林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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季刊ブックレヴュー

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以前の『ソムニウム』に関する投稿をご覧になられた方よりエディシオン・アルシーブの雑誌『季刊ブックレヴュー』二冊が送られて来た。しばらく借覧させていただく。

ソムニウムNo.2 No.3
http://sumus.exblog.jp/21161543/

ソムニウムNo.4
http://sumus.exblog.jp/20952531/

創刊号の戸田ツトムのデザインが気に入って池袋西武の「ぽえむ・ぱろうる」で求められたのだそうだ。《詩書を始めとしたマイナーな本との出会いであり、ジャケ買いとも言える本の購入傾向を決めたように思います。》とのこと。

まずは『季刊ブックレヴュー創刊号』(エディシオン・アルシーブ=京都市左京区一乗寺東水干町28 メゾンきしな309、一九八一年八月一六日)。誌名は奥付の表記に従う(表紙では「ブック・レビュー」と中黒が付いている)。ブックデザインは戸田ツトム。エディトリアル・ディレクションは後藤繁雄。オビ付き!

巻頭には「パブリッシュ・イメージ」という創刊の辞が置かれており、かなり意欲的な意見が開陳されている。

《一つのメディアは、読者、書店、取次、版元、印刷屋、著者の総体のインターチェンジである。一冊の本の中にもそれらの各現場のリアリティがすみこんでいるのだ。営業こそが思想をこえたり、レイアウトがあらゆるアートをこえたりするそんなメディアでありたいと思っている。編集内容(テーマ)だけでなく、現場そのものをエディトリアルしていくメディアにしていくつもりだ。『ブック・レヴュー』です。よろしく。(エディシォン・アルシーブ編集部)》

あるいはこんなきわめて今日の変革的な状況に通じると思われる言葉もある。

《今こそ野武士的エディトリアル・スピリットを持った野武士的編集者の登場こそが望まれる。今、地域性や経済構造を変革しうるのは、一見あたり前のことのようだが編集者の熱い魂と自在な方法なのだ。》

記事のなかで注目はこちら「愛書狂1=愛書狂ダンディズム 神戸南柯書局 渡邊一考」というインタビュー。聞き手は編集部藤木薫。

《神戸、新開地の山手、通りの傾斜によって家々が重なり合うかのように見える一角に南柯書局はある。かつて、知る人ぞ知る「水曜会」なる饗宴が夜を明かして開かれた書局の二階は、書棚が鋭角をかたちづくって向かい合い、三角形とも五角形とも見分けのつかぬ変則的な天井が眼を遊ばせる。万巻の書が薄銀色に鈍く光るその部屋に、編集部は南柯書局主人渡邊一考氏を訪ねた。


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談話の内容は忘れられた作家について。まず京都の山田一夫から始まり、野溝七生子、泉鏡花の「黒猫」、そして郡虎彦のダンディズムへなだれ込むが、話はここでプツリと途切れているのがまったくもって惜しい。

巻末には「書架東西」として東京四谷・文鳥堂木戸幹夫、京都三月書房の宍戸恭一の談話(?)が掲載されていて注意を惹かれた。宍戸さんの発言はこちら(読めないでしょうか……)。

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そして第二号、特集[店]から[見世]へ。発行は創刊からちょうど一年後の一八[ママ]八二年八月二五日である。オビがあるように見えるが、これはオビではなく表紙に印刷されている。表紙、裏表紙、特集記事の一部(七彩工芸のマネキン)。

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記事のなかではソルボンヌ留学中の田中義廣(ベアリュ『水蜘蛛』の翻訳者)が「本のスーパーマーケット」と題してフランスの書店事情を報告してくれているのが参考になる。

一九七三年に書籍小売業界にFNACが進出し《二割引を売り物に、セルフサーヴィス式のいわば本のスーパーマーケットを開いた》ことによってすでに自由価格制(一九五三年以来)をとっていたフランスの書籍流通に大きな混乱が生じた。

一九七九年には、それまでの定価(出版社希望小売価格)表示が法律によって禁止され、本から定価が消えた。それを受けて一九八一年五月シャン・ゼリゼのグラン・パレで第一回「本のサロン」が開かれた。フランスの七百あまりの出版社が一堂に出店し展示即売をしたのだ。その際、FNACに対抗して購入価格の二割相当の図書券を買手に配ったという。これに反対してミニュイ社とスーイユ社は参加を拒否した。

この混乱状態を見かねた新大統領ミッテランは固定価格を復活させ一九八一[ママ、二]年一月から実施されることになった。《さて、これが単にFNACの本の値上げという結果のみに終わるのか、それとも読者を含めた出版界全体に好影響をもたらすものとなるか、今のところ予測はつかない。》

