林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
カテゴリ
全体
古書日録
もよおしいろいろ
おすすめ本棚
画家=林哲夫
装幀=林哲夫
文筆=林哲夫
喫茶店の時代
うどん県あれこれ
雲遅空想美術館
コレクション
おととこゑ
関西の出版社
彷書月刊総目次
未分類
以前の記事
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
お気に入りブログ
NabeQuest(na...
daily-sumus
Madame100gの不...
最新のコメント
個人的に思うのですが、第..
by sumus2013 at 16:32
「わずか数ポイント差の得..
by 牛津 at 15:55
ご来場有り難うございまし..
by sumus2013 at 21:55
久し振りにお会いできて嬉..
by 淀野隆 at 21:24
この聞き取りを残せてよか..
by sumus2013 at 08:10
いやあ、驚きました。肥後..
by 岡崎武志 at 22:53
無料ではなく、せめて五十..
by sumus2013 at 21:51
そうそう、思い出しました..
by 牛津 at 21:26
まったくその通りですね。..
by sumus2013 at 09:04
このような本が無料という..
by 牛津 at 21:13
メモ帳
最新のトラックバック
天才画家ゴッホの生涯と画..
from dezire_photo &..
ルーベンスの故郷、ヨーロ..
from dezire_photo &..
シャガール、ピカソ、マテ..
from dezire_photo &..
ポン=タヴァン派、総合主..
from dezire_photo &..
視聴率に関係なく選んだ2..
from dezire_photo &..
宝石のような輝をもった印..
from dezire_photo &..
ルネサンス美術の巨匠・ピ..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
過去に来日した傑作を回顧..
from dezire_photo &..
検索
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


カテゴリ:おすすめ本棚( 198 )

花森安治伝

f0307792_21214459.jpg

津野海太郎『花森安治伝 日本の暮しをかえた男』(新潮社、二〇一三年一一月二〇日、装幀=平野甲賀)読了。まずは津野氏の飾らない文章が心地よい。冒頭はこんな感じだ。

《夕暮れどき、国電(現・JR)新橋駅にちかい外堀通り(電通通りとも。現在の西銀座通り)の交差点だった。小柄だが、がっちりした体形の男がひとり、連れの勤め人ふうの男と並んで、こちらのほうをじっと見ている。こちらというのは、いまかれの前を通過しつつある五十人ほどの小規模なデモ隊のことで、その隊列のなかに一か月まえに大学生になったばかりの私がいたのだ。》

《「おい、あれ花森安治じゃないか?」
 となりで腕をくんでいた見知らぬ学生が私にささやいた。それがあの男だった。平家ガニみたいに顎の張ったいかつい顔。眼力がやけにつよい。なのに、どことなくオバサンふうのおかっぱ頭で、パーマまでかけているようだ。有名なスカートこそはいていないが、まちがいない、まさしく女装の編集長として知られる『暮しの手帖』の花森安治である。
 ーーふうん、やっぱりなァ。
 私は好奇心にかられて交差点に立つおかっぱ男を横目でジロジロ見つめた。それに気づいた男はさり気なく目をそらし、となりの男になにかひとこといったーー。
 そこで私の記憶はおしまい。その間十五秒もあったろうか。それでもこの一瞬の記憶は、いまこの稿を書きはじめた私にひそかな自信を与えてくれる。若いころ、たしかに私はあの花森安治をじぶんの目で見たことがあるぞ、という自信である。》

『考える人』(新潮社)に連載中の「花森安治伝」については小生の名前が出ていると教えられて触れたことがあるが、本書はその連載を元にしたものだから、当然小生の名前も何度か登場している。佐野繁次郎に関するところと生活社に関するところ(「神保町系オタオタ日記」も出て来るよ)。多少なりともお役に立てたようで喜ばしい限り。

花森安治はハイカラな貿易商の長男として神戸板宿に生まれた。一九一一年。しかしほどなく家運が傾き、火事にも遭い、小学校の頃にはまったく没落していた。母親が一家のかなめとして生活を懸命に支えたという。そして《子どものころから絵をかくのが好きで、またそれが得意でもあった》。

神戸三中(長田高校)から旧制松江高校(戦後、島根大学に包括。同校の一年後輩に杉山平一がいた)そして東京帝大の美学美術史学科へ入る。このあたりのコースについても津野氏は独自の解読をしておられて傾聴に値する。とくに神戸と松江で花森が得たものが『暮しの手帖』の編集にまで影響を与えているというのは卓見であろう。

《同時代のアヴァンギャルド芸術運動が発見した機械や建築の「美」と、古い城下町の日常のうちに保存された伝統的な「美」と、その双方に同時に敏感に反応してしまう。》《花森安治が少年から青年になる一時期を、神戸と松江という対照的な二つの町ですごした。それは編集者としてのかれの人生にとって、なかなかに重要な体験だったのである。》

