林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:古書日録( 723 )

骨論之部

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骨から骨へ……というわけでもないが、本日は久米桂一郎『芸用解剖学 骨論之部』(画報社、一九〇三年二月二七日)を紹介する。表紙に箔押しで記されたタイトルは『芸用解剖学 骨論部』だが扉では『芸用解剖学 骨論部』となっている。また著者についても扉では《森林太郎/久米桂一郎/同選》とあるが、奥付に記された著者名は久米のみ。「同選」は詩文のアンソロジーにおいて撰者が二人以上いる場合に用いられるようだ。合選とも。森鴎外の日記に照らすと久米の原稿を鴎外が校閲するというような共同作業だったらしい。

美術解剖学の流れ 森鴎外・久米桂一郎から現代まで』(久米美術館、一九九八年)図録の解説(伊藤恵夫)によれば、本書は明治三十六年初版で、その後明治三十八年に改訂増補版、四十一年に第三版が発行されている。雑誌『美術評論』第五号から第二十三号にわたって十五回連載された内容(連載時の筆者は「无名氏」)に雑誌廃刊のため発表できなかった部分を増補して刊行された。また次巻では筋肉から姿勢、運動に関する記述へと進む予定だったが、完成は見なかった。

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久米が典拠としたのはポール・リッシェ(Paul Richer)の『Nouvelle Anatomie Artistique』(1912,1920,1921)三冊で、本書はその第一巻(骨格と筋肉)の部分訳(?)になるのであろう。久米は明治十九年にフランスへ留学。ラファエル・コランの門に入り西洋画を学ぶとともにモンパルナスの夜学校(L'École du Soir)でデッサンに励んだが、そこで解剖学に出会い積極的に勉強を始めた。明治二十六年帰国。二十九年、黒田清輝らと白馬会を結成。この年開設された東京美術学校西洋画科において美術解剖学と考古学の講義を受け持ち、大正十五年まで三十年間講じた。


中村不折『芸術解剖学』

パリ植物園 古生物学比較解剖学展示館


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by sumus2013 | 2017-05-22 20:40 | 古書日録 | Comments(0)

こゝろ

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漱石についてなんとか書き上げた。美術との関わりを少々。ちょうど呻吟しながら書いている最中に『學燈』春号(丸善出版、二〇一七年三月五日)「「學燈」創刊120周年記念 特集夏目漱石」を某氏が送ってくださった。ここに古田亮氏(東京藝術大学准教授)の「漱石の美術鑑賞」という一文が収められていて、おお、と思ったのだが、小生が書こうとしていたこととはほとんど重ならないのでひと安心。この文章はB・リヴィエアーの絵「ガダラの豚の奇跡」と「夢十夜」の第十夜の類似について(二〇一三年に「漱石の美術世界展」という展覧会があったのだ、知らなかった)。

もうひとつ祖父江慎氏の「不安定な文字、不安定な本ーー漱石の『こころ』と、書籍デザイン」というエッセイも面白く読んだ。氏は新装版の『こころ』(二〇一四)をデザインしたときの観察から漱石が自ら手がけたその装幀の謎に迫っている。

まずタイトルについて「こころ」「こゝろ」「心」など一定しておらず、その書体も楷書体や篆書体が使われており、化粧箱には《甲骨文のような金文のような謎の古代文字》が書かれていると指摘。その文字は函のヒラに書かれている手と縦棒(上の写真左)の文字を指す。これはふつうなら「父」とか「失」とか、または「寸」と読んでみたいところなのだが、タテ棒が手の右側にあるというのは手許の字書にも見当たらない(御教示を)。祖父江氏は

もしかするとペンを手放した手、つまり「遺書」という意味の漱石創作文字かもしれません。

と飛躍して考えておられるが、あながち無視できない指摘であろう。ただし、函のヒラに大書しているのだから、当然「心」のつもりだったと考えるのが自然である。この形に出典があるかないか、それだけが問題だろう。

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函(左)と本体の背


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口絵(漱石による)


