林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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暗視の中を疾走する朝

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『清水昶詩集 暗視の中を疾走する朝』(築地文庫、二〇一四年五月三〇日)が届いた。清水昶の最初の詩集、私家版、その復刻版である。「栞」に佐々木幹郎氏が刊行の経緯を書いておられる。

《築地文庫の湊準二郎さんの話によると、湊さんが関東学院大学の生協で仕事をしていたとき、同志社大学を卒業したばかりの清水昶が職員として赴任。親しくなって、もはや絶版になっていた『暗視の中を疾走する朝』の謄写版の版下原稿を譲り受けたのだという。それを半世紀近く大切に保管していて、今回の復刻につながったらしい。

原本は「謄写ファックス」、復刻版はリソグラフだが、《限りなく原本そのものに近い感触に仕上がっている。》そうだ。


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  吊した舌に激しい痛み 海草のような神経を
  はいあがり いきなり海 例えば街でも良い
  消えて行く ジャズ 闇の部分にシャム猫の
  眼 少女の唇その光りの流れに 紙飛行機浮[ペーパープレイン]
  び 墜ち行く先は女の嗤い ハッハッジャズ
  ブラックコーヒーに溶けた僕の顔 店内は長
  くて昏く 西陣の家は長くて暗く 汚れた便
  器にあくび吹き込み ジャズジャズ流れちゃ
  うジャズ 失踪した男が聞く朝のジャズ 僕
  かも知れない たしかに僕は 瀑布の飛沫に
  濡れゲラゲラ笑いたかった[以下略]



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『暗視の中を疾走する朝』は、清水昶の「アキラ調」とも呼べる粘りつくような呼吸法と、土俗的な美意識に包まれた言語感覚が誕生する前の、詩の文体がまだ未成立の段階の習作詩集である。しかし、そのことがより一層、一九六〇年代中期の日本の典型的な青春像を浮き彫りにしていて、初々しい魅力を持っている。ジャズと革命と恋と学生運動が一体になっていた時代の匂いを、紫煙のように立ち上らせている。

と佐々木氏が述べておられる通りだと思う。むせかえるくらいだ。自筆手書きの詩がほとんどなのだが、その字体に触れたこういう指摘が注意をひく。

《ちょっと説明しておくと、六〇年安保闘争以降の京都の学生運動の諸党派は、それぞれ大学ごとに、タテカンに文字を書く係の学生を決めていたため、文字を見ればその内容を読まなくてもどこの党派かわかった。また、キャンパスで配られるビラの書体もレイアウトも(当時ビラはすべて謄写版印刷だった)党派ごとに異なっており、その書体は先輩から後輩へ引き継がれ、新左翼運動特有の文字文化が代々続いていたのである。》

なるほど、そういうものか。六〇年安保のビラなんだか面白そうだ。

《京都の学生詩人たちが出す詩誌のほとんどは京都市役所の近くにあった双林プリントで印刷されており、印刷人はそこで働いていた詩人の大野新であった。大野さんは清水昶の兄である詩人の清水哲男と一緒に、同人誌「ノッポとチビ」を刊行していて、京都の学生詩人たちは大野新を畏敬していた。

そして清水昶の第二詩集『長いのど』は文童社から出たそうだ。文童社は言うまでもなく双林プリントで詩集などの出版をするときの社名である。佐々木氏は触れていないが、経営者は山前実治で住所は山前の自宅になっている。

《わたしは「文学研究会」で出していた同人誌「同志社詩人」の印刷と校正のために、大学時代は双林プリントに頻繁に通っていた。大野新さんと親しくなって、「首」や「ノッポとチビ」の例会にも誘われた。その頃の京都には、詩の巨匠として天野忠がいて、異端児の中江俊夫がいた。京都詩壇の黄金期だったように思う。

『暗視の中を疾走する朝』元版は限定三〇部。この復刻版は三〇〇部である。実に丁寧な仕事ぶりだと思う。






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by sumus2013 | 2014-05-24 19:48 | おすすめ本棚 | Comments(6)

かなしい月

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『尾形亀之助拾遺集 かなしい月』(カトウジン、二〇一四年五月二〇日)。これはうれしい作品集だ。刊行についての概略は下記のサイトに詳しい。短時間のうちに制作されたようだが、亀之助ファンにはたまらない贈り物であろう。書肆盛林堂にて購入できる。

