林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:古書日録( 712 )

高田町雑司ヶ谷 ボン書店

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十七日のトーク終了後、北池袋へ向かったことは書いたが、その途中、内堀さんと編集者Oさんと歩いていたとき、内堀さんがいきなりこう言った。

「あそこにボン書店があったんですよ。大倉のところ」

そう聞かされて慌てて撮影したのが上の写真。「大倉」は割烹店。道路突き当たりの光る看板のあたり。左手が鬼子母神堂になる。

大倉(東京都/JR池袋駅、割烹)の地図情報
http://r.gnavi.co.jp/g810400/map/

内堀さんの『ボン書店の幻』(ちくま文庫、二〇〇八年)によれば昭和六年頃、後にボン書店を設立する鳥羽茂(とば・いかし)は《東京市外高田町雑司ヶ谷五二〇》の坂本哲郎の家(日本詩壇社)に同居していた。そして昭和七年五月『前線』(大阪日本前線社)二十四号に北園克衛詩集『若いコロニイ』の広告が掲載されるが、その発行所であるパルナス書房の住所は《東京市外高田町若葉》となっている。パルナス書房で鳥羽は『新鋭詩人選集』の編集にあたっていた。ところが同書房は経営破綻して選集は実現しなかった。その詫状に印刷された鳥羽の住所は《東京市外高田町雑司ヶ谷五一六》である。このすぐ後にボン書店を開業したらしい。

ちょうど上手い具合に昭和六年発行の「東京市全図」を所蔵しているので引っぱり出してみた。池袋界隈は地図の右上隅で、東京市外すなわち北豊島郡に属している。高田町が巣鴨町、西巣鴨町、長崎町とともに豊島区となるのは昭和七年より。この地図で見ると、たしかに高田町雑司ヶ谷五二〇、五一六は鬼子母神の裏手あたりになるようだ。若葉町は鬼子母神前から現在のみちくさ市をやっている通りに沿って鬼子母神と反対の方向へ少し行ったところ。

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当時の鬼子母神の様子はというと、こんな巨木に囲まれて鬱蒼としていたようだ(『ボン書店の幻』より)。昭和の初期には樹齢四百年のけやきが十八本も残っていた。戦災を免れて今に残るのはそのうちの四本だという。

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実際歩いてみるとボン書店に対するイメージも少し変ってくる。近年、この近辺に泊まることが重なったので、より身近に感じられるのだ。体で土地を測るとでもいうのか、地図を眺めるだけでは決して分らない大事なものを得られるように思う。
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by sumus2013 | 2013-11-20 20:21 | 古書日録 | Comments(0)

薔薇祭

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『鶴岡善久詩集薔薇祭』(的場書房、一九五七年八月一一日)を入手した。鶴岡善久二十一歳のときの詩集である。的場書房の刊行物が欲しかったので嬉しい。奥付を引き写しておく。

 鶴岡善久詩集薔薇祭一九五七年八月十一日刊行
 中沢印刷・協栄製本
 的場書房
 北川幸比古発行
 振替東京一一二二一六番
 東京都千代田区神保町一丁目三番地 価 二百五十円
  Printed in Japan (c)

神保町一丁目三番地は書肆ユリイカと同じ建物である。書肆ユリイカのあった神保町の路地裏。昭森社も思潮社も的場書房もここにあった。

http://sumus.exblog.jp/8755063/

桜井勝美宛の手紙が挟み込んである。桜井は二十八歳年長の先輩詩人で北川冬彦『麺麭』同人。

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また本書の跋をやはり北川冬彦が主宰していた『時間』同人の沢村光博が執筆している。沢村は十五歳年長。鶴岡も『時間』同人である。

《ぼくのわかい日々ーー一方で苛烈な戦争があり、空をいつも破壊的な爆撃機がとんでゐましたがーーそんな空の下で、まるでそんな風景とはかかはりのないやうなヤコブ・ベエメのことだの、わが国では恐ろしく誤解されてきたドイツ・ロマン派の詩人の世界だのに、ひとりで親しんでゐたものです。さういふ自分のわかい日々の一面があなたのうちに、十何年か過ぎて再現してきたやうな気がしたものですよ。
 わたしのわかい日々が抵抗の一形式であつたやうに、あなたが孤独にこれらの詩の世界を選びとつてゐることに、わたしはあなたの現代への抵抗の一形式をみだします。》

