林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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損をしてでも良書を出す

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田中英夫『洛陽堂河本亀之助小伝 損をしてでも良書を出す・ある出版人の生涯』(燃焼社、二〇一六四月一五日二刷)読了。六三六頁の大著である。読み通すのはさすがにホネだったが、洛陽堂という素晴らしい出版社の事蹟を知る事ができたのは何よりの収穫だった。

洛陽堂はどう素晴らしいのか? 明治四十二年、竹久夢二『夢二画集春の巻』から出版業をスタートさせ(奥付刊行日では山本瀧之助『地方青年団体』が先んじるが、どうやら本が先にできたのは夢二画集だった)、雑誌『白樺』の版元を一時引き受け、なんと恩地孝四郎、田中恭吉、藤森静雄の『月映(つくはえ)』も出版していたのである。

郷里広島県の『沼隈郡誌』によれば河本(こうもと)亀之助はこういう人物だった。

《河本亀之助 慶応三年十月二十一日今津村に生る。幼にして同村大成館に学びしが、在学中学多いに進み小学校助教となり今津・松永・高須等に教鞭を執る。後今津郵便局の事務員たりしが、明治二十四年如月二十七日奮然として東都に出づ。上京当初は牛乳配達、新聞売子等の苦役をなせしが、国光社印刷所の設置せらるゝや入りて雇となり精励怠らざりしを以て年と共に要職に挙げらる。明治四十一年故ありて退社、翌四十二年千代田印刷所を創設せしが同年末洛陽堂と命名して出版業を始め今日の大を致す。大正九年十二月十二日日本赤十字病院に逝く。享年五十四。》(「はじめに」より)

亀之助の生涯にわたって関わるのが江戸福山藩邸に生まれた高島平三郎。二歳年長の高島は小学校卒にして心理学児童学者として立ち、そのときどきで亀之助を導いたという。その亀之助の生涯をさまざまな人々が書き残した文章や日記などから丹念に拾い集めたのが本書であって、その作業の手間を考えるだけで頭が下がる(著者にとってはむろん手間ではなく悦楽なのだろうが)。とくに高島平三郎、永井潜、山本瀧之助、竹久夢二、恩地孝四郎、武者小路実篤、天野藤男、木村荘八、加藤一夫、吉屋信子らは亀之助に関するまとまった記述を残しており、出版のジレンマというようなものをそれらから感じ取ることができるように思う。

亀之助の前半生は著者の言葉によれば次のようなことである。

《幕閣を輩出した藩領に生まれ、薩長など雄藩による新政府がすすめた学制にそむくように父は私塾に学ばせてそれが最終学歴となり、親が望まぬキリスト教を信仰しながら永く勤めたのが敬神尊王家が経営する国光社印刷部だった。》(「おわりに」より)

キリスト教信仰は重要なキーワード。そして出版業者としてはこういう人物だった。

《彼は敢て大家や名望家の門に走らず、若き思想家達で、真面目な人でさへあれば、何んでも引受けて出版してやりたいと云ふ義侠心に富んだ人であつた。彼は常に良書を刊行して世道人心を裨益したいと云ふことを、終生の使命だと感じてゐる人であつた。》(帆足理一郎)

《嘗て予に謂つて曰く、
書肆自身も趣味を以て出版物に対せざるべからず、只売れさへすればよいといふならば、市中の玩具屋と何ら択ぶ所なきなり。それでは真の出版業者ならず固より出版業者とて利益を度外とすることは出来ず。さればとて予は俗悪なるものを刊行して利益を贏[か]ち得んと希ひしことあらず。》(天野藤男)

その具体例が『月映』ということになる。

《そして月映公刊のだんとりになる「まあ三十円位の損ですからやりませふ」と今は故人洛陽堂主が、興味を以て出版してくれたのだつた。》(恩地孝四郎)

著者の田中氏はこの三十円についてこう説明してくれている。

《色刷と本文の頁数によって紙代印刷代を計算し、宣伝、取次など諸経費を加えて定価をはじくところまでしなければ、三十円位の損という返事はできない。部数は二百、予価は三十銭、売り切ったとして総額は六十円になる。諸紙誌に見本誌を送って紹介をもとめる宣伝をふくめた制作実費を、この半分の三十円と考えれば、ほとんど売れない想定にもとづく。》

《亀之助はそれらすべてをのみこんで、一年ならば毎輯三十円、一年十二輯分総計三百六十円の損、そう腹をくくってひき受けたのだと推察する。》

三十円を仮にざっと今の十万円程度と考えると、これは簡単にオーケーできる金額ではなかろう。若き芸術家たちに対する同情のなみなみならないことを感じる。まさに「損をしてでも良書を出す」河本亀之助、凄い男だ。

明日ももう少しこの本から引用したい。

燃焼社

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by sumus2013 | 2016-06-07 20:57 | おすすめ本棚 | Comments(0)

