林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:うどん県あれこれ( 28 )

錦渓集初篇再版

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中桐絢海編著『錦渓集寒霞渓記勝初編』(発行所=紅雲亭、発行者=木村弥助)の初版を昨年の百万遍で入手した。

中桐星岳『錦渓集 寒霞渓記勝初篇』(紅雲亭、一八八九年)

中桐絢海については以前かなり詳しくその著書を読み解いたので、記憶されている方もおられるかもしれない。讃岐の医師でいわゆる文化人と言っていいだろう。

中桐絢海『観楓紀行』

その後ヤフオクに『錦渓集』の再版本が出ていると某氏よりお教えいただき、さっそく入札すると競合する者もなく無事スタート価格で入手できた。綴じ糸が少しゆるんでいる他は良い状態である。上がその表紙。以下は扉、挿絵、奥付。

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そして初版の『錦渓集』。状態は悪いが、なんとか本文は無事である。再版では木版摺りの部分以外は活字を組み直してあるようだ。初版が明治二十二年十一月二日で再版が明治二十七年七月二十日ということは五年近くの隔たりがあるわけだから、活版直刷りなら当然組み直しということなる。

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内容は小豆島の紅葉で有名な寒霞渓について言及された漢詩や漢文を集めたアンソロジー。明治二年に東京朝野新聞の成島柳北がこの地を訪れて絶賛したところから一躍内外にその名勝ぶりが知られるようになり、次々と有名人が訪ねてくるようになった、というようなことらしい。

巻頭の揮毫「錦渓集」は梧楼と署名されている。おそらく三浦梧楼であろう。萩出身の軍人で、明治十九年より二十五年まで学習院院長だった。つづいて成斎書の「秀気一所盤磚」、成斎は歴史学者の重野安繹か。寒霞渓を描いた挿絵「神懸真景」は東讃奚山仲陳年という署名があるが、この人物については不明。さらに王治本の揮毫「模水範山」、王は明治十年に来日し漢詩を通じて多くの日本人と交わった。そして序文(述)は六石片山達、高松藩儒であった片山恬斎の子で藩校講道館の教授をつとめた。維新後は判事などを経て帰郷、私塾を開いた。序を書くのは弟子の三野知周。次いで中桐星岳の「小引」が来て、ようやく本文が始まる。そこには成島柳北、韓中秋、小野寺鳳谷、岡本黄石、山田梅村……藤澤南岳、江馬天江、長三州ら三十数人の詩文が収められている。跋は藤澤南岳(寒霞渓の名付け親)。中桐星岳の非常な情熱を感じさせる編輯ぶりである。

第二集も出ているようだが、さて入手できるだろうか。


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by sumus2013 | 2017-01-24 21:07 | うどん県あれこれ | Comments(0)

凋傷何必

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しばらく前になるが、こんな軸を買った。「五山」とあるから菊池五山だろう。クセのある筆致で書かれた五山の漢詩は今日でもしばしば見かける。よほど需要があったものと思われる。貧生でさえこの他に色紙ほどの大きさに書かれた漢詩をも架蔵するのだから。この軸は七言絶句のようだが、例によって読めない。こんなもんかいなという程度で読んでおく。御叱正をお待ちする。

[小鈴雪]
 凋傷何必[1]青腰
 木荷風光更是饒
 一抹斜陽天亦酔
 酒亭隔水近相招
  舎北[2]荷景物殊[3]
        五山 [?][無絃]

木荷というのはツバキ科の樹。青腰がよく分らない。[1]は抬?、[2]は捨、[3]は座であろうという御教示をたまわった。深謝です。もう少し考えさせていただく。

新たに御教示コメントいただいた。

凋傷何必[恨]春腰
木[落]風光更是饒
一抹斜陽天亦酔
酒[寄][隠]水近相招

舎北[揺][落]景物殊[佳]

[1]恨は納得。「春腰」もなるほどと思われる。[2]揺、[3]佳はたしかにこれでピッタリだ。「落」としたところは陸游の「舎北揺落景物殊佳偶作五首」と同名とのことでもっともである。パッと見「落」には見えないのだが、たしかに落でいいような気がしてきた……。[寄][隠]はどうだろう。いずれにせよ皆様のおかげでだんだんピントが合ってきた感じがする。深謝です。

