林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:古書日録( 790 )

今川状并腰越状

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双白銅文庫の最近の収穫。元来の題簽は摩滅したのか、「今川并腰越」という手製の題簽が貼られている。おそらく『今川状并腰越状』であろう。「今川状」「腰越状」はともに江戸時代を通してもっとも流布した手習いの教科書だが、本書はそれらを一冊に合わせたものである。奥書もないため時代や版元などは不明。類書も見当たらなかった。きっと子供(たち)が使ったに相違なく、かなり傷んでいる上に楽しい落書きがあちこちに見られる。よって二百円です。

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「今川状」の一丁表。画像検索してみると、版本では、ページの上部に挿絵が入っている本が多いようだ。手前勝手に考えれば、こちらは絵入りより古いタイプなのかもしれない。一行目に《一品尊親王御筆》と明示してあるが、これも他の本には見られない(今ざっと検索しただけの範囲内です)。

それはそうだろう「今川状」というのは二行目に《今川了俊愚息仲秋制詞條々》とある通り今川貞世(了俊)が養子で弟の仲秋に与えた指南書で、それは応永十九年(一四一二)のこと。青蓮院流の祖であり名筆として知られる親王は正平十一年(一三五六)に歿しているから、考えるまでもなく清書できるはずがない。

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「腰越状」は源義経が頼朝に宛てたとされる書簡。処遇に対して不満を述べている。頼朝に叛旗を翻す、そのウップンがたまっていたことがよく分かる手紙なのだが、義経が書いたという保証はなく、後世の創作であろうと考えられる。こちらも手紙文(往来物)の習字手本として明治頃まで使われ続けたという。

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元暦二年(一一八五)の日付。尊円法親王は永仁六年(一二九八)生まれ。古いものは写せるわけだから、その点、問題はないということにはなる。



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by sumus2013 | 2017-12-07 21:13 | 古書日録 | Comments(0)

荒野の竪琴

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串田孫一『荒野の竪琴』(新潮社、一九七二年九月二五日、装幀 装画=著者)。某氏(昨日の某氏とは別の方)より頂戴したもの。『季刊暮しの創造』第十三号(創芸社、一九八〇年六月一日、特集=理想の装幀)に掲載された「自装について」のなかで串田孫一は次のように書いている。

荒野の竪琴 一九七二年 表紙は布に印刷と金版。この本にはいたずらが一つしてある。これまでにそれを発見した人は一人

某氏はこれを「暮しの創造」のコピーに『荒野の竪琴』造本の仕掛について書いてありますが、見つけた人は一人、は串田さんの読者サービスでしょうと考えておられるが、たしかに、発行から八年近く経っていて一人というのは、どんなものだろう。もちろん、どこが「いたずら」なのかひと目見て直ぐには分からない。しかし、そのつもりでチェックすれば、容易に気付く。

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ご覧のように、天と地とで、ハナギレの色を変えてあるのだ。おそらくこれが「いたずら」なのであろう。色違いのハナギレですぐ思い浮かぶ本があるが、本書よりもずっと新しい。本書以前にもあるのか、ないのか、ちょっと気になるところ。

本書のエッセイにも装幀について触れた文章がある。

駅で用事を一つした。それは友人の本の装釘のことで、色の指定なども細かに書き添えては置いたが、出版社のそれを担当している人に直接会って、了解を求め、念を押すところまではこちらの責任であるから、郵送せず手渡したかった。》(「晩夏」)

これだけなのだが「装釘」という字を使っているところに注意したい。扉の前には「装幀」と表記されているので、特別に「釘」にこだわったという訳でもないかもしれないが。

全体に季節や気分の移り変わりについて感慨を述べたようなエッセイばかり。半年余りの間に書き上げたということだ。なかで小生の好みは「墨狂」と題された一篇。友人から呼び出され、懐素の千字文を渡される話。

懐素の千字文であった。しかし千金帖と言われているそれとは違って、若い頃書いた連綿草で、これは珍しいものだから見せてくれるというのだった。彼はこの拓本を何年か前にある篆刻家から貰い、無造作に新聞紙にくるんだまま戸棚の奥にしまい込んであったが、千字文を書いた書家のことを調べている時に、思い出してこの拓本を出してみると、なかなかいいので、少しお金をかけて巻物にしたという話であった。