詩の引用はしないが、沢村の言っていることは妥当なように思う。鶴岡はアンリ・ミショーと親交があったようだ。daily-sumus で紹介したアンリ・ミショオの詩集『PAIX dans les brisements』について《昨年古書界に出た某氏旧蔵書の一冊らしい。》と書いた某氏とは鶴岡善久のことである。

  ***

数日間ブログを休みます。みちくさ市のトークなどのために上京します。
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by sumus2013 | 2013-11-14 20:48 | 古書日録 | Comments(0)

クリップ 16号夏

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先日の二冊に続いてもう一冊『クリップ』16号(杜陵高速印刷株式会社出版部、一九八六年六月八日)を見つけましたと某氏より追加で恵投たまわった。深謝。松本竣介特集号。

『クリップ』創刊号および2号
http://sumus2013.exblog.jp/20758756/

珍しい松本竣介の花の絵がカラーで掲載されている。

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松本禎子がこの絵について「帰ってきた「夏の花」」というエッセイを寄稿している。禎子が幼いときから大好きな叔父さんが竣介の絵を買ってくれた。

《支那事変が次第に拡大してゆく昭和十四年の秋ごろ、久し振りに訪ねて来て、アトリエで竣介と話していましたが、叔父が帰ってから竣介が、「叔父さんが僕の絵を三枚も買ってくれたよ」と、喜んでいたのをおぼえています。
 満州国大連での生活は、戦争たけなわになっても結構豊かだったらしく、「一度来ないか」などという誘いもありましたが、私共が慌しく松江へ疎開する頃には、消息も全く途絶えました。一家が辛うじて内地へ引揚げ、東京へ戻った私共と入れ替りに郷里の松江へ仮住いを定めたのは、昭和も二十二年になってからでした。》

叔父は再起の日も待たずに亡くなる。

《遺された叔母から、「実は竣介の絵を一点満州から持ち帰っている」という便りが来たのは、それから三十年近く経った頃でしょうか。「終戦直前には大連も混乱をきわめ、いつソ連兵にふみこまれるかという緊急事態に、一番好きな竣介の絵をベッドにかくした。その日武装の兵隊がなだれこんで来て家中を荒し廻り、中の一人が部屋にかけていた油絵二点を"ハラショー"と言って持って行ってしまった。二つとも竣介の作品だった」というのです。》

禎子は叔母からその絵を買い取る。

《包みを開けて目にしたのは、きれいな青に、鮮やかな赤い草花の描かれた油彩ーー裏面には昭和十四年・七月・夏の花と竣介の字で記してあります。それは息子の莞が生まれた年・月です。待望の男児の誕生を喜んで、庭の草花を一気に描きあげたものと思われ、よりにもよって不思議な縁(えにし)だと話し合ったことでした。》

竣介らしい絵ではないが、それでもブルーの塗り方は独特の雰囲気がある。ソ連兵の持ち去った他の二点も花の絵だったそうだ。「ハラショー」といって花の絵を略奪してゆくとは、しかも松本竣介の絵! なんて目利きの兵隊だろう。
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by sumus2013 | 2013-11-13 21:49 | 古書日録 | Comments(0)

団子坂から谷中五重塔を望む

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大竹新助『写真・文学散歩』(現代教養文庫、一九六二年十七刷)に団子坂上から谷中の五重塔を望む写真がありますよ、と某氏よりご教示をたまわった。さっそく入手してみると、まさに谷中安規の版画「動坂」にぴったり重なるような構図である。

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丸い街路灯まで同じではないか! 角度的にはほぼ同じくらいであろう。海抜は団子坂より動坂の方がやや高いのだろうか。安規の目線がより高いところから見下ろしているようにも思う(?)。本書の初版は昭和三十二年九月で五重塔が焼失したのが同年七月六日。志賀直哉が序文に

