林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
カテゴリ
全体
古書日録
もよおしいろいろ
おすすめ本棚
画家=林哲夫
装幀=林哲夫
文筆=林哲夫
喫茶店の時代
うどん県あれこれ
雲遅空想美術館
コレクション
おととこゑ
巴里アンフェール
関西の出版社
彷書月刊総目次
未分類
以前の記事
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
お気に入りブログ
NabeQuest(na...
daily-sumus
Madame100gの不...
最新のコメント
うちのPCも古くなってき..
by sumus2013 at 13:22
「うまやはし日記」持って..
by 大島なえ at 12:36
15周年おめでとうござい..
by sumus2013 at 08:06
吉岡実の俳句、しみじみと..
by 小林一郎 at 22:58
百人百冊、千人千冊のお宝..
by sumus2013 at 07:49
夕方、店じまい寸前に参戦..
by 牛津 at 23:51
そうでしたか! クラシッ..
by sumus2013 at 08:12
有り難うございます。在、..
by sumus2013 at 20:18
ご無沙汰しております。い..
by epokhe at 16:28
こちらこそ有り難うござい..
by sumus2013 at 15:05
メモ帳
最新のトラックバック
天才画家ゴッホの生涯と画..
from dezire_photo &..
ルーベンスの故郷、ヨーロ..
from dezire_photo &..
シャガール、ピカソ、マテ..
from dezire_photo &..
ポン=タヴァン派、総合主..
from dezire_photo &..
視聴率に関係なく選んだ2..
from dezire_photo &..
宝石のような輝をもった印..
from dezire_photo &..
ルネサンス美術の巨匠・ピ..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
過去に来日した傑作を回顧..
from dezire_photo &..
検索
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


<   2013年 11月 ( 31 )   > この月の画像一覧

吸血鬼 マルセル・シュオブ作品集

f0307792_2065070.jpg

マルセル・シュオブ『吸血鬼 マルセル・シュオブ作品集』(盛林堂ミステリアス文庫、書肆盛林堂、二〇一三年一一月四日、表紙画=山下陽子)読了。

底本は矢野目源一訳『海外文学新選 吸血鬼』(新潮社、一九二四年)。ことさら漢語を多用した古色蒼然とした言葉遣いに幻惑された。例えば、ごく最近タレント議員が使用して、おや、よくそんな言葉知っているな、と感心した「震襟」(宸襟=天子のみこころ)が《王様の大膳頭はこの時実に巧妙な手段を用いて王様の震襟(しんきん)を休めたてまつると同時に魔法博士にも一本酬いました》(卵物語)というふうに登場していて、なるほどなあと思った次第。

この「卵物語」には卵料理がずらずらずら〜と並べ立てられる。トリマルキオーの饗宴を連想させる過剰な描写が圧巻。

《ーー陛下、と大臣フリイプソースタスが言いました。
 ーーお易い御用でございます。陛下は復活祭のときには是非とも玉子を召し上らなければなりません。これは御主(おんあるじ)の御復活を象りましたものでございます。しかし私は何も方便ということを存じて居ります。卵は固いのがよろしゅうございましょうか、掻き玉子にいたしましょうか、それともサラダ、ラムのオムレツ、それとも松露で召上りますか、薄皮焼、香草、独活(うど)、青豆、甘味などをあしらいましたものになさいますか、茹で玉子、蒸焼、灰焼、月見、半熟、泡雪でもさしあげましょうか、凝ったところでは二色玉子か白ソースを掛けましたもの、落し玉子、マヨネーズ、シャプロンネ、玉子饅頭いずれも御意のまゝに調整いたします。卵は鶏、鴨、雉子、蒿雀(あおじ)、小紋鳥、七面鳥、すっぽんなどがございます。御所望とあらば魚の卵でも油漬のカビアでも酢の物にしてさしあげましょう。ずっと珍しいところではサルタンもどきに駝鳥の卵か、千一夜の物語の鬼神の御馳走をそのまゝにロック鳥の卵などをおとりよせになってはいかゞかと存じます。それとも一層のこと、ごくあっさりと小粒の玉子を油煎りにしたものとか、お菓子の皮へ黄味をぬりましたものなども乙でございましょう。芹と小葱の刻みこみ、或は菠薐草の玉子とじなどはいかゞでございましょう。それとも生みたての生玉子を召しあがりますか。》

苦心の矢野目訳を原文と対照して味わってみたい。

《- Sire, dit le ministre Fripesaulcetus, rien n'est plus facile. Il est nécessaire que vous mangiez des oeufs à Pâques : c'est une manière de symboliser la résurrection de Notre-Seigneur. - Mais nous savons dorer la pilule. Les voulez-vous durs, brouillés, en salade, en omelette au rhum, aux truffes, aux croûtes, aux fines herbes, aux pointes d'asperges, aux haricots verts, aux confitures, à la coque, à l'étouffée, cuits sous la cendre, pochés, mollets, battus, à la neige, à la sauce blanche, sur le plat, en mayonnaise, chaperonnés, farcis ? voulez-vous des oeufs de poule, de canard, de faisan, d'ortolan, de pintade, de dindon, de tortue ? désirez-vous des oeufs de poisson, du caviar à l'huile, avec une vinaigrette ? faut-il commander un oeuf d'autruche (c'est un repas de sultan) ou de roc (c'est un festin de génie des Mille et une Nuits), ou bien tout simplement de bons petits oeufs frits à la poêle ; ou en gâteau avec une croûte dorée, hachés menus avec du persil et de la ciboule ; ou liés avec de succulents épinards ? aimerez-vous mieux les humer crus, tout tièdes ? - ou enfin daignerez-vous goûter un sublimé nouveau de ma composition où les oeufs ont si bon goût, qu'on ne les reconnaît plus, - c'est d'un délicat, d'un éthéré, - une vraie dentelle...》(Le Conte des oeufs

