつきつけてひき廻し、顔をまず五寸ほど切りましたが血がにじむ程度でしたが、雨で濡れたお召縮緬は足にからみ歩けず余り座ると髪の毛を握っては立たすので毛がむしれて銅銭程のはげが幾つも出来た程でした。虐めるだけ虐めて少し気が収ったか丁度夜がしらんで来たし宿の温泉場へかえりました。》

《謝れときかぬのでその様にいいますと、急に猛り立って短刀で私の左腕を刺し、骨に通った刀が抜けず、血が止る迄ハンケチで縛って止血し、看視につけた知人を電話で呼ぶ始末、夢二も其人もその刀が抜けず、私が自分で抜きました。》

港屋の店頭に立つたまき(他万喜)。

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今の世の中でもドメスティック・ヴァイオレンスは決して珍しくはないのだろうが、夢二描く女性たちにはこういう精神疾患とも思える妄執が潜んでいるということは頭の隅に置いていてもいい……。

夢二の長男・竹久虹之助が父の言葉として次のように書きとめている。

《その方ではお前達よりずっと苦労してきた俺が、言っておくが、女房というものは決して替えるものではない。幾度かえてみたところで決して自分の希望通りの女なんて、あるものではない、幾人かえても結局はもとの女房が一番自分にしっくりするものだ。》(「父夢二を語る」本書所載、初出は『書物展望』)

なるほど永久保存版である。








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by sumus2013 | 2014-02-12 21:26 | おすすめ本棚 | Comments(4)

池永一峯と細井廣澤

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昨日はズボラをして池永一峯についてはごく簡単に紹介しただけだったが、じつはこの『書道全集別巻II 印譜 日本』(平凡社、一九七一年五月一日四刷)が見つからなかったためあまり詳しく書けなかったのである。さきほど無事(?)発見。この書道全集別巻の印譜、日本篇と中国篇は篆刻・印章の歴史を概観するにはもってこいの編集になっていて貴重だと思う。図版中心で専門的過ぎず、簡略過ぎず、索引、印章研究資料一覧、年表も備えている(年表は一九六八年、岡田湖城没まで)。

本書によれば、池永一峯《名は榮春、字は道雲、一峰と号し、別に市隠・山雲水月主人等の号がある。本姓新山氏。江戸本町三丁目の名主で薬屋を営む池永家に入籍、その五代となる。榊原篁洲の門に入り書を善くし、とくに篆文に精しかつた。篆刻は黄道謙に親炙して一刀萬象三巻を著し、本邦における印譜のさきがけをなした。五十歳で長子榮陸に世を譲り、墨田河畔の庵に梵典を修め、傍ら琵琶を愛した。没前自ら墓碑を勒して逝いたという。元文二年七月十九日没。年七十三。》著書多く、十八種五十余巻に及ぶそうだ。


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ついでに細井広沢の伝も少しばかり引用しておくと、広沢は万治元年(1658)遠州懸川に生まれ、年少で江戸へ出た。元禄のはじめ柳沢吉保に仕えて近習鉄砲頭となったが、退いて一時水戸光圀に仕えた。その後青山與力に移り、享保二十年(1785)歿。

江戸時代を風靡した唐様の書法を世に弘めたばかりでなく、当時まったくふるわなかった篆学を研究したことでも功績を残した。『篆体異同歌』三巻は篆字の紛らわしい異同を整理した著述(本邦初期の篆刻字典)で、後には池永一峰の『篆髄附録』を合刻している。

《かれの在世したころ、東西二都において、学士大夫たちは、多くはみずから篆刻をなし、あらそつて古今の印譜を買い求め、鉄筆をこころみるのを趣味とした。たまたま清の黄道謙が乱を逃れて長崎に流亡してきたとき、方篆雑体の法を教えたので、長崎の人々があらそつてその門に走り、一時篆刻が大流行をきわめた。

《かれと交遊した榊原篁洲、今井順慶、池永一峯みなともに、篆学を講じ、刀技を修めて、江戸を中心として一派をなしわが国の篆刻が勃興する機運をつくつた。わが国の篆刻は実際上かれによつて興起したというので、かれを日本篆刻の始祖と仰ぐこともある。印譜に奇勝堂印譜がある。》