おおざっぱに五山の書斎である五山堂から見える風景を嘆賞しているということでいいと思うが、富士川英郎『江戸後期の詩人たち』(麥書房、一九六五年)によれば五山堂は以下のような質素な佇まいだった。

《中年から晩年にかけての五山は本郷一丁目あたりに住んで、徒弟に詩を教えながら暮らしていた。しかし、その五山堂は大窪詩仏の詩聖堂のような派手なものではなかったらしい。彼自身、『五山堂詩話』巻一で、「余貧にして書を貯ること能わず。偶ま購い得しもの有るも、早く已に羽化し去れり。筐中、集五部を留むるのみ。一は白香山、一は李義山、一は王半山、一は曾茶山、一は元遺山、此を外にして有るなし。因て五山を以て、堂に名づく。》

富士川はさらに森銑三「酔桃庵雑筆と無可有郷」から鈴木桃野『酔桃庵雑筆』を引用している。そこにはこのように書かれているそうである。

《五山がり行きたれども、これもよくもてなさず。且つ五山が家は甚だ不雅なりとて、こちらより見限りて行かずといへり。其故はいかにと問ふに、入口に額もなく、床に懸物もなく、机上に文房、内宝もなし。木地呂色の硯箱に筆墨一揃へ入れたるが、唐机の上に一つあるのみ。談話もまた一通りの言にみにて、持て行きたる詩草も、口のほど一二首読みたるままで彼机上に差し置きて、異日来ます時迄に見置くべしといひたるばかり、詩の談話もなし。かかる人の所へ行きたりとて何の益あらんといひてけり。これにて思ふに、京坂の人は風流なるやうなれども、金銀を取る事の上手なるを知れり。》

これは桃野が梅陀という頼山陽の門人だったという人物から聞いた話である。梅陀が江戸に出て来て山陽の勧めに従って江戸でナンバーワンの詩人、佐藤一斎と菊池五山を訪ねたところ、どちらにも冷たくあしらわれたという愚痴なのだった。愚痴であっても書斎の様子が伝え残されたというのだからお手柄であろう。

簡素な五山堂で《木地呂色の硯箱に筆墨一揃》を用いてこの漢詩を揮毫した……そう思うと見え方も少し変ってくるような気がする。

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by sumus2013 | 2016-05-08 22:07 | うどん県あれこれ | Comments(3)

市川箱登羅日記

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『歌舞伎』第四号(歌舞伎発行所、一九〇〇年七月六日)。この雑誌は本日のお題とは関係がない。歌舞伎と名の付く資料はほとんど持ち合わせていないのだが、何かないかとさがしていたらこれが手に触れたというだけのこと。ただ明治三十三年発行の第四号はそうそうは見ないと思う。

ついでに中を覗いたら鏑木清方の挿絵二点が。清方は明治二十七年の十七歳頃から挿絵の仕事を始めている。しかし成長とともに挿絵だけでは物足りなくなってきた。『歌舞伎』のこの挿絵を描いた次の年になるが、仲間らと「烏合会」を結成し、挿絵ばかりでなく「本絵」(展覧会で発表するための作品)にも力を入れ始める。ちょうど青雲の志が胸に渦巻いていた時期だろう。いまだ後年の清方をこの挿絵から想像するのはやや難しいものの、何と言うか画筆のしなやかさはさすがだと思う。

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さて本題。『歌舞伎』は『歌舞伎』でも『歌舞伎 研究と批評』55(歌舞伎学会、二〇一五年一二月一〇日)。某女史よりこの雑誌を頂戴し、ほとんど必要最小限の知識しか持ち合わせていない分野なのでざっと目を通してすまそうと思っていたところ、おや、と目を惹く長尺の読物があった。

菊地明「市川箱登羅日記(四十九)大正三年六月〜七月」。読物ではなく日記の翻刻であった。これがまた巡業の日々におけるさまざまな出費をこと細かに書き記した内容で、なんとも貴重この上ないもの。しかも驚いたことに七月一日には讃岐の高松へ渡っている。これは中桐絢海の『観楓紀行』以来のうれしい収穫。