コペ転

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『スペクテイター』36号(エディトリアル・デパートメント、二〇一六年六月一日)届く。武藤良子が挿絵と文字を提供している。ムトーさんからこの仕事をしたと聞いていたが、ここまで大きな扱いだとは。しかも「daily-sumus2」でムトーさんの書き文字を見てこの依頼がきたんだというから驚き。『スペクテイター』は以下のような雑誌である。

Spectator


「生き方だから続いていくんでしょうね」。
雑誌『Spectator』の青野利光さん・赤田祐一さんが語る
「小商い特集号の舞台裏と小商いの現在」

いずれの記事もすべてインタビュー形式。本号では勝井隆則さんと堀部篤史氏が登場してじっくりと語っている。また古泉智浩氏も。古泉氏は漫画家、徳正寺でガロとアックスのトークイベントがあったときに登場したので覚えていた。となりで一緒に聞いていたうらたじゅんさんが「古泉さんて、おもしろいねえ」とつぶやいていたが、まったく同感だった。本誌編集者の赤田祐一氏も出演していたから鋭く着目した(のかどうか知らないけど)古泉氏は「僕が里親になった理由」についてというか漫画家人生を語っていてこれも読ませる。

堀部氏の「誠光社」店造り談はいまどきの書店の手本となるようなもの。しかしマメじゃないと勤まらない。レジをやりながら連載の原稿を書きウェブサイトの通販ページを更新し発注や事務処理もこなし、イベントのネタを仕込み資料を読み込む。

《でも〈恵文社〉の頃から、そういったことはカウンターのなかでやってきているので問題ないです。普通ひとりで店を切り盛りするとなると、本だけで手一杯になるかもしれないですけど、これまでイベントもギャラリーも通販もレジもやってきた蓄積があるので。
 だから、経費的な規模は小さくしたけど、やることは変ってないってことです。ひとりでやれる規模にしただけで。
 これだけのことをやって、ようやく、本屋は成り立つものなんです」
ーーー本棚の本数が少なくなったので、置きたい本が置けなくなったりはしませんか。
「それはないです。
〈恵文社〉の頃は、多くのお客さんを相手にしないといけないので、一〇〇パーセント自分の思い入れた選書じゃない本も置いていたわけじゃないですか。
〈誠光社〉では、自分の思うように、本好きの客層に向けた選書ができています」

これだけのことをやって、ようやく、本屋は成り立つものなんです》は意味深い言葉。このインタビューではその具体的な数字も公開されている。なるほど、これなら大丈夫だなあ。

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誠光社と対照的なのが龜鳴屋さん。どんぶり勘定なんじゃないかな、といらぬ心配をしていたが、実際まさにそんな感じだ。

ーーー奥さんがお手伝いしているのは組版だけですか。

 基本的にはそうです。
 あと、私は営業能力がないので、数字管理がまったくだめなんですよ。
 最初に本をつくったときなんて「原価計算って何?」みたいなかんじでした。「思うような本ができるなら、好きなだけお金をかけていい」と思っていたので。
 だから何冊か出版したときに、「このままそんなことしてたら、生活費も入れてないのに赤字になって大変なことになるし、本づくりもできなくなるから、本をつくるたびに経費のデータを渡しなさい」と嫁に言われましてね。
 それで嫁が何かのソフトを使って、全部データを入れてポンとキーを押して赤い数字が出ると「ハイ却下」となるようになったんですよ(笑)。》

ーーー宮崎孝政の本とか藤澤清造の本は、原価計算をしてなかったんですか。

 してないですね。適当です。七〇〇ページを活版で刷ったらいくらかかるか? なんてまったく考えていませんでした(笑)。
 いまでも結構それに近いです。嫁にうるさく言われるので「計算したフリ」はしていますけどね(笑)》

素人は怖いというのはこのことである。プロは数字から入るから大した事はできないし、プロは大それたことをする必要もないのだ。ステディな仕事すればいい。素人魂で十五年も続けられているのも驚きというか、結局は奥方がいかに偉大かというところへ落着くのだろう。

《でも本はこうやって、いまあるお金でつくっていれば残っていくと思うので、それでいけるなら、いけるところまでいきたいです。「永久革命」でも何でもないですけど、「永久なりゆき」のようなかんじだと思います。》

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コペ転……とはコペルニクス的転回(価値観が真逆になる)のこと(要するにレボリューション)。本書を読んだ若い人(いや、中高年)は意外と「コペ転」を感じるのではないか……そういう編集意図もあるのかなと思ったしだい。


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by sumus2013 | 2016-06-02 21:27 | おすすめ本棚 | Comments(0)

海鳴り28

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『海鳴り』28号(編集工房ノア、二〇一六年六月一日)。毎号、巻末にはノア主人・涸沢純平さんのエッセイが収められる。このところ点鬼簿のごとく追悼文が続いている。今号は鶴見俊輔さんを悼む「鶴見さんが居た」である。二〇〇〇年に梅田の新阪急ホテルで開かれた編集工房ノア創業二十五周年記念会の話から始まって鶴見さんの評論集『象の消えた動物園』へつながる。記念会については以前にも触れたことがあるが、たしかに盛大な催しだった。

