林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:古書日録( 711 )

四番茶

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下村海南『四番茶』(博文館、一九二七年三月三日三版)。裸本。むろん均一。昔この人の随筆を読んで面白かったので、これもちょっと読んでみようかと思ったのと「本をつくる人」というコラムがあったため求めた。まずまずだった。

「本をつくる人」は「鈴の屋と古事記伝」「韓非子翼毳とハルマ字書」「校本万葉集」「契沖全集と鈴の屋図書館」「古事記伝を新聞にしたら」の五篇である。近世の出版苦労話をまとめていてそこそこ読ませるのだが、ここでは一話だけ引用しておく。太田全斎による『韓非子翼毳(かんぴしよくぜい)』の出版。〜〜は繰返記号の代用。

《太田全斎は福山の藩士である。韓非子の研鑽十余年におよび、その註疏韓非子翼毳二十篇十冊九行二十字詰一冊五十枚を出版するに当り、まづ佐藤一斎の塾から木活字約二万字を求めたが、活字に不足が多く、一枚を組むに五日を要したので、不足の分につき更に約一万字を彫刻しいよ〜〜印刷にかゝるとなると、病妻はすでに長く床にありて手助けどころではない、五人の子供はいづれも年端がいかぬ、末の乳呑児は乳に餓えて夜昼となく泣き叫ぶ、僕婢は皆遁れ去つて帰らず、己れは右指腫瘍甚しく、体力次第に痩衰へ、殆ど二年間は遅々として進境を見ず、一家挙げて貧苦の中に呻吟した。たまたま姪の塩田氏より若干の資金を得、なにがしかの版木と紙を求め、十三歳の長男周蔵が彫刻する、かつ〜〜出版にかゝるが家計の赤貧に加ふるに病人は絶えぬ、公私の雑務に逐はれる、その中で仲弟信助末弟三平が漸く長じて来る、父は字を組む、長次子は字を彫る、末弟は版を刷る、朝早くより夜晩くまで親子四人が血と涙の苦闘をつゞけ、辛酉の冬から享和戊辰の孟夏まで八年の星霜を経て刷り上げた部数は、驚くなかれ只の二十部で、この書現今一部は東京に、一部は九州に残存してゐると伝へられてゐる。》

どうしてそこまで……。

本とは別にもうひとつ興味を引いたのは「近江兄弟物語」。大正十四年、滋賀県知事末松偕一郎から講演を以来されて海南は初めて近江八幡の地を踏んだ。講演が終わって肺病療養所へ案内された。

《県立かといふと違ふ、町立かといふと違ふ、ヴォーリズといふ、耶蘇教の人達が建てた病院だといふヴオーリズ……聞いたやうな名前である、聞いたやうにもなんにも大阪朝日新聞社と土佐堀川を隔てゝ、大同ビルが普請中その大きな葦簀の囲ひの表に Vories 建築事務所といふ大きな看板がかゝつてあつた、朝夕あまり眼になじみ過ぎてるあのヴオーリズかといへばそのヴオーリズだといふ。》

大同生命肥後橋ビル、なつかしい。一九九〇年に取り壊されたが、八〇年代に何度かビル内のギャラリーを訪問したことがある。

《華族のお嬢さんのお婿さんでヴオーリズ、建築家であるヴオーリズは、どうやら本職は伝道師らしい、伝道師であつて建築家一寸取り合せが妙であるが、建築家であるヴオーリズの名前なら、大震災の前後色々の方面から耳にしないでは無い、東京で旧藩侯世子徳川頼貞氏の建てられた南葵音楽堂も、学友森本博士等の創設にかゝるお茶の水の文化アパートメントも、関西学院も大丸呉服店も、みなヴオーリズの建築にかゝつてる、そのヴオーリズが何でこんな處へ療養所を建てたのかといへば、此近江八幡にヴオーリズ建築事務所があり、ヴオーリズと兄弟のやうになつて活動してゐる吉田悦蔵といふ人もこの町に住んでるのだといふ》

ヴォーリズ『一粒の信仰』(吉田悦蔵訳)

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《安土! あの南蛮寺の鐘の鳴つた安土、神学校でピヤノを奏でたあの安土、日本の西教のはぐゝまれたあの安土から、二里足らずの八幡の丘に、三世紀を隔てた大正の代となり茲に近江ミツシヨンが根ざされてるのも不思議な因縁だといへば、吉田君は安土の滅亡した時に市民はみな此八幡に遁げて来た、安土は乃はち八幡、安土の文化は八幡によつて受けつがれた、ヴオーリズはいつも世界の中心は近江の八幡だと真面目になつて宣伝してますといふ。》