アスバラガスを「独活」としたのはご愛嬌、「月見」はポーチド・エッグ(落とし玉子)、「泡雪」は原文では《battus(半熟), à la neige(雪添え?)》とたぶん二種類になっているところをひとつにまとめてある。「二色玉子」は引用したテキストには該当する単語がない(テキストが異なるのかもしれない)。《sur le plat》を「落し玉子」としてあるが、残念これは目玉焼きのこと。《chaperonné》はよく分らないが、帽子のようなものを被せたという意味だろう。「玉子饅頭」も苦しいが、ファルシは詰め物(ピーマンの肉詰めのような)。《tortue》の「すっぽん」は青海亀としたいところ(アリスの物語を連想させる)。決して揚げ足を取ろうというのではない。これは大正時代の翻訳としたら上出来だろう。文章をいくつかに分けるなど、何より調子よく読める工夫が凝らしてあって名訳ではないかと思う。

マルセル・シュオブについては本書の解説(長山靖生)でも触れられているが、仏ウィキを簡単に訳して少し補っておく。

一八六七年、マルセル・シュオブ(Marcel Schwob)はシャヴィーユ(セーヌ・エ・オワーズ県)に生まれた。父ジョルジュはテオドール・ド・バンヴィルやテオフィル・ゴーティエの友人で文学好きだった。母のマティルド・ケーン(Mathilde Cahun)はアルザスのユダヤ知識人家庭の出である。

マルセルが生まれたとき、シュオブ一家は、外務省の長官として赴任していたエジプトから戻ったばかりだった。第三共和制の初期(一八七〇年代初)にはトゥールに居り『Le Républicain d'Indre-et-Loire アンドレ・ロワール共和主義者』を指揮し、一八七六年にナントへ移り、やはり共和党の日刊紙『Le Phare de la Loire ロワール燈台』を指導した。ジョルジュの歿後はマルセルの兄モリースが跡を継いだ。

マルセルの最初の作品発表は一八七八年一二月の『燈台』においてであった。ナントのリセでは成績優秀で、特にギリシャ語、フランス語、英語が得意だった。一八八一年にパリに住む母方の叔父レオンの元へ送られる。レオンはマザラン図書館(プルーストも一時籍を置いていた)の司書長だった。リセ・ルイ・ル・グランで学業を続ける。ここでレオン・ドーデ、ポール・クローデルらと友情を温めた。言語の才能を開花させ、すぐにポリグロット(多言語精通者)となり、一八八四年にロバート・スティヴンソンを発見し範とした。

エコール・ノルマル・シューペリウール(高等師範学校)の入試には失敗したが、一八八八年に一級文学学士号を受けた。八九年、今度は一級教員試験に失敗。教師の道は諦め『燈台』、『 l' Evénement』『l'Echo de Paris』などジャーナリズムに関わって文筆で生きることを選んだ。文学欄に力を注ぎ一八九四年には初めてアルフレッド・ジャリを紹介したり(九六年刊の『ユビュ王』はマルセルに捧げられている)、ポール・ヴァレリ、アンドレ・ジード、ジュール・ルナール、コレットらと親しく付き合った。

マルセルはアルゴ(隠語)やヴィヨンの作品に見られるような十五世紀のコキヤール(隠語の一種)に興味を持って熱心に研究した。隠語というのは自然発生的なものではなく人工的なコード化された言語であると考えた。

一八九〇年代より散文詩の形で短い物語を出版し始める。お伽噺のように後に人々によって語り継がれる形式を作り出した。フォークナーやボルヘスに強い影響を与えている。

一九〇〇年、コレットの友人の女優マルグリット・モレノと結婚。健康がおもわしくないなかで、ジャージー島や、スティヴンソンが生涯を終えたサモア島へ旅をした。フランスに戻り、引き蘢って未完の作品の執筆にかかったが、一九〇五年二月二六日流行性感冒で死去。モンパルナス墓地に埋葬された。
[PR]
by sumus2013 | 2013-11-12 21:35 | おすすめ本棚 | Comments(0)

団子坂から谷中五重塔を望む

f0307792_19473284.jpg

大竹新助『写真・文学散歩』(現代教養文庫、一九六二年十七刷)に団子坂上から谷中の五重塔を望む写真がありますよ、と某氏よりご教示をたまわった。さっそく入手してみると、まさに谷中安規の版画「動坂」にぴったり重なるような構図である。

f0307792_19303879.jpg

丸い街路灯まで同じではないか! 角度的にはほぼ同じくらいであろう。海抜は団子坂より動坂の方がやや高いのだろうか。安規の目線がより高いところから見下ろしているようにも思う(?)。本書の初版は昭和三十二年九月で五重塔が焼失したのが同年七月六日。志賀直哉が序文に

《この本は後になる程、その価値を益し、皆から喜ばれ、大切にされる本だと思ふ。露伴の「五重塔」の如き、大竹君が写した後で焼け失せたものであり、歳月を経ればこの上にも、かういふ場合がないとは云へず、今、かうして大竹君が写真に残してくれる事は後の文学研究者にとつて大変ありがたい事だと思ふ。》

と書いている。志賀の言う「五重塔」は本文七頁の露伴『五重塔』にまつわる写真。塔をアップで見上げた構図である。上の「団子坂」は夏目漱石の『三四郎』の舞台として掲載されている。

