林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:古書日録( 776 )

古河力作の生涯3

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岸田劉生「童女像(麗子花持てる)」(一九二一年)。学生の頃、この麗子が持っている花の名前が知りたいと思っていたところ、たまたま植物に詳しいと自慢する友人ができたので、力試しに「この花なんだ?」と質問をぶつけてみた。彼によれば「これはダリアの一種ではないかな」という返事だった。なるほどダリアと言われればダリアに見える。そして、ダリアは大正時代にはもう一般的な花だったのだな、と感心したことも覚えている。

『古河力作の生涯』によれば、力作が神戸の永井草花店を辞めて上京し印東熊児経営の康楽園(北豊島郡滝野川村一三二番地)に務め始めたのは明治三十六年十一月である。印東熊児の父玄得は嘉永三年紀州新宮の生れ(坪井氏の出)、東京で医学を修め明治十一年に新宮に戻って開業医となった。熊児は明治四年四月七日生れ。ドイツのブラスラウ大学農学部で花卉栽培を学んだ。明治三十六年に帰朝。滝野川に康楽園を開いた。力作は開園の年に入店したということになる。

敷地千数百坪、宏大な苗圃や栽培花壇をもつ有名な店で、店主の印東熊児は、西洋草花栽培の草分けといわれ、ダリアの権威であった。

あるいは、出張して庭園の手入れをする力作に対して顧客がこんな声をかける小説的なシーンもある。

「古河先生……こんどはひとつ、ドイツ産のダリアをわが庭に植えてみてください。ダリアは何といっても、印東先生の金看板じゃでのう」
 老伯爵は花を愛するがゆえに、小躯の力作に微笑をなげたかもしれぬ。大八車をひく小男が、小さな胸の中に、どのような闘志を培っていたかは知るよしもなかった。》(七章)

小躯、小男と、水上はどこまでも小柄にこだわっている。

印東熊児の著書『西洋草花』三版の部分コピーを某氏より頂戴したので参考までに掲げておく。初版は明治四十一年九月二十四日、再版が明治四十二年五月五日発行。国会図書館で検索すると本書は図譜とともに二冊である(明治四十四年版の図譜はデジタルコレクションで閲覧できる)。三版は二円もしている(現在の価値ならおそらく一万円以上だろうか)。

この本の目次を眺めていると、すでにこの当時、たいていの西洋草花は出そろっていることが分る。問題はダリア(目次では「ダーリア」)がどうなのか、ということである。本文のコピーはないので目次だけから判断するのだが、花は五十音順に配列されており、ダーリアは本文六四頁、そしてその次のヂギタリスが七七頁となっている。要するにダーリアには十三頁が割かれているという単純な計算になる。これ以外は目次で見る限り、各花ごとに一頁から二頁の説明で済ませていることから判断すれば、ダーリアが「金看板」だったというのは間違いではないようだ。

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印東熊児著『西洋草花』服部書店+文泉堂書房
明治四十四年四月十日増訂三版・表紙



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同書口絵「康楽園・景之一部


康楽園は大正三年に閉園したとのことであるが、岸田劉生が描いているように、熊児が普及に力を注いだダリアは日本人にとってなじみ深い西洋花のひとつとなった(日本に初めて持ち込まれたのは天保十三[1842]年)。

ついでに書いておけば、大逆事件の一斉検挙が始まった明治四十三(1910)年五月、岸田劉生は白馬会第十三回展(五月十二日〜六月二十日、上野竹之台陳列館)に九点の作品を並べていた。劉生十九歳(明治二十四年六月二十三日生)。同じ六月生れの力作は二十七だった。処刑は翌四十四年一月二十四日である。

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by sumus2013 | 2017-08-13 21:48 | 古書日録 | Comments(0)