観楓紀行10 高松港

七月一日、市川箱登羅一行は尾道から高松へ向かう。汽船香川丸に一座残らず乗船(ただし船が嫌いな者は汽車にて出発……とあるが、どこかで船に乗らなければならない)、午後二時出船。午後七時五分高松港着。宿からの迎えの車あり(人力車らしい)。箱登羅一行は丸山旅館へ七時二十五分安着(どうです、この細かさ)。この日より日差しきびしく九十度以上。むろんこれはファーレンハイト(華氏温度)であるからセルシウス(摂氏)に直せば三十二度少々になる。

七月二日は金比羅参詣。今でこそ金比羅歌舞伎などと大流行りのようだが、徳川時代に繁栄した金比羅大芝居も明治以降はすっかり寂れてしまっていたようだ。日記には芝居小屋などについて一言も触れられていない。

七月三日 歓楽座初日。巡業中の演目はずっと「だんまり」「仙台御殿」「紙治」「鞘当」の五幕だったそうだが、この日は「だんまり」は省略された。初日は午前十時から幕が開く予定が遅れて十一時に始まり午後四時四十分に終っている。

七月四日 十一時半楽家入り。午後三時過ぎ帰宿。

七月五日 十一時半楽家入り。《此日日曜にて見物よし》。午後三時過ぎ帰宿。

七月六日 この日は宿や車夫、スタッフ全員に茶代・心付・祝儀を出す。

《堀越氏ニ連られ 我等 福之助 楠瀬 状書 留床 土手供いたし水野支店海水掛店へ行 夜食御馳走ニ相成 片原町道具や二軒へは入り 十一時帰宿致し直ク寝ル 入用 十六円種々出銭 外ニ二十八銭伊東立替 〆金十六円二十八銭 入金十五円成駒家ヨリ頂戴ス》

片原町は繁華街である。現在も長大なアーケード街として賑わっている。成駒家は初代中村鴈治郎。箱登羅の師匠。

七月七日 舞台が終ってから栗林公園を見物。

七月八日 《歓楽座千穐楽 是ニテ巡業終 此夜高松ヲ出立》 宿へ勘定する。宿の払い四円八十五銭。築港桟橋さんえ社より第十五宇和島丸に乗り込む。午後八時二十五分出船。

七月九日 午前二時過ぎ起きる。午前三時十五分神戸港へ着。四時過ぎ出船、六時過ぎ川口(大阪)へ着。電車から阪堺電鉄で帰宅。《高松滞在八日間入用 金二十四円九十一銭

大正三年の一円は今の三千円前後の感じではないかと思う。



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by sumus2013 | 2016-03-21 20:40 | うどん県あれこれ | Comments(2)

画人蕪村

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河東碧梧桐『画人蕪村』(一九三〇年六月一〇日三版、中央美術社)が格安で出ていたので買ってしまう。題字はむろん碧梧桐。先日の展示会を見て以来なんとか碧梧桐に関するものをと思っていたが、手始めはこのくらいの古本から。

本書には与謝蕪村ついての詳細な論考あり、青年蕪村が主人公の小説あり、蕪村作品を入手した経緯をつづる随筆あり、と碧梧桐思うがままの編集。著者の蕪村に対する執着がよく伝わってくる内容である。蕪村研究書としても早い時期のもののようで『与謝蕪村 翔けめぐる創意』展図録(MIHO MUSEUM、二〇〇八年)に掲載される参考文献リスト(刊行年順)ではトップに置かれている。

ここでは与謝蕪村の讃岐時代に関するところだけを紹介しておく。蕪村は明和三年(一七六六、数え歳五十一)春第一回の渡讃をした(望月宗[ママ、宋]屋追善集『香世界』)。同年冬から翌四年春へかけて二度目の讃岐滞在(望月武然の歳旦帖『春慶引』および『香世界』)。一旦京に戻り、明和五年春ふたたび出遊した。これが三度目。ただしMIHOの図録の年譜では明和三年秋讃岐地方へ赴くとあり、四年に宋屋一周忌のために京都に戻って、ふたたび讃岐へ。五年四月帰京としている。

《翌五年丸亀妙法寺に滞留してゐたやうである。讃岐は丸亀以外主として高松、琴平の知人の許に寄食してゐた。左様に頻繁に往来してゐたにも関らず、其の遺作は可なりに纏つてゐる。》