少し補足すると七九年の法令は当時の経済大臣モノリー(René Monory) の名前から「モノリー布告」と呼ばれた。それに対する反動、八二年の書籍再販制度では定価表示、5%までの割引許可、初版後二年を過ぎかつ最終仕入れから六ヶ月を経た書籍の自由価格販売(時限再販)、公共機関などに対する定価の適用除外などが決められ今日にいたるようだ。

他には愛書狂2として白川静インタビューもある。それから『ソムニウム』No.5「ニュー・ロマンティック」ノヴァーリスの鉱物精神から近代霊学まで、という近刊広告が出ている。

また興味深い予告についての「お詫び」ある。

《ブック・レヴュー2号予告において、長らく富士正晴氏のエディターズ・ノート、濱坂渉氏のイタリアのメディア(メディアの解剖)の掲載の旨をお伝えして参りましたが、編集部内の全く一方的な事情により、今回掲載を延期させて頂くことになりました。富士氏、濱坂氏、読者のみなさまにご迷惑をおかけ致しましたことを、ここに深くお詫び申し上げます。

富士正晴の「エディターズ・ノート」、読んでみたかった。


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by sumus2013 | 2014-02-20 21:24 | 関西の出版社 | Comments(2)

漢字雑話

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銅牛樋口勇夫『漢字雑話』(郁文舎、吉岡宝文館、一九一四年八月一日四版)。題字は説文学の研究で知られた高田忠周だそうだ(雑が襍としてある)。

樋口勇夫(ひぐちたけお)は筑後久留米藩の漢学の家に生まれ、銅牛、得川、東涯などと号した。伯父に樋口和堂。鹿児島県立二中で教鞭を執った後、九州日報記者、さらに明治四十一年に東京朝日新聞社会部に入っている。中塚一碧楼とともに朝日俳壇の選者をつとめた。本書(初版は明治四十三)は朝日紙上に連載した同名の読物をまとめた著作のようである。大正元年退社後、早稲田大学、国学院大学、法政大学等で講師を勤めた。著書はざっと調べたところ以下のごとし。

俳諧新研究 隆文館 1909 
漢字雑話 郁文館 1910 
俳諧阪に車 楽山堂 1910
新釈江戸繁昌記(編) 百華書房 1911
碑碣法帖談 玄黄社 1912
七十二候印存 明治印学会 1912
孫過庭書譜衍釈 晩翠社 1924
古碑釈文 10冊 晩翠軒 1925〜27
訳註文字の変遷 晩翠軒 1928
碑帖之研究 雄山閣 1930
晋唐名法帖 雄山閣 1931
書論及書法 雄山閣 1931
淳化閣帖―袖珍 10巻釈文1巻 西東書房 (1951)
学書邇言疏釈  西東書房 1948

漢字、とくに『説文解字』をはじめとする古代文字の研究に力を入れ、また書家としても知られていたという。本書でも漢字の形を分析的に解釈しようと試みている。ただし、今日、白川静の研究を知っている目からすれば、まだまだ憶説のそしりをまぬがれない部分も多々あるようだ。むろんそれでも漢字を成り立ちから論理的、造形的に解釈しようとした努力には敬意を払っていいだろう。

序文は内藤湖南が執筆している。

《樋口銅牛君余未だ其人を識らず。聞く其小学に精しく、東京朝日新聞に連載せし漢字雑話は君が筆に出づと。頃ろ其筆する所を蒐録して梓行せむとし、余が序を求めらる。余固より小学を専考する者に非ず。君が書を読むと雖も、而も其緒論に於て未だ通ざざる所多し。》

と書き出して、この後、中国では漢字の研究は字形ではやらないんだ、転注・仮借・訓詁を重んじている。金石文など資料がほとんどないし、その上、わが国の学者は中国の音韻に通じていないから形だけからトンチンカンな解釈を施しており、ろくな研究はない。説文家に感心しない理由はそこにあるんだよ……などと続けるのだが、これでは序文にならないとみて、最後は「大いに著者に期待します」ということで締めている。

《若能く方針を誤らずして而して発憤鼓励するあらば庶幾くは我邦小学の開拓に於て大功あるを得むか。余君を識らず又小学に通ぜずと雖も君に望む所甚だ厚からざるを得ず。此を序と為す。/明治四十三年九月四日竹島丸船中にて/内藤虎次郎

