林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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倉田啓明綺想作品集

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『わが屍に化粧する―倉田啓明綺想探偵作品集―』(盛林道ミステリアス文庫、二〇一六年七月二一日)が届いた。倉田といえば『地獄へ堕ちし人々』(春江堂、一九二二年)に驚くような値段が付いているし、龜鳴屋さんでも傑作集を出している(完売)くらい奇特な作家のようだが、むろんどちらも所持せず、名前くらいしか知らなかった。いろいろな顔(作風)を持つ作家のようだということが本書を読んでいて分ったのはたいへんな収穫だ。

わが屍に化粧する―倉田啓明綺想探偵作品集―

目下のところ倉田啓明のウィキにも生年ははっきりと書かれていない。歿年はもちろん不明。ところが本書の解説片倉朝弥「本朝ぎさく気質」がなんとも執拗な追求ぶりで、とにもかくにも生年を記した資料を見つけておられる。

《倉田啓明 名は潔[きよし]。明治二十四年九月八日生。立教学院出身。「社会学体系序論」及び小説「地の霊」外五六編の作がある。現住所、日本橋浜町一ノ一七巴館》(『文章世界』大正三年三月十五日号「現代紳士録」)

これだけ分ればたいしたもの。ただ、それでも歿年はまだ不明のまま。

《探し出せた最後の小説は「仇討ち三味線」(『日の出』昭和十二・四)である。その後の消息は、杳として知れない。》

作品の評価についても片倉氏の一文を引いておく。

《倉田啓明が、谷崎潤一郎のような大作家に数えられることは今後も絶対にないだろう。一瞥すれば分るように、彼の作品には普遍的な芸術性というべきもは存在しない。あるのはただ、その場その場のモードに合わせて見繕った、一時的に消費されるだけの消耗品の味わいである。
 もっとも、その振る舞いを彼ほど突きつめたのは稀有な例だろう。生来の器用と無節操とで、明治末のデカダンスから大正の革命思想、昭和初期のモダニズムへと他の追随を許さないほど幾度も変化[へんげ]を繰り返した生涯は、倉田啓明という一人物に留まらず、彼の駆け抜けた時代をも雄弁に示すに至っている。普通は否定的に受け取られる変わり身も、彼の場合は魅力の一つとして特筆すべき域に達しているといえよう。大作家を読むのとはまた違った楽しみが、そこにはあるように思う。》

日本人の変わり身の早さに遅れまいと必死だった……そんな風にも思えて来る。

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by sumus2013 | 2016-07-21 21:03 | おすすめ本棚 | Comments(0)

高田渡1971 / TOKYO '70s

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佐治嘉隆『高田渡 1971 / TOKYO '70s』(佐治嘉隆、二〇一六年三月三〇日)。古本屋百年で三月末〜四月に開催された同名展覧会の図録らしい。装幀・印刷・製本も著者。

佐治嘉隆写真展『高田渡 1971 / TOKYO 70’s』

佐治嘉隆の●芭璃-BALI-の日々 ●日々の写真 ●ものlogue

写真展初日 / Snapshot -吉祥寺-

写真展最終日

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どれもいい写真だが、やっぱり、これ、高田渡が古本屋(?)で立ち読みしている図。奥の額は「耽読……」とだけ読めるが、お心当たりの方は是非御一報を。

もう一冊、似た感じの写真集を紹介する。今井雅洋『VEST POCKET KODAK』(二〇一五年)。高田渡の方はやや粗目のインクジェットだが、こちらは堅牢なコート紙を用いてもっと写真に近い仕上がりになっている。体裁も綴じずに挟み込むだけにしたところがナイス。

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作品も写真というより写真という媒体を使ったアートを目指しているようだ。コンテンポラリーとノスタルジーが同居しているような雰囲気が魅力。好きな作家である。

今井雅洋のアルテ・ガレッキ

今井雅洋 Photo Art 展

今井雅洋 Photo Art [debris](記憶ノ總体トシテノ)


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by sumus2013 | 2016-06-21 20:39 | おすすめ本棚 | Comments(0)

WAY OUT WEST

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古書善行堂へ。しばらくぶり。うらたじゅんさん作の大作を見せてもらう。善行堂はもちろん小生をはじめsumusの同人が"のすたる郡浦田町"の街角に勢揃いした情景が描かれた傑作。傑作にふさわしい上等な額縁も必見。高知での講演会などについていろいろ聞く。実り多き旅だったようだ。善行堂の奥方にも久しぶりでお会いする。帳場に二人向かい合って座る図はなかなかよろしいなあ。