編集工房ノア略年表

その会の直後に鶴見さんが京都新聞に「ノアのあつまり」という記事を書いたなかで『海鳴り』という雑誌の名前について言及したことが取り上げられている。

《ノア編集工房の雑誌の題は「海鳴り」という。潮騒は波のたわむれであるが、海鳴りはそれとちがう。沖の向うで大きな波があり、それが風とあたって、どーんと大きな音となる。遠くきこえる音である。ノアの編集長は、今日明日の批評にこだわらず、時代の方向に耳をかたむけているという。》

涸沢さんは福井の生まれと聞いた。詩人の先輩には荒川洋治がいる。日本海の海鳴りが涸沢さんの内側で遠く聞こえているのだろうかと想像したりする。

山田稔さんの「「どくだみの花」のことなど」は杉本秀太郎の思い出。「どくだみの花」は山田さんがべストワンだと思う杉本のエッセイのタイトルである。『天野さんの傘』にも生島遼一と山田・杉本コンビの関係を描いた「生島遼一のスティル」が収められているが、その続編のようなおもむきで、晩年の生島遼一が庭いじりをする杉本秀太郎の姿に重なって見えるようだ。

他に鈴木漠「風の行方 多田智満子さんとの連句」では多田智満子、高橋睦郎、鈴木漠による「三吟歌仙 醍醐」が楽しめる。また庄野至「住吉さん」のつぎのくだりが印象に残る。毎年大晦日に住吉大社を父親と詣でた思い出。父は庄野貞一で帝塚山学院の初代学院長。至は四男、庄野英二、潤三の弟である。

庄野至『異人さんの讃美歌』

《「住吉さん詣で」の後は、粉浜の市場を通り抜け、玉出の書店「フミヤ」に寄るのも習慣になっている。父はそこで翌日からの日記を買い求める。
 父は子どもたちに「勉強せよ」とは言わなかったが(決して皆、言われなくても勉強するような子どもではなかった)だが、なぜか日記を書け、とうるさかった。
 父は自分の日記を選んだあと、
 「読みたい本があったら、買ってやる」
 その言葉を予想して待っていた私は、すぐさま子ども本売場を彷徨う。あれも読みたい、これも読みたい。少年の心は揺れる。一年に一度の贅沢な時間である。
 父は「新日記」を、僕は「少年雑誌」と、まだ印刷の匂いが残る「少年読み物」を腕に抱えて暗く静かな電車道を歩いて、家路を急ぐのだった。
 空には晦日の星が輝いていた。》

以上いずれも死者を弔う文章ばかりなのだが、それもまた海鳴りのごときものであろうか。

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by sumus2013 | 2016-06-01 20:49 | おすすめ本棚 | Comments(0)

述語制言語の日本文化

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『季刊iichiko』No.127(日本ベリエールアートセンター、二〇一五年七月二〇日)「特集・述語制言語の日本文化」を某氏より頂戴した。おそらく加藤周一の「日本語 I」を先日引用したので(昨日もリンクしたが)、もっと勉強しなさいという意味合いで恵投いただいたのだろうと思う。深謝です。たしかにこれは勉強になった。

この号の編集は山本哲士であって、その「日本語には主語がない」という述語制を主張するために藤井貞和、齋藤希史、金谷武洋を迎えてエキサイティングな日本語論を展開している。単なる文法論というよりも述語制から見る文化、哲学へと思考は広がって近代以降の価値を転換させることを目論んでいる。

日本語に主語がないとはどういうことか?

《そもそも日本語に「主語」なるものなどは、パロールにおいてもエクリチュールにおいても存在などしていない、それを日本人全員(ひとりのこらずすべての人!)が使い日々表現しているのである。日本語は、ランガージュとして主語無き言語、主語を必要としない言語である。そのあきらかな例として、いつも繰り返しわたしが示しつづけているのは(他の論者たちも例示しているように明解にしてあざやかであるからだ)、川端康成『雪国』と夏目漱石『草枕』の二つの出だしの名文である。
 「国境の長いトンネルをぬけると雪国であった。」
 「山道を歩きながら考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。」
どちらにも、「ハ」も「ガ」もなければ、もちろん主語などどこにもない。述語でしかないのが、日本語の本来であるのだ。》(山本哲士「《主語》という誤認の概念空間:述語制の概念空間へ」)

漱石の引用文、正確には「山路を登りながら、こう考えた。」だが、まあそれはどうでもいい。たしかに主語に当る言葉はない。もちろん川端はこの後「夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。」とガの文を続けているし、漱石の方も「とかくに人の世は住みにくい。」とハの文が続く……のだが、しかしそれらは「主語」ではないというのが述語制の主張である。それを素人の小生がここで説明するのは不可能なので本誌をご覧いただきたいが、江戸時代の漢文訓読から明治時代以降の英文法を下敷きにした日本文法の制定を誤謬と見る考え方はたいへん面白いと思った。チョムスキーがここでもちらりと現れ、一蹴されている。