面白いのはこの序文の直後に著者の反論が印刷してあることだ。よほど湖南の文章が腹に据えかねたと見える。

銅牛曰く。余の湖南君に序を嘱せしは東西両帝国大学の博士教授中金石文字の学に精しき者独り君あるを以てなりき。然るに今此序文を読むに、君は金石の学には通じながら、小学には余り深からざる者の如し。夫れ声韻を離れて字形の説くべからざるは豈君の弁ずるを待たむや。然れども重きを転注、仮借に措きて指事、象形を顧みざらむは、本を措きて末に走り、形を捨てゝ影を逐ふものならざらむや。

銅牛君、少々ミーハーすぎたと後悔したか。しかしこの反駁は正しいと思う。湖南の方法では漢字成立の本質には迫りようがないだろう。銅牛君、さらにこう啖呵を切っている。

《抑々君と孰れか先甲子なるを知らず。而も君今余を目して後進とす。余甘んじて後進の目を受けむ。然れども余は爰に明言す。銅牛は大学ポット出の吻黄なる文学士輩とは稍其撰を異にする者也と。》

おやおや、いくらなんでもこれは大人げない。忙しいなか船中から投稿してくれたというのに(竹島丸は日本郵船に明治三十八年から昭和二年まで所属していた貨客船)。実は内藤湖南は慶応二年生まれ。銅牛は慶応元年生まれ。そう、湖南より一歳(正確には八ヶ月ほど)年長だった。「後進」という言葉は使われていないが、書きぶりにそういう調子がまじっていると感じたのだろう。年下のくせに。カチンときた。

それは分るが、湖南も決してエリートの道を歩いた訳ではなかった。秋田師範学校を出て小学校の訓導をやっていたこともあり、さらに新聞記者に転身して大阪朝日新聞に入社しているというのも銅牛と似たコースである。京都帝国大学の講師となったのは明治四十年。おそらくだからこそ銅牛も序文を依頼する気持ちになったのだろう。

独学者はガンコだとアーヴィングが『熊を放つ』に書いていたような気もするが、まさにガンコとガンコがガチンコしたような序文と反序文である。

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by sumus2013 | 2014-02-19 21:59 | 古書日録 | Comments(2)

吉本隆明と沖縄

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『脈』79号(脈発行所=那覇市曙3-20-1、二〇一四年二月一〇日)を頂戴した。御礼申し上げます。特集「吉本隆明と沖縄」。この号から比嘉加津夫個人誌『Myaku』と同人誌『脈』というふたつの雑誌が合併したそうだ。後書きにこうあってオヤと思う。

《さて、今回の特集だが、多くの方の協力を得た。まずは三月書房の宍戸さんだ。「吉本隆明と沖縄」をテーマにすべきだと意見したのも彼であった。》

宍戸さんお元気のようで何より。記事のなかでは比嘉氏の論考「吉本隆明にとっての沖縄 南島論と共同幻想論から」が吉本と沖縄の接触を分かり易く説明してくれており参考になった。例えば、沖縄復帰以前の論考「異族の論理」(一九六九年)をめぐって。

《一般の「復帰」派でも、おおまかに言うと、何が何でも復帰という考えと、施政権のみならず基地も返還し平和を取り戻すための復帰という考えに分かれていた。
 同様に「反復帰」派も、復帰したら芋と裸足の時代に戻るだけだから駄目だという考えと、この際だから独立すべきだという考えと、日本帝国主義化の目論見に利用されるだけだという考えに分かれていた。
 そのようなとき、吉本の「異族の論理」が出てきたのである。吉本は次のような見解を述べた。

  わたしたちは、琉球・沖縄の存在理由を、弥生式文化の成立以前の縄文的、あるいはそれ以前の古層をあらゆる意味で保存しているというところにもとめたいとかんがえてきた。そしてこれが可能なことが立証されれば、弥生式文化=稲作農耕社会=その支配者としての天皇(制)勢力=その支配する〈国家〉としての統一部族国家、といって本土の天皇制国家の優位性を誇示するのに役立ってきた連鎖的な等式を、寸断することができるとみなしてきたのである。いうまでもなく、このことは弥生式文化の成立期から古墳時代にかけて、統一的な部族国家を成立させた大和王権を中心とした本土の歴史を、琉球・沖縄の存在の重みによって相対化することを意味する。