『WAY OUT WEST』no.87(JAZGRA, 二〇一六年六月一日)をもらう。内容とデザインのクオリティがこれほど高いフリーペーパーはそうざらにはないだろう。表紙のイラストも手がけるデザイナーの藤岡宇央(たかお)氏がたったひとりで作っているのだそうだ。しかも赤字は一度もないとのこと。これも驚き。今号、藤岡氏による連載「DESIGNER'S NOTES vol.25」では「いいデザインって何よ?」と題して図と地の理論が展開されている。

《デザインの良し悪しの判断のひとつに、「レイアウトのバランス」がある。それこそが図と地の関係である。》

まさに同感。デザインというのはさまざまな要素を「どう並べるか」に尽きる。微妙な相互関係が「良し悪し」に響いて来るのは間違いない。そういう意味では『WAY OUT WEST』は言うことなしのバランスを保っている。

善行堂の連載「本の中の、ジャズの話」は知らないうちに63回目だそうだ。十分に一冊にまとめられる分量になっている。通しで読みたい人、少なくないはず……。


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by sumus2013 | 2016-06-09 20:49 | おすすめ本棚 | Comments(0)

損をしてでも良書を出す2

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河本亀之助は国光社の印刷部門を取り仕切っていたが、金尾文淵堂が企画した『仏教大辞典』が頓挫、そのため生じた損失の責任をとって辞任したようである。負債は九千円にのぼったという。明治四十年のこと。これをきっかけとして亀之助は印刷業(出版業)を始めることを決意した。

《追悼録によれば、蔵書三千余冊を売り払って得た六百円をもとにしたという。》

もちろん六百円では資本の一部にしかならないだろう。この金策については金尾種次郎が智恵をつけたのだと宇野浩二が書いている。

《その頃(明治四十一二年頃か)築地印刷所の重役をしてゐた、河本亀之助は、金尾をあまりに信用し過ぎて、金尾に大きな穴をあけられたのが元で、築地印刷所を引いて、洛陽堂という出版屋になった。しかし又、河本が、洛陽堂をはじめる時に、その資本として、蔵書を売る智慧をつけ、その相談をしたのも、前に書いたやうに、金尾であつた。》(『文学的散歩』)

「築地印刷所の重役」は誤伝、またこのとき亀之助が始めたのは洛陽堂ではなくて千代田印刷所であった。宇野の回想は割合と正確だと思うが、この記述は少々不正確に過ぎる。千代田印刷所の開業は明治四十二年二月二日。そして洛陽堂として山本瀧之助『地方青年団体』を出版したのが同年十二月十日である。すでに述べたように同年同月十五日発行の『夢二画集春の巻』が先に出来上がった。明治四十三年四月一日には『白樺』の発行名義元となり四十三年二月には武者小路実篤『お目出たき人』を刊行……以下の活躍ぶりは本書をごらんいだたきたいが、損をしてでも良書を出す生涯を貫くことになる。

恩地孝四郎は一ファンとして洛陽堂に竹久夢二の住所を尋ねたというが、その夢二の推薦で恩地が手がけた最初の装幀本は洛陽堂から出た西川光二郎『悪人研究』(明治四十四年刊)だった。

《国家社会主義者であつた西川光二郎氏が転進してたしか義勇教悔[誨]師といつたやうなことをやり初めの頃、その経験をかいた本。昔なつかしい洛陽堂刊。四六判五六分厚さの紙装のカバアに面、鬼のやうなのをいろいろかいたのである[。]僕、美術学校入りたて位の時か、夢二全盛時代、夢二君がやつてみないかと云はれて初めて公刊本の表紙といふものをかいたのである。明治末であつたらう。》(恩地孝四郎「装本回顧」)

古書関係でもっとも注目したのは亀之助の弟・哲夫が神田で古書店をやっていたというくだりである。カリフォルニア大学に留学して帰国したのが大正五年秋。

《私は、その当時、麹町平河町に居住して、しばらくの間、洛陽堂の企画、編集に参加しつつあったが、その後、神田神保町の電車通りで、「新生堂」という看板をかかげて、古本屋を開業していた。古本屋という商売には、全く無経験の私であったが、幸い、知人の紹介で、牛込の加藤古本店主人の指導を受けて、この商売について少しずつ勉強しながら、毎日、風呂敷を背負って古本の買い出しに出かけたり、古書の競り市場にもたびたび行ったものである。開店に際し、少しばかりの資本と、自分が在米中買い集めていた、約千冊ほどの洋書と、海外から輸入した、キリスト教や、美術書の古本などを加えて、開業したのである。当時の店の位置は神保町の電車通りで、今の都電停留所専修大学前で、富士見町教会からは、九段下を下れば、直ぐ近くにあったので、植村正久先生は、たびたび店に来られた。また、その当時のキリスト教会知名の先生や、作家、画家なども、この変わりだねの店の顧客であった。作家では、有島武郎、大仏次郎、武者小路実篤、木村荘八氏なども顔なじみの客であった。》(日本キリスト教出版史夜話(8)新生堂とその時代)

