林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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Die schönsten deutschen Bücher 2013

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『Die schönsten deutschen Bücher 2013 The Best German Book Design 2013』(Stiftung Buchkunst, 2013)。こちらも頂戴しました。いただいてばかりで申し訳ないです。

印刷博物館(http://www.printing-museum.org)で「世界のブックデザイン2012-13」展が開催されているが、そのドイツ篇とでもいうのか、ドイツのベスト・ブック・デザイン集。以前にも紹介したことがある。

かっこいい本『THE BEST GERMAN BOOK DESIGN 2010』

このハードカバーの片側だけを接着したスイス製本は『書影でたどる関西の出版100』(創元社、二〇一〇年)と同じだ。最近よく見かけるようになった。もちろん『関西の…』がオリジナルというわけではないのは言うまでもないが、その流行に多少の影響は与えたと勝手にうぬぼれていても許してもらえるだろう。

この余白に黒ベタというのがどうも環境にやさしそうではないし、インクもメチャ食いそう。巻頭の大きい図版は図版の部分だけにグロス(光沢)コーティングしてある。これは目新しいかも。

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小さく見開きページをズラリと並べるというのも、あまり見た記憶がない。書影を小さくして沢山並べるというのが二十一世紀になってからの雑誌などの図版レイアウトの主流である。インターネットの影響なのだろうとは思うが、これはこれでチャンスがあれば真似して見てもいいのかなと……。




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by sumus2013 | 2013-12-24 21:08 | おすすめ本棚 | Comments(0)

昭和モダン 絵画と文学 1926-1936

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『昭和モダン 絵画と文学 1926-1936』(兵庫県立美術館、二〇一三年一一月)を頂戴した。先日このブログに手元不如意につきパスすると書いたためクリスマスプレゼントとして送ってくださった。誠に有り難いことである。

昭和モダン 絵画と文学 1926-1936
http://sumus2013.exblog.jp/21015492/

黒島伝治の本はこのページに出ている。
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それから『ルル子』はこちら。


この図版を良く見ると、小生が日本近代文学館で閲覧したものと同じ本のようだ。ただ、展示されていたのは、これではなかったように記憶している(どうでもいいことではありますが)。

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佐野繁次郎の舞台装置の写真も載っている。これらは佐野展の図録にもモノクロで掲載されていたと思うが、これくらい大きいと分りやすくていい。東郷青児、阿部金剛、古賀春江の装置ももちろん出ている。比較してみると佐野は看板の文字を多用しているのが特徴的である。後年の作風を考えると納得できるように思う。


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by sumus2013 | 2013-12-24 20:45 | おすすめ本棚 | Comments(0)

捨身なひと

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小沢信男『捨身なひと』(晶文社、二〇一三年一二月二〇日、ブックデザイン=平野甲賀、カバー絵=ミロコマチコ)読了。

http://www.shobunsha.co.jp/?p=2955

花田清輝、中野重治、長谷川四郎、宮武外骨、菅原克己、辻征夫……いずれ劣らぬ「捨身なひと」たち。小沢信男が語り部として冥界より引き戻し、古くて新しい魅力を輝かせる。純粋に生きる、生きつづけることは、かくも困難なことなのだろうか、捨身でなければできないことなのだろうか。かつての日本ではそうだった、そしてこれからの日本でもそうならないとは限らない。

ぶれないオールド・サヨクこと小沢信男が書く、語るからこそ、その言葉は心に沁みる。例えば、長谷川四郎の小説「張徳義」のラストに対して「スターリンの軍隊が解放軍なんてナンセンス」という批判が出ることがある。しかし、

《読書会などでは、このてのステレオタイプのご意見を賢そうにおっしゃる向きが、たいていおいでです。そのさいの私の言い分を、念のため書きそえれば、広島や長崎に原爆を落とした元兇のアメリカ軍でさえ、日本軍閥を倒してひとまず解放軍だった実績はある。世界のいたるところで国境紛争は絶えねばこそ、国境がどんどんうすらぎ諸民族が陽気に交流する未来が、なおさらに人類の課題でしょう。ゆくてはるかなとはいえども、とりあえずはEUをみよ。またキューバ人民の陽気さをみよ。この回答もオールド・サヨクですか。それがどうした。》(作品集を編みながら)

あるいは花田清輝が終生こだわった芸術の「共同制作」について。

《みんなで仲良く、なぁなぁの没個性な作品をつくりましょう、というのではない。各人が懸命に自己を表現しながらしかも共同の一個の作品だ。すると、どうなるか。このさい急いで、あけすけに言ってしまえば、文芸が作家さまのお作りになる私有財産として、やたらと奉っているのを、その仕組みが近代というやつなんだが、それをワァーッと乗りこえちゃおう、ということです。
 欧米では著作権を七十年に引きのばしたとか。日本もおっつけそうなるだろうこの現代の滑稽さ。なぜ乗りこえる必要があるのか。ほんらい万人のものに豊かにひらけているはずの芸術を、私有財産に囲いこみ、文化資源というひたすら儲けの具にする、その制度が、根性が、貧しいからですよ。》(『泥棒論語』プロローグ考)