なるほど、そういうことだったか。信長時代の実績が近江八幡には残っていたのだ。ヴォリーズはそれを知っていたのだろうか? 高山右近がヴァチカンによって「福者 Beatus」に列せられたというニュースを聞いたばかりだ。プロテスタントのヴォリーズにはそんな仰々しい格式張った栄誉は似合わないかもしれないが(藍綬褒章と黄綬褒章は受けている)、海南の文章を読んでいると近代日本におけるヴォリーズの存在は精神面と物質面の双方において決して小さくなかったことがよく分る。

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by sumus2013 | 2017-02-08 21:13 | 古書日録 | Comments(0)

CATALOGUE 1938

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『CATALOGUE OF PERIODICALS 1938』(三省堂)。海外の定期刊行物の目録。アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ソ連、スイス、チェコスロバキア。一年契約である。

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***


小生が閲覧した淀野隆三の日記は一九二一年、淀野が京都二中在学中から始まっている。ただし二中時代の日記はそう詳しいものではない。二中と野球に触れている記事は以下の通り。この他、一九二三年、三高入学後、野球部に勧誘される記述があって、淀野は相当に迷ったようだ。また一高との試合については『spin』でも引用したと思う。

一九二〇(大正九)年一月十日
朝より天気晴々として空に一群の雲もなく日本晴れとはかくの如き天候を云ひたるならん。
放課后野球練習する清水はテニス練習お互いに歯を入れる為め今日より僕は帰家せんとす。

[一九二一は該当なし]

一九二二年
三月十一日
そして列車はくれて行く平安の火の都をあとに、二中のポプラの佇立を見ながら、西へ、西へと行くのである。かくして我々は帰へつた。西原が鹿児島へ行く四人を見送つつ来て居た。十字屋でマンドリン教則本を、丸善で英書二冊を。京阪中で文金高島田の青い毛のかたかけをした娘に会ふ。時々私の方に目を送つて居た。美しい女であつた。私は其の女の顔を正視してやつた。丹波橋でおりた。車はがらんとして居た。

三月二十三日
今日もいゝ天気だ。急に学校へ行く気がした。京二中に登校、久し振りで運動することは愉快である。そして中学時代の追憶に耽けつた。美しい無邪気な人を見ては私も小さい時のことを思ひ出さずには居られない。この気分。追憶!それは美しい言葉だ。

十月十四日
 今日は三時より二中会があるのである。[消=彼はもう]私はその会合によつて私の心を遣らうと思つて居た。石井と二人で清滝に行つた。四時頃になつて雨がしとしとと降つて来た。勿論ぽつりあめですぐ去つて失つた。清滝についた。清く流るる谷川の両[消=岩]涯[崖]に立つ酒楼。静かな山間の高楼には平和の気が漲つて居た。そこにこそ今喜びの声があげられやうとして居るのである。
 集る人は二十名あまりであつた。然しこの中の人々こそ真に高校の生活を理解せんとする人々ではないか。引きずられて来る人もある。然し私達の狂人の如き歓喜をみて呉れるのである。会は自己紹介より始まつた。酒が出た。魚も出た。一番高所にある枡屋の一等座敷である。こゝで[消=彼]私等の集ひの開かるゝことは喜ばしいことである。私は飲んだ。飲んで呉ると又椎子が頭に浮んで来る。然しながら酒のまはるに従つてさびしさもますし又それだけさびしさにこらへる力が湧いて来る。私は飲んだ。村田も飲んだ、石井も飲んだ。長谷川も、加藤も、関も、川口も。私は村田と幾度も相抱いて舞つた。乱舞した。

十二月三日
私がまだねむつて居たとき芳兄がたづねてくれた。私はしばらく清水とねながら話して居た。後、十一時頃から二人は書斉で話し合つた。彼は又塾での出来事を話した。それによると寮長と五年の生徒とが会見して、塾生の自由〜それは青年としての自由〜を尊重することを守らしめることを約したんだそうだ。今塾生は団結して居る、そしてこの団結が貴いのである。この力をもつて塾風改善に努力するならば必ずよくなることを信ずるのである。私が今芳兄と二人居たら、きつと二中の舎を美しいものとする事が出来るであらう。少なくとも一二年の人たちを。

