林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:古書日録( 708 )

石神井書林古書目録第伍號

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『近代文学古書目録石神井書林・在庫書目第伍號・昭和伍拾玖年神無月』(石神井書林、一九八四年一〇月)。この第五号が加わって三号から八号までは揃った。

『石神井書林古書目録』

『石神井書林在庫速報』臨時号

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小生の興味の範囲で言うと北園克衛のページがやはり気になる。

《168 ハイブラウの噴水 カバ 北園 克衛 昭和16 三〇、〇〇〇
「天の手袋」以降の随筆詩論を集成したもの。モダニズムの雰囲気を鮮烈なイメージで表す表紙の装幀は著者自身による。稀に見る極美本。〈写真ー9頁〉》

《170 黒い火 特製30部 函 北園 克衛 昭和26 四〇、〇〇〇
「夜の要素」他衝撃をもって迎えられ12篇の詩よりなる。著者の詩法のひとつの頂点に至ったともいえる一詩集。本書は限500部の内の特製30部本。著者肉筆デッサン(四色彩色)入。署名入。厚表紙装本文コットン紙二色刷。稀本。〈写真ー9頁〉》

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最終ページに写真の出ている『茶煙亭句帳』もちょっと凄い。

《茶煙亭句帳 折帖仕立による肉筆連句帖(15名) 四五、〇〇〇
巻頭に「昭和19年於大森茶煙亭」とある。執筆者は以下の各氏。瓦蘭堂(北園克衛、肉筆絵入)・城左門・茄号(那須辰造)・安住敦・安藤一郎・近藤東・高祖保・鬼子(乾直恵)・茶煙亭(岩佐東一郎)他増雄騒々亭らの名が見られる。巻末に蒐文洞(尾上政太郎)の歌一首を収める。〈写真ー64頁〉》

64頁右上の『ゲエテ頌』は江川書房の限定100部本。本文耳付き雁皮紙(目下「日本の古本屋」に一冊出ている……六万円也)。

裏表紙の見返しに自家出版物の広告。〈現代短歌館叢書1田島邦彦第一歌集『晩夏訛伝』と現代短歌館叢書2〉村野幸紀第二歌集『メヌエット』。他に取扱出版物として喇嘛舎、なないろ文庫、友愛書房の刊行書が並ぶ。

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by sumus2013 | 2017-03-08 21:16 | 古書日録 | Comments(0)

河原温渡墨作品頒布会

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某氏より頂戴した『ユリイカ』第四巻第八号(書肆ユリイカ、一九五九年八月一日、表紙=長新太)に珍しい資料が挟んであった。「河原温渡墨作品頒布会」のパンフレットである。

《今度私達の久しい友人である河原温君が、メキシコを経てヨーロッパに旅行することになりました。そこで私達友人が集つて、旅費の足しにと、かれの作品の頒布会をつくつて、ひろく愛好家の協力をえたいと存じます。なにとぞ、ご協力をお願いいたします。/河原温作品頒布会》

とあって、瀧口修造、池田龍雄、飯島耕一、佐々木基一、江原順、野間宏、奈良原一高、山本太郎、針生一郎、渡辺定俊、東野芳明が短い推薦の言葉を寄せている。その頒布作品の値段を見て驚きを禁じ得ない。

 油絵(8号〜40号、1947年〜55年)……号・¥5,000
 水彩(メキシコの風物をかいた作品・予約品)……¥6,000
 デッサンA(約4号・1947年〜56年)……¥8,000
 デッサンB(2号〜3号・1950年〜58年)……¥5,000
 デッサンC(メキシコの風物をかいた作品・予約品)……¥4,000
 面(表紙の写真以外も何種類かあり)……¥3,000
 印刷絵画No.4 砦(1200部限定版)……¥800
 
コーヒー一杯の価格が六十円くらいの時代である。六倍と考えて油絵一号あたり三万円はかなりきばった値段ではあろう。河原温は一九三二年クリスマスイブ生まれだからこのときまだ二十七歳になっていない。むろん現在の物故巨匠としての地位からすればタダみたいな値段だが……それはそれとしてお面が二万円くらいならひとつ欲しいところ。

「その後の河原温」

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多摩美の瀧口修造文庫には当然ながら入っているようだが、それ以外ではちょっと珍しいものかもしれない。そこで気になるのは『ユリイカ』発売当初から挟み込みだったのか? という点である。パンフの活字と本誌の活字を較べるとどうも同じ印刷所のような気がするし、このちょっとひねったレイアウト感覚はひょっとして伊達得夫のものかもしれない。

本誌もなかなか面白い。巻頭「きのう・きよう・あす」欄の丸谷才一。伊達得夫宛に手紙を書くというスタイルの文章。仮名遣いはママ。

《伊達得夫様
 先日は写真、有難うございました。名声の高い大兄の写真術をもってしてもこの程度ならば、ぼくがカメラフェイスが悪いのは宿命的なことだ、と考えながら、負けた横綱のような顔をしてゐるぼくを眺めました。つまり大兄は大変教育的であったわけです。厚く御礼申し上ます。別便で本を一冊(ウィリーハース『文学的回想』原田義人訳紀伊国屋書店)送りました。差上げます、と言いたいところだけど、読み終わったらぜひ返して下さい。そのうちもういちど読みたい本です。》

