林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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なつかしい青山虎之助君

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小島政二郎を取り上げたついでに小島の自筆原稿「なつかしい青山虎之助君」を紹介しておく。どこに発表されたものかは不明。四百字詰原稿用紙五枚に鉛筆書き。

  *

なつかしい青山虎之助君

こじままさじらう
小島政二郎

 あの頃は楽しかつた。
 五年近く、私は軍部に睨まれて執筆禁止を食つてゐた。文字通り五年間私は一銭の収入もなく、貧乏のドン底にゐた。その間どうして親子四人食つてゐたのか。私は取つたか見たかに金を使つてゐたから、貯金といふものを殆んど持つてゐなかつた。ヤミなんか出来ず、私は痩せに痩せてしまつてゐた。戦争がもう半年続いたら、私達は榮養失調で死んでゐたかも知れない。
 敗戦と同時に、「サンデー毎日」から小説の注文が来て、五年振りに私は原稿料といふものを貰つた。これがキツカケで、戦争前に書いて本になつた長篇小説、短篇小説を新しく出版させてくれと言つて、いろんな出版社が毎日三人も四人もやつて来た。
 しかし、いづれも名を聞いた事もない、俄か作りの出版社でーーいや、「社」とは言つても、正しくは出版者と言つた方がいゝ、一人か二人で始めた出版者ばかりだつた。
 そんな手合に大事な原稿を渡す事は出来ない。
 で、「誰かの紹介状を貰つて来たまへ」
 さう言つて帰し帰しした。中には、前金を置いて行かうとする者もあつた。
 知人の紹介状を持つて来た人には、ポツポツ本を渡した。出来て来る本を見ると、仙花紙といふ薄ツペラな、うしろのページの活字が、前のページから透いて見えるやうな情けない紙に印刷されてゐた。
 それでも、出せばよく売れた。一萬や二萬どころでなく、どの本も五萬十萬と版を重ねた。貧乏だつた私のところも、俄に金が入つて来た。
 金にはなつても、そんな古いものの蒸し返しでは、作者としては面白くない。
 そこへ現れたのが、新生社の「女性」だつた。寄稿を頼まれると同時に、編輯顧問になつてくれと頼まれた。求められた小説も、純粋の通俗小説でなく、と言つて藝術小説でもなく、あとで出来た中間小説風の小説だつたから、書き映えがあつて嬉しかつた。
 私は取ツときの材料で、「六月雪(リユユエシュエ)」といふ長篇小説を連載し始めた。「六月雪」といふのは、「初夏六月の青空のもと、一夜にして枝もたわわに雪(ゆき)が積つたかと紛(まが)ふばかりに素々[ママ]たる白い花を付ける白馨花(すゞかけ)の木、それを中華の俗に『六月の雪』と言ふ」と言ふ前書きを付けて書き出した。さういふ感じの女を書くつもりだつた。
 原稿料として一枚百円くれた。一枚百円の原稿料なんて、それまでどこからも貰つた事はなかつた。
 顧問を承諾して、一週間に一度顔を出す事を約束したのをいゝ事にして、私は混雑する横須賀線に乗つて度々上京した。東京は盛んに復興しつつあつた。
 新生社は活溌に活動してゐた。文藝春秋でさへ、まだ資金が出来ず、佐佐木茂索が東奔西走してゐた。
 「おい、誰でもいゝ、十萬か二十萬でも出してくれる人はゐないか」
 私の顔を見ると、佐佐木はさう言つた。私は新生社の社長の青山虎之助に頼んで見ようかと思つた。
 そのくらゐ[ママ]、新生社には毎日毎日金が入つて来るやうな景気のよさだつた。実際は知らないが、そんな様子だつた。見るから活気を帯びてゐた。
 雑誌ばかりでなく、新生社では出版を計画して、次々に書名を発表して予約を募集した。その方の金も振替で送られて来た。
 夜になると、東京は真暗になつた。その所々に、ヤミの料理屋が灯をともしてゐた。青山虎之助は、さう言ふ家をよく知つてゐて、中でも一流の家を贔屓にして、よく私達に御馳走してくれた。
 後には、寄稿家、或ひはこれから寄稿を頼まうと思ふ作家を十人ぐらゐ[ママ]づつ招待して、盛宴を張つたりした。正宗白鳥なども顔を見せた。
 青山虎之助が、佐佐木茂索のやうにもう少し経理に丈(た)けてゐたら、新生社の仕事はあのまま元気に今日まで続いたのではあるまいか。私は時々あの頃の盛んだつた新生社の編輯室の活気を思ひ出して、懐かしさに堪へない。