その友人の父は書家で、友人も習字を教えているらしい(詳しくは串田も知らない)。彼からは以前、水巌(端渓の老坑から掘り出される石)の硯、そして「古銅印彙」などの印譜を借りたことがあった。懐素の連綿草とは下のようなものだろうと思う。

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懐素小草千字文


串田はここで話をオーレル・ニコレというフルート奏者のレコードのために文章を草したことへ転ずる。ニコレの演奏をレコードで聴いているとき、ふと古筆の仮名の続け文字が思い浮かんで、早速そのことを書いた。その後は、音楽、とくに無伴奏の独奏曲を聴いていると快く崩された草書を思い浮かべるようになった。達者に崩された文字はスラスラとは読めない。そこで気が付く。

直ちに読めてしまう書からは音楽が浮かんで来ない。読めたからと言って、それで終わるわけではなく、そこに書かれている言葉なり詩の意味をよく理解したところから書の鑑賞ははじまる。そして悦びの交感に似た気分が起る。だが読む前に、あるいは残念ながら最初から読むのは自分には無理だと諦めざるを得ないような書にも魅力はある。それは曲線の組み合わせとしての魅力であって、私にはそういうところから音楽が現われたのであろう。

草書には苦しめられている(笑)。読めなくても鑑賞には全く問題はない。が、読めたら読めたで、別のパースペクティヴが開けることも事実である。




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by sumus2013 | 2017-12-06 20:42 | 古書日録 | Comments(0)

アリストフィル・コレクション

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フランスのオークション・ハウス、アギュット(AGUTTES)が今月二十日から行うオークション『アリストフィル・コレクション LES COLLECTIONS ARISTOPHIL』のカタログを某氏より頂戴した。

LES COLLECTIONS ARISTOPHIL

アリストフィルというのはジェラール・レリチエ(Gérard Lhéritier)が設立した会社で、この人物は以前このブログでも紹介した「書簡と原稿の博物館 Musée des lettres et manuscrits」の設立者でもある。自筆ものの値段を急騰させた人物として知られる。この図録を見ながら、そう言えば、前回のパリで「あそこが潰れて、たいへんなのよ」と古書業界の知人に聞いたことを思い出した。そのときは「へええ、そうなの」と聞き流していたのだが、こういう形で散逸することになったわけなのだ。

書簡と自筆の展示館

検索してみるとアリストフィルは二〇一五年に破綻していた。ようやく整理がついて、そのコレクション13万点余が順次競売にかけられることになったようだ。幅広いジャンルに亘る自筆資料など、お宝がたんまり含まれているらしい。

そして、その口切り展示での目玉、それが表紙にもなっているこの巻物。なんと、サド侯爵による『ソドム120日』の原稿なのだとか!

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解説の内容をざっくりと訳しておく。

まずこの原稿の体裁は、33枚の紙をつなぎ合わせた巻物で、幅11センチ3ミリ、長さは12メートル10センチあり、表裏にびっしりと焦茶のインクで記入されている。

サドは一七八四年二月二九日にバスティーユ監獄へ移送された。そこで、二年前頃から手をつけていた『ソドム120日』の清書にとりかかったらしい。サド自身がこの原稿の脇にメモを書き残している。

表側の終りに《この帯[bande]を書くために夜の七時から十時にかけて二十日間かかり、一七八五年九月(7bre)十二日に終了》。そして巻末に《この長い帯の全部を一七八五年十月(8bre)二十二日に開始し三十七日間で終了》と書かれているそうで、ようするに一七八五年の八月から十一月にかけて仕上げたということらしい。この巻物にはオリジナルの収納函があり、それに収められてバスティーユ監獄内のサドの独房の石の隙間に隠されていた。

サドがシャラントン監獄へ移された後、アルヌー・ド・サンマキシマン(Arnoux de Saint-Maximin)なる人物がそれを発見し、ヴィルヌーヴ・トランス(la famille de Villeneuve-Trans)へ売却した。

一九〇四年、当時の所有者であったドイツの精神科医イヴァン・ブロッホ(Iwan Broch)が初めてこの作品を公刊。一九二九年にはノアイユ子爵夫妻(Chales et Marie-Laure de Noaille)が購入し、モーリス・エーヌ(Maurice Heine)に委託した。エーヌは註釈版を出版した(一九三一〜三五年)。