と前置きして戦前のドイツでウィリーハースが編集していた『文学的世界』の意義について語り、伊達に対して『ユリイカ』を『文学的世界』のような雑誌にして欲しいと(かなりまだるっこしい書き方で)提案し、こう付け加える。

《大兄はおそらく、そんなことをしたら売れなくなる、今のやり方がギリギリの抵抗なのだ、と呟くでしよう。そのときの声や表情まで、判るような気がする。だけどぼくは、損はしないでしかももう一歩前進することはできないものだろうかと、敢えて苦言を呈するのです。
 伊達さん、ぼくを含めて、人々がみな大兄の商才をたいへん高く評価していることを忘れないで下さい。そう、すくなくとも大兄の写真術などとは比較にならぬくらい高く評価していることを。

……商才があるとは興味深い評価ではないか。

この『ユリイカ』はジャック・プレヴェール特集。谷川俊太郎の寄稿「惚れた弱み」の冒頭に翻訳についての考えが披瀝されていてなるほどと思った。

《アテネフランセに二年間も通っていたくせに、僕はフランス語がからきし出来ない。だから僕がいくらプレヴェール、プレヴェールと云ったところで、それは日本語におきかえられたプレヴェールのことなのです。それじゃ困ると云う人もいるだろうし、それで結構と云う人もいるでしょう。ほん訳じゃ絶対に分らない部分もある代りに、ほん訳で読んでさえ分りすぎる程分る部分もあると思います。ほん訳じゃ絶対に分らないところは、フランス人にまかせておいて、僕はもっぱら、ほん訳でも分る方を楽しむことにします。プレヴェールって詩人はそれでも結構楽しめるのではありませんか? 勿論ほん訳で読んでいるせいで、とんでもない誤解をすることだっておおいにあり得ますが、それならそれでいいと思います。プレヴェールを正確に理解することは、僕にとってそんなに大切なことではないとも云えるのです。プレヴェール流に云えば、僕はプレヴェールを考えない[四字傍点]で、プレヴェールを眺める[三字傍点]のが本当は好きなのです。ここだけの話ですが、それよりももっと好きなのは、プレヴェールを夢見ることです。》

これは谷川氏の言うのが正しいとかどうかではなく、そうするしかないのだな、外国文学を読むためには。参考までにプレヴェールの翻訳についての過去記事を引用しておく。

ジャック・プレヴェール『歌の塔』

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by sumus2013 | 2017-03-06 21:48 | 古書日録 | Comments(0)

京二中 野球部記

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京二中鳥羽高ものがたり』(京二中鳥羽高校同窓会、二〇一六年二月二四日)の著者である藤田雅之氏より京二中の野球部および淀野隆三に関する資料を恵投いただいた。すでにコメント欄でご教示いただいたように淀野は野球部の捕手として活躍していた。その試合記録などが鳥羽高校に保存されている「野球部記」に克明に記されているのである。

まだじっくり目を通していないが、ハイライトはもちろん第一回全国中等学校優勝野球大会(一九一五)の優勝ということになる。ただしこのとき淀野はまだ二中に入学していない。その三年後、一九一八年の第四回大会で淀野も加わった二中野球部は京都予選を勝ち抜き、鳴尾浜球場で行われる全国大会へと駒を進めた。

《尼崎の宿舎に入って、組み合わせ抽選も終えた時に、信じられないことが起こります。この年、七月二三日、富山県魚津の「越中の女一揆」に端を発した「米騒動」が全国に波及し、野球どころではない事態となり、痛恨の中止決定となりました。二中の選手は泣きながら荷物をまとめて帰京することになりました。》(京二中鳥羽高ものがたり』第一巻より)

この件について淀野隆三のご子息がこういう思い出話をしてくださった。

《それから親父の野球ですが、中等野球で1年生の時に、甲子園の前の鳴尾浜球場に京都滋賀の代表で出場、相手が一回戦は弱いものだから、淀野出してやる、と言われていたそうです。ところが米騒動で大会が中止となります。その頃の写真で記憶に有るのは、NHKの野球の名解説者だった小西得郎さんが、現在の明治大学選手として、京都二中に指導にこられた全員の記念写真があります。》

また「野球部記」にはこういうことも書かれている。昭和二十一年、京津予選に優勝し、戦後初めての夏の大会出場(西宮球場)が決定した。予選で優勝した七月二十八日、OBが選手たちを招いて四条縄手上ル寸田氏邸の屋上でスキ焼パーティを催した。寸田氏というのは第一回優勝メンバーの野上実(のち寸田)である。日誌には《寸田、淀野、小城、小西、寺田……諸氏》と淀野隆三の名前も記されている。

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この件についてもご子息隆さんは以下のような思い出話をしてくださった。

《戦後第一回の中等野球では、予選から優勝までの全試合を親父に連れられて見に行きました。親父はその頃の向島で畑をやっていました。もちろん農家に手伝ってもらっていたのでしょうが、毎試合にそこで取れるトマトをいっぱいぶら下げて、私も持たされ差し入れしていました。優勝したのですが、その時に一塁手だった下村というよく打つでかい選手が、親父のスパイクを履いていました。いつもピカピカでずーっと靴箱に保管されていたのです。親父の靴が甲子園の土を踏んだことになります。