また本体表紙の石鼓文のアレンジについても面白い説を開陳しておられる。

漱石の下絵をコンピュータで起こしてるときに、面白いことに気づきました。表紙を伏せて開いて見たときの右上、つまり表四の最初の目立つ場所に「馬」の文字があります。それから背の著者名の下の目立つところには雄鹿と雌鹿のふたつの「鹿」の文字が、書かれています。たまたまかもしれませんが、併せて「馬・鹿」です。「馬鹿」といえば、この作品のキーワードでもあります。

「向上心のないものは馬鹿だ」と友達のKから言われたことが悲劇(?)の発端になることを指す。これもまたあながち軽んじられない推論である。漱石ならやりかねない。

これらの他にも、どうして岩波書店から出版したのか? どうして自分で装幀したのか? という謎も残っている。

もしかするとこの作品を、言葉のように、なるがままに委ねてみたかったのかもしれませんね。漱石は、本になって流通するところまでの構造全体のデザインを行ったんだという気がします。

祖父江氏はこう解釈している。さて、どうなのだろうか。

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by sumus2013 | 2017-05-18 21:46 | 古書日録 | Comments(0)

誤植の効用

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『歴程三百号記念』(歴程社、一九八三年一〇月一日)。この雑誌をペラペラめくっていると(いつものように)高橋新吉の文章が目に留まった。「小林秀雄のこと」。

京橋にあるウィンザーというバーで小林と喧嘩をした。それ以来親しく話したことはないと書きつつ、小林をこきおろす。そしてここいうところにケチをつける。

新潮社の「波」というPR雑誌に、白洲正子が、次のように書いていた。「小林秀雄さんがいつか私に、『洲之内という人は今一番の批評家だね』といったことがある。ーー」
 これを読んで私は、噴飯ものだと思ったが、同時に小林の敵意を感じたのである。
 私は、「気まぐれ男へ」の中に「こんな男に、芸術のことなどわかる筈はない。」と、洲之内のことを書いている。これは洲之内が中国で特務機関か何かにいた時、中国へ一度も行ったことのない小森盛と、土方定一が北京から連れ立って、洲之内を訪ねてきたように、土方に愛媛新聞に書かせていたので、こんなウソを言う洲之内には、美術批評などできる筈はないと思ったからである。》(「小林秀雄のこと」)

白洲正子に対してはかなり気を遣っているが、洲之内徹には容赦なく攻撃が続く。

洲之内の売名工作のうまさ、処世術の巧みさは、驚くばかりであるが、大和民族のように、罪に寛大な人種も少ないようだ。》《森敦や洲之内徹のように、私を狂人のように言いふらすのは許せない。私は狂人でないことをここに書き添えておく。》(「小林秀雄のこと」)

ということで洲之内徹が高橋新吉についてどのように書いているのか知りたくなった。どうしてそんなに高橋新吉が怒っているのか? こういうときに『sumus 05』の気まぐれシリーズの人名索引がこの上なく便利。すぐに答えが出た。高橋新吉は『気まぐれ美術館』に二度、『帰りたい風景』に一度、『さらば気まぐれ美術館』に二度登場している。ところが、段ボール箱に納めてあるそれらの本を取り出すのに酷く骨が折れた。やれやれ。

それらによると高橋新吉は洲之内徹とは親しくしていたようだ。同じ愛媛県出身ということもある。田村泰次郎のころの現代画廊で水墨画展に参加したり、後には案内状に解説を書いたりもしている。ではどうして? 『さらば気まぐれ美術館』(一九八八年)所収の「誤植の効用」を当ってみると、そこに怒りの謎解きがしてあった。

高橋は土方定一が書いた文章(松山で開かれた洲之内コレクション展の図録)に登場する「小森盛」という人物が中国などには行ったことがないのを直接知っていた。ところが土方が中国で洲之内に紹介した小森は「小森武」だった。武と盛の間違いが高橋新吉をして洲之内徹をペテン師呼ばわりさせることになった。