要するに沖縄には本土より古い制度が残っている、それを掘り起こし、天皇制の意味を問えということだ(そして天皇制という問題から人類史的な普遍へ至るという道筋を吉本は考えていた)。ちょうどこのくだりを読んだすぐ後で新聞を広げると「沖縄で旧石器時代の貝類 国内初出土」という記事が出ていた。そこには石灰岩質の沖縄地域は酸性土壌の本土に比べて骨の残りがよく、本土にほとんどない旧石器時代の人骨が複数確認されているが、使われたはずの道具が見つからないという不思議な状態が続いていた。今回の発見はそれを埋める成果で云々》ともあって、なるほど文字通り日本最古層をとどめているのが沖縄なのだと思ったしだい。

そしてまた、その次の日だったか、何気もなく『近世名家小品文鈔』中(土屋榮編、大字三版、刊記はないが、検索すると明治十二年のようだ)をめくっていると「蹲鴟子伝 頼山陽」というタイトル、そして出だしの《蹲鴟子者琉球人也。姓甘人名藷。其先人曰芋氏。》が目についた。オヤオヤまたもや沖縄だ。


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蹲鴟子伝というのでてっきり人物伝かと思いきや、書き出しを落ち着いて読み直せば分る通り、琉球特産の蹲鴟(そんし)すなわち里芋(【さといも】「食物本草歳時記」参照)を琉球の傑出した人物として擬人化し、あまりに優秀なため日本本土へ招かれて全国いたるところにその弟子(子芋)をつくった……というふうに語っているのだった。

検索してみると、この本の他に明治二十五、六年頃の中等漢文教科書にも取り上げられており、その教科書で習った人達(ご存命なら百〜百二十歳ほどの方々)にはよく知られていた戯文だったかもしれない。仮に上記引用に出てきた《芋と裸足の時代》が山陽のイメージした琉球にあたるとしても、山陽はこのとのほか蹲鴟を愛したようだ。

《野史氏曰。吾少游六芸之圃。與其秀英之士交。独好蹲鴟子子弟。愛其実而不華。重厚而能済人。交愈熟而其言愈可味吁。蹲鴟子之才。而為人所賤。天也邪。江戸有孔陽氏者。與予同其好。来請予曰。掲埋彰没。史家之事也。予蓋記蹲鴟子之事。規世之耳食者。予於是乎。作蹲鴟子伝。

愛其実而不華」と言っているが、カラーに似た花もなかなか美麗である。
http://senpai3330.blog41.fc2.com/blog-entry-1206.html

『脈』次号は川崎彰彦特集とか。これは楽しみだ。


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by sumus2013 | 2014-02-18 21:03 | おすすめ本棚 | Comments(0)

松浦琴鶴

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先日、松浦琹鶴訂正篆書字引』を紹介したが、この人物が気になったのでもう少しだけ掘り下げて調べてみた。たしか方角の本を持っていたはずだと思い、封印していた和本箱を開いてみたところ、案の定パンドラ状態を呈してシマッタとほぞを噛んだものの、それでもまだ完全にもうろくしたわけではないようで、目当ての『三元秘用方鑒図解(はうかんづかい)』巻之五(刊記はないが、天保八年刊のようだ、五冊)がたしかに櫃底から現れた。


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『日本人名大事典』(平凡社、一九七九年覆刻版、元版は一九三八年)にはこう出ている(一部を除き旧漢字は改めた)。

《マツウラキンカク 松浦琴鶴 徳川中期の易占家。大阪の人。東雞の男。名前は純逸、号は琴鶴、観濤閣。家学を父に受け、観相をもつてその名大いに著はる。天保頃の人。[著書は略す](大阪人物誌)》

付け加えるなら息子に逸成と逸順があったことが本書冒頭の記述で分る。また父親の松浦東雞も立項されていた。

《マツウラトーケイ 徳川中期の易占家。名は久信。長門掾と称し、東雞と号す。文政の頃大阪に住す。瓦屋橋の東に住し、地理風水方位などの諸学に精通し、易の名家と称せられる。男に琴鶴あり。著書に家相図解、家相図説大全がある。(続大阪人物誌)

実は東雞(東鶏とも)にはもう一人の息子國祐があった國祐は『平安人物志』の文政五年版と文政十三年版に登場しており、その内容はおおよそ以下の通り。(『平安人物志』HPより)

松浦国祐 文雅家。字は子徳。星洲又は泉隣居、又は風水園と号した。通称松浦肥後掾。大阪瓦屋橋東の宅相家、松浦長門掾の嫡子。京に出て三条室町西に住み相宅をこととし、家相図説大全、吉方一覧。風水園筆草、和歌独草、吉野山水図説等の著がある。文化十年加茂季鷹六十賀宴歌集に祝歌を寄せている。