ノアイユの歿後、娘のナタリー(Nathalie)へ受け継がれたが、一九八二年に出版人のジャン・グルエ(Jean Grouet)が盗み出して、スイスの愛書家ジェラール・ノルマン(Gérard Nordmann)へ売ってしまった。ナタリーの息子カルロ・ペロンヌ(Carlo Perrone)が訴訟を起こしたのだが、スイスの裁判所はフランス側の訴えを退けノルマンの所有権を認めた。一時期ジュネーヴのボドメール(Bodmer)財団に寄託された後、ノルマン家とカルロ・ペロンヌとの和解を経て二〇一四年五月にアリストフィルが購入した。

ついでに補足しておけば、マリ・ロール・ド・ノアイユは富裕な銀行家の娘で、芸術の庇護者、画家、文筆家であった。マリ・ロールの母マリー・テレーズ・ド・シュビネ(Marie-Thérèse de Chevigné)がサドの家系に連なるということで『ソドム120日』には浅からぬ縁があったわけである。またマリー・テレーズはプルーストの『失われた時を求めて』におけるゲルマント侯爵夫人のモデルだとされているそうだ。

エスティメイトは「4 000 000 / 6 000 000 €」……。ダ・ヴィンチ「救世主」の例を見たばかり、十億円からの値がつくかもしれない(?)



また、アンドレ・ブルトンの自筆原稿が四点出品されるようだ。

シュルレアリスム宣言 自筆原稿
溶ける魚 自筆原稿
溶ける魚I 溶ける魚II 自筆原稿;学生用ノート[下写真]
シュルレアリスム第二宣言 自筆原稿 校正紙と自筆メモ

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これら四点まとめての予想落札価格は「4 500 000 / 5 500 000 €」・・・これまた驚きである。

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by sumus2013 | 2017-12-05 20:43 | 古書日録 | Comments(0)

人間の街パリ

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小生のパリ好きを知っている方より田村泰次郎『人間の街パリ』(大日本雄弁会講談社、一九五七年七月一〇日)を頂戴した。深謝です。表紙の油画は田村筆。口絵写真も、多数挿入されているパリのスケッチも著者の手になる。田村は絵心があり、元々「現代画廊」を開いたのはこの田村泰次郎だった。洲之内徹はそこで働いていた。田村が商売を止めるときに画廊を受け継いだのである。

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「モンパルナスの筆者」と説明文がついているが、モンマルトルの間違い。


書かれている内容はおおむね昭和二十七年と三十一年の体験談。スケッチのサインは1956になっている。

パリには、いま、常時四百名ほども、日本人がいるそうだ。そのうち、大使館関係の者が、家族もふくめて、五十名くらいで、そのほかは、画家、彫刻家が百名ほど、音楽、文学、その他の勉強に来ている留学生が約五十名、デザイナァや、料理などの研究にきている者が、五十名以上、あとは、旅行者や、短期滞在者というわけだ。

在住日本人は協力し合わない、と田村は言う。その理由は金を持っていないからにちがいない、と。

戦前のように、円がフランに対して、絶対的優位を誇っていた時代と、戦後の今日とでは、同じくらいの金を持ってきても、大変なちがいである。公定では、一ドルが三百六十円に対して、三百五十フランであるが、闇相場では、一ドルが四百二十円前後に対して、三百九十フラン前後というところで、円の方が弱い。

1ドル360円のレートは昭和二十四年から。当時もちょっとした日本ブームだったようだ。

パリでただ一軒の日本料理屋「ぼたん屋」は、スキヤキを喰べにくる外人で、連日満員である。日本の一流のスキヤキ屋で喰わせるスキヤキの味には及ばないが、五年前に喰べた味よりは長足の進歩をとげている。

ただ一軒だったとは・・・ブームといってもラーメン屋1000軒(日本人以外の経営も多い)と言われる今日のブームとは少し違っていたよようである。

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キャフェ「クーポール」


なかに「小石拾い」というエッセイがあって、これには驚かされた。昔からみんなやっていたんだ。

近頃、パリの一部の日本人画家たちのあいだに流行(?)しているのは、パリの路上の小石拾いである。パリのところどころに敷いてある小石は、メノウ質でその割れ口のさまざまの多彩な縞目や模様は、マチエール重視の現代絵画とかよいあうものがある。