どうして讃岐へ渡ったのかという疑問に対して碧梧桐は次のように推測している。

望月武然は望月宋屋の弟子であった。武然には讃岐琴平に弟子がいた。宋屋と蕪村はともに巴人の弟子であった。武然を通じて讃岐の俳人(暮牛、文路、鯉人、柱山)たちと知り合った。

琴平には琴平七軒という富家があり、いずれもかつて菩提寺は丸亀妙法寺だったという。そのなかの菅氏に暮牛が、荒川氏に文路がつながるのだと古老から聞き取っている。蕪村が滞在した高松の三倉屋も彼らの縁故であろうという。また《西讃に客して東讃の懶仙翁に申おくる》と前書きのある俳句が発見されているところから東讃へも足を伸ばしたかと思われる。

  東へもむく磁石あり蝸牛

ただ望月宋屋が巴人の弟子だったのかどうか、今ここでははっきりさせることができない。下記サイトでは望月宗屋を巴人門とし『香世界』の望月宋屋は原松門としてある。

江戸時代俳人一覧

MIHO図録では宋屋が早く結城や江戸に滞在していた蕪村(まだ三十歳の頃)を訪ねたとしているから若い頃からの知り合いだったのだろうし一周忌にわざわざ帰京していることからしてかなり親しい間柄だった。

もう一つ、ひとしお興味深いのは碧梧桐の掘り出し話。

《琴平の荒川翁の懐旧談によると、琴平の栗屋といふ旧家で、五月節句の三反幟(三丈の反物二つを合せた幟)に、朱で鍾馗を書いたのが蕪村だといふことだつた。正面きつて立つた素晴らしい鍾馗だつた。後に森寛斎が来た時、伊勢屋といふのが、又た三反幟に朱で鍾馗をかいてもらつた。一時琴平での二本の名物幟であつたが、後に蕪村のは日覆になり、寛斎のは火燵蒲団の裏になつてゐた、といふ。》

まだこんな思い出が語られるような時代だったが、ある日、高松の高瀬屋こと厨司某が碧梧桐を訪ねて来た。昂奮した手つきで新聞に巻いたものを開いて見せた。

《何といふ精彩な筆なのだ。筆数も少い紙本の墨画ーー顔面其他に僅かに着色をして居るがーーではあるが、単に一時の即興でなぐりつけたものでなくて、十分な用意と、余裕のある準備をもつてかゝつた、言はゞ謹厳な作なのだ。》

《私はもう人の囁くのを待たないで、自分で自分に叫んだ。蕪村! 蕪村! 蕪村稀代の大作!》

それは「寒山拾得」を描いた横長の秀作で、それまで全く世間から忘却されていたものだという。

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《出所としてわかつてゐる唯一の事実は、高松から東にあたる某寺に保存されてゐた、といふだけである。昨夕何らの予告もなしに、真に突然に売りに来たのであつた。
 衝立か、壁紙にでも貼りつけてあつたのを、めくつて久しくしまひこんでおいた証拠には、横に二筋、縦に一筋、著るしい折目がついてゐる。》

《其後京都の表具屋に一見せしめた時、其の裏打ちをした厚紙なり、其の古びさから言つて、裏打ちしたのも、既に六七十年経つてゐると言つた。折目は裏打をしない前につけたのであるから、少なくも百年前後、どこか筐底に押し籠められてゐたと想像すべきである。》

またその数ヶ月前、播州龍野の知人宅で蕪村に関する蔵幅を見せてもらっていたとき久しく掛けっぱなしの煤けた小額面が蕪村の讃岐出立をするときの手紙だということに気づいて驚喜していた。

《……今明日斗之讃州と存候得は山川雲物共にはれを催す事に御座候……》

そしてそこへ「寒山拾得」の出現である。

《蕪村の霊感も余りに迷信的な言ひ分であるが、偶然なこの二つの奇縁は、更に第三の奇縁を生むのでないかの予感をも持たしめる。》

古本は古本を呼ぶ、古画もまた古画を呼ぶのだろうか。


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by sumus2013 | 2016-02-25 21:01 | うどん県あれこれ | Comments(0)

銅脈先生狂詩

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昨日の尚学堂さんではこのマクリを一枚買った。

 十方諸仏腹脹日
 一切衆生揉時気

  七月十四日 □詩中句
        [銅脈之章][太平館]