《この本は後になる程、その価値を益し、皆から喜ばれ、大切にされる本だと思ふ。露伴の「五重塔」の如き、大竹君が写した後で焼け失せたものであり、歳月を経ればこの上にも、かういふ場合がないとは云へず、今、かうして大竹君が写真に残してくれる事は後の文学研究者にとつて大変ありがたい事だと思ふ。》

と書いている。志賀の言う「五重塔」は本文七頁の露伴『五重塔』にまつわる写真。塔をアップで見上げた構図である。上の「団子坂」は夏目漱石の『三四郎』の舞台として掲載されている。

《この小説のもう一つの舞台、団子坂に行ってみた。ここは菊人形で名高いところだ。この付近は戦災に焼かれたと聞いていたが、坂の両側は昔のままで、一寸大正を、そして明治も偲ぶことが出来る。この坂を上りつめたところの左側少し入ったところが、森鴎外の屋敷跡ーー観潮楼跡で、坂の上から振りかえってみると、あの幸田露伴の"五重塔"ーー谷中天王寺の五重塔が望まれた。》

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おそらくこれらの写真が撮影された昭和三十年前後を境として、日本の風景は激しく変貌することになるのだろう。下の日本橋の俯瞰など、あと何十年かして首都高速道路が地下にもぐったら、再びこういう風景に戻るかもしれないが……。

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遠景には煙突が何本も見えている。方角からすると一九五〇年に発足した富士製鐵(旧・日本製鐵、七〇年に八幡製鐵と合併して新日本製鐵、現・新日鐵住金)だろうか(?)。おばけ煙突(撤去は昭和三十九年)じゃないが、当時はまだ都心にこんなものが乱立していたようだ。
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by sumus2013 | 2013-11-11 20:30 | 古書日録 | Comments(0)

クルヴェルの最期

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ルイス・ブニュエル『映画、わが自由の幻想』(矢島翠訳、早川書房、一九八四年)。この本からクルヴェルの自殺について以前引用したことがある。

クルヴェルが自殺した時、まっ先に駆けつけたのは、ダリだった
http://sumus.exblog.jp/18265728/

ジョゼ・コルティの回想においてもクルヴェルの死の前後のことが語られている。それはブニュエルのクールな書き振りとは違った、やや湿っぽい、情味のこもった内容である。

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ルネ・クルヴェル(一九二八年、マン・レイ撮影)

ルネ・クルヴェル(1900-1935)はパリのブルジョア家庭に生まれた。一九二一年にアンドレ・ブルトンと知り合って仲間になるが、二五年にはブルトンから離れてトリスタン・ツァラの方へ近づいた。二六年に結核であることが分る。二九年、トロツキーの追放が引き金となってシュルレアリストたちが糾合することになり、二七年からフランス共産党員(三三年除名)だったクルヴェルはシュルレアリストとコミュニストを結びつけようと努力した。三五年に文化防衛のための国際作家会議の組織に奔走。だが、シュルレアリストの代弁者だったブルトンとソビエト代表団のイリヤ・エレンブルグの間で暴力的な口論がもちあがり、ブルトンは会議から閉め出されてしまう。板挟みになったクルヴェルは絶望的になり、また結核の再発を知らされたこともあり、一九三五年一月一八日、ガス自殺を遂げた。

以上は仏ウィキによる型通りの略歴だが、かなり近いところでクルヴェルの死の状況を知っていたコルティは具体的に次のように書いている。

《ルネがわずかな人間的な暖かさを必要としていたとき、人は彼を拒絶した。最後通牒を突きつけた。ブランシュ広場のカフェで反対意見が出された。グループはひとつにまとまっていた(おそらくルネ・シャール以外)。クルヴェルは、除名覚悟でコミュニストたちに反論する道を選ぶしかなかった。教会が離教した僧侶を審判するようなものである。もしクルヴェルが引き裂かれるとしても、彼は断固として躊躇しないだろう。会議に報告しなければならない。それをブルトンに確認する。瞬時の判決。グループは彼を除名しない。彼は追い立てられ、氷のような沈黙のなか、まるで夢遊病者のように、ひどく興奮して、カフェから飛び出す。》