尾形亀之助拾遺集「かなしい月」刊行ノート

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「憐れな夏」(『果樹園』第十七輯、一九二七年一〇月)は妻との確執を描いた短い小説のような作品だが、込み入った心理を巧妙に描いている。

《二三日して歸る。といふお孝からの手紙を見て、羊吉は二日もつゞけて街へ出て持つてゐる金をみんな費つてしまつた。お孝はその後、半月たつても歸るて來なかつた。羊吉は金ーー金ーーと二字だけの手紙を出した三日目に、金着いたーーへへへ・・・(うれしがつてゐる形容)といふ手紙を妻へ書いた。そして、その金を持つて又街へ出た。
 街へ出た次の日は、羊吉は宿酔で一日寝た。お孝のゐない間に、飛行機が大西洋を横断したり、張作霖が大元帥になつたりした。

「マヴォ」というマヴォの宣伝文句(『朝日新聞』一九二三年八月一五・一六日)も近くて遠いMVに対する親近愛憎という感じがよく出ていて好きだ。そうか、関東大震災の半月前だったのか……。他には「又、一月の誓」(『新使命』第二号、一九二七年二月)あるいは「仙臺 在郷詩人之圖」(『人物評論』第一年第七号、一九三三年九月)における自虐的コントもいい。亀之助ならではの哀感、どうしようもない空気に触れたような気になる。

daily-sumus に引用した草野の記事を思い出した。

草野心平「尾形亀之助について」

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by sumus2013 | 2014-05-18 17:42 | おすすめ本棚 | Comments(0)

抜辨天

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間村俊一句集『抜辨天(角川学藝出版、二〇一四年二月二八日、著者自装、寫眞=港千尋)。『鶴の鬱』(角川書店、二〇〇七年)から七年も経ったとは思いも寄らなかったが、そのくらい時間は疾走しているということか。

本文用紙は今回もリ・シマメ。この斤量で百七十頁なら一体どのくらいするのか…などと考えてはいけないが、さすが太っ腹だ。カバー(ヴァンヌーボV)、表紙(わらがみGA)、帯(オーロラコート)、見返し(ファーストヴィンテージ)、遊び紙(やはらがみ)と用紙の取り合わせの妙はいつもながら感服する他無い。

基本はシュルレアリスム。俳句の作柄もまさに視覚的であって文字によるコラージュだと言っていいように思う。だから、少しも難解ではない。見たままでありながらも、これまで誰も見たことの無いような、まさに解剖台の上でのミシンと雨傘の偶然の出会いのようにcomme la rencontre fortuite sur une table de dissection d'une machine à coudre et d'un parapluie!)新鮮だ。


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シュルレアリスム宣言ぞろり心太

くちなはとくちなはむすぶ遊びせむ

龍泉を離れぬ女冬の雨

四疊半たゝみの下の父枯るゝ

釣舟につりびと見えぬ露伴の忌

秋時雨遺稿詩集に正誤表

秋刀魚焼く町に一軒貸本屋

白玉やほんまのことは言はんとこ

青物問屋桝源主ジ若冲晝寝

猫笑ふ日もあり裏のさるすべり

無削除版惡の花あり冬ざるゝ

小女の舌よく動く煮蛤

夕霞火星年代記にほこり

少年畫報付録組立て式おぼろ

風鈴の音を栞に文庫閉づ

ホルヘ・ルイス・ボルヘス『砂の本』
その本のゆくへなら初蝶に聞け

脚注のごとし春雨降る樣は

書物にもノドあり氷水が好き

くさめして菊坂下の人となる



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栞もまた例のごとく見事。福島泰樹氏がこう書いておられる。

《「白玉や」に反するようで気が咎めるのだが、一言だけ「ほんまのこと」を言っておこう。本集『抜辨天』一巻は、愛猫「タマ」悼にことよせた愛妻山口朋恵への相聞句集であったのだ。》

ごちそうさまでした。



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by sumus2013 | 2014-05-16 20:14 | おすすめ本棚 | Comments(0)

ぽかん4号の感想

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『ぽかん』4号(ぽかん編集室二〇一四年四月二一日)読了。本誌の充実ぶりこれはもう理想的な布陣ではないだろうか。と書きつつも、じつは真治さんには書き手を二人か三人減らして一人の分量をもっと増やした方がいい、というような感想をメールした。しかし、今また読み直してみると、これはこれでベストバランスを持った編集振りであり、小沢信男、山田稔、涸沢純平、木村浩之、外村彰、田中美穂、扉野良人、鹿角優邦、内堀弘…の並びのどこをどう削るかなどと考えるのは烏滸のさただと反省した。