古河力作の生涯2

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『月の輪書林古書目録9 特集 古河三樹松散歩』(月の輪書林、一九九二年六月)。二十五年前の発行とは! 表紙写真に写っているのは向って左前列から岡本潤、古河三樹松、百瀬晋、宮山栄之助、飯田徳太郎、植村諦(巻末の解説によればこれでいいはずだが)。後列左から岡本潤の恋人H・G、もう一人の女性(ともに芝浦の単式印刷のタイピスト)、学生服の人物は不明のようだ。平凡社の『大百科事典』刊行時のある日ということで昭和七、八年頃。

目録巻頭に小柄だったことについての三樹松氏の回想が引用されている。『素面』(昭和三十七年)に掲載された「小男の得」。

私の家系は若狭の旧家に有り勝ち従兄妹同志の血族結婚が、五代も六代も続いた結果が矮人になった由で、私の兄も妹も同様に小さかった。十才で上京する時には汽車賃は勿論ロハ。五才位に見える樣に仕立てられたのに、途中の駅名を読んだりするので連れの大人が閉口したといふ。十三、四才でも友達に背負はれて映画館はロハ、十五、六才まで女湯に入っても怪しまれなかった。

大正大震災で都落ち大阪の仲間を訪ねると、表は刑事が張り込んでゐて、東京から逃げて来た主義者は片ぱしから検挙する方針だったのに、廿三才の私を子供だと思って見逃してしまった。国事犯?で牢屋入りした時には掛けられた手錠がスッポリと抜けて看守を弱らせたし、他の囚人は蒲団や着衣が短いので素足が出て寒中でふるへてゐる時でも、私の手足は充分に包まれてゐて助かった。

たしかに小柄だったことは間違いないようだ。ただそれが思想的にどれほど影響したのか、そう簡単に結論付けられることでもあるまい。

水上勉は『古河力作の生涯』で力作が監獄で精読した聖書について書いている。力作の雇い主であった滝野川康楽園の主人印東熊児(園芸家でクリスチャン)が獄中の読書にと差し入れたタバコ箱大くらいの豆聖書である。

いま、その聖書が、私の手許にある。黒色の皮表紙のカバーがついている。New Tastament & Psalms と金の押し判があり、背には「新約全書 詩篇付」と同じく金文字が押してある。見返しに、黒字で、
『基督は禁欲主義に非ず。自然に従ふ充欲主義なり。
 基督は無抵抗主義に非ず。強烈な抵抗主義なり。恰も空気の如し。
 基督は無神無霊魂論者なり。
 基督は熱烈火の如き革命家なり。
 噫偉大なる哉。基督、彼は労働者なり。
 基督をして現時に在らしめれば必ず無政府共産主義者(以下不明)
とかなりな太字で書かれている。力作が獄中で誌したことはあきらかである。「米国聖書会社」発行の扉裏には「古河」の丸判が捺されている。》(十五章)

この描写からは特定できないが、『新約全書 詩篇付』というのは米国長老教会派遣の宣教師ヘンリー・ルーミス(明治五年初来日、十四年再来日、大正九年軽井沢で死去)が刊行した明治三十七年版(初版、四六判)を縮刷にしたものだったのだろうか? 水上勉は力作による線引きや欄外の書き入れが多数あることに触れながら、心に残る一章節として路加伝第十九章「ザアカイの章」をわざわざ取り上げている。

イエス、エリコに入てすぎゆくとき、ザアカイと云へる人あり。みつぎとりの長にて富める人なり。イエスは如何なる人なるか見んとおもへども、身の丈ひくければ、大衆[おほぜい]なるによりて見ることを得ず。彼を見んとてはしりゆき桑の樹にのぼれり。》(水上の引用しているまま)

やはりここでも身の丈の低いというところだけに反応しているのだ。しかも、力作は水上の引用箇所には何の印も施さず、この章の終部、『既に近づけるとき城中を見て』から数行にわたって傍線をひき、欄外に細かい感想を述べていると書かれている。ところが水上はそこは無視してこういうふうに締めくくる。