  *

(読めなかった文字は「帰し帰し」でした。ご教示に深謝いたします)

青山虎之助について永井荷風の『罹災日録』(扶桑書房、一九四七年)にはこう書かれている。昭和二十年。

《十月十五日 朝九時新生社社長青山虎之助氏刺を通じて面会を求む。 新刊の雑誌新生の原稿を請はる。 言ふ所の稿料鯵鯖と同じく物価騰貴の例に漏れず。 貧文士の胆を奪ふ。 笑ふべきなり。 此の日五叟子好晴に乗じ歩みて根府川辺に至り蜜柑を購ひかへる。 一貫目十五円なりと。》

「笑ふべきなり」は高笑いということだったようである。その証拠に荷風は翌月発行の『新生』第一巻第二号に「亞米利加の思ひ出」を出して、以後毎月のように寄稿しているし、『女性』にも創刊号(一九四六年四月)から寄稿し始める。青山は学生時代からの荷風ファンだったようだから、その得意満面を思いやるべし、というところだろう。

福島鋳郎『雑誌で見る戦後史』(大月書店、一九八七年)によれば、青山は実際に文藝春秋社に対して社員丸抱えのまま引き受けることを申し入れたようである。それに対する佐佐木茂索の返書が図版として掲載されている(内容ははっきり読めないが、まんざらでもない書きぶり)。また福島は新生社の没落の原因について次のように書いている。

《青山虎之助は、三一歳の若さであった。出版活動の他、野坂参三の帰国歓迎大会や、民間憲法研究会等の資金を援助、このあとも多岐に渡っていろいろな会のスポンサーとなったが、このことが新生社の経営に危機を招く結果となった。》

おそらく出版だけやっていても存続は容易ではなかったろう。ただ、青山にとっては思う存分に好きなことができた数年間だった。それ以上望むべくもないかもしれない。


新生社の代表青山虎之助について 神保町系オタオタ日記
http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20100710

女性 創刊号 花森安治の装釘世界
http://sotei-sekai.blogspot.jp/2011/01/blog-post_16.html

『女性』第二卷第九号
http://sumus.exblog.jp/7000962/

『東京』第四卷第七号
http://sumus.exblog.jp/15095669/

女性 スタイルブック
http://sumus.exblog.jp/17662446/
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by sumus2013 | 2013-11-30 21:52 | 古書日録 | Comments(6)

小説 永井荷風

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小島政二郎『小説 永井荷風』(ちくま文庫、二〇一三年一一月一〇日、カバーデザイン=多田進)読了。小島政二郎には『眼中の人』(岩波文庫)という傑作がある。忌憚のない語口においては本書も劣らないだろう。ただどうして「小説」と冠が付いているのか、事実ではないと言いたいわけでもないようだし、関係者をはばかって「小説」としたのか、それならもっと他に書き方もあったろうに、と思ったりもする。一部分、小説に仕立てたところもあり、この調子で書いてもよかったかもしれないが、全体としては評論ふうのエッセイといった体裁だ。実際、一九七二年に校正まで終えていたこの作品は永井家からクレームがついて出版されないままになっていた。ようやく二〇〇七年に鳥影社が刊行。そしてちくま文庫に入った。

芥川龍之介を描いた『眼中の人』もそうだが、本書は小島の荷風へ向けた一方的なラブレターのようなもので、それは同時に自叙伝にもなっている。小島は永井荷風が慶應義塾でフランス語を教えていたときにその生徒であった。荷風の礼賛者でもあった。その小島が自ら直に見た荷風や周辺の人々から聞き出した生々しい出来事を率直に綴っている。それは見ようによっては、恋情が余って落胆深く悪罵に変じるという感がなくもない。しかしその根底には荷風への愛があるためただの暴露ではなく「荷風論」に成り得ているとも思えるのだ。

なかで「なるほど」と膝を打ったのは、あるいは荷風好きの人には常識なのかもしれないが、荷風の作風の変化が幸徳事件の囚人馬車を目撃した日を境にしていることである。小島はその論拠に荷風の「花火」を挙げている。

《しかし、私は世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。私は自ら文学者たることについて甚だ羞恥を感じた。以来私は自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。その頃から私は煙草入れをさげ、浮世絵を集め、三味線を引[ママ]き始めた。》