  兵児帯もほどけば長し麦の秋   小沢信男

山田さんのエッセイは小沢信男さんの『捨身なひと』に関連して長谷川四郎からもらった葉書を探し出す話。涸沢さんは「わが出版記」や内堀さんの『彷書月刊』の記録も出版史においても大切な文章だ…と内容紹介するより読んでもらった方が早い。個人的には「父のチェーホフ」と題して扉野氏が湯浅芳子について書いているのがいいと思った。この話は直接その一部分を扉野氏の口から聞いたような気もするが、六波羅蜜寺あたりの坂を上がったり降りたりあのへんの露地を右へ曲がったり左折れたりするような書きぶりがひとつの新たな文体を仕上げつつあるような気がする。次号が待ち遠しい。

この雑誌を始めるずっと以前だったが、ちょうちょぼっこで真治さんから雑誌の作り方について問われたことを覚えている。とにかくページ数を増やさないこと。小生からのアドヴァイスはそれだけ。調子づいてくるといろんな人に頼んでしまって収拾がつかなくなる。ページが増えればコストも手間も増えるが、だからといって内容が充実するわけではない。マイペースをつづけるにはページ数制限という足かせを自らに課すべきだと思う。

ところがどうだろう。真治さんの発想はそんな頭の固い、古臭いものではなかった。1号2号はともかく、3号からご覧のような楽しい附録をたくさんつけてしまうという、とんでもない発展ぶりなのである。印刷コストはこちらが心配するほどかかっていないそうだ。子供の頃にとっていた『少年』だとかそういう月刊雑誌の附録が持っていたたまらない魅力を思い出させてくれた。


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「のんしゃらん通信」なんか、これだけで十分独立した冊子として通用するだろう。本誌とはまた違った意味で粒ぞろいの書き手がそろっている。さらに「こないだ」は3号の感想文集、読者カード、そして手作りの検印紙。もう、好きなようにやりなさい、という感じである。


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4号編集中の真治さんからメールをもらった。エッセイの開始ページを偶数に揃えるべきか否かというような問いだった。執筆者それぞれのエッセイの長さによってピッタリ同じように収まらないから、流し込みだとどうしても全員偶数からスタートというわけにはいかなくなる。『spin』では奇数始まりを基本にしていた。けれども成り行きで偶数から始まっても問題ない。そのように答えたと思う。今、本誌を見ると、どうしても揃わないところは一頁まるごと写真で埋めてある。この写真がなかなかいい。

もうひとつ質問があった。エッセイの文末が広く空いたときにはどうしますか? 空いたままは好きじゃないという。だったら埋め草を考えれば。そこが編集者の腕のみせどころだよ。よって今回は「シネマのある風景」(これ山田稔さんの本のタイトル)という囲み記事が三篇挿入された。

ポスター附録「ぼくの百」は福田和美さん。原稿をもらってからコラージュを制作したのだけれど、その本の選択が小生の趣味に近いので驚かされた。だって一回り以上年下なのに…。3号の秋葉氏の選択は、本に精通した若い人のもの、という感じがありありだったが、福田さんのは感覚的に近いものがあったのだ。しかしコラージュそのものはあまり原稿とは関係ないものになってしまった。カフカとかグロッスとか少しは入れるには入れておいたけれども。あとロシア文字は真治さんの指定によります。

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『海鳴り』26号(編集工房ノア、二〇一四年五月一日)が『ぽかん』より数日後に届いた。山田稔さんの「ある〈アンダスン馬鹿〉のこと」は『ぽかん』4号とほとんど同じような展開(昔、縁のあった人の葉書を探し出す)だが、枚数が多いだけに存分に筆を揮った感じがする。じつにいい話だった。








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by sumus2013 | 2014-05-06 21:04 | おすすめ本棚 | Comments(2)

「光の時代」展カタログ

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「石原輝雄・純子コレクション 光の時代 レイヨグラフを中心としたマン・レイと三條廣道辺り」のカタログを頂戴した。石原氏ならではの行き届いたできばえ。グローバルなネットワークを持つマン・レイ・コレクターにとっては英語版も欠かせない。会場でも販売されるが、入手は下記からも可能。