《英語を中心とする現在の言語学が「普遍文法」としてS(主語)を語るならば我々は日本語という具体例を挙げて多いに反論すべきで、そうした努力こそが「世界語への寄与」(三上章)となるのだ。日本語の言語学者の大半はそれとは逆の方向で、「普遍文法」という美名の下にチョムスキーが提唱する生成文法などでせっせと日本語を記述しようとしているが、誠に寒心に堪えない。生成文法はせいぜい英語学、しかも「現代」英語にすぎないものだ。そもそも古英語の時代にはSOVが基本語順だったし、さらに遡れば主語などなかったのである。》(金谷武洋「述語言語の日本語文法を主語言語の英文法で記述する愚行」)

英語に主語がなかったとすれば日本語に主語ができても別に怪しむには当らないと思うし、これは先日、日本におけるシュルレアリスムの問題で引用した「近代へ」と「近代から」の違いにちょっと似ていなくもないだろう。転形期における無いものねだりである。日本の近代は「主語」を欲したのだ。

もうひとつ興味をひかれたのはランボーの書いた文章が翻訳不能な例として挙げられていること。

《まず、ランボーの有名な一句。
  Je est un autre.
 これは、être 動詞を文法的にずらし、一人称ではなく三人称へ転じた表現だ。文法上で正しくは、Je suis un autre. となる。人称差異がないさらにコプラなどない日本語で、それは翻訳しえない。なのに
 「わたしは他者である。」
と平然と訳すのだ。》(山本哲士、前掲論文)

「Je est un autre」はランボーがポール・ドメニー(先輩詩人)に宛てたいわゆる「見者の手紙 Lettre du Voyant」に出てくる文である(「見者」という訳語もそうとう胡散臭いが)。直訳しようとすると、山本氏の言う通り、たしかに不可能な文章である。

Rimbaud à Paul Demeny (Lettre du Voyant, 15 mai 1871)

ただ、だから日本語とフランス語は翻訳不能としてしまってはあまりにもつまらない。ランボーのいわんとするところは「僕は他人の彼なんです」ということなのではないか。直訳は無理でもランボーの意図は汲み取れるのではないだろうか。また、そもそもフランス語として認められない特異な文章を例に挙げて翻訳できないと主張するのもどんなものか。自らの無学文盲は棚に上げてもう少し適当な例があったのではないかなと思ったりする。

いいちこ」、いろいろな意味で知的刺戟に満ちた雑誌である。

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by sumus2013 | 2016-05-20 20:56 | おすすめ本棚 | Comments(0)

しょうべんの詩

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『川崎彰彦傑作撰』の「どぶろくの詩」からもう少し旧制中学時代の読書について引いておく。

《ある日、塚本は本棚から創元社刊の『八木重吉詩集』をとりだし、この詩人について、さかんに鼓吹した。重吉はキリスト者であるようだったが、そんなことより、ぼくら田舎の文学少年にとっては重吉の語法の単純平明であることが好ましかったのだ。そのことは重吉以上に、新潟の農村少年詩人・大関松三郎の詩集『山芋』がぼくらの心をとらえ、三人を夢中にさせた事実からもうかがえるだろう。松三郎のなかでは「虫けら」なんて詩が最高だろうと思うが、当時ぼくらを喜ばせたのは「しょんべん」と題する次のような詩だった。
 どてっぱらで しょんべんしたら
 しょんべんが白い頭をして
 によろ によろ
 どてっぱらをおりていった
 へびになって
 にょろにょろ まがっていった》

大関松三郎は昭和十九年南シナ海で載っていた輸送船が撃沈されて戦死した。享年十八。恩師の寒川道夫が昭和二十六年に遺稿詩集として出版したのが『山芋』(百合出版)である。

また、こういうくだりもある。

《そのころ、ぼくは八日市の文英堂書店で大島博光訳『ランボー詩集』を購め、むさぼるように愛読していた。それは国文社刊で、本文紙質は粗末だが、蓑虫の裏皮の張り合わせを連想させるような和紙装、真四角の判型の薄いが瀟洒な一冊だった。そのなかに題名は忘れたが、やはり立ち小便の詩があった。しかも「プーッと一発ヘリオトロープのおまけつきで」などという上品ならざる訳語を伴って、ぼくは次の機会に塚本の部屋にその詩集を持ちこみ、三人でゲラゲラ笑い合った。》

ヘリオトロープが登場するのはランボー詩「夕べの祈り(鈴木創士訳) ORAISON DU SOIR」の最後の連。

 Doux comme le Seigneur du cèdre et des hysopes,
 Je pisse vers les cieux bruns, très haut et très loin,
 Avec l'assentiment des grands héliotropes.