津野氏は花森が編集した松江高校の交友会雑誌を閲覧して、非常に重要な発見をしておられる。花森による編集後記の文言。

《本号の責任はすべて僕にある。
 この編輯は全く僕によつて、その独断のもとになされた故にーーこの点、委員田所、保古の厚意に感謝したいと思ふ。》

『暮しの手帖』編集における花森安治の「独断」のはげしさには多くの証言がある。要するに栴檀は双葉より芳しだった。またこうも書いているという。

《本号の組み方についてーーこれはすべて、九ポイント一段組を以て構成された。紙面の変化を図るために、一部分は二段組に、との話もあつたが、僕は独断を以て、全部一段に組んでもらつた。僕自身の考へを言へば、二段組の、あのゴミゴミした感じがいやなのである。》

他に体裁について、表紙について、カットについて、もいちいち見解を述べているのだが、それにしても、高校生でこれだけはっきりした編集術についての思想を持っているというのは驚きに値するかもしれない。驚く方が凡庸だと言われればそれまでなのだが。津野氏はこういう感想を記す。

《雑誌のなかみよりも、その「体裁」についてまっさきにのべる。そのことから、このとき花森がどこで勝負をかけようと思っていたのかが、まっすぐに伝わってくる。いかにも気負っている。でも、よくあるような旧制高校ふうの自己陶酔的な観念癖などは、みじんも感じられない。さすがだね、花森安治ーー。》

……とこんなふうに紹介していてはキリがないので、以下ざっと要点を列記するに留める。

東大の学生時代に伊東胡蝶園で働き始めるが、それはどうして、いつ、という問題。ここには佐野繁次郎との邂逅もからんでくる。

従軍手帖の発見。これによって昭和十三〜十四年の従軍の細部が見えてくる。

そして大政翼賛会での役割、その伝説と本気の度合い。一方で生活社の『婦人の生活』シリーズへ関わる姿勢の本質。

再度の召集と召集解除。戦争末期のアジテーション詩。

敗戦直後の雑文家、画家としての奮闘ぶり。

「衣裳研究所」。なぜ女装だったのか?

『暮しの手帖』の創刊の周辺とその編集内容の吟味。商品テスト、料理記事、ある日本人の暮らし。花森のオリジナリティ。

京都での大患、公害問題への取り組み、著書『一銭五厘の旗』。そして死。

《「その責任は、はっきりぼくにある」
 いまの目から見れば、進歩派インテリの空虚な決まり文句としか思えないかもしれない。
 しかし、そうではない。
 このことばのうちに、戦後まもないころの「ぼくは執行猶予された戦争犯罪人だ」という発言のこだまをきかずにいることはむずかしい。もしまた日本が最悪の事態におちいったら、そのときじぶんはどうふるまうことになるのだろう。戦後の三十年間、花森はついにこの問いから逃げおおせることができなかった。》

今こそ、花森みたいな人間に声を挙げてもらいたい、と思うのは津野氏だけではないだろうが、本書はがむしゃらにも見える戦後の花森の生き様をその動機の根底からきわめて明快に描きだした見事な評伝であろうかと思う。

久し振りに人名索引を取りながら読んだ一冊である。ざっと270人ほど登場。ひとつだけ。召集令状は役場の兵事係から本人や家族に直接渡されたはずである。《ハガキ一枚で兵隊に召集され》(p282)はおそらく誤解であろう。
[PR]
by sumus2013 | 2013-12-02 21:38 | おすすめ本棚 | Comments(4)

小説 永井荷風

f0307792_19225589.jpg

小島政二郎『小説 永井荷風』(ちくま文庫、二〇一三年一一月一〇日、カバーデザイン=多田進)読了。小島政二郎には『眼中の人』(岩波文庫)という傑作がある。忌憚のない語口においては本書も劣らないだろう。ただどうして「小説」と冠が付いているのか、事実ではないと言いたいわけでもないようだし、関係者をはばかって「小説」としたのか、それならもっと他に書き方もあったろうに、と思ったりもする。一部分、小説に仕立てたところもあり、この調子で書いてもよかったかもしれないが、全体としては評論ふうのエッセイといった体裁だ。実際、一九七二年に校正まで終えていたこの作品は永井家からクレームがついて出版されないままになっていた。ようやく二〇〇七年に鳥影社が刊行。そしてちくま文庫に入った。

芥川龍之介を描いた『眼中の人』もそうだが、本書は小島の荷風へ向けた一方的なラブレターのようなもので、それは同時に自叙伝にもなっている。小島は永井荷風が慶應義塾でフランス語を教えていたときにその生徒であった。荷風の礼賛者でもあった。その小島が自ら直に見た荷風や周辺の人々から聞き出した生々しい出来事を率直に綴っている。それは見ようによっては、恋情が余って落胆深く悪罵に変じるという感がなくもない。しかしその根底には荷風への愛があるためただの暴露ではなく「荷風論」に成り得ているとも思えるのだ。

なかで「なるほど」と膝を打ったのは、あるいは荷風好きの人には常識なのかもしれないが、荷風の作風の変化が幸徳事件の囚人馬車を目撃した日を境にしていることである。小島はその論拠に荷風の「花火」を挙げている。

《しかし、私は世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。私は自ら文学者たることについて甚だ羞恥を感じた。以来私は自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。その頃から私は煙草入れをさげ、浮世絵を集め、三味線を引[ママ]き始めた。》