クルヴェルはカフェを出てジャンとコレットのデュヴァル夫妻の家に立ち寄った。彼を理解してくれ彼もまた心を許せる唯一の友である。しかしそれも慰めとはならなかった。彼は疲れていた。「うんざりだ dégoûté」と彼は言った。

クルヴェルはデュヴァル夫妻の赤ん坊に会いたいと言った。夜中だったので赤ん坊は眠っていた。クルヴェルはその小さなベッドの上に長い間かがみこんでいた。夫妻はいつも、あのとき彼は人生に最後の別れをしていたのだと思う。

その翌日、ジャン・デュヴァルはサンミッシェル大通りで、いつものように帽子も被らずに大股で歩いて行くクルヴェルを見かけた。折り鞄を腕にぶらぶらさせながら、機械的に、歩行者など無視して。あまりにいつも通りなのでデュヴァルは驚いた。昨夜の様子がまだ脳裏にあった。クルヴェルは人ごみに紛れて行った。それがジャンの見た最後の姿になった。

この同じ月曜の夕方、トリスタン・ツァラとともにクルヴェルは会議に出席した。どこで、誰と? 知らない。彼らは一緒にそこを出て話しながら歩いた、何を? コンコルド広場まで来て別れた。すっかり暮れていた。

家に戻ると、クルヴェルは一言なぐり書きをして枕の上にピンでとめた。「うんざりだ、火葬にして欲しい Dégoûté, je veux être incinéré」。そして睡眠薬を嚥み、効き目が遅いことを確かめて、ガスの元栓を開いた。

翌朝、女中が、部屋の扉が閉まっているのを、いつものことと気に留めなかったため、発見が少し遅れた。彼はまだ息があった。ブシコー病院へ搬送されたが、命は助からなかった。

彼が望んだ火葬のためにペール・ラシェーズ墓地へ運ばれずに、モンパルナス墓地(モンルージュ墓地)に埋葬された。穴の周辺には、家族と友人たちの二つの小さなかたまり。真ん中に祈りをあげる僧侶。シュルレアリストたちはいなかった。誰も哀れなルネ・クルヴェルが埋葬されるのに立ち会わなかったのだ。あれほど完璧にも彼らの友であったのに。トリスタン・ツァラはセレモニーには参加したが、グループの代表としてではなかった。同志の埋葬に立ち会いに来たコミュニストがたった一人いた。

というような様子であった。ブニュエルの話とはかなり違っているが、まあそれも愛嬌であろう。誤訳含みの拙訳ばかりで申し訳ないので自殺の原因についてのコルティの考えを表明した原文を引用しておく。

《Pour quelle raisonーquelles raisonsーCrevel s'est-il donné la mort? Il a emporté son secret avec luiーpar indifférence ou par mépris. Certains ont su, qui auraient pu parler. Ils se sont tus. Tzara en particulier. Et cette mort, non dans ses circonstances, mais dans ses causes profondes, reste enveloppée de mystère. Enfin, d'un mystère relatif.》
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by sumus2013 | 2013-11-08 22:23 | 古書日録 | Comments(0)

ジョゼ・コルティ回想録

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ジョゼ・コルティ(José Corti)の『取散らかった思い出 Souvenirs désordonnés』(Éditions 10/18, 2003)読了。パリの新刊書店ジベール・ジョセフでセコハン本(オカジオン occasion)として購入したもの。元版はジョゼ・コルティ(版元の名前でもあり、書店の名前でもある)から一九八三年に出ている。

ジョゼ・コルティ(1895-1984)は一九二五年に同名の出版社を設立し、初期のダダ、シュルレアリスム関係の雑誌や単行本を刊行したことで知られる。アラゴン、ブルトン、エリュアールらの著書、ダリの『La Métamorphose de Narcisse』(1937)やジュリアン・グラック『Au château d'Argol』(1938)は代表的な出版物。ガストン・バシュラールなど学者系の著述家たちとも繋がりは深かった。

以下、今年の六月に訪れた(前を通った)ジョゼ・コルティ。難しそうな主人が帳場に座っていた。ひょっとして息子さん(?)。店頭に見切り本の函(自社の出版物がほとんどだったと思う)。これは欲しいものがいくつもあった。ドラクロアの日記が安かったけれど、広辞苑くらいの分量があったので諦めた。