『光の時代』展 準備-9 カタログ完成

《この度の展覧会では、レイヨグラフを狂言回しに仕立て、戦前京都の詩人たちが織りなしたモダニズムの潮流が、巴里へと続いた文化の道であったことなど、謎解きの成果を示したいと思う。冒頭の中西武夫が京都帝国大学文学部に通っていたのと、俵青茅が京都詩話会を組織していたのは、どちらも一九三〇年頃なのである。京都・岡崎勧業館では一九三三年にマン・レイの油彩二点も招来した『巴里新興美術展覧会』が開かれており、これは『夜虹』の刊行年次とも一致する訳で、偶然と云うより精神の共鳴といった現象と理解されるべきであろう。しかも、俵が京都詩話会の事務所を置いた三條廣道東入ルは、この度の会場であるギャラリー16から歩いて五分の距離、画廊の前の道を俵が歩いていたと想像するのは、くらくらと目眩する幸せである。

その頃の京都における文学的な出来事としては、昭和七年に富士正晴、野間宏、桑原静雄の『三人』や井上多喜三郎の『月曜』が、昭和八年には『京大俳句』(京大俳句発行所)や『カスタニエン』(京大独逸文学研究会)もそれぞれ創刊されている。詩集では天野忠『石と豹の傍にて』(白鮑魚社)、天野隆一『紫外線』(青樹社)が昭和七年、俵青茅『夜虹』(青樹社)が昭和八年発行である。

『京大俳句』は先日も言及したように昭和十五年二月から八月にかけて同人の多くが検挙され(平畑静塔、石橋辰之助、渡辺白泉、西東三鬼ら含む)、自然と発行停止になる。戦争の拡大とともに、まず昭和十二年の取り締まり、そして十五年から十六年にかけての一斉弾圧によってリベラルな雑誌は同人雑誌と言えども一切許されなくなったようだ。

光の時代」展は戦前京都のモダニズム最後の輝きとも言えるまさに光の時代において中西武夫、俵青茅、天野隆一らがどのような活動をしていたのか、マン・レイ眼鏡を通しつつ、詩集や雑誌などの貴重な関連資料によって、それを実感できるまたとない機会である。もちろんマン・レイのオリジナル作品も眼福になるだろう。期待は高まる。春の古書即売会のお帰りにぜひどうぞ。地下鉄東山駅からすぐ(みやこめっせから十分とかかりません)。


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石原輝雄『三條廣道辺り』より、『麺麭』第二号(一九三二年七月)掲載写真。左から二人目天野隆一、四人目俵青茅。そして次は天野隆一編『京都詩人年表』から昭和八年の「青樹の会」。後列左より、水町百窓、加来武臣、俵青茅、藤井芳、笠野半爾、南江治郎[二郎]、飯田実記男、前列左より、荒木文雄、天野隆一、弥永亥一郎、喜多歓一

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部分写真、上右が俵青茅、下が天野隆一。

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by sumus2013 | 2014-04-26 20:39 | おすすめ本棚 | Comments(0)

宮地團四郎日記

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小美濃清明編著『宮地團四郎日記 土佐藩士が見た戊辰戦争』(右文書院、二〇一四年四月二一日、装幀=幅雅臣)。

《宮地團四郎は土佐国香我郡植村(現在、高知県香美市土佐山田町植(うえ))に住む細木嘉作支配の七代目郷士である。天保九年(一八三八)生まれで、弘化三年(一八四六)病没した父の跡目を次相続し、七代目となっている。》

《慶応三年十一月二十一日から明治元年(一八六八)十一月一日まで、一年間一日も欠かさず、前哨隊、迅衝隊の隊士として軍隊の中から記述した日記は、他の戊辰戦争従軍日記に比較して詳細である。軍隊内部の生活がルポルタージュ風に記録されており、貴重な史料ともなっている。》