以上抜粋。執筆者は中田勇次郎。掲載されている三顆のうちふたつを掲げる。


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君子林、廣澤知慎

かつて印譜を集めたいと思ったこともあったが、すぐに諦めた。印譜コレクションは大尽の趣味である。実押した稀少本が多く、また版本でも古いものは手が出るどころの騒ぎではない。そういう世界はそちらの方々にお任せして、図版を眺めるくらいのところで満足しておこう。

ただし自ら印を彫るというのは、これはさほど資金もかからず、手先も使うし、ボケ防止にはもってこいだろうと思う。没頭していると時間が矢のように過ぎる。最近はまったく遠ざかっているけれども、神戸の震災直後には没入していた時期があった。作った印はほとんど誰彼に呈上してほとんど手許には残っていない。今見るとガッカリするんだろうなあ。



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by sumus2013 | 2014-02-11 20:30 | 古書日録 | Comments(2)

篆楷字典 篆書字引

昨日の続きで丘襄二『篆楷字典』(丘襄二、一九三三年一一月一〇日)、これは写真にも二冊並んでいたようにマール社から一九八三年一一月一〇日に復刻されている。

篆書の部首の形からその文字を同定するために作られた字書。下のように画数ごとに部首(というのか篆字の一部分)が分類されている。まず、この字形索引でおおよその見当をつける。

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そして該当する頁を開くと同じ部首の篆書が楷書とともにズラリと並んでいるので、そこから探している文字を見つけ出す。

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マール社版には音による索引もついている。巻頭には漢学者で東京帝大教授の塩谷温自筆による「篆楷字典序」があり、著者についてこう述べている。

《丘譲二君伊勢津人現住大連従事実業旁通小学用功多年新編篆楷字典専主実用沿彙集篆字依体分類付以楷書一目瞭然頗為便利頃者介友人片山法学博士請余文

《君齢既七十六猶孜々不懈能為此書可謂篤学之士矣乃欣然為之序》

丘襄二についてもほとんど情報がないが、序に言うように伊勢の人だとすれば、昨日の『偏類六書通』編者である古森厚孝らの伝統を引き継いでいたとも思えるのだが…。昭和八年に七十六とすれば安政四年(一八五七)あるいは五年頃の生まれということになる。

【追記】『大正人名辞典』(東洋経済新報社、一九一八年一二月二五日四版)に経歴が出ていた。それによれば、安政五年三月十二日、三重県生まれ。現住所は満州大連加賀四四。明治十二年、津市第百銀行取締役兼支配人。十四年三重県商業会議所会頭兼水産会会長。二十年三井物産会社入社。二十七年東京電燈株式会社幹事。三十七年日露戦争に従軍し勲功あり。田中合資会社監督、日支合弁龍口銀行枢議。旅順市議、旅順実業協会会長。大正元年関東州居留民総代として大喪に参列。大正三年青島軍に従軍。

***

昨日の二番目の写真、左側の二冊はどちらも池永道雲(一峯)撰『訂正篆書字引』(内題は『聯珠篆文』)である。まったく同じ内容。要するに異版。小さい方が明治版。やや大きいのが大正九年版。内容は基本的には『篆楷字典』と同じだが、もっとシンプルで収録字数も少ない。

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これは大正版で、下のが明治版の奥付。明治二十年代はこのように紙質が悪い本が多い。教科書類はたいていこういうふうに黄変してしまっている。

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明治版で著者は松浦琴(琹)鶴となっている。幕末の易占家として著名な人物と同一人であろうか(?)。ただ本文末尾には《享保壬寅夏六月/池道雲篆》と明記されているので池永道雲を著者としてよかろうと思う。享保壬寅は西暦一七二二年。

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この本の序文は柴邦彦こと柴野栗山(1736-1807)が執筆している。ただし本書について具体的には触れておらず、池永道雲の事蹟について、あるいは杉田伯元(1763-1833、杉田玄白の娘婿)とともに実見した道雲の印集『一刀萬象』などの印象を記しているだけである。池永道雲(1674-1737)は江戸中期の書家、篆刻家。同じく同時代の著名な篆刻家細井広沢(1658-1736)と技を競ったらしい






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by sumus2013 | 2014-02-10 21:47 | 古書日録 | Comments(0)

偏類六書通

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篆刻字書の不備を嘆いたところ上掲のような字典類をお貸しくださった方がおられる。ゆっくり拝見させていただき今後の参考にしたいと思う。御礼申し上げます。