十二月十日
○私は井上を信じて居た。そして私が野球部に入つたとき彼も入部し、ともに大きくならうと云つたことがある。たしかに私は井上市太郎を信じて居た。彼がフラフラした人間になつたといふことも聞いた。然し私はそれでも信じて居た。上野は私に「井上は推子の背中を電車の中でつゝいた」と云つた。私は第二回の受験準備の二中での模擬試験のとき井上が「淀野にすまん、ほんとにすまん」と云つて去るのを見た。あの時私は推子に彼が恋して居ることを知つた。

以上である。

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by sumus2013 | 2017-02-07 20:59 | 古書日録 | Comments(0)

署名本三冊

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署名本をパタパタと三冊ほど見つけた。いちいち買っていてはまた置き場所に困るとは思いつつ求めてしまった。右から赤尾兜子『虚像』限定版(創元社、一九六五年九月二五日、装画=津高和一)、中河与一『天の夕顔』限定版(角川書店、一九六三年六月三〇日)、田村木國『大月夜』(山茶花発行所、一九四二年四月一日)。

まずは『虚像』。赤尾兜子の第二句集である。岡満男様恵存とあるが、岡満男は『新聞と写真にみる京都百年』や『近代日本新聞小史』の著者だろうか。 

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奥付には「限定句集」とだけしてあって限定数は記されていない。本書の限定番号は「00249」……まさか一万部限定! 津高和一の装画がカバーと扉と挿絵と三点付されている。試しに引用しようと思うのだが、これはどう選んでいいのか分らない。年代ごとに三つにまとめられているのでそれぞれの最初の句を引いておく。

  花束もまれる灣の白さに病む鴎 (「渚の艾」昭和三十四年)

  黄昏れる頂上 ハンターの鯛の酒盛り (「轢死の葡萄」昭和三十六年)

  試走車に砂ながれだす牡蠣の村 (「蒼白な火事」昭和三十八年)

こういう時代だったのかなと思うのみ。

お次ぎは『天の夕顔』限定350の内の250番。カットにジャン・コクトーのデッサン、永井荷風が絶賛した手紙も掲載されており、少々ミーハーな作り。遊び紙への揮毫は美意延年(こころをたのしませれば年を延ぶ)。本書の「あとがき」によれば「天の夕顔」は『日本評論』昭和十三年一月十五日号が初出。その後いろいろな形で出版されており《その種類は十指を超えるに至つてゐる。昭和二十八年にはフランス版を DENOEL 書店から出し、英、独、華の諸国語に訳されたものもそれぞれの書肆から出版せられた。》というほどに流布した作品らしい。ウィキによればこの小説のモデルと悶着があった。なお中河与一は讃岐国坂出の出身【うどん県あれこれ】。

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三冊目『大月夜』も第二句集である。見返しに「贈舘野翔鶴君/著者」。舘野翔鶴は俳人、俳誌『引鶴』主宰。そして署名用の頁に一句自書。

  土用浪ひしとかたまり岬の家  木國

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田村木國(1889-1964)は和歌山の笠田町(現かつらぎ町)出身で大坂朝日、大坂毎日の記者として活躍した。虚子、碧梧桐らに師事。本書には函があるが、欠けている。題字は高浜虚子、扉絵は川端龍子。



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by sumus2013 | 2017-02-06 21:14 | 古書日録 | Comments(0)

SAVOYにて

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『sumus』創刊号のために宍戸恭一さんにインタビューさせていただいたときの写真。一九九九年六月二七日(日曜日)。以下当日の日記より。

《昼食後、13:03の電車で四条へ。歩いて丸善をのぞいてから木屋町御池上ルのSAVOYという喫茶店へ13:50ころ着。山本氏と三月書房主宍戸恭一氏もう話を始めている。テープを回して、本屋開店前後のことをいろいろとうかがう。15:30ころまで。そこから三月書房へ山本氏と行き、店内の写真を撮らせてもらう。息子さんが、「オヤジが何を言うたか知りませんけど、この店はオフクロでもっているようなもんです」とキビシイことを言う。山本氏は奥さん風邪で倒れているので、買い物して帰るというので16:40ころ別れる。》

このときの特集が「本は魂をもっている」。創刊号四百部は直ぐに完売。インタビューだけを別冊(ex)『三月書房 本は魂をもっている』として五百部増刷した。それも短期間に売れてしまった。『sumus』の成功は宍戸インタビューのインパクトおかげだと言っても過言ではない。あのときのテープ、まだどこかにしまってあるはずだが、さてどうなっているだろう。


