林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
カテゴリ
全体
古書日録
もよおしいろいろ
おすすめ本棚
画家=林哲夫
装幀=林哲夫
文筆=林哲夫
喫茶店の時代
うどん県あれこれ
雲遅空想美術館
コレクション
おととこゑ
関西の出版社
彷書月刊総目次
未分類
以前の記事
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
お気に入りブログ
NabeQuest(na...
daily-sumus
Madame100gの不...
最新のコメント
個人的に思うのですが、第..
by sumus2013 at 16:32
「わずか数ポイント差の得..
by 牛津 at 15:55
ご来場有り難うございまし..
by sumus2013 at 21:55
久し振りにお会いできて嬉..
by 淀野隆 at 21:24
この聞き取りを残せてよか..
by sumus2013 at 08:10
いやあ、驚きました。肥後..
by 岡崎武志 at 22:53
無料ではなく、せめて五十..
by sumus2013 at 21:51
そうそう、思い出しました..
by 牛津 at 21:26
まったくその通りですね。..
by sumus2013 at 09:04
このような本が無料という..
by 牛津 at 21:13
メモ帳
最新のトラックバック
天才画家ゴッホの生涯と画..
from dezire_photo &..
ルーベンスの故郷、ヨーロ..
from dezire_photo &..
シャガール、ピカソ、マテ..
from dezire_photo &..
ポン=タヴァン派、総合主..
from dezire_photo &..
視聴率に関係なく選んだ2..
from dezire_photo &..
宝石のような輝をもった印..
from dezire_photo &..
ルネサンス美術の巨匠・ピ..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
過去に来日した傑作を回顧..
from dezire_photo &..
検索
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


<   2014年 01月 ( 34 )   > この月の画像一覧

岡崎桃乞コレクション

f0307792_20150104.jpg


『岡崎桃乞コレクション 宋元画名品図録 付岡崎桃乞油絵』(思文閣出版、一九七八年一二月一日)より「茄子図」(元、絹本着色)。

いつだったか、均一ではなく、例えば五百円とか、そのくらいの値段で買ったように思う。今、探してみると「日本の古本屋」には在庫せず、相当な値段を付けている古書サイトもあったが、そんなに珍しいという本ではないだろう。

桃乞コレクションは怪し気なところもありつつ、それでも財閥などではない一個人でこのくらい宋元画を蒐集したとすれば、それなりに評価すべきと思う。落ち穂拾いの感じも好感が持てる。上の図に思い当たる方もおられるかもしれない。岸田劉生が模写している。模写というか劉生なりに描き直している。

f0307792_20150683.jpg

出来ははっきり劉生の勝ち(?)なのだが、紫の花の可憐さには捨て難いものがあるし、何よりバックグラウンドの時代を経た表情は何もにも代え難い(本当に元の時代の絵なのかどうかは疑問)

もうひとつ、本図録より章継伯「茄子瓜図」(斉、絹本着色)。

f0307792_20151027.jpg

この茄子に似た絵も劉生はいくつか描いている。そのうち三重県立美術館にある作品「冬瓜茄子之図」(一九二六)が下図。他にも花籠の絵などに桃乞コレクションからインスピレーションを得たと思われるものが幾つもあるようだ。

f0307792_20151283.jpg

コレクションの主・岡崎桃乞(雅号の発音はいちおう漢音としてタウキツと読んでおくが、タウコツでもいいかもしれない、国会図書館はトウコウとしているようだ)は、図録の略伝によれば以下のような人物である。

《本名は義郎、一九〇二年五月岐阜県不破郡十六村に生まれた。十四歳四月大垣中学校に入学し油絵に初めて接した。翌年名古屋に移住し在住の洋画家達と交遊をもち、西洋画に関心を向けた。》

《十七歳上京し本郷絵画研究所へ入ったが、最初は作画に熱が入らず、苦悩と放蕩のうちに過した。二十三歳頃より宋元画の研究に熱中した。この年牛込を引きあげ鎌倉由比ガ浜へ移転、岸田劉生と深い交遊をもったが、油絵よりも宋元画の蒐集に没頭した。一九二八年三月二十七歳の折京都へ転宅したが、祇園先斗町で遊びまわる毎日であったという。二十九歳結婚。三十歳初めての個展を京都寺町アヅマギャラリーで開催したのを手始めに、山口市で俵道陽二と二人展、大阪丸善で椿貞雄と二人展など次々に開催した。

