林哲夫の文画な日々2
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カテゴリ:古書日録( 758 )

石塚友二書簡

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田舎の整理中に見つけて取り出して戻った。石塚友二の吉田達弥宛書簡。消印は昭和三十五年十一月十日。鶴俳句会の二百字詰原稿用紙にペン書き三枚。内容は献本に対する返礼である。

御高著「赤い帆前船」ありがたく拝受致しました。厚く御礼申上げます。
御作は「文学草紙」で愛読致して居りました。立派な御本となつたことを実に嬉しく存じます。

『赤い帆前船』は一九六〇年、雄文社刊行。『文学草紙』(文学草紙社→新文化)は昭和二十二年創刊で現在も継続されているようだ(洲之内徹も寄稿したことがある)。

このところ私小説は評論家の攻撃の的となつて文学市場を追はれた観がありますが、然し浅見淵氏等少数の具眼者も居られることではあり必ずしも悲観する必要はないやうに思ひます。どうぞ本当の意味の文学の為に此上益御精進下さる様祈つて止みません。それには「文学草紙」といふ大人達の集りに属される御環境もあることですし多少大袈裟ないひ方をするならば文学の神様はあなたの御精進に決して背を向けは致しますまい。流行小説には倦きたといふ読者も居ります。
 青森県の八戸に短い旅をして昨八日に帰宅致しました。御礼の遅れましたのは其為と御許し願つて取急ぎの御挨拶と致します。
   十一月九日  石塚友二

礼状というものはこういう風に書きたいもの。もらった方も嬉しいだろう。私小説を文学の神様は見離さない……石塚友二ならではの名言である。


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石塚友二『方寸虚実』

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by sumus2013 | 2017-05-07 20:59 | 古書日録 | Comments(0)

天気図と天気予報

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大谷東平『天気図と天気予報』(河出書房、一九四一年四月三〇日六版)。函から顔を出しているペコちゃんシオリ(不二家のミルキー)が欲しくて買ったようなもの。

ついでだから少し読んでみる。天気予報はどうしてできるようになったのか?

1643年にイタリヤのトリチェリー[E.Torricelli]が晴雨計を発明したが、1650年に独逸のゲリッケ[Otto von Guericke]が晴雨計の昇降が天気と関係のあることを発見した。

これが第一段階。そして天気図の作成がはじまる。

古くは1688年にハーレー[Edmund Haley]が北緯30°より南緯30°に至る赤道地帯の貿易風の吹走する状況を地図上に記入して出版したものがある。

今日の如く、同時観測を材料とする天気図は、広範囲に亘る気象観測の組織がなければ出来ない。初めて之に近いものを作つたのは独逸のブランデス[H.W.Brandes]であつた。ブランデスは各地の気圧観測を集め、それ等の中の同時刻に近いものを摘出し、これに風の観測を加へて地上図に記載して天気図を作つた。これに依り広い区域の気象配置が判り、又これが天気に密接な関係を持つことを知つた。時に1880年で、こゝに天気図を天気予報に使用する基礎が出来た訳である。

1849年には米国のヘンリー(J.Henry)が各地の気象観測を電信でもって集め天気予報を行った。グレーシャー(J.Glaisher)による天気観測がデイリーニュース紙上に掲載されはじめたのが同じ年の七月一日であったが、ただし天気図ではなく、表の形だったという。1851年の博覧会の際に初めて地図上に印刷された天気図として販売するようになったそうだ。

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そういえば、昔、あるローカルTVで面白い天気予報を放送していた。毎日、漁師だとか、農業をやっている人、その他いろいろな職種の人たちに明日の天気を予測してもらうというもの。当ったり当らなかったり、あまりこだわらないのがよかった。本書によればこういう昔ながらの天気予報を「観天望気の法」と呼ぶらしい。気象衛星の発達した今日、われわれは天を見下ろしながら予報していることになる。それでも絶対確実とはいかないところが自然の微妙さだろうか。



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by sumus2013 | 2017-05-06 21:14 | 古書日録 | Comments(0)

帝大時代の花森安治

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こちらは『花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼』(読売新聞社美術館連絡協議会、二〇一七年)より帝大時代の花森とその友人。この花森の出で立ちがさすがというファッション感覚ではないか。となりのいかにも帝大生でございという制服姿と比較すると驚くというか、あっけにとられる。