宍戸恭一さんがパイプ・エッセイを執筆されている

宍戸恭一さんが語る 雑誌『試行』

宍戸恭一さん見える。今月、卆寿を迎えられるという。

宍戸恭一さんより「喫茶店遍歴 伽藍の存在価値」という冊子を頂戴した。

三月書房へ大島さんと。

久し振りに宍戸恭一さんにお会いした


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by sumus2013 | 2017-02-04 20:56 | 古書日録 | Comments(0)

長崎夜話草

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西川如見『町人嚢・百姓嚢・長崎夜話草』(岩波文庫、一九四三年九月一〇日二刷)。「長崎夜話草」はじつに面白い。長崎における外国船との交流史が語られているのだが、徳川時代を通じて昨今の状況とはまた別の意味でスリルに満ちた外国との折衝が絶えず続いていたことを知った。

長崎へ黒船が初めて入津したのは元亀元年(一五七〇)、それ以来毎年のように来津しそれなりに互に繁栄を享受していた。しかしおよそ五十年を経て、島原の乱(寛永十四;一六三六)が勃発、鎮圧にてこずった幕府は叛乱をバックアップしていたポルトガル船を来航禁止とし(寛永十六;一六三九)オランダ人を出島に移した(寛永十八;一六四一)。

寛永十二年(一六三五)には《日本異国渡海の船御停止》があった。

《長崎より御免許の御朱印給はりて、年々異国へ渡海せし船も留りぬ。長崎より渡海の船五艘は、末次氏二艘、舟本氏一艘、糸屋一艘なり。泉州堺・伊予屋船一艘、京都船三艘は、茶屋角倉伏見屋なり。三所の船合せて九艘の外、他所よりは渡海なし。いづれも皆長崎にて唐船造りの大船に作りて皆長崎の津より出帆す。此時も大明には往事なし。東京[とんきん]・交趾[かうち]・塔伽沙古[たかさご]・呂宋[ろそん]・亜媽港[あまかわ]・柬埔寨[かばうちや]・暹羅[しやむ]等の外国へ往来せしなり。》

中国(明)では倭寇以来日本船は禁止されていたため大内氏の勘合船の外には中国の港へ入る船はなかった。渡海禁止の次には蛮人(ポルトガル人)の子孫二百八十七人を阿媽港に追放とした。寛永十三年(一六三六)。

《たとえば母日本の種ねにて父蛮人の血脈なれば勿論なり。父日本にて母蛮人の血脈なれば、即母のみつかはして子は留む。或は父放されて子は留り、或は子放たれて母とゞまり、母放されて子留る。兄行て弟留り、弟行て兄止る。夫妻相分れ、姉妹相離るゝありさま、町[繰返記号]戸々の悲しみ、いかなるむくつけきあら夷も袖しぼらぬはなかりし。》

寛永十六年(一六三九)さらに続いて平戸・長崎に済んでいた紅毛血脈のともがら十一人を咬𠺕吧[じやがたら]へ追放にした。

《其中に、長崎何れの町の女人、父は紅毛人にて、母方のよしみあるが本に養はれ居たるに、此年十四歳なるを咬𠺕吧へながされたり。此女、顔かたちいとうるはしく、手習ひ常に草紙などならいて、さかしきこゝろばへなりしが、かゝる所に放たれつゝ、何のゆかりもなき程にて、明くれ故郷へ帰らん事を神に仏に祈りつゝ年月を送りしが、かくてひとりありはてぬべきよすがなければ、命の露のよるべをもとめて、もろこし人の妻となりてぞありける。此国には唐土人も多く居住して、又年ごとに日本へ来る唐船もあれば、其便に文おこせしもあり。見る人涙おとさぬはなし。》

この時代からハーフの娘はタレント性をもっていたのだなあ。西川如見の家業は鍛冶業・鉄器販売だったそうだが、天文暦数にも通じてその方面の著書は数多い。享保九年(一七二四)歿、七十七歳。ヨーロッパ事情にもそれなりに通じていたことが本書からでもうかがわれるように思う。

日本では移民の追放や不法な侵入を防ぐために「壁」を作る必要はないが(作れないし、不審船の打ち払いさえできかねている)「フード・インク」(2008)というアメリカのドキュメンタリー映画を見ていると、メキシコ国境に壁を建設するにいたったからくりの一面が分ったような気がした。