 大きなヒマラヤ杉と小さな柳薄荷[ルビ=ヒソプ]の「主」のように心優しく
 俺は茶色の空に向かって小便する、とても高く、とても遠くに、
 大きなヘリオトロープの同意を得て

鈴木創士訳。ちょっと直訳すぎるかもしれないが、文字面の意味はこれで間違いないのだろうと思う。ビールをたらふく飲んで草原(ハーブ畑か)で放尿した、ということを宗教的な単語をちりばめてコミカルに謳っている。タイトルのオレゾン(祈祷)も、「主 le Seigneur」としてあるのも宗教用語。

例えば金子光晴もランボーを訳している。訳そのものはかなりあやしいのだが、さすが詩人というのか、そこには閃きのようなものが感じられる。この詩(金子訳は「夕ぐれどきのことば」)最後の行はこう訳されていて、なるほどなと思う。

 ーーすばらしいぞ。ヘリオトロープも、大音で助勢しようとは。

川崎の引用している大島訳を持ち合わせないので断言できないが、大島はヘリオトロープを「おなら」と解釈し《同意を得て Avec l'assentiment》をのおまけつきで》というふうに訳した。金子も同じだが、もっと大胆に「大音」としており、ま、これはさすがに誤訳だろうと思うが、このイキの良さは詩人訳ならでは。(大島は金子訳を参考にしたか?)

たぶんごく平凡に文字通り解釈すれば、ランボーから勢いよくほとばしる小便がその足許に生えている大きく育ったヘリオトロープ(時候は夏である)にバシャバシャ降り注いでいる(なにしろ何十杯もビールを飲んでがまんしていたわけだから)、それに対して「同意を得て」が意味をもってくる、そんなところ。

川崎たち文学少年が笑い転げた幸せな時間、それは誤訳のたまものだったのかも知れない(もちろん断定はしませんが)。

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by sumus2013 | 2016-05-07 20:55 | おすすめ本棚 | Comments(0)

川崎彰彦傑作撰

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『川崎彰彦傑作撰』(中野朗・中山明展、二〇一六年四月九日、装幀・装画=粟津謙太郎)読了。早く紹介したかったのだが、やはりこのボリューム(A5判395頁)、簡単に読飛ばせなかった。つい引き込まれて読みふけったと言っていいだろう。

《「死後何年経ってからでもよい、短編集を出して友人たちが本を肴に飲む会を開いてくれるなら、これに過ぎる喜びはない」ーー川崎さんの夢がついにかないました。寡作の作家、二十二冊目の本です。
 川崎さんのパートナー当銘広子さんが本づくりを快諾、装幀は生涯の友人の版画家粟津謙太郎さんにお願いしました。関西での文学や酒の友だった中尾務さんや三輪正道さん、札幌の中野朗さんが散逸していた作品を集め、多くの人たちが力を合わせてつくり上げた一冊です。》(中山明展「あとがき」)

第一部遺言編、第二部傑作撰から成る。アンソロジーは難しいもの、正直、第一部遺言編を読み終ったころには、おや? これでいいのかなといぶかしく思った。しかし、目玉ともいうべき傑作選のI「少年〜大学時代」およびII「記者として」に突入するや俄然おもしろくなる。川崎彰彦というどうしようもない「破滅型」の男の人生にハラハラさせられ通しなのだ。

傑作撰」というタイトルもあまり好きではないにもかかわらず傑作撰」にふさわしい内容なのではないかとさえ思えて来たのだ。大きな山を越えた後は「大阪文学学校と酒」「同人誌の達人」というより抜きのエッセイ類で余韻を楽しむ。もちろん中野朗編略年譜も完備。読後感は「これぞ現代の円本(エンポン)!」。きわめて充実した一冊本選集だ。本体定価1852円! 間違いなく円本より安い。

めい展・じゃあなる(中山明展氏ブログ)

川崎は昭和二十一年に滋賀県の八日市中学(現八日市高校)に最後の旧制中学生として入学した。「どぶろくの詩」には当時の読書体験が記されていて興味深い。

《角は林田のぼくの家にきて親の本棚からドストエフスキーの「罪と罰」を借りて帰ったりもした。なまけ者のぼくは長い小説はかなわんのでガルシンの「紅い花」を読んで対抗したりもした。そういえば、なぜか「狂気」ということが二人のあいだでの共通の感心であり、憧れでさえあったのは頬笑まされる。》

《芥川の「河童」が話題になったこともある。ぼくは戦時中から改造社「新日本文学選集」の火野葦平集で「花と兵隊」や「糞尿譚」を愛読していたので八日市の金屋大通りに面した文英堂書店で、ある日、火野葦平の戦後の著書「石と釘」をみつけ、さっそく買って帰った。》

《ぼくは、この「石と釘」をずいぶん愛読したのに角良之助には話さなかったような気がする。当時、火野葦平を愛読しているとは大きな声で言えないような時代の空気だった。なにしろ兵隊三部作の「戦犯」作家なのであった。小田切秀雄ら「文学時標」の「文学検察」も始まっていたのではなかったか。やがて二人は「新日本文学」の読者になり、ぼくはそのほかに「人民的詩精神」を標榜する秋山清や小野十三郎らの詩誌「コスモス」などを大切に思うようになる。》

明日、書物関連の記事をもう少し引用する。

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by sumus2013 | 2016-05-06 20:46 | おすすめ本棚 | Comments(0)