まずは上の写真では左から三番目、旧蔵者手製の帙に収められた『偏類六書通』(鴻寶堂、嘉永元年序)を紹介する。下の写真では茶色い表紙の二冊。右はその帙。

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これは二冊に七巻分が収められているが、早稲田大学には十冊本があるようだ。

偏類六書通. 巻1-7 / 古森厚孝 重修 
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ho04/ho04_00967/index.html

もともとのオリジナルは清の畢既明が清書して出版した『六書通』という書体字典である。『六書通』は漢字の分類が韻別になっているので日本人には使い勝手が良くなかったため(たぶん)、画数別の偏で分類した(要するに現代の漢和辞典にほぼ同じ)のがこの『偏類六書通』。

だからまず巻頭には畢既明による原典の序文があり、さらに淇齋慶徳佳包の天保八年(一八三七)の「重刻六書通序」があり、さらには鉄研学人斎藤謙(斎藤拙堂)による嘉永元年(一八四八)の「序」がついている。いずれもとりたててここで引用するほどのことは書かれていないようだ。

閲として見返しタイトル脇に名前が出ている小俣蠖庵(おまた・かくあん)は明和二年(一七六五)伊勢神宮の外宮、豊受宮の神楽職の家に生まれており、書画篆刻をよくした。篆刻は源惟良(みなもと・いりょう)に学んで一家を成したという。家運が衰え、一時は越後、信濃を遍歴した。そのおりに出雲崎に留まっていた釧雲泉(くしろ・うんせん)に書を学んだともいう。伊勢に戻って後は風雅を友とし、天保八年(一八三七)に歿している。

蠖庵が歿したと同じ天保八年の日付のある序文を執筆した淇齋慶徳佳包、さてこの人物が誰なのか、少し検索したくらいでは分らなかった。ただし慶徳(けいとく、荒木田)家は伊勢山田神職なので蠖庵と親しい者であったろう。また斎藤拙堂は言うまでもなく津藩のエリート儒者。「和洋折衷」を唱えたことで知られる。

問題は重修者(実際的にこの字書を編集した人物でしょう)となっている古森厚孝(こもり・あつたか)徳元、これが本書の編者として以外にはまったく検索にひっかからない。伊勢アカデミーの優秀な人材のひとりであったことは想像できるが、さてどういう人物か。乞御教示。

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ご覧のように本文も見やすく、当時としてはおそらくたいへん便利な字書だったに違いない。数多く版を重ね、現存数も多いようである。



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by sumus2013 | 2014-02-09 21:46 | 古書日録 | Comments(2)

番傘のスミカズ

久し振りのスミカズさん。『番傘』第六号(関西川柳社、一九一四年八月一二日)と第七号から宇崎純一の挿絵がある頁のコピーを頂戴した。これは有り難い。存在は知っていたが、現物はまだ見ていなかった。御礼申し上げます。大正三年あたりスミカズの仕事は脂ののった時期で、小さなカットにもピリッとしたところがあって好感がもてる。

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本文も見るともなく見ていると「京都」というお題が目に留まった。いくつか引いてみる。


  京極でお踏みやしたと言ひ募り   只英

  茄子歯が馬鹿に嬉しい京言葉    柳舟

  射る真似をして見る三十三間堂   卯木

  伯父さんの家には水車上京区    汀果

  そうどすかそうやおへんに乗過し  汀果

  先斗町行合ふ傘を上と下      當百

  彦九郎の座つた辺り牛の糞     當百


『番傘』は大阪の結社であり雑誌なのだが、彼らが京都へ吟行(と言うのかどうか知らないが)に来るとやはりその言葉の異様さがまず耳についたようである。茄子歯(なすびば)はお歯黒のこと。三十三間堂はまさに今でも中学生がやっていそうな光景。水車は上京区の小川(現在は埋められて小川通り地下の暗渠となっている)沿いに点在していたようである。乗過しは下車していいかどうかを電車に同乗していた娘たちに尋ねたということだろうか。先斗町の路は今も狭い。彦九郎は三条橋の東詰めに銅像が立って(座って)いるあたりをさすのだろうが、大正初めだと牛(牛のひく車)が普通に通っていたようだ。


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by sumus2013 | 2014-02-08 20:38 | 関西の出版社 | Comments(2)