荷風は「無力」を江戸趣味への隠居で中和しようとした。開き直った。そうできるだけの財産もあった。小島はそれが良くなかったと断言している。モーパッサンに刺戟を受けて試みて来た「小説」ではなく古くさい「物語」しか書けない荷風になってしまったと。しかし考えてみると、荷風の江戸趣味は中学生の頃からであって、この告白をそのまま鵜呑みにすることは出来ないようにも思う。ちょっとカッコ良すぎる。

それはともかく、出版に関することではいろいろ参考になる。籾山書店主と荷風の関係、『三田文学』創刊の事情、森鴎外との関係などなど。荷風の発禁本については丸木砂土のくだりが印象に残る。

《ところが、「ふらんす物語」ばかりは、どうした訳か、発売と同時に禁止されて、全部破摧されていまった。だから、内務省に納本された二冊しか残っていないと噂された。
 事実、私などはどんなに苦労して手に入れようとしたか知れなかったが、全然無駄だった。水上瀧太郎などは、後年作者から直接借覧してこれを筆写して持っていた。
 太平洋戦争中に、秦豊吉またの名、丸木砂土が鎌倉の私の隣へ疎開して来た時、彼が「ふらんす物語」の原本を持っているのを初めて見せてもらった。
「ヘエー、どうして、これを手に入れたの?」
 不可能に近いことをして入手したに違いない、そのイキサツが知りたくって、私は聞いた。
「これは内務省に納本された本の一冊だよ」
「だって、そんな本が我々の手にはいる訳がないじゃないか」
「それが、手にはいったんだから尚貴重じゃないか」
 そう言って、彼の友達が内務省の警保局に勤めていて、「ふらんす物語」のことが忘れられた頃、コッソリ盗み出して来たのだという話をしてくれた。
「幾らで手に入れたの?」
 文壇三吝嗇の一人である彼が、一体どのくらい出したのか興味があった。
「タダさ、タダで貰ったのさ」
 彼は「帝国文庫」の「西鶴全集」上下本も持っていた。今と違って、これ以外には「西鶴全集」はなかった。しかも、無数にある伏せ字に、こまごまと全部書き入れがしてあった。
 私は彼のビブリオメニア(書籍狂)の一面を初めて知った。その上誰かから原本を借りて、一々伏せ字に書き入れしたことは、大変な骨折りだったに違いない。その点をも、彼の好学心に私は敬意を表さずにいられなかった。》

「好学心」というのとは少し違うような気がするが……。

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この写真は雑誌『文学時代』第一巻第六号(新潮社、一九二九年一〇月一日)の口絵写真として掲載された「諸家の家族」より「小島政二郎氏・夫人・令嬢」(部分)。女優なみの器量と見える夫人だが、本書にも登場している。小説家は食えないものだ、それを証明するために小島は妻を島崎藤村の家へ連れて行く。

《一流の大家になってからも、藤村は麻布狸穴の、露地の奥の、崖下の、地震があったら一トたまりもなさそうな、日の当たらない、質素過ぎるくらい質素な貸家に住んでいた。私の女房が贅沢なことを言い出す度に、私は何も言わずに藤村の家の前へ連れて行ったことを忘れない。鏡花は終生二軒長屋の一軒に住んでいた。》

この話はよほど気に入っていたとみえ、終りの方にもう一度繰り返されている。

文庫の表紙に使われているのは荷風の自画像。「日和下駄」冒頭部分。荷風の絵は何点か実見したことがある。筋のいい素人という感じだ。『荷風全集』(岩波書店、一九七四年)の年譜によれば《「美術学校の洋画科を志望したが納れられず[略]」(『十七八の頃』)という談話の実体は未詳》となっている。画家になっていたら、さてどんな絵を描いたろうか、興味は尽きない。
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by sumus2013 | 2013-11-29 20:49 | おすすめ本棚 | Comments(3)

晶文社図書目録

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『晶文社図書目録1979』(晶文社、一九七九年)を入手した。『sumus 13』で晶文社を特集してもう三年半が経った。晶文社が文芸関連の新刊を出さないという決定をしたのが特集のきっかけでもあったわけだが、ここにきて再び晶文社オリジナルの文芸出版を開始するなど(内堀弘『古本の時間』がそれです)、世の中はどんどん変化しているのを感じてしまう。

sumus 13 晶文社特集
http://sumus.exblog.jp/12794876/

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『sumus 13』で復刻した『晶文社図書目録1973』は某氏にお借りしたもの。以来気にかけてはいるが、初期の目録は小生の視界には入って来ていない。架蔵では一九七八年版がもっとも古い。七八年からA5判になったのである。