《佐藤敬画伯にいわせると、パリの小石拾いは「おれが最初だ」というが、同じく在仏五年の土橋醇一画伯にいわせると、「いや、おれが小石を拾いはじめたときは、まだ佐藤さんはそんなつまらないものをという顔をしていたよ」といっている。》

そういう私自身も、その採集マニアの一人だが、病みつきになると、これほどたのしいものはない。いまに、パリからのお土産は、小石ばかりということにもなりかねないほど、この流行(?)は全盛である。

はは、小生も拾ってました。ほんとに美しいものである。


あれこれ引用していてはキリがないが、もうひとつ、志賀直哉と梅原龍三郎が事故に遭った話を。

志賀さんが、梅原龍三郎、浜田庄司、柳宗悦さんたちと、ヨーロッパへ行かれたのは、二十七年五月下旬だったと思う。私は一週間ほどおくれて、ヨーロッパへ旅立った。
 パリへ着いた翌日、同行の小松清、丸岡明、それに同宿の平林たい子、福沢一郎の諸氏と、挨拶に出掛けた大使館の応接間で志賀さんたちにお眼にかかった。

《それから、またパリに帰って、しばらくしたある日、私は大使館で前日志賀さんと梅原さんとが、シャルトルへ行こうとして、モンパルナスの駅へ行く途中、乗ったタクシイがバスと衝突して、負傷されたということを聞いた。》

その翌日、私は、同宿の小松清、堂本印象さんたちと、志賀さんたちの泊っていられるセーヌ河畔のオテル・ド・ケイドルセイへ、見舞いに行った。
 志賀さんはご自分の部屋で、梅原さんと一しょに、朝食のパンを喰べておられるところだった。高田博厚さんがきていて、お二人と話していた。さすがに、お二人とも、その異国での衝突事件には、かなりなショックを受けていられるようであった。話のなかにもそのことがうかがえた。梅原さんは、眉と眉のあいだの鼻のつけ根に、絆創膏のようなものを貼りつけていられたし、志賀さんも、まぶたのあたりにかすり傷を受けていられたように思う。
 「不思議に、眼鏡がこわれなかったのでよかった。こいつがこわれていたら、きっと眼をやられていたにちがいないよ」
 志賀さんのそういう言葉には溌剌とした実感が籠っていた。

志賀直哉はイギリスで体調をくずしていたこともあり、この数日後に帰国したという。志賀は六十九歳を過ぎていた。

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by sumus2013 | 2017-12-02 20:54 | 古書日録 | Comments(0)

古書目録の左川ちか

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左川ちかが古書目録でどのように扱われているのか? それを調べ上げるなどということは、小生には無理なので、とにかく手近にある目録からいくつか拾ってみた。まずは何より『石神井書林古書目録』、と思ったのだが、手許には十数冊くらいしかない。そのなかで古い方の35号(一九九五年二月)には二点出ている。

1733 左川ちか詩集 特製50部 函 写真15-C参照 昭森社 昭和11 350,000
角背継表紙上製本。本文鳥の子紙。挿絵装幀三岸節子。限定350部内特製50部本保存に恵まれた一冊。 
1734 左川ちか全詩集 限定550部 函カバ 森開社 昭和58 15,000

44号(一九九八年二月)には三点。

2315 左川ちか詩集 限定350部 遺稿詩集 函 昭森社 昭和11 80,000
2316 左川ちか詩集 限定350部 昭森社 昭和11 30,000
遺稿詩集。三岸節子挿画。背痛みあり。
2317 左川ちか全詩集 限定550部 函カバ 森開社 昭和58 15,000

48号(一九九九年七月)には44号の三冊に加えて『室楽』が登場している。

2553 室楽 椎の木社 限定300部 左川ちか訳 昭和7 35,000

51号(二〇〇〇年七月)には「書痴版」なるものが掲載されている。49と50号は手許にないため確かめられないが、どちらかの号で初登場したのではないだろうか。

2709 左川ちか詩集 限定350部 昭森社 昭和11 30,000
遺稿詩集。三岸節子挿画。背痛みあり。
2710 左川ちか詩集 書痴版限定5部本 函 昭森社 昭和11 1,200,000
特製50部の内書痴版として五部作られたもの。三岸節子肉筆デッサン入(サイン入)継表紙面取装。本文特漉鳥の子紙。黒紙貼函、薄青色元題簽。極稀本。極美。
2711 左川ちか全詩集 限定550部 別刷栞付 函カバ 森開社 昭和58 15,000