京都寺町アヅマギャラリーというのは一九六九年まで存在していたようだ。俵道陽二は一九二五年に東京美術学校を卒業している。椿貞雄は岸田劉生の弟子として有名。

《三十二歳蒐集の宋元画を芸艸堂より出版するが、この頃より桃乞と名乗っている。三十三歳京都若王子山内の和辻哲郎宅を譲り受け画業に精進し、十一月本郷の研究所時代の先輩西田武雄の厚意により、東京麹町室内社で個展を開催したが、予期に反して大成功であった。

和辻哲郎が住んでいたのは「語庵」である。原三渓の大番頭だった古郷(ふるごう)時侍が古材を使って建てた数寄屋住宅で、桃乞の後は梅原猛が買い取った。(http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-203.htm

《戦後は画壇との交渉をたち自由に制作に従事、一九七二年四月七十年の生涯を閉じた。》

f0307792_21021201.jpg

岸田劉生「岡崎義郎氏之肖像」(一九二八)。本図録にも挨拶文を執筆している梅原は『芸術新潮』の一九七八年四月号に桃乞のことに触れてつぎのように述べている。

《全くの奇人で、彼は、頑ななまでに名利を拒絶して、隠者に徹した。美濃の十六村の素封家の出身であるが、子供のときからわがままで、中学一年で退学して絵かきを志した。》

《二十二歳のとき銭瞬挙の絵を見て、彼はここにもっとも高い絵の理想があると思い、宋元画の研究に熱中した。

《彼は絵に対しては、恐ろしくまじめであった。私は前に二、三点、彼の画を見たことがあるが、それはきびしすぎて柔らかさがなかった。どうしてあんなワイ談ばかりしているでたらめな男が、こんな固い絵をかくのか不思議に思ったが、それは見方が甘かった。桃乞という人の中には、きまじめすぎる芸術家と、自由な遊蕩児の二つの人間が矛盾共存していたらしい。》

桃乞の画について言うべき言葉はないが、彼の二面性は「矛盾」ではないような気がする。

思文閣美術館五年の歩み
http://www.nk-net.co.jp/sakyo/tayori/tayori_156.pdf






[PR]
by sumus2013 | 2014-01-22 21:14 | 関西の出版社 | Comments(0)

白水社の本棚 愛書狂

f0307792_19254513.jpg

f0307792_19253615.jpg

みなみさんが教えてくれた「白水社の本棚」をKさんがファックスしてくださったので紹介しておく。おっしゃる通り《のけぞって驚いていた》とある。ははは、たしかにのけぞっていたかもしれません。てっきり機械で引いたと思っていたタイトルを囲むケイ線が、じつは多田さんのペンによる手書きだったと知ってビックリ。やったことのある人なら分ると思うが、直線をスッと正確に引くというのは至難の技なのだ。

このとき多田さんはこともなげに「最近のペンは優秀だよ」とおっしゃった。水性か中性か聞き忘れたが、そのへんの文具店で売っているものだそうだ。かつてはロットリング(ドイツ製の製図用のペン)を使っておられたそうで、小生も経験があるけれど、これはなかなか使い方が難しい。手近かな道具で最高のパフォーマンスを見せるのが本当のプロであろう。さすが多田さんだ(と、のけぞったに違いない、意識はしてませんでした)。

***

多田さんよりファックス頂戴しました。使っておられるサインペンは

〈COPIC〉Multi Liner 0.05
Sakura Micron 〈PIGMA〉01

の二種類だそうです。

《きれいな線が引けます(油性は線がニジンでしまうので×。水性にしています)》

とのこと。ただし

《今は指定原稿になってしまいました。その為にいくら細く美しい線を引いてもなんの役にもたちません。でも美しい版下の仕上りにこだわっています。》

さすが。まだまだお励みいただきたく。







[PR]
by sumus2013 | 2014-01-22 17:04 | もよおしいろいろ | Comments(6)