しなやかに激しい文章だ。これすなわち小沢節、小沢さんの生き方である。これらの短い引用からでも「捨身のひと」にはまず著者本人を数えなければならないことがよく分るのだ。

《辻征夫と出会い、彼の友人や、友人の友人や、詩人たちが集まって、おりおりに句会をひらいて十年になります。現代詩人が、古色蒼然たる前近代の定型俳句をつくるなんて堕落だ、という外からの批判や、自身の内なる抵抗もあったようです。それにしてはおしなべて、嬉々としてやってくるのは、なぜだろう。》(畏敬の先輩、敬愛の後輩)

《さよう、余白句会は終始遊びのグループです。ただし各位に微妙なおもいはあるだろう。なかには文学運動の一環のつもりの馬鹿も一人いて、そうです、おくびにもださないけれども私はそのつもり。これにかぎらず、することなんでもそのつもりの傾向があるけどね。》(同前)

そういう文字通りの共同制作(連句のような)を小沢さんは想定していたのかもしれないけれど、じつはいかなる文学であれ何であれ、誰にも何にも借りていない表現というものは在り得ないのではないだろうか。そう言う意味では、芸術は(人はと言い換えてもいい)単独では存在できない。

《長谷川四郎も一九八七年に死んでしまった。けれども、死んでも死んでも生きているのが、すてきな文学のすてきなところです。》(原住民の歌ーーデルス・ウザーラ)

《死んだ人は、さながら生きてたときのように死んでいる、というのが、このごろの感想ないし痛感です。》(死者とのつきあい)

そう、みごとに死んだ人たちと共同制作してるじゃないですか、小沢さん!

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『捨身なひと』を読んだら、無性に花田清輝を読みたくなった。今、わが家にはこの『復興期の精神』(講談社文庫、一九七四年三刷)しかないようだ。栞がはさんである。そこを開くと、偶然にもこんな文章が目に留まった。

《生の現実性によってではなく、いわば生の可能性によってとらえられており、ポアールのあたたかい空気を見捨て、街頭を吹きすさぶつめたい風のなかに決然と身をさらす。ただ生きているところの現実は、すでにかれらにとっては非現実であり、生きることもできず、死ぬこともできない現実が、かれらにのこされた唯一の現実なのだ。これが今日の現実であり、我々の現実であると私は思う。そこでは、「現実的な」打算が無意味なものとなり、必然性の上に安住することは許されず、はたして人間にとって自己保存慾が本質的なものか、自己放棄慾が本質的なものか、容易に解決しがたい問題となる。私はこのような我々の生の可能性を、鍛えあげられたまま、まだ一度も血ぬられず、青い光をはなちながら冴え返っている、眉間尺の剣のようなものだと考える。我々はこの剣を背負って、歩きだす以外に手はないのだ。これが我々の「自由」である。》(ブリダンの驢馬)

う〜ん、やっぱりカッコいい。要するにこれは実存主義というやつであるが、この本について小沢さんはこう書いている。

《花田清輝といえば『復興期の精神』で、六十年前の、敗戦の翌年に出版された。衝撃でしたねぇ。全面戦争のまっただなかで書いていて、それが戦後のわれわれを鼓舞しました。誰もなにもあてにならない混迷のときに、めざましい人間の声をひびかせていた。》(『泥棒論語』プロローグ考)

「われわれを鼓舞し」たということ、それすなわち「共同制作」なのである。

最後に脱線。「ポアールのあたたかい空気」と花田の文中にある。このポアル(poêle)は「暖かい部屋」の意味らしい。花田はこのくだりに先だってポアールとはデカルトの書物に出ている言葉で《悠々自適、かれがその画期的な労作のペンをはしらせたのは、このポアールのあたたかい空気につつまれてであった》と書いている。検索してみると『方法序説』第二部の初めの方に出ているらしい。

 « J'étais alors en Allemagne... Je demeurais tout le jour enfermé seul dans un poêle où j'avais tout loisir de m'entretenir de mes pensées. »

ドイツでは暖かい部屋に一日中こもって思索にふける生活をおくっていた……とデカルトさんは言う。このpoêle」は「暖炉」ではなくドイツにおいては「煖房のきいている部屋」という意味だそうだ(花田はどちらでもいいと書いている)。書を捨てよ、街へ出よ、かな。戦中においてはそれは剣を負う(比喩的にも文字通りにもとれる)ことだった。こういうのを読むと小林秀雄なんか目じゃないという気がしてくるのだなあ(小沢節が染るんです!)。