エーコのエーコ

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『Morandi Gli acquerelli』(Electa, 1990)。モランディの水彩画集。イタリア語版なので読めないのだが、まあ読む必要もない。ただ、このなかにウンベルト・エーコがモランディについてのエッセイを寄稿している。「Il segno di Morandi」(モランディの記号)。この本を買ったとき、辞書を引き引き苦労して大意だけ訳したメモを作った。それをそのまま挟んであったような気がするのだが、どこかへ行ってしまって見当たらない。

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新潮』六月号に細川周平氏が「エーコのエーコ 『薔薇の名前』を供えて」を寄稿しておられる。その追悼文を読んで、この本を思い出したのである。細川氏によればエーコはボローニャで教鞭をとっていた。モランディを論じて当然だったのだ。細川氏がエーコに初めて会ったのは一九八〇年、ウルビーノで開かれた国際記号学セミナーで、一九八二年から二年間ボローニャ大学芸術学科に留学しエーコの授業を受けたという。

《そして最後に会ったのは一九九〇年、『薔薇の名前』邦訳のプロモーションを兼ねて夫妻で来日した時で、講演後、山口昌男にくっついてディスコに行った(ウルビーノでも町にひとつのディスコで、エーコの一団は踊っていた)。五ヶ月しか違わないマサオ(彼はそう呼んだ)とは、ずいぶん波長が合う様子だった(体格も似ていた)。それぞれの国の記号学の基礎を築いただけでなく、博覧強記、書物愛、そして知的な軽さの点でエコーを響かせ合っていた。エーコがスヌーピーを讃えれば、山口はのらくろ上等兵を愛す(漫画が知的対象とは見られていなかった時期に)。エーコがあらゆる言葉遊びに卓越していたなら、山口は駄洒落を好む。二人は同じ時期に俗悪美を取り上げ、マクルーハンを距離を置きつつ評価した。エーコがスーパーマンからマスメディアに生きる大衆の欲望を皮肉っぽく肯定すれば、山口は古事記、アフリカ神話からアルレキーノ、マルクス兄弟まで各地の道化像に民俗的活力を見出した。エーコは五〇年代後半、大学の職に就く前に国営テレビ局につとめたことで学者の王道から外れた。山口は六〇年代前半、ナイジェリアで調査し、西洋受け売り学界にも、日本国内で自足した民俗学や歴史学にも引導を渡した。二人とも書物で完結した伝統的学問分野(中世思想、日本中世史)から人文学に入門しながら、三〇代に(つまり一九六〇年代に)そこを外れる道を拓いた。》


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《五月革命のパリ(『薔薇の名前』作中の謎の原稿に「私」が出くわした一九六八年八月のまさにその頃)に滞在した山口は、共通する解放的精神を「未開」に見出し、その発想を理論化する際に記号学を応用した。中世の論理学に発しパースを咀嚼するエーコと、人類学に発しレヴィ=ストロースを咀嚼する山口ではずいぶん距離があったが、記号学はそれをひとまとめにする大風呂敷と拡大解釈された。それが知的流行である所以だった。記号の「語感」がまず消費された。》

なるほど、そういうことなのかとエーコと山口昌男のスパークぐあいがよく分った。

《何を学んだかよりも、若いうちに知的健啖に(「実物」にという方が正直)触れたことが私には大きかった。どの著作というより、知的度量に尊敬を払い、博識以上の存在に心を動かされてきた。》

「実物」を知るということはやはり刺戟的である。知らない方がいい場合もなきにしもあらずかとも思うが。




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by sumus2013 | 2016-04-17 20:49 | おすすめ本棚 | Comments(0)

こころに効く「名言・名セリフ」

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岡崎武志『読書で見つけたこころに効く「名言・名セリフ」』(光文社知恵の森文庫、二〇一六年四月二〇日、カバーデザイン=長坂勇司)が届いた。もう一冊『ここが私の東京』(扶桑社)も同時に届いたのだが、これはもう少しゆっくり読ませてもらってから紹介する。

中江有理さんの帯、いいなあ(笑)。《ただの名言集ではありません。「読む楽しさを共有する本」です。》まさにその通り。あれこれ拾い読んでいると時間を忘れる。花森安治の言葉も採られていた。

《世界はあなたのためにはない》

う〜ん、これを抜いてくるか、さすが岡崎氏。

《『一銭五厘の旗』(暮しの手帖社)という随筆集に収められている。春に、学校を卒業する若い女性に向けた言葉だが、ずいぶん厳しい。普通なら『世界はあなたのために手を広げて待っている』と、前途ある若者に景気をつけたいところだ。
 しかし花森は、そうしない。ここで三十三歳という若さで死んだ一人の女性編集部員の話をするのだ。林澄子、旧姓藤井澄子は、暮しの手帖社が初めて社員を公募した一九五七年に入社。一番の成績だった。彼女は二年後に結婚し、男女二人の子を産み、産休、育休をとって、そのつど職場に復帰してきた。昭和三十年代、女性は結婚あるいは出産を機に退職し、家庭におさまるのが一般的だった。》