* * *


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田村書店の『近代詩書在庫目録』(一九八六年)には二点掲載。

466 左川ちか詩集〈特製〉 昭和11年11月25日 昭森社
四六判 上製継表紙 一七六頁 特製四五部記番 「詩集の
あとへ」百田宗治 「左川ちか詩集覚え書」(刊行者)「小伝」
装画、挿画(四葉)・三岸節子 本文特漉鳥の子紙使用
■該書は仮箱付 九〇、〇〇〇

467 室楽 (ジョイス) 左川ちか譯 昭和7年8月10日 椎の木社
菊半截判 仮装 三六頁(限定三〇〇部)
■該書は標題他刷込みの三方折込パラフィン・カバー付 三五、〇〇〇


* * *

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『扶桑書房古書目録 近代詩特集号』(扶桑書房、二〇一〇年九月七日)には椎の木社の刊行書六十一冊が掲載されている(No.100)。そのなかに『室楽』も含まれている。ただこれは一括一八〇万円となっているので、個々の価格は分からない。また『左川ちか詩集』も掲載。

255 左川ちか詩集 森谷均編 一六〇、〇〇〇円
昭和11年11月20日 昭森社 特製50 函 見返献呈者名消

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* * *


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古書目録ではないけれど、書物誌『初版本』の創刊号(人魚書房、二〇〇七年七月三〇日)には椎の木社の刊行書についての論考、征矢哲郎「「椎の木社」の本」が掲載されているので参考までに掲げる。

17 ジョイス 佐[ママ]川ちか訳『室楽』(印字糊付パラフィン・カバー)

この中で17の『室楽』は左川ちかの第一著書で、かつ生前唯一の書籍でもあり、現在、椎の木社の書籍の中でも最も人気の高い一冊であろう。

椎の木社の本には印字付きのパラフィン・カバーが多いそうで、それが良い状態で残っているのはかなり珍しいという。パラフィン・カバー付完本はもちろん高額になる。

以上は手許にある目録のみを参照しただけである。もっと古い資料を当るなど探求の幅を広げて行けば、色々面白いことが分かってくるだろう。昭森社版だけでも少なくとも三種類あるのだから・・・というか、書痴版の五部本はそれぞれ肉筆デッサン入、すべて違う本と見るべきかもしれない。いったい何冊残っているのか、興味は尽きない。

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by sumus2013 | 2017-11-29 20:07 | 古書日録 | Comments(0)

以文

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『以文』第二十三号(京大以文会、一九八〇年一〇月一日)。某氏より恵投に与った。本城格「パリでの古本漁りの思い出」が載っているのでご参考までとのこと。ありがたいです。本城格(ほんじょういたる)氏はフランス文学者。

1916年-1991年5月27日。京都帝国大学文学部仏文科卒。1957年京大文学部仏文科助教授、69年教授、80年定年退官、名誉教授、甲南女子大学教授。1976年にフランス政府から教育功労賞オフイシェ章を受けた。90年秋旭日中綬章受勲。ロンサールなどルネッサンス期の詩が専門。》(はてなキーワード)

一九六二年頃、パリに滞在していたときに体験した古書店のいろいろ。残念ながら店の実名が出ていない。氏がどういう本を古書店で買ったのかだけを拾ってみる。

サン・ジェルマンのD書店 
ドビニエ『レ・トラジック』テキスト・フランセ・モデルヌ版、四巻

株式取引所近くのある古本屋 
オリヴィエ・ド・マニ全集、ルメール版
アベ・グージエ『ビブリオテーク・フランセーズ』十八巻のうち二巻欠

B店
ジュル・ファブル『オリヴィエ・ド・マニ、その生涯と文学の研究』

他に版元を訪ねて雑誌のバックナンバーを買い求めているが、版元によって親切だったり、取りつく島もなかったりとさまざまな経験をしたようである。さもありなん。

D店のように在庫品の整理が行届いている古本屋は珍しい。私は後にサン=シュルピス寺院前の大きな古本屋の主人と昵懇になり、店裏の倉庫に入れてもらったことがあるが、足のふみばもないほど天上まで乱雑に書物が積み上げられていて、整理はおろか値段もつけられていない。欲しい本があればゆっくり探したらと言ってくれるが、ざっと表題に目を通すだけで弁当持ちで二・三日はかかるだろう。こうした店ではカタログに掲載された分だけが整理されているのだ。定期的にカタログを出していない店では、沢山の本を店に並べて客が勝手に探して買うようになっているのは言うまでもない。