余談ですが、電通のSP局の企画部長で、故、森川英太郎というのがいました。ある日仕事で行った私のところにやってきて、
「あんたは淀野のボンボンですか?」
と聞かれ、
「そうですけど」
と答えたら、あの浪商との優勝戦まで、「レフトで7番を打っていた」というわけです。「あの頃お父さんに連れられて、トマトを運び応援に来てくれていたあのボンボンですかいな」てなことになり、他の連中も驚いたわけです。当人同士はそれから極めて仲良く仕事させていただきました。彼は京都「浜作」さんのご長男で、映画監督になりたく、店は弟に任せ松竹の助監督。松竹がつぶれて、電通に入って来られたようです。

ついでに言えば、一高三高の45歳以上の試合というのがありました。親父は三塁手(三高からキャッチャーから三塁手に転向)でしたが練習なしでも、飛んでくると結構うまく球をさばいて、一塁に送るわけで、びっくりしました。この中に、宇野ガンボーと言われていたスラッガーがいました。現役時代からスラッガーだったらしいのですが、この方が巨人軍の当時の球団代表でした。私が中学2年生で親父は、三笠書房の編集長と明治の講師だった時です。

藤田氏に頂戴したコピー(当時の新聞記事)によれば昭和二十一年の試合ではたしかに一塁で四番の下村、左翼の森川の名前がある(森川は予選決勝では九番)。宇野ガンボーというのは宇野庄司(一九〇三年兵庫生まれ、神戸二中〜三高〜京大〜読売新聞社)のことであろう。

京二中鳥羽高ものがたり』は他にも面白い話がいろいろ出ているので改めて紹介したい。

なお、ご子息、淀野隆氏についてネット上で捏造話が流布されているようだが、御本人は事実無根と一蹴しておられるので、念のために記しておく。

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by sumus2013 | 2017-02-25 17:45 | 古書日録 | Comments(5)

装幀・装釘・装本

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26日(日)午後二時より伊丹のみつづみ書房さんで『花森安治装釘集成』についてのトークをやらせてもらう。昨年末、ギャラリー島田で行ったトークと基本的な流れは同じだが、新資料なども画像としてお見せするつもりである。それについてはまた後日触れる。本日は『花森安治装釘集成』の巻頭に唐澤さんが書いておられる「おぼえがき」の、そのまた最初のところに「装釘」という用語についての説明があるので、すこしそこに注目してみたい。

《花森安治は〈装釘〉の字をつかった。
 いま、本の見返しや目次ウラ、奥付などには、もっぱら装幀や装丁の字がつかわれている。釘の字に違和を感じるひとも多いのではないだろうか。
 「文章はことばの建築だ。だから本は釘でしっかりとめなくてはならない」
ーーこれが花森の本作りの考えであった。
 だからといって、装釘は花森がつくりだした造語ではない。中国明代からあるれっきとした熟字のようだが、日本では明治以後、洋装本が多くなってから本を綴じることをソウテイとよぶようになり、それに漢字をあてたらしい。ところがテイには、釘、訂、幀、丁、綴の五つの字があてられ、その根拠として諸説あるが、どれが正しく、どれが誤りというほどの大問題でもなく、それぞれの思い入れで自由につかっているのが現状なのだそうだ。意外かもしれないが、五字のなかでは釘が古くから使われており、いまも釘の支持派がいないわけではない。》

このブログではいろいろな本を紹介するときに、できるかぎり装幀者の名前を挙げるようにしている。ところが、そのときどきで表記が違っていることにお気づきの読書もおられるかもしれない。基本的にそれはその本が使っている用字をそのまま引き写すようにしているからである。装幀がいちばん多く、装丁が次にくるだろう。他にはブックデザインという言葉あるいはその他の横文字にこだわるデザイナーあるいは編集者もいるようだ。

個人的には特段の理由がないかぎり「装幀」を使う。幀は《張りたる絵絹なり》(『類篇』)とあって竹の枠などに絵を描いた絹を張ったもの、それを軸物のように装幀することがあったようだ。今の装幀という作業にぴったりしているように思う。(以下、漢字の解釈は白川静『字統』による)

丁は釘の初文である。丁はクギの頭を象っている。「頂」というのもクギの頭と人間の頭の類似からきている。釘は『説文』によれば《練鉼[レンヘイ]の黄金なり》すなわち金ののべ板の義であって、のべ板の形がクギの頭に似た(どちらも楕円形)ところからきているという。丁がおとうさんで釘は子供というわけだ。とすれば釘をクギの意味で用いるのはまったくの逆転ということになる。

訂を使うのは明らかな誤用である。訂は文章を正す意味(有名な書誌学者が提唱したのでこれをよしとする人も少なくないが)。綴というのは余り見かけないが、悪くない。ただどちらかというとブックバインディングを連想させる。

唐澤氏が挙げている他に「装本」という用語もある。これは記憶が正しければ恩地孝四郎がブックデザインを漢字に置き換えて提唱したものだったと思う。

どれをとってもいいと小生も思う。よく見ると、よく見るまでもなく、いずれの文字も頭に「装」がついている。装は《つつむなり》である。衣装・装飾を意味する。『字統』の解説にこうある。

《装束とは行李を整えること、すなわち旅支度をいう。表具のことを装潢[そうこう]、書物には装釘という。いまは装幀という字を用いる。》

白川先生も「装釘」を装幀の古い形として取り上げておられた!

