林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:古書日録( 776 )

漢字雑話

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銅牛樋口勇夫『漢字雑話』(郁文舎、吉岡宝文館、一九一四年八月一日四版)。題字は説文学の研究で知られた高田忠周だそうだ(雑が襍としてある)。

樋口勇夫(ひぐちたけお)は筑後久留米藩の漢学の家に生まれ、銅牛、得川、東涯などと号した。伯父に樋口和堂。鹿児島県立二中で教鞭を執った後、九州日報記者、さらに明治四十一年に東京朝日新聞社会部に入っている。中塚一碧楼とともに朝日俳壇の選者をつとめた。本書(初版は明治四十三)は朝日紙上に連載した同名の読物をまとめた著作のようである。大正元年退社後、早稲田大学、国学院大学、法政大学等で講師を勤めた。著書はざっと調べたところ以下のごとし。

俳諧新研究 隆文館 1909 
漢字雑話 郁文館 1910 
俳諧阪に車 楽山堂 1910
新釈江戸繁昌記(編) 百華書房 1911
碑碣法帖談 玄黄社 1912
七十二候印存 明治印学会 1912
孫過庭書譜衍釈 晩翠社 1924
古碑釈文 10冊 晩翠軒 1925〜27
訳註文字の変遷 晩翠軒 1928
碑帖之研究 雄山閣 1930
晋唐名法帖 雄山閣 1931
書論及書法 雄山閣 1931
淳化閣帖―袖珍 10巻釈文1巻 西東書房 (1951)
学書邇言疏釈  西東書房 1948

漢字、とくに『説文解字』をはじめとする古代文字の研究に力を入れ、また書家としても知られていたという。本書でも漢字の形を分析的に解釈しようと試みている。ただし、今日、白川静の研究を知っている目からすれば、まだまだ憶説のそしりをまぬがれない部分も多々あるようだ。むろんそれでも漢字を成り立ちから論理的、造形的に解釈しようとした努力には敬意を払っていいだろう。

序文は内藤湖南が執筆している。

《樋口銅牛君余未だ其人を識らず。聞く其小学に精しく、東京朝日新聞に連載せし漢字雑話は君が筆に出づと。頃ろ其筆する所を蒐録して梓行せむとし、余が序を求めらる。余固より小学を専考する者に非ず。君が書を読むと雖も、而も其緒論に於て未だ通ざざる所多し。》

と書き出して、この後、中国では漢字の研究は字形ではやらないんだ、転注・仮借・訓詁を重んじている。金石文など資料がほとんどないし、その上、わが国の学者は中国の音韻に通じていないから形だけからトンチンカンな解釈を施しており、ろくな研究はない。説文家に感心しない理由はそこにあるんだよ……などと続けるのだが、これでは序文にならないとみて、最後は「大いに著者に期待します」ということで締めている。

《若能く方針を誤らずして而して発憤鼓励するあらば庶幾くは我邦小学の開拓に於て大功あるを得むか。余君を識らず又小学に通ぜずと雖も君に望む所甚だ厚からざるを得ず。此を序と為す。/明治四十三年九月四日竹島丸船中にて/内藤虎次郎

面白いのはこの序文の直後に著者の反論が印刷してあることだ。よほど湖南の文章が腹に据えかねたと見える。

銅牛曰く。余の湖南君に序を嘱せしは東西両帝国大学の博士教授中金石文字の学に精しき者独り君あるを以てなりき。然るに今此序文を読むに、君は金石の学には通じながら、小学には余り深からざる者の如し。夫れ声韻を離れて字形の説くべからざるは豈君の弁ずるを待たむや。然れども重きを転注、仮借に措きて指事、象形を顧みざらむは、本を措きて末に走り、形を捨てゝ影を逐ふものならざらむや。

銅牛君、少々ミーハーすぎたと後悔したか。しかしこの反駁は正しいと思う。湖南の方法では漢字成立の本質には迫りようがないだろう。銅牛君、さらにこう啖呵を切っている。

《抑々君と孰れか先甲子なるを知らず。而も君今余を目して後進とす。余甘んじて後進の目を受けむ。然れども余は爰に明言す。銅牛は大学ポット出の吻黄なる文学士輩とは稍其撰を異にする者也と。》