裏面に「銅脈先生」とある。畠中観斎の狂詩か。以前取り上げたことがある。讃岐生まれの詩人。京に住まいした。

銅脈先生『太平樂府』

浅学にして詩の意味はよく判らない。十方諸仏は『法華経』にあり、一切衆生は「一切衆生悉有仏性」(涅槃経)などと耳になじんだ言葉である。腹脹日は「はらふくるゝひ」でいいだろう。揉時気の揉にはいろいろな意味がある。「もむ」「やわらかくする」の他に「もつれる、みだれる」「曲げる」など。仏教批判でもあろうか……とヘタな考え休むに似たり。銅脈先生を調べておられる方より御教示をいただいた。

調べたところ、銅脈先生の詩は、最後の狂詩集『太平遺響二編』に「七月十四日」として載っているものでした。送り仮名も付されているので、それに従って読むと、

十方ノ諸仏 腹ノ脹ルルノ日
一切ノ衆生 気ノ揉メル時

浅学ゆえ不確かながら、盂蘭盆会にでも関係していると想像されます。
なお同書には「餓鬼宴」という五言絶句も入っています。

なるほど七月十四日という日付に注目しなければならなかったわけだ。仏たちがお供え物で腹がふくれる時に衆生は餓鬼道へ堕ちた亡き縁者のことを心配して気を揉むということになるのだろう。狂詩はこうでなくちゃいけません。




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by sumus2013 | 2016-02-13 22:00 | うどん県あれこれ | Comments(0)

衣更着信と中桐雅夫

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衣更着信『『荒地』の周辺』(書肆季節社、一九九一年七月一五日、装訂=政田岑生、装画=三好豊一郎)と衣更着信訳『人生摘要 英米現代詩集』(書肆季節社、一九八三年一二月一〇日)。

ごく最近、衣更着信の葉書を二枚求めたため、これらの著作を取り出してみた。他にも何冊か郷里の書庫に眠っている。二枚はともに中桐雅夫宛。右が昭和五十一年十一月二十一日香川三本松局消印、官製葉書。左が同じく昭和五十二年三月十一日消印、清水寺三重塔の絵葉書。

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官製葉書のスダチの話はたいへんよろしい。わが家にもスダチの木があるが、この時期までは徳島西部でしか生育しないと思われていたようだ。

三重塔はがきには《今度訳詩集を出すことになり後書きにあなたのことを書きました 夏までに出るだろうと思います》とあるが、この訳詩集が『人生摘要 英米現代詩集』になるのだろう。とすれば「夏まで」どころか六年半かかっている。その後書きを引用しておく。

《わたしが詩の翻訳をするようになったのは、あきらかに中桐雅夫の影響による。終戦間もなくの香川県知事選挙が、戦後の地方選挙を占うモデルとかで、各新聞社の本社記者がそろって高松へ来た。読売の政治部の少壮、中桐記者もその一人だったわけだが、顔を合わすなり、シットウエルの詩の一行の意味がなっとくできいなが[ママ]、おまえどう思う?といって、手近のメニュかなにかにそれを書いて見せた。それは戦雲の迫る昭和十六年にわたしが東京を離れて以来、戦争をへだてての再会であった。戦中戦後の一時期は、とてもカレンダーでは測れない長い苦しい時間であって、その間両人の生活にも兵役、病気、失業といろいろあったのだけれど、かれにとってはそんな話題は二の次なのであった。
 訳詩がそれほどの情熱に価するなら、自分もひとつやってみようと思ったのがきっかけであった。》

『『荒地』の周辺』の方には「中桐雅夫のこと」という一文がある。昭和十四年三月、神戸へ中桐を訪ねた。

《初対面の印象はやはり神戸の町なかの育ちらしい都会的な青年という感じがした。メイン・ストリートと思われる賑やか通りを、それから話しながら歩いたが、元町通りというところであったのかもしれない。国鉄の高架が商店街の片側をずっと走っているようであった。そのガード下の古本屋でどんな掘り出しものをしたかという話を中桐はした。そのころわたしたちは新刊はめったに買わず、古本屋でなにを見つけるかというのが大きな興味であった。後のち、古本探しは中桐の得意わざの一つであって、当人も自信をもっていた。ずっと後のことだが、銀座の教文館で偶然中桐に行き合わせたことがある。あそこは帰国するアメリカ人の宣教師が処分して行くのであろう、古書をたくさん置いてあった。その棚を彼が捜すのを見ると、一冊一冊指で抑えながら丹念に見て行くのである。なるほどあれなら掘り出しものもするであろうし、見逃しもなかろうと思ったことであった。》