肥後と言い、長門と言い、これは北九州一帯で古代から勢力を保っていた松浦(まつら、まつうら)一族に列するのであろう(といっても系統は多岐にわたるが)。そうすると大陸との関係も深かったわけだから比較的容易に中国の新しい易占術や方位学の知識に触れることができた、かもしれない。

琹鶴と琴鶴が同一人物だとして、ではいったいどうして篆字の字典の著者に名を連ねているのか……残念ながら、この点についてはもう少し何か確かなエヴィデンスが出て来ないと判断のしようがないです。

なお松浦琴鶴の直系という松浦長生館なる鑑定所が現在も京都市下京区高倉通四条下ルで営業しておられる。ただ、どういう理由からか琴鶴を初代としているのが不思議と言えば言えなくもない。

ともかく琴鶴の著書を重版も含めて列挙してみる。上記『三元秘用方鑒図解』をちょっと読んでみたところなかなか文章も上手で実例を挙げて分かり易く書かれているのに感心した。幕末から大正にかけての隠れたベストセラー作家だったと言えるかもしれない。


方鑑口訣書 松浦観涛閣 天保3 1832

地理風水家相一覧 2冊 銭屋惣四郎他 天保4年 1833
地理風水家相一覧(全) 弘業舘 明治27年

方鑑辨説 天保5年 1834
方鑑辨説 全 小林米造 明17年
神殺撰要 方鑒弁説(全) 文陽堂 明治38年

方鑑類要 7冊 観涛閣蔵板 天保5年 1834

地理風水家相一覧 2冊 井筒屋・河内屋他 天保5年 1834
地理風水家相一覧(全) 弘業舘 明治40年
地理風水家相一覧(全) 弘業舘 大正2年

家相一覧・家相大全 5冊 松浦久信 井筒屋・河内屋他 天保5年 1834

三元年月本命的殺即鑑 観濤閣蔵版 銭屋惣四郎他 天保6年 1835

三元秘用方鑒図解 5冊 観寿閣蔵版 天保8年 1837
三元秘用方鑒図解 3冊 明治24年

家相秘伝集 2冊 観濤閣蔵版 天保11年序 1840
家相秘伝集 2冊 誠之堂 明治21年
家相秘伝集 2冊 光世館 明治26年
家相秘伝集 文陽堂蔵版・岡本仙助 明27年
家相秘傳集 文陽堂蔵版、靑木嵩山堂 明治36年
家相秘伝集(全) 文陽堂 大正2年 
家相秘伝集 発売=布袋屋書店 大正9年

方鑑秘伝集 2冊 河内屋他板 天保11年 1840
方鑑秘伝集 2冊 観濤閣蔵版 北畠茂兵衛 天保12年 1841
方鑑秘伝集 2冊 明治21年
方鑒秘伝集 2冊 文盛堂 明治23年
方鑒秘伝集(全) 文陽堂 大正1年

方鑑家相経験精義 全 天保13序 1842

三元九星吉方図解 明17年

増訂医道便易 明27年 

九星図説日要精義大成 乾坤揃2冊 浪華/観濤閣蔵梓 東京/北畠茂兵衛・出雲寺萬次郎ほか 明治27年

新増補正陰陽方位便覧 3冊 白井為賀先生纂輯 松浦琴鶴先生増輯 井澤駒吉 明治27年1月15日 1894
新増補正陰陽方位便覧 2冊 白井為賀纂 松浦琴鶴増輯 月窓書屋 明治33年
新増補正陰陽方位便覧(全) 白井為賀・松浦琴鶴増輯 鴨書店 昭40年


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by sumus2013 | 2014-02-17 21:33 | 関西の出版社 | Comments(0)

高橋輝次氏「私の日本語辞典」に出演

告知が遅くなってしまったが、高橋輝次さんがNHKラジオ第二放送の「私の日本語辞典」に出演されておられる。放送は毎週土曜日。22日が4回目の最終回だが、午後3時10分から第3回の再放送があり、4回目は午後9時より。PCでも聴けます。


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by sumus2013 | 2014-02-17 09:05 | もよおしいろいろ | Comments(2)

ささありき

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いつも珍資料を恵投くださる某氏より、先日も不思議な本が届いた。『ささありき 池袋西口の十九年』(「ささありき」刊行会、一九八四年八月三〇日)。カウンター八席ばかりの小さな飲屋「ささ」が立ち退きのため閉店することになり出版やマスコミ関係のひいきが多かったため、有志の努力でこの本が出来たということらしい。先日紹介した『大坊珈琲店』と同じように、多数の常連客、および主人の回想から成っている。