いろいろ考えさせてくれる『捨身なひと』でありました。


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by sumus2013 | 2013-12-20 21:03 | おすすめ本棚 | Comments(2)

山之口貘その他


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『山之口貘 猫 ねずみ りんね』(ヒロイヨミ社、二〇一三年一二月七日、編集・制作=山元伸子、http://hiroiyomu.blogspot.jp)を頂戴した。深謝です。

山之口貘の詩三篇にそれぞれ秋葉直哉、宮浦杏一、永岡大輔の三氏によるエッセイを付してある。活版刷り。表紙と詩篇はマーメイド、本文は薄手の上質紙、見返しに遊紙にチリ入りの用紙を用い、その色目の取り合わせもシブイ。二百部。


横田順彌『ナイト・スケッチ』(盛林堂ミステリアス文庫、二〇一三年一二月一五日、http://d.hatena.ne.jp/seirindou_syobou/)も届く。稲垣足穂が星新一になったような、しかしもっと軽やかな掌編集。

《まちはづれの細い露地に、アセチレンランプの燈が見えたので、近寄つてみると、露天の古本屋が店を出してゐた。そこで、黒い表紙のぶ厚い本を手にとると、居眠りしてゐた店番の老人が目をさまして、
「その本がほしいのかね。それは、とつてもいい本ぢやよ」
 といつて、ニッと笑つた。
 本をぱらぱらとめくつてみると、ぼくの知らない文字がキラキラチラチラとネオンみたいに輝いててゐた。
「これは、どこの國の本なの?」
 ぼくがたづねると、老人は、
「ふむ、おほかたプラネタリウム共和國のものぢやらう」
 といつた。
 ポケットから十圓玉を五つだして、
「これで買へる?」
 とたづねると、老人は、
「まあ、いいぢやらう。古い本だから、氣をつけて讀むんだよ」
 と注意してくれた。》

この「プラネタリウム共和國」はあと五行で終り。例によって巻末に解説と「横田順彌著作目録」も掲載されている。


『雲遊天下』115号(ビレッジプレス、二〇一三年一二月一五日、http://www.village-press.net)。「江東フォークフェスティバル」スタッフ座談会が冒頭。「吉上恭太インタビュー」もあるぞ! 興味深く読んだのは岸川真「ナシの話・エルモア・レナードを想って」のなかの「西村賢太に会って驚く」。

《僕は「怖い作家だ」「中上健次みたいだ」と仄聞していたので新潮社でお会いするまでビビりまくっていた。殴られたら、反撃していいだろうかと自問自答していた。ところが、現れた西村賢太は腰の低い、本が好きなアニキ的な人だった。》

《こうしたら面白いって提案されても、編集者より私小説を読んでいるから面白さや方法論の蓄積はこっちに分がある。だから書き直しはしません。ただこうしたら売れるって言われたら直しちゃうかもしれないな(笑)」

 僕はそこで、「文學界」に求められて書いた原稿百枚がボツになったことをぼやいてしまったのだ。すると右の返事がきた。書き直しを否定するという断固とした姿勢の表明にハッとしてしまった。》

《書き直しというのは編集者の〈神性〉を示すもので、自分もよく分るのだが、書き手を封じる魔力がある。それでは駄目だ、掲載できないと具体的に言わないでも恐ろしい力がある。掲載してもらいたいので僕なら言う。いや、これまで言ってきた。
「はい、直します」
 という一言をいつも口にした。
 だが、掲載されなくても自分の書いたものを守るため、嫌だと言い、理由も述べる勇気。これはなかなか持てないものだ。僕はそういう対立を辞さない姿勢が大切であると思っていたが、実際にそうしている人物と初めて会った。
 これには衝撃を受けた。》

そういう作家が西村賢太しかいない? というのは、さすがに嘆かわしいぞ。







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by sumus2013 | 2013-12-18 20:31 | おすすめ本棚 | Comments(0)

えむえむ6

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『えむえむ[熊田司個人誌]』第六号(二〇一三年一一月三〇日)が届いた。第五号で予告された通り《文藝と相携える木口作品の紹介》が行われている。明治時代の木口木版のヴァリエーションには改めて目をみはる。また堀口大学の詩集および訳詩集における長谷川潔の木口木版の紹介もたいへん参考になる内容。
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他に父上(坂本巽あるいは三上忠雄)の周辺を描いた「一九四九年・神戸(畢)」も。神戸高工(神戸大学工学部)が取り壊されるエピローグはしみじみさせてくれる。

『えむえむ』第五号
http://sumus.exblog.jp/20682825/
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by sumus2013 | 2013-12-13 17:26 | おすすめ本棚 | Comments(0)