これがとてつもなく面白い。淡々とした描写にリアリズムを感じる。リアリズムはたいがい退屈なものだ。その退屈さまで面白いのである。

宮地團四郎が土佐の自邸を出たのが慶応三年十一月二十一日。

  二十二日 汽船(外国船)に乗り込み出帆
  二十三日 兵庫湊に上陸《先一番遊郭に至る》
  二十四日 西宮を経て大阪長堀土佐藩屋敷到着、分宿
 十二月七日 守口〜橋本〜枚方〜淀〜伏見
 十二月八日 伏見〜京都、智積院の宿舎
[鳥羽伏見の戦い]
正月  九日 伏見〜淀
    十日 淀〜橋本〜大阪、浄久寺
   十二日 堺、堺町奉行所屋敷
   十七日 大阪
  二十八日 大阪〜枚方〜淀〜鳥羽〜東寺〜御所〜智積院
二月 十四日 京都〜膳所〜草津
   十五日 守山
   十六日 鳥居本
   十七日 関ヶ原
   十八日 美濃大垣
  二十一日 合渡(ごうど)
  二十二日 鵜沼
  二十三日 伏見
  二十四日 細久手 
  二十五日 中津川
  二十六日 妻籠
  二十七日 須原
  二十八日 宮ノ越
  二十九日 贄川
   三十日 塩尻
三月  一日 上諏訪
    三日 蔦木
    四日 甲府〜山崎
    五日 石和
    六日 勝沼[観音坂で戦]
    七日 初狩
    八日 野田尻
    九日 吉野
    十日 八王子
   十四日 府中
   十五日 江戸新宿
   十九日 市ヶ谷、尾州屋敷
四月二十三日 草加
  二十四日 越谷〜間久里〜粕壁〜杉戸
  二十五日 杉戸〜川越〜杉戸〜栗橋
  二十六日 壬生城
  二十八日 鹿沼
  二十九日 今市
閏四月 一日 日光
    九日 今市
[この時期、賊軍の抵抗激しいようす]
五月 十八日 今市〜大沢〜宇都宮
  二十六日 喜連川
  二十七日 鍋掛
  二十八日 白河
六月二十八日 棚倉
七月二十六日 三春
  二十八日 本宮
八月二十一日 母成峠で野営
  二十二日 猪苗代
  二十三日 滝沢口の病院で夜明かし
[若松城攻めの激戦]

《九月十九日 曇 今朝は格別無し。至而静也。又夕方大砲城中へ打
 九月廿日 晴 今日も右同断》

《九月廿二日 晴 今日四ツ時当城主肥後守降参に相成籏立つ。》

十月  六日 会津出発〜三代
    七日 マキノ
    八日 白河
    九日 茅野
    十日 大田原
   十一日 阿久津
   十二日 鬼怒川を舟で下り久保田
   十三日 矢貝〜境〜舟中泊
   十四日 江戸芝口、仙台藩中屋敷
  二十七日 品川沖の英国船で船中泊
  二十九日 十市沖に停泊
   三十日 高知・浦戸〜松ヶ鼻
十一月 一日 布師田に到着

以上ざっと行軍の旅程(宿泊地を中心に)だけ書き出してみたが、まあ、勝ち戦ではあったものの、やはりたいへんな大冒険だったろう。引用はしないけれど、若松城攻めは特段に迫力がある。「八重の桜」で砲撃の激しさが強調されていたのも納得できるような気がした。そんな難儀な戦の最中にも毎日欠かさず日記をつける、そんな男がいたというのも驚きに値するだろう。(原文だけ引用しましたが、もちろん現代語訳もついていますので御心配なく)

  




  






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by sumus2013 | 2014-04-24 21:32 | おすすめ本棚 | Comments(0)

谷根千ちいさなお店散歩

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南陀楼綾繁『谷根千ちいさなお店散歩』(WAVE出版、二〇一四年四月一七日、写真=和田高広、デザイン=横須賀拓)が届いた。文句なく楽しい一冊。

谷中の内澤旬子さんの仕事場に泊めてもらったのはもう十数年前のことになる。まだ内澤さんが巨匠になる以前のことで、四畳半の古い木造アパートを借りており、そこに寝袋で泊まったのである。このことはいずれ詳しく書くかもしれないが、朝は読経で起こされる(隣がお寺)という素晴らしい体験だった。

当時、すでに古い家屋を改造した目新しい店がポツリポツリと出来ており、これはなかなか楽しいエリアになりそうだな、と思っていたら、今はもうこんな賑やかな素敵な町になっているのだ(どんな町かはこの本をお読みいただきたい)。その間に様々なことが起こっては過ぎ去って行ったけれど、南陀楼氏のやっていることは基本的にほとんど変っていないようだ。変らないから新しい。