亀之助は大正九年に歿したため、哲夫は洛陽堂から完全に退いてキリスト教書の販売と出版に専念するようになった。そこへ関東大震災がふりかかる。商品家財のすべてが焼けてしまった。しかし新生堂古書店が焼け跡で復興するのは早かった。

《神田古本屋町の焼け跡へ真先に古本店を復活させたのは旧洛陽堂の主人の実弟河本哲夫氏で北神保町の新生堂がそれだ焦土の上で第一番に誰が何を買つたか「それは印半纏を着た労働者風の青年で一冊廿銭の古い聖書を買つて行きました九月廿八日のことです」それから一週間位の客は殆どすべてが労働者で一円以下の安い物ばかりが売れた、講談や小説の古雑誌が彼等に喜ばれるであらうといふ予期に反して有島武郎氏訳の「リビングストン伝」内村鑑三氏の地人論や「クリスト信徒の慰め」などが腹掛けの丼に収められた、最近漸く学生が一日二百名位づゝ来るが漁るものは大抵教科書、受験用書、辞書類である主人河本哲夫氏は加州大学の出身で芥川龍之介、宇野浩二の諸文士にも知られ同窓の学友にも篤志者があつてこんどの罹災に深く同情し神戸からは早速バラックの店を建てゝ呉れる仙台からは蔵書三千冊を無条件で送つて呉れるといふ有様で古本屋町第一の先駆をなし得たのもこれら学友の後援があつたからだと氏は敬虔に感謝してゐた》(読売新聞、大正十二年十月十二日)

他にも本書で知った小川菊松『出版興亡五十年』を代筆した中山三郎についてだとか、『白樺』編集中の原稿紛失事件などはきわめて面白い逸話であるし、そうそう柳屋三好米吉も登場する。いずれにせよ『洛陽堂河本亀之助小伝 損をしてでも良書を出す・ある出版人の生涯』が明治から大正にかけての印刷出版業における興亡に新たな光を当てた労作だということは何度でも強調しておく価値はあると思う。

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by sumus2013 | 2016-06-08 21:12 | おすすめ本棚 | Comments(0)

損をしてでも良書を出す

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田中英夫『洛陽堂河本亀之助小伝 損をしてでも良書を出す・ある出版人の生涯』(燃焼社、二〇一六四月一五日二刷)読了。六三六頁の大著である。読み通すのはさすがにホネだったが、洛陽堂という素晴らしい出版社の事蹟を知る事ができたのは何よりの収穫だった。

洛陽堂はどう素晴らしいのか? 明治四十二年、竹久夢二『夢二画集春の巻』から出版業をスタートさせ(奥付刊行日では山本瀧之助『地方青年団体』が先んじるが、どうやら本が先にできたのは夢二画集だった)、雑誌『白樺』の版元を一時引き受け、なんと恩地孝四郎、田中恭吉、藤森静雄の『月映(つくはえ)』も出版していたのである。

郷里広島県の『沼隈郡誌』によれば河本(こうもと)亀之助はこういう人物だった。

《河本亀之助 慶応三年十月二十一日今津村に生る。幼にして同村大成館に学びしが、在学中学多いに進み小学校助教となり今津・松永・高須等に教鞭を執る。後今津郵便局の事務員たりしが、明治二十四年如月二十七日奮然として東都に出づ。上京当初は牛乳配達、新聞売子等の苦役をなせしが、国光社印刷所の設置せらるゝや入りて雇となり精励怠らざりしを以て年と共に要職に挙げらる。明治四十一年故ありて退社、翌四十二年千代田印刷所を創設せしが同年末洛陽堂と命名して出版業を始め今日の大を致す。大正九年十二月十二日日本赤十字病院に逝く。享年五十四。》(「はじめに」より)

亀之助の生涯にわたって関わるのが江戸福山藩邸に生まれた高島平三郎。二歳年長の高島は小学校卒にして心理学児童学者として立ち、そのときどきで亀之助を導いたという。その亀之助の生涯をさまざまな人々が書き残した文章や日記などから丹念に拾い集めたのが本書であって、その作業の手間を考えるだけで頭が下がる(著者にとってはむろん手間ではなく悦楽なのだろうが)。とくに高島平三郎、永井潜、山本瀧之助、竹久夢二、恩地孝四郎、武者小路実篤、天野藤男、木村荘八、加藤一夫、吉屋信子らは亀之助に関するまとまった記述を残しており、出版のジレンマというようなものをそれらから感じ取ることができるように思う。