アメリカでは肉牛を育てるためにコーンだけを食べさせる。そうすれば牛は早く大きく育つ。そして大量の肉牛を育てるため大量に生産したコーンを今度は国内だけでなく外国、とくにコーン消費国であるメキシコへ輸出する。そのために関税を取り払ったのである。するとメキシコ国内のコーン栽培は安価な米国産によって淘汰されてしまい多数のコーン農民が失業した。彼らは安い労働力としてアメリカ本土へ出稼ぎに行くしか道はなかった……一石二鳥とはこのことだが、大国(大企業)のエゴもいいところである。それにはおまけまであった。コーンだけを食べさせた牛の腸内で大腸菌に突然変異が生じたのである。それが例の人にも害をおよぼす大腸菌O-157なのだった。トランプは先人がでっちあげたこのシステムを昔の状態に戻そうとしている。ある意味、あんたは偉い…かも。

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by sumus2013 | 2017-01-29 21:09 | 古書日録 | Comments(0)

集古

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『集古』己巳[つちのとみ]第二号(集古会、一九二九年二月二八日)。編集発行人=木村捨三(東京市外淀橋町柏木九百九十番地)。あとがきは竹清こと三村清三郎。

森銑三は五弓久文『古今著述標目』という写本について書いている。そのなかに讃岐の十河節堂という篆刻家の紹介が引用されていて興味深いものがあった。ただ、ここでは黒井恕堂という人の「日本の古語に就いて」の内容をざっと紹介しておきたい。日本語における梵語(サンスクリット語)の影響について考察している。

《古事記や書記[ママ]に現はれて居る古代の言語が多く梵語と一致して居る点が仲々多いので、ます[繰返記号]研究の歩を進めてみると驚くほどある。然るに日本では国学者でも或は考古家でも梵語の知識を持つものが居ないので少しも説明して居ない。》

と慨嘆しつつ実例を挙げている。その単語だけ拾っておく。

注連縄(シメナハ)
シメ『或る範囲に限つて境界を立てること』
ナハ『凱旋して歓び勇むこと』

案山子(カゝシ)=山田之曾富謄(ヤマダノソボト)
ヤマ『道』
ダノ『辺』
ソホド『詐欺を巧むもの』
すなわち『道のほとりの詐欺者』

八色雷公(ヤクサノイカヅチ)
ヤクシヤ『霊魂』
イカシヤチ『景、姿』
すなわち『霊魂の姿』

神籬(ヒモロキ)
ヒモロギ『寒い茅屋、洞穴』

鍛冶(カヌチ)
カーナチ『鉄』

鐘之矛(カナキ)
サーナキ『鐘の舌、槍』

倉(クラ)
ガラ『穀倉』

枕(マクラ)
マカラ『頭被ひ、頭飾り』

更紗(サラサ)
サラサ『美麗』

一読、おいおいと思ったが(なにしろ発音の差異を無視しているので)梵語が分らない者には何とも判断のしようがない。ちょっと検索してみると現代でも古事記と梵語を結びつける書物はあるようだ。ただしそれをトンデモ本と一蹴しているサイトもある。

梵語俗説(3)・二宮陸雄の古事記梵語説

《国語学や中国語の音韻学上の検討を一切抜きで、「カム」=kama(ヴィシュヌ)……などとしちゃっていいの?》と書かれていて、やっぱりそうだよね、と同感したしだい。

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by sumus2013 | 2017-01-27 20:50 | 古書日録 | Comments(0)

ランボー若者の歓び

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Rimbaud, Arthur
PLAISIRS DU JEUNE ÂGE. 7 DESSINS MANUSCRITS AUTOGRAPHES.
[1865.]
Estimate 100,000 — 150,000 EUR


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Rimbaud, Arthur
LA RIVIERE DE CASSIS. [PEUT-ÊTRE JUIN OU DÉBUT JUILLET 1872].
POÈME AUTOGRAPHE.
Estimate 200,000 — 300,000 EUR


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Rimbaud, Arthur
[REÇU DU HARAR ADRESSÉ À ARMAND SAVOURÉ,
POUR LE COMPTE DU ROI MÉNÉLIK II].
HARAR, 23 JUIN 1889.
Estimate 30,000 — 40,000 EUR