おやおや、いくらなんでもこれは大人げない。忙しいなか船中から投稿してくれたというのに(竹島丸は日本郵船に明治三十八年から昭和二年まで所属していた貨客船)。実は内藤湖南は慶応二年生まれ。銅牛は慶応元年生まれ。そう、湖南より一歳(正確には八ヶ月ほど)年長だった。「後進」という言葉は使われていないが、書きぶりにそういう調子がまじっていると感じたのだろう。年下のくせに。カチンときた。

それは分るが、湖南も決してエリートの道を歩いた訳ではなかった。秋田師範学校を出て小学校の訓導をやっていたこともあり、さらに新聞記者に転身して大阪朝日新聞に入社しているというのも銅牛と似たコースである。京都帝国大学の講師となったのは明治四十年。おそらくだからこそ銅牛も序文を依頼する気持ちになったのだろう。

独学者はガンコだとアーヴィングが『熊を放つ』に書いていたような気もするが、まさにガンコとガンコがガチンコしたような序文と反序文である。

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by sumus2013 | 2014-02-19 21:59 | 古書日録 | Comments(2)

ささありき

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いつも珍資料を恵投くださる某氏より、先日も不思議な本が届いた。『ささありき 池袋西口の十九年』(「ささありき」刊行会、一九八四年八月三〇日)。カウンター八席ばかりの小さな飲屋「ささ」が立ち退きのため閉店することになり出版やマスコミ関係のひいきが多かったため、有志の努力でこの本が出来たということらしい。先日紹介した『大坊珈琲店』と同じように、多数の常連客、および主人の回想から成っている。

店は池袋駅西側、北口から北へ少し歩いたところで、地図を見ていると、これはひょっとして先日みちくさトークの打ち上げで案内された東京中華街とほぼ同じ地区ではないか(東京中華街は下の地図でトルコ金瓶梅としてある辺り)。当時の住所は豊島区池袋2-896。グーグルマップで見ると、どうやら現在のアパホテル池袋駅北口が建っている敷地内になるようだ。

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本だけならどうとういうことはない。ところが上の写真のように私信および写真が何枚も挟み込まれていた。恵投下さった某氏の手紙にはこうあった。

《荻窪ささま書店の100円均一で得ました。この区画整理については記憶があって、あちこち更地になった中を歩いて行ったこともあるのですが、この店にはまったく無縁でした。》

《旧所有者(税理士のようですね)宛のハガキ類と一緒に挟み込まれていた写真に写っている短髪の太りじしの人物は、むかしテレビなどでみたことのある悪役系?の俳優さんではないかと思うのですが、わからないのです。》


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俳優さんは写真向かって右の方。たしかに昔よく映画やテレビに出ていた人だ。名前が……分る方、お教えください。左の方がこの本の旧蔵者で「ささ」について一文を寄稿してもいる。

「ささ」は不思議な店である。
 僕が「ささ」を知ってから大分たつが、いまだにそう思っている。
「ささ」に寄ろうかな、と思うと必ず今日はどんな顔ぶれだろうかと思いをめぐらしてしまう。来店する人達が「ささ」の魅力あるメニュー(失礼!!)なのだ。ママというすばらしい指揮者のもとで、今日のメニューが、いや、楽団員が、どんな音色をだすのかが楽しみなのである。

この方の名前で検索してみると二〇一三年夏に亡くなられている。住所は杉並区下井草。ささま書店へ蔵書が処分されたのも頷ける。

挟んであった手紙(二〇〇一年一月)や年賀状(一九九七、九八、九九、〇八)はすべて「ささ」のママだった関マサから来たもの。年賀状に「九八年で八十才になります」とあるのでご存命なら九十六歳……。

常連客、寄稿者で小生が知っている名前を拾うと、山折哲雄、ワシオ・トシヒコ、鎗田清太郎、長谷川龍生、野見山暁治くらいだが、肩書きを見ると錚々たるメンバーだったということが分る。野見山はこう書いている。