では花森安治はほんとうにいつも「装釘」を使ったのか? というと、そうではなかった。手元にある花森本を調べてみると以下のようになっている。

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くらしの工夫 昭和17年6月20日
(この本を編集したのは花森安治である)


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煙管 昭和21年4月15日


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戯曲姉妹 昭和22年10月10日


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文学会議第四輯 昭和23年5月15日


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田村泰次郎選集第一巻 昭和23年7月15日


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石川達三選集 愛の嵐 昭和24年6月30日


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伊藤整作品集第五巻 昭和28年1月30日


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青列車殺人事件 昭和29年4月5日


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雑誌記者 昭和33年10月6日


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ダンナさまマーケットに行く 昭和34年7月20日2刷


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巴里の空の下オムレツのにおいは流れる
昭和38年3月12日初版
平成23年4月29日48刷


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一戔五厘の旗 昭和46年10月10日


以上花森装釘本の総数からすればごくわずかの例ではあるが、ご覧のように花森は一貫して「装釘」を使っていたわけではなかった(むろん他社の本では用字に注文をつけなかった、ということも考えられる)。昭和三十年代以降はもっぱら「装本」である(恩地孝四郎に同感したのではないかと憶測する)。花森が釘にこだわったのは、最も切実に「再建」が望まれた時代、昭和二十一年から二十年代中頃までだったのではないだろうか。敗戦日本で何をなすべきか。花森の決意が釘の字に込められていた。

と、まあ、都合よく解釈してみたが、唐澤氏より以下のようなご意見をいただいた。

小生が在籍した昭和47年から53年にかけて、暮しの手帖社から出した本に、沢村貞子『私の浅草』『貝のうた』、湯木貞一『吉兆味ばなし』などがありますが、花森はそれらに装釘をつかっています。その時期、ソウテイについて花森が部員にきかせた講釈が、たまたま小生の記憶に刻まれてしまったのだろうとおもいます。仰せの通り、装本も多くつかっており、花森の気持がまだゆらいでいたのかもしれませんね。

上記3冊のなかでは、沢村さんの『私の浅草』でいちばん先です。よく売れた本で、あるいは読者から「疑義」が呈されたのかもしれません。花森は負けず嫌いですから、そこで装釘について講釈をしたのだとおもいます。要するに、じぶんは間違っていない、と言いたがりの性分ですから。いずれにしろ最晩年の本です。装釘に「回帰」したような印象もあります。

回帰とは意味深いものがある。どんな心境だったのだろうか。

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by sumus2013 | 2017-02-17 21:35 | 古書日録 | Comments(2)

劉生繪日記

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『新訂劉生繪日記』全三巻(龍星閣、一九七八年)の刊行案内葉書。某氏より頂戴した雑誌の間に挟まれていた。社主の澤田伊四郎が書いたと思われる口上が興味深い。

《『劉生絵日記』を二十五年ぶりに再刊するに当り、初版上梓の頃を振り返ってみたい。昭和二十六年、刊者が疎開先の郷里から、いささかの山林を売った金をもって上京した時、出版界は、なにもかも貧困で、粗悪仙花紙時代は去ったが、印刷紙は統制廃止のため高騰、単行本は返品の山、取次店は群小出版社締出政策の真最中に際会した。しかし刊者は、この状勢こそ、得たりとばかり突き破らなければ、再起することができなかった。刊者は先ず、永年の書物を語る唯一の知己、松方三郎さんを訪ねた。そしてそこで劉生畢生の日記原本が保管されているのを見て『劉生絵日記』刊行にとりかかることができた。松方さんが解説を書き、刊者は資料不足に困りながらも編註を記した。》

《そして今、資料の不足を補い、更に造本を吟味して再刊するのであるが、さきの初版本の古書価が三十万円(特装版)している、ときいても、松方さんは、当時の事を考えると、まだ安い、と言うにちがいない。》

文中で言及されている『劉生絵日記』特装版(一九五二〜五三年)の古書価は目下のところ二〜三万円程度である。再刊本が普及しているわりには高いなという感じもする。それはさておいて『劉生絵日記』じつに面白い本である、太鼓判を捺す。


***

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『APIED』VOL.28(アピエ社、二〇一七年一月三一日、表紙装画=山下陽子)が届いた。特集は「いま読む少女文学 『不思議の国のアリス』『モモ』他」。ガーリッシュな小説とは……興味津々なり。冒頭、千野帽子氏のページを読み始めるとこんなことが書いてあった。

《英国の文学者ルイス・キャロルの本名をチャールズ・ラトウィッジ・ドジスンと習い覚えていたけれど、『不思議の国のアリスの家』の翻訳によると Dodgson はドッドソンと読むのがもとの音に近いらしい。》(『不思議の国のアリス』の一五〇年後)