荷風は「無力」を江戸趣味への隠居で中和しようとした。開き直った。そうできるだけの財産もあった。小島はそれが良くなかったと断言している。モーパッサンに刺戟を受けて試みて来た「小説」ではなく古くさい「物語」しか書けない荷風になってしまったと。しかし考えてみると、荷風の江戸趣味は中学生の頃からであって、この告白をそのまま鵜呑みにすることは出来ないようにも思う。ちょっとカッコ良すぎる。

それはともかく、出版に関することではいろいろ参考になる。籾山書店主と荷風の関係、『三田文学』創刊の事情、森鴎外との関係などなど。荷風の発禁本については丸木砂土のくだりが印象に残る。

《ところが、「ふらんす物語」ばかりは、どうした訳か、発売と同時に禁止されて、全部破摧されていまった。だから、内務省に納本された二冊しか残っていないと噂された。
 事実、私などはどんなに苦労して手に入れようとしたか知れなかったが、全然無駄だった。水上瀧太郎などは、後年作者から直接借覧してこれを筆写して持っていた。
 太平洋戦争中に、秦豊吉またの名、丸木砂土が鎌倉の私の隣へ疎開して来た時、彼が「ふらんす物語」の原本を持っているのを初めて見せてもらった。
「ヘエー、どうして、これを手に入れたの?」
 不可能に近いことをして入手したに違いない、そのイキサツが知りたくって、私は聞いた。
「これは内務省に納本された本の一冊だよ」
「だって、そんな本が我々の手にはいる訳がないじゃないか」
「それが、手にはいったんだから尚貴重じゃないか」
 そう言って、彼の友達が内務省の警保局に勤めていて、「ふらんす物語」のことが忘れられた頃、コッソリ盗み出して来たのだという話をしてくれた。
「幾らで手に入れたの?」
 文壇三吝嗇の一人である彼が、一体どのくらい出したのか興味があった。
「タダさ、タダで貰ったのさ」
 彼は「帝国文庫」の「西鶴全集」上下本も持っていた。今と違って、これ以外には「西鶴全集」はなかった。しかも、無数にある伏せ字に、こまごまと全部書き入れがしてあった。
 私は彼のビブリオメニア(書籍狂)の一面を初めて知った。その上誰かから原本を借りて、一々伏せ字に書き入れしたことは、大変な骨折りだったに違いない。その点をも、彼の好学心に私は敬意を表さずにいられなかった。》

「好学心」というのとは少し違うような気がするが……。

f0307792_1922463.jpg

この写真は雑誌『文学時代』第一巻第六号(新潮社、一九二九年一〇月一日)の口絵写真として掲載された「諸家の家族」より「小島政二郎氏・夫人・令嬢」(部分)。女優なみの器量と見える夫人だが、本書にも登場している。小説家は食えないものだ、それを証明するために小島は妻を島崎藤村の家へ連れて行く。

《一流の大家になってからも、藤村は麻布狸穴の、露地の奥の、崖下の、地震があったら一トたまりもなさそうな、日の当たらない、質素過ぎるくらい質素な貸家に住んでいた。私の女房が贅沢なことを言い出す度に、私は何も言わずに藤村の家の前へ連れて行ったことを忘れない。鏡花は終生二軒長屋の一軒に住んでいた。》

この話はよほど気に入っていたとみえ、終りの方にもう一度繰り返されている。

文庫の表紙に使われているのは荷風の自画像。「日和下駄」冒頭部分。荷風の絵は何点か実見したことがある。筋のいい素人という感じだ。『荷風全集』(岩波書店、一九七四年)の年譜によれば《「美術学校の洋画科を志望したが納れられず[略]」(『十七八の頃』)という談話の実体は未詳》となっている。画家になっていたら、さてどんな絵を描いたろうか、興味は尽きない。
[PR]
by sumus2013 | 2013-11-29 20:49 | おすすめ本棚 | Comments(3)

吸血鬼 マルセル・シュオブ作品集

f0307792_2065070.jpg

マルセル・シュオブ『吸血鬼 マルセル・シュオブ作品集』(盛林堂ミステリアス文庫、書肆盛林堂、二〇一三年一一月四日、表紙画=山下陽子)読了。

底本は矢野目源一訳『海外文学新選 吸血鬼』(新潮社、一九二四年)。ことさら漢語を多用した古色蒼然とした言葉遣いに幻惑された。例えば、ごく最近タレント議員が使用して、おや、よくそんな言葉知っているな、と感心した「震襟」(宸襟=天子のみこころ)が《王様の大膳頭はこの時実に巧妙な手段を用いて王様の震襟(しんきん)を休めたてまつると同時に魔法博士にも一本酬いました》(卵物語)というふうに登場していて、なるほどなあと思った次第。