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ジョゼ・コルティの文章は凝っていて読みにくかった。内容も濃厚で二大戦間のフランスの文壇事情をもう少し知っていれば興味深いのだろうが、小生のような者には消化しきれない感じ。しかし部分的には面白いと思うところもなくはなかった。

例えば、ポール・ルブー(Paul Reboux、小説家、批評家)から頼まれて装飾用に古本を買いあさった思い出話(拙訳で申し訳ない)。

《ポタン氏、フェリックスの息子、とそのひとりの友人、から数メートルの本を買い求めるように「目利き」として依頼されたルブーは、それを私に見つけてくれと言って来た。ポタン氏が手に入れたばかりのクロワッセのホテルの広大な図書室に飾り付けるためだという。私の役割に難しいことはまったくなかった、絶対ではないがかなり断固としたふたつの要求を除いては。革装の本でなければならない。そしてそれらは装飾となるものであってほしい、値段はなるべく安く。

残念ながら、河岸の古本屋を一時間も歩けば、わずかな金額で数メートルの見栄えのいい古書を買えるような時代は過ぎ去っていた。古道具屋の主人たちはそれらを長い間シガーの箱やワイン貯蔵庫に入れて標本にしていた。かなり探してようやく望む長さだけの本を見つけた。ある日、二台のタクシーに雑多な獲物を詰め込んだ。これがまだエレガントな曲線形をしていなかったかつてのタクシーで、特別に体を折り曲げたり、しなやかでなければ乗り込めないというものではなかった。ちょっと頭を下げるくらいで乗り込めたのである。この日以来、私はカルーゼルの中庭をこのときの小さな旅を印象付けた哀れにも滑稽な事件を思い出すことなしに横切ることはできないのだ。

本は梱包せずに詰め込んだ。タクシーの中いっぱいになった。すべては問題なく運んでいた、私が運転手のそばへ場所を移るその瞬間までは。ルーヴルの切符売場を出てタクシーはカーブを切った。このとき、古本の塊が激しくバランスを崩し、自動車の片方の側に集まった。ドアの鍵に力がかかり、物質の悪意は私の積荷をして遠心力の法則に従わしめたのである。ドアは開いた。すべてのものが一瞬動きを止め、次の瞬間、伝書鳩の小屋が開かれたときのように、古本は飛ぶように放り出された。何百という優雅な曲線を描きながら。そしてカルーゼル通りの舗道の上に雑多な色のモザイク模様を付けたのである。》

フェリックス・ポタンというと八〇年にパリにいたころにあちこちで見かけたスーパーマーケットである。一八四四年に創業して食料品業を近代化して発展したが、最近まったく見ないと思ったら、一九九五年に消滅したそうだ。
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by sumus2013 | 2013-11-07 21:58 | 古書日録 | Comments(0)

富岡鉄斎碑林

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情けないことながら、先日の臨川書店で買えたのはこの正宗得三郎『富岡鉄斎』(錦城出版社、一九四二年一二月一五日)だけだった。岡本政治の錦城出版社に注目しているのと、やはり富岡鉄斎ということもあって見過ごせなかった。上は口絵写真より「書斎に於ける鉄斎翁」。

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《私の宿つてゐた處は、先生も嘗て住つてゐられた事のある頼山陽の旧栖、山紫水明處の隣りで同じ東三本木であつた。そこから翁のお宅は余り遠くはない。寺町から御所の広庭を通り抜け、蛤御門をくゞつて交番のある角から中立売に出るとすぐ、黄土色の土塀、古風な門に竹の戸が閉つてゐる。それが翁のお宅である。何んでも三十年前の昔、この家の前を通つてゐると、門の處の楓が紅葉して風情が佳かつた。それが第一の縁となつて購はれたとの事だ。喫茶弁を著した小川宗匠可信の旧宅。それからそこにずつと住まつて居られた。床の広い玄関であつた。玄関に亀田窮楽の「福内鬼外」の、板に白字で彫つた木額が掛つてゐた。》