ティパサでの結婚

f0307792_20215962.jpg


アルベール・カミュ『結婚』(ガリマール、一九五〇年)。もうだいぶ前に古本まつりの均一で買ったように思う。装幀がいつものガリマール書店の囲み罫のデザインと違うので気に入った。巻末にはカミュの作品リストがあるのでカミュ選集のようなものだろうか(?)。検索してみると、古書価はほとんどついていない、ありふれた本である。

『結婚』はアルジェのリセでカミュと知り合ったエドモン・シャルロ(Edmond Chalrot, 1915-2004)が一九三九年に出版したのが初版本になるようだ。部数は250らしい。カミュの作品では他に『L'Envers et l'Endroit』(1937)も出しているし、カミュが編集する雑誌『Rivages』(1938, 39)を二冊刊行したようだ。戦後にもこの五〇年のガリマール版が出る前にシャルロは『結婚』を再刊している(一九四七年)。

内容はエッセイというよりも散文詩である。カミュが二十三、四歳のころに書いたそうだ。買ってからずっと読むこともなく(もちろん読もうと思って買ったわけではないし)棚の肥やしとなっていたのだが、先日「ムッシュKの日々の便り」をのぞいてみたら、なんと『結婚』に収められている四篇のなかから冒頭の『ティパサでの結婚』が訳出されているではないか。

原文はそんなに難しいというわけではないにしても、それなりに凝った言い回しがあちらこちらに見うけられるようで小生のフランス語力ではスイスイと読むというわけにはいかない。これはありがたい。

f0307792_20220422.jpg
f0307792_20220657.jpg

昨年、十一月七日はカミュの百回目の誕生日だった。ガリマールは販促につとめたようだし、カミュのファンは今なお根強い影響力をもっており、ちょっとしたカミュ風が吹いていた(いる)ようだ。

どちらにしても小生は『結婚』の他には『異邦人』(リーヴル・ド・ポッシュ、一九六七年版)と『ペスト』(同、一九五七年版)しか架蔵しておらず、『異邦人』はかろうじてフランス語の勉強のつもりで大昔に読んだ記憶がある。『ペスト』は新潮文庫で読んだかな。『異邦人』では

《J'ai dit rapidement, en mêlant un peu les mots et en me rendant compte de mon ridicule, que c'était à cause du soleil. Il y a eu des rires dans la salle.》

太陽のせいで……という有名なくだり、そして

《J'ai répondu que je ne croyais pas en Dieu.

神は信じないとドン・ジュアンよろしくつぶやくところがやはり印象に残った……すっかり忘れていたが、付箋が貼ってあるからそうなのだろう。

カミュ生誕百年の記事を探していたら、パティ・スミスが「カミュに出会わなければ物書きはやっていなかったでしょう」と喋っているヴィデオを見つけた。カミュに捧げる歌も歌っている。これがなかなかよろしい。

"Camus a fait de moi une auteure"
http://www.lepoint.fr/culture/photos-et-videos-albert-camus-star-de-google-07-11-2013-1753143_3.php

メープルソープが撮った写真でしか知らなかったけれど、彼女のコンサートなら出かけてみたいような気がしないでもない。



[PR]
by sumus2013 | 2014-01-21 17:44 | 古書日録 | Comments(0)

人生、ブラボー

f0307792_21565142.jpg
f0307792_21565728.jpg


久し振りの「ほんのシネマ」はカナダ映画「人生、ブラボー STARBUCK」(ケン・スコット監督、2011)。精子提供によって533人の子供ができた男の物語。なかなかの佳作だった。

この場面は借金で困ったあげく大麻栽培をしている主人公が、うまく大麻を育てられないため、水耕栽培についての書物を本屋で何冊も買い集めるシーン。若者が店員です。

フランス語なのでフランスのどこかの街かと思ってずっと見ていたら、それにしては街並がフランスらしくないなと思ったら、モントリオールだと途中で判明、フランス語も少しアクセントが違うと後から納得するしまつ。




[PR]
by sumus2013 | 2014-01-20 22:05 | 古書日録 | Comments(0)

ストナルと芦田止水

f0307792_20154914.jpg
f0307792_20154578.jpg

年明けから古書目録が次々に届いてゆっくり目を通す余裕がないほどである。困った……といっても予算が限られているため見ても見なくてもさほど変らないわけだが、いちおう探している本もないわけではないため、できれば見落としのないようにしておきたいとは思い、とにもかくにもページはめくっている。