ぼくの創元社覚え書補遺

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高橋輝次『ぼくの創元社覚え書』のさらなる追記が届いてビックリ。追記というか、山田稔さんが文中に出ている隆慶一郎の回想に《剣道二段の黒田という男》とある黒田は黒田憲治のことだと教えてくださった、という内容の一枚刷りである。山田さんは黒田のことを『海鳴り』に書いておられた。

『海鳴り』25 山田稔「ある文学事典の話」
http://sumus.exblog.jp/20273942/

この一枚刷りご希望の方は高橋さんまで(住所は『ぼくの創元社覚え書』経歴欄に明記されています)。
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by sumus2013 | 2013-12-11 16:46 | おすすめ本棚 | Comments(0)

新国誠一ノート

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金澤一志『新国誠一ノート seiichi niikuni memoranda』(JARGON BOOKS、二〇一三年一二月)を頂戴した。二〇〇八年に国立国際美術館で開催された「新国誠一《具体詩》詩と美術のあいだ」展に関連して行われた講演のためのノートをまとめたものだそうだ。この展覧会にはまったく記憶がないが(どうやらパリに出かけていたようだ)、見ておきたかった。

新国誠一の《具体詩》 詩と美術のあいだに
http://www.nmao.go.jp/exhibition/2008/id_1206161940.html

新国誠一について語るということはコンクリート・ポエトリーの歴史にも触れなければならず、かなり欲張った内容。しかし何とかまとめあげているのはさすがだ。

《漢字、かな、カナ、三種混合で、おなじことばでも場合によって漢字、違うときにはかなで書かれ、それでも大きな支障がない。日本語のあいまいな部分というのは、そもそも開始のところからコンクリートにかぎらず他者との融合がむずかしいものです。あるいはコンクリート・ポエトリーというのは、現行の日本語的状況を目指したようなものだったのではないかとも思えて、そのために新国誠一はあえて漢字の表意性をかさねていくような方法に固執しつづけたのかもしれないのですが、実は日本語はすでにコンクリートの先をいってしまったのかもしれない。厳密に仕上げたのではなくて、人間に合わせるように非整合性を残して完成しているようなところがあります。もし日本語がすでにコンクリート的な操作の多くを達成してしまっているとしたら、それは書記のシステムではなく読解のシステムの円熟に多くを負っているためではないでしょうか。詩人ではなく読者の目がすでにコンクリート的なものに適応している。》

スマホ、ケータイ時代はまさにこの指摘がはっきり目に見える形で現れているような気がする。



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『matatabido 10』(股旅堂、二〇一三年一二月)。巻頭特集が「旅」について。エログロな旅が満喫できる。巴里本が充実していた。ひと財産ほしい。表紙がスタイリッシュで気に入った。



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『アピエ』vol.22(アピエ社、二〇一三年一二月五日、表紙装画=山下陽子)はジュネ&コクトー特集。あえて二人一緒にしたところがアピエならではの贅沢さ。善行堂通信はもう5なのだ。



『福島自由人』28号(北斗の会、二〇一三年一〇月二五日)、菅野俊之さんよりいただく。菅野さんは「つぶての如薮に入りたる小鳥あり 歌人天野多津雄探照」を寄稿しておられる。明治三十年相馬に生まれた歌人。昭和四十二年歿。

 朝飯の櫃を提げ行く少女あり歩調に合せ口笛を吹く



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by sumus2013 | 2013-12-09 20:48 | おすすめ本棚 | Comments(0)

花森安治伝

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津野海太郎『花森安治伝 日本の暮しをかえた男』(新潮社、二〇一三年一一月二〇日、装幀=平野甲賀)読了。まずは津野氏の飾らない文章が心地よい。冒頭はこんな感じだ。

《夕暮れどき、国電(現・JR)新橋駅にちかい外堀通り(電通通りとも。現在の西銀座通り)の交差点だった。小柄だが、がっちりした体形の男がひとり、連れの勤め人ふうの男と並んで、こちらのほうをじっと見ている。こちらというのは、いまかれの前を通過しつつある五十人ほどの小規模なデモ隊のことで、その隊列のなかに一か月まえに大学生になったばかりの私がいたのだ。》

《「おい、あれ花森安治じゃないか?」
 となりで腕をくんでいた見知らぬ学生が私にささやいた。それがあの男だった。平家ガニみたいに顎の張ったいかつい顔。眼力がやけにつよい。なのに、どことなくオバサンふうのおかっぱ頭で、パーマまでかけているようだ。有名なスカートこそはいていないが、まちがいない、まさしく女装の編集長として知られる『暮しの手帖』の花森安治である。
 ーーふうん、やっぱりなァ。
 私は好奇心にかられて交差点に立つおかっぱ男を横目でジロジロ見つめた。それに気づいた男はさり気なく目をそらし、となりの男になにかひとこといったーー。
 そこで私の記憶はおしまい。その間十五秒もあったろうか。それでもこの一瞬の記憶は、いまこの稿を書きはじめた私にひそかな自信を与えてくれる。若いころ、たしかに私はあの花森安治をじぶんの目で見たことがあるぞ、という自信である。》