銀座の永井画廊で《高橋新吉書画展》が開かれたが、その会場で高橋さんが小森盛氏の、自分は中国へは行ったことがないという返事の手紙をゼロックスでコピーして、来る人みんなに配り、洲之内というやつはこういうやつだ、こういうありもしないことを土方定一に書かせたんだ、と言っていたらしい。》(「誤植の効用」)

ここまで洲之内が悪者にされるには理由がある。

それにしても、高橋さんはなぜそんなに怒っているのか、それが私にはわからない。私がそう言うと、私にその話をする人は、洲之内はオレのことを強盗と書きやがった、娘の嫁入りの邪魔になる、と言って高橋さんは怒っているというのだ。》(「誤植の効用」)

強盗発言は洲之内徹が「虫のいろいろ」と題して書いたエッセイにある(『帰りたい風景』一九八〇年、所収)。

汁粉屋の頃、いちど高橋新吉氏が、東京から帰ったといって訪ねてきた。その高橋さんに何も知らない私の女房が汁粉を出したが、これには流石の高橋さんもたじたじの態に見受けられた。高橋さんは紫色の小さな風呂敷包みをひとつだけ持っていて、その中には立派な硯がひとつと、包丁が一本、『強盗の研究』という本が一冊入っていた。そして、私に、
「お前はこの頃、原稿料でだいぶ稼ぎがあるだろう」
 と、まるで本物の強盗みたいなことを言ったが、これでも判るように、実はその頃私は小説を書いていて、ほんの二、三年の間であったが、何回か作品が文芸雑誌にも載ったりしたのである。》(「虫のいろいろ」)

この描写がなかなかいい。そのためにとばっちりを受けたか。「誤植の効用」には次のように書かれている。

私としては郷土の大先輩であり、伝説的人物でもある高橋さんに対する親愛の情をそんなふうに書いたつもりだけれども、高橋さんがそれで怒っているとすればしかたがない。
 しかたがないが、しかし、こうなるとやっぱり笑い話だ。ある日、戸田達雄氏と電話で話したとき、私はこの話を戸田さんにした。戸田さんは大正時代の未来派美術協会やマヴォにもいた人で、詩人であり画家であった尾形亀之助とも親しかった人だ。私が、
「何だかしらないけど、高橋新吉がばかに怒っているんですよ」
 と言って、笑い話のつもりでこの話をすると、電話の向こうで戸田さんはすこしも笑わず、ひどく真面目な声で、
「高橋新吉とはそういう人間ですよ」
 と言った。私は、私の軽薄さを戸田さんにたしなめられたような気がした。そうなのだ。笑い話ではないのだ。高橋新吉とはそういう人なのだ。》(「誤植の効用」)

そして後日談。

去年だったか一昨年だったか、地下鉄銀座駅のホームで、私は高橋さんにぱったり会った。
「高橋さん」
 と、私が声を掛けると、高橋さんは一瞬、悪びれた子供のような顔をして、
「お前のことをいろいろ書いてやったが読んだか」
 と言い、私をそこへ残して、入ってきた電車の、開いた扉の中へ消えた。私が高橋さんを見たそれが最後である。先頃、高橋さんは亡くなった。》(「誤植の効用」)

高橋新吉が歿したのは一九八七年六月五日。洲之内徹は同じ年の一〇月二八日、後を追うように歿している。

つい書いてしまったことから思わぬとばっちりを受ける……ブログを書く身としても気をつけないといけない。気をつけても防げるものではないだろうが。

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by sumus2013 | 2017-05-11 20:39 | 古書日録 | Comments(0)

書画珍本雑誌社

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いつも珍資料を頂戴する某氏よりまたまた変った紙モノを頂戴した。それは「書画書籍価格符号表」。発行は書画珍本雑誌社(大阪市東区北久宝寺町一丁目四十八番地)。説明を読むとどうやら『書画珍本雑誌』の付録だったようだ。本誌に掲載されている書画・雑誌の価格符号を解読するためのアンチョコである。《毎号共通乞保存》と書かれている。『書画珍本雑誌』にはお目にかかったことはないと思うが、日本の古本屋にはけっこう出品されているのでそう珍しいものではないようだ。