73版と79版を較べてみると、と言っても本の並びではなく「常備寄託店一覧」だが、京都府では以下のようになる。左側が73版。右側の79版は73版に合わせて並び方を変えた。京都大学生協は吉田本町と吉田二本松町の二箇所ある。

駸々堂京宝店     駸々堂京宝店
文祥堂        文祥堂書店
三月書房       三月書房
オーム社書店     オーム社
京都書院河原町店   京都書院河原町店
京都書院いしずみ店  京都書院イシズミ店
駸々堂        駸々堂
丸善京都店      丸善京都支店
ふたば書房      ふたば書房
三月書房[誤植]
駸々堂三条店     駸々堂三条支店
万字堂
ミレー書房
京都大学生協     京都大学生協(本部)
京都大学生協
ナカニシヤ書店    ナカニシヤ書店
春琴堂書店
葵書房        葵書房
レブン書房      
整風堂
宮崎出町店
立命館大学生協
同志社大学生協    同志社大学生協
関東書籍京都支社
立命館大学衣笠生協  立命館大学生協(衣笠)
大垣書店       大垣書店
山本聖文堂      山本聖文堂
葵桂店
           銀林堂
           アオキ書店
           洛陽書店
           洛陽書店同志社女子大店
           リーブル京都
           駸々堂近鉄店
           浪江文明堂[舞鶴市]


以上。現在も営業しているのは大学生協を除くと、文祥堂、三月、ふたば、葵、大垣、銀林堂、洛陽、リーブル(新社)、浪江……かな?
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by sumus2013 | 2013-11-28 20:37 | 古書日録 | Comments(0)

京の展覧会めぐり

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岡崎神宮道へ出かけた。地下鉄東山下車。まずは星野画廊で生かされた女性美展を見る。大正時代を中心とした美人画ばかりだが、これがなかなか星野さんらしくていいコレクションだった(もちろんほとんどは売り物です)。甲斐庄楠音や岡本大更、島成園あたりがやはり実力派だろう。ただ、作者不詳のなかに惹かれる佳作がいくつもあった。上図などいかにも大正初めのあまちゃんな感じが出ていてそそられるのだ。サインは「左伊」。サインではないのかもしれないが、やはり署名と考えるのが自然か。

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つづいて徒歩二分と離れていない GALLERY FUKUMI SHIMURA で「裂絵による蒼穹譚/絵 柄澤齊、裂 志村洋子」を見る。この場所にはかつて山総美術という画商画廊があった。小生が京都に住み始めた頃にできた画廊で、青木敏郎展(一九八四年)は話題になったし、実際記憶に残る展覧会だった。バブル崩壊後その画廊がなくなってから、何度かテナントが変ったように思うが、今またギャラリーに戻っていたのだ。しかも志村ふくみの名前が冠されている。知らなかった。

つづいて、その向いの画材店博宝堂の二階ギャラリーでノブコウエダさんのインスタレーションを拝見する。今回は本の形に彫刻した大理石がチャーミングだった。

ここまで来たら山崎書店を覗かないわけにはいかない。久し振り。二番目の部屋と三番目の部屋の中央にあった本棚を二本とも取り払って、見晴らしのいいスペースに改装していた。これは圧迫感がなくていい。ちょっとしたトークショーなんかできそうだ(二階もギャラリーとして使っているが)。壁の空いたスペースには絵画や自筆の書簡なども展示されていて、そちらの方が最近は本よりも気になっている。今日もちょっと欲しくなるものを見つけてしまった。山崎さん不在で値段が分らず、ある意味、ホッとする。

地下鉄で市役所前まで戻り、アスタルテ書房がどうなっているか確認し(いまだ閉まったままでした)、鴨川を渡って新門前の CAFE GALLERY フク和ウチへ。赤井稚佳銅版画展「本と物と人」を見る。拙宅のつい目と鼻の先に住んでおられるイラストレーターさん。彼女も読む人を描く。いい仕事だ。
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by sumus2013 | 2013-11-27 20:43 | もよおしいろいろ | Comments(0)

古書店標

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レッテルは昔のスタイルの書店標には似つかわしいと思うが、最近のこの手のものをレッテルとは呼びにくい。とりあえずは「古書店標」としておこう。「古書赤いドリル」などいくつか頂戴したので関西の同種のエチケット(ラベルということです)も取り合わせてみた。「¥500」とあって寝転がる裸体の図柄は神戸の「ちんき堂」さん。
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by sumus2013 | 2013-11-27 19:52 | 古書日録 | Comments(0)