この「卵物語」には卵料理がずらずらずら〜と並べ立てられる。トリマルキオーの饗宴を連想させる過剰な描写が圧巻。

《ーー陛下、と大臣フリイプソースタスが言いました。
 ーーお易い御用でございます。陛下は復活祭のときには是非とも玉子を召し上らなければなりません。これは御主(おんあるじ)の御復活を象りましたものでございます。しかし私は何も方便ということを存じて居ります。卵は固いのがよろしゅうございましょうか、掻き玉子にいたしましょうか、それともサラダ、ラムのオムレツ、それとも松露で召上りますか、薄皮焼、香草、独活(うど)、青豆、甘味などをあしらいましたものになさいますか、茹で玉子、蒸焼、灰焼、月見、半熟、泡雪でもさしあげましょうか、凝ったところでは二色玉子か白ソースを掛けましたもの、落し玉子、マヨネーズ、シャプロンネ、玉子饅頭いずれも御意のまゝに調整いたします。卵は鶏、鴨、雉子、蒿雀(あおじ)、小紋鳥、七面鳥、すっぽんなどがございます。御所望とあらば魚の卵でも油漬のカビアでも酢の物にしてさしあげましょう。ずっと珍しいところではサルタンもどきに駝鳥の卵か、千一夜の物語の鬼神の御馳走をそのまゝにロック鳥の卵などをおとりよせになってはいかゞかと存じます。それとも一層のこと、ごくあっさりと小粒の玉子を油煎りにしたものとか、お菓子の皮へ黄味をぬりましたものなども乙でございましょう。芹と小葱の刻みこみ、或は菠薐草の玉子とじなどはいかゞでございましょう。それとも生みたての生玉子を召しあがりますか。》

苦心の矢野目訳を原文と対照して味わってみたい。

《- Sire, dit le ministre Fripesaulcetus, rien n'est plus facile. Il est nécessaire que vous mangiez des oeufs à Pâques : c'est une manière de symboliser la résurrection de Notre-Seigneur. - Mais nous savons dorer la pilule. Les voulez-vous durs, brouillés, en salade, en omelette au rhum, aux truffes, aux croûtes, aux fines herbes, aux pointes d'asperges, aux haricots verts, aux confitures, à la coque, à l'étouffée, cuits sous la cendre, pochés, mollets, battus, à la neige, à la sauce blanche, sur le plat, en mayonnaise, chaperonnés, farcis ? voulez-vous des oeufs de poule, de canard, de faisan, d'ortolan, de pintade, de dindon, de tortue ? désirez-vous des oeufs de poisson, du caviar à l'huile, avec une vinaigrette ? faut-il commander un oeuf d'autruche (c'est un repas de sultan) ou de roc (c'est un festin de génie des Mille et une Nuits), ou bien tout simplement de bons petits oeufs frits à la poêle ; ou en gâteau avec une croûte dorée, hachés menus avec du persil et de la ciboule ; ou liés avec de succulents épinards ? aimerez-vous mieux les humer crus, tout tièdes ? - ou enfin daignerez-vous goûter un sublimé nouveau de ma composition où les oeufs ont si bon goût, qu'on ne les reconnaît plus, - c'est d'un délicat, d'un éthéré, - une vraie dentelle...》(Le Conte des oeufs

アスバラガスを「独活」としたのはご愛嬌、「月見」はポーチド・エッグ(落とし玉子)、「泡雪」は原文では《battus(半熟), à la neige(雪添え?)》とたぶん二種類になっているところをひとつにまとめてある。「二色玉子」は引用したテキストには該当する単語がない(テキストが異なるのかもしれない)。《sur le plat》を「落し玉子」としてあるが、残念これは目玉焼きのこと。《chaperonné》はよく分らないが、帽子のようなものを被せたという意味だろう。「玉子饅頭」も苦しいが、ファルシは詰め物(ピーマンの肉詰めのような)。《tortue》の「すっぽん」は青海亀としたいところ(アリスの物語を連想させる)。決して揚げ足を取ろうというのではない。これは大正時代の翻訳としたら上出来だろう。文章をいくつかに分けるなど、何より調子よく読める工夫が凝らしてあって名訳ではないかと思う。

マルセル・シュオブについては本書の解説(長山靖生)でも触れられているが、仏ウィキを簡単に訳して少し補っておく。

一八六七年、マルセル・シュオブ(Marcel Schwob)はシャヴィーユ(セーヌ・エ・オワーズ県)に生まれた。父ジョルジュはテオドール・ド・バンヴィルやテオフィル・ゴーティエの友人で文学好きだった。母のマティルド・ケーン(Mathilde Cahun)はアルザスのユダヤ知識人家庭の出である。

マルセルが生まれたとき、シュオブ一家は、外務省の長官として赴任していたエジプトから戻ったばかりだった。第三共和制の初期(一八七〇年代初)にはトゥールに居り『Le Républicain d'Indre-et-Loire アンドレ・ロワール共和主義者』を指揮し、一八七六年にナントへ移り、やはり共和党の日刊紙『Le Phare de la Loire ロワール燈台』を指導した。ジョルジュの歿後はマルセルの兄モリースが跡を継いだ。

マルセルの最初の作品発表は一八七八年一二月の『燈台』においてであった。ナントのリセでは成績優秀で、特にギリシャ語、フランス語、英語が得意だった。一八八一年にパリに住む母方の叔父レオンの元へ送られる。レオンはマザラン図書館(プルーストも一時籍を置いていた)の司書長だった。リセ・ルイ・ル・グランで学業を続ける。ここでレオン・ドーデ、ポール・クローデルらと友情を温めた。言語の才能を開花させ、すぐにポリグロット(多言語精通者)となり、一八八四年にロバート・スティヴンソンを発見し範とした。