店は池袋駅西側、北口から北へ少し歩いたところで、地図を見ていると、これはひょっとして先日みちくさトークの打ち上げで案内された東京中華街とほぼ同じ地区ではないか(東京中華街は下の地図でトルコ金瓶梅としてある辺り)。当時の住所は豊島区池袋2-896。グーグルマップで見ると、どうやら現在のアパホテル池袋駅北口が建っている敷地内になるようだ。

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本だけならどうとういうことはない。ところが上の写真のように私信および写真が何枚も挟み込まれていた。恵投下さった某氏の手紙にはこうあった。

《荻窪ささま書店の100円均一で得ました。この区画整理については記憶があって、あちこち更地になった中を歩いて行ったこともあるのですが、この店にはまったく無縁でした。》

《旧所有者(税理士のようですね)宛のハガキ類と一緒に挟み込まれていた写真に写っている短髪の太りじしの人物は、むかしテレビなどでみたことのある悪役系?の俳優さんではないかと思うのですが、わからないのです。》


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俳優さんは写真向かって右の方。たしかに昔よく映画やテレビに出ていた人だ。名前が……分る方、お教えください。左の方がこの本の旧蔵者で「ささ」について一文を寄稿してもいる。

「ささ」は不思議な店である。
 僕が「ささ」を知ってから大分たつが、いまだにそう思っている。
「ささ」に寄ろうかな、と思うと必ず今日はどんな顔ぶれだろうかと思いをめぐらしてしまう。来店する人達が「ささ」の魅力あるメニュー(失礼!!)なのだ。ママというすばらしい指揮者のもとで、今日のメニューが、いや、楽団員が、どんな音色をだすのかが楽しみなのである。

この方の名前で検索してみると二〇一三年夏に亡くなられている。住所は杉並区下井草。ささま書店へ蔵書が処分されたのも頷ける。

挟んであった手紙(二〇〇一年一月)や年賀状(一九九七、九八、九九、〇八)はすべて「ささ」のママだった関マサから来たもの。年賀状に「九八年で八十才になります」とあるのでご存命なら九十六歳……。

常連客、寄稿者で小生が知っている名前を拾うと、山折哲雄、ワシオ・トシヒコ、鎗田清太郎、長谷川龍生、野見山暁治くらいだが、肩書きを見ると錚々たるメンバーだったということが分る。野見山はこう書いている。

《むかし、セザンヌに影響された中村彝という画家が、老婆の像を描いている。白髪をうしろで結んで細く柔らかい体に、背後の空間がのしかかった、少し淋しいあの絵が、はじめ「ささ」のおばさんだと思い込んだ。
 それから一年近くたって、やはり幸人さんと店に行ってみて、そんな年のひとではないことに気付きどぎまぎした。オバァさんの店があったよと誰彼に話していたからだ。
 どうしてそう思い込んていたものだろう。懐かしいような舌ざわりのものが小皿にのかって、知らぬまに置かれている。手狭な小屋のなかで、いったいどこから出てくるのだろう。あたりを取りまく暗い天空から、白い指が舞いおりてくるような塩梅なんだ。
 この慕わしさは老いた母の手のようでもあるし、初恋のひとのようでもある。どうして途中がないのだろう。ともかく現(うつ)し身の匂いがないんだな。だから彝の絵のなかに閉じこめてしまっていたのだろう。》

老婆の像というのは「老母像」(一九二四)。彝の世話をしていた岡崎キイを描いた最晩年の作である。




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by sumus2013 | 2014-02-16 20:55 | 古書日録 | Comments(2)

十七歳にもなれば

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『OEVRES DE ARTHUR RIMBAUD』(MERCURE DE FRANCE、1952)。ランボー詩集。ソチでの十代の若者たちの活躍を見ていて、ふとランボーの「ROMAN 小説」という詩を思い出した。


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 十七歳にもなれば、真面目なんかじゃいられない
 ーー美しい晩には、ビールの小ジョッキもレモネードも
 シャンデリア輝く騒々しいカフェも糞くらえ!
 ーー散歩道の緑の菩提樹の下を行くんだから。

 六月の素敵な晩には、菩提樹はいい匂いがするよ!
 時おり大気は甘く、瞼を閉じてしまうほど。
 ざわめきに満ちた風は、ーー街は遠くはないんだ、ーー
 葡萄の香りとビールの香りがする…

最初の二連のみ引用した、これは鈴木創士訳。他にもいろいろな訳があるが、例えば『ランボオ全集 I』(人文書院、一九五三年重版)の村上菊一郎訳。

 十七歳、堅気でばかりをられませぬ。
 ーー或る宵のこと、シャンデリヤまばゆく輝く
 騒々しいカフェの、ビールやレモナードなど可笑しくつて!
 ーー出かける先は遊歩道の菩提樹の青葉蔭。