亀之助の前半生は著者の言葉によれば次のようなことである。

《幕閣を輩出した藩領に生まれ、薩長など雄藩による新政府がすすめた学制にそむくように父は私塾に学ばせてそれが最終学歴となり、親が望まぬキリスト教を信仰しながら永く勤めたのが敬神尊王家が経営する国光社印刷部だった。》(「おわりに」より)

キリスト教信仰は重要なキーワード。そして出版業者としてはこういう人物だった。

《彼は敢て大家や名望家の門に走らず、若き思想家達で、真面目な人でさへあれば、何んでも引受けて出版してやりたいと云ふ義侠心に富んだ人であつた。彼は常に良書を刊行して世道人心を裨益したいと云ふことを、終生の使命だと感じてゐる人であつた。》(帆足理一郎)

《嘗て予に謂つて曰く、
書肆自身も趣味を以て出版物に対せざるべからず、只売れさへすればよいといふならば、市中の玩具屋と何ら択ぶ所なきなり。それでは真の出版業者ならず固より出版業者とて利益を度外とすることは出来ず。さればとて予は俗悪なるものを刊行して利益を贏[か]ち得んと希ひしことあらず。》(天野藤男)

その具体例が『月映』ということになる。

《そして月映公刊のだんとりになる「まあ三十円位の損ですからやりませふ」と今は故人洛陽堂主が、興味を以て出版してくれたのだつた。》(恩地孝四郎)

著者の田中氏はこの三十円についてこう説明してくれている。

《色刷と本文の頁数によって紙代印刷代を計算し、宣伝、取次など諸経費を加えて定価をはじくところまでしなければ、三十円位の損という返事はできない。部数は二百、予価は三十銭、売り切ったとして総額は六十円になる。諸紙誌に見本誌を送って紹介をもとめる宣伝をふくめた制作実費を、この半分の三十円と考えれば、ほとんど売れない想定にもとづく。》

《亀之助はそれらすべてをのみこんで、一年ならば毎輯三十円、一年十二輯分総計三百六十円の損、そう腹をくくってひき受けたのだと推察する。》

三十円を仮にざっと今の十万円程度と考えると、これは簡単にオーケーできる金額ではなかろう。若き芸術家たちに対する同情のなみなみならないことを感じる。まさに「損をしてでも良書を出す」河本亀之助、凄い男だ。

明日ももう少しこの本から引用したい。

燃焼社

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by sumus2013 | 2016-06-07 20:57 | おすすめ本棚 | Comments(0)

コペ転

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『スペクテイター』36号(エディトリアル・デパートメント、二〇一六年六月一日)届く。武藤良子が挿絵と文字を提供している。ムトーさんからこの仕事をしたと聞いていたが、ここまで大きな扱いだとは。しかも「daily-sumus2」でムトーさんの書き文字を見てこの依頼がきたんだというから驚き。『スペクテイター』は以下のような雑誌である。

Spectator


「生き方だから続いていくんでしょうね」。
雑誌『Spectator』の青野利光さん・赤田祐一さんが語る
「小商い特集号の舞台裏と小商いの現在」

いずれの記事もすべてインタビュー形式。本号では勝井隆則さんと堀部篤史氏が登場してじっくりと語っている。また古泉智浩氏も。古泉氏は漫画家、徳正寺でガロとアックスのトークイベントがあったときに登場したので覚えていた。となりで一緒に聞いていたうらたじゅんさんが「古泉さんて、おもしろいねえ」とつぶやいていたが、まったく同感だった。本誌編集者の赤田祐一氏も出演していたから鋭く着目した(のかどうか知らないけど)古泉氏は「僕が里親になった理由」についてというか漫画家人生を語っていてこれも読ませる。

堀部氏の「誠光社」店造り談はいまどきの書店の手本となるようなもの。しかしマメじゃないと勤まらない。レジをやりながら連載の原稿を書きウェブサイトの通販ページを更新し発注や事務処理もこなし、イベントのネタを仕込み資料を読み込む。