《むかし、セザンヌに影響された中村彝という画家が、老婆の像を描いている。白髪をうしろで結んで細く柔らかい体に、背後の空間がのしかかった、少し淋しいあの絵が、はじめ「ささ」のおばさんだと思い込んだ。
 それから一年近くたって、やはり幸人さんと店に行ってみて、そんな年のひとではないことに気付きどぎまぎした。オバァさんの店があったよと誰彼に話していたからだ。
 どうしてそう思い込んていたものだろう。懐かしいような舌ざわりのものが小皿にのかって、知らぬまに置かれている。手狭な小屋のなかで、いったいどこから出てくるのだろう。あたりを取りまく暗い天空から、白い指が舞いおりてくるような塩梅なんだ。
 この慕わしさは老いた母の手のようでもあるし、初恋のひとのようでもある。どうして途中がないのだろう。ともかく現(うつ)し身の匂いがないんだな。だから彝の絵のなかに閉じこめてしまっていたのだろう。》

老婆の像というのは「老母像」(一九二四)。彝の世話をしていた岡崎キイを描いた最晩年の作である。




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by sumus2013 | 2014-02-16 20:55 | 古書日録 | Comments(2)

十七歳にもなれば

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『OEVRES DE ARTHUR RIMBAUD』(MERCURE DE FRANCE、1952)。ランボー詩集。ソチでの十代の若者たちの活躍を見ていて、ふとランボーの「ROMAN 小説」という詩を思い出した。


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 十七歳にもなれば、真面目なんかじゃいられない
 ーー美しい晩には、ビールの小ジョッキもレモネードも
 シャンデリア輝く騒々しいカフェも糞くらえ!
 ーー散歩道の緑の菩提樹の下を行くんだから。

 六月の素敵な晩には、菩提樹はいい匂いがするよ!
 時おり大気は甘く、瞼を閉じてしまうほど。
 ざわめきに満ちた風は、ーー街は遠くはないんだ、ーー
 葡萄の香りとビールの香りがする…

最初の二連のみ引用した、これは鈴木創士訳。他にもいろいろな訳があるが、例えば『ランボオ全集 I』(人文書院、一九五三年重版)の村上菊一郎訳。

 十七歳、堅気でばかりをられませぬ。
 ーー或る宵のこと、シャンデリヤまばゆく輝く
 騒々しいカフェの、ビールやレモナードなど可笑しくつて!
 ーー出かける先は遊歩道の菩提樹の青葉蔭。

 愉しい六月の宵々に菩提樹のよく匂ふこと!
 大気は時々甘いので瞼がとろりと合はさります。
 物の響を乗せた夜風は、ーー市街(まち)はここから程近い、ーー
 ちやんと葡萄の薫りやらビールの薫りを含んでゐます……

たしかに少々時代がかっておりまする。次は『ランボー詩集』(新潮文庫、一九八八年五八刷)の堀口大学訳。

 十七歳、まだ分別にやや欠ける。
 或る宵のこと、ーービールやサイダー、
 シャンデリヤまばゆいカフェの騒音を遠くのがれて!ーー
 遊歩道の緑なす菩提樹のかげへと出向く。

 菩提樹はよい香(か)を立てる、六月の、ああ、この良夜
 あまりにも大気の甘く、われ知らず瞼をとざす。
 さして遠くはないらしい街(まち)のもの音運びくる
 風に葡萄とビールの匂い。

例によってフライング気味の訳で(サイダー!)、原文と対照しながら読むと、拍子抜けしてしまうほどである。ただし、たしかに日本語としての調子は悪くないのも素直に認めよう。

鈴木訳はまさに現在語訳。他の二人と意味の上で大きく違うのが、まず第一連四行目の「菩提樹の下を行く」。斎藤、堀口ともに下へ行くの意味に取っている。下へ行くのか下を行くのか。On va sous les tilleuls。

もうひとつは斎藤、堀口が無視した小ジョッキ(bock)とビール(bière)を区別していること。これは当たり前でしょうね。なお最近は「アン・ボック」と言わず「アン・ドゥミ」と言うそうだ(「生中!」という感じです)。

個人的にひっかかったのはタイトルの「小説」(三者とも同じ)と二連目最後の行の「葡萄の薫り」。ロマンは長編小説を意味するので、日本語の「小説」から感じられる意味内容とは少し違っているようにも思う。ではどうするかと問われても分らないです。