『第30回銀座古書の市』の目録は古書画をはじめグラフィックな出品が多く(図版もカラーで160ページもある)、見ているだけで楽しめるし、資料としても貴重だ。なかで引きつけかれたのが日月堂さん出品のラジスラフ・ストナル(Ladislav Sutnar)装幀本。チェコ出身でアメリカで成功したグラフィックデザイナー、建築も手がけている。有名な作家のようだが、知らなかった。ネット上でも数多くの作品を見ることができる。かくなるうえはストナールか……。

AIGA / Ladislav Sutnar

Ladislav Sutnar(ラジスラフ・ストナル)の装丁本

この目録、他にも買いたいものいっぱい……500万円くらいお小遣いがあれば。

***

『石神井書林古書目録』92号。江川書房の『半獣神の午後』が巻頭。そして堀辰雄の装幀本がまとめて掲載されているのが目を引く。有名なのものばかりだが、なかでは蔵印譜『我思古人』(堀多恵子、一九七五年)が欲しい。堀の集めた印章は佳品ばかりだ(この本のコピーは持っているのです)。

しかし驚いたのはこの芦田止水の写本!

f0307792_20154744.jpg


芦田止水は大阪を代表する趣味家。淡嶋寒月とも交遊した。寒月は晩年に『オモチャ千種』を描いたといわれる。本書は止水が模写したもの(昭和15年)。各冊和紙袋綴じ50丁に玩具絵98〜100点を美しい色彩で模写する。和本仕立て10冊。幻の『オモチャ千種』を忠実に再現。布袋の専用帙(二帙)に収まる極美本。

と解説されている。これこそお買い得だ。ただ「大阪を代表する趣味家」というのは? 今現在「芦田止水」でググると daily-sumus がトップで出るし、それ以外の記事は見当たらないようだ(『書影でたどる関西の出版100』には一項を割いています)。

『和多久志』第十号(蘆田四酔荘、大正十六年一月一日)
http://sumus.exblog.jp/7678235/

止水の師匠である寒月の玩具絵も画像検索すればかなり見られる。とりあえず、こちらを

『父系図』坪内祐三 第一回 淡島椿岳・淡島寒月

とにもかくにも古書目録はおもしろい!



[PR]
by sumus2013 | 2014-01-19 21:12 | 古書日録 | Comments(0)

LEICA MANUAL 1947

f0307792_20130718.jpg

『LEICA MANUALMORGAN & LESTER, 1947, 11th Edition 2nd printing)を頂戴した。コラージュの材料にしてくださいということで有り難く拝受。コラージュにするのはもったいないような本だが(実際カバー付きの美本ならある程度の古書価が付いている)、デンヴァー図書館の除籍本《NO LONGER PROPERTY OF DPL》というハンコがペタリ。

f0307792_20130504.jpg
f0307792_20130210.jpg


PUBLIC LIBRARY OF THE CITY OF DENVER(http://denverlibrary.org/content/dpl-history)はその前身が一八八九年六月にデンヴァー高校の一角に設立されたデンヴァー最初の公立図書館。一九一〇年にはアンドリュー・カーネギーのファンドによってギリシャ神殿風の図書館が建設された。一九五六年に移転して広くなり、そして更に一九九五年、大規模に拡張した施設が完成したそうだ。


f0307792_20125979.jpg

ライカIII(http://sumus.exblog.jp/12878897/)はこの時代に全盛だった。


f0307792_20125701.jpg


フィルムのセットの仕方が丁寧に説明されている。


f0307792_20125645.jpg


ライカの使い方であると同時にカメラ撮影の可能性を徹底的に紹介した内容で、報道はもちろん、考古学、民族学、生物学、天文学、医学などあらゆる分野での撮影方法について示唆を得ることができるように執筆されている。有名な写真もいろいろ収録されているなかに「Yasuo Kuniyoshi」の名前を見つけた。アメリカで成功した日本人画家の国吉康雄である。写真作品も多く残している。調べてみると、なんと初めは写真家として生計をたてていたそうだ。