衣更着信については以前も何度が触れている。

衣更着信詩集

笠原三津子宛葉書

衣更着信の死亡記事も何故かまったく関係のない文庫本の間からひょいと現れた。朝日新聞二〇〇四年九月二〇日。

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また書肆季節社の政田については頻繁に言及した時期があったが、久ぶりの登場となった。

政田岑生

北園克衛と政田岑生

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by sumus2013 | 2015-06-06 21:30 | うどん県あれこれ | Comments(0)

香泉遺稿

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『香泉遺稿』という漢詩集を入手した。ヤフオクに出品されているという情報を某氏より頂戴し、入札したところスタート価格で落札できた。表紙がとれているうえに本文の状態も良くない。虫穴もある。珍書であることに違いはないが、念のため検索してみると画像を公開しているサイトがあった。

香泉遺稿(神宮皇学館文庫)

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これが神宮皇学館本の奥付。《滑消斎蔵版/文化九年[1812]壬申十一月刻成》としてあるが、この度入手した架蔵本では文化九年壬申九月開彫/東讃 高尾伝弥著》となっている。本文はざっと見たところ同一だ。奥付だけ差し替えたか。開彫と刻成という言葉の違いに何かしら意味があるのだろうか。また高尾伝弥著とあるのだから香泉の名は伝弥だったと考えていいのだろうか。

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(文化八年辛未六月初八日付)は北山山本信有。北山は江戸の儒学者である。独学の穎才で多くの門弟を育てて一家を成した。序によれば大阪の友人泉子固を通して讃岐の高尾子浩(高松藩儒臣高尾椿渓の嫡男)から依頼があった。いわく子浩の弟弼が四年前に早世した、十九歳だったという、その遺稿集に序を乞いたいと。遺稿を転送してきたので見るとこれが清新ないい詩である。

弼字子長号香泉卒年十九豈不惜哉其詩高出脱格調家窮屈巨大纖微写所欲写言所欲言妙用自在不失詩家清新

北山はなかなか厳しい人物だったようだ。泉子固にも序文を頼まれたそうだが、それには応えていない様子である。しかし香泉の詩集には筆を執った。

編者である兄の高尾養(竹渓)の序(文化七年庚午秋八月六日付)によれば、弼は文化四年[1807]の秋、病にかかって急死した。時に年十九(満十八か)。臨終に当って弟は「死ぬのは仕方がないが、父母に孝行できないのが心残りだ」ともらしたという。遺品の詩稿を改めて読んでみると派手さはないけれどキラリと光るものがある。なんとかこれを出版して後世に伝えたいと思ったのだそうだ。

たしかに清々しい作品が揃っているように思う。三首のみ掲げてみる(上記サイトにて全編閲読可)。


  読書

 吾儂豈異蠹書虫
 心酔談玄興不窮
 空慕孟生能養気
 何論管仲徒成功
 読経深憶三乎理
 誦史太憐五噫風
 如稲如禾須勉力
 初知学問破昏蒙



  秋雨中作

 雲掩四山沛雨濛
 簷花銀竹湿簾櫳
 荷盤宛転玲瓏玉
 樹杪吹飄颯爽風
 禾穂軽黄残旧緑
 林楓直翠雑新紅
 鶉衣更怕星寒犯
 静聴愁魔又悩公



  冬日過吉子厚宅

 芒鞋鴨川涯
 訪来長郷宅
 歴霜楓葉
 衝寒橘実緑
 傾樽解酒情
 移榻錬詩格
 興来談尤清
 悠然襟慮適



本書の奥付に東讃とあるが、どこなのか、今すぐには知り難い。高尾という名字は小生の郷里にも少なくない。帰郷した折りに調査できればと思う。

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by sumus2013 | 2015-04-26 21:12 | うどん県あれこれ | Comments(0)