これまでもいくつか紹介してきたように値段の符牒というのは古くから存在する。

『掌中和漢年代記集成』(文江堂、文化三年=1806)

「大阪商家の符牒」

しかし、これらと比較すると本書の符牒は暗号表と読んでもいいくらい複雑である。何か規則というか法則があるのかな……としばらくにらんでいたが、判らん、というか、ないでしょう(もし発見された方がおられればぜひコメント欄にお願いします。最初と最後の二ヶ所を拡大しておきます)。五十銭の囲み内には口のついた漢字が多いけれどもすべてではない。巨額のところ「萬」は符牒になってないし……。

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『書画珍本雑誌』は大阪で大正八年十二月に創刊された。金井誠、平林縫治が編者である。大正十四年までは発行が確認できる。日本近代文学館に十三号まで揃いがあり、国会図書館にもバラで何冊かある(まだインターネット上での閲覧はできない)。

2013-05-29 古本夜話300 平林鳳二、大西一外『新撰俳諧年表』と書画珍

金井誠については不詳。平林縫治はコトバンクによると以下の通り。

平林鳳二 ヒラバヤシ ホウジ
大正・昭和期の俳人
生年明治3年3月(1870年)
没年昭和2(1927)年10月5日
出生地信濃国東筑摩郡生阪村(長野県)
別名通称=縫治,号=巨城,巨城舎
経歴20歳より3年間生阪郵便局長を勤めたのち上京、生命保険会社に勤務し、傍ら伊藤松宇に俳句を学ぶ。秋声会に属した。「新墾」同人。のち文人墨客の伝記及び墨蹟鑑定を研究して「書画珍本雑誌」を刊行し、大阪及び京都に住んで書画骨董や古俳書の売買業を営む。俳人としての面よりも大正12年刊行の「新選俳諧年表」(共著)の編者としての業績が高い。他の著書に「蕪村の俳諧学校」など。

この略歴に上がっている単行本はともに書画珍本雑誌社の刊行物である。

新撰俳諧年表 : 附・俳家人名録 1923
平林鳳二, 大西一外 編

蕪村乃俳諧学校 1924
乾木水 解説,大西一外 校訂

なお大西一外は讃岐人であった。大西一外(おおにし・いちがい)俳人(明治19年11月1日~昭和18年5月25日)。

一外。大西千一。仲多度郡象郷村大字上櫛梨の産、多年大阪に住し官界に務む。晩年帰郷 月刊雑誌「ことひら」を発行す。俳諧史の研究家である。著書に「新選俳諧年表」あり。平林鳳二氏と共著。昭和18年没。》(香川県俳諧史)

乾木水についてはよく分らないが、京都の俳誌『懸葵』に関係していたようだ。

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by sumus2013 | 2017-05-08 20:31 | 古書日録 | Comments(2)

石塚友二書簡

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田舎の整理中に見つけて取り出して戻った。石塚友二の吉田達弥宛書簡。消印は昭和三十五年十一月十日。鶴俳句会の二百字詰原稿用紙にペン書き三枚。内容は献本に対する返礼である。

御高著「赤い帆前船」ありがたく拝受致しました。厚く御礼申上げます。
御作は「文学草紙」で愛読致して居りました。立派な御本となつたことを実に嬉しく存じます。

『赤い帆前船』は一九六〇年、雄文社刊行。『文学草紙』(文学草紙社→新文化)は昭和二十二年創刊で現在も継続されているようだ(洲之内徹も寄稿したことがある)。

このところ私小説は評論家の攻撃の的となつて文学市場を追はれた観がありますが、然し浅見淵氏等少数の具眼者も居られることではあり必ずしも悲観する必要はないやうに思ひます。どうぞ本当の意味の文学の為に此上益御精進下さる様祈つて止みません。それには「文学草紙」といふ大人達の集りに属される御環境もあることですし多少大袈裟ないひ方をするならば文学の神様はあなたの御精進に決して背を向けは致しますまい。流行小説には倦きたといふ読者も居ります。
 青森県の八戸に短い旅をして昨八日に帰宅致しました。御礼の遅れましたのは其為と御許し願つて取急ぎの御挨拶と致します。
   十一月九日  石塚友二