エコール・ノルマル・シューペリウール(高等師範学校)の入試には失敗したが、一八八八年に一級文学学士号を受けた。八九年、今度は一級教員試験に失敗。教師の道は諦め『燈台』、『 l' Evénement』『l'Echo de Paris』などジャーナリズムに関わって文筆で生きることを選んだ。文学欄に力を注ぎ一八九四年には初めてアルフレッド・ジャリを紹介したり(九六年刊の『ユビュ王』はマルセルに捧げられている)、ポール・ヴァレリ、アンドレ・ジード、ジュール・ルナール、コレットらと親しく付き合った。

マルセルはアルゴ(隠語)やヴィヨンの作品に見られるような十五世紀のコキヤール(隠語の一種)に興味を持って熱心に研究した。隠語というのは自然発生的なものではなく人工的なコード化された言語であると考えた。

一八九〇年代より散文詩の形で短い物語を出版し始める。お伽噺のように後に人々によって語り継がれる形式を作り出した。フォークナーやボルヘスに強い影響を与えている。

一九〇〇年、コレットの友人の女優マルグリット・モレノと結婚。健康がおもわしくないなかで、ジャージー島や、スティヴンソンが生涯を終えたサモア島へ旅をした。フランスに戻り、引き蘢って未完の作品の執筆にかかったが、一九〇五年二月二六日流行性感冒で死去。モンパルナス墓地に埋葬された。
[PR]
by sumus2013 | 2013-11-12 21:35 | おすすめ本棚 | Comments(0)

平野甲賀の仕事 1964-2013 展

f0307792_176722.jpg


f0307792_17559100.jpg


f0307792_1754762.jpg


f0307792_1753933.jpg


f0307792_1753260.jpg

『平野甲賀の仕事 1964-2013 展』(武蔵野美術大学美術館・図書館、二〇一三年一〇月二一日)を頂戴した。深謝です。十二月二十一日まで武蔵野美術大学美術館展示室3で開催中の平野甲賀展の図録。

二〇一一年に平野の装幀本四〇〇冊およびスケッチブック、ポスター原画、未発表資料が同館に寄贈された。それを記念した展覧のようである。掲載の図版で珍しいと思ったのはムサビ時代の様子を映し出したスナップ写真、そして津野海太郎、長田弘と始めた劇団「六月劇場」の舞台装置のスケッチ。これは平野が絵描きとして優れた感性の持ち主だということを証明している。色の使い方もシックだ。巻末にはムサビの学生たち(女子ばかり)十数人に取り囲まれている平野さん。ゆるキャラに見えてくる。

『平野甲賀装幀の本』(リブローポート、一九八五年)については『sumus 13』に書いたので参照されたし。もちろん本書にはそれ以降の平野装幀本も収録されている。さすがに石神井さんの『古本の時間』は出ていないが、坂崎重盛さん、中川六平さん、山田稔さん、石田千さん、内澤旬子さん、唐澤平吉さん等個人的に存じ上げている名前を見つけると嬉しくなる。

平野甲賀の仕事 1964-2013 ちらし
http://chirashcol.exblog.jp/18744774/
[PR]
by sumus2013 | 2013-11-04 17:34 | おすすめ本棚 | Comments(2)

石目

f0307792_21243186.jpg


f0307792_2018183.jpg

時里二郎『石目』(書肆山田、二〇一三年一〇月三〇日、装画=柄澤齊)読了。巻末の記載によれば時里さんはこれまで六冊詩集を出しておられ、最初の二冊『胚種譚』(一九八三年)『採訪記』(一九八八年)は湯川書房、そして『ジパング』(一九九五年)は思潮社、『星痕を巡る七つの異文』(一九九一年)『翅の伝記』(二〇〇三年)および本書が書肆山田。

書肆山田も思潮社も現代詩の版元としては知らぬ者はいない。ただ、先日、ギャラリー島田で湯川書房の『夢の口』を頒布しているときに詩人で評論も書かれる方が「湯川書房といえば、湯川書房から詩集を出している詩人で、ほら、加西の方に住んでいる人、誰だったかしら、最近物忘れがばっかりで…」とおっしゃる。もちろん時里さんのことを指しているわけだが、よほどその方にとっては湯川書房の詩集として印象が強かったのだろう。湯川さんは名のある詩人の詩集を相当数出しているにもかかわらず。

『石目』はそれらの作品群からも決して遠く離れたところにあるわけではない。ただ、しかし明らかにより深く身に迫ってくる文章の力のようなものを感じた。力というと誤解を招くかもしれない。このリアリティがあるのかないのか、ありそうでなさそうな、意味ありげで無意味な文字の集積が、まるで沼ででもあるかのように読む者を知らず知らずに柔らかい土の溜まった沼の底へ引き込んでゆくのだ。