彼女は働く女性すべての立場を代表するように懸命に頑張った。

《彼女が入社した十年後、暮しの手帖社の入社試験には、三名の採用に二百名もの応募があったという。》

十年後と言えば『花森安治の編集室』の著者・唐澤平吉さんが試験を受ける四年前である。そんな難関だったわけだ。花森は林澄子の有能さと死を語り、こう書いているという。

《「世界は、あなたの前に、重くて冷たい扉をぴったり閉めている。それを開けるには、じぶんの手で、爪に血をしたたらせて、こじあけるより仕方がないのである。」》

そして岡崎氏は《この言葉は今も有効である》と結ぶ。鮮やかな手並み。

一方、唐澤氏も林澄子のことを取り上げている。唐澤氏はこのエッセイで花森が訴えたかったことは三つあるとする。

《ひとつは、林澄子さんの生き方、しごとへの取り組み方のすばらしさと、その人を失ったことへの深いかなしみでした。
 ふたつめは、暮しの手帖社のしごとの大へんさです。》
《そして三つめは、女性が社会に出て働くことの意味についてでした。》

こう分析して雑誌創刊時代の苦労話を引用し、暮しの手帖社に就業規則がないことを「オトナの常識」だと締めくくる。

《そして就業規則のないしごと場こそ、花森安治にとってリーダーとしてのカリスマ性をぞんぶんに発揮できる、最良のしごと場だったのではないでしょうか。
「ぼくがいったり、やったりすることは、世間よりも十年早いんだ。いや、二十年くらい早いかもしれん。あんまり早すぎて、わかってもらえんことのほうが多い」》

これは花森に対する痛烈な批判ではないか? 唐澤氏はもちろんそんなことはこれっぽっちも書いていない。この常識がなければ『暮しの手帖』というユニークな雑誌は生まれなかったと断言しておられる。ただ、唐澤氏によれば林澄子さんの死因は脳出血だった。今なら遺族に訴えられても仕方がないような働き方だったのかもしれない。

「世界はあなたのためにはない」……非情な名言である。

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by sumus2013 | 2016-04-11 20:46 | おすすめ本棚 | Comments(6)

花森安治の編集室 文庫版

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唐澤平吉『花森安治の編集室 「暮しの手帖」ですごした日々』(文春文庫、二〇一六年四月一〇日、カバーデザイン=大久保明子)読了。単行本はかつて紹介したことがある。

唐澤平吉『花森安治の編集室』(晶文社、一九九七年)

先日紹介した津野氏の花森伝が資料を集めて描いた、花森像の不完全なジグソーパズルのようなものだとすれば(唐澤氏によると花森はジグソーパズルに夢中になったことがあってその普及に貢献したそうだ。伝記に完全は在り得ない)、唐澤氏の本は身近に接した人が描いた花森の優れた似顔絵のように思える。どんなに似ていようとも似顔絵が本人でないことは言うまでもないが、それとは別に似顔絵は描いた作者の素顔も描き出す。その意味で本書は二重に興味深い読物になっている。

どこを取っても花森と唐澤氏はドラムの皮の表裏のように一体となって現れる。打てば響くというのか、打たれたことによって響くという方がいいのかもしれない。

例えば昭和四十六年、唐澤氏は暮しの手帖社の面接試験を受けた。一次試験が作文提出、二次試験が面接。面接に進んだのは三十人ほど。その中から四人が採用された。面接での花森と唐澤氏のやり取りの一部を引用してみる。参考までに唐澤氏は一九四八年生まれ。

「最初から関西大学を志望していたの」
「いや、京大を二回受けたんですが、京大のほうでは来るにはおよばずということで」
「行かんでよかった。京大なんか行ってもろくなことないよ」
「そうですか」
「そうだよ。それにしてもきみは趣味が多いな。音楽はジャズ、それとも」
「クラシックです」
「喫茶店で聞いていた」
「いや、あの雰囲気は好きじゃないんです。アパートで聞いてました」
「アパートはどんな部屋」
「四帖半と三帖の部屋に台所がついていました」
「へえ、そりゃきみ、大名じゃないか」
「映画でいちばん印象にのこっているのはなに」
「うーん、『俺たちに明日はない』ですね」
『俺たちに明日はない』か、どうして
「あの映画から、アメリカ映画が変ったと思いましたけど。あとは……」
「うん、亜流だな。ところできみは趣味に読書をあげてないけど、本なんか読まないの」
「学生にとって、読書が趣味といえるかどうか」
「そうか、学生が本を読むのが趣味ではおかしいな。それで好きな作家は」
「北村透谷……」
「アッハッハ、こりゃまた古いなあ。透谷のどこがいい」
「……文体でしょうか」
「うん、透谷はハイカラだね。もうちょっと新しいひとでは」
「キタ、キタ……北杜夫さん」
「ほう、どうして」
「おかしなこともいっぱい書いていますが、小説はマトモでしょう」
「そうね、ほかには」
「柴田翔さんなんかも」
「アッハッハ、明日がなくても『されどわれらが日々ーー』というわけだな」
「ま、そういうわけでも……」