《この小説のもう一つの舞台、団子坂に行ってみた。ここは菊人形で名高いところだ。この付近は戦災に焼かれたと聞いていたが、坂の両側は昔のままで、一寸大正を、そして明治も偲ぶことが出来る。この坂を上りつめたところの左側少し入ったところが、森鴎外の屋敷跡ーー観潮楼跡で、坂の上から振りかえってみると、あの幸田露伴の"五重塔"ーー谷中天王寺の五重塔が望まれた。》

f0307792_19472560.jpg

おそらくこれらの写真が撮影された昭和三十年前後を境として、日本の風景は激しく変貌することになるのだろう。下の日本橋の俯瞰など、あと何十年かして首都高速道路が地下にもぐったら、再びこういう風景に戻るかもしれないが……。

f0307792_19471661.jpg

遠景には煙突が何本も見えている。方角からすると一九五〇年に発足した富士製鐵(旧・日本製鐵、七〇年に八幡製鐵と合併して新日本製鐵、現・新日鐵住金)だろうか(?)。おばけ煙突(撤去は昭和三十九年)じゃないが、当時はまだ都心にこんなものが乱立していたようだ。
[PR]
by sumus2013 | 2013-11-11 20:30 | 古書日録 | Comments(0)

富士正晴の兵隊小説を読み返す

f0307792_22111153.jpg


f0307792_22105861.jpg

茨木市立中央図書館で小沢信男さんの講演「富士正晴の兵隊小説を読み返す」を聞いた。

富士正晴記念館の久坂葉子関連の展示も良かった。図書館ロビーに富士の絵や原稿、書籍などの現物が、ほぼ無防備と言ってよい状態で展示されていたのも新鮮だった。とくに初期の富士のマンガ(村山知義ふうのモダニズム劇画)が抜群だった。中尾務さんによれば竹内勝太郎に出会う前はこういう絵を描いていたということだ。

見知った顔も何人か。真治さん、Mさんと並んで座る。『ぽかん』の売り行き絶好調とか。ジュンク堂では面陳だそうだ。本はねころんでさんとyfさんがすぐ後ろに。にとべさんも。二列ほど前に山田稔さん。入口近くに若い古本者の知人たち。八十人定員だが、わずかに空席があるくらいでよく入っている。

なげやりとも思えるくらい簡潔な中尾さんの開会のあいさつの後、講演はすぐに始まる。小生にとっては東京の古書会館でのトークショー以来と思うが、ほとんどお変わりなくお元気の様子だった。

小沢、坂崎、石田トークショー
http://sumus.exblog.jp/4963146/

このときは三人だった。今回はお一人で、小沢節とも言える語り口。六月に中川六平さんが本を作りたいと言ってくれて、その本が十二月には出来上がる手はずになっているという話から。この講演依頼もちょうどその頃で、戦中戦後の兵隊小説を読み返そうと思ったそうだ。

映画「風立ちぬ」の評判がよくないので見るのをやめようかなと思っていたが、ひょんなことで観てみると「いい映画だったねえ、席、立つのが惜しいような気がして…」。評判が悪いのはこのごろの人が戦争を知らないからだろう。リアリズムとファンタジーの合成が成功している。堀越二郎と富士正晴は同い年、一九一三年生まれだ(とおっしゃったが、これは勘違い、堀越は一九〇三年生まれ)。

戦争を知らない小沢さんは戦後、戦争に行った先輩たちに頭が上がらなかった。しかし考えてみると、中学生だった小沢さんたちも空襲と食糧難、すなわち「日常に戦争が降ってくる」経験をしたのである。勝つはずはないと頭では解っていながら、軍国少年だから負けるとも思わない、不思議な心理状態だった。

『富士正晴作品集〈1〉帝国軍隊に於ける学習・序 一夜の宿 童貞 わたしの戦後 同人雑誌四十年 他15篇』(岩波書店、一九八八年)を手にしながら、富士の兵隊小説の特徴を「非日常の日常」だと指摘する。兵隊たちの会話が関西弁で書かれており、それが実況中継のようだと。なかでも「崔長英」は傑作だ。富士は崔長英について何度も書くのだが、毎回うまく書けない。しかし「書き損ねたということで表現している」。

中国人苦力を描いた長谷川四郎「張徳義」は完成された名作である。また野間宏の「真空地帯」や大西巨人の「神聖喜劇」のように軍隊内部を描いた大作もあるが、それらもやはり完成品だ。今はどれよりも「崔長英」の方が良いんじゃないかと思う。

「今日性はこっち(崔長英)にある。物事はそう簡単にわかってたまるかというのが富士正晴のインテリジェンスなんだよね、ダメ兵隊で生き残ってんだよね。わかったと言わずに、不思議だと言い通そうとするインテリジェンスなんだな」

休憩を挟んで質疑応答の時間に。五人ほどの参加者からいろいろ出た。なかでは富士正晴は徳島出身だが、徳島にはまともな産業もなく徳島の人間はどうしようもないやつばかりで嫌われているでしょう、どう思われますかという、ご自身徳島出身の方が質問。後で聞いた所では、この質問に中尾さん、これは困ったどうしようと気をもんだそうだ(笑)。しかし小沢さんは、ご自身の父上が山梨出身で、やはり関東では山梨人の評判が良くないという話をもち出して「結局それはお国自慢なんだな」と軽く打ち返されたのはさすが。

終了後、控え室に大勢の人達が残っていた。そこへ割り込んで小沢さんにご挨拶する。扉野氏といっしょに寺町界隈をご案内したときのことを覚えてくださっていた。

湯川書房にて。左から湯川成一さん、小沢信男さん
http://sumus.exblog.jp/13580261/

中尾さんに誘われたのでMさんとともに二次会にも参加する。おおざっぱに分けると『VIKING』と『黄色い潜水艦』という二つの雑誌に関係する人達が中心だった。なごやかな歓迎ムードに終始。散会の後、京都に宿泊しておられる小沢さんご夫妻、山田さん、本はねころんでのFさんと阪急電車をご一緒した。いい一日でした。