《でも〈恵文社〉の頃から、そういったことはカウンターのなかでやってきているので問題ないです。普通ひとりで店を切り盛りするとなると、本だけで手一杯になるかもしれないですけど、これまでイベントもギャラリーも通販もレジもやってきた蓄積があるので。
 だから、経費的な規模は小さくしたけど、やることは変ってないってことです。ひとりでやれる規模にしただけで。
 これだけのことをやって、ようやく、本屋は成り立つものなんです」
ーーー本棚の本数が少なくなったので、置きたい本が置けなくなったりはしませんか。
「それはないです。
〈恵文社〉の頃は、多くのお客さんを相手にしないといけないので、一〇〇パーセント自分の思い入れた選書じゃない本も置いていたわけじゃないですか。
〈誠光社〉では、自分の思うように、本好きの客層に向けた選書ができています」

これだけのことをやって、ようやく、本屋は成り立つものなんです》は意味深い言葉。このインタビューではその具体的な数字も公開されている。なるほど、これなら大丈夫だなあ。

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誠光社と対照的なのが龜鳴屋さん。どんぶり勘定なんじゃないかな、といらぬ心配をしていたが、実際まさにそんな感じだ。

ーーー奥さんがお手伝いしているのは組版だけですか。

 基本的にはそうです。
 あと、私は営業能力がないので、数字管理がまったくだめなんですよ。
 最初に本をつくったときなんて「原価計算って何?」みたいなかんじでした。「思うような本ができるなら、好きなだけお金をかけていい」と思っていたので。
 だから何冊か出版したときに、「このままそんなことしてたら、生活費も入れてないのに赤字になって大変なことになるし、本づくりもできなくなるから、本をつくるたびに経費のデータを渡しなさい」と嫁に言われましてね。
 それで嫁が何かのソフトを使って、全部データを入れてポンとキーを押して赤い数字が出ると「ハイ却下」となるようになったんですよ(笑)。》

ーーー宮崎孝政の本とか藤澤清造の本は、原価計算をしてなかったんですか。

 してないですね。適当です。七〇〇ページを活版で刷ったらいくらかかるか? なんてまったく考えていませんでした(笑)。
 いまでも結構それに近いです。嫁にうるさく言われるので「計算したフリ」はしていますけどね(笑)》

素人は怖いというのはこのことである。プロは数字から入るから大した事はできないし、プロは大それたことをする必要もないのだ。ステディな仕事すればいい。素人魂で十五年も続けられているのも驚きというか、結局は奥方がいかに偉大かというところへ落着くのだろう。

《でも本はこうやって、いまあるお金でつくっていれば残っていくと思うので、それでいけるなら、いけるところまでいきたいです。「永久革命」でも何でもないですけど、「永久なりゆき」のようなかんじだと思います。》

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コペ転……とはコペルニクス的転回(価値観が真逆になる)のこと(要するにレボリューション)。本書を読んだ若い人(いや、中高年)は意外と「コペ転」を感じるのではないか……そういう編集意図もあるのかなと思ったしだい。


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by sumus2013 | 2016-06-02 21:27 | おすすめ本棚 | Comments(0)

海鳴り28

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『海鳴り』28号(編集工房ノア、二〇一六年六月一日)。毎号、巻末にはノア主人・涸沢純平さんのエッセイが収められる。このところ点鬼簿のごとく追悼文が続いている。今号は鶴見俊輔さんを悼む「鶴見さんが居た」である。二〇〇〇年に梅田の新阪急ホテルで開かれた編集工房ノア創業二十五周年記念会の話から始まって鶴見さんの評論集『象の消えた動物園』へつながる。記念会については以前にも触れたことがあるが、たしかに盛大な催しだった。

編集工房ノア略年表

その会の直後に鶴見さんが京都新聞に「ノアのあつまり」という記事を書いたなかで『海鳴り』という雑誌の名前について言及したことが取り上げられている。

《ノア編集工房の雑誌の題は「海鳴り」という。潮騒は波のたわむれであるが、海鳴りはそれとちがう。沖の向うで大きな波があり、それが風とあたって、どーんと大きな音となる。遠くきこえる音である。ノアの編集長は、今日明日の批評にこだわらず、時代の方向に耳をかたむけているという。》

涸沢さんは福井の生まれと聞いた。詩人の先輩には荒川洋治がいる。日本海の海鳴りが涸沢さんの内側で遠く聞こえているのだろうかと想像したりする。

山田稔さんの「「どくだみの花」のことなど」は杉本秀太郎の思い出。「どくだみの花」は山田さんがべストワンだと思う杉本のエッセイのタイトルである。『天野さんの傘』にも生島遼一と山田・杉本コンビの関係を描いた「生島遼一のスティル」が収められているが、その続編のようなおもむきで、晩年の生島遼一が庭いじりをする杉本秀太郎の姿に重なって見えるようだ。