《絵で生活できるようになって国吉は写真家をやめますが、1935年にサラ・マゾと結婚した時に、当時流行していた革命的な写真機35mmライカを買ってから、再び写真にのめり込みます。1937年にはウッドストックの家に暗室を作って、現像、焼き付け、引き伸ばしを全て自分で行い、一点ずつ丹念にファイルしていました。その数は1939年までに400点にのぼります。》(『国吉康雄美術館館報』第11号、一九九七年

なるほど国吉康雄はライカのユーザーだったわけだ。文中にもあるように大流行したライカ、その証拠のように、この『LEICA MANUAL』、初版は一九三五年発行である。


f0307792_20125466.jpg
f0307792_20125283.jpg
f0307792_20125071.jpg

Henry M. Lester による眼球の写真とその撮影の様子。シュルレアリスム映画「アンダルシアの犬」やマン・レイの写真作品「ガラスの涙」(一九三二)を連想してしまう。



[PR]
by sumus2013 | 2014-01-18 21:07 | 古書日録 | Comments(0)

VAN 創刊号

f0307792_20544773.jpg


昨日、何度も名前を出した『VAN』創刊号イヴニングスター社、一九四六年五月一日、表紙=横山隆一)。daily-sumus ではまだ取り上げていなかった。現物がどこかにあるはずなのだが、書斎を整理したため現在行方不明なり。この写真は拙著『文字力100』(みずのわ出版、二〇〇六年)に使ったもの。

f0307792_20541965.jpg


『文字力100』は版元品切れなれど小生架蔵分がまだ少々残っておりますので、ご希望の方は sumus_co(アットマーク)yahoo.co.jp まで。1800円(送料込)

『文字力100』より岡村不二
http://sumus.exblog.jp/20163082/

『文字力100』校正中
http://sumus.exblog.jp/4716258/

『文字力100』より牧寿雄
http://sumus.exblog.jp/17645550/

『文字力100』は100冊の本を上の『VAN』のように風景が建物のなかに置いて撮影した写真(モノクロームです!)とそれに付した簡単な文章から成っている。このスタイルが気に入ったので続編を出したいなと思いつつ時間が経ってしまい、昨今の様子ではどうやら実現しそうもない。その分をブログでやっているようなものだが。

いろいろバックグラウンドに工夫をして100冊以上(採用しなかったものも多数あり)の「本の景色」を撮った。使わなかったカットを見ていると、笑えるのがあったので紹介しておきたい。

f0307792_20544355.jpg
f0307792_20542459.jpg
f0307792_20542221.jpg

鳩が興味津々なのは……ルナアル『博物誌』(白水社、一九四一年五版)である。daily-sumus でも『博物誌』は何度か取り上げている。

http://sumus.exblog.jp/15462535/

http://sumus.exblog.jp/7703373/



[PR]
by sumus2013 | 2014-01-17 21:20 | 古書日録 | Comments(0)

諷刺文学2冊

f0307792_21072166.jpg

『諷刺文学』創刊号(イヴニングスター社、一九四七年四月一日、表紙=河野鷹思)および第五号(一九四七年一一月一日)の二冊を入手した。「諷刺文学発刊の言葉」で社長の上村甚四郎はこう書いている。

《本社はさきに諷刺雑誌「VAN」を創刊し、今また文芸雑誌「諷刺文学」を上梓する。この両誌は自ら役割を異にし、従つて互に競合することなく、それぞれの活動と発展とをもつであらう。》

編輯兼発行人は『VAN』(一九四六年五月一日創刊)と同じく伊藤逸平。発行所は銀座六ノ四交旬社ビル五階(創刊号では銀座四ノ六だが、誤植?)。文芸雑誌と自称するだけあってVAN』よりもぐっと文学的なインテリ雑誌になっているようだ。


f0307792_21071643.jpg

創刊号では、戦中と戦後の文学者の態度について考察を加えた、なかの・しげはる「文学よもやまの話」がなかなかに過激だ。

《この点世間にはまだいろいろの勘ちがいがあるようで、例えば河上徹太郎は戦犯だが小林秀雄は戦犯ではないという類のものがその一つであり、河上が白鳥全権などにくつついていい気になつていたのはなるほど彼の下手な点だつたが、それは督戦陣営の配置の問題であつて、河上が西行や長明を持ち出して「中世の世捨人」について書いたのも(「戦時下の道徳的反省」)小林のひろめ屋として働いたのだから、河上の罪は小林などに比べればいくらか軽いのである。つまり物質的(?)には河上の動きが目だつたか知れぬが精神的には小林などの方に中心があつたのである。》