富士正晴『東京漫遊記』(富士正晴記念館)
http://sumus.exblog.jp/20227276/

『東京骨灰紀行』(筑摩書房)
http://sumus.exblog.jp/11886917/

『黄色い潜水艦』52号 川崎彰彦追悼号
http://sumus.exblog.jp/13499583/


富士正晴記念館
http://www.city.ibaraki.osaka.jp/kurashi/bunka/gejutsu/shisetsu/fujimasaharu/1319775386732.html
[PR]
by sumus2013 | 2013-11-10 20:03 | もよおしいろいろ | Comments(5)

クルヴェルの最期

f0307792_2043997.jpg

ルイス・ブニュエル『映画、わが自由の幻想』(矢島翠訳、早川書房、一九八四年)。この本からクルヴェルの自殺について以前引用したことがある。

クルヴェルが自殺した時、まっ先に駆けつけたのは、ダリだった
http://sumus.exblog.jp/18265728/

ジョゼ・コルティの回想においてもクルヴェルの死の前後のことが語られている。それはブニュエルのクールな書き振りとは違った、やや湿っぽい、情味のこもった内容である。

f0307792_2043177.jpg
ルネ・クルヴェル(一九二八年、マン・レイ撮影)

ルネ・クルヴェル(1900-1935)はパリのブルジョア家庭に生まれた。一九二一年にアンドレ・ブルトンと知り合って仲間になるが、二五年にはブルトンから離れてトリスタン・ツァラの方へ近づいた。二六年に結核であることが分る。二九年、トロツキーの追放が引き金となってシュルレアリストたちが糾合することになり、二七年からフランス共産党員(三三年除名)だったクルヴェルはシュルレアリストとコミュニストを結びつけようと努力した。三五年に文化防衛のための国際作家会議の組織に奔走。だが、シュルレアリストの代弁者だったブルトンとソビエト代表団のイリヤ・エレンブルグの間で暴力的な口論がもちあがり、ブルトンは会議から閉め出されてしまう。板挟みになったクルヴェルは絶望的になり、また結核の再発を知らされたこともあり、一九三五年一月一八日、ガス自殺を遂げた。

以上は仏ウィキによる型通りの略歴だが、かなり近いところでクルヴェルの死の状況を知っていたコルティは具体的に次のように書いている。

《ルネがわずかな人間的な暖かさを必要としていたとき、人は彼を拒絶した。最後通牒を突きつけた。ブランシュ広場のカフェで反対意見が出された。グループはひとつにまとまっていた(おそらくルネ・シャール以外)。クルヴェルは、除名覚悟でコミュニストたちに反論する道を選ぶしかなかった。教会が離教した僧侶を審判するようなものである。もしクルヴェルが引き裂かれるとしても、彼は断固として躊躇しないだろう。会議に報告しなければならない。それをブルトンに確認する。瞬時の判決。グループは彼を除名しない。彼は追い立てられ、氷のような沈黙のなか、まるで夢遊病者のように、ひどく興奮して、カフェから飛び出す。》

クルヴェルはカフェを出てジャンとコレットのデュヴァル夫妻の家に立ち寄った。彼を理解してくれ彼もまた心を許せる唯一の友である。しかしそれも慰めとはならなかった。彼は疲れていた。「うんざりだ dégoûté」と彼は言った。

クルヴェルはデュヴァル夫妻の赤ん坊に会いたいと言った。夜中だったので赤ん坊は眠っていた。クルヴェルはその小さなベッドの上に長い間かがみこんでいた。夫妻はいつも、あのとき彼は人生に最後の別れをしていたのだと思う。

その翌日、ジャン・デュヴァルはサンミッシェル大通りで、いつものように帽子も被らずに大股で歩いて行くクルヴェルを見かけた。折り鞄を腕にぶらぶらさせながら、機械的に、歩行者など無視して。あまりにいつも通りなのでデュヴァルは驚いた。昨夜の様子がまだ脳裏にあった。クルヴェルは人ごみに紛れて行った。それがジャンの見た最後の姿になった。

この同じ月曜の夕方、トリスタン・ツァラとともにクルヴェルは会議に出席した。どこで、誰と? 知らない。彼らは一緒にそこを出て話しながら歩いた、何を? コンコルド広場まで来て別れた。すっかり暮れていた。

家に戻ると、クルヴェルは一言なぐり書きをして枕の上にピンでとめた。「うんざりだ、火葬にして欲しい Dégoûté, je veux être incinéré」。そして睡眠薬を嚥み、効き目が遅いことを確かめて、ガスの元栓を開いた。

翌朝、女中が、部屋の扉が閉まっているのを、いつものことと気に留めなかったため、発見が少し遅れた。彼はまだ息があった。ブシコー病院へ搬送されたが、命は助からなかった。

彼が望んだ火葬のためにペール・ラシェーズ墓地へ運ばれずに、モンパルナス墓地(モンルージュ墓地)に埋葬された。穴の周辺には、家族と友人たちの二つの小さなかたまり。真ん中に祈りをあげる僧侶。シュルレアリストたちはいなかった。誰も哀れなルネ・クルヴェルが埋葬されるのに立ち会わなかったのだ。あれほど完璧にも彼らの友であったのに。トリスタン・ツァラはセレモニーには参加したが、グループの代表としてではなかった。同志の埋葬に立ち会いに来たコミュニストがたった一人いた。

というような様子であった。ブニュエルの話とはかなり違っているが、まあそれも愛嬌であろう。誤訳含みの拙訳ばかりで申し訳ないので自殺の原因についてのコルティの考えを表明した原文を引用しておく。

《Pour quelle raisonーquelles raisonsーCrevel s'est-il donné la mort? Il a emporté son secret avec luiーpar indifférence ou par mépris. Certains ont su, qui auraient pu parler. Ils se sont tus. Tzara en particulier. Et cette mort, non dans ses circonstances, mais dans ses causes profondes, reste enveloppée de mystère. Enfin, d'un mystère relatif.》
[PR]
by sumus2013 | 2013-11-08 22:23 | 古書日録 | Comments(0)