扇谷正造が『特集文藝春秋 人物読本』(文藝春秋新社、一九五七年一〇月五日)に「反俗漢・花森安治の秘密」という文章を書いている。かなり精密な伝記が出た今となって見れば、扇谷がうろ覚えと聞きかじりで書いているこの記事には間違いが多い。なかでは帝大新聞時代の思い出に価値があるように思う。

そのころの帝大新聞(現東大新聞の前身)の編集部は安田講堂の左袖のしめっぽい空地の一隅を占めた二階建てのボロボロの小屋の中にあった。二階が東大運動会で下が大学新聞編集部だった。
 ネジがすっかりバカになったドアのハンドルを押すと、十四五人は楽に囲める四角な樫の木作りの机がある。
 机の上座には三年生がズラリと坐っている。

入部を希望した何十人かのうち筆記試験でハネて、これから一人一人我々は新入部員の首実験[ママ]をするわけである。

このとき岡倉古志郎(天心の孫)と田宮虎彦と花森安治の三人が合格した。

編集会議は毎週月、金とある。会議はいつもまっ二つに割れる。片や社会科学=人生派、片や芸術=感覚派というわけで、花森君は、我我とは反対側の芸術派に入っていた。そのころの編集会議では、どんな議論が交わされたか、いまではもう忘れたが、田宮と花森の二人が故梶井基次郎氏の「檸檬」と宇野浩二氏の「子を貸し屋」を激賞し、我々は猛烈にそれを弥次[ママ]ったことだけを思い出す。

田宮と花森は神戸の雲中小学校の同級生だったが、田宮が神戸一中(神戸高校)へ花森が三中(長田高校)へ行ったことで進路が別れ、帝大新聞でふたたび一緒になったのである。「檸檬」は大正十四年に『青空』創刊号に発表された小説。昭和六年に単行本『檸檬』になり、昭和九年に『梶井基次郎全集』(六蜂書房)さらに昭和十一年には『梶井基次郎小説全集』(作品社)にも収録されている。いずれも少部数ながら読もうと思えばいつでも読める状況だった(花森の帝大時代は昭和八〜十二年)。もちろんこれらの出版を淀野隆三の熱意が支えていたのはこれまでも強調してきた通り。それにしても田宮と花森の趣味がぴったり合っていたことがよく分る回想だ。戦後、田宮の文明社を花森が手伝うことになるのも必然のように思える。




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by sumus2013 | 2017-05-04 21:19 | 古書日録 | Comments(0)

中央線古本屋合算地図

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岡崎武志×古本屋ツアー・イン・ジャパン『昭和三十年〜平成二十九年 中央線古本屋合算地図【新宿駅〜八王子駅】』(盛林堂書房、二〇一七年四月二七日、写真・デザイン=小山力也)が届いた。これはいい! 小生も〈談〉として登場させてもらっています。

まだ全部読んでいないが、今パッと開いたところにこんなことが書いてあった。水中書店の今野氏が音羽館で働いていたころの話。

岡崎 よく均一の品出ししてたもんね。ぼくはよくそこで今野くんと会った(笑)。音羽館は、表の均一棚の品出し、一日何回くらいやってた?
今野 回数はわからないけど、冊数で言ったら、平均でも百冊以上は売れていましたから。
粟生田 へえ、すごいです。じゃあ、常に入れ替えてるんだ。どんどん補充して補充してですね。
今野 もう隙あらばと言う感じで(笑)。均一をチェックするため、一日に何回も来る人もいるし、毎日寄るって方も、もちろんたくさんいます。お店が、色んな人たちの生活の一部になってる感じが、これは理想的な古本屋さんだなと。》(古本屋座談会2 水中書店・今野真×古書サンカクヤマ・粟生田由布子)

やっぱり東京だなあと思う。そう言えば、中野書店の中野智之さんからも「音羽館の均一がいいんですよ。セドリしてる場合じゃないと思うんですけどね、寄っちゃうんだなあ。申し訳ないけどいい本ありますよ」という告白(?)を聞いたことがある。中野書店そらの下(自宅兼)は同じ西荻なので神保町の店へ出勤する途中に足を向けないではおられなかったそうだ。中野書店の目録にウン十倍で載った本もあったかも…? 中央線古本屋の実力というものだろう。