サンシュルピス寺院前の大きな古本屋、今はもうないと思う。ただ、小生も一九九八年のパリではサンシュルピスの真ん前の古本屋に入った記憶がある。かなり奥の深い店だった。手前の方だけ見せてもらって、梯子を使って棚の上の方にあったコクトーの詩集を一冊だけ買った。たしか二軒くらいは古本屋があったように記憶しているのだが……。

『以文』第二十三号には松尾尊兊先生の文章も掲載されていた。「ハーバード再訪」。文部省在外研究員として一九七九年一二月から八〇年三月まで滞在した。

日本人のみならず日本語が氾濫していることも相変わらずであった。前記のポッターさんの如きは、たまに英語で話しかけると、「松尾さんは英語がお上手だからね」と皮肉る有様である。日本学専攻の学生ともなればすべて日本語で話しかけてくる。イギリスでは達者な筈の教授でも日本語で話したがらぬ人が多い。

ポッターさんは燕京図書館の館員。

フェアバンク・センター(東アジア研究所)内に相部屋ながら一室もらっていたが、年中出入自由で夜間、休日といえども煖房が通じているので助かった。図書館も平日は一〇時まで開いている。日本関係書は近年予算不足と聞いていたが、使用してみると充実ぶりが一段とよくわかった。日本近代史の分野では、特殊な資料だけ抱えて行けば論文を書くのに不自由しないくらい揃っている。京大にいると、付属図書館・人文研・法・経・教養、さらには農学部まで足を運ばないと揃わぬものが、ハーバードでは低い階段の四層を上下するだけで調達できる。京大ではマイクロ・フィルムさえない東京朝日新聞の縮刷版が、創刊号いらいあって、しかも帯出自由なのである。

アメリカにおける日本近代史研究が進むのも当然であると松尾先生は書いておられる。



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by sumus2013 | 2017-11-21 21:22 | 古書日録 | Comments(0)

辻邦生 パリの隠者

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辻邦生、高輪自宅の書斎


「辻邦生ーーパリの隠者 TSUJI Kunio : Un anachorète à Paris」展が昨年(二〇一六)、ストラスブール大学とパリの日本文化館にて開催された。本月、恵比寿の日仏会館でも再現されたそうである。その図録とチラシを頂戴した。辻邦生はほとんど読んでいないが、湯川さんの処女出版だということで以前取り上げたことがある。

辻邦生『北の岬』(湯川書房、一九六九年二月二八日)

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同展図録(学習院大学史料館辻邦生小委員会、二〇一六年一一月一日、デザイン=人見久美子)。パリの「辻邦生ゆかりの地」がホテル住まいも含めて詳しく紹介されているのは非常に興味ぶかい。一九五七年にフランス政府保護留学生として渡仏して以来、転々としているが、一九五八年から六一年までまる三年間はカンパーニュ・プルミエール街8bis のアパルトマンに滞在した。その後何度かの巴里滞在を経て晩年(一九八〇年から一九九九年歿年)はデカルト街37番地に部屋を確保して何度も往復していたようだ。

マン・レイ歩きその一

アンリ四世校〜デカルト通り

昭和三十二年、美術史を専攻していた妻佐保子がフランス政府給費留学生となり、辻も私費留学生としてともにフランスに渡った。彼等が乗船したフランス郵便船カンボージュ号には岩崎力、平岡篤頼、加賀乙彦らも乗っていた。加賀と辻はとくに親しくなった。十月九日、マルセイユからパリのリヨン駅へ降り立った。

石造りの彫りの深い端正は町並みに、不思議と長く住んでいた場所に戻ってきたような気持を感じ「自分が本来生れるべき都市[まち]はここだったのではないか」とまで語っている。
しばらくはホテルを転々としていたが、ようやくモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール街8番地に僧院に似た〈隠れ家〉を見つけ、国立図書館と往復しながら、本を繙き、ペンを走らせ続ける生活が始まる。
小説と正面から向き合い、ひたすら文学の可能性を摸索したパリでの日々が〈小説家〉としての骨格を形成したと言っても過言ではないだろう。》(冨田ゆり「辻邦生ーーパリで生き、パリで書く」)