散文詩というより綺譚というか説話風な構成の作品が目立つ。つい物語に寄りかかりそうになるのだが、そうするとスッと肩すかしを食わされる。虚実のあわいでプカプカ漂うような読書感だ。ほんのさわりだけ、表題作の冒頭二頁をスキャンしておくので、確かめていただきたい。

f0307792_20174740.jpg


f0307792_2018890.jpg

その作風について末尾に置かれた自作解説ふうの一篇「シイド・バンク」にこう書かれている。

《予(かね)て、私の歌のなかのどこを探しても私が見つからないことを難ずる批評がある。歌のなかに私がゐないことのみを歌の瑕瑾としてあげつらふのは承服しがたいが、歌のなかの私がどこに隠れてゐるのかといふ点については、実は私自身にもわからない。》

ところが著者は「シイド・バンク」という言葉を知り、発芽をじっと待つ土壌を自作の詩歌に当てはめてみるとなるほどと合点するという。

たしかに、そういうこともあるかもしれない。しかし小生などは、シイド・バンクと聞いたら美術家・河口龍夫の鉛に包み込まれた種子の作品しか連想できない狭量ぶりのため、言葉という繭のような鉛でくるまれた時里種子は放射線すら遮るうろのなかで半永久に発芽しないかもしれない、などという妄想にとらわれてしまったりする。発芽すればいいのか? そういうものでもあるまい。永遠の不毛にも意味がある。

とにもかくにも、ここ最近読んだ散文作品(詩とは限らない)のなかでは、当方はだいたいいつも大袈裟に褒めるくせがあるのだが、本書に関しては正真正銘「傑作」と呼び得る連作だと思う。小生が傑作だと連呼しても何の説得力も影響力もないだろうが、ここに一ファンがいるということである。
[PR]
by sumus2013 | 2013-11-02 21:23 | おすすめ本棚 | Comments(4)

田端抄 其伍

f0307792_19304649.jpg

矢部登さんの『田端抄 其伍』(書肆なたや、二〇一三年一一月)が届いていたのだが、あれこれ読まねばならない本、紹介しておかなければならない本に追われたため、今日になってようやく読了できた。これまでも毎号紹介してきたが、こうやって好きな作家や画家のことを調べ、その旧跡を歩き、文章につづり、冊子を作って同好の士に配る、なんともアナクロおよびアナログ。しかし、絵好き、本好きにとってこれ以上の悦楽はないとも思う。

今回は谷中安規、清宮質文、古川龍生、小杉放菴、結城信一、村山槐多、佐藤春夫、中戸川吉二らが登場。古書探索や文学散歩もあいまって彼らがじつに身近な存在として描かれている。なかでも小杉放菴にはかなり紙幅が割かれており、小生としてはこれまであまり注意してこなかった画家だけに興味深く読ませてもらった。注意していなかったと言っても、大阪の出光美術館で放菴展を見たことは印象深く記憶している。まとまって放菴に接して、端倪すべからざる作家と思ったのは間違いない。そのときに買ったのかもしれない、忘れてしまったが、上の絵葉書は出光美術館製である。「荘子」と題されている。

矢部さんは放菴の邸宅(現在は田端区民センターなどになっている)について詳しく書いておられ、そこにこのように言ってある。

《放菴邸は、南側の谷田川と北川の道路に区切られた一廓で、敷地は二百坪あった。道路側の網代垣の中央に門があって、なかにはいると、井戸があり、右手の玄関をまんなかに南側は住居、北川には画室が建つ。いずれも日本家屋の建物で、住居の一部は二階家であった。門の左手にもうひとつの入口があり、目かくしの垣根にしきられた二軒の平屋の家作が南北にある。谷田川に面した庭は敷地の三分の一ほどを占めており、石榴の木のしたに石がすえられている。放菴が男鹿半島への旅でみつけて気にいり、送ってもらった大石である。池が掘られ、ポプラの木が多く植えられていた。その庭さきから川へおりられる。川のむこうには畑がひろがっていた。》

東北本線の王子駅の近くということなのだろうか、この辺りの地理にうといのではっきりとはイメージできないが。それよりもこの「大石」である、問題は。矢部さんも

《またあるときは、石に腰かけた黒衣の《良寛》であった。
 ごぞんじ、芥が龍之介の「東京田端」に「竹の葉の垣に垂れたのは、小杉未醒の家」とある。竹が植わっている傍の大石にこしかけた旅すがたの放菴の写真が木村重夫『小杉放菴伝』のなかにあったっけ》

とこのように書いているが、どんな大石だったのか写真を見てみたい。「荘子」が座っているこの石のようなものだったのだろうか。

f0307792_19303879.jpg

そしてもうひとつ教えられたのが谷中安規の版画「動坂」についてである。図録『谷中安規の夢』(渋谷区立松濤美術館、二〇〇三年)において瀬尾典昭氏が「動坂にショーウィンドーの剥製はあったのか」と題した「動坂」に関するエッセイを寄せておられるが、瀬尾氏は結論として《どうも、この動坂のこの場所にはなかった可能性が強いというのが調査の結果である》と書いておられる。矢部氏はその発言を踏まえつつ、弥生坂にある鳥獣剥製所に言い及ぶ。