ジョゼ・コルティ回想録

f0307792_20184752.jpg

ジョゼ・コルティ(José Corti)の『取散らかった思い出 Souvenirs désordonnés』(Éditions 10/18, 2003)読了。パリの新刊書店ジベール・ジョセフでセコハン本(オカジオン occasion)として購入したもの。元版はジョゼ・コルティ(版元の名前でもあり、書店の名前でもある)から一九八三年に出ている。

ジョゼ・コルティ(1895-1984)は一九二五年に同名の出版社を設立し、初期のダダ、シュルレアリスム関係の雑誌や単行本を刊行したことで知られる。アラゴン、ブルトン、エリュアールらの著書、ダリの『La Métamorphose de Narcisse』(1937)やジュリアン・グラック『Au château d'Argol』(1938)は代表的な出版物。ガストン・バシュラールなど学者系の著述家たちとも繋がりは深かった。

以下、今年の六月に訪れた(前を通った)ジョゼ・コルティ。難しそうな主人が帳場に座っていた。ひょっとして息子さん(?)。店頭に見切り本の函(自社の出版物がほとんどだったと思う)。これは欲しいものがいくつもあった。ドラクロアの日記が安かったけれど、広辞苑くらいの分量があったので諦めた。

f0307792_20183711.jpg


f0307792_20183175.jpg


f0307792_20182536.jpg

ジョゼ・コルティの文章は凝っていて読みにくかった。内容も濃厚で二大戦間のフランスの文壇事情をもう少し知っていれば興味深いのだろうが、小生のような者には消化しきれない感じ。しかし部分的には面白いと思うところもなくはなかった。

例えば、ポール・ルブー(Paul Reboux、小説家、批評家)から頼まれて装飾用に古本を買いあさった思い出話(拙訳で申し訳ない)。

《ポタン氏、フェリックスの息子、とそのひとりの友人、から数メートルの本を買い求めるように「目利き」として依頼されたルブーは、それを私に見つけてくれと言って来た。ポタン氏が手に入れたばかりのクロワッセのホテルの広大な図書室に飾り付けるためだという。私の役割に難しいことはまったくなかった、絶対ではないがかなり断固としたふたつの要求を除いては。革装の本でなければならない。そしてそれらは装飾となるものであってほしい、値段はなるべく安く。

残念ながら、河岸の古本屋を一時間も歩けば、わずかな金額で数メートルの見栄えのいい古書を買えるような時代は過ぎ去っていた。古道具屋の主人たちはそれらを長い間シガーの箱やワイン貯蔵庫に入れて標本にしていた。かなり探してようやく望む長さだけの本を見つけた。ある日、二台のタクシーに雑多な獲物を詰め込んだ。これがまだエレガントな曲線形をしていなかったかつてのタクシーで、特別に体を折り曲げたり、しなやかでなければ乗り込めないというものではなかった。ちょっと頭を下げるくらいで乗り込めたのである。この日以来、私はカルーゼルの中庭をこのときの小さな旅を印象付けた哀れにも滑稽な事件を思い出すことなしに横切ることはできないのだ。

本は梱包せずに詰め込んだ。タクシーの中いっぱいになった。すべては問題なく運んでいた、私が運転手のそばへ場所を移るその瞬間までは。ルーヴルの切符売場を出てタクシーはカーブを切った。このとき、古本の塊が激しくバランスを崩し、自動車の片方の側に集まった。ドアの鍵に力がかかり、物質の悪意は私の積荷をして遠心力の法則に従わしめたのである。ドアは開いた。すべてのものが一瞬動きを止め、次の瞬間、伝書鳩の小屋が開かれたときのように、古本は飛ぶように放り出された。何百という優雅な曲線を描きながら。そしてカルーゼル通りの舗道の上に雑多な色のモザイク模様を付けたのである。》

フェリックス・ポタンというと八〇年にパリにいたころにあちこちで見かけたスーパーマーケットである。一八四四年に創業して食料品業を近代化して発展したが、最近まったく見ないと思ったら、一九九五年に消滅したそうだ。
[PR]
by sumus2013 | 2013-11-07 21:58 | 古書日録 | Comments(0)

富岡鉄斎碑林

f0307792_19392571.jpg

情けないことながら、先日の臨川書店で買えたのはこの正宗得三郎『富岡鉄斎』(錦城出版社、一九四二年一二月一五日)だけだった。岡本政治の錦城出版社に注目しているのと、やはり富岡鉄斎ということもあって見過ごせなかった。上は口絵写真より「書斎に於ける鉄斎翁」。

f0307792_19391783.jpg

《私の宿つてゐた處は、先生も嘗て住つてゐられた事のある頼山陽の旧栖、山紫水明處の隣りで同じ東三本木であつた。そこから翁のお宅は余り遠くはない。寺町から御所の広庭を通り抜け、蛤御門をくゞつて交番のある角から中立売に出るとすぐ、黄土色の土塀、古風な門に竹の戸が閉つてゐる。それが翁のお宅である。何んでも三十年前の昔、この家の前を通つてゐると、門の處の楓が紅葉して風情が佳かつた。それが第一の縁となつて購はれたとの事だ。喫茶弁を著した小川宗匠可信の旧宅。それからそこにずつと住まつて居られた。床の広い玄関であつた。玄関に亀田窮楽の「福内鬼外」の、板に白字で彫つた木額が掛つてゐた。》