『考える人』(新潮社)に連載中の「花森安治伝」については小生の名前が出ていると教えられて触れたことがあるが、本書はその連載を元にしたものだから、当然小生の名前も何度か登場している。佐野繁次郎に関するところと生活社に関するところ(「神保町系オタオタ日記」も出て来るよ)。多少なりともお役に立てたようで喜ばしい限り。

花森安治はハイカラな貿易商の長男として神戸板宿に生まれた。一九一一年。しかしほどなく家運が傾き、火事にも遭い、小学校の頃にはまったく没落していた。母親が一家のかなめとして生活を懸命に支えたという。そして《子どものころから絵をかくのが好きで、またそれが得意でもあった》。

神戸三中(長田高校)から旧制松江高校(戦後、島根大学に包括。同校の一年後輩に杉山平一がいた)そして東京帝大の美学美術史学科へ入る。このあたりのコースについても津野氏は独自の解読をしておられて傾聴に値する。とくに神戸と松江で花森が得たものが『暮しの手帖』の編集にまで影響を与えているというのは卓見であろう。

《同時代のアヴァンギャルド芸術運動が発見した機械や建築の「美」と、古い城下町の日常のうちに保存された伝統的な「美」と、その双方に同時に敏感に反応してしまう。》《花森安治が少年から青年になる一時期を、神戸と松江という対照的な二つの町ですごした。それは編集者としてのかれの人生にとって、なかなかに重要な体験だったのである。》

津野氏は花森が編集した松江高校の交友会雑誌を閲覧して、非常に重要な発見をしておられる。花森による編集後記の文言。

《本号の責任はすべて僕にある。
 この編輯は全く僕によつて、その独断のもとになされた故にーーこの点、委員田所、保古の厚意に感謝したいと思ふ。》

『暮しの手帖』編集における花森安治の「独断」のはげしさには多くの証言がある。要するに栴檀は双葉より芳しだった。またこうも書いているという。

《本号の組み方についてーーこれはすべて、九ポイント一段組を以て構成された。紙面の変化を図るために、一部分は二段組に、との話もあつたが、僕は独断を以て、全部一段に組んでもらつた。僕自身の考へを言へば、二段組の、あのゴミゴミした感じがいやなのである。》

他に体裁について、表紙について、カットについて、もいちいち見解を述べているのだが、それにしても、高校生でこれだけはっきりした編集術についての思想を持っているというのは驚きに値するかもしれない。驚く方が凡庸だと言われればそれまでなのだが。津野氏はこういう感想を記す。

《雑誌のなかみよりも、その「体裁」についてまっさきにのべる。そのことから、このとき花森がどこで勝負をかけようと思っていたのかが、まっすぐに伝わってくる。いかにも気負っている。でも、よくあるような旧制高校ふうの自己陶酔的な観念癖などは、みじんも感じられない。さすがだね、花森安治ーー。》

……とこんなふうに紹介していてはキリがないので、以下ざっと要点を列記するに留める。

東大の学生時代に伊東胡蝶園で働き始めるが、それはどうして、いつ、という問題。ここには佐野繁次郎との邂逅もからんでくる。

従軍手帖の発見。これによって昭和十三〜十四年の従軍の細部が見えてくる。

そして大政翼賛会での役割、その伝説と本気の度合い。一方で生活社の『婦人の生活』シリーズへ関わる姿勢の本質。

再度の召集と召集解除。戦争末期のアジテーション詩。

敗戦直後の雑文家、画家としての奮闘ぶり。

「衣裳研究所」。なぜ女装だったのか?

『暮しの手帖』の創刊の周辺とその編集内容の吟味。商品テスト、料理記事、ある日本人の暮らし。花森のオリジナリティ。

京都での大患、公害問題への取り組み、著書『一銭五厘の旗』。そして死。

《「その責任は、はっきりぼくにある」
 いまの目から見れば、進歩派インテリの空虚な決まり文句としか思えないかもしれない。
 しかし、そうではない。
 このことばのうちに、戦後まもないころの「ぼくは執行猶予された戦争犯罪人だ」という発言のこだまをきかずにいることはむずかしい。もしまた日本が最悪の事態におちいったら、そのときじぶんはどうふるまうことになるのだろう。戦後の三十年間、花森はついにこの問いから逃げおおせることができなかった。》

今こそ、花森みたいな人間に声を挙げてもらいたい、と思うのは津野氏だけではないだろうが、本書はがむしゃらにも見える戦後の花森の生き様をその動機の根底からきわめて明快に描きだした見事な評伝であろうかと思う。