力作がこの章に眼をとめた心奥に、おのれをザアカイに重ねてみた一瞬がなかったであろうか。

要するに背が低いというところに自分を重ねたからこの章に注目したと言いたいわけである。ただし、水上があえて(?)触れなかったルカ伝第十九章の終部には以下のような記述がある。イエスがオリーブ山で弟子たちに垂訓した後、エルサレムへ入城するくだりである。四十一節以下(引用は架蔵の『新旧約聖書』米国聖書協会、大正三年)

既に近づきたるとき、都を見やり、之がために泣きて言ひ給ふ。『ああ汝、なんぢも若しこの日の間[うち]に平和にかかはる事を知りたらんには然れど今なんぢの目に隠れたり。日きたりて敵なんぢの周囲[まはり]に塁をきづき、汝を取り囲みて四方より攻め、汝と、その内にある子らとを地に打ち倒し、一つの石をも石の上に遺さざるべし。なんぢ眷顧[かへりみ]の時を知らざりしに因る

と宣言し、イエスは城中に入り寺院で商売をする商人たちを追い払う。革命のスタートである! 眷顧とあるところ英訳では「visitation」すなわち「(神などの慰め・助け、または苦痛・罰をもっての)訪問;天恵、恩ちょう、祝福(divine favour);天の配剤、天の怒り(divine dispensation, divine wrath);天罰のような事件[経験]、災やく、禍(calamity)」(『新英和大辞典』研究社辞書部、一九六〇年第四版)であって厳しい迫害が待っているぞと予言していることになろう。

力作がこの部分に線引きをし、感想を記すのは当然だ。あまりにも力作たちの置かれた情況にびったりあてはまるではないか。もし自分を重ねたとしたらザアカイではなく、イエスの弟子またはイエスその人ではないだろうか。

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by sumus2013 | 2017-08-12 21:29 | 古書日録 | Comments(0)

第30回下鴨納涼古本まつり

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下鴨の初日。もう三十回にもなるのか、早いものだ。今年は百円均一テントはなし。やっぱり寂しい。それでもあちこちで三冊五百円コーナーができているので、買う気になればガツガツいけそう。「今年はどこが穴場なんでしょうね?」などという話題も出たが、正直分りかねます。初日を見た感じ、また何人かの古本者の意見を聞いてみたところ、石川古本店のカタログ200円均一が一番じゃないか、という結論だった。どこか大阪の画廊の旧蔵だったのかもしれない。一九七〇〜八〇年代あたりの画商系作家の図録が多かったし、海外のギャラリーが発行したカタログも少なくなかった。マチスの分厚い図録(オランダの展覧会だったか)があって、その厚さに躊躇して目を離している間に誰かに抜かれた。それでもジャック=ヴィヨン、キュビスム、池田満寿夫、麻生三郎、坂田一男を確保。いずれもツカ五ミリ以内の薄いものばかり。

拙著『古本屋を怒らせる方法』があった。思ったより高かったので見送ったが、安ければ欲しかった。

第30回下鴨納涼古本まつり

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by sumus2013 | 2017-08-11 20:43 | 古書日録 | Comments(2)

古河力作の生涯

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水上勉『古河力作の生涯』(文春文庫、一九七八年一月五日)読了。雑誌『太陽』に連載された後、平凡社から一九七三年に単行本として刊行されている。大逆事件については大雑把な理解しかなかったのだが、今更ながら本書を読んでその全体像がかなりはっきり判ったような気がする。ただ、水上勉の書き方(事件に関する出来事などについての解釈の仕方)には賛同できない部分も多く、とくに古河力作の身長が小さかったことをことあるごとに強調しているのは気に入らない。小柄だということは、もちろん人生を決める上で非常に重要なファクターであろう。しかし何でもかんでも小柄のせいにするというのはいかがなものか。

慈母の許で、力作は不自由なく育った。ただ、一つだけかなしみはあった。友達はみな背丈がのびてゆくのに、自分だけはのびない。かなしみは根を張った。次第に、友達づきあいもしなくなった。山や川や草木と話しあう子供になってゆくのである。足もとにころがっているようなありふれたことにも、ほかの子とちがった、奥深い考えをめぐらせる子に育ったのは当然である。環境がそうさせてゆく部分もあるが、力作自身が芽ぶかせた感受性の成長である。》(二章)