もうひとつ、vigne は「葡萄」ではなく「葡萄畑」ではないかという疑問。六月の葡萄はまだ緑、果実が香るというわけではなかろう。そう言う意味では菩提樹の香りと対になっている。まあ、日本語では樹木と果実の区別が曖昧だから葡萄でもいいや、とも言える。

十七歳になるとと書いているにもかかわらず、じつはこの作品の自筆原稿には「23 septembre 70.」(一八七〇年九月二三日)という日付が入っている(Marcel Ruff の『Arthur RIMBAUD POÉSIES』A.-G.NIZET, 1978, の註釈による。リュフは文字がはっきり読み取れないとも記しており、鈴木訳では《[一八]七〇年九月二十日》としてあるので現在では二十日と読まれているのだろう

ランボーは一八五四年一〇月二〇日夕方五時に生まれた。ということは、この詩に日付を入れたときにはまだ十六歳にひと月足りなかった。むろん詩の内容からすれば六月頃に書かれたに違いない。リュフは、ランボーがバンヴィルに宛てた手紙にこのときすでに十七歳だと書いている例を指摘している。いつも背伸びしていたランボーが見えるようだ。




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by sumus2013 | 2014-02-15 21:54 | 古書日録 | Comments(0)

残雪

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時里氏の「月歌論」に刺戟されて、短冊箱からてきとうに一枚抜き出した。だいたいこういうものを買うときには見栄えだけで選ぶ。文字の流麗さだとか、模様の念入りな様子だとか、傷みぐあいだとか。内容は二の次。これも読む気もなく放っておいたので、久々に手にして解読を試みた。

 残雪

 消残留雪古曽見ゆれ春風の
 またをしなへてふか須や有蘭  日應

 きえのこるゆきこそみゆれはるかぜの
 またをしなべてふかずやあるらん(む)

一応、こう読んでみた(ご教示いただき少々訂正しました)。署名が入っていることも初めて気付いたしまつだから、買う時に何を見ているのやら。日應はおそらく大石寺第五十六法主日応だろう。嘉永元年(1848)生の大正十一年(1922)遷。大石寺は静岡県富士宮市にある日蓮正宗の総本山。

とすれば「残雪」とは大石寺からくっきり眺められる富士山の残雪ということになろうか。そう思えば、歌の様子もガラリと変る。

***

連綿体の変体仮名をどうやって読むのですか? というご質問をいただいた。まだ読めると胸を張るほど十分には読めていないため、お答えするのもおもはゆいが、とにかく、もう慣れです。和歌くらいだと、漢字が少ないので変体仮名を全部覚えていればよろしい。これは字典類がたくさん出ているし、案外と覚えやすい。むろん「あ」だけでも安、阿、悪、愛など複数あるので、とにかく書いて覚える(「あ」は「安」の草体です)。

漢字は、頻出する特定の漢字をまず覚え、というか、いやでも覚えます。上の歌で言えば、「春」とか「風」とか。手紙なんかは漢字がたくさん出てくるので簡単には解読できないが、それでも繁用される文字が分るようになれば楽にはなるだろう。草体の部首だけをまず覚えるのがいいのかなと思っている。部首が分ればあとはしらみつぶしというローラー作戦もあるし。ただし、サンズイとゴンベンなど頻出するうえに紛らわしいものも多く容易ではない。さらに筆者の書き癖というのもくせ者だ。漢詩など普通見かけないような難しい文字を使っているのはまず読めません(キッパリ!)。

裏技はやはり検索。読めたところだけ部分的にでも検索してみると、類例がヒットする。和歌であれば、伝統があるだけに似通った歌がきわめて多いし、本歌取りもあるので、あんがいスッと判明することもある。

というようなところです。



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by sumus2013 | 2014-02-13 22:15 | 古書日録 | Comments(2)

池永一峯と細井廣澤

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昨日はズボラをして池永一峯についてはごく簡単に紹介しただけだったが、じつはこの『書道全集別巻II 印譜 日本』(平凡社、一九七一年五月一日四刷)が見つからなかったためあまり詳しく書けなかったのである。さきほど無事(?)発見。この書道全集別巻の印譜、日本篇と中国篇は篆刻・印章の歴史を概観するにはもってこいの編集になっていて貴重だと思う。図版中心で専門的過ぎず、簡略過ぎず、索引、印章研究資料一覧、年表も備えている(年表は一九六八年、岡田湖城没まで)。

