林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
カテゴリ
全体
古書日録
もよおしいろいろ
おすすめ本棚
画家=林哲夫
装幀=林哲夫
文筆=林哲夫
喫茶店の時代
うどん県あれこれ
雲遅空想美術館
コレクション
おととこゑ
巴里アンフェール
関西の出版社
彷書月刊総目次
未分類
以前の記事
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
お気に入りブログ
NabeQuest(na...
daily-sumus
Madame100gの不...
最新のコメント
うちのPCも古くなってき..
by sumus2013 at 13:22
「うまやはし日記」持って..
by 大島なえ at 12:36
15周年おめでとうござい..
by sumus2013 at 08:06
吉岡実の俳句、しみじみと..
by 小林一郎 at 22:58
百人百冊、千人千冊のお宝..
by sumus2013 at 07:49
夕方、店じまい寸前に参戦..
by 牛津 at 23:51
そうでしたか! クラシッ..
by sumus2013 at 08:12
有り難うございます。在、..
by sumus2013 at 20:18
ご無沙汰しております。い..
by epokhe at 16:28
こちらこそ有り難うござい..
by sumus2013 at 15:05
メモ帳
最新のトラックバック
天才画家ゴッホの生涯と画..
from dezire_photo &..
ルーベンスの故郷、ヨーロ..
from dezire_photo &..
シャガール、ピカソ、マテ..
from dezire_photo &..
ポン=タヴァン派、総合主..
from dezire_photo &..
視聴率に関係なく選んだ2..
from dezire_photo &..
宝石のような輝をもった印..
from dezire_photo &..
ルネサンス美術の巨匠・ピ..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
過去に来日した傑作を回顧..
from dezire_photo &..
検索
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


カテゴリ:古書日録( 768 )

以文

f0307792_20295279.jpg

『以文』第二十三号(京大以文会、一九八〇年一〇月一日)。某氏より恵投に与った。本城格「パリでの古本漁りの思い出」が載っているのでご参考までとのこと。ありがたいです。本城格(ほんじょういたる)氏はフランス文学者。

1916年-1991年5月27日。京都帝国大学文学部仏文科卒。1957年京大文学部仏文科助教授、69年教授、80年定年退官、名誉教授、甲南女子大学教授。1976年にフランス政府から教育功労賞オフイシェ章を受けた。90年秋旭日中綬章受勲。ロンサールなどルネッサンス期の詩が専門。》(はてなキーワード)

一九六二年頃、パリに滞在していたときに体験した古書店のいろいろ。残念ながら店の実名が出ていない。氏がどういう本を古書店で買ったのかだけを拾ってみる。

サン・ジェルマンのD書店 
ドビニエ『レ・トラジック』テキスト・フランセ・モデルヌ版、四巻

株式取引所近くのある古本屋 
オリヴィエ・ド・マニ全集、ルメール版
アベ・グージエ『ビブリオテーク・フランセーズ』十八巻のうち二巻欠

B店
ジュル・ファブル『オリヴィエ・ド・マニ、その生涯と文学の研究』

他に版元を訪ねて雑誌のバックナンバーを買い求めているが、版元によって親切だったり、取りつく島もなかったりとさまざまな経験をしたようである。さもありなん。

D店のように在庫品の整理が行届いている古本屋は珍しい。私は後にサン=シュルピス寺院前の大きな古本屋の主人と昵懇になり、店裏の倉庫に入れてもらったことがあるが、足のふみばもないほど天上まで乱雑に書物が積み上げられていて、整理はおろか値段もつけられていない。欲しい本があればゆっくり探したらと言ってくれるが、ざっと表題に目を通すだけで弁当持ちで二・三日はかかるだろう。こうした店ではカタログに掲載された分だけが整理されているのだ。定期的にカタログを出していない店では、沢山の本を店に並べて客が勝手に探して買うようになっているのは言うまでもない。

サンシュルピス寺院前の大きな古本屋、今はもうないと思う。ただ、小生も一九九八年のパリではサンシュルピスの真ん前の古本屋に入った記憶がある。かなり奥の深い店だった。手前の方だけ見せてもらって、梯子を使って棚の上の方にあったコクトーの詩集を一冊だけ買った。たしか二軒くらいは古本屋があったように記憶しているのだが……。

『以文』第二十三号には松尾尊兊先生の文章も掲載されていた。「ハーバード再訪」。文部省在外研究員として一九七九年一二月から八〇年三月まで滞在した。

日本人のみならず日本語が