《つまりどこで、小林秀雄の中味をあかるみえ引き出して来ることが今まで以上に必要になるということになるだろうと思う。三十代説をとなえている荒とか本多とかいう人たちは、小林を神さまあつかいして悦にいつている》

《そうして、つまりそこで、三十代説をとなえている元気な人々が、全く老衰した精神で北原武夫とか坂口安吾とかいう、まだ小説かきといえぬ程度のゴミのような作家をありがたがる理由もうまれて来るのである。》

なるほどねえ…。とにかく、この時代ならではの激辛な論調であろう。


f0307792_21061981.jpg


f0307792_21061844.jpg

第五号にはゴミのような小説家も執筆しているが、面白いと思ったのは井伏鱒二の「敬語」。葉書や手紙の宛名の下に様、殿、先生などという敬語を添えて書くことにまつわる話。なかでも「殿」がどうも不吉な響きがあるというのだ。

《かつて私の受取つた徴用令書には、それを伝達してくれる人が電報で取次してくれたので、私の名前を片仮名で書いた次に「殿」といふ敬語が添へてあつた。そのコンニヤク版の「殿」といふ字は斜めに向いてゐた。》

また学生時代に兄から来る説教の手紙には必ず「殿」と書いてあったし、役所や税務署から来る通知書にも「殿」とある。あるいは戦時中に発表した小説に軍歌の歌詞を間違えて書いてしまったところ、未知の人から詰問の手紙が来た。「宮城」とあるべきところを「夕陽」と間違えるとはなんたる大馬鹿ものの非国民かという内容だったが、それも宛名の下に「殿」と書いてあった。

《それからまた太平洋戦争の始まるより以前にも、未知の人から私は詰問状を受取つた。その手紙にはみんな「ーー殿」と書いてあつた。最初は、私の「夜あけと梅の花」といふ短篇集を出した頃、茨城の人から、あの本には左翼的なイデオロギーが全然ないから絶版にしろ、絶版にしなければ承知しないと詰め寄つた手紙が来た。》

文中「夜あけ」は誤植。『夜ふけと梅の花』(新潮社、一九三〇年)である。

《三度目に受取つたのは「丹下氏邸」といふ短篇集を出した頃、あの本のなかには左翼的な駄作が非常に多いと非難して、この非常時局に際しお前は自分自身に非国民とは思はないかと詰問した手紙であつた。これは群馬方面の人がよこしものである。》

丹下氏邸』(新潮社)は昭和十五年初刊本を指すか。十八年、二十年にも出ている。

《しかし手紙の中味にも封筒にも、みんな宛名の下に「殿」といふ字が書き添へてあった。来て怒鳴つて唾を吐いて帰るやうな場合にも、ちやんと敬語を使ひ忘れないのは淳風美俗の然らしめるところかもわからない。》

さすが井伏という感じがする。



[PR]
by sumus2013 | 2014-01-16 22:17 | 古書日録 | Comments(2)

スピード太郎

f0307792_20535223.jpg


宍戸左行『少年小説大系資料篇1 スピード太郎』(三一書房、一九八八年五月三一日)を入手。とくに珍しい本ではないけれど、個人的にはうれしい一冊。というのも、この復刻版が出たときに欲しくて欲しくて、しかし買えなかった。定価4500円だから奮発すれば買えたはずだが、ビンボー性に取り憑かれていたのだろう。

それはちょうど高松の宮脇書店(香川県にはもう宮脇書店しか存在しないと言っても過言ではないくらいのオンリーワン書店)が海岸沿いの倉庫街に巨大な展示スペースを確保して並べられるだけの本を並べたスーパー書店をオープンした直後だったような気がする(今どうなっているか知らないが)。『少年小説大系』もズラリと揃っていた。しばらくそこで呆然とこの本を立ち読みした感動が甦ってくる。