本書によれば、池永一峯《名は榮春、字は道雲、一峰と号し、別に市隠・山雲水月主人等の号がある。本姓新山氏。江戸本町三丁目の名主で薬屋を営む池永家に入籍、その五代となる。榊原篁洲の門に入り書を善くし、とくに篆文に精しかつた。篆刻は黄道謙に親炙して一刀萬象三巻を著し、本邦における印譜のさきがけをなした。五十歳で長子榮陸に世を譲り、墨田河畔の庵に梵典を修め、傍ら琵琶を愛した。没前自ら墓碑を勒して逝いたという。元文二年七月十九日没。年七十三。》著書多く、十八種五十余巻に及ぶそうだ。


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ついでに細井広沢の伝も少しばかり引用しておくと、広沢は万治元年(1658)遠州懸川に生まれ、年少で江戸へ出た。元禄のはじめ柳沢吉保に仕えて近習鉄砲頭となったが、退いて一時水戸光圀に仕えた。その後青山與力に移り、享保二十年(1785)歿。

江戸時代を風靡した唐様の書法を世に弘めたばかりでなく、当時まったくふるわなかった篆学を研究したことでも功績を残した。『篆体異同歌』三巻は篆字の紛らわしい異同を整理した著述(本邦初期の篆刻字典)で、後には池永一峰の『篆髄附録』を合刻している。

《かれの在世したころ、東西二都において、学士大夫たちは、多くはみずから篆刻をなし、あらそつて古今の印譜を買い求め、鉄筆をこころみるのを趣味とした。たまたま清の黄道謙が乱を逃れて長崎に流亡してきたとき、方篆雑体の法を教えたので、長崎の人々があらそつてその門に走り、一時篆刻が大流行をきわめた。

《かれと交遊した榊原篁洲、今井順慶、池永一峯みなともに、篆学を講じ、刀技を修めて、江戸を中心として一派をなしわが国の篆刻が勃興する機運をつくつた。わが国の篆刻は実際上かれによつて興起したというので、かれを日本篆刻の始祖と仰ぐこともある。印譜に奇勝堂印譜がある。》

以上抜粋。執筆者は中田勇次郎。掲載されている三顆のうちふたつを掲げる。


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君子林、廣澤知慎

かつて印譜を集めたいと思ったこともあったが、すぐに諦めた。印譜コレクションは大尽の趣味である。実押した稀少本が多く、また版本でも古いものは手が出るどころの騒ぎではない。そういう世界はそちらの方々にお任せして、図版を眺めるくらいのところで満足しておこう。

ただし自ら印を彫るというのは、これはさほど資金もかからず、手先も使うし、ボケ防止にはもってこいだろうと思う。没頭していると時間が矢のように過ぎる。最近はまったく遠ざかっているけれども、神戸の震災直後には没入していた時期があった。作った印はほとんど誰彼に呈上してほとんど手許には残っていない。今見るとガッカリするんだろうなあ。



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by sumus2013 | 2014-02-11 20:30 | 古書日録 | Comments(2)

篆楷字典 篆書字引

昨日の続きで丘襄二『篆楷字典』(丘襄二、一九三三年一一月一〇日)、これは写真にも二冊並んでいたようにマール社から一九八三年一一月一〇日に復刻されている。

篆書の部首の形からその文字を同定するために作られた字書。下のように画数ごとに部首(というのか篆字の一部分)が分類されている。まず、この字形索引でおおよその見当をつける。

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そして該当する頁を開くと同じ部首の篆書が楷書とともにズラリと並んでいるので、そこから探している文字を見つけ出す。

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マール社版には音による索引もついている。巻頭には漢学者で東京帝大教授の塩谷温自筆による「篆楷字典序」があり、著者についてこう述べている。