ふーむ、そうだったか。発音は難しい。とくに固有名詞は。昨日たまたま読んだ中野美代子『三蔵法師』(中公文庫)にも

《なお、玄奘の「奘」の日本漢字音は、漢音が「サウ→ソウ」、呉音が「ザウ→ゾウ」で、「ジャウ→ジョウ」音ではない。現代の中国音では zhuang と zàng の二音あり、かれの名の場合は zàng と読むべきで、それはまた大蔵経や三蔵の「蔵」の字と同音である。したがって、玄奘三蔵[ルビ=げんぞうさんぞう]と読むのが正しい。》

と書いてあった。ゲンゾウさんだったか。


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by sumus2013 | 2017-02-15 20:24 | 古書日録 | Comments(2)

劉生と京都

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『京都市美術館開館70周年記念特別企画展 劉生と京都 「内なる美」を求めて』(京都市美術館、二〇〇三年一〇月)図録。つい最近求めた。なぜかこの展覧会を見逃している。図録を眺めながら残念だなと思った。というのは劉生の弟子だった安井巳之吉の絵に興味を抱いたからだ。岸田劉生の絵日記はよく知られているし活字にもなっている。それとは別に京都時代の劉生の身近にいた安井巳之吉もかなり詳しい日記を残しているのである。本書に収録されている巳之吉日記はすこぶる面白い。絵に対する真面目な取り組みにも感心させられるし巳之吉がほぼ毎日のように劉生宅に出入している様子は貴重この上ない。劉生夫人や麗子とも仲良しで信頼されていた。劉生宅に泊まり込むこともしばしばだった。また劉生が日本画を描くときなどには書生だった山岸信一とともに絵具を溶くなどの手伝いをしていたようだ。

巳之吉日記は別に紹介するとして、京都から鎌倉へ引き上げた岸田劉生が巳之吉の父安井三郎右衛門(石川県能美郡打越=現・小松市打越)に宛てた書簡が資料として掲載されているので、まずそちらを読み解いてみたい。というのは、一応、読み下しの文が付されているのだが、それがどうも頼りにならないのである。七十周年記念の図録としてはいささか問題ありなのだ。ただし小生の読解力も例によって心もとなく何箇所か読めないところがある。読めたつもりのところも正確かどうか。御教示いただければ難有。

大正十五年三月二十八日付。年譜によれば鎌倉に戻って(すなわち巳之吉と別れて)二週間ほど。手紙にもあるようにこの日、長男鶴之助が生まれている。ごく簡単に言えば、こんなてんやわんやなときに書生(山岸)まで国に帰ってしまって困っている、何とか一時的にでも息子さんを寄越してくれないか、という内容である。

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  拝啓
  益々御清祥奉賀候 扨て
  御子息巳之吉殿その後如何
  御候や実ハ当方家内出産の
  ため入院、これ迄宅に居り候
  書生帰国のため絵具とき
  其他の用事ニ手不足を
  じ困却仕候2間誠ニ勝手
  かましく候へども巳之助殿し
  バらく当方ニ御ヒでを願上度候
  御貴家様の御都合にて
  永くハ御困りの様なれバ 一時
  にてもよろしく候間何卒
  至急ニ巳之助殿御来鎌
  下さる様御とり計ひ願へれバ
  幸ニ存じ候勝手なる


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  御願乍ら御承引下さる
  なれバ大ニ助かり申可く此段
  折入て御願申上候
  先ハ右御願迄匆々

    三月二十八日
          岸田劉生

    安井三郎右衛門様


12のところ図録ではどちらも「実」と読んでおり、それでいいようにも見える。だが「実」では文章として意味をなさない。おそらく「候」ではないか? のところも生とは思えない字だが、ここは生と読んでおくしかないか? なにしろ劉生という自分の名前に生が入っているので間違えるはずもないのだが、とにかく慌てて書いたのは確かのようだ。巳之吉が二度目から巳之助になっているし。【御教示従っていくつか訂正しました】

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by sumus2013 | 2017-02-12 20:36 | 古書日録 | Comments(4)

飯田九一文庫目録

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飯田九一自画像


飯田九一の俳画を求めたことはすでに報告した。

葉牡丹の裾寒う見ゆ夜は雪か

某氏より『飯田九一文庫目録 地域資料・主題別解説目録』(神奈川県立図書館、二〇一〇年三月)を頂戴した。これは有り難い資料である。九一の年譜、著作目録、短冊類のコレクションから百家の作品(解説と図版)、そして九一の著作の一部が収録されている。