礼状というものはこういう風に書きたいもの。もらった方も嬉しいだろう。私小説を文学の神様は見離さない……石塚友二ならではの名言である。


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石塚友二『方寸虚実』

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by sumus2013 | 2017-05-07 20:59 | 古書日録 | Comments(0)

天気図と天気予報

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大谷東平『天気図と天気予報』(河出書房、一九四一年四月三〇日六版)。函から顔を出しているペコちゃんシオリ(不二家のミルキー)が欲しくて買ったようなもの。

ついでだから少し読んでみる。天気予報はどうしてできるようになったのか?

1643年にイタリヤのトリチェリー[E.Torricelli]が晴雨計を発明したが、1650年に独逸のゲリッケ[Otto von Guericke]が晴雨計の昇降が天気と関係のあることを発見した。

これが第一段階。そして天気図の作成がはじまる。

古くは1688年にハーレー[Edmund Haley]が北緯30°より南緯30°に至る赤道地帯の貿易風の吹走する状況を地図上に記入して出版したものがある。

今日の如く、同時観測を材料とする天気図は、広範囲に亘る気象観測の組織がなければ出来ない。初めて之に近いものを作つたのは独逸のブランデス[H.W.Brandes]であつた。ブランデスは各地の気圧観測を集め、それ等の中の同時刻に近いものを摘出し、これに風の観測を加へて地上図に記載して天気図を作つた。これに依り広い区域の気象配置が判り、又これが天気に密接な関係を持つことを知つた。時に1880年で、こゝに天気図を天気予報に使用する基礎が出来た訳である。

1849年には米国のヘンリー(J.Henry)が各地の気象観測を電信でもって集め天気予報を行った。グレーシャー(J.Glaisher)による天気観測がデイリーニュース紙上に掲載されはじめたのが同じ年の七月一日であったが、ただし天気図ではなく、表の形だったという。1851年の博覧会の際に初めて地図上に印刷された天気図として販売するようになったそうだ。

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そういえば、昔、あるローカルTVで面白い天気予報を放送していた。毎日、漁師だとか、農業をやっている人、その他いろいろな職種の人たちに明日の天気を予測してもらうというもの。当ったり当らなかったり、あまりこだわらないのがよかった。本書によればこういう昔ながらの天気予報を「観天望気の法」と呼ぶらしい。気象衛星の発達した今日、われわれは天を見下ろしながら予報していることになる。それでも絶対確実とはいかないところが自然の微妙さだろうか。



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by sumus2013 | 2017-05-06 21:14 | 古書日録 | Comments(0)

帝大時代の花森安治

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こちらは『花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼』(読売新聞社美術館連絡協議会、二〇一七年)より帝大時代の花森とその友人。この花森の出で立ちがさすがというファッション感覚ではないか。となりのいかにも帝大生でございという制服姿と比較すると驚くというか、あっけにとられる。

扇谷正造が『特集文藝春秋 人物読本』(文藝春秋新社、一九五七年一〇月五日)に「反俗漢・花森安治の秘密」という文章を書いている。かなり精密な伝記が出た今となって見れば、扇谷がうろ覚えと聞きかじりで書いているこの記事には間違いが多い。なかでは帝大新聞時代の思い出に価値があるように思う。

そのころの帝大新聞(現東大新聞の前身)の編集部は安田講堂の左袖のしめっぽい空地の一隅を占めた二階建てのボロボロの小屋の中にあった。二階が東大運動会で下が大学新聞編集部だった。
 ネジがすっかりバカになったドアのハンドルを押すと、十四五人は楽に囲める四角な樫の木作りの机がある。
 机の上座には三年生がズラリと坐っている。