谷根千ちいさなお店散歩 WAVE出版
http://www.wave-publishers.co.jp/np/isbn/9784872906684/

不忍ブックストリート」が始まったのは二〇〇五年四月だそうだ。これもまた南陀楼氏でなければ成し遂げられなかったイベントであろう。そのせいもあって本書には本に関係する店が多く収録されている。先月、関西では『SAVVY』が新しい古本屋の特集を組んで話題を呼んだのだが、こちらもそれらのニューウェイヴとかなり共通するテイストの店が増えているのが分って面白い。

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by sumus2013 | 2014-04-19 20:47 | おすすめ本棚 | Comments(0)

書物のエロティックス

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谷川渥『書物のエロティックス』(右文書院、二〇一四年四月二〇日)。二〇一二年に阿佐ヶ谷のアートスペース・煌翔で「谷川渥が選ぶ百冊と萩原朔美が作る三冊」という展覧会が開かれた。そのときに小冊子が作られた。

《本書は、七十ページほどの小冊子のかたちで刊行されたこの『書物のエロティックス』を核に大幅に加筆し、さらにエッセイや書評や対談などを付加して立体的に構成し直したものである。》(おわりに)

書物のエロティックス ニュース@スペース煌翔

谷川渥のよき読者ではなかったが(よきも何も断片的にしか読んでいないが)、一読してその美的な判断に対して共感するところが少なくないことを納得した。言及された書物は美術(あるいはもっと広く「表象」)関連書のみならず多岐にわたる。美術・文学を核とした戦後思想史の見取り図がきわめてスマートな形で展開されており、しかも多数の書影が付されており、それらのほとんどは小生にとっては古本屋の小僧くらいに背文字学問程度に聞きかじったていのものであるが、その論じるところは濃く薄くさまざまに変型された媒体を通して吸収してきた、いわば文化的な空気のようなもののなかに拡散しているために吸収せざるを得なかった、すなわち一種の美的な倫理観を共有していたということがはっきり分る内容だった。


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その内容について詳述する気力はないけれども、ひとつだけ、例えば、先日再読したいと書いたばかりの澁澤龍彦やそのきっかけとなった種村季弘、彼らに対して本書では重要な柱として多くの紙幅が割かれている。なかでは種村季弘・矢川澄子訳『迷宮としての世界』(グスタフ・ルネ・ホッケ、美術出版社、一九六六年)は、

《この本がどんな衝撃をもって迎えられたかは、いくら強調してもし過ぎることはあるまい。》

などと何度も言及されている。『迷宮としての世界』はさすがの小生もかつて架蔵していた。読了はしなかった、というかできなかった。とは言え、このじつに雑多な内容の書物は戦後思想のあるひとつの方向をはっきり示していると思う。それはオルソドクスでなくヘテロドクス、中心の喪失ということではないか。そしてその喪失した中心には善くも悪くも理屈ではなくこんな感情が巣食っていた。

《谷川 それは、僕も種村さんと前にちょっとお話ししたことがあるけれども、戦中から戦後にかけての、今まで鬼畜米英だとか、アメリカ軍が上陸してきたら竹槍で最後までやるんだとかいっていた連中が、突然、進歩主義者の顔をして批判なんかをし始めた。あのあたりのことを種村さんは心の中にいつまでも持っていて、いかにいいかげんな連中で、言葉というものがそういうふうに突然回転してしまうというかな……。
諏訪 転向というか転回ですね。
谷川 何かの本のあとがきにそのことを書いているんだけれども、やっぱり種村さんの問題意識には、戦争体験ということがすごくあったと思うんですよ。
諏訪 そうなんですよね。焼け跡ですね。》(「アサッテの人」執筆前後)

先には澁澤龍彦の病院での様子を種村が描いているのを紹介したが、ここには谷川が種村の病院を訪ねたときの発言が出ている。

《谷川 [略]そして病院の名前を聞いて種村さんのお見舞いに行ったことがあるんですよ。軽い脳梗塞だということだったんだけれども、病室に入るとき、どういう状態でおられるのかなと思ってちょっとドキドキして戸をあけたらね、寝巻きを着たままベッドの上に座って、原稿の山に赤入れているの。
諏訪 うわあ。
谷川 それで、僕は思わず「先生、大丈夫ですか」と叫んだわけ。そうしたら、「大丈夫だよ」とかいってね、まだ口がもつれているんですよ。[略]口をもつれさせながら、ものすごい量のゲラの手入れをされている。そのゲラがヴィルヘルム・イエンゼンの『グラディーヴァ』なんですよ。フロイトの論文も一緒に翻訳していたものだから……。
諏訪 W・イエンゼンとフロイトの『グラディーヴァ/妄想と夢』ですね。