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飯田九一の年譜から主要な項目を引いておく。

明治25年10月17日 橘樹郡大綱村北綱島(現横浜市港北区)に飯田助大夫(海山)の三男として生まれる。八歳の頃から俳句を始める。
明治38年? 日本体育会荏原中学校に入学(東京府荏原郡大井村)。粟津洋帆とともに俳誌『二葉』発行。『中学世界』『文章世界』に投稿。
明治43年春 荏原中学校卒業。白馬会葵橋洋画研究所に入りデッサンを学ぶ。
明治44年 東京美術学校木彫科に入学。竹内久一に学ぶ。
明治45年秋 肋膜を病み麻布赤十字病院に入院。横浜根岸の施療院に転院し療養する。
大正5年春 東京美術学校日本画科に入学。寺崎廣業に学ぶ。
大正7年頃 川合玉堂に入門。
大正9年 東京美術学校卒業。
大正12年 岡田嘉千代と結婚。関東大震災を機に横浜に転居。
大正14年10月12日 第六回帝展入選。
大正14年10月20日 父、死去。
大正15年10月9日 俳骨吟社句会(九一が主選を務める会)。
昭和4年5月25日 俳誌『雑草』創刊(〜昭和6年9月)。
昭和4年6月1日〜 「巴里日本美術展覧会」に日本画「樵夫晩帰」出品。
昭和6年5月 武蔵山(後の第33代横綱)の後援会誌『武蔵山』創刊(九一宅が編集所)。
昭和9年10月 『文藝アパート』第一巻第一号に小説体の作品「植字工」を発表。
昭和10年3月 香蘭会設立。
昭和10年5月5日 純芸術雑誌『海市』創刊。編集にあたる。
昭和10年6月25日 第一句集『寒雀』刊行。
昭和11年9月 第一回香蘭会俳画展開催(横浜市伊勢佐木町野沢屋)。
昭和14年6月20日 第二句集『花蘇枋』刊行。
昭和15年4月 「飯田九一画伯日本画個人展」(福岡市岩田屋)開催。
昭和16年10月11日 香蘭会から海軍省に恤兵品として日本画30点を寄付。
昭和21年6月 横浜市鶴見区花月園内に転居。月刊句誌『鶴』(第二号より『玄鶴』)創刊(〜昭和24年11月)。
昭和28年3月29日 第一回横浜文化賞受賞。
昭和31年10月 第五回神奈川文化賞受賞。
昭和36年3月 「神奈川県古俳人展 筆跡と俳書」開催。記念講演「芭蕉と神奈川県」(神奈川県立図書館)。
昭和45年1月24日 警友病院で死去。七十七歳。墓所は本法寺。
昭和45年10月2日 遺志により研究のため収集した資料を県史編集室に寄託。
昭和46年1月24日 遺稿集『釣魚俳句集』刊行。
昭和46年3月 飯田九一遺作展開催(野沢屋)。『飯田九一遺作展画集』刊行。
平成20年3月 飯田九一没後40年記念展開催(みつい画廊)。『俳画集飯田九一』刊行。

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飯田九一のコレクションはかなりのもの。芭蕉から近現代の俳人や作家まで網羅している。たまたま開いたこのページは左が河東碧梧桐、右の漢詩は岸田吟香。書物は吟香の発行していた『横浜新報もしほ草』である。

『文藝アパート』(昭和九年十月十日)に掲載されている「植字工」には文章の折々に俳句が挿入されている。新機軸(?)の俳句小説。植字工というのはプロレタリア詩人で印刷所を経営していた伊藤公敬(いとうただゆき)のこと。飯田は句集の印刷を伊藤に任せていた。「植字工」からいくつかプロレタリア俳句を拾っておく。


  歯車に人が血を噴く四月哉

  金借りにゆく夜蛙と月の暈

  顔青し街路樹の芽の煤け様

  甘藷粥のあまりに淡し春の雪

  春暁や泣く子泣かせてふかし飯

  蛙の子痩せ田と知らで生れけり


プロレタリア俳句をよむかと思えば海軍に日本画を寄付する。そういう時代の流れのなかに生きていたということであろう。年譜をなぞっていると、やはりまれに見る幸せな生涯ではなかったろうか、という気がしてくる。

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by sumus2013 | 2017-02-09 21:38 | 古書日録 | Comments(0)

四番茶

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下村海南『四番茶』(博文館、一九二七年三月三日三版)。裸本。むろん均一。昔この人の随筆を読んで面白かったので、これもちょっと読んでみようかと思ったのと「本をつくる人」というコラムがあったため求めた。まずまずだった。

「本をつくる人」は「鈴の屋と古事記伝」「韓非子翼毳とハルマ字書」「校本万葉集」「契沖全集と鈴の屋図書館」「古事記伝を新聞にしたら」の五篇である。近世の出版苦労話をまとめていてそこそこ読ませるのだが、ここでは一話だけ引用しておく。太田全斎による『韓非子翼毳(かんぴしよくぜい)』の出版。〜〜は繰返記号の代用。

《太田全斎は福山の藩士である。韓非子の研鑽十余年におよび、その註疏韓非子翼毳二十篇十冊九行二十字詰一冊五十枚を出版するに当り、まづ佐藤一斎の塾から木活字約二万字を求めたが、活字に不足が多く、一枚を組むに五日を要したので、不足の分につき更に約一万字を彫刻しいよ〜〜印刷にかゝるとなると、病妻はすでに長く床にありて手助けどころではない、五人の子供はいづれも年端がいかぬ、末の乳呑児は乳に餓えて夜昼となく泣き叫ぶ、僕婢は皆遁れ去つて帰らず、己れは右指腫瘍甚しく、体力次第に痩衰へ、殆ど二年間は遅々として進境を見ず、一家挙げて貧苦の中に呻吟した。たまたま姪の塩田氏より若干の資金を得、なにがしかの版木と紙を求め、十三歳の長男周蔵が彫刻する、かつ〜〜出版にかゝるが家計の赤貧に加ふるに病人は絶えぬ、公私の雑務に逐はれる、その中で仲弟信助末弟三平が漸く長じて来る、父は字を組む、長次子は字を彫る、末弟は版を刷る、朝早くより夜晩くまで親子四人が血と涙の苦闘をつゞけ、辛酉の冬から享和戊辰の孟夏まで八年の星霜を経て刷り上げた部数は、驚くなかれ只の二十部で、この書現今一部は東京に、一部は九州に残存してゐると伝へられてゐる。》