 愉しい六月の宵々に菩提樹のよく匂ふこと!
 大気は時々甘いので瞼がとろりと合はさります。
 物の響を乗せた夜風は、ーー市街(まち)はここから程近い、ーー
 ちやんと葡萄の薫りやらビールの薫りを含んでゐます……

たしかに少々時代がかっておりまする。次は『ランボー詩集』(新潮文庫、一九八八年五八刷)の堀口大学訳。

 十七歳、まだ分別にやや欠ける。
 或る宵のこと、ーービールやサイダー、
 シャンデリヤまばゆいカフェの騒音を遠くのがれて!ーー
 遊歩道の緑なす菩提樹のかげへと出向く。

 菩提樹はよい香(か)を立てる、六月の、ああ、この良夜
 あまりにも大気の甘く、われ知らず瞼をとざす。
 さして遠くはないらしい街(まち)のもの音運びくる
 風に葡萄とビールの匂い。

例によってフライング気味の訳で(サイダー!)、原文と対照しながら読むと、拍子抜けしてしまうほどである。ただし、たしかに日本語としての調子は悪くないのも素直に認めよう。

鈴木訳はまさに現在語訳。他の二人と意味の上で大きく違うのが、まず第一連四行目の「菩提樹の下を行く」。斎藤、堀口ともに下へ行くの意味に取っている。下へ行くのか下を行くのか。On va sous les tilleuls。

もうひとつは斎藤、堀口が無視した小ジョッキ(bock)とビール(bière)を区別していること。これは当たり前でしょうね。なお最近は「アン・ボック」と言わず「アン・ドゥミ」と言うそうだ(「生中!」という感じです)。

個人的にひっかかったのはタイトルの「小説」(三者とも同じ)と二連目最後の行の「葡萄の薫り」。ロマンは長編小説を意味するので、日本語の「小説」から感じられる意味内容とは少し違っているようにも思う。ではどうするかと問われても分らないです。

もうひとつ、vigne は「葡萄」ではなく「葡萄畑」ではないかという疑問。六月の葡萄はまだ緑、果実が香るというわけではなかろう。そう言う意味では菩提樹の香りと対になっている。まあ、日本語では樹木と果実の区別が曖昧だから葡萄でもいいや、とも言える。

十七歳になるとと書いているにもかかわらず、じつはこの作品の自筆原稿には「23 septembre 70.」(一八七〇年九月二三日)という日付が入っている(Marcel Ruff の『Arthur RIMBAUD POÉSIES』A.-G.NIZET, 1978, の註釈による。リュフは文字がはっきり読み取れないとも記しており、鈴木訳では《[一八]七〇年九月二十日》としてあるので現在では二十日と読まれているのだろう

ランボーは一八五四年一〇月二〇日夕方五時に生まれた。ということは、この詩に日付を入れたときにはまだ十六歳にひと月足りなかった。むろん詩の内容からすれば六月頃に書かれたに違いない。リュフは、ランボーがバンヴィルに宛てた手紙にこのときすでに十七歳だと書いている例を指摘している。いつも背伸びしていたランボーが見えるようだ。




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by sumus2013 | 2014-02-15 21:54 | 古書日録 | Comments(0)

奥山儀八郎の版画展

『松戸教育委員会所蔵 奥山儀八郎作品目録』(松戸教育委員会、二〇一四年一月一八日)を頂戴した。深謝。二〇〇四年に子息の奥山義人氏より寄贈された一千点を越える作品を含む1201点および参考作品を収録した目録である。すべて図版入り。

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奥山は明治四十年二月十七日、山形県西村山郡寒河江町に生まれた。大正九年十三歳で上京、働きながら版画を独習。十四歳で慶応義塾商業学校に入るも中退。大正十三年大連に半年滞在、帰京後は川端画学校でデッサンを学ぶ。大正十四年、池辺釣、上阪雅之助にデッサンを見てもらう。昭和三年、第八回日本創作版画協会展に初入選。ニッケ(日本毛織)の広告部嘱託となり版画ポスターを制作する。昭和四年、個展(NIKKE画廊)。昭和五年ナップのクロッキー研究所に通う。

昭和六年、河野鷹思山名文夫らとともに東京広告美術協会を結成。七年、ニッケを退社、フリーとなる。翌年まで山名文夫と共同で仕事をする。昭和九年、広告版画個展(銀座・伊東屋)。この頃から日本珈琲飲用史の研究に着手。昭和十一年、石井研堂に出会い、唯一の弟子となる。その指導により伝統版画に開眼。