《先生のお宅は三百坪位ある。庭はさ程人工は加わつてゐないが、支那風の亭がある。その亭には先生の描かれた、黒漆塗に朱漆で風竹の額などが掛つてゐて、その前に小流が造られ水道から水が噴出する様になつてゐる。その傍、巽の隅に石の祠があつて、前に朱の鳥居がある。翁は毎朝未明に起き洗面含嗽し髪を櫛けづるて、この祠に詣で天神地祇に礼拝せられる。今一つ艮の隅大木の近くに木造りの社がある。庭の中央にあつて、そこには支那西湖の小梅を移し植ゑられたのが丈余に延びてゐる。乾の處に書籍庫が二つある。以前は木造であつたが、数年前鉄筋煉瓦に改造せられた。それが魁星閣で入口に魁星の図と、字が緑青と朱で刻してある。中には書籍、軸、謙蔵氏蒐集の古鏡が陳列してある。書籍は帙があつて中の本が出てゐるもの、箱丈になつたもの、翁が毎日こゝを漁つてゐられる事が判る。》

富岡鉄斎邸跡
http://sumus.exblog.jp/14588833/

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《其後再び先生を訪問した時、蝸牛の宿の様な画室を見せて貰つた。室は十畳敷位の粗末なもので室の中は書籍が一ぱい積まれて、翁の居られる處は畳一畳敷位空いてゐる。そこに汚れた白毛氈が敷かれて、筆洗、硯箱がある。》

《翁は自ら書癖と書いてゐられる。書籍についてはまるで書狂であつた相だ。富田渓仙君が私に話したのに、六角堂に毎月書籍の市が立つ。自分(渓仙)もその日は朝早く出かけるのだがいつも鉄斎さんは先きに来てゐる。そしてまるで書籍の上を馬の様に這つてゐる。そして本を見てはぽんぽん投げ出しててゐる。どんな本を探し索めてゐるのかと思つて見ると、何んでもない本なのだが、何か一つでも眼を惹くものがあれば買つてゐる。》

《夫人に訊くと、翁は書籍を読まれるのが実に早い相で、あの老眼で、どんどんめくつて見られる。つまり何か索めてゐられるのだらう。さうして中の必要の事は抜書するか、本に記入される。他の本と照り合せた事が本に記入されてある。又その本が函に入れてあると、その函の蓋さへ見れば中にどんな事が書いてある本か解る様になつてゐる。その函書きが仲々振るてゐる。画まで描かれある。後年は多く画に関する書物を集めてゐられたと大阪の鹿田書店の主人が話してゐたが、兎に角本は非常に好きで、老年生活の楽しみは新たな書物を得られるゝ事であつたらしい。あの蔵書庫は翁の一大事業と云へる。》

富岡家の売り立てに関しては反町茂雄『一古書肆の思い出』に《入札に付されたコレクションとしては、これまで最高最大のものでした》とあるということについてdaily-sumusのコメント欄で触れたことがあるが、とにかく大変なものだったらしい。

六角堂で古本市が毎月開かれていたとは知らなかった。旧の京都古書組合は六角堂のすぐ近くにあったからそういうことになったのだろうか? 

ここで昨日の足立巻一『石の星座』を再びひもとく。「富岡鉄斎碑林」。鉄斎の墓はかつて京都四条寺町の大雲院墓地にあった。高島屋のすぐ裏手(現在は西京区大原野上里北町の是住院に移されている)。

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釈浄敬は鉄斎の四代前の祖以直で石田梅岩の高弟だったとのこと。その隣が鉄斎夫妻の墓。

《表面の碑銘は、京大教授だった東洋学者内藤湖南の筆である。裏面には「天保七年十二月十九日生」「大正十三年十二月三十日卒」と二行に彫られている。格調の高い筆跡で、墓石全体が端正で、鉄斎のそれにいかにも似つかわしい。》