「中央線古本屋合算地図」!(古本屋ツアー・イン・ジャパン)

発売予定:2017年5月3日(水・祝)
御予約は下記サイトよりお願い致します。

拙ブログの過去記事より。

読書雑誌『BOOKMAN』古書店案内

昭和三十四年の『中央沿線古書店案内図』

「阿佐ヶ谷ビンボー物語」

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by sumus2013 | 2017-05-02 21:52 | 古書日録 | Comments(2)

古書研創立40周年 春の古書大即売会

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口笛文庫の洋書コーナー


九時過ぎに家を出ると小雨がパラついていた。自転車でえっちらおっちら、まず扉野氏宅へ届け物をし(このとき扉野氏は今日がみやこめっせ初日だということを忘れていた、オーイ、大丈夫か〜)、会場に着くころには雨も上がった。十五分ほど前だったため開門の行列に並ぶ。並んだのは久し振り。

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みやこめっせは雨風埃を気にしないですむのはいい。人の少ないうちに目当てのブースを物色。竹笹堂さんの伝統ある木版画実演(四日まで毎日、一日二回開催)をちらりとのぞく。いい本はいろいろあって目移りはしたのだが、とくに目を射るようなブツに出会わない。なんだか悔しくてぐるぐる会場をまわっているうちに混雑してきた。そろそろ出ようかと思っていたらマン・レイさんに誘われたのでお仲間とともに四人で昼食を。小一時間雑談して別れる。

誠光社へ。念のため先に花森トークのデータを渡しておく。京都国際写真祭が市内各地十六ヶ所で開催されている(五月十四日まで)。そのパスポートをもらっていたので(深謝!)帰り道にいくつか立ち寄る。嶋臺ギャラリー(ハンネ・ファン・デル・ワウデ展)、誉田屋源兵衛竹院の間(ロバート・メイプルソープ展)、誉田屋源兵衛黒蔵(イサベル・ムニョス展)、無名舎(ヤン・カレン展)。メイプルソープ展のみ無料。いずれも古い伝統建築をうまく使った展示会場になっている。写真も悪くないが建物を見られるが素晴らしい。誉田屋源兵衛の建物はじつに堂々たるもの。

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会期中に残りの会場もできるかぎり回るつもりだ。

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by sumus2013 | 2017-05-01 20:26 | 古書日録 | Comments(0)

暮しの手帖社の書皮?

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京都・誠光社での花森トークも近づいて来た(5月5日)。本日は少しおさらいをしておこうと準備していた。今回で四度目(神戸・伊丹・目黒に続いて)ながら毎回内容は変ってくる。話をするたびに削るところや増やしたい項目が出てくるのだ。もちろん中心の興味は花森のデザインや装釘におけるルーツを探すということで変らない、が、どこに比重を置くか、それが徐々に変化していく。

目黒の聴衆は、みなさん濃〜い方ばかりだったので、反応を心配したのだが、どなたにも満足してもらえたようでひと安心した。それを自信に京都でも存分に語りたいと思っている。連休中でいろいろとお忙しいでしょうが、もうこれが最後の花森トークになるやもしれません、ぜひともご来場を。午後七時からです。

ということで、何か花森に関するブツはないかと考えながら、ふとPCの後ろの壁に目をやった。暮しの手帖社の書皮が留めてある。背が焼けている。おそらく誰かが暮しの手帖社の封筒を四六判の本にちょうど合うように切ってカバーにしたのだろうと思っていた。これをどうして持っているのか……忘れてしまった。何かの本に付いていたか、あるいはどなたかに頂戴したのだったか。

じっと見ていて、おや? と思った。「美しい暮しの手帖」と書いてある……これは、ひょっとして珍しいのか。『花森安治装釘集成』を開くと、237頁に「暮しの手帖社専用封筒 表・裏」として掲載されている。また世田谷の図録を開くと、160頁に《暮しの手帖社の封筒/2000年頃に使われていたもの。/デザイン:花森安治 1969年》と書かれている。どちらも図案のなかに書かれている文字は「暮しの手帖」である。「美しい」はない。