あまりにも恣意的なロマンチックな描写である。だいたいその背丈が何尺何寸だったのか、本書には記されていない(と思うのだが?)。それは一四〇センチ足らずとも言われているものの、ただし明治初期の日本人男性の平均身長は一五五センチ、女性は一四五センチだった。大正にかけて一〇センチほど増えていくことになるが、明治十七年(六月十四日)生れの力作である、一四〇センチだったから性格が歪むほど飛び抜けて小さかったとも言えないだろう。

力作が雲城校(雲浜小学校)高等科を卒業したのは明治三十二年三月。その卒業写真を描写しているくだりはこうである。

校舎前に椅子を積んで四段にならんだ生徒は二十一名、うち女子二名。九名の教師が前列に腕を組んだり、膝上にこぶしをつくったりして、ならんでいる。力作は左手二列目の二人目にいる。小躯なのですぐわかる。どの生徒も高等科卒業故に、十六歳の年恰好を示して、肩を張っているが、力作だけは小さく、ひきしまった顔で、みなのうしろに立っている。この顔は誰よりも童顔、丸顔である。立縞の袷に共生地の羽織、胸に高く、紐をむすんでいる。つまり、この日に、力作は、一寸法師、小人と渾名された屈辱の学窓八年の生活から解放された。三樹松氏の記憶だと優秀な成績だったというから、おそらく賞状を貰っての卒業だったと思われるが、》(四章)

これも不思議な描写である。生徒二十一人が四段に並ぶと一列五人か六人、前に先生が九人並ぶという構図はおかしくないか? 生徒が三段(一段七人)先生が前列と考えた方がいいのかもしれない。すぐわかる小躯なのに《みなのうしろに立っている》というのはどういうわけだろう? 写真を見れば一目瞭然なのだが。《十六歳の年恰好を示して》としてあるところ、明治十七年生れなら力作はまだ満十五歳になっていない。

それからこれは弟の古河三樹松が抗議していることだが、事件後判決が下りて後、幼い弟(十五歳下)の三樹松と妹のつなが特別の計らいで市ヶ谷の東京監獄において面会の機会が与えられたとき、力作の背が低くて弟と妹には兄の顔が見えなかった、と水上が書いているのは大嘘である。

と建物と建物のあいだに腰板を張っただけの屋根ふき廊下があり、その廊下を動く編笠がみえた。さあ、兄さんを早くみなさい、と看守は指さした。三樹松とつなは、背のびしてみようとするが、兄の姿はみえず、ただ、編笠が、腰板の上をうごくだけで、やがて、それは建物に吸われてみなくなった。(十四章)

三樹松氏はこう記憶している。

そこから三メートルほど奥に、横に板敷の廊下が走っているのが見えました。
 そこに、左手の方から前後を看守に警護された力作が腰なわ付で姿を見せ、編笠をあげるようにしてこちらに顔を向けながら通り、私たち弟妹の姿を見返りつつ、無言で右手の方へ歩き去ったのです。
 私たちも、はっきりと兄の顔を見ました。》(『大逆事件ニュース』二七号、大逆事件の真実をあきらかにする会、一九八八年一月二三日)

三樹松氏はこの通りのことを水上勉に話したと言っている。まさに芝居の演出、捏造だ。この一事だけをしても『古河力作の生涯』を鵜呑みにする危険が強く感じられるのである。あるいは「伝」でなく、あくまでフィクションとして読んでおく方が無難だとも思えるのである。


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by sumus2013 | 2017-08-10 20:59 | 古書日録 | Comments(0)

レッテル新収

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少し前になるが、珍しいレッテルを頂戴した。最近あまり古書レッテルの収穫がなかったので嬉しい。送って下さった方のコメントを引用しておく。