《丘譲二君伊勢津人現住大連従事実業旁通小学用功多年新編篆楷字典専主実用沿彙集篆字依体分類付以楷書一目瞭然頗為便利頃者介友人片山法学博士請余文

《君齢既七十六猶孜々不懈能為此書可謂篤学之士矣乃欣然為之序》

丘襄二についてもほとんど情報がないが、序に言うように伊勢の人だとすれば、昨日の『偏類六書通』編者である古森厚孝らの伝統を引き継いでいたとも思えるのだが…。昭和八年に七十六とすれば安政四年(一八五七)あるいは五年頃の生まれということになる。

【追記】『大正人名辞典』(東洋経済新報社、一九一八年一二月二五日四版)に経歴が出ていた。それによれば、安政五年三月十二日、三重県生まれ。現住所は満州大連加賀四四。明治十二年、津市第百銀行取締役兼支配人。十四年三重県商業会議所会頭兼水産会会長。二十年三井物産会社入社。二十七年東京電燈株式会社幹事。三十七年日露戦争に従軍し勲功あり。田中合資会社監督、日支合弁龍口銀行枢議。旅順市議、旅順実業協会会長。大正元年関東州居留民総代として大喪に参列。大正三年青島軍に従軍。

***

昨日の二番目の写真、左側の二冊はどちらも池永道雲(一峯)撰『訂正篆書字引』(内題は『聯珠篆文』)である。まったく同じ内容。要するに異版。小さい方が明治版。やや大きいのが大正九年版。内容は基本的には『篆楷字典』と同じだが、もっとシンプルで収録字数も少ない。

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これは大正版で、下のが明治版の奥付。明治二十年代はこのように紙質が悪い本が多い。教科書類はたいていこういうふうに黄変してしまっている。

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明治版で著者は松浦琴(琹)鶴となっている。幕末の易占家として著名な人物と同一人であろうか(?)。ただ本文末尾には《享保壬寅夏六月/池道雲篆》と明記されているので池永道雲を著者としてよかろうと思う。享保壬寅は西暦一七二二年。

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この本の序文は柴邦彦こと柴野栗山(1736-1807)が執筆している。ただし本書について具体的には触れておらず、池永道雲の事蹟について、あるいは杉田伯元(1763-1833、杉田玄白の娘婿)とともに実見した道雲の印集『一刀萬象』などの印象を記しているだけである。池永道雲(1674-1737)は江戸中期の書家、篆刻家。同じく同時代の著名な篆刻家細井広沢(1658-1736)と技を競ったらしい






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by sumus2013 | 2014-02-10 21:47 | 古書日録 | Comments(0)

偏類六書通

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篆刻字書の不備を嘆いたところ上掲のような字典類をお貸しくださった方がおられる。ゆっくり拝見させていただき今後の参考にしたいと思う。御礼申し上げます。

まずは上の写真では左から三番目、旧蔵者手製の帙に収められた『偏類六書通』(鴻寶堂、嘉永元年序)を紹介する。下の写真では茶色い表紙の二冊。右はその帙。

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これは二冊に七巻分が収められているが、早稲田大学には十冊本があるようだ。

偏類六書通. 巻1-7 / 古森厚孝 重修 
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ho04/ho04_00967/index.html

もともとのオリジナルは清の畢既明が清書して出版した『六書通』という書体字典である。『六書通』は漢字の分類が韻別になっているので日本人には使い勝手が良くなかったため(たぶん)、画数別の偏で分類した(要するに現代の漢和辞典にほぼ同じ)のがこの『偏類六書通』。

だからまず巻頭には畢既明による原典の序文があり、さらに淇齋慶徳佳包の天保八年(一八三七)の「重刻六書通序」があり、さらには鉄研学人斎藤謙(斎藤拙堂)による嘉永元年(一八四八)の「序」がついている。いずれもとりたててここで引用するほどのことは書かれていないようだ。

閲として見返しタイトル脇に名前が出ている小俣蠖庵(おまた・かくあん)は明和二年(一七六五)伊勢神宮の外宮、豊受宮の神楽職の家に生まれており、書画篆刻をよくした。篆刻は源惟良(みなもと・いりょう)に学んで一家を成したという。家運が衰え、一時は越後、信濃を遍歴した。そのおりに出雲崎に留まっていた釧雲泉(くしろ・うんせん)に書を学んだともいう。伊勢に戻って後は風雅を友とし、天保八年(一八三七)に歿している。