久し振りに人名索引を取りながら読んだ一冊である。ざっと270人ほど登場。ひとつだけ。召集令状は役場の兵事係から本人や家族に直接渡されたはずである。《ハガキ一枚で兵隊に召集され》(p282)はおそらく誤解であろう。
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by sumus2013 | 2013-12-02 21:38 | おすすめ本棚 | Comments(4)

小説 永井荷風

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小島政二郎『小説 永井荷風』(ちくま文庫、二〇一三年一一月一〇日、カバーデザイン=多田進)読了。小島政二郎には『眼中の人』(岩波文庫)という傑作がある。忌憚のない語口においては本書も劣らないだろう。ただどうして「小説」と冠が付いているのか、事実ではないと言いたいわけでもないようだし、関係者をはばかって「小説」としたのか、それならもっと他に書き方もあったろうに、と思ったりもする。一部分、小説に仕立てたところもあり、この調子で書いてもよかったかもしれないが、全体としては評論ふうのエッセイといった体裁だ。実際、一九七二年に校正まで終えていたこの作品は永井家からクレームがついて出版されないままになっていた。ようやく二〇〇七年に鳥影社が刊行。そしてちくま文庫に入った。

芥川龍之介を描いた『眼中の人』もそうだが、本書は小島の荷風へ向けた一方的なラブレターのようなもので、それは同時に自叙伝にもなっている。小島は永井荷風が慶應義塾でフランス語を教えていたときにその生徒であった。荷風の礼賛者でもあった。その小島が自ら直に見た荷風や周辺の人々から聞き出した生々しい出来事を率直に綴っている。それは見ようによっては、恋情が余って落胆深く悪罵に変じるという感がなくもない。しかしその根底には荷風への愛があるためただの暴露ではなく「荷風論」に成り得ているとも思えるのだ。

なかで「なるほど」と膝を打ったのは、あるいは荷風好きの人には常識なのかもしれないが、荷風の作風の変化が幸徳事件の囚人馬車を目撃した日を境にしていることである。小島はその論拠に荷風の「花火」を挙げている。

《しかし、私は世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。私は自ら文学者たることについて甚だ羞恥を感じた。以来私は自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。その頃から私は煙草入れをさげ、浮世絵を集め、三味線を引[ママ]き始めた。》

荷風は「無力」を江戸趣味への隠居で中和しようとした。開き直った。そうできるだけの財産もあった。小島はそれが良くなかったと断言している。モーパッサンに刺戟を受けて試みて来た「小説」ではなく古くさい「物語」しか書けない荷風になってしまったと。しかし考えてみると、荷風の江戸趣味は中学生の頃からであって、この告白をそのまま鵜呑みにすることは出来ないようにも思う。ちょっとカッコ良すぎる。

それはともかく、出版に関することではいろいろ参考になる。籾山書店主と荷風の関係、『三田文学』創刊の事情、森鴎外との関係などなど。荷風の発禁本については丸木砂土のくだりが印象に残る。

《ところが、「ふらんす物語」ばかりは、どうした訳か、発売と同時に禁止されて、全部破摧されていまった。だから、内務省に納本された二冊しか残っていないと噂された。
 事実、私などはどんなに苦労して手に入れようとしたか知れなかったが、全然無駄だった。水上瀧太郎などは、後年作者から直接借覧してこれを筆写して持っていた。
 太平洋戦争中に、秦豊吉またの名、丸木砂土が鎌倉の私の隣へ疎開して来た時、彼が「ふらんす物語」の原本を持っているのを初めて見せてもらった。
「ヘエー、どうして、これを手に入れたの?」
 不可能に近いことをして入手したに違いない、そのイキサツが知りたくって、私は聞いた。
「これは内務省に納本された本の一冊だよ」
「だって、そんな本が我々の手にはいる訳がないじゃないか」
「それが、手にはいったんだから尚貴重じゃないか」
 そう言って、彼の友達が内務省の警保局に勤めていて、「ふらんす物語」のことが忘れられた頃、コッソリ盗み出して来たのだという話をしてくれた。
「幾らで手に入れたの?」
 文壇三吝嗇の一人である彼が、一体どのくらい出したのか興味があった。
「タダさ、タダで貰ったのさ」
 彼は「帝国文庫」の「西鶴全集」上下本も持っていた。今と違って、これ以外には「西鶴全集」はなかった。しかも、無数にある伏せ字に、こまごまと全部書き入れがしてあった。
 私は彼のビブリオメニア(書籍狂)の一面を初めて知った。その上誰かから原本を借りて、一々伏せ字に書き入れしたことは、大変な骨折りだったに違いない。その点をも、彼の好学心に私は敬意を表さずにいられなかった。》