ささま315円均一の一冊に貼られていたもお。阿佐谷となると、少なくとも昭和50年代の後半以降、古書店あるいは新刊書店でも「春光堂」という書店名には記憶がありません。品揃えはよさそうな気配のするシールです。「中央線古本屋合算地図」フロクの昭和30年代地図にも見えないようなので、あるいは昭和20年代でなくなってしまったのでしょう。

昭和三十四年版 中央沿線古書店案内図


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もう一枚、こちらは東大赤門前。

本棚の裏から(笑)出てきましたが、何を買ったかまるで覚えていません。そもそも本郷の古本屋には数える程しか行ってないので、あるいは古書展ではなにか買ったのかも知れません。


本郷の古本屋と言えば梶井基次郎「泥濘」である(以前にも引用したが、いま一度)。大正時代末頃。大山堂はすでに営業していたのだろうか。

買ひ度いものがあつても金に不自由してゐた自分は妙に吝嗇になつてゐた。「これを買ふ位なら先刻のを買ふ」次の本屋へ行つては先刻の本屋で買はなかつたことを後悔した。そんなことを繰り返してゐるうちに自分はかなり参つて来た。

古本屋と思つて這入つた本屋は新しい本ばかりの店であつた。店に誰もゐなかつたのが自分の足音で一人奥から出て来た。仕方なしに一番安い文芸雑誌を買ふ。なにか買つて帰らないと今夜が堪らないと思ふ。その堪らなさが妙に誇大されて感じられる。誇大だとは思つても、そう思つて抜けられる気持ちではなかつた。先刻の古本屋を亦逆に歩いて行つた。矢張買へなかつた。吝嗇臭いぞと思つて見てもどうしても買へなかつた。雪がせはしく降り出したので出張りを片付けてゐる最後の本屋へ、先刻値段を聞いて止した古雑誌を此度はどうしても買はうと決心して自分は入つて行つた。

然しそれはどうしても見付からなかつた。さすがの自分も参つてゐた。足袋を一足買つてお茶の水へ急いだ。もう夜になつてゐた。

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by sumus2013 | 2017-08-07 19:46 | 古書日録 | Comments(0)

旅する巨人

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佐野眞一『旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三』(文藝春秋、一九九七年二月一五日二刷、装丁=坂田政則)読了。平安神宮の東側にあるブックスヘリング、やっと店頭の均一台にいい本を出し始めた。一冊三百円(二冊なら五百円)という感じ。その気になればできるじゃない、と喜んで二冊ほど買ったうちの一冊がこれ。佐野氏には『spin05』で海文堂書店でのトークを掲載させていただいたこともある(その日の二次会をご一緒しました)。このトークのなかでも宮本常一の発見について語っておられる。

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「宮本常一と渋沢敬三」とあるように本書は宮本にとっては恩人(パトロン)であった渋沢敬三の事蹟についても十二分に触れられており、渋沢栄一の孫として生まれたプレッシャーのなか敬三が大きな人物へと成長する過程にも読み応えがある。宮本が活字になった初めての本『周防大島を中心としたる海の生活誌』(アチック・ミューゼアム彙報、一九三六年三月)を出してから二人の行き来は頻繁になったという。そのとき渋沢は宮本にこう語った。宮本二十九、渋沢は四十だった。

大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況をみていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしまう。その見落とされたもののなかにこそ大切なものがある。それを見つけていくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。人がすぐれた仕事をしているとケチをつけるものも多いが、そういうことはどんな場合にもつつしまねばならぬ。また人の邪魔をしてはいけない。自分がその場で必要を認められないときは黙ってしかも人の気にならないようにそこにいることだ」
 渋沢の言葉は宮本の心に強くしみとおった。》(第三章 渋沢家の方へ)

またこうも諭したという。

日本の文化をつくりあげていったのは農民や漁民たちだ。その生活をつぶさに掘り起こしていかなければならない。多くの人が関心をもっているものを追求することも大切だが、人の見おとした世界や事象を見ていくことはもっと大切なことだ。それをやるには、君のような百姓の子が最もふさわしいし、意味のあることだと思う》(第七章 父の童謡)