入部を希望した何十人かのうち筆記試験でハネて、これから一人一人我々は新入部員の首実験[ママ]をするわけである。

このとき岡倉古志郎(天心の孫)と田宮虎彦と花森安治の三人が合格した。

編集会議は毎週月、金とある。会議はいつもまっ二つに割れる。片や社会科学=人生派、片や芸術=感覚派というわけで、花森君は、我我とは反対側の芸術派に入っていた。そのころの編集会議では、どんな議論が交わされたか、いまではもう忘れたが、田宮と花森の二人が故梶井基次郎氏の「檸檬」と宇野浩二氏の「子を貸し屋」を激賞し、我々は猛烈にそれを弥次[ママ]ったことだけを思い出す。

田宮と花森は神戸の雲中小学校の同級生だったが、田宮が神戸一中(神戸高校)へ花森が三中(長田高校)へ行ったことで進路が別れ、帝大新聞でふたたび一緒になったのである。「檸檬」は大正十四年に『青空』創刊号に発表された小説。昭和六年に単行本『檸檬』になり、昭和九年に『梶井基次郎全集』(六蜂書房)さらに昭和十一年には『梶井基次郎小説全集』(作品社)にも収録されている。いずれも少部数ながら読もうと思えばいつでも読める状況だった(花森の帝大時代は昭和八〜十二年)。もちろんこれらの出版を淀野隆三の熱意が支えていたのはこれまでも強調してきた通り。それにしても田宮と花森の趣味がぴったり合っていたことがよく分る回想だ。戦後、田宮の文明社を花森が手伝うことになるのも必然のように思える。




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by sumus2013 | 2017-05-04 21:19 | 古書日録 | Comments(0)

中央線古本屋合算地図

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岡崎武志×古本屋ツアー・イン・ジャパン『昭和三十年〜平成二十九年 中央線古本屋合算地図【新宿駅〜八王子駅】』(盛林堂書房、二〇一七年四月二七日、写真・デザイン=小山力也)が届いた。これはいい! 小生も〈談〉として登場させてもらっています。

まだ全部読んでいないが、今パッと開いたところにこんなことが書いてあった。水中書店の今野氏が音羽館で働いていたころの話。

岡崎 よく均一の品出ししてたもんね。ぼくはよくそこで今野くんと会った(笑)。音羽館は、表の均一棚の品出し、一日何回くらいやってた?
今野 回数はわからないけど、冊数で言ったら、平均でも百冊以上は売れていましたから。
粟生田 へえ、すごいです。じゃあ、常に入れ替えてるんだ。どんどん補充して補充してですね。
今野 もう隙あらばと言う感じで(笑)。均一をチェックするため、一日に何回も来る人もいるし、毎日寄るって方も、もちろんたくさんいます。お店が、色んな人たちの生活の一部になってる感じが、これは理想的な古本屋さんだなと。》(古本屋座談会2 水中書店・今野真×古書サンカクヤマ・粟生田由布子)

やっぱり東京だなあと思う。そう言えば、中野書店の中野智之さんからも「音羽館の均一がいいんですよ。セドリしてる場合じゃないと思うんですけどね、寄っちゃうんだなあ。申し訳ないけどいい本ありますよ」という告白(?)を聞いたことがある。中野書店そらの下(自宅兼)は同じ西荻なので神保町の店へ出勤する途中に足を向けないではおられなかったそうだ。中野書店の目録にウン十倍で載った本もあったかも…? 中央線古本屋の実力というものだろう。

「中央線古本屋合算地図」!(古本屋ツアー・イン・ジャパン)

発売予定:2017年5月3日(水・祝)
御予約は下記サイトよりお願い致します。

拙ブログの過去記事より。

読書雑誌『BOOKMAN』古書店案内

昭和三十四年の『中央沿線古書店案内図』

「阿佐ヶ谷ビンボー物語」

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by sumus2013 | 2017-05-02 21:52 | 古書日録 | Comments(2)

古書研創立40周年 春の古書大即売会

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口笛文庫の洋書コーナー


九時過ぎに家を出ると小雨がパラついていた。自転車でえっちらおっちら、まず扉野氏宅へ届け物をし(このとき扉野氏は今日がみやこめっせ初日だということを忘れていた、オーイ、大丈夫か〜)、会場に着くころには雨も上がった。十五分ほど前だったため開門の行列に並ぶ。並んだのは久し振り。