《その日は、鳥獣剥製所の白い看板とショーウィンドーのまえにたちどまり、あらためて見入った。八十年前、谷中安規の幻視した《動坂》が眼のまえにあることに驚愕したのだった。不況からぬけだせぬ平成の時代に、谷中安規は甦り、街なかをほっつきあるく。そのすがたが、ふと、よぎる。弥生坂の鳥獣剥製所あたりで、まぼろしの安規さんと袖すりあわせていたかもしれぬ。》

この鳥獣剥製所は小生も覚えている。たしか弥生美術館を訪れたときに、この前を通り、「へ〜、こんな店があるんだなあ」と驚いたのである。それがすぐには谷中安規にはつながらなかったけれども、おそらく十年ほども隔てた今ここで矢部さんの導きによってつながった。なお、矢部さんも、弥生坂の鳥獣剥製所は戦後にできたもののようだから安規のモデルではなかっただろうと言う。
[PR]
by sumus2013 | 2013-10-30 20:47 | おすすめ本棚 | Comments(4)

パン語辞典

f0307792_2022099.jpg

ぱんとたまねぎ著・荻山和也監修『パン語辞典』(誠文堂新光社、二〇一三年一〇月二〇日)が届いた! 四月に著者のばんとたまねぎこと林舞さんが来宅。パンをデッサンの消しゴム代りに使う実演を取材してくれた。本書では「けしごむ」の項目に制作中の写真入りで登場。髪の毛が伸びていたためシェーのイヤミみたいなキャラになっている(笑、気になる方はぜひお確かめください。写真はもう一枚、埋草みたいに使ってもらってます)。

当たり前ながら全編パン、パン、パン、パン、パンのオンパンレード。ふんだんに盛り込まれたイラストも軽妙で分かりやすくアール・アバウト・パン(ブレッドですかな)を図説、ついついつりこまれて読んでしまう。南陀楼綾繁氏や遠藤哲夫氏、『らくたび文庫 京都のパン物語』にも登場していたガケ書房の山下賢二氏らのエッセイもある。

パン好きの妻に「こんな本できたよ」と見せた。しばらくして返されて来た本には付箋がふたつ。ひとつは「パンの作り方 町のパン屋さん編」の頁、そしてもうひとつは「焼き網」(パンを1分間でおいしく焼くことのできる奇跡の網。京都・金網つじの初代当主・辻賢一さんが考えだしたもの)。なに、作って焼きたいということ(?)

「パンの食卓 ことわざ」という中綴じもある。《愛はバターと一緒、パンがあってこそうまくいく(ユダヤ)》とか《粉と水の夫婦(ポルトガル)》とか《パンと葡萄酒で道を歩く(スペイン)》とか《仕事は辛いがパンはおいしい(ロシア)》とか、お国柄も出ていて面白い……おや、フランスのことわざがないな。

と思って調べてみた。パン(日本語のパンはポルトガル語からきているが、フランスでも「パン pain」で通じる)を使った慣用表現はたくさんあり、ありすぎるくらいだが、ことわざとなると案外少ないかもしれない。

A pain dur, dent aiguë
堅いパンには鋭い歯(適材適所?)

Les mains noires font manger le pain blanc
黒い手が白いパンを食べさせる(稼ぐに追いつく貧乏なし?)

Mettre le pain à l'envers empêche les amours
逆さま(裏返し)にパンを置くと恋人たちが別れる(トゥーレーヌ地方の迷信)

昔、パンの出て来る文章を集めていたことがある。久し振りにファイルを取り出してみた。ユゴー『レ・ミゼラブル』にはこんなことが書かれている。

《半年分のパンをつくり、乾いた牛糞で焼きます。冬は、このパンを斧で割り、食べられるようにするには一昼夜の間、水にひたします。》

パンの国フランスも昔はこんなふうだったのである。日本で鏡餅を水に浸けておくというのと少し似ているような気がする。

《私の家ではたまに日曜日の朝パンを食べたが、父の生きていた時のように生の食パンだった。その時私はトーストという言葉を知らなかった。「丸いフランスパンか、生の食パンの方が好きだわ」と思った(そう思ったのに、次の年頃から家では火鉢に餅焼網をのせパンを焼くようになった)。》(三宅艶子『ハイカラ食いしんぼう記』)

昔(これは戦前の話)は焼き網でトーストしていたのである。

《やがて好い香のするトーストと濃いけむりを立てるウーロン茶とがお延の手で用意された。》
《下女が皿の上に狐色に焦げたトーストを持つて来た。「お延、叔父さんは情ない事になつちまつたよ、日本に生れて米の飯が食へないんだから可哀想だらう」》(夏目漱石『明暗』)

漱石の描くトーストも餅焼網で焼かれたのだろうか?