《鉄斎の墓の隣りは一子謙蔵の墓である。形は同様だけれど、高さ約五〇センチ、幅約二三センチとかなり小さい。「富岡謙蔵之墓」とだけ彫り、裏面には「大正七年十二月三十日 享年四十六」とある。文字は鉄斎である。謙蔵は桃華と号し、中国学を専攻して、中国書画金石についての研究に深く、京大講師であった。鉄斎はつねに画人ではなく儒者であり、儒をもって世に裨益しようとするものだと称していた。謙蔵はその志を継いだもので、それだけ、鉄斎の鍾愛と期待とを受けていたが、父より早く早世したのである。剛毅な鉄斎にも悲嘆は大きかったと思われる。それで小ぶりながらみずから石を選び墓銘を書いたのであろう。まさしく、鉄斎の造形である。》

富岡謙三
http://sumus.exblog.jp/14728348/

足立は鉄斎が揮毫した墓銘や碑文はたくさんあるので「鉄斎碑林」となるだろう、それらを拓本にとって長く保存したいものだと締めくくっている。たしかに鉄斎の書いた看板も多い。面白い本ができるかもしれない。

富岡鉄斎揮毫碑 京都クルーズ・ブログ
http://office34.exblog.jp/17907506
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by sumus2013 | 2013-11-06 21:04 | 古書日録 | Comments(0)

村上華岳自筆墓誌

十一月二日、JR長岡京駅前のバンビオ広場で開催された「天神さんからおでかけ一箱古本市」をのぞいた。なかなかに濃いメンバーなので、粒ぞろいのいい本が多かった。各箱をじっくり見ているとかえって迷ってしまったが、結局はみどり文庫さんから渋いのを三冊ほど頂戴した。そのなかの一冊が足立巻一『石の星座』(編集工房ノア、一九八三年四月二五日、装画=須田剋太)。

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この本に惹かれた理由は「村上華岳自筆墓誌」と題された一篇に岸百艸が登場していたからである。

《追谷墓地に村上華岳の墓をたずねた。
 岸百艸さんが案内してくれた。百艸さんは若いころは、阪妻のシナリオを書いていて『開化異相』はその作であるが、いまは市井に隠れ住んで、気ままに晩年を送る俳人・郷土史家であり、ことに近年は墓めぐりを一つのたのしみにしている。追谷墓地は家の近くなので、毎日かよっては、おびただしい墓を調べたそうである。》

《この墓地には神戸の歴史が化石になって密集しているように思われ、一つ一つ暇にまかせて洗ってみた。初代神戸市長の鳴滝幸恭から、華岳と関係の深かった四代市長鹿島房次郎、船成金の八代市長勝田銀次郎など歴代市長の墓があるし、鈴木商店の創設者岩次郎や、その大番頭金子直吉一族の墓、あるいは天下の金貸しといわれた乾新兵衛、航空機工業をおこした川西清兵衛、花隈を開発した関戸由義、生田川の流路を変えた加納宗七の墓もここにある。生田神社の社家だった後神(ごこう)家の代々の墓もならんでいる。》

《わたしも百艸さんの案内で、そうした墓を見て回っていたのであるが、とりわけ興味をそそられたのは、清朝末期の南画家胡鉄梅と悦夫人との墓である。》

《それとともに、元町に寺子屋を開いていた間人(はしうど)茶村、写真館を早く開いた市田左右太、牛肉業の先達森谷類造、最初の西洋料理屋外国亭を営んだ鬼塚仁右衛門、早くバナナを輸入した長谷川佐吉などの墓があるのも、いかにも神戸らしく開化の世相をしのばせる。》

《そうして村上華岳の墓の前に立ったのである。村上家の墓は、第十九区という、かなり奥まった高所にあった。雨後の神戸港がよく見えた。突堤には、外国船が並んでいる。》

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《この「村上華岳之墓」の文字は、華岳みずから書き残していたものである。没後に遺作・遺稿を整理していると、この揮毫があらわれたので、そのまま墓に用いたと、長男常一朗さんはいわれる。》

《わたしが墓のスケッチをしていると、百艸さんがぼそぼそとした口調で語った。
「三ノ宮の"ブラジレイロ"に、よくコーヒーを飲みに来ていた。日本人ばなれがしていたな。ヨーロッパ人というんではなく、インド人、あるいは南方の外人といった感じだった。顔色は浅黒くて、くすりのせいか、色つやはわるかった。一度も話しかけたことはなかったが……」》