第1回デモクラート美術展目録

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日曜日、街の草での収穫はこれにつきる。「第1回デモクラート美術展目録」。B4用紙二枚折。昭和二十六年六月十六日から二十四日まで大阪市立美術館で開催された「デモクラート」の旗揚げ展。出品者は瑛九、郡司盛男、早川良雄、泉茂、河野徹、森啓、棚橋紫水、外山彌、内田耕平、吉田利次。

デモクラート1951~1957
http://artand.ojaru.jp/artand26.html
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by sumus2013 | 2013-11-26 21:11 | 古書日録 | Comments(0)

宮本常一と岡本太郎

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宮本常一と岡本太郎
日本を見つめた二つのまなざし

2013年11月24日〜

周防大島文化交流センター
http://www.towatown.jp/koryu-center/koryu.html
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by sumus2013 | 2013-11-26 17:06 | もよおしいろいろ | Comments(0)

書物 桐月号

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摘星書林さんの箱で見つけた雑誌は秋朱之介編輯『書物』桐月号(三笠書房、一九三四年三月一日)である。今、書棚を探してみると、同年五月号と九月号が見つかった。その頁の間に『書物』の検索結果(近代文学館)をプリントした紙が挟まれており、それによれば一巻一号(一九三三年一〇月)から三巻四号(一九三五年六月)まで十三冊所蔵されている。念のため検索し直してみたが、今現在も所蔵データに変化なし。

巻頭の文章は富田幸「ディイトリツヒシュタイン文庫」。同文庫の紹介と前年にそこから七九五点が競売に付されたことが報告されている。口絵写真より同文庫の一室。
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The library at the Mikulov chateau
http://www.rmm.cz/english/expozice_rmm.html

http://www.mzm.cz/en/dietrichstein-palace/

ラディゲ『ドニイズ』(日本限定版倶楽部)の刊行案内がなかなか鮮烈だ。
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しかし、もっとも引きつけられたのは百田宗治のエッセイ「半日」である。おそらく昭和九年の一月頃(?)、その半日の行動を記した内容だが、そこに高祖保が登場している。こういう発見はかなり嬉しい。

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外村彰『念ふ鳥』によれば、高祖と百田の関係はこんな感じである。

《百田は第三次『椎の木』で新詩運動への理解を示し、高祖保などの若手詩人に発表の場を提供し、椎の木社から彼らの詩書を数多く刊行した。》

《昭和八年九月二十五日、銀座の明治製菓三階で『希臘十字』出版記念会(山本信雄『木苺』と合同)が開かれた。阪本越郎、乾直恵、百田宗治や青柳瑞穂、初対面となった田中冬二(一八九四〜一九八〇)、また村野四郎ら十七人が出席している。》

《高祖保は『椎の木』の編集を手伝っていた昭和九年の前半、よく百田の家に通っていた。だが十一年の同誌廃刊によって、両者が顔をあわせる機会は減った。》

『書物』の百田の文章を読むと、ここでもやはり高祖は手伝っていたというよりも編集を取り仕切っていたようなニュアンスがある。根っから編集や出版が好きな人だったんだなと思う。

また、『書物』巻末の秋による「字幕」(編集後記のようなもの)には「校正を了へて」という見出しで次のように書かれている。これがあったため摘星書林さんは「林さんに…」と言ってくださったのだった。

《白水社の出版物の装幀や雑志[ママ]作品でおなじみの画家佐野繁次郎氏が、是非堀口先生の乳房の挿画を書かしていただきたいとのことで、氏の最も自信にみちた原色挿画五枚を乳房のさしゑとして挿入することになつた。鳥の子紙刷の詩集乳房は、かくて綿上綿を重ねた美本として出来上ることであらう。
 目下作製中店頭へは出しません。

待ちに待つたジイドのモンテエニユ論の原稿がやうやく編輯者の手に廻つた。法政大学の先生となられた淀野隆三氏の名訳、ここに愈々上梓の運びとなり着手いたしました。私はこの本を書痴王鈴木信太郎先生を驚かせるために出来るかぎりのぜいたくを尽して作製します。》

『佐野集成』を見ると、堀口大学『ヴェニュス生誕』(裳鳥会、一九三四年)の表紙画を佐野繁次郎が担当していることが分るが(しばしば古書目録で見かける本ながら限定版だけに高額である)、ここで言う「詩集乳房」が刊行されたのかどうか、寡聞にして分らない。ウィキによれば堀口の詩集として《詩集乳房 岡本太郎画 ロゴス 1947》というタイトルが挙がっている。さて、佐野の挿画が使われた本があるのだろうか。