牛津先生よりお教えいただいた、二月八日に行われるサザビーズ・パリの書籍・自筆物(LIVRES ET MANUSCRITS)オークションに出品されているランボーのカリカチュアや詩の原稿、手紙より三点。lot.86,88,89


カリカチュアは十歳のときのノートの一葉らしい。裏面にも描かれていて七図あるそうだ。右下「農業」のところにランボーのサインが見える。しかし、さすがのエスティメートである。


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by sumus2013 | 2017-01-26 20:51 | 古書日録 | Comments(0)

書痴銘々伝

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高橋邦太郎『古通豆本59 書痴銘々伝』(日本古書通信社、一九八三年五月二〇日)。まずは著者が自身について語った「乱雑も秩序」から一部引用してみる。

《ぼくは本が好きで、少し集めているが、美本、希少本などを買い漁る者ではない。そんな金もなければヒマもないからである。
 関東大震災で、若干の本を焼いてしまったから、しばらく買うことをやめていたが、フランス関係のものは入手しなければならないので、なけなしの金で少しずつ集めたが、本箱を買うのを倹約して、茶箱でガマンしたり、じかに積み上げたりしていたら、ついに狭くて古い家は本の重みで傾きだした。しかし、家を直す費用も惜しいから曲がったままにしてうっちゃって置いている。》

《書斎はもちろん、玄関、その脇の二畳、うら手の半坪の書庫に入り切らない本が畳の上に小汚く積んであり、他人に手をつけられるとわからなくなるから、じぶんで整理することにはしているが、一度、整理するつもりでかかってもすぐ、また、手近かなやつを読み出すと、もうそれで万事終ってしまう。
 つまり、前と同じ乱雑さに戻ってしまうのである。といったところで自分の本だからどこに何があるかは見当はついている。無秩序ながらじぶん自身の秩序がある。
 他人に見せて自慢するほどのもののありようはないが、幕末から明治初年にかけての日本で刊行されたフランス語学習書は大半集めえた。》

《このほか、フランスに関するもの、とくにパリ関係のものは二回の滞仏及びインドシナ・サイゴン放送局長在勤との間を含めて若干集められた。とりわけ、地図は十八世紀半ばのゴンクールの美術品売立カタログが手に入った。しかも、パリでは相当さがしたがとうとう買えなかったものが、いながらに求められたのだから、朝日(四月二十四日号朝刊)に八木福次郎さんが書いているように古本では東京は、ロンドン、パリ、ハーグなどとくらべても優るとも劣ることはないのはたしかである。(昭和三七・五)》

標題作の「書痴銘々伝」では渡辺一夫、植草甚一、相磯凌霜について語られている。それぞれの描写からさわりだけを引き写しておこう。まずは渡辺一夫(渡邊一夫)。学生時代から知っていた。

《卒業後、余り会ったことはなかったが、巴里遊学も、時を同じくしたので数回かの地でも、ヒョッコリ出会ったことがある。その時いつでも話は、巴里で掘り出した珍本についてであった。勿論、語り手は一夫君であって、こちらはいつも聞き手であった。専門とするラブレー関係は申すに及ばず、民俗学その他百般にわたったもので、古本屋についてもドロスその他数十軒の所在、その特色などで、まことに書を好むこと色に於けるとひとしく、ただただ私はその熱心さに言葉もなく恐れ入っているばかりだった。》

植草甚一についてはこうである。文中、鳥打帽とあるのが注目すべきところか。

《最近では、平河町の新宅(といっても、本ばかり買っている彼にお金のある筈はないので、姉さんの建てた家)に収って、好きなウイスキーでもチビチビなめながら読書三昧に耽っているのが彼の天国なのであろう。町の中で出会う彼のいでたちは、余り立派でない背広に、小さな鳥打帽をかぶり、身体の二倍もあろうと思われるほど大きなカバンを下げている。このカバンの中が、また大変で、近頃、手に入れた本や、雑誌がギッシリ詰めこまれ、これを一冊一冊出してみせるのである。
「いかにして、この本のあることを知ったか」
「いかに、この本を手に入れるのに苦心したか」
「どこが面白いか」
「著者の経歴は、こうである」
 等々等々、実に事こまかに語り出す彼の顔はいかに喜びに輝いていることであるか。》