《先生のお宅は三百坪位ある。庭はさ程人工は加わつてゐないが、支那風の亭がある。その亭には先生の描かれた、黒漆塗に朱漆で風竹の額などが掛つてゐて、その前に小流が造られ水道から水が噴出する様になつてゐる。その傍、巽の隅に石の祠があつて、前に朱の鳥居がある。翁は毎朝未明に起き洗面含嗽し髪を櫛けづるて、この祠に詣で天神地祇に礼拝せられる。今一つ艮の隅大木の近くに木造りの社がある。庭の中央にあつて、そこには支那西湖の小梅を移し植ゑられたのが丈余に延びてゐる。乾の處に書籍庫が二つある。以前は木造であつたが、数年前鉄筋煉瓦に改造せられた。それが魁星閣で入口に魁星の図と、字が緑青と朱で刻してある。中には書籍、軸、謙蔵氏蒐集の古鏡が陳列してある。書籍は帙があつて中の本が出てゐるもの、箱丈になつたもの、翁が毎日こゝを漁つてゐられる事が判る。》

富岡鉄斎邸跡
http://sumus.exblog.jp/14588833/

f0307792_19391199.jpg

《其後再び先生を訪問した時、蝸牛の宿の様な画室を見せて貰つた。室は十畳敷位の粗末なもので室の中は書籍が一ぱい積まれて、翁の居られる處は畳一畳敷位空いてゐる。そこに汚れた白毛氈が敷かれて、筆洗、硯箱がある。》

《翁は自ら書癖と書いてゐられる。書籍についてはまるで書狂であつた相だ。富田渓仙君が私に話したのに、六角堂に毎月書籍の市が立つ。自分(渓仙)もその日は朝早く出かけるのだがいつも鉄斎さんは先きに来てゐる。そしてまるで書籍の上を馬の様に這つてゐる。そして本を見てはぽんぽん投げ出しててゐる。どんな本を探し索めてゐるのかと思つて見ると、何んでもない本なのだが、何か一つでも眼を惹くものがあれば買つてゐる。》

《夫人に訊くと、翁は書籍を読まれるのが実に早い相で、あの老眼で、どんどんめくつて見られる。つまり何か索めてゐられるのだらう。さうして中の必要の事は抜書するか、本に記入される。他の本と照り合せた事が本に記入されてある。又その本が函に入れてあると、その函の蓋さへ見れば中にどんな事が書いてある本か解る様になつてゐる。その函書きが仲々振るてゐる。画まで描かれある。後年は多く画に関する書物を集めてゐられたと大阪の鹿田書店の主人が話してゐたが、兎に角本は非常に好きで、老年生活の楽しみは新たな書物を得られるゝ事であつたらしい。あの蔵書庫は翁の一大事業と云へる。》

富岡家の売り立てに関しては反町茂雄『一古書肆の思い出』に《入札に付されたコレクションとしては、これまで最高最大のものでした》とあるということについてdaily-sumusのコメント欄で触れたことがあるが、とにかく大変なものだったらしい。

六角堂で古本市が毎月開かれていたとは知らなかった。旧の京都古書組合は六角堂のすぐ近くにあったからそういうことになったのだろうか? 

ここで昨日の足立巻一『石の星座』を再びひもとく。「富岡鉄斎碑林」。鉄斎の墓はかつて京都四条寺町の大雲院墓地にあった。高島屋のすぐ裏手(現在は西京区大原野上里北町の是住院に移されている)。

f0307792_1939471.jpg

釈浄敬は鉄斎の四代前の祖以直で石田梅岩の高弟だったとのこと。その隣が鉄斎夫妻の墓。

《表面の碑銘は、京大教授だった東洋学者内藤湖南の筆である。裏面には「天保七年十二月十九日生」「大正十三年十二月三十日卒」と二行に彫られている。格調の高い筆跡で、墓石全体が端正で、鉄斎のそれにいかにも似つかわしい。》

《鉄斎の墓の隣りは一子謙蔵の墓である。形は同様だけれど、高さ約五〇センチ、幅約二三センチとかなり小さい。「富岡謙蔵之墓」とだけ彫り、裏面には「大正七年十二月三十日 享年四十六」とある。文字は鉄斎である。謙蔵は桃華と号し、中国学を専攻して、中国書画金石についての研究に深く、京大講師であった。鉄斎はつねに画人ではなく儒者であり、儒をもって世に裨益しようとするものだと称していた。謙蔵はその志を継いだもので、それだけ、鉄斎の鍾愛と期待とを受けていたが、父より早く早世したのである。剛毅な鉄斎にも悲嘆は大きかったと思われる。それで小ぶりながらみずから石を選び墓銘を書いたのであろう。まさしく、鉄斎の造形である。》

富岡謙三
http://sumus.exblog.jp/14728348/

足立は鉄斎が揮毫した墓銘や碑文はたくさんあるので「鉄斎碑林」となるだろう、それらを拓本にとって長く保存したいものだと締めくくっている。たしかに鉄斎の書いた看板も多い。面白い本ができるかもしれない。

富岡鉄斎揮毫碑 京都クルーズ・ブログ
http://office34.exblog.jp/17907506
[PR]
by sumus2013 | 2013-11-06 21:04 | 古書日録 | Comments(0)

村上華岳自筆墓誌

十一月二日、JR長岡京駅前のバンビオ広場で開催された「天神さんからおでかけ一箱古本市」をのぞいた。なかなかに濃いメンバーなので、粒ぞろいのいい本が多かった。各箱をじっくり見ているとかえって迷ってしまったが、結局はみどり文庫さんから渋いのを三冊ほど頂戴した。そのなかの一冊が足立巻一『石の星座』(編集工房ノア、一九八三年四月二五日、装画=須田剋太)。

f0307792_1936122.jpg

この本に惹かれた理由は「村上華岳自筆墓誌」と題された一篇に岸百艸が登場していたからである。

《追谷墓地に村上華岳の墓をたずねた。
 岸百艸さんが案内してくれた。百艸さんは若いころは、阪妻のシナリオを書いていて『開化異相』はその作であるが、いまは市井に隠れ住んで、気ままに晩年を送る俳人・郷土史家であり、ことに近年は墓めぐりを一つのたのしみにしている。追谷墓地は家の近くなので、毎日かよっては、おびただしい墓を調べたそうである。》