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『花森安治装釘集成』より


なんと! これは発見だ。この書皮がこうしてここに存在するのだから図録の説明文《デザイン:花森安治 1969年》は明らかにおかしいことになる。どうしてかというと『美しい暮しの手帖』という名前は一九五三年の第一世紀第二十一号までしか使われていないからである。まあ、百歩譲って封筒にデザインしたのが一九六九年だとしよう。しかし図案そのものは「美しい」時代に作られたことはまず間違いない。としたら、案外ほんとうに書皮だったのかも、あるいは包装紙だったとか?(封筒として用いるには紙が薄いような気がする)

目の前に半年以上貼ってあったのだが、まったく気付かなかった。何事も身近なものをよく観察することが大切だなあ。

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by sumus2013 | 2017-04-30 20:26 | 古書日録 | Comments(2)

漱石山房

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漱石のことを書かなくてはいけなくて、書くつもりもなかったので資料もほとんどないのだが(漱石についてはあらゆることが書かれているし、さほど興味もないのだが、つい引き受けてしまった)、たまさか漱石が使っていた印章について少しばかりコピーなどをまとめて保存しておいた。その袋を久し振りに開いてみると、ハラリ、「漱石山房」印のカラーコピーが出てきた。

この印について松岡譲は「印譜を読む」(漱石全集月報第十一号、一九三六年九月)に以下のように書いている。[〜〜は繰返し記号の代用]

この大きな石印の印文は誰にも讀める「漱石山房」。刻者は天地庵主人。初めの頃には先生自慢のものらしく、蔵書に堂々と捺すのが嬉しかつたのであらう、小宮さんあたりを動員して捺した形跡があるのであるが、それよりももつと面白いのは森田さんに「緑萍破處池光浄」といふ大字の横額を書いてやつて、この印をべたりと捺して居るのは、当時よく〜〜これを捺すのが嬉しかつたものと見える。明治四十年頃の事で、まだ毛氈がなかつたらしく、字には畳の目が浮き出して居るといふ特製品だ。

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『別冊太陽 夏目漱石』(平凡社、一九八〇年)より


また古川久「漱石印譜雑記」(『夏目漱石遺墨集別冊』求龍堂、一九八〇年)にはもう少し詳しい説明が出ている。

明治四十二年四月三日の内田魯庵宛書簡に、「文学評論と申す本を春陽堂より出版致候につき一部御目にかけ度小包にて差出候間御落手被下度候 背の字と石摺様の文字は浜村蔵のかけるもの漱石山房の印は大直大我といふ爺さんの刻せるものに候」とある。印文は本の前扉に刷られていて、大いに人目をひく。

この大我先生から青田石を三個八円五十銭で売りつけられ、その上、菅虎雄にもらった印材への彫り賃として十二三円とられたと菅虎雄への手紙(明治四十年二月十三日)で報告しているから「漱石山房」の大きな石(約七センチ角)は菅からのプレゼントだった(菅は当時南京の三江師範学堂に勤めていた)。

なお某氏は篆刻の専門家なのでこの印についてはなかなか手厳しい意見を述べておられる。

篆刻の常識からすると、妙な印面構成です。誤字になって了うところもあるし、結体もダラ〜〜、おまけに(筆でかくと)涸筆になるところにカスレの細かいスジが入れてあります。奇ばつというかふざけているというか。刻者(天地庵主人とあるがどういう系統の刻者かわからない)の工夫?なのか 漱石や、そのとりまきの誰かの発案なのか。

明治四十年頃の漱石はまだまだ文人趣味については初心者に過ぎなかった。明治三十九年の『草枕』では美術知識をひけらかしているけれどどうやら教養の範疇だったようだ。大我先生のいいカモになったのもその浅さを見透かされたのかもしれない。ただし作家としての成熟とともに趣味もだんだん本物になって行く。とくに明治四十三年に死の淵に立ち、かろうじて引き返して来て以降、そして四十四年に訪ねて来た津田青楓と付き合うようになってから、その美術や古美術への関心や鑑賞はひときわ深化したようだ……とそんなことを書こうか書くまいか、迷っている。