「好学心」というのとは少し違うような気がするが……。

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この写真は雑誌『文学時代』第一巻第六号(新潮社、一九二九年一〇月一日)の口絵写真として掲載された「諸家の家族」より「小島政二郎氏・夫人・令嬢」(部分)。女優なみの器量と見える夫人だが、本書にも登場している。小説家は食えないものだ、それを証明するために小島は妻を島崎藤村の家へ連れて行く。

《一流の大家になってからも、藤村は麻布狸穴の、露地の奥の、崖下の、地震があったら一トたまりもなさそうな、日の当たらない、質素過ぎるくらい質素な貸家に住んでいた。私の女房が贅沢なことを言い出す度に、私は何も言わずに藤村の家の前へ連れて行ったことを忘れない。鏡花は終生二軒長屋の一軒に住んでいた。》

この話はよほど気に入っていたとみえ、終りの方にもう一度繰り返されている。

文庫の表紙に使われているのは荷風の自画像。「日和下駄」冒頭部分。荷風の絵は何点か実見したことがある。筋のいい素人という感じだ。『荷風全集』(岩波書店、一九七四年)の年譜によれば《「美術学校の洋画科を志望したが納れられず[略]」(『十七八の頃』)という談話の実体は未詳》となっている。画家になっていたら、さてどんな絵を描いたろうか、興味は尽きない。
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by sumus2013 | 2013-11-29 20:49 | おすすめ本棚 | Comments(3)

吸血鬼 マルセル・シュオブ作品集

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マルセル・シュオブ『吸血鬼 マルセル・シュオブ作品集』(盛林堂ミステリアス文庫、書肆盛林堂、二〇一三年一一月四日、表紙画=山下陽子)読了。

底本は矢野目源一訳『海外文学新選 吸血鬼』(新潮社、一九二四年)。ことさら漢語を多用した古色蒼然とした言葉遣いに幻惑された。例えば、ごく最近タレント議員が使用して、おや、よくそんな言葉知っているな、と感心した「震襟」(宸襟=天子のみこころ)が《王様の大膳頭はこの時実に巧妙な手段を用いて王様の震襟(しんきん)を休めたてまつると同時に魔法博士にも一本酬いました》(卵物語)というふうに登場していて、なるほどなあと思った次第。

この「卵物語」には卵料理がずらずらずら〜と並べ立てられる。トリマルキオーの饗宴を連想させる過剰な描写が圧巻。

《ーー陛下、と大臣フリイプソースタスが言いました。
 ーーお易い御用でございます。陛下は復活祭のときには是非とも玉子を召し上らなければなりません。これは御主(おんあるじ)の御復活を象りましたものでございます。しかし私は何も方便ということを存じて居ります。卵は固いのがよろしゅうございましょうか、掻き玉子にいたしましょうか、それともサラダ、ラムのオムレツ、それとも松露で召上りますか、薄皮焼、香草、独活(うど)、青豆、甘味などをあしらいましたものになさいますか、茹で玉子、蒸焼、灰焼、月見、半熟、泡雪でもさしあげましょうか、凝ったところでは二色玉子か白ソースを掛けましたもの、落し玉子、マヨネーズ、シャプロンネ、玉子饅頭いずれも御意のまゝに調整いたします。卵は鶏、鴨、雉子、蒿雀(あおじ)、小紋鳥、七面鳥、すっぽんなどがございます。御所望とあらば魚の卵でも油漬のカビアでも酢の物にしてさしあげましょう。ずっと珍しいところではサルタンもどきに駝鳥の卵か、千一夜の物語の鬼神の御馳走をそのまゝにロック鳥の卵などをおとりよせになってはいかゞかと存じます。それとも一層のこと、ごくあっさりと小粒の玉子を油煎りにしたものとか、お菓子の皮へ黄味をぬりましたものなども乙でございましょう。芹と小葱の刻みこみ、或は菠薐草の玉子とじなどはいかゞでございましょう。それとも生みたての生玉子を召しあがりますか。》