《すぐに人が真似をいたしませんでしょうか。戦争の跡に出来たロシア麪包のように》(森鴎外『青年』)

本書『パン語辞典』によれば日本初のパン屋は横浜に一八六四年(元治元年)にできたヨコハマベーカリー(のちウチキベーカリー)だそうだが、日露戦争や第一次大戦(およびロシア革命)によって普及し始めたようである。フロインドリーブもたしか捕虜だった。

《与謝野寛が「パンパンとわろき売り声、ロシヤパン売りの悲しさよ」といふ詩を作つてゐる》(森銑三『砧』)

《大正時代にはロシア革命で日本に亡命していた白系ロシア人がロシアパンというものを売りに来たし、関東大震災の直後には「玄米パンのホヤホヤー」と呼び歩く行商などを見かけたが、チャリ舎のパンは箱型の馬車を驢馬に輓かせていた。》(野口冨士男『私のなかの東京』)

『パン語辞典』で「ろばのぱん」の項目を見るとこうある。

《昭和6年頃、札幌の『ロバパン石上商店』(現ロバパン)がロバに荷車をひかせてパンを売り歩いたことが始まり。昭和30年代になると、京都を中心にオリジナルの歌とともにロバに四輪馬車をひかせて蒸パンの移動販売がはじまりました。》

昭和30年代、小生の田舎でも歌とともにロバのパン屋はやってきていた。たしかにロバがひいていたような気がするが、戦前からあったものなのだ。ガッテン、ガッテン。

パンの文化史、面白い。一家に一冊『パン語辞典』! 原画展、トークイベントなどが催されるようだ。下記ブログなどでチェックされよ。

誠文堂新光社 パン語辞典
http://www.seibundo-shinkosha.net/products/detail.php?product_id=3962

ぱんとたまねぎ パン語辞典
http://d.hatena.ne.jp/pantotamanegi/20131001/p1
[PR]
by sumus2013 | 2013-10-29 22:03 | おすすめ本棚 | Comments(5)

ぼくの創元社覚え書

f0307792_19594442.jpg

高橋輝次『ぼくの創元社覚え書』(龜鳴屋、二〇一三年一〇月一〇日、表紙イラスト=グレゴリ青山)読了。高橋さんらしい追記の連続で、おいおい、ちゃんとまとめてから書いて下さいよ、とツッコミたくなるわけだが、それがマイナスではなくプラスに作用しているところが、人柄というのか、ビートたけしのつんのめり芸のような文体になっているから、あら不思議と思うのだ。

高橋さんを直接知らない人たちのなかには、こういうスタイルをうとましく感じる人もいるかもしれない。しかし実際に付き合ってみると、非常に純粋な古本魂を持った人物だということがすぐに分るだろう。そして名もなき作家や編集者を愛おしむことにかけては他に例を見ないほどの熱心さ(無償の愛といっていい)を示す。その態度や目の付け所には小生自身もこれまでいろいろと教えられて来た。黒子である編集者を主人公にしてその観点から出版や文学を語るという手法は、高橋さんの独創とは言えないとしても、それを普及させたという意味では高橋さんの手柄は大きいような気がしている。

《本書は自伝的、仕事史的な内容ではない。あくまで古本を通して見た、創元社の歴史のある側面を私なりにざっとスケッチしたにすぎない。》

《それでも、所々に私的な回想をまじえて書いており、読者には余計なことかも知れない、とおそれている。ただ、ペースメーカーを入れ、七十歳に近づく年齢になってくると、自分が元気で働いていた頃のことが無性に懐かしく思い出される、というのが正直なところである。そのため少々甘い記述になったのは自覚しており、読者にお許しを願おう。》

小生の感想は逆である。もっと回想をしっかり書いて欲しかった。作家たちが書き残した創元社の編集者たちの思い出、そのコレクションも興味深いものがあるし、丸山金治という創元社で働いていた小説家について、その友人の青井辰雄(洲之内徹との関係で小生が興味をもっている人物)、また創元社から飛び出した二人の社員が始めたのが六月社だったこと(六月社は山内金三郎『うまいもん巡礼』などを出しているので、『sumus』あまから洋酒天国特集とも関係してくる)、あるいは日産書房について(青山二郎装幀の小林秀雄『文芸評論』などを出している)などの記述にも大いに啓発された。しかし、それでもやはりもっとセンチメンタルな思い出話が登場してもよかったのかな、と思ったことは正直に書いておく。

《私は今でもときおり憶い出す。大阪市北区樋上町にあった木造二階建ての旧社屋のことを…。当初、正面玄関のすぐ左に営業部があり、その奥に小倉庫があった。横幅のある急傾斜の階段をミシミシ音たてながら登ると、すぐ左側に南側が道路に面した編集部があり、右側には社長室の扉があった。その階段はむろんお客や著者たちが上り下りしたが、私どもは大抵、裏口の倉庫の横から狭い階段を登って編集部へ入ったように思う。しばらくして一部改築され、営業部や制作部も二階へ移った。私の在籍した後半に再度増築され、一部鉄筋の四階建て(?)となり会議室などに使われた。当初の編集部は旧い造りで中央辺に大きな柱があったように覚えている。改築するまで、種々の会議は社長室で、足らない椅子をもちこんでやられていた。隅の本棚には、昔の創元社の文芸書もいろいろ並べられていたが、むろん、じっくり拝見したことはない。》(あとがきに代えて)

こういう細かいところ、これは高橋さんでなければ誰も書き残すことはできない。その点からも名著である大谷晃一『ある出版人の肖像 矢部良策と創元社』を補完する一冊として大切な仕事であろう。

龜鳴屋
http://www.spacelan.ne.jp/~kamenaku/

[PR]
by sumus2013 | 2013-10-28 20:46 | おすすめ本棚 | Comments(0)