他に鈴木漠「風の行方 多田智満子さんとの連句」では多田智満子、高橋睦郎、鈴木漠による「三吟歌仙 醍醐」が楽しめる。また庄野至「住吉さん」のつぎのくだりが印象に残る。毎年大晦日に住吉大社を父親と詣でた思い出。父は庄野貞一で帝塚山学院の初代学院長。至は四男、庄野英二、潤三の弟である。

庄野至『異人さんの讃美歌』

《「住吉さん詣で」の後は、粉浜の市場を通り抜け、玉出の書店「フミヤ」に寄るのも習慣になっている。父はそこで翌日からの日記を買い求める。
 父は子どもたちに「勉強せよ」とは言わなかったが(決して皆、言われなくても勉強するような子どもではなかった)だが、なぜか日記を書け、とうるさかった。
 父は自分の日記を選んだあと、
 「読みたい本があったら、買ってやる」
 その言葉を予想して待っていた私は、すぐさま子ども本売場を彷徨う。あれも読みたい、これも読みたい。少年の心は揺れる。一年に一度の贅沢な時間である。
 父は「新日記」を、僕は「少年雑誌」と、まだ印刷の匂いが残る「少年読み物」を腕に抱えて暗く静かな電車道を歩いて、家路を急ぐのだった。
 空には晦日の星が輝いていた。》

以上いずれも死者を弔う文章ばかりなのだが、それもまた海鳴りのごときものであろうか。

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by sumus2013 | 2016-06-01 20:49 | おすすめ本棚 | Comments(0)

述語制言語の日本文化

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『季刊iichiko』No.127(日本ベリエールアートセンター、二〇一五年七月二〇日)「特集・述語制言語の日本文化」を某氏より頂戴した。おそらく加藤周一の「日本語 I」を先日引用したので(昨日もリンクしたが)、もっと勉強しなさいという意味合いで恵投いただいたのだろうと思う。深謝です。たしかにこれは勉強になった。

この号の編集は山本哲士であって、その「日本語には主語がない」という述語制を主張するために藤井貞和、齋藤希史、金谷武洋を迎えてエキサイティングな日本語論を展開している。単なる文法論というよりも述語制から見る文化、哲学へと思考は広がって近代以降の価値を転換させることを目論んでいる。

日本語に主語がないとはどういうことか?

《そもそも日本語に「主語」なるものなどは、パロールにおいてもエクリチュールにおいても存在などしていない、それを日本人全員(ひとりのこらずすべての人!)が使い日々表現しているのである。日本語は、ランガージュとして主語無き言語、主語を必要としない言語である。そのあきらかな例として、いつも繰り返しわたしが示しつづけているのは(他の論者たちも例示しているように明解にしてあざやかであるからだ)、川端康成『雪国』と夏目漱石『草枕』の二つの出だしの名文である。
 「国境の長いトンネルをぬけると雪国であった。」
 「山道を歩きながら考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。」
どちらにも、「ハ」も「ガ」もなければ、もちろん主語などどこにもない。述語でしかないのが、日本語の本来であるのだ。》(山本哲士「《主語》という誤認の概念空間:述語制の概念空間へ」)

漱石の引用文、正確には「山路を登りながら、こう考えた。」だが、まあそれはどうでもいい。たしかに主語に当る言葉はない。もちろん川端はこの後「夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。」とガの文を続けているし、漱石の方も「とかくに人の世は住みにくい。」とハの文が続く……のだが、しかしそれらは「主語」ではないというのが述語制の主張である。それを素人の小生がここで説明するのは不可能なので本誌をご覧いただきたいが、江戸時代の漢文訓読から明治時代以降の英文法を下敷きにした日本文法の制定を誤謬と見る考え方はたいへん面白いと思った。チョムスキーがここでもちらりと現れ、一蹴されている。

《英語を中心とする現在の言語学が「普遍文法」としてS(主語)を語るならば我々は日本語という具体例を挙げて多いに反論すべきで、そうした努力こそが「世界語への寄与」(三上章)となるのだ。日本語の言語学者の大半はそれとは逆の方向で、「普遍文法」という美名の下にチョムスキーが提唱する生成文法などでせっせと日本語を記述しようとしているが、誠に寒心に堪えない。生成文法はせいぜい英語学、しかも「現代」英語にすぎないものだ。そもそも古英語の時代にはSOVが基本語順だったし、さらに遡れば主語などなかったのである。》(金谷武洋「述語言語の日本語文法を主語言語の英文法で記述する愚行」)

英語に主語がなかったとすれば日本語に主語ができても別に怪しむには当らないと思うし、これは先日、日本におけるシュルレアリスムの問題で引用した「近代へ」と「近代から」の違いにちょっと似ていなくもないだろう。転形期における無いものねだりである。日本の近代は「主語」を欲したのだ。