どうしてそこまで……。

本とは別にもうひとつ興味を引いたのは「近江兄弟物語」。大正十四年、滋賀県知事末松偕一郎から講演を以来されて海南は初めて近江八幡の地を踏んだ。講演が終わって肺病療養所へ案内された。

《県立かといふと違ふ、町立かといふと違ふ、ヴォーリズといふ、耶蘇教の人達が建てた病院だといふヴオーリズ……聞いたやうな名前である、聞いたやうにもなんにも大阪朝日新聞社と土佐堀川を隔てゝ、大同ビルが普請中その大きな葦簀の囲ひの表に Vories 建築事務所といふ大きな看板がかゝつてあつた、朝夕あまり眼になじみ過ぎてるあのヴオーリズかといへばそのヴオーリズだといふ。》

大同生命肥後橋ビル、なつかしい。一九九〇年に取り壊されたが、八〇年代に何度かビル内のギャラリーを訪問したことがある。

《華族のお嬢さんのお婿さんでヴオーリズ、建築家であるヴオーリズは、どうやら本職は伝道師らしい、伝道師であつて建築家一寸取り合せが妙であるが、建築家であるヴオーリズの名前なら、大震災の前後色々の方面から耳にしないでは無い、東京で旧藩侯世子徳川頼貞氏の建てられた南葵音楽堂も、学友森本博士等の創設にかゝるお茶の水の文化アパートメントも、関西学院も大丸呉服店も、みなヴオーリズの建築にかゝつてる、そのヴオーリズが何でこんな處へ療養所を建てたのかといへば、此近江八幡にヴオーリズ建築事務所があり、ヴオーリズと兄弟のやうになつて活動してゐる吉田悦蔵といふ人もこの町に住んでるのだといふ》

ヴォーリズ『一粒の信仰』(吉田悦蔵訳)

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《安土! あの南蛮寺の鐘の鳴つた安土、神学校でピヤノを奏でたあの安土、日本の西教のはぐゝまれたあの安土から、二里足らずの八幡の丘に、三世紀を隔てた大正の代となり茲に近江ミツシヨンが根ざされてるのも不思議な因縁だといへば、吉田君は安土の滅亡した時に市民はみな此八幡に遁げて来た、安土は乃はち八幡、安土の文化は八幡によつて受けつがれた、ヴオーリズはいつも世界の中心は近江の八幡だと真面目になつて宣伝してますといふ。》

なるほど、そういうことだったか。信長時代の実績が近江八幡には残っていたのだ。ヴォリーズはそれを知っていたのだろうか? 高山右近がヴァチカンによって「福者 Beatus」に列せられたというニュースを聞いたばかりだ。プロテスタントのヴォリーズにはそんな仰々しい格式張った栄誉は似合わないかもしれないが(藍綬褒章と黄綬褒章は受けている)、海南の文章を読んでいると近代日本におけるヴォリーズの存在は精神面と物質面の双方において決して小さくなかったことがよく分る。

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by sumus2013 | 2017-02-08 21:13 | 古書日録 | Comments(0)

CATALOGUE 1938

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『CATALOGUE OF PERIODICALS 1938』(三省堂)。海外の定期刊行物の目録。アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ソ連、スイス、チェコスロバキア。一年契約である。

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***


小生が閲覧した淀野隆三の日記は一九二一年、淀野が京都二中在学中から始まっている。ただし二中時代の日記はそう詳しいものではない。二中と野球に触れている記事は以下の通り。この他、一九二三年、三高入学後、野球部に勧誘される記述があって、淀野は相当に迷ったようだ。また一高との試合については『spin』でも引用したと思う。

一九二〇(大正九)年一月十日
朝より天気晴々として空に一群の雲もなく日本晴れとはかくの如き天候を云ひたるならん。
放課后野球練習する清水はテニス練習お互いに歯を入れる為め今日より僕は帰家せんとす。

[一九二一は該当なし]

一九二二年
三月十一日
そして列車はくれて行く平安の火の都をあとに、二中のポプラの佇立を見ながら、西へ、西へと行くのである。かくして我々は帰へつた。西原が鹿児島へ行く四人を見送つつ来て居た。十字屋でマンドリン教則本を、丸善で英書二冊を。京阪中で文金高島田の青い毛のかたかけをした娘に会ふ。時々私の方に目を送つて居た。美しい女であつた。私は其の女の顔を正視してやつた。丹波橋でおりた。車はがらんとして居た。

三月二十三日
今日もいゝ天気だ。急に学校へ行く気がした。京二中に登校、久し振りで運動することは愉快である。そして中学時代の追憶に耽けつた。美しい無邪気な人を見ては私も小さい時のことを思ひ出さずには居られない。この気分。追憶!それは美しい言葉だ。