ようやくにして奇麗な本を定価の三分の一の値段で求めることができた。ただし二十年以上かかったけど…。

手塚治虫のさきがけとして激しい動きをとらえたペンタッチと映画的アングルを駆使した画面構成にそれ以前の日本のマンガにはあまり見られなかったまさに「スピード」が満ちあふれている。

とくにこの復刻版は原画原稿からフルカラーで再現しているためその色彩の鮮やかさがまた際立った魅力となっている(一ページだけ原稿紛失のため印刷画が採録されている)。線描も色彩も日本人のものとは思えないハイカラさだ。それもそのはず宍戸は大正元年に渡米、カリフォルニアでアートスクールに通って絵を習いながら九年間も生活したのだという。それらの在米体験がこの作品のすみずみまでしみわたって登場人物たちを躍動させているように思う。


f0307792_20525656.jpg


f0307792_20525371.jpg


ざっと読み通して思うのは現在に通じる機械文明(人間の考えが及ぶていどの)はすでにこの時点で(昭和五年十二月より『読売新聞』附録の『読売サンデー漫画』に連載、『よみうり少年新聞』に移って昭和九年二月まで継続した)あらかた出尽くしているということ。自動車、船、列車、飛行船、潜水艦、ロケット、ロボットなどはまあ当然かもしれないが、オスプレイもあれば、監視カメラも登場しているし、戦闘で手足首がバラバラになった兵隊を糊のような薬でくっつけて治療してしまったりするのにはちょっと驚かされた。

本書の年譜によれば、宍戸左行(ししど・さこう、本書の著者紹介欄では「さぎょう」としてあるものの宍戸自身が他の著書で「さこう」を名乗っている)は明治二十一年十一月五日、福島県伊達郡桑折町に生まれた。本名嘉兵衛。福島中学卒業。同校の英語教師に内村鑑三の弟内村順也がおり、終生師弟関係を続けた。アメリカでも内村順也と共同生活を送ったそうだ。

帰国後は毎夕新聞に入社し政治漫画を執筆した。昭和元年、日本漫画連盟結成、下川凹天、麻生豊、柳瀬正夢らとともに呼び掛け人となる。機関誌『ユーモア』編集長を勤める。東京日日新聞社を経て読売新聞社の漫画部へ。「スピード太郎」連載を開始。昭和十年、長谷川巳之吉の要望で第一書房から『スピード太郎』が刊行される。昭和十九年十月に郷里へ疎開。五年を過ごす。戦後は児童漫画を手がけ、さらに水墨画にも新境地を開いたという。昭和四十四年二月三日歿。

本書の「付録」栞に上記年譜とともに掲載された宍戸三沙子「父・宍戸左行の思い出」が身内ならではの非常にリアリティあふれる内容だ。例えば、昨日も出た内村鑑三についてその弟順也が吐いた悪口を書き留めてくれているのは貴重。

《亡父が順也の教育費として鑑三に預けた大金をすべて兄に費われてしまい、新聞配達などをして苦学して学校を卒業されたとかで、晩年は京都の次女宅に同居しておられたが、私が父と関西旅行の際泊めて頂いた時、鑑三兄の事を伺うと、「あのペテン師が」と低いが強い声で、最後迄怒っておられた。

う〜む、鑑三には鑑三なりの考えがあったのだとは思うが、チャリティーというのもほどほどにしとかないと身内にはいつまでも恨まれてしまうようだ。



[PR]
by sumus2013 | 2014-01-15 21:51 | 古書日録 | Comments(2)

本の配達人

f0307792_19435103.jpg
f0307792_19435275.jpg

昨年、柏崎ふるさと人物館で開催された「本の配達人 品川力とその弟妹」展のちらし。図録もあるようだが、『越後タイムス』に連載された渡邉三四一「ペリカン兄弟の肖像」コピーを頂戴したので、その記事を紹介しておきたい。

東京本郷でペリカン書房(下図)を経営していた品川力(しながわ・つとむ 1904-2006)の父、品川豊治は柏崎(新潟県柏崎市)で牧場を経営していた。「滋養大王牛乳」を販売しバターやチーズも製造していたという。牧場と同時に現在の西本町一丁目で品川書店を経営し『越後タイムス』創業時の役員の一人でもあった。江原小弥太と親交があったようだ。