釜抜きうどん

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五日ほど帰郷しておりました。

贔屓にしていたうどんの六車(むぐるま)が再開しており喜ぶ。楽しみは釜抜きうどん。上のような状態でテーブルに運ばれて来る。それをよくかきまぜる(二枚目の写真)。ここに特製醤油を適量加えて食する。

六車うどん
https://plus.google.com/116590063879174422630/about?gl=jp&hl=ja


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by sumus2013 | 2015-04-16 15:04 | うどん県あれこれ | Comments(2)

観楓紀行10

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明治二十九年十一月二十二日。朝から烈しい雨。中桐絢海は雨を冒して石橋翁(石橋雲来)を訪ねて別れの挨拶をする。そこに先客として河内の人・氈受楽斎がいた。亀谷省軒の詩を受け取る。

《石橋翁云フ今日午後四時ヨリ安土町書籍商集会所ニ於テ書画会アリ青蘭女史ノ幹事ナレハ倘シ烈雨ニテ出船ノ延却スルコトモアレハ来遊セヨと予諾シテ辞去ス》

次いで緒方病院を訪ね、一緒に大阪まで同道した花川子(入院している)に別れを告げる。宿に帰ると久保墨仙が見送りに来ていた。墨仙は餞別に紅葉の図と瓢箪一個を贈ってくれる。

安治川町の船着場へ。午後二時三十分、高松直行の第二宇和島丸に乗船。満員だった。絢海が雨の中を急いで帰ろうとするのは、翌日、高松で中川愛山追善の書画展に出席するためだった。しかし午後四時頃、船長が悪天候のため明朝まで出船を見合わすと伝えた。

絢海は一旦宿に戻り、后岡真十郎らと松島の劇場で演劇を見物した。帰途、松嶋遊郭を散策して夜景を楽しんだ。

《近来広闊ナル遊里トナリ中道ニ櫻柳等ヲ移植シ紅葉ノ観ナシト雖モ両側ノ青樓錦繍綺羅ヲ列ス一巨樓アリ樓上ニ仮山ヲ築キ老樹鬱々トシテ碧落ニ聳出セリ加フルニ電燈輝々トシテ行人ヲ射ル樓ニ登ラントスルモ時間ノアラサレハ一段ノ恨ヲ遺シテ一首ヲ詠ス》

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『日本地理辞典』(郁文舎、明治三十九年)より


この夜は船中に一泊。二十三日、雨はようやく上がった。午前八時出発、神戸に着くころには風もおさまって日も暖かになった。一時間停船の後出航。淡路島に沿って進み、小豆島阪手沖を経て高松に帰着したのは午後六時頃だった。澱川樓へ駆けつけたところ、書画会は終わっていたが、まだ残客がいて大いにもてなしてくれた。その席を辞して双松園(絢海の高松の別宅か)へ帰り就寝。

翌日早朝より玉楮(たまかじ)雪堂(漆芸家)を訪問。さらに貴族院議員鈴木東洋邸を訪れて観楓の土産話をする。一番町の久保蘿谷を訪ねる。栗林公園の茶屋で二人で飲みながら、大阪で入手した琴石の画や省軒の詩を見せて盛り上がった。いい気分になっての帰り道、古馬場町の椎名南浦を訪問するも不在。双松園でまた一杯、午後十時頃蘿谷は去った。

二十五日。晴天。早朝より柏原病院を見学して朝食。表具師岡田清太郎が来たので琴石の画と省軒の詩を双幅に装することを依頼した。午前十時、東浜町の船宿で一酌して船を待つ。午後二時出船。帆船なので遅々として進まない。午後七時頃霜村湊に帰着。別業四時園に入って一酌して就寝。翌二十六日、本宅白雲黄葉居に帰り着き、子供等にお土産を渡し、つつがなく戻ったことを喜んで一杯やった。

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めでたし、めでたし。大阪から高速道路で高松まで四時間ほどの今日とは比べようもないのんびりした旅行記ではあった。それにしてもよく飲んでいる。それにも驚かされた。





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by sumus2013 | 2014-12-20 20:54 | うどん県あれこれ | Comments(0)

酢橘の熟れる里

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所用にて帰郷しておりました。実家の庭のスダチがすっかり黄熟していました。四国に雪が降りました。



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by sumus2013 | 2014-12-06 17:38 | うどん県あれこれ | Comments(2)