これだけでも渋沢敬三がどういう人間だったか分ろうというもの。宮本の本質を見抜いてその道を示した、だけではなく、長年にわたって宮本を経済的にも援助し続けた(むろん宮本だけではなく様々な分野でパトロンとなっていたようだ)。

渋沢敬三は昭和十九年三月に第十六代日銀総裁に就任した。東条英機にサーベルで脅されて引き受けたとも書かれている。しかしこの時期すでに日銀総裁は何もできないポストになっていた。吉野俊彦『歴代日本銀行総裁論』ではこう批判されているという。

昭和二十年八月の終戦にいたるまで、従前どおり赤字国債を無制限に引きうけただけでなく、軍需融資のため必要とされた資金であって民間で調達しきれない分をこれまた無制限に日本銀行貸出の増加という形で供給しつづけたのである〉》(第九章 悲劇の総裁)

むろん政府や軍部の責任であって敬三個人ではどうしようもなかったことである(それにしても赤字国債を無制限に引き受けるというのは、いまの日銀もやっていることなんじゃないのかな?)。敬三は後年この記事を読んで実に悲し気な表情を浮かべこうつぶやいた。

僕はたしかにたいへんな罪をおかした。批判されるのは当然だ。だけど僕は日銀時代、一つだけいいことをしたつもりだ。日本を含めた東洋の貨幣のコレクションを日銀が買ったことだ。あれは将来、たいへんな日本の文化財になる。》(同前)

田中啓文の銭幣館コレクションを譲り受けたことを指す。買ったとあるが、寄贈されたようである。現在これは貨幣博物館に所蔵されている。

銭幣館コレクションと貨幣博物館の設立

コレクションを受入れただけではなく渋沢の意向で銭幣館で研究していた専門家・郡司勇夫もいっしょに雇ったという。占領下では郡司の交渉によって進駐軍による金銀貨の接収を免れた。さすが民俗学の大パトロンだっただけのことはある。コレクションとともにそれを守る「人」が大事だということを分っている。


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by sumus2013 | 2017-08-02 21:01 | 古書日録 | Comments(2)

詩草

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菊池蘭蔵藁『詩草 岐山木蘇先生批』。久し振りの漢詩集、というか詩稿を入手した(三月の三宅三郎(半聾)『片仮名付百人一詩次韻集』以来

木蘇岐山は大正五年歿、美濃の人。名は牧、字は自牧、別号に三壺軒主人、五千巻堂主人。晩年には大阪毎日新聞の詩欄を担当した。

菊池蘭蔵については『ふるさとの人物』(珠洲市、一九六八年)に略伝が出ている。ほぼ独学の人のようだが、なかなか面白い生涯を送ったようである。

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菊池蘭蔵は日清戦争に従軍したそうだから、上の「攻撃平壌之夜」「題裘」から「従王師於冰雪中墮武敏」「二月四日」「招魂」と続く諸篇はその時期に作られたのか。伝によれば戦地から郷里に送った詩稿を

木曾岐山(漢詩をよくした画家)に見せたところ、支那の大家の物したものだろうといってきかなかったという。

とあるが、もしこのノートの朱が岐山によるものと考えるなら、はたくさん付いているものの添削も甚だしいので、そこまで礼賛したものかどうか。

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「回文」と題された作があり《円転滑脱、如珠走盤、是為回文正躰/丁酉夏七月初二》と達筆の朱が入っている。丁酉は明治三十年。とすれば日清戦争(明治二十七、二十八)から三十年までの間に作られたノートということになるのであろう。

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「名 鼎」と「字 子〓[タン;髪のたれさがるさま]」と題された七言絶句。自分自身の幼少を歌ったと思われる。とすれば《壬戌予生海隅》の「壬戌」は文久二年(一八六二)である。明治三十年には三十五歳ということになる。伝には六十で歿したとあるので歿年は一九二二年(数えなら一九二一年か)。