蠖庵が歿したと同じ天保八年の日付のある序文を執筆した淇齋慶徳佳包、さてこの人物が誰なのか、少し検索したくらいでは分らなかった。ただし慶徳(けいとく、荒木田)家は伊勢山田神職なので蠖庵と親しい者であったろう。また斎藤拙堂は言うまでもなく津藩のエリート儒者。「和洋折衷」を唱えたことで知られる。

問題は重修者(実際的にこの字書を編集した人物でしょう)となっている古森厚孝(こもり・あつたか)徳元、これが本書の編者として以外にはまったく検索にひっかからない。伊勢アカデミーの優秀な人材のひとりであったことは想像できるが、さてどういう人物か。乞御教示。

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ご覧のように本文も見やすく、当時としてはおそらくたいへん便利な字書だったに違いない。数多く版を重ね、現存数も多いようである。



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by sumus2013 | 2014-02-09 21:46 | 古書日録 | Comments(2)

これやこの

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久保田万太郎『これやこの』(日本叢書三六、生活社、一九四六年三月一五日)。戦争俳句ということで取り上げてみる。昭和十七年四月から昭和二十年十月までの間に作られたもののなかから選んだ二百七十句が収められている。久保田万太郎の戦時における生活ぶりがはっきり伝わってくる内容である。[ ]内は引用者註。

    山本五十六提督戦死[昭和十八年四月]の報到る
 みじか夜のあけゆく雲にうらみあり


  ふところにアルミの銭のかるき世や  東門居[永井龍男]
 前座なりけりふところ手して      甘亭[久保田万太郎]
  飛行機の幾編隊ぞ冬空に       澁亭[渋沢秀雄]


   上海所見[昭和十九年]
 焼けあとのまだそのまゝに師走かな


   中山陵にて
 警衛士凍てたる蝶のうごきけり


   横須賀
 水兵の連れだち来るや雪解風


   三月四日、非常措置令出づ、たまたま田中青沙と山口巴にて小酌
 ぜいたくは今夜かぎりの春炬燵


   耕一応召
 親一人子一人蛍光りけり


   十一月一日以降、来襲繁し
 国あげてたゝかふ冬に入りにけり
 柊の花や空襲警報下


   銀供出令出づ
 かんざしの目方はかるや年の暮


   空襲下、昭和二十年来る
 鬼の来ぬ間の羽子の音きこえけり


   五月二十四日早暁、空襲、わが家焼亡
 みじか夜の劫火の末にあけにけり


   旅中[七月末から八月にかけ日本文学報国会から派遣され折口信夫と二人で名古屋、静岡あたりを視察旅行]
 トラックにのり貨車にのり日の盛
   歌強ひらるゝ扇破れたり
 兵隊のゆくさきざきに屯して
   焚火ふみけす秋の早立チ


   終戦
 何もかもあつけらかんと西日中
 

   八月二十日、灯火管制解除
 涼しき灯すゞしけれども哀しき灯


   田園調布
 停車場の灯のあかるくて秋近し


   いまはむかし
 十三夜はやくも枯るゝ草のあり


この句が掉尾。次のような註が施されている。

《昭和通りから東中野まで行くのに、三丁ほど、焼けあとを通らなければならないのだが、その道に、ことしは露草の花がやたらに咲いた。いかにもその無心な感じが愉しかつた。が、間もなくその瑠璃いろの夢も消えて、またもとの、寂しい、あいそつけのない、あたじけないけしきになつた。》


もちろんここに引用したような戦争俳句ばかりで占められているわけではなく、一見のんきな俳句の方が多数なのだが、それでもやはりどこか戦時の気分をたたえているような気がするのは深読みか。以下いずれも昭和二十年春の作。

 夕空にたかだか映ゆる櫻かな

 木蓮のみえて隣のとほきかな

 落椿足のふみどのなかりけり

 花曇かるく一ぜん食べにけり

 風立ちてくるわりなさや春の暮







 



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by sumus2013 | 2014-02-07 21:08 | 古書日録 | Comments(2)