高輪の書斎の写真は日仏会館ギャラリーでの展示チラシより。図録の略年譜によれば一九七一年(四十五歳)に港区高輪のマンションに転居している。

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by sumus2013 | 2017-11-20 20:47 | 古書日録 | Comments(0)

阪急古書のまち

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阪急古書のまちが移転してから、まだ一度も足を向けていなかった。もう一年にもなるのだが・・・。本日、久々に大阪へ所用で出かけたので、ちょっとのぞいてみた。ご覧のように白木のショーウィンドウが並ぶ姿に目をみはった。

阪急古書のまち お引っ越し(毎日新聞)


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せっかくだから何か買いたいなと思って、あちこちのぞいて、というわけではなく、梁山泊だけのぞいて、文庫本棚から何冊か。そのうちの一冊がこちらダニエル・ブアスティン『本はいつごろから作られたか 大発見4』(鈴木主悦・野中邦子訳、集英社文庫、一九九一年九月二五日)。マーカーで線引きあり、100円。

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この冒頭「第三部自然(承前)」は植物誌・動物誌についての記述である。そのなかに、先日このブログでも触れたヒエロニムス・ボックについて、このように書かれていた。

ドイツ植物学第三の父ヒエロニムス・ボック(一四九八〜一五五四年)は、ある意味ではさらに異彩を放っている。最初は、ドイツ国内の自分の住む地方に生育する植物をギリシアやラテン名と照合しようとしたボックは、さらに一歩を進めて、著書『新植物誌』(一五三九年)で、家の近くで見られるすべての植物を自在に描写したうえ、土地の植物を土地の言葉で記述するという、かつてない新しい課題ととりくんだ。

彼らの植物学上の教義は、ルター派の教義にも似て、二律背反的であった。神聖なるディオスコリデスの浄化された原文にたちかえっていった一方で、彼らはルター派の人びとの聖書と同様、植物学研究を市井の言語に翻訳したのである。

なるほど、アルブレヒト・デューラー(1472-1528)の緻密な植物写生画は、ボックの植物研究と同様に、ルターの精神に基づいたものだったのだ!

ヒエロニムス・ボックの『Kreutterbuch』

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by sumus2013 | 2017-11-17 21:08 | 古書日録 | Comments(2)

新風よ吹きおこれ

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先日話題にした『京古本や往来』の創刊号(京都古書研究会、昭和五十三年八月二十五日発行)巻頭エッセイのコピーを牛津先生より頂戴した。ありがとうございます。寿岳文章「新風よ吹きおこれー『京古本や往来』の創刊に際してー」。

大正期の初めの少年の日、寄宿舎の生徒側監督に給与される僅かな手当を懐にして、月一回、丸太町通りの古本屋回りをするのを無上の楽しみとした。日曜だからとて休む店はまず無かった。午前九時ごろ、電車を寺町丸太町で下りて東へ歩くと、鴨川にかかった橋の手前、南側に、国井という奥の深い古本屋があった。ドイツ語の医学書が本命であったと記憶する。しかし哲学や文学などの古書も、結構たくさん持っていた。主人はむすっとした無口者であったが、本のことをよく知っており、いつのまにか一中学生の私を、三高生や京大生なみに、客の一人として遇してくれた。今思いかえしてみると、私はこの国井の主人からいろいろと洋書の知識を得たようである。すでに英文学を志望していた私は、この店でマクミラン社版の英文学書を当時二冊か三冊買った。いつもたっぷり一時間を国井の店ですごし、橋を渡り、通りの南側の古本屋を一軒一軒見て歩くが、多くの場合、国井ほどには時間はかけない。熊野神社前あたりへ来ると、丁度正午近くなっているので、見あたり次第のうどんやへ飛び込んで腹ごしらえをし、午後は、通りの北側にある古本屋を、東から西へと巡礼する。

うどんやは今も丸太町通り東大路通りの西南角にある(同じ店かどうかは定かではないですが)。当時の古本屋は午前九時ごろから開店していたことが分かる。昨今では三密堂さんくらいかな? 午前九時に開けているのは。戦前、丸太町通り沿いにどんな古本屋があったかは神保町のオタさんが調べてくれているので引用させてもらう。