なかなかの臨場感。花森の独断が垣間見えるし、あからさまに食い違う世代感覚が面白い。しかも、ちゃんとオチまでついている。

この後、無事めでたく入社の運びとなるのだが、いざ入社してみると、そこは入社前に想像していたものとは全く違っており《自分の想像がいかに貧しいものか、現実によってしたたか味わうことになりました》、ということでその顛末はぜひ本書でお読みいただきたい。どうして『暮しの手帖』があれほどユニークだったのか、それがはっきり理解できる。

昨年来、富士正晴についていろいろ調べたり考えたりしていたので、そういう観点からもこの評伝(ではないか)は参考になった。富士と花森は神戸三中に同時期に在学していた(花森が二歳上)。その二人に共通することが少なくとも二つある。ひとつは二人がともにきわめてユニークな雑誌を創刊したこと、そしてそれが今日までどちらも発行を続けていること。

もうひとつは慰安婦について。本書によれば花森は《明日死ぬかもしれないというときにでも、ぜったいに慰安婦を抱きにいかなかった男たちがいた》ということをひんぱんに、いささか強調しすぎるくらい語って聞かせ、男女の関係については潔癖だった。富士正晴は戦争に行くとき絶対に人を殺さない、そして強姦はしないと誓ってその通り実行したらしい(よく実行できたものだ)。

二人が似ている、とは思わない。しかし人並みはずれて分裂的なところと偏執的なところを持ち合わせているように見えるところに通底するものがあったという気がしないでもない。



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by sumus2013 | 2016-04-10 21:56 | おすすめ本棚 | Comments(4)

花森安治伝 文庫版

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津野海太郎『花森安治伝 日本の暮しをかえた男』(新潮文庫、二〇一六年三月一日、カバー装幀=平野甲賀、カバー装画=花森安治)を頂戴した。元本についてはすでに紹介している。

津野海太郎『花森安治伝 日本の暮しをかえた男』

このときには詳しく触れなかった佐野繁次郎と花森の出会いについて津野氏の見解を引用しておこう。これには三つの説がある。世田谷文学館『花森安治と「暮しの手帖」展』図録の年譜によって学生時代の昭和十年とする説。佐野のところに押しかけたのが十年で働いたのは昭和十一年だという酒井寛説(『花森安治の仕事』)。そして田所太郎『出版の先駆者』に書かれている昭和十二年説。

花森が大学を卒業した昭和十二年の初め頃、親友の田所太郎からこう言われた。

《「自宅に来ていた友人から、佐野繁次郎がパピリオにいるから会って就職を頼んだらどうか、といわれ、『そうか。』といって、そう言われたその日に麻布四ノ橋のパピリオ本舗へのこのこ出かけてゆき、初対面の佐野に会い、あなたの宣伝部ではたらきたい、といったら、佐野は『いいだろう。』と、たった一言、そう言ったというのである」
 そのあと緊張のあまり蒼ざめた顔をして箪笥町の借家に戻ってきた花森は、待っていた友人に「おい、まとまったぞ」と告げ、つづけてこういった。
「こんばんは神楽坂で一本つけるか」
 なかなかの臨場感ではないか。こうした親密な語り口からしても、第三者めかして書いてはいるが、この「友人」が田所本人だった可能性はきわめて高いと考えていい。》

津野氏は、花森が山内ももよと結婚したのが昭和十年十月で婚姻届が十一年十二月、というところから、子供が十二年の春に生まれることが分って花森は安定した収入を確保しておかなければならないと就職する覚悟を決めたのだろうと推測する。そして田所の忠告に従って伊東胡蝶園に佐野繁次郎を訪ねた。田所の文に「初対面」とあるのは勘違いだそうだ。

《また、その場で採用ときまったのは、なにも佐野がいい加減な人物だったからではなく、おそらく通常の学生レベルをはるかにこえた花森の「たいへんな男」(武田麟太郎)ぶりを敏感に見てとったせいだったのだろう。この若い男には力がある、というつよい印象があったのだ。》

花森が編輯制作した『帝国大学新聞』をひと目見れば花森の力量は明瞭であろう。また津野氏は佐野の渡仏についてこう書いておられて、なるほどなと思わされた。

《佐野は三七年八月に渡仏し、二つの美術学校にかよって、かねて敬愛する画家、アンリ・マティスに師事している。このままではただの成功した広告美術家として終わってしまいかねないというおそれと、もうひとつ、九年まえにパリで死んだ佐伯祐三の弔い合戦といった意識もあったのだろう。あとのことは若い花森にまかせて、という気持ちもあったにちがいない。》

佐野は《ただの成功した広告美術家として終わってしまいかねない》というような危懼は決して抱かないと小生は思うが、それはともかくとして花森がパピリオ入って来て「後は任せた」と考えて渡仏した、これは大いに可能性がある。

まだ全部は再読していないけれど、いやあ、やっぱりよく書けた評伝だ。


そうそう、こういう記事も出ました。

NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」のモデルとは?
「暮しの手帖」元編集部員 唐澤平吉



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by sumus2013 | 2016-04-04 20:58 | おすすめ本棚 | Comments(4)