明治三十七年に力が、四十一年に弟工(たくみ)が生まれた。豊治と母ツネはともにクリスチャンで内村鑑三の崇拝者であった。そのため次女は約百(よぶ)、三女は枝咲(えさく)と名付けられた。

大正七年に一家は上京する。豊治は神田猿楽町に古書店「品川書店」を開業した。ところが関東大震災によって書店は焼失してしまい、力は叔父・成沢玲川(『アサヒカメラ』初代編集長)の紹介で銀座の富士アイス(レストラン)でカウンター係として働くことになった。

昭和六年、本郷東大前の落第横丁で学生相手の「ペリカン」ランチルームを開店。約百の美しさと工の料理が評判の人気店となる。学生ばかりでなく多くの学者や芸術家がやってきた。織田作之助、田宮虎彦、武田麟太郎、立原道造、古賀春江、大塚久雄、大河内一男、牧野英一ら(杉山平一さんもおりました)。織田作之助が「夫婦善哉」を発表した雑誌『海風』は昭和五年から品川力が発行人となった。

なお後に工は光村原色版印刷所に勤めながら立体造形や版画を制作した。国画会に属し版画家として国際的にも評価されたという。二〇〇九年歿。

昭和十四年八月、力はレストラン「ペリカン」を突如廃業し、同じ落第横丁沿いに「ペリカン書房」を開いた。《夏休みで知らずにいた学生や教授たちは新しい看板を見て唖然とした》という。

f0307792_19434720.jpg


ペリカンは中世キリスト教ではチャリティー(慈悲)の象徴とされたところから力は気に入って書店にもその名を用いた。

《したがって、商いとか儲けは二の次であった。重きを置いたのは、常連の学者や作家たちが必要とする文献を探し出し、それを配達することであった。北川太一は「高村光太郎」、大島吉之助は「森鴎外」、粉川忠は「ゲーテ」、式場隆三郎は「ゴッホ」、木下順二は「馬」といった具合に、五、六十人の常連客のテーマが頭に入っていた。

 移動手段は専ら自転車であった。遠くは東中野の紅野敏郎宅へ寄り、その足で小金井の串田孫一宅に本を届けた。往復で七〇キロの道のりである。暑がりの力は、冬でもカウボーイハットにワイシャツ姿で、東京中を駆け回った。》

自らは『内村鑑三研究文献目録』を出版し、ゲーテ、ポオ、ホイットマンの文献にも精通しており書誌学者としても評価された。駒場の日本近代文学館には品川文庫と呼ばれる二万点におよぶコレクションがある。昭和三十八年から半世紀にわたり力が自転車で運んで寄贈した文献類である。織田作之助の品川力宛書簡六十七通を含む書簡類が千点余りも含まれているという。

力の文学館通いは八十三歳まで続けられた。その後は職員がペリカン書房へ通ったそうだが、たしかに《「ペリカン」の意である慈悲を、書物を介して終生実践した人であった。》

ペリカン書房のレッテル

***

『ちくま』二〇一四年一月号、鹿島茂「神田神保町書肆街考 43」に興味深い記述があった。

《明治三十九年(一九〇六)年、一誠堂の前身たる酒井書店が神田猿楽町に開店したときをもって神田古書肆街史の中間点とするのが適当と思われる。だが、なぜ一誠堂でなければならないのか?
 一誠堂を一つの突破口として越後長岡の人脈が一気に神田に流れこみ、神田古書肆街が長岡人の街として形成される下地がつくられたからである。

一誠堂の主人となるべき酒井宇吉は十三歳で上京し博文館で働く兄のつてを頼りに東京堂に入社している。博文館は長岡人・大橋佐平が創業した出版社、東京堂はその取次のため佐平の息子省吾が経営していたのだった。

《長岡の野心的な青年たちはみな、これらの郷土の成功者にあこがれて、出版業と書店業に入っていったのである。》

品川豊治もそうだったかどうか分らないけれど(直接には江原小弥太との関係かもしれないが)、神田猿楽町に出店したというのも無視できない符号だと思う。




[PR]
by sumus2013 | 2014-01-14 20:59 | 古書日録 | Comments(0)