文筆家は死ぬまで筆が離せないようである。もうひとつ、谷川のユイスマンス『さかしま』についてのコメントはなるほどと思った。

《デ・ゼッサントが行きついたのは、ペプトンの滋養灌腸だった。つまり、肛門から栄養を摂取しようというのである。
 ここにおいて、われわれは『さかしま』という書名の本当の意味を知るにいたる。それは、小説の主人公が意識的に背を向けた十九世紀末フランスの大衆社会への反逆の姿勢を意味するだけではない。「さかしま」は口からではなく肛門から栄養を摂取しようという文字通り即物的な意味を担わされていたのである。》(終りをめぐる断章)

原文で灌腸(lavement)を探してみるとたしかに最後の方に出ていた。ペプトン入りを一日三回。

《et un pâle sourie remua les lèvres quand le domestique apporta un lavement nourrissant à la peptone et le prévint qu'il répéterait cet exercice trois fois dans les vingt-quatre heures.

さらにこの何日か後に召使いは変った色と匂いの灌腸液を用意した。ペプトンとは違うようだ。医師の処方箋にはこうあった。

  肝油       Huile de foie de morue
  牛肉スープ    Thé de boeuf 
  ブルゴオニュ酒  Vin de Bourgogne
  卵黄       Jaune d'oeuf 

これはレストランと同じだな……と主人公はつぶやく。カンチョーで食事をとる(星新一の「宇宙のあいさつ」みたい?)、だから原題は「A Rebour「さかしまに」と「に à」が付いているわけだ(ほんとかな)。

例によって細かいところばかり引用したが、どこをめくっても知的好奇心をかきたてられる、まさに『書物のエロティックス』だった。ごちそうさま。






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by sumus2013 | 2014-04-13 20:48 | おすすめ本棚 | Comments(0)

架空都市ドノゴトンカ

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『架空都市ドノゴトンカ 城左門短篇集』(書肆盛林堂、二〇一四年三月二八日)。またまた盛林堂ミステリアス文庫がすごいものを刊行してくれた。

《本書は城左門名義で書かれた短編小説の、おそらく初めての集成である。驚くべきことに、これらの作品の多くは今まで詩集にも探偵小説系の単行本にもほとんど収録されたことがなく、多くが単行本初収録作品なのだ。》(長山靖生)

城の短編集に加えて城が編集していた『DONOGO-TONKA』(1928.5-1930.6, 21冊)の総目次も掲載されている。マン・レイを訪ねた竹中郁の「巴里だより」もこの雑誌に三回にわたって掲載されていたようで興味をひかれた。

しかし、さらに興味深いのは城未亡人の稲並千枝子さんと井村君江さんの対談(昨年十二月二十七日、当時、稲並九十三歳七ヶ月、井村八十二歳)である。そこにこんなくだりがあった。稲並さんは江戸後期の医師で歌人、国学者だった清水浜臣の曾孫だそうだ

《稲並:いいえ、私はですね、春陽堂の娘なんです。
井村:春陽堂というと、あの『鏡花全集』なんかを出した春陽堂ですか?
稲並:そう、春陽堂は、春の太陽の陽。どうして太陽かって言うと、これは頼山陽からきていまして、父の出が広島の浅野の臣であり、頼山陽の家系でもありました。ですので、頼山陽は、私の父の父の父の……。
井村:ご先祖が頼山陽でらっしゃる。
稲並:先祖は頼三樹三郎。三樹三郎の孫がね、春陽堂をやって、だから頼家とは親類なんです。
[註:頼三樹三郎の息女は千枝子氏の父の父の弟へ嫁がれた由]

山崎安雄『春陽堂物語』(春陽堂書店、一九六九年)によれば、春陽堂の創業者である和田篤太郎は岐阜大垣、荒川村の出身。安政四年に生まれ、上京して巡査、西南の役に従軍後、東京に戻り露天商を経て本屋を始めた。明治十五年に最初期の出版物が確認されるという。

篤太郎は明治三十二年に歿し、妻のうめ(むめ)が二代目を継いだ。二人の間に子はなく、うめに連れ子のきんがいたがすでに嫁いでいた。きんの娘静子を和田家の養子に迎えた。うめが明治三十九年に歿すると、静子が三代目を継いだ。そして大正三年に利彦を婿養子に迎えたのである。