《花隈の華岳邸には、おびただしい蔵書があった。常一朗さんが『神戸新聞』(昭和四十九年一月二十五日)に書かれた文章によると、地理・宗教の本が最も多く、アメリカの東洋学者グリフィスや、ドイツの東洋学者ル・コックの大著述もあり、イタリア中世の宗教画家ジォットーやアンジェリコ、イギリスの詩人・画家ブレークの画集を座右にしていたという。日本人の詩集も多く川路柳虹・千家元麿・日夏耿之介・萩原朔太郎・竹内勝太郎・宮澤賢治などの詩集が目立ち、そのかわり小説類はほとんどなく、あってもほとんど開いてなかったそうである。》

宮澤賢治の詩集があったというのは気になる。華岳の歿年が昭和十四年、賢治は昭和八年歿、生前の詩集は『春と修羅』(一九二四年)だけだから、ほとんど売れなかったというこの詩集を華岳は持っていたのか?

《制作・読書・思索に疲れると、華岳は散歩に出る。花隈の坂を元町のほうへくだって、洋書などを輸入し寿岳文章『ブレイク書誌』などを出版した"ぐろりあ・そさいて"[ママ]に必ず立ち寄り、ロゴス書店や骨董屋をのぞき、画集・宗教書やインド・中近東の工芸品をしきりに買った。そのとき一服するのが元町一丁目に近いコーヒー店"ブラジレイロ"で、常一朗さんもよくつれていってもらったという。百艸さんはそんな日の華岳を見かけたわけである。》

華岳の暮らし振りは理想的ではないか。


岸百艸『百艸句稿 朱泥』
http://sumus.exblog.jp/11588991/

『書彩』第九号(百艸書屋、一九六〇年五月)
http://sumus.exblog.jp/6368808/

『書彩』3
http://sumus.exblog.jp/11652790/
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by sumus2013 | 2013-11-05 20:40 | 古書日録 | Comments(2)

クリップ

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『クリップ』(杜陵高速印刷株式会社出版部)の創刊号(一九八一年八月一日)および2号(一九八一年一〇月一日)を某氏より頂戴した。杜陵高速印刷株式会社出版部が刊行していた文芸誌(と呼んでいいだろう、この二冊に限ってはPR的な記事は見られない。強いて言えばカラー口絵や本文の印刷が見本代わりになるのかも知れない)。発行人の西野利夫は二〇一〇年の時点で同社の会長である。岩手県立図書館は十七号(一九八六年一一月)まで所蔵している。

創刊号の表紙は松本竣介のデッサンで、巻中にも竣介のデッサンが特集されている。カラー口絵「少女」も竣介の作品(とされているが、竣介らしくない筆致のようにも思える)。二号は表紙・口絵ともに原精一である。どちらも岩手県にゆかりの画家である。執筆者もおおむね岩手県の出身者か関係のあった人達だ。深澤紅子、高橋中彌、太田俊穂、石上玄一郎、佐伯郁郎、三好京三、柏葉幸子。長岡輝子、儀府成一、岩垂弘、須知徳平、儀村方夫、森三紗、原精一、森口多里。

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森荘已池(もりそういち)宛の宮澤賢治の手紙も掲載。森の解説がなかなか楽しいもの。
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HPによると杜陵高速印刷は昭和三十四年創業だから、宮澤賢治の『注文の多い料理店』を出版した「杜陵出版部・東京光原社」との関係はないだろう。賢治が親友と設立した杜陵出版部(光原社)は民芸品店・光原社として現在も営業している。

また盛岡には杜陵印刷という会社もあり、そちらは大正十一年創業で、少々ややこしい。要するに「杜陵(とりょう)」は盛岡の書き換え(森=杜、岡=陵)だから、盛岡印刷と盛岡高速印刷と盛岡出版部が互いにまったく無関係であっても不思議はないようだ。
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by sumus2013 | 2013-11-03 21:37 | 古書日録 | Comments(2)

第37回秋の古本まつり写真2

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by sumus2013 | 2013-11-01 20:14 | 古書日録 | Comments(2)