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by sumus2013 | 2017-04-28 21:02 | 古書日録 | Comments(0)

曖昧な物言い

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ジャン・ポーラン(Jean Paulhan)『les incertitudes du langage』(idée nrf, 1970)を読んでいるのだが(本書には邦訳がないようなので仮に「曖昧な物言い」としておいた。直訳調なら「言語の不確実さ」)、そのなかに現今のきな臭い情況を皮肉るのにぴったりの発言があった。引用しないではいられない。下手な訳文はお許しを。このインタヴューは一九五二年にラジオ・フランセーズで放送された。

聞き手のロベール・マレ(Robert Mallet)が「第三次世界大戦についてどう思われますか?」と尋ねると、ポーランは次のように答えている。彼は基本的に戦争はそれまでの二度のように(第一次と第二次大戦を指す)不条理には勃発しないと考えている。

《ここ何年か、皆が皆、そんなことを言っていますね。でも私はそうは思いません。理由はこうです。
 子供の頃、近所のふたりの男が路上で話しているのを見かけました。一人はもう一人に向って言いました。
「おまえさんは、あれやこれやをやっただろう。下司野郎(mufle)だな」
もう一人は答えました。
「下劣(salaud)なのはおまえさんだよ」
私は思いました、二人はすぐにも決闘するんじゃないかと。それをどうやって見物しようかと馬鹿みたいなことを考えたんです。八日後、二人はまた出会いました。
「おやおや、この哀れな野郎(ce triste personnage)が」
と一人は言いました。
「なんじゃ、アホ(petit imbécile)が」
ともう一人は言いました。さらに十五日後。またもや二人は罵り合いました。
「ばあ〜か(Idiot)!」
「鼻持ちならん奴め!(Paltoquet)」
その頃には鼻持ちならん奴(paltoquet)などと言っていたんですな。一週間が経つと、また同じことが起こりました。私は、あっけにとられたんです。そしてやっと分りました。あの人たちは絶対に殴り合いの喧嘩はしないなと。どうしてなら、毎日のように喧嘩してるからです。それでまったく満足なんですよ。
 ある大使が不注意にも別のある大使の足を踏みつけたという理由で宣戦布告する、今はもう、そういう時代じゃないでしょう。》

非常識で理屈に合わない命令(ordre d'absurdités et de mauvais raisonnements)によって戦争は起きないだろう……そうジャン・ポーランは語っているわけだが、さてそれから六十年以上が経って、必ずしもそうとは言えないような事態が迫っている。何しろ salaud、idiot、paltoquet たちを誰もがその頭にいただいている時代なんだから(人ごとじゃない)。

今宵はとにかくポーランのような常識を多くのフランス人がまだ持ち合わせていることを祈りたい。


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by sumus2013 | 2017-04-23 21:43 | 古書日録 | Comments(2)

パリ美術館ガイド

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GERMAINE BARNAUD『GUIDE DES MUSÉES DE PARIS』(ARTS ET MÉTIERS GRAPHIQUES, 1968)。著者のジェルメーヌ・バルノーについては詳しくは分らないが美術官僚のようで一九八八年に亡くなっている。

ある古書店にて。500と巻末ページに鉛筆で値段が書かれていた。少々高い。パリで買うなら1ユーロかせいぜい2ユーロじゃないと……。どうしようかな、と思いつつ表紙から見直しているとこんな書き入れが目に留まった。

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これなら安いや、ということで帳場へ。念のため尋ねる。
「これ、いくら?」
主人は表紙を開いて書き入れを見つけこう答えた。
「杉本秀太郎さんの旧蔵書やね……千円」
「千円! 裏に500って書いてあるけど」
少々意地悪とは思いつつ異を唱える。
「え、あ〜、これは……サインを見落としてたなあ」
ということでめでたく五百円にて落掌。

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このような二つ折の「クロード・モネと仲間たち」展の案内状(マルモッタン美術館)が挟み込まれていた。一九七一年六月から展示が開始されたモネの息子ミシェルおよびドノプ・ド・モンシー夫人から同館に遺贈された作品群である。おそらく杉本さんもこの展示を見たのであろう。