もうひとつ興味をひかれたのはランボーの書いた文章が翻訳不能な例として挙げられていること。

《まず、ランボーの有名な一句。
  Je est un autre.
 これは、être 動詞を文法的にずらし、一人称ではなく三人称へ転じた表現だ。文法上で正しくは、Je suis un autre. となる。人称差異がないさらにコプラなどない日本語で、それは翻訳しえない。なのに
 「わたしは他者である。」
と平然と訳すのだ。》(山本哲士、前掲論文)

「Je est un autre」はランボーがポール・ドメニー(先輩詩人)に宛てたいわゆる「見者の手紙 Lettre du Voyant」に出てくる文である(「見者」という訳語もそうとう胡散臭いが)。直訳しようとすると、山本氏の言う通り、たしかに不可能な文章である。

Rimbaud à Paul Demeny (Lettre du Voyant, 15 mai 1871)

ただ、だから日本語とフランス語は翻訳不能としてしまってはあまりにもつまらない。ランボーのいわんとするところは「僕は他人の彼なんです」ということなのではないか。直訳は無理でもランボーの意図は汲み取れるのではないだろうか。また、そもそもフランス語として認められない特異な文章を例に挙げて翻訳できないと主張するのもどんなものか。自らの無学文盲は棚に上げてもう少し適当な例があったのではないかなと思ったりする。

いいちこ」、いろいろな意味で知的刺戟に満ちた雑誌である。

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by sumus2013 | 2016-05-20 20:56 | おすすめ本棚 | Comments(0)

しょうべんの詩

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『川崎彰彦傑作撰』の「どぶろくの詩」からもう少し旧制中学時代の読書について引いておく。

《ある日、塚本は本棚から創元社刊の『八木重吉詩集』をとりだし、この詩人について、さかんに鼓吹した。重吉はキリスト者であるようだったが、そんなことより、ぼくら田舎の文学少年にとっては重吉の語法の単純平明であることが好ましかったのだ。そのことは重吉以上に、新潟の農村少年詩人・大関松三郎の詩集『山芋』がぼくらの心をとらえ、三人を夢中にさせた事実からもうかがえるだろう。松三郎のなかでは「虫けら」なんて詩が最高だろうと思うが、当時ぼくらを喜ばせたのは「しょんべん」と題する次のような詩だった。
 どてっぱらで しょんべんしたら
 しょんべんが白い頭をして
 によろ によろ
 どてっぱらをおりていった
 へびになって
 にょろにょろ まがっていった》

大関松三郎は昭和十九年南シナ海で載っていた輸送船が撃沈されて戦死した。享年十八。恩師の寒川道夫が昭和二十六年に遺稿詩集として出版したのが『山芋』(百合出版)である。

また、こういうくだりもある。

《そのころ、ぼくは八日市の文英堂書店で大島博光訳『ランボー詩集』を購め、むさぼるように愛読していた。それは国文社刊で、本文紙質は粗末だが、蓑虫の裏皮の張り合わせを連想させるような和紙装、真四角の判型の薄いが瀟洒な一冊だった。そのなかに題名は忘れたが、やはり立ち小便の詩があった。しかも「プーッと一発ヘリオトロープのおまけつきで」などという上品ならざる訳語を伴って、ぼくは次の機会に塚本の部屋にその詩集を持ちこみ、三人でゲラゲラ笑い合った。》

ヘリオトロープが登場するのはランボー詩「夕べの祈り(鈴木創士訳) ORAISON DU SOIR」の最後の連。

 Doux comme le Seigneur du cèdre et des hysopes,
 Je pisse vers les cieux bruns, très haut et très loin,
 Avec l'assentiment des grands héliotropes.

 大きなヒマラヤ杉と小さな柳薄荷[ルビ=ヒソプ]の「主」のように心優しく
 俺は茶色の空に向かって小便する、とても高く、とても遠くに、
 大きなヘリオトロープの同意を得て

鈴木創士訳。ちょっと直訳すぎるかもしれないが、文字面の意味はこれで間違いないのだろうと思う。ビールをたらふく飲んで草原(ハーブ畑か)で放尿した、ということを宗教的な単語をちりばめてコミカルに謳っている。タイトルのオレゾン(祈祷)も、「主 le Seigneur」としてあるのも宗教用語。

例えば金子光晴もランボーを訳している。訳そのものはかなりあやしいのだが、さすが詩人というのか、そこには閃きのようなものが感じられる。この詩(金子訳は「夕ぐれどきのことば」)最後の行はこう訳されていて、なるほどなと思う。

 ーーすばらしいぞ。ヘリオトロープも、大音で助勢しようとは。

川崎の引用している大島訳を持ち合わせないので断言できないが、大島はヘリオトロープを「おなら」と解釈し《同意を得て Avec l'assentiment》をのおまけつきで》というふうに訳した。金子も同じだが、もっと大胆に「大音」としており、ま、これはさすがに誤訳だろうと思うが、このイキの良さは詩人訳ならでは。(大島は金子訳を参考にしたか?)