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昭和十五年、前川千帆、畦地梅太郎とともに新版画会に参加。十六年、原弘を通じて東方社より依頼され謀略宣伝ポスターを制作(十八年まで)。十八年、日本版画奉公会に参加。二十年、敗戦直後、日本版画研究所を創立。二十七年、広重の東海道五十三次続絵の覆刻版を完成するも日本版画研究所は解散。二十九年、松戸市下矢切に工房を開設。五十一年、個展(銀座・ロイヤルサロンギンザ)。昭和五十六年十月一日脳溢血のため死去。

以上、本書の年譜をはしょって引用した。珈琲研究家としては知っていたが(「かうひい異名熟字一覧」というコーヒーの名称を一覧表に彫った版画は広く流布している)、石井研堂の弟子だったり、東方社に関係したり、思わぬ活動を知ったのは収穫だった。石井研堂は『明治事物起原』の著者として知られる人物。東方社と言えば『FRONT』だから、多川精一『戦争のグラフィズム』(平凡社ライブラリー、二〇〇〇年)に奥山の名前が出て来ないかと自作の人名索引をチェックしてみたが、残念ながら見あたらなかった。

作品は多彩だ。線描は骨太で繊細、テクニックは安定している。浮世絵や油絵を木版画で複製する技術には驚かされるものの、やはり初期のニッケやニッカ・ウィスキーの広告が素晴らしい。

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by sumus2013 | 2014-02-14 20:27 | もよおしいろいろ | Comments(0)

藤島武二、素描

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銀座・中松商店で藤島武二の素描が展示されるそうだ。十点。本画の下絵と思われるもの、スケッチ、ペン画などさまざま。藤島武二は近代の画家のなかではとびぬけてデッサンのできる人。個人的な分類では青木繁がトップで、武二はそれにつづくグループに入る。覗いてみたいが…。




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by sumus2013 | 2014-02-14 19:30 | もよおしいろいろ | Comments(0)

残雪

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時里氏の「月歌論」に刺戟されて、短冊箱からてきとうに一枚抜き出した。だいたいこういうものを買うときには見栄えだけで選ぶ。文字の流麗さだとか、模様の念入りな様子だとか、傷みぐあいだとか。内容は二の次。これも読む気もなく放っておいたので、久々に手にして解読を試みた。

 残雪

 消残留雪古曽見ゆれ春風の
 またをしなへてふか須や有蘭  日應

 きえのこるゆきこそみゆれはるかぜの
 またをしなべてふかずやあるらん(む)

一応、こう読んでみた(ご教示いただき少々訂正しました)。署名が入っていることも初めて気付いたしまつだから、買う時に何を見ているのやら。日應はおそらく大石寺第五十六法主日応だろう。嘉永元年(1848)生の大正十一年(1922)遷。大石寺は静岡県富士宮市にある日蓮正宗の総本山。

とすれば「残雪」とは大石寺からくっきり眺められる富士山の残雪ということになろうか。そう思えば、歌の様子もガラリと変る。

***

連綿体の変体仮名をどうやって読むのですか? というご質問をいただいた。まだ読めると胸を張るほど十分には読めていないため、お答えするのもおもはゆいが、とにかく、もう慣れです。和歌くらいだと、漢字が少ないので変体仮名を全部覚えていればよろしい。これは字典類がたくさん出ているし、案外と覚えやすい。むろん「あ」だけでも安、阿、悪、愛など複数あるので、とにかく書いて覚える(「あ」は「安」の草体です)。

漢字は、頻出する特定の漢字をまず覚え、というか、いやでも覚えます。上の歌で言えば、「春」とか「風」とか。手紙なんかは漢字がたくさん出てくるので簡単には解読できないが、それでも繁用される文字が分るようになれば楽にはなるだろう。草体の部首だけをまず覚えるのがいいのかなと思っている。部首が分ればあとはしらみつぶしというローラー作戦もあるし。ただし、サンズイとゴンベンなど頻出するうえに紛らわしいものも多く容易ではない。さらに筆者の書き癖というのもくせ者だ。漢詩など普通見かけないような難しい文字を使っているのはまず読めません(キッパリ!)。

裏技はやはり検索。読めたところだけ部分的にでも検索してみると、類例がヒットする。和歌であれば、伝統があるだけに似通った歌がきわめて多いし、本歌取りもあるので、あんがいスッと判明することもある。

というようなところです。



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by sumus2013 | 2014-02-13 22:15 | 古書日録 | Comments(2)