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by sumus2013 | 2017-04-13 21:10 | 古書日録 | Comments(0)

ブリダンの驢馬

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花田清輝『復興期の精神』(我観社、一九四六年一〇月五日)。前から手に入れたいと思っていた一冊。本日、ひょこり現れた。この本については以前少しだけ触れた。

小沢信男『捨身なひと』〜花田清輝『復興期の精神』

ここで「ブリダンの驢馬」から「ポアール」について引用したのだが、今回は表題の「ブリダンの驢馬」(普通は「ビュリダンの驢馬 paradoxe de l'âne de Buridan」)という逆説について紹介してみたい。その昔『復興期の精神』を読んでいちばん印象に残ったのはこのくだりだからである。花田はこう書いている。

《砂漠の中のオアシスのように、乾燥したスピノザの著作のそこここにばら撒かれている比喩のなかで、これは「石」のばあいとちがい、まったく人口に膾炙していない「ブリダンの驢馬」というのがある。ーーブリダンはいった、驢馬には自発的な選択能力がないから、水槽と秣桶との間におかれると、どちらを先に手をつけていいものかと迷ってしまい、やがて立ち往生して、餓死するにいたる、と。》(講談社文庫版より)

「石」のばあい……は石に意識があったとすればどうなるか? というこれまたやくたいもない論争を指す。秣(まぐさ)とあるところフランス語のウィキによればひと盛りの「からす麦」(一八五一年刊のフランス俚諺集による)。どちらにしても食物と水とどちらから始めようか決めかねてどちらも摂れずに死んでしまう驢馬の比喩である。優柔不断の極みとも言えるし、あるいは「中庸」の弱点を衝いた説だとも言える。

ジャン・ビュリダン(Jean Buridan、1295年頃 - 1358年)という過激な唯名論を唱えた聖職者が言い出したのでビュリダンの驢馬のパラドクスと呼ばれるが、これはあくまで伝説で、残された著作のなかには見えない。ビュリダンはオッカムのウィリアムの生徒であった。しかし後に師とも対立するようになる。唯名論というのは、例えば驢馬というとき一般的な「驢馬」という存在を認めず、個別の驢馬の集りとみる考え方。

ビュリダンには淫蕩なフランス王妃に招かれネスルの塔から袋詰めにされてセーヌ川に投げ込まれたという伝説もある。ネスルの塔(la tour de Nesle)は高さ二十五メートルもあったそうで王妃(誰なのかは不明、フィリップ・ル・ベル王の妻かという)はいつもここで逢引きをして相手の男をその度ごとにセーヌ川に流していたという。この話は有名だったらしくジャック・ヴィヨンも「そのかみの貴女を歌へるバラード Ballade des Dames du Temps Jadis」で引用している。

  同じくいづくぞビュリダンを
  袋にこめてセーヌ河に
  投ぜよとこそ宣りし女后も。
  さあれ古歳の雪やいづくぞ

花田は「楕円幻想」(ヴィヨン)でも「ブリダンの驢馬」に触れこの部分を次のように訳している。

  さらに
  ブリダンを袋に封じ
  セーヌに流せし
  女王いづこ
  さあれ
  去年[こぞ]の雪いまいづこ


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この本にはこんな真善美社の出版案内の栞が挟んであった(二つ折両面印刷、タテ24.5cm)。実は『復興期の精神』第二版は真善美社の処女出版として一九四七年二月に刊行される。これも貴重だ。田村書店のレッテルが栞に貼ってあるのも珍しい例ではないか。他にもう一枚、入場券も挿まれていた。

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「新日本文学会議講演会 伝統と現代芸術」、講師は岡本太郎、花田清輝、杉浦明平。豊島公会堂で11月17日(水)に開催されている。何年の十一月か? 豊島公会堂は一九五二年に開館、また花田が『新日本文学』の編集長だったのは一九五二年から五四年の間である。そして何より十一月十七日が水曜日なのは一九五四年だ、ということで昭和二十九年の講演会だと推定しておく。三越池袋店は二〇〇九年五月閉店、現在はヤマダ電機本店になっている。


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by sumus2013 | 2017-04-12 21:51 | 古書日録 | Comments(0)