数学三千題のうつし絵

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尾関正求『再版数学三千題巻之中(三浦源助、一八八二年九月二〇日再板)。明治十五年。数学の練習問題集。岐阜県の版元である。

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三浦源助は天保二年生まれ。岐阜で出版書肆・成美堂を始め、明治十九年には東京に支店を出した。そのとき東京支店を任されたのが河出静一郎である。おそらく暖簾分けのような形で河出が譲り受けたのだろう、その後は成美堂・河出書房の商号を用いていたが、昭和八年より河出書房とした(この店名については鈴木徹造『出版人物事典』に拠った。ただし昭和八年以降でも「成美堂書店」のみ奥付に記す書物もある。一例は『現代教育学大系』一九三六年)。尾関正求『数学三千題』も初期河出書房の代表的出版物となったようだ。

とまあ、書誌的な事実も興味深いものがあった(というのは今検索して初めて分ったわけです)ものの、この本を求めた本当の理由は、裏表紙に珍しいシールが貼られていたからである。

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紫の表紙に貼られているので尚更なのかもしれないが、なんとも味わい深いこれらの移し絵はおそらく明治時代も終り頃の舶来品ではないかと思われる。あれこれ画像検索してみたが、同じようなものは見つからなかった。ひょっとして貴重な作例?

移し絵写し絵とも書く。ただし写し絵[映し絵]と言えば、明治時代では幻燈のことだった。また英語、フランス語では「decal」で通じるようだ(décalcomanie の略だろう)。

懐かしの昭和写し絵
http://paradrill.exblog.jp/11884646/



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by sumus2013 | 2014-02-04 20:30 | 古書日録 | Comments(0)

大隈伯肖像および印刷機あれこれ

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最近入手した石版の肖像画「立憲改進党代議会長/大隈伯肖像」(静岡民友新聞第六百八号付録 発行静岡民友新聞社 明治二十六年十一月一日 発行印刷人多々良藤右衛門 編輯人横山是 東京京橋区元数寄屋町泰錦堂印刷)。静岡民友新聞は昭和十六年に静岡新報と企業統合され現在の静岡新聞となる。サイズが大きすぎて全紙面をスキャンできなかったが、この画像がA4大で周囲にかなりの余白を残す。

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絵の作者だが、右下隅に「繁」のサインがある。誰なのか専門外にて見当もつかないけれど、便利な時代、いろいろ条件を変えて検索してみると、おそらく「波々伯部繁」ではないかと推定できた。「芸妓競」(改進新聞、明治二十六年、郡山市立美術館)あるいは「衆議院議員肖像」(改進新聞、明治二十三年、東京大学・近代日本法政史料センター)などの作品が残っているようだ。

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印刷機についてのコメントをいただいたので『写真技術講座6 写真製版術』(共立出版、一九五六年一月三〇日)からいくつか図版を引用しておく。まずは手引石版印刷機。こういうものはそう進歩はないように思うので明治時代もおそらく上のような機械を使ったのではないだろうか(?)。

以下、手製コロタイプ印刷機、四六全判金属平版枚葉印刷機、そしてオプセット(誤植? すべてオプセットになっている)の校正機(中西鉄工所製)、輪転オフセット機、四六全判2色オフセット輪転機(日本タイプライター製)の図版。他にいろいろあるも省略。


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コメントいただいた二条通の印刷所は「十分屋」であろう。

ハイデルベルグ プラテンT型 1960年製(二条通寺町東入・十分屋)
http://juppunya.com/kappaninsatsu.htm

プラテン機の稼働状態のヴィデオがこちらで見られる。

ドイツ ハイデルベルグ社製 T型プラテン印刷機(和歌山・藤井印刷)

小気味好い機械音である。仕事してるなあ〜という感じがする。ただ思うのは、活版印刷が廃れて、編集や印刷工程などがコンピュータに頼り切っている今日では、いわゆる職人技が廃れてしまったたかのような錯覚があるかもしれない。しかし実際、仕事をしてみると、オペレータの技術によってかなりなクオリティの差が出て来るのも事実だ。例えば色合いの微妙なテイストが機械任せにはできないように。まだまだ当分の間は機械を使うのは人間だと思っていいようである。


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by sumus2013 | 2014-02-02 21:42 | 古書日録 | Comments(4)