《彼に聞けば、東京、横浜の洋書を取扱う古本屋は、どんなへんぴなところでも立ち所に教えてくれるし、どの棚にどんな本があるかを告げてくれる便利千万な生字引なのである。
 その上、江戸ッ子で、他人の困っているのは見過ごせないたちだから「こんな本がなくて参った」と聞くと、その場では黙ってきいているが、いつか手に入れて姿を現し「これがありました」とさりげなく渡して去るのが道楽である。》

そして晩年の永井荷風と親しく交わりその日記にも随所に登場している相磯凌霜について。幕末の書画尺牘を多く蒐集していた。

《抱一の句集『屠龍の技』を先生が借覧したのもまた相磯さんである。
 わたくしは、旧新嘗祭の夜、池上の邸に参上してこの一巻を見せて貰ったが、いささかいたんだ冊子は、某製本師によって巧みに修覆され、ありし日の俤をしのばせるのに十分であったが、鵬斎の序文は荷風先生が特に写したもので、題また先生の筆になる。世の好事家をして垂涎さしむべき逸品である。
 更に相磯さんはこんなものだけではない。実に各種各様で、文芸倶楽部を創刊号から終刊号まで、ほとんどすべてを持っておられる。
 そうかと思うと、荷風先生の「為永春水」の稿本も秘蔵するところとなっている。
 わたくしは、ただ、本が好きであるだけ、もしくは、沢山本を買いためて置くだけでは書痴とはいえないーーと書いた。
 この点、無用の書をあつめ、これを愛すること人に超えてこそ、この資格があると考える。こう考えて来ると、凌霜さんは、どうしても銘々伝に欠くことの出来ない人になって来る。》

高橋邦太郎はこの本の出た翌年、一九八四年二月二十五日に歿している。

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by sumus2013 | 2017-01-25 20:48 | 古書日録 | Comments(0)

向日庵消息・現物

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およそ二年前にこれらのコピーを紹介したのだが、今回は現物を某氏より頂戴した。やはりこの手漉きの紙の質感にはしびれる。

上がすでに紹介した「第二信」。そして次が「第九信」。

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前回は他に第四信も紹介した。今回はそれ以外に「向日庵私版刊行書目録」二種類を加える。

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一枚は昭和十一年三月現在。裏面は『書物』の広告。『書物』にはコブデン・サンダスン『完全な書物』とエリック・ギル『書物』と寿岳文章『装本について』が収められているようだが、その文章より抜粋してみる。

《身近くにあるものほど疎かにされやすい。書物は人間の生活になくてならぬものでありながら、實利をのみめざして作られるためか、作る者からも讀む者からもひどく粗末にされ、従つてひどく醜いものになつてしまつた。》

《書物とはかくあるべきものだとの批評の標準が、著者や出版者や讀者に今少し本格的に理解され自覺されたならば、恰もモリスの事業が今世紀に入つて欧米各國の書物を高め美しくしたやうに、わが國の出版物も工藝的に多少の向上を示すのではなからうか。》

《昨年私は思ひきつて英國の古書肆からコブデン・サンダスンの書物論を購入した。殘るは美しい活字創案鋳造する問題であるが、これは尚數年の労苦を待ち多大の資金を得ずば實現されないであらう。しかも時は猶豫なく過ぎる。私は遂に意を決し、現在あるがままの活字をできるだけ美しく活かすことをせめてもの慰めとし、他は私の理解と愛の及ぶ限り最良の材料を最も質素に用ひて上記の書物を造つた。》

『書物』は二百部印行。本文紙は岩手産の手漉雁皮紙、一番から五十番までが犢皮装本で十二円。五十一番から二百番までが丹念紙装本で五円の頒価である。《著者や出版者や讀者に今少し本格的に理解され》たらと歎くわりにはこれではほとんど誰の目にも触れない単なる趣味本ではなかろうか。

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もう一枚は昭和十一年十二月現在。三月の目録で近刊『絵本ドンキホオテ』と記載されていたのが『絵本どんきほうて』となって刊行を見た。説明文によれば寿岳と親しいボストンの実業家カール・ケラーは「ドン・キホウテ」の蒐集家で、その《お爺さん》を喜ばせるために芹沢銈介によるオリジナルの挿絵を入れた『絵本ドンキホオテ』を製作したという。