《この墓地には神戸の歴史が化石になって密集しているように思われ、一つ一つ暇にまかせて洗ってみた。初代神戸市長の鳴滝幸恭から、華岳と関係の深かった四代市長鹿島房次郎、船成金の八代市長勝田銀次郎など歴代市長の墓があるし、鈴木商店の創設者岩次郎や、その大番頭金子直吉一族の墓、あるいは天下の金貸しといわれた乾新兵衛、航空機工業をおこした川西清兵衛、花隈を開発した関戸由義、生田川の流路を変えた加納宗七の墓もここにある。生田神社の社家だった後神(ごこう)家の代々の墓もならんでいる。》

《わたしも百艸さんの案内で、そうした墓を見て回っていたのであるが、とりわけ興味をそそられたのは、清朝末期の南画家胡鉄梅と悦夫人との墓である。》

《それとともに、元町に寺子屋を開いていた間人(はしうど)茶村、写真館を早く開いた市田左右太、牛肉業の先達森谷類造、最初の西洋料理屋外国亭を営んだ鬼塚仁右衛門、早くバナナを輸入した長谷川佐吉などの墓があるのも、いかにも神戸らしく開化の世相をしのばせる。》

《そうして村上華岳の墓の前に立ったのである。村上家の墓は、第十九区という、かなり奥まった高所にあった。雨後の神戸港がよく見えた。突堤には、外国船が並んでいる。》

f0307792_19354176.jpg

《この「村上華岳之墓」の文字は、華岳みずから書き残していたものである。没後に遺作・遺稿を整理していると、この揮毫があらわれたので、そのまま墓に用いたと、長男常一朗さんはいわれる。》

《わたしが墓のスケッチをしていると、百艸さんがぼそぼそとした口調で語った。
「三ノ宮の"ブラジレイロ"に、よくコーヒーを飲みに来ていた。日本人ばなれがしていたな。ヨーロッパ人というんではなく、インド人、あるいは南方の外人といった感じだった。顔色は浅黒くて、くすりのせいか、色つやはわるかった。一度も話しかけたことはなかったが……」》

《花隈の華岳邸には、おびただしい蔵書があった。常一朗さんが『神戸新聞』(昭和四十九年一月二十五日)に書かれた文章によると、地理・宗教の本が最も多く、アメリカの東洋学者グリフィスや、ドイツの東洋学者ル・コックの大著述もあり、イタリア中世の宗教画家ジォットーやアンジェリコ、イギリスの詩人・画家ブレークの画集を座右にしていたという。日本人の詩集も多く川路柳虹・千家元麿・日夏耿之介・萩原朔太郎・竹内勝太郎・宮澤賢治などの詩集が目立ち、そのかわり小説類はほとんどなく、あってもほとんど開いてなかったそうである。》

宮澤賢治の詩集があったというのは気になる。華岳の歿年が昭和十四年、賢治は昭和八年歿、生前の詩集は『春と修羅』(一九二四年)だけだから、ほとんど売れなかったというこの詩集を華岳は持っていたのか?

《制作・読書・思索に疲れると、華岳は散歩に出る。花隈の坂を元町のほうへくだって、洋書などを輸入し寿岳文章『ブレイク書誌』などを出版した"ぐろりあ・そさいて"[ママ]に必ず立ち寄り、ロゴス書店や骨董屋をのぞき、画集・宗教書やインド・中近東の工芸品をしきりに買った。そのとき一服するのが元町一丁目に近いコーヒー店"ブラジレイロ"で、常一朗さんもよくつれていってもらったという。百艸さんはそんな日の華岳を見かけたわけである。》

華岳の暮らし振りは理想的ではないか。


岸百艸『百艸句稿 朱泥』
http://sumus.exblog.jp/11588991/

『書彩』第九号(百艸書屋、一九六〇年五月)
http://sumus.exblog.jp/6368808/

『書彩』3
http://sumus.exblog.jp/11652790/
[PR]
by sumus2013 | 2013-11-05 20:40 | 関西の出版社 | Comments(2)

平野甲賀の仕事 1964-2013 展

f0307792_176722.jpg


f0307792_17559100.jpg


f0307792_1754762.jpg


f0307792_1753933.jpg


f0307792_1753260.jpg

『平野甲賀の仕事 1964-2013 展』(武蔵野美術大学美術館・図書館、二〇一三年一〇月二一日)を頂戴した。深謝です。十二月二十一日まで武蔵野美術大学美術館展示室3で開催中の平野甲賀展の図録。

二〇一一年に平野の装幀本四〇〇冊およびスケッチブック、ポスター原画、未発表資料が同館に寄贈された。それを記念した展覧のようである。掲載の図版で珍しいと思ったのはムサビ時代の様子を映し出したスナップ写真、そして津野海太郎、長田弘と始めた劇団「六月劇場」の舞台装置のスケッチ。これは平野が絵描きとして優れた感性の持ち主だということを証明している。色の使い方もシックだ。巻末にはムサビの学生たち(女子ばかり)十数人に取り囲まれている平野さん。ゆるキャラに見えてくる。

『平野甲賀装幀の本』(リブローポート、一九八五年)については『sumus 13』に書いたので参照されたし。もちろん本書にはそれ以降の平野装幀本も収録されている。さすがに石神井さんの『古本の時間』は出ていないが、坂崎重盛さん、中川六平さん、山田稔さん、石田千さん、内澤旬子さん、唐澤平吉さん等個人的に存じ上げている名前を見つけると嬉しくなる。