これやこの

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久保田万太郎『これやこの』(日本叢書三六、生活社、一九四六年三月一五日)。戦争俳句ということで取り上げてみる。昭和十七年四月から昭和二十年十月までの間に作られたもののなかから選んだ二百七十句が収められている。久保田万太郎の戦時における生活ぶりがはっきり伝わってくる内容である。[ ]内は引用者註。

    山本五十六提督戦死[昭和十八年四月]の報到る
 みじか夜のあけゆく雲にうらみあり


  ふところにアルミの銭のかるき世や  東門居[永井龍男]
 前座なりけりふところ手して      甘亭[久保田万太郎]
  飛行機の幾編隊ぞ冬空に       澁亭[渋沢秀雄]


   上海所見[昭和十九年]
 焼けあとのまだそのまゝに師走かな


   中山陵にて
 警衛士凍てたる蝶のうごきけり


   横須賀
 水兵の連れだち来るや雪解風


   三月四日、非常措置令出づ、たまたま田中青沙と山口巴にて小酌
 ぜいたくは今夜かぎりの春炬燵


   耕一応召
 親一人子一人蛍光りけり


   十一月一日以降、来襲繁し
 国あげてたゝかふ冬に入りにけり
 柊の花や空襲警報下


   銀供出令出づ
 かんざしの目方はかるや年の暮


   空襲下、昭和二十年来る
 鬼の来ぬ間の羽子の音きこえけり


   五月二十四日早暁、空襲、わが家焼亡
 みじか夜の劫火の末にあけにけり


   旅中[七月末から八月にかけ日本文学報国会から派遣され折口信夫と二人で名古屋、静岡あたりを視察旅行]
 トラックにのり貨車にのり日の盛
   歌強ひらるゝ扇破れたり
 兵隊のゆくさきざきに屯して
   焚火ふみけす秋の早立チ


   終戦
 何もかもあつけらかんと西日中
 

   八月二十日、灯火管制解除
 涼しき灯すゞしけれども哀しき灯


   田園調布
 停車場の灯のあかるくて秋近し


   いまはむかし
 十三夜はやくも枯るゝ草のあり


この句が掉尾。次のような註が施されている。

《昭和通りから東中野まで行くのに、三丁ほど、焼けあとを通らなければならないのだが、その道に、ことしは露草の花がやたらに咲いた。いかにもその無心な感じが愉しかつた。が、間もなくその瑠璃いろの夢も消えて、またもとの、寂しい、あいそつけのない、あたじけないけしきになつた。》


もちろんここに引用したような戦争俳句ばかりで占められているわけではなく、一見のんきな俳句の方が多数なのだが、それでもやはりどこか戦時の気分をたたえているような気がするのは深読みか。以下いずれも昭和二十年春の作。

 夕空にたかだか映ゆる櫻かな

 木蓮のみえて隣のとほきかな

 落椿足のふみどのなかりけり

 花曇かるく一ぜん食べにけり

 風立ちてくるわりなさや春の暮







 



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by sumus2013 | 2014-02-07 21:08 | 古書日録 | Comments(2)

ぼくのおかしなおかしなステッキ生活

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坂崎重盛『ぼくのおかしなおかしなステッキ生活(求龍堂、二〇一四年二月六日)到着! ひょうたん、明治の石版画、粋人随筆、絵のある岩波文庫、居酒屋、そして何より失われつつある(失われた)東京……こだわりオブジェの数々、そしてそれぞれのテーマごとに単行本を出してしまう。なんとも羨ましい、いや、いや、これは坂崎さんの人徳というか行動力というか、結局は才能であろう。

本書も長年暖めてこられたステッキの魅力を惜しげもなく披露に及んだきわめて楽しい内容、そしていつもながらの軽妙な語り口。

《ところが、われら日本人は明治以降、近くは昭和戦前まで、青年・壮年もステッキを手にする流行があった。気ままな、オシャレな気分、あるいは自己演出の小道具として杖、ステッキが愛用された。
 「必要もないのにステッキを持つ? そんな邪魔くさい、馬鹿げたことを!」と今日の人なら、ほぼ百パーセント思うだろう。》

《しかし、くりかえすが、戦前までは、ときには二十代で、まだ世に出ぬ学生ですら、ステッキを携さえている。今日の常識からは信じがたいことだ。
 ぼくも、それを知ったときは正直、びっくりした。そして興味を持った。また新旧、種々雑多なステッキと、さらには、ステッキが描かれた図版や文章を集めてみようと思い立った。》