苦心の矢野目訳を原文と対照して味わってみたい。

《- Sire, dit le ministre Fripesaulcetus, rien n'est plus facile. Il est nécessaire que vous mangiez des oeufs à Pâques : c'est une manière de symboliser la résurrection de Notre-Seigneur. - Mais nous savons dorer la pilule. Les voulez-vous durs, brouillés, en salade, en omelette au rhum, aux truffes, aux croûtes, aux fines herbes, aux pointes d'asperges, aux haricots verts, aux confitures, à la coque, à l'étouffée, cuits sous la cendre, pochés, mollets, battus, à la neige, à la sauce blanche, sur le plat, en mayonnaise, chaperonnés, farcis ? voulez-vous des oeufs de poule, de canard, de faisan, d'ortolan, de pintade, de dindon, de tortue ? désirez-vous des oeufs de poisson, du caviar à l'huile, avec une vinaigrette ? faut-il commander un oeuf d'autruche (c'est un repas de sultan) ou de roc (c'est un festin de génie des Mille et une Nuits), ou bien tout simplement de bons petits oeufs frits à la poêle ; ou en gâteau avec une croûte dorée, hachés menus avec du persil et de la ciboule ; ou liés avec de succulents épinards ? aimerez-vous mieux les humer crus, tout tièdes ? - ou enfin daignerez-vous goûter un sublimé nouveau de ma composition où les oeufs ont si bon goût, qu'on ne les reconnaît plus, - c'est d'un délicat, d'un éthéré, - une vraie dentelle...》(Le Conte des oeufs

アスバラガスを「独活」としたのはご愛嬌、「月見」はポーチド・エッグ(落とし玉子)、「泡雪」は原文では《battus(半熟), à la neige(雪添え?)》とたぶん二種類になっているところをひとつにまとめてある。「二色玉子」は引用したテキストには該当する単語がない(テキストが異なるのかもしれない)。《sur le plat》を「落し玉子」としてあるが、残念これは目玉焼きのこと。《chaperonné》はよく分らないが、帽子のようなものを被せたという意味だろう。「玉子饅頭」も苦しいが、ファルシは詰め物(ピーマンの肉詰めのような)。《tortue》の「すっぽん」は青海亀としたいところ(アリスの物語を連想させる)。決して揚げ足を取ろうというのではない。これは大正時代の翻訳としたら上出来だろう。文章をいくつかに分けるなど、何より調子よく読める工夫が凝らしてあって名訳ではないかと思う。

マルセル・シュオブについては本書の解説(長山靖生)でも触れられているが、仏ウィキを簡単に訳して少し補っておく。

一八六七年、マルセル・シュオブ(Marcel Schwob)はシャヴィーユ(セーヌ・エ・オワーズ県)に生まれた。父ジョルジュはテオドール・ド・バンヴィルやテオフィル・ゴーティエの友人で文学好きだった。母のマティルド・ケーン(Mathilde Cahun)はアルザスのユダヤ知識人家庭の出である。

マルセルが生まれたとき、シュオブ一家は、外務省の長官として赴任していたエジプトから戻ったばかりだった。第三共和制の初期(一八七〇年代初)にはトゥールに居り『Le Républicain d'Indre-et-Loire アンドレ・ロワール共和主義者』を指揮し、一八七六年にナントへ移り、やはり共和党の日刊紙『Le Phare de la Loire ロワール燈台』を指導した。ジョルジュの歿後はマルセルの兄モリースが跡を継いだ。

マルセルの最初の作品発表は一八七八年一二月の『燈台』においてであった。ナントのリセでは成績優秀で、特にギリシャ語、フランス語、英語が得意だった。一八八一年にパリに住む母方の叔父レオンの元へ送られる。レオンはマザラン図書館(プルーストも一時籍を置いていた)の司書長だった。リセ・ルイ・ル・グランで学業を続ける。ここでレオン・ドーデ、ポール・クローデルらと友情を温めた。言語の才能を開花させ、すぐにポリグロット(多言語精通者)となり、一八八四年にロバート・スティヴンソンを発見し範とした。

エコール・ノルマル・シューペリウール(高等師範学校)の入試には失敗したが、一八八八年に一級文学学士号を受けた。八九年、今度は一級教員試験に失敗。教師の道は諦め『燈台』、『 l' Evénement』『l'Echo de Paris』などジャーナリズムに関わって文筆で生きることを選んだ。文学欄に力を注ぎ一八九四年には初めてアルフレッド・ジャリを紹介したり(九六年刊の『ユビュ王』はマルセルに捧げられている)、ポール・ヴァレリ、アンドレ・ジード、ジュール・ルナール、コレットらと親しく付き合った。

マルセルはアルゴ(隠語)やヴィヨンの作品に見られるような十五世紀のコキヤール(隠語の一種)に興味を持って熱心に研究した。隠語というのは自然発生的なものではなく人工的なコード化された言語であると考えた。

一八九〇年代より散文詩の形で短い物語を出版し始める。お伽噺のように後に人々によって語り継がれる形式を作り出した。フォークナーやボルヘスに強い影響を与えている。

一九〇〇年、コレットの友人の女優マルグリット・モレノと結婚。健康がおもわしくないなかで、ジャージー島や、スティヴンソンが生涯を終えたサモア島へ旅をした。フランスに戻り、引き蘢って未完の作品の執筆にかかったが、一九〇五年二月二六日流行性感冒で死去。モンパルナス墓地に埋葬された。
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by sumus2013 | 2013-11-12 21:35 | おすすめ本棚 | Comments(0)