『全国主要都市古本店分布図集成 昭和十四年版』(雑誌愛好会、昭和14年5月)で丸太町の古本屋を見てみると、東大路から寺町にかけて、北側は、不識洞、一信堂、創造社、マキムラ、仙心洞、進文堂、丸三、細井、田中、狩野、古田、日ノ出、春正堂、麻田、佐々木、南側は、いく文、三書堂、翰林堂、マルヤ、堀田、吉田、国井、彙文堂である。

今昔の感を深くする。このなかで個人的には狩野さんに思い出があるが省略。寿岳少年は国井の筋向こうの木村進文堂へたどりつくころにはくたびれ果て、暮色も濃くなっていたという。その他、寺町界隈にも言及しておられる。

新京極を三条通りへつきあたった杉田大学堂、歴代の学者とつながる竹苞楼で修業した羽田竹僊堂、仏書に詳しく時には高僧評論も展開する其中堂、苛烈な戦時中、恐らく私を何者とも知らず、岩波文庫の徹底蒐集に助力してくれた貝葉書院など、私の記憶に濃く影をおとすパーソナリティをあげればきりがない。

《(編集部注)文中国井書店、木村進文堂は戦後廃業いたしました。また杉田大学堂は現在河原町通三条下るで盛業中です。貝葉書院は、現在主に仏教書専門の出版をされています。

大学堂書店





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by sumus2013 | 2017-11-03 17:25 | 古書日録 | Comments(0)

四季草

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平貞丈『四季草  冬』(安永七 1778 跋)。百万遍での一冊。春、夏、秋、冬と分かれ七冊。大本(タテ27cm)、版元は岡田屋嘉七……本書は七冊目で最終巻なのだが、奥書に《此一冊孫々が為に記しぬ云々 安永七戊戌十一月七日伊勢平蔵貞丈著》とある。下記サイトにて全冊閲覧できるのでご興味ある方はどうぞ。

早稲田大学図書館 四季草. 春草,夏草,秋草,冬草 / 平貞丈 述



『四季草』というタイトルで植物の挿絵があるため、てっきり植物図鑑かと思っていたら、とんでもない恥じかきであった。平貞丈は『貞丈雑記』で知られる有職故実家だった。貞丈雑記』なら名前だけは知っていたんだが……。ウィキを部分引用しておく。

伊勢 貞丈(いせ さだたけ、享保2年12月28日(1718年1月29日) - 天明4年5月28日(1784年7月15日))は、江戸時代中期の旗本(幕臣)・伊勢流有職故実研究家。江戸幕府寄合・御小姓組蕃士。旗本・伊勢貞益の次男、兄は貞陳。子に娘(伊勢貞敦室)。幼名は万助、通称は兵庫、平蔵。安斎と号した。有職読みでテイジョウと呼ばれることもある。》《貞丈は特に中世以来の武家を中心とした制度・礼式・調度・器具・服飾などに詳しく武家故実の第一人者とされ、伊勢流中興の祖となった

早稲田本をざっと見ると、挿絵のあるのはこの第七冊だけ。ここでは檀と梓の図の一部分を掲げたが、要するにこれは弓の材についてウンチクを傾けているのであって植物学ではありませんでした。とほほ。

森鷗外は『細木香以』のなかで貞丈の随筆についてこう書いている。

わたくしは少年の時、貸本屋の本を耽読たんどくした。貸本屋が笈おいの如くに積み畳かさねた本を背負って歩く時代の事である。その本は読本よみほん、書本かきほん、人情本の三種を主としていた。読本は京伝きょうでん、馬琴ばきんの諸作、人情本は春水しゅんすい、金水きんすいの諸作の類で、書本は今謂う講釈種だねである。そう云う本を読み尽して、さて貸本屋に「何かまだ読まない本は無いか」と問うと、貸本屋は随筆類を推薦する。これを読んで伊勢貞丈ていじょうの故実の書等に及べば、大抵貸本文学卒業と云うことになる。わたくしはこの卒業者になった。》(森鷗外『細木香以』「森鴎外全集6」ちくま文庫、1996)

鷗外は文久二年(1862)生れなので少年の時と言えば十歳として明治五年頃だろうか。とすればやはりこのような和本を借出していたに違いないように思われる。例えば国会図書館には貞丈雑記』なら天保十四年(1843)序の丁子屋平兵衛(文渓堂)版、および嘉永六年(1853)の吉川半七版などが所蔵されている。


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by sumus2013 | 2017-11-02 20:52 | 古書日録 | Comments(0)