たぶんごく平凡に文字通り解釈すれば、ランボーから勢いよくほとばしる小便がその足許に生えている大きく育ったヘリオトロープ(時候は夏である)にバシャバシャ降り注いでいる(なにしろ何十杯もビールを飲んでがまんしていたわけだから)、それに対して「同意を得て」が意味をもってくる、そんなところ。

川崎たち文学少年が笑い転げた幸せな時間、それは誤訳のたまものだったのかも知れない(もちろん断定はしませんが)。

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by sumus2013 | 2016-05-07 20:55 | おすすめ本棚 | Comments(0)

川崎彰彦傑作撰

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『川崎彰彦傑作撰』(中野朗・中山明展、二〇一六年四月九日、装幀・装画=粟津謙太郎)読了。早く紹介したかったのだが、やはりこのボリューム(A5判395頁)、簡単に読飛ばせなかった。つい引き込まれて読みふけったと言っていいだろう。

《「死後何年経ってからでもよい、短編集を出して友人たちが本を肴に飲む会を開いてくれるなら、これに過ぎる喜びはない」ーー川崎さんの夢がついにかないました。寡作の作家、二十二冊目の本です。
 川崎さんのパートナー当銘広子さんが本づくりを快諾、装幀は生涯の友人の版画家粟津謙太郎さんにお願いしました。関西での文学や酒の友だった中尾務さんや三輪正道さん、札幌の中野朗さんが散逸していた作品を集め、多くの人たちが力を合わせてつくり上げた一冊です。》(中山明展「あとがき」)

第一部遺言編、第二部傑作撰から成る。アンソロジーは難しいもの、正直、第一部遺言編を読み終ったころには、おや? これでいいのかなといぶかしく思った。しかし、目玉ともいうべき傑作選のI「少年〜大学時代」およびII「記者として」に突入するや俄然おもしろくなる。川崎彰彦というどうしようもない「破滅型」の男の人生にハラハラさせられ通しなのだ。

傑作撰」というタイトルもあまり好きではないにもかかわらず傑作撰」にふさわしい内容なのではないかとさえ思えて来たのだ。大きな山を越えた後は「大阪文学学校と酒」「同人誌の達人」というより抜きのエッセイ類で余韻を楽しむ。もちろん中野朗編略年譜も完備。読後感は「これぞ現代の円本(エンポン)!」。きわめて充実した一冊本選集だ。本体定価1852円! 間違いなく円本より安い。

めい展・じゃあなる(中山明展氏ブログ)

川崎は昭和二十一年に滋賀県の八日市中学(現八日市高校)に最後の旧制中学生として入学した。「どぶろくの詩」には当時の読書体験が記されていて興味深い。

《角は林田のぼくの家にきて親の本棚からドストエフスキーの「罪と罰」を借りて帰ったりもした。なまけ者のぼくは長い小説はかなわんのでガルシンの「紅い花」を読んで対抗したりもした。そういえば、なぜか「狂気」ということが二人のあいだでの共通の感心であり、憧れでさえあったのは頬笑まされる。》

《芥川の「河童」が話題になったこともある。ぼくは戦時中から改造社「新日本文学選集」の火野葦平集で「花と兵隊」や「糞尿譚」を愛読していたので八日市の金屋大通りに面した文英堂書店で、ある日、火野葦平の戦後の著書「石と釘」をみつけ、さっそく買って帰った。》

《ぼくは、この「石と釘」をずいぶん愛読したのに角良之助には話さなかったような気がする。当時、火野葦平を愛読しているとは大きな声で言えないような時代の空気だった。なにしろ兵隊三部作の「戦犯」作家なのであった。小田切秀雄ら「文学時標」の「文学検察」も始まっていたのではなかったか。やがて二人は「新日本文学」の読者になり、ぼくはそのほかに「人民的詩精神」を標榜する秋山清や小野十三郎らの詩誌「コスモス」などを大切に思うようになる。》

明日、書物関連の記事をもう少し引用する。

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by sumus2013 | 2016-05-06 20:46 | おすすめ本棚 | Comments(0)