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by sumus2013 | 2017-07-29 20:16 | 古書日録 | Comments(2)

紫水晶第13号

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佐々木桔梗発行の書物誌『紫水晶』第十三号(プレス・ビブリオマーヌ、一九六三年十二月)を頂戴した。頂戴してばかりで恐縮、深謝です。中綴じ十二頁。本文は手漉和紙(耳付楮紙)、活版刷(仁川堂川橋得三郎)、図版は別刷り貼り込み。限定130部。特集「愛書巴里・東京」と題して発行者架蔵の珍書を紹介している。ジャン・コクトオのデッサン集『おかしな夫婦 DRÔLE DE MÉNAGE』、神戸で発行されたシュルレアリスム詩誌『海盤車[ヒトデ]L'ÉTOILE DE MER』の「ポオル・エリュアール頌」(一九三二年)。近岡善次郎の『唖の画家 PEINTRE MUET』(私家版、一九五九年)、都筑道夫・真鍋博『クレオパトラの眼』(朝日出版、一九六一年)など。他に八木福次郎「荷風本二、三」の寄稿もある。

ここまで自慢できるほどの本は持っていないけれど、ちょっとこの真似をして粋な冊子を作ってみたいな、と思わせる一冊である。

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巻末「アメチスト・サロン」という雑報欄がまた興味深い。

熱田図書館で松尾禎三コレクションの「ぼく東綺譚展」/みちのく豆本から斎藤磯雄『ふらんす詩選』/水曜荘主人酒井徳男『蕎麦猪口版画集』/宮崎大学図書館で山下イワオのコレクション「一字題名本展」開催/花柳章太郎『わたしのたんす』(三月書房)/関西ライカクラブの機関誌『LEICA CLUB KANSAI』/池田満寿夫個展(日本橋画廊)パンフレット/北川冬彦詩集『蟇仙人』限定版/庄司浅水『わが愛書の記』限定版(帖面舎)……などなど。

池田満寿夫個展パンフレットに瀧口修造が寄せた詩「朝食のときから始まる池田満寿夫についての言葉」を著者は引用している(最後の部分だけ)。ネット上には出ていないようなので引き写しておく。ただし小生が適当と思うところで改行した。

………かれは鳥である。
ちょうど壁の前に降りるように
金属板の上に降りてきた鳥である
かれが鳥に似ているって?
私は似ていることを望みたい、すくなくとも。
ある行為をする鳥。恋をする鳥。ふたたび恋をする鳥。
あなたであり、私であり、同時に私たちの前にいる画家であるMであり、Iである鳥


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奥付のカットは北園克衛だそうだ。

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by sumus2013 | 2017-07-28 21:42 | 古書日録 | Comments(0)

テニスの仕方

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針重敬喜『硬球・軟球 テニスの仕方 アルス婦人叢書』(アルス、一九二四年八月一五日)を頂戴した。深謝です。これは意外な珍本かもしれない。

著者の針重敬喜(1885-1952)は山形生れ、米沢中から早稲田大学英文科に入り本格的にテニスを始めた。卒業後、読売、東京日日を経て明治四十五年に押川春浪の武侠世界社に入社。押川亡き後は実質上の社主を務めた。大正十二年に退社しテニス雑誌『ローンテニス』を発行。日本庭球協会の理事・顧問。プレーヤーとしても活躍。画家の小杉放庵とダブルスを組んだという(以上ウィキを要約)。とすれば本書は武侠世界社を辞めた直ぐ後に執筆した本ということになる。

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アルス婦人叢書だから巻頭口絵には女子選手の写真が掲載されている。テニスの歴史にはまったく不案内なのでこころもとないが、羽仁は自由学園の羽仁説子、梶川は女子の草分け梶川久子かと思う(本書には名字だけしか記されていない)。また一番多く九枚の写真が使われている黒井選手は大正十三年の第一回全日本女子選手権で優勝した学習院の黒井梯子であろう。当時の花形だった。それにしてもこのスカートの長さ……