平野甲賀の仕事 1964-2013 ちらし
http://chirashcol.exblog.jp/18744774/
[PR]
by sumus2013 | 2013-11-04 17:34 | おすすめ本棚 | Comments(2)

クリップ

f0307792_20584879.jpg

『クリップ』(杜陵高速印刷株式会社出版部)の創刊号(一九八一年八月一日)および2号(一九八一年一〇月一日)を某氏より頂戴した。杜陵高速印刷株式会社出版部が刊行していた文芸誌(と呼んでいいだろう、この二冊に限ってはPR的な記事は見られない。強いて言えばカラー口絵や本文の印刷が見本代わりになるのかも知れない)。発行人の西野利夫は二〇一〇年の時点で同社の会長である。岩手県立図書館は十七号(一九八六年一一月)まで所蔵している。

創刊号の表紙は松本竣介のデッサンで、巻中にも竣介のデッサンが特集されている。カラー口絵「少女」も竣介の作品(とされているが、竣介らしくない筆致のようにも思える)。二号は表紙・口絵ともに原精一である。どちらも岩手県にゆかりの画家である。執筆者もおおむね岩手県の出身者か関係のあった人達だ。深澤紅子、高橋中彌、太田俊穂、石上玄一郎、佐伯郁郎、三好京三、柏葉幸子。長岡輝子、儀府成一、岩垂弘、須知徳平、儀村方夫、森三紗、原精一、森口多里。

f0307792_20581938.jpg


f0307792_20583688.jpg

森荘已池(もりそういち)宛の宮澤賢治の手紙も掲載。森の解説がなかなか楽しいもの。
f0307792_2058723.jpg


f0307792_20575761.jpg

HPによると杜陵高速印刷は昭和三十四年創業だから、宮澤賢治の『注文の多い料理店』を出版した「杜陵出版部・東京光原社」との関係はないだろう。賢治が親友と設立した杜陵出版部(光原社)は民芸品店・光原社として現在も営業している。

また盛岡には杜陵印刷という会社もあり、そちらは大正十一年創業で、少々ややこしい。要するに「杜陵(とりょう)」は盛岡の書き換え(森=杜、岡=陵)だから、盛岡印刷と盛岡高速印刷と盛岡出版部が互いにまったく無関係であっても不思議はないようだ。
[PR]
by sumus2013 | 2013-11-03 21:37 | 古書日録 | Comments(2)

石目

f0307792_21243186.jpg


f0307792_2018183.jpg

時里二郎『石目』(書肆山田、二〇一三年一〇月三〇日、装画=柄澤齊)読了。巻末の記載によれば時里さんはこれまで六冊詩集を出しておられ、最初の二冊『胚種譚』(一九八三年)『採訪記』(一九八八年)は湯川書房、そして『ジパング』(一九九五年)は思潮社、『星痕を巡る七つの異文』(一九九一年)『翅の伝記』(二〇〇三年)および本書が書肆山田。

書肆山田も思潮社も現代詩の版元としては知らぬ者はいない。ただ、先日、ギャラリー島田で湯川書房の『夢の口』を頒布しているときに詩人で評論も書かれる方が「湯川書房といえば、湯川書房から詩集を出している詩人で、ほら、加西の方に住んでいる人、誰だったかしら、最近物忘れがばっかりで…」とおっしゃる。もちろん時里さんのことを指しているわけだが、よほどその方にとっては湯川書房の詩集として印象が強かったのだろう。湯川さんは名のある詩人の詩集を相当数出しているにもかかわらず。

『石目』はそれらの作品群からも決して遠く離れたところにあるわけではない。ただ、しかし明らかにより深く身に迫ってくる文章の力のようなものを感じた。力というと誤解を招くかもしれない。このリアリティがあるのかないのか、ありそうでなさそうな、意味ありげで無意味な文字の集積が、まるで沼ででもあるかのように読む者を知らず知らずに柔らかい土の溜まった沼の底へ引き込んでゆくのだ。

散文詩というより綺譚というか説話風な構成の作品が目立つ。つい物語に寄りかかりそうになるのだが、そうするとスッと肩すかしを食わされる。虚実のあわいでプカプカ漂うような読書感だ。ほんのさわりだけ、表題作の冒頭二頁をスキャンしておくので、確かめていただきたい。

f0307792_20174740.jpg


f0307792_2018890.jpg

その作風について末尾に置かれた自作解説ふうの一篇「シイド・バンク」にこう書かれている。

《予(かね)て、私の歌のなかのどこを探しても私が見つからないことを難ずる批評がある。歌のなかに私がゐないことのみを歌の瑕瑾としてあげつらふのは承服しがたいが、歌のなかの私がどこに隠れてゐるのかといふ点については、実は私自身にもわからない。》

ところが著者は「シイド・バンク」という言葉を知り、発芽をじっと待つ土壌を自作の詩歌に当てはめてみるとなるほどと合点するという。

たしかに、そういうこともあるかもしれない。しかし小生などは、シイド・バンクと聞いたら美術家・河口龍夫の鉛に包み込まれた種子の作品しか連想できない狭量ぶりのため、言葉という繭のような鉛でくるまれた時里種子は放射線すら遮るうろのなかで半永久に発芽しないかもしれない、などという妄想にとらわれてしまったりする。発芽すればいいのか? そういうものでもあるまい。永遠の不毛にも意味がある。

とにもかくにも、ここ最近読んだ散文作品(詩とは限らない)のなかでは、当方はだいたいいつも大袈裟に褒めるくせがあるのだが、本書に関しては正真正銘「傑作」と呼び得る連作だと思う。小生が傑作だと連呼しても何の説得力も影響力もないだろうが、ここに一ファンがいるということである。
[PR]
by sumus2013 | 2013-11-02 21:23 | おすすめ本棚 | Comments(4)