また、淀野訳『モンテエニユ論』は昭和九年に三笠書房から発行された。それは架蔵しているが、この文章によれば秋朱之介の作った特装本があるということになる。さて、さて、こいうのは困りますな。
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by sumus2013 | 2013-11-25 21:06 | 古書日録 | Comments(2)

百窓市

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神戸北野町の浄福寺へ。百窓市。午前十時四十分ころに到着。開店から十分経過しただけ。ところがすでに会場は押すな押すなの人だかり。満員鮨詰め状態だった。あいやー、これは甘かった。MNカップルはそれぞれ両手に何十冊も抱えている。気を取り直してあれこれ細かいものを抜き取る。摘星書林さんの箱から貴重な雑誌を頂戴する。「林さんのために持ってきていました」という泣けるお言葉。実際、これは有り難い雑誌だった(改めて紹介します)。

主催者の小野原さんはじめいろいろな人たちと立ち話できたのも良かった。百窓文庫さんは本格的に古書営業をされるかもしれないとのことで、ワイン箱内の品揃えも群を抜いていたような気がした。他の出店者もみなさんそれぞれひとくせある内容で北野の山の上まで登って来た甲斐があった。

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百窓文庫 百窓市のお知らせ
http://hundredswing.wordpress.com/2013/10/29/百窓市のお知らせ/

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浄福寺を後にして、ギャラリー島田をのぞいてから、阪神武庫川へ。古書店街の草。二月以来。

おひさしぶりです、街の草
http://sumus.exblog.jp/19965698/

自宅の本棚を整理したそうで、これまで見なかった詩集類が増えていた。紙もの、資料的なものをいくらか求める。近くの喫茶店アルハンブラでしばし雑談。あまり景気のいい話はないが、それでも道端で貴重な古本を拾った話など面白く聞く。

梅田へ出てヨドバシカメラをちょっと覗く(すごい人出で圧倒された、中国語のアナウンスがひっきりなし)。帰宅。日が暮れるのが早くなった。
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by sumus2013 | 2013-11-24 20:14 | もよおしいろいろ | Comments(5)

ウンテル、デン、リンデン

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『Album von Berlin, Charlottenburg und Potsdam - 5 grosse Panoramen, darunter ein farbiges, und 131 Ansichten nach Naturaufnahmen in Photographiedruck.』(Globus Verlag, no date c.1900)という馬鹿に重いベルリンの写真集を買った。三百円だったので、コラージュの材料にぴったりだと思ったのである。一九〇〇年頃のベルリンとその郊外の様子が大判のモノクロ写真で再現されている。ゆっくりめくってみると、どうしてなかなかよく出来ている。

ドイツ語は解さないし、ベルリンにも行ったことはないが「UNTER DEN LINDEN ウンテルデンリンデン」くらいは読める。ベルリンの目抜き通りで「シナノキの下」という意味。シナノキは菩提樹とも言う。この写真集もブランデンブルグ門から始まりウンテルデンリンデンへと続く構成になっており、何枚もウンテルデンリンデンの写真が収められている。

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もちろん「ウンテル、デン、リンデン」を記憶に留めたのは、森鴎外「舞姫」を教科書で習ったときだった。架蔵の『改訂水沫集』(春陽堂、一九〇六年)から該当部分を複写してみるとこういうふうになっている。

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《菩提樹下と訳するときは、幽静なる境なるべく思はるれど、この大道髪の如きウンテル、デン、リンデンに来て両辺なる石だゝみの人道を行く隊々の士女を見よ。云々》

鴎外の留学は明治十七年から二十一年まで。ベルリンには二十年四月に移っている。鴎外のベルリンとこの写真帖のベルリンではおよそ二十年の隔たりがあるわけだ。

前田愛「東ベルリンの「舞姫」」
http://sumus.exblog.jp/18345560/

下は太田豊太郎がエリスと出会う古寺のモデルとされるマリエン教会。
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《今この處を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。被りし巾を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我足音に驚かされてかへりたる面、余に小説家の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁を含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心き我心の底まで徹したるか。》


Unter den Linden – Berlín(近年のウンテルデンリンデンの四季)
http://www.viajejet.com/unter-den-linden-berlin/
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by sumus2013 | 2013-11-23 20:26 | 古書日録 | Comments(2)