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みやこめっせは雨風埃を気にしないですむのはいい。人の少ないうちに目当てのブースを物色。竹笹堂さんの伝統ある木版画実演(四日まで毎日、一日二回開催)をちらりとのぞく。いい本はいろいろあって目移りはしたのだが、とくに目を射るようなブツに出会わない。なんだか悔しくてぐるぐる会場をまわっているうちに混雑してきた。そろそろ出ようかと思っていたらマン・レイさんに誘われたのでお仲間とともに四人で昼食を。小一時間雑談して別れる。

誠光社へ。念のため先に花森トークのデータを渡しておく。京都国際写真祭が市内各地十六ヶ所で開催されている(五月十四日まで)。そのパスポートをもらっていたので(深謝!)帰り道にいくつか立ち寄る。嶋臺ギャラリー(ハンネ・ファン・デル・ワウデ展)、誉田屋源兵衛竹院の間(ロバート・メイプルソープ展)、誉田屋源兵衛黒蔵(イサベル・ムニョス展)、無名舎(ヤン・カレン展)。メイプルソープ展のみ無料。いずれも古い伝統建築をうまく使った展示会場になっている。写真も悪くないが建物を見られるが素晴らしい。誉田屋源兵衛の建物はじつに堂々たるもの。

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会期中に残りの会場もできるかぎり回るつもりだ。

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by sumus2013 | 2017-05-01 20:26 | 古書日録 | Comments(0)

暮しの手帖社の書皮?

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京都・誠光社での花森トークも近づいて来た(5月5日)。本日は少しおさらいをしておこうと準備していた。今回で四度目(神戸・伊丹・目黒に続いて)ながら毎回内容は変ってくる。話をするたびに削るところや増やしたい項目が出てくるのだ。もちろん中心の興味は花森のデザインや装釘におけるルーツを探すということで変らない、が、どこに比重を置くか、それが徐々に変化していく。

目黒の聴衆は、みなさん濃〜い方ばかりだったので、反応を心配したのだが、どなたにも満足してもらえたようでひと安心した。それを自信に京都でも存分に語りたいと思っている。連休中でいろいろとお忙しいでしょうが、もうこれが最後の花森トークになるやもしれません、ぜひともご来場を。午後七時からです。

ということで、何か花森に関するブツはないかと考えながら、ふとPCの後ろの壁に目をやった。暮しの手帖社の書皮が留めてある。背が焼けている。おそらく誰かが暮しの手帖社の封筒を四六判の本にちょうど合うように切ってカバーにしたのだろうと思っていた。これをどうして持っているのか……忘れてしまった。何かの本に付いていたか、あるいはどなたかに頂戴したのだったか。

じっと見ていて、おや? と思った。「美しい暮しの手帖」と書いてある……これは、ひょっとして珍しいのか。『花森安治装釘集成』を開くと、237頁に「暮しの手帖社専用封筒 表・裏」として掲載されている。また世田谷の図録を開くと、160頁に《暮しの手帖社の封筒/2000年頃に使われていたもの。/デザイン:花森安治 1969年》と書かれている。どちらも図案のなかに書かれている文字は「暮しの手帖」である。「美しい」はない。

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『花森安治装釘集成』より


なんと! これは発見だ。この書皮がこうしてここに存在するのだから図録の説明文《デザイン:花森安治 1969年》は明らかにおかしいことになる。どうしてかというと『美しい暮しの手帖』という名前は一九五三年の第一世紀第二十一号までしか使われていないからである。まあ、百歩譲って封筒にデザインしたのが一九六九年だとしよう。しかし図案そのものは「美しい」時代に作られたことはまず間違いない。としたら、案外ほんとうに書皮だったのかも、あるいは包装紙だったとか?(封筒として用いるには紙が薄いような気がする)

目の前に半年以上貼ってあったのだが、まったく気付かなかった。何事も身近なものをよく観察することが大切だなあ。

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by sumus2013 | 2017-04-30 20:26 | 古書日録 | Comments(2)