《利彦は広島の産で、早大を出て博文館印刷所(現在の共同印刷)に勤務していたのを、小林直造(静子の実父)に見込まれ、大橋新太郎夫妻(博文館主)の媒酌で、静子の婿に迎えられた。》(春陽堂物語

ということなので、千枝子さんの言葉ながら、春陽堂の「陽」は頼山陽とは直接の関係はないとみていいだろう。また千枝子さんの父は利彦の弟だそうだ。「春陽堂の娘」と言う以上この弟も春陽堂に関係していたのかもしれないが、『春陽堂物語』には登場しない(と思う)。

なお頼三樹三郎は頼山陽の三男、文政八年(一八二五)に京都の三本木で生まれている(だから三樹三郎なのだろう)。尊王攘夷を激しく求めたため幕府に捕らえられ幽閉の後、江戸伝馬町牢屋敷で斬首された(安政六年)。


架空都市ドノゴトンカ -城左門短篇集-
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by sumus2013 | 2014-04-06 20:50 | おすすめ本棚 | Comments(0)

事物はじまりの物語/旅行鞄のなか

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吉村昭『事物はじまりの物語/旅行鞄のなか』(ちくま文庫、二〇一四年二月一〇日、カバーデザイン=多田進、カバー挿画=高須賀優)。

このなかの一篇「国旗」を読むと、「日の丸」は寛文十三年(1673)に幕府が御城米を輸送する船に朱の丸の船印を立てるように命じ、それが幕末におよんだと書いてある。そして幕末の嘉永七年(1854)幕府が西洋型帆船「鳳凰丸」を薩摩藩が「昇平丸」を完成させた。それにともない西洋船と区別するために島津斉彬が日の丸の船印を立てるように老中首座阿部正弘に建言、それが容れられ、日本船には日章旗が立てられることとなったそうだ。

《その後、日の丸は船印にとどまらず、明治政府はこれを国旗とすることに定め、明治三年(一八七〇)正月二十七日、それを布達した。旗の大きさは横と縦の比率を十対七とし、中央に旗の縦の五分の三とする日の丸を、中央に描くものとした。》

『明治世相編年辞典』(東京堂出版、一九六五年)の明治三年1月27日を見ると、こう書いてある。

《旧幕府が、"日本惣船印"として定めた(嘉永7年7月9日)"白地の日の丸"を踏襲したもので、規則の上では、「商船規則」の一部に「御国旗」として定められたものであり、大きさの異なる大・中・小の三種を用いることとした。また3年から6年にかけて、陸・海軍の国旗も別に定められていたが、22年までにいずれも廃止され、この商船国旗だけが今日におよんでいる。》

要するに、平成十一年(1999)八月十三日に「国旗及び国家に関する法律」が公布・施行されるまで、日の丸は基本的には船印だったということだ。面白いのは現行規定では日章の直径は縦の五分の三と同じながら、旗の縦横比は縦が横の三分の二とされていること。吉村によれば明治政府は十対七としたわけだからタテヨコの比率は「1:1.42857」、そして現行は「1:1.5」である。

「1:1.42857」という比率は√2(ルート2)矩形(1:1.1414)にかなり近い。√2矩形というのは次のようなものである。


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《第2図は、ポルト・ダルモニー(Potrte d'Harmonie 調和の門)と呼ばれるルート2(√2)矩形で、ハンビッジやモーゼルがギリシャの基本矩形のひとつにかぞえている矩形である。
 この矩形は正方形の一辺を短辺とし、その対角線の長さを以て長辺とする矩形で、安定感のある、たっぷりしたゆたかな形がよろこばれ、古来、美術のみならず実用の世界でも広く愛用されてきた。実用上ではこの矩形のもつ特質として二つ折りにしても四つ折りにしても比が変らないので便利なところから、日本でも洋紙の規格には現在でもこの比例が採用されている。》(柳亮『黄金分割』美術出版社、一九七二年版)

『出版事典』(出版ニュース社、一九七一年)で紙加工仕上寸法(JIS規格)を見ると全紙はどちらもたしかに√2矩形を示す数字であった。

A列 841×1189 1:1.1413
B列 1030×1456 1:1.1413

全紙だから折り畳んでいっても比率は変らない。書籍の寸法は明治時代の国旗の寸法と同じ比率だったのだ。






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by sumus2013 | 2014-03-21 17:22 | おすすめ本棚 | Comments(0)