学習院大学硬式庭球部 部の歴史

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男子では熊谷選手(熊谷一弥、大正九年アントワープ五輪で銀メダルを獲得=日本スポーツ界初のオリンピック・メダル)と福田選手(福田雅之助、大正十一年全日本選手権初代の覇者)のプレー写真が掲載されている。

テニスは最初英国で創められたものであります。只今のものとは様式が違つて居りますが、それが時を経るに従つて現在のものゝやうに変つて来たのであります。日本に伝はつたのは明治十二年頃とも云ひ、十八九年頃とも云ひ、伝へた方は東京高等師範の教授でもう故人となられた坪井玄道氏とも云はれ、又他に二三の人が数へられますが、判然した事は解りません。何れにしましても早くから東京高師、並に今の一ツ橋の商科大学(元の東京高商)などに広く行はれ、それから慶應、早稲田、各種専門学校から各地方の学校に行はれるやうになり、更に個人、倶楽部などにも流行するやうになりまして、現在では都鄙到る所行はれない所は無い位普及して居ります。》(テニスの大要)

日本へのテニス伝来(日本テニス協会)

本書の奥付に見える発行所住所は東京市小石川区表町一〇九番地。アルス婦人叢書」は大正十二年に創められ昭和三年刊までは確認できる第三篇『新しい編物』(大正十二年五月十日発行)奥付に記された住所は京橋区尾張町新地五号である。

アルスは大正十一年三崎町通りの割烹学校の二階にあったと柴田宵曲が書いているらしいが、それは当時のアルスの奥付によると神田区中猿楽町十五番地で、大正十一年の中頃(?)にはそこから銀座尾張町に引っ越したと思われる。そして関東大震災によって小石川へ移転した。

検索してみると中猿楽町十五番地は日東通信社所有の建物だった。それを大正十年七月に日華学会が購入している。三階を借りていた東京割烹学校は移転を余儀なくされたらしい(日華学会第五回報告)。アルスについてこの報告書には書かれていないようだが、さて?

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by sumus2013 | 2017-07-27 20:50 | 古書日録 | Comments(0)

開店いたしました!

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麥書房の開店チラシ。某書店さんより頂戴した。深謝です。ガリ版刷りの一枚(タテ183ミリ)。裏面は白。小田急梅が丘駅下車三分。羽根木公園に接して店があった。ただし山下武『古書のざわめき』によればそれ以前(昭和四十年頃)には中目黒の商店街で店を出していたようである。

梅ケ丘の店舗は公園の土手に面したさびしい場所で、昼でもまったく人通りのない、およそ商売には不向きな場所だった。店主もそこのところは百も承知で移転したはずで、まもなく「サロン・ド・ムギ」という通販目録を発行し始めた。A5判の瀟洒な孔版刷ながら、蒐書傾向に独特な味がある。値付けは他店より二、三割高。しかし面白い物も出るので毎回のように注文したが、顧客も多いとみえクジに外れることのほうが多かった。

そのうち彼は立原道造の著作の刊行に熱中して古本屋稼業の方は開店休業の有様となり、いつしか店も閉めてしまった。
 その兆候が最初に表われたのは、店の棚の半分以上を新聞紙で包んだ文芸雑誌のバックナンバーが埋めるようになった頃からである。呆れ顔で棚を眺めている僕に向って彼の言った言葉がいまも耳に残っている。
「単行本より雑誌が貴重です。単行本は売ってもまた手に入りますから」
 ほどなく彼が道造の著作集や書誌類の出版を始めたことで、その理由がはじめて納得いったことだった。

麥書房堀内達夫については田村七痴庵が『古書月報』404号にその伝を執筆しているようだが、今手許にないので、このくらいの紹介でお茶を濁しておく。



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by sumus2013 | 2017-07-25 20:00 | 古書日録 | Comments(2)