《などと、殊勝めいたことを言っているが、ぼくは、なにより妙なステッキをコレクションすることと、その周辺の情報、とくに文芸の一節や世相漫画で描かれたステッキ画を見つけては、一つ一つファイルするのが楽しくて仕方がないのである。
 すたれた物、さびれた場所、消えつつある事柄に対する肩入れは、ぼくの宿痾であり、また、それこそがぼくが生きている主な理由、と自分では思っている人間なのだから仕方がない。》

と、どうです、この態度、これは「思想」と言っていい。同じ性癖をもつものとしてはまったく同感する。ただし小生にはそれを本にして刊行するだけのガッツ(いや、やはり人徳と言うべきだろうか、結局は才能か……)がないだけだ(トホホ)。だからいよいよこういう本には目がないのである。

ステッキそのもの、ブツについてもフリーメイソンのマーク付きだとか、仕込み杖だとか、種々様々なステッキの紹介を楽しめる。これも一楽。


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さらに文化史的な側面として漫画資料がふんだんに引用されている。これは坂崎本に共通する最大の特徴でもある。これが一楽。下は「ステッキ・ガール」の実在についての一頁。


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こういう本を読む・見ると、そういえば、あそこにステッキが出ていたな、などと思いつくことがある。それもまた一楽。

こちら、サルヴァドール・ダリ「テーブルとして用いられうる、フェルメール・ド・デルフトの亡霊」(一九三四年)。正確にはステッキじゃないが、この「支え棒」は数限りなくダリの絵画に登場している。ダリの代表的なオブセッションのひとつ。やっぱりステッキだろう……フロイト的に解釈すれば……。


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次も同じくダリ。「ホメロス礼賛」(一九四五年、アングルの同名作品のダリ的解釈)。これはまず間違いなくステッキでしょう。右の裸婦のすぐ上に。


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というような訳で、今後は戦前の風俗漫画だけではなく、東西の絵画を見る時にもそこにステッキが登場していないかどうか注意しておくことになりそうだ。モノ好きにおすすめの一冊なり。


坂崎重盛さんの新著『粋人粋筆探訪』
http://sumus.exblog.jp/20345333/

坂崎重盛とは?
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坂崎重盛『「絵のある」岩波文庫への招待』
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坂崎重盛『東京読書ー少々造園的心情による』
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坂崎重盛翁の新著『神保町「二階世界」巡り及ビ其ノ他』
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by sumus2013 | 2014-02-06 21:22 | おすすめ本棚 | Comments(2)

戦争俳句と俳人たち

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樽見博『戦争俳句と俳人たち(トランスビュー、二〇一四年二月五日、装幀=間村俊一)。カバーの古本たちが如実に示すように『日本古書通信』の編集長である樽見さんならではの労作。目次などについては下記サイトをご覧頂きたい。

版元ドットコム 戦争俳句と俳人たち

詳しい内容を紹介するほどの近代俳句に対する知識も情熱も持ち合わさないのだが、俳句であろうと何であろうと、表現形式にかかわらず、戦時において表現者がいかなる態度を取るか(または取ったか)には興味を抱かざるを得ない。

まず戦争俳句とはどんなものか? 論より証拠、本書で引用されている多数の戦争俳句のなかからいくつか拾って並べてみる。


  悉く地べたに膝を抱けり捕虜    三鬼

  機関銃熱キ蛇腹ヲ震ハスル     三鬼

  霜解けず遺影軍帽の庇深く     草田男

  我を撃つ敵と劫暑を倶にせる  片山桃史

  やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ  赤黄男

  秋風のまんなかにある蒼い弾痕      赤黄男

  ふるさとの氷柱太しやまたいつ見む  安東次男

  靴に充つる冬の足指吾は兵たり    金子兜太

  霜柱この土をわが墳墓とす      楸邨

  ついに戦死一匹の蟻ゆけどゆけど   楸邨

  火の中に死なざりしかば野分満つ   楸邨

  母偲び戦ふ国の桃咲けり       金吾

  人を殺せし馬の顔しづかなり厩    一石路

  寒天に首打落すにぶき音     岩橋二合瓶


本書にはまだまだ多く(といっても全体数からすればほんの氷山の一角にも値しないであろうが)戦争俳句が引用されていて、その容態がどのようであったかおおよそ想像がつくようになっている。これが貴重である。実際に戦闘に参加した若者(桃史、次男、兜太ら)の作もあり、銃後の作もあり、空想で作ったものあり、実にさまざまだが、文字数が少ないだけに優劣がはっきり出てしまっているように思う。また反戦的なものは基本的には作れない(発表できない)ということもある。それらを考慮しても、正直、思ったより佳作が多いのは意外だった。