《私は早速見本刷をケラーに送つた。さすがのお爺さんもこれには驚嘆し、東洋美術に明るいフォッグ美術館のウォーナア博士に見せたところ、ウォーナアも悉く感心してすばらしい傑作と折紙をつけたので、早く實物をよこせと矢の催促である。書物道から見て古來「ドン・キホウテ」の刊本や挿絵には秀れたものも尠くはないが、この、微塵も洋臭を留めずに和國の武者となりすましたドン・キホウテの繪本こそは、世界のあらゆる「ドン・キホウテ」刊本中の逸物となるであらう。折角の企てゆゑ、原版をフォッグ美術館へ納める前に、ケラーの領會を得て五十部を限り開版し、同好の士に頒つことにした。内外の所望既に多く、豫定の部數はもはや幾らも殘されてゐない。御希望の方は至急申し込んでいただきたい。》

送料共三十円……。今となっては安い買物ではあるが……。


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by sumus2013 | 2017-01-23 20:55 | 古書日録 | Comments(2)

文藝と共に

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中島健蔵『文藝と共に』(青木書店、一九四二年九月一五日、装幀=草狗舐骨)。渡邊一夫の装幀本である。あとがきによれば編集も渡邊が行った。

《中島健蔵君が今日出海君の後を追ふやうにして、公事の為南溟へ旅立つた。われらの仲間[ルビ=ノートル・エキープ]の調整と舵手とを一時に失つたやうな気持であるが、雄叫びの声も勇ましく伸び行くわが国の為に、われらの仲間[ルビ=ノートル・エキープ]の者がお役に立つことこそわれ[繰返記号]本来の念願である以上、両君の門出はむしろわれ[繰返記号]の名誉と心得る。》(編輯後記)

編輯はもちろん本書の標題も渡邊が付けた。フランス文学に関する評論、絵画批評、一般の文学問題に関する小論の三つの章立てになっている。ざっと見たところ絵画批評が案外面白い。美術専門の評論家とは違った視点で展覧会などについての感想を述べている。健全な見方だと思う。一例を挙げる。「絵画と共に」の五、紀元二千六百年奉祝美術展覧会のくだり。

《嘗てオリンピック大会が東京で催されるはずであつた時、深田久弥の発言で、その中の一部門であつた芸術競技を拡充し、盛大な芸術祭を行ひたいといふ話があつた。勿論オリンピックと共に流れたが、二千六百年記念の様々の催しの中、芸能際といふものが行はれてゐる。私は心ひそかに、何故それを芸術祭としないかと、不審に思つた一人であつた。》

《第一部は、大きさの制限もあり、いかにもそろつた感じであるが、見ながら私は自分が素人であることをいよいよ深く感じた次第である。といふわけは、何の成心もなく見ながら、結局、安井、梅原両氏の作が一番足を弾きとめたからである。此の二人の画家に感心するといふことは、いはば定跡である。私は、その定跡が破れるか否かを考へながら会場を二巡した。しかし結局、それに屈服するほかなかつた。》

《第二部の日本画と工芸は、その公開初日に見た。何ともいへぬ困惑である。》

《第一部を見た時以上に、私は憂鬱になつて来た。日本画の方は大きさの制限がない。かなり大きな作品がある。然り、驚くべき大きな作品がある。
 横山大観の芸術に対しては私も決して盲目ではないつもりでいる。もつとも大観のものもそれほど多くを見てゐるわけではない。》

《しかし「日出處日本」の前へ来て、私は呆気に取られた。之は何であらう。奉祝の意気は十分過ぎるほど明らかである。しかし、之が絵画であらうか。私は素人として聞きたい。富士の日の出のこの大作は絵画以上の何物かでないとすれば、驚くべき愚作ではないか。これが絵として通用するのか。》

中島は自らの富士山体験を思い出しながら、大観のこの絵のような卑俗な富士の姿はそこには一つもないと断言している。

《これはどういふ間違ひであらうか。奉祝展は、正に此の大作によつて奉祝展らしくなつてゐる。多くの芸術家の祝意を一人で代表して、絵画以上、或は絵画以下のものを作り上げたとでもいふべきであらうか。さうとすれば私の妄評は、失言として取り消さなければなるまい。》

ということでそれはこの絵だったようだ。

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《急につのつて来た歯痛を忍びつつ、薄暮の銀座に出て、個展や小展覧会を三つばかり見た。小品にせよ売り絵にせよ、そこには見馴れた絵画のなつかしさが漂つてゐた。奉祝展に対して、不当にも新しい芸術的探求の成果を求めた私は、はからずも此処で描く喜びのなつかしさを求めてゐたのである。(昭和十五年十二月)》

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by sumus2013 | 2017-01-21 20:47 | 古書日録 | Comments(0)