十月十四日
 今日は三時より二中会があるのである。[消=彼はもう]私はその会合によつて私の心を遣らうと思つて居た。石井と二人で清滝に行つた。四時頃になつて雨がしとしとと降つて来た。勿論ぽつりあめですぐ去つて失つた。清滝についた。清く流るる谷川の両[消=岩]涯[崖]に立つ酒楼。静かな山間の高楼には平和の気が漲つて居た。そこにこそ今喜びの声があげられやうとして居るのである。
 集る人は二十名あまりであつた。然しこの中の人々こそ真に高校の生活を理解せんとする人々ではないか。引きずられて来る人もある。然し私達の狂人の如き歓喜をみて呉れるのである。会は自己紹介より始まつた。酒が出た。魚も出た。一番高所にある枡屋の一等座敷である。こゝで[消=彼]私等の集ひの開かるゝことは喜ばしいことである。私は飲んだ。飲んで呉ると又椎子が頭に浮んで来る。然しながら酒のまはるに従つてさびしさもますし又それだけさびしさにこらへる力が湧いて来る。私は飲んだ。村田も飲んだ、石井も飲んだ。長谷川も、加藤も、関も、川口も。私は村田と幾度も相抱いて舞つた。乱舞した。

十二月三日
私がまだねむつて居たとき芳兄がたづねてくれた。私はしばらく清水とねながら話して居た。後、十一時頃から二人は書斉で話し合つた。彼は又塾での出来事を話した。それによると寮長と五年の生徒とが会見して、塾生の自由〜それは青年としての自由〜を尊重することを守らしめることを約したんだそうだ。今塾生は団結して居る、そしてこの団結が貴いのである。この力をもつて塾風改善に努力するならば必ずよくなることを信ずるのである。私が今芳兄と二人居たら、きつと二中の舎を美しいものとする事が出来るであらう。少なくとも一二年の人たちを。

十二月十日
○私は井上を信じて居た。そして私が野球部に入つたとき彼も入部し、ともに大きくならうと云つたことがある。たしかに私は井上市太郎を信じて居た。彼がフラフラした人間になつたといふことも聞いた。然し私はそれでも信じて居た。上野は私に「井上は推子の背中を電車の中でつゝいた」と云つた。私は第二回の受験準備の二中での模擬試験のとき井上が「淀野にすまん、ほんとにすまん」と云つて去るのを見た。あの時私は推子に彼が恋して居ることを知つた。

以上である。

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by sumus2013 | 2017-02-07 20:59 | 古書日録 | Comments(0)

署名本三冊

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署名本をパタパタと三冊ほど見つけた。いちいち買っていてはまた置き場所に困るとは思いつつ求めてしまった。右から赤尾兜子『虚像』限定版(創元社、一九六五年九月二五日、装画=津高和一)、中河与一『天の夕顔』限定版(角川書店、一九六三年六月三〇日)、田村木國『大月夜』(山茶花発行所、一九四二年四月一日)。

まずは『虚像』。赤尾兜子の第二句集である。岡満男様恵存とあるが、岡満男は『新聞と写真にみる京都百年』や『近代日本新聞小史』の著者だろうか。 

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奥付には「限定句集」とだけしてあって限定数は記されていない。本書の限定番号は「00249」……まさか一万部限定! 津高和一の装画がカバーと扉と挿絵と三点付されている。試しに引用しようと思うのだが、これはどう選んでいいのか分らない。年代ごとに三つにまとめられているのでそれぞれの最初の句を引いておく。

  花束もまれる灣の白さに病む鴎 (「渚の艾」昭和三十四年)

  黄昏れる頂上 ハンターの鯛の酒盛り (「轢死の葡萄」昭和三十六年)

  試走車に砂ながれだす牡蠣の村 (「蒼白な火事」昭和三十八年)

こういう時代だったのかなと思うのみ。

お次ぎは『天の夕顔』限定350の内の250番。カットにジャン・コクトーのデッサン、永井荷風が絶賛した手紙も掲載されており、少々ミーハーな作り。遊び紙への揮毫は美意延年(こころをたのしませれば年を延ぶ)。本書の「あとがき」によれば「天の夕顔」は『日本評論』昭和十三年一月十五日号が初出。その後いろいろな形で出版されており《その種類は十指を超えるに至つてゐる。昭和二十八年にはフランス版を DENOEL 書店から出し、英、独、華の諸国語に訳されたものもそれぞれの書肆から出版せられた。》というほどに流布した作品らしい。ウィキによればこの小説のモデルと悶着があった。なお中河与一は讃岐国坂出の出身【うどん県あれこれ】。

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三冊目『大月夜』も第二句集である。見返しに「贈舘野翔鶴君/著者」。舘野翔鶴は俳人、俳誌『引鶴』主宰。そして署名用の頁に一句自書。

  土用浪ひしとかたまり岬の家  木國

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田村木國(1889-1964)は和歌山の笠田町(現かつらぎ町)出身で大坂朝日、大坂毎日の記者として活躍した。虚子、碧梧桐らに師事。本書には函があるが、欠けている。題字は高浜虚子、扉絵は川端龍子。



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by sumus2013 | 2017-02-06 21:14 | 古書日録 | Comments(0)