「あとがき」がいい。

《本書の執筆を始めて八年になる。いつの頃からか、表現に携わる人たちの戦中から終戦直後へかけての生き方に興味を持つようになった。以前から、新しい本よりも、時代や人の手を経てきた古本、マニアが収集の対象とするような稀少な本ではなくて、粗末だけれども著者の思いがこもったような文字通りの古本や古雑誌が好きで、目に付き次第さまざまな分野の古本を買い集めてきた。買い続けているうちに自然と、戦中から終戦後にかけての文献に集中するようになった。

 これは振り返って見ると、私の仕事である「日本古書通信」編集の中で知り合った近代文学研究の高橋新太郎さんや保昌正夫さんの影響が大きい。お二人ともすでに故人となられて久しいが、共に研究の核に、敗戦後、文学者や研究者が、戦争期の言動をどのように反省し、再出発をとけたかという視点をお持ちだった。しかも、その検証の重点を資料の収集におかれていた。》

なるほど、そういうことならこの書物の動機も公平を期そうとする視点もうなずける。

《本書のテーマである戦中、終戦直後の俳句関係資料は、注意していれば多くを集めることができる。人の記憶や回想には何がしかの編集が加味されるが、資料は誤りはあるが、嘘をつかない。本書はその収集資料の記録のようなものだ。》

「資料は嘘をつかない」……敏腕弁護士が吐きそうな名セリフではないか。

個人的に収穫と思ったページはこちら。荻原井泉水『俳句する心』(子文書房、一九四一年)の引用部分。コンクリート・ハイク。

《大正末から昭和初期のアヴァンギャルド芸術であった「マヴォ」の影響であろうか。俳句の未来派的な「試み」が示されている。「活字は必ずしも縦にのみ用ふべしといふ規則もないのだから、どういふ風に用ひても最も有効に用ひた方がよろしい」と書くなど、井泉水の柔軟な考え方がわかる。その文中にある、「層雲」掲載の作品を、井泉水が未来派風に書き換えた例を次頁に示してみよう。

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他に高柳重信が戦後発表した奇抜に文字を配列した俳句も紹介されている。重信の師匠は富澤赤黄男で、赤黄男には吉岡実も多大な影響を受けた。


  一木の絶望の木に月のあがるや      赤黄男


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by sumus2013 | 2014-02-05 20:42 | おすすめ本棚 | Comments(2)

数学三千題のうつし絵

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尾関正求『再版数学三千題巻之中(三浦源助、一八八二年九月二〇日再板)。明治十五年。数学の練習問題集。岐阜県の版元である。

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三浦源助は天保二年生まれ。岐阜で出版書肆・成美堂を始め、明治十九年には東京に支店を出した。そのとき東京支店を任されたのが河出静一郎である。おそらく暖簾分けのような形で河出が譲り受けたのだろう、その後は成美堂・河出書房の商号を用いていたが、昭和八年より河出書房とした(この店名については鈴木徹造『出版人物事典』に拠った。ただし昭和八年以降でも「成美堂書店」のみ奥付に記す書物もある。一例は『現代教育学大系』一九三六年)。尾関正求『数学三千題』も初期河出書房の代表的出版物となったようだ。

とまあ、書誌的な事実も興味深いものがあった(というのは今検索して初めて分ったわけです)ものの、この本を求めた本当の理由は、裏表紙に珍しいシールが貼られていたからである。

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紫の表紙に貼られているので尚更なのかもしれないが、なんとも味わい深いこれらの移し絵はおそらく明治時代も終り頃の舶来品ではないかと思われる。あれこれ画像検索してみたが、同じようなものは見つからなかった。ひょっとして貴重な作例?

移し絵写し絵とも書く。ただし写し絵[映し絵]と言えば、明治時代では幻燈のことだった。また英語、フランス語では「decal」で通じるようだ(décalcomanie の略だろう)。

懐かしの昭和写し絵
http://paradrill.exblog.jp/11884646/



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by sumus2013 | 2014-02-04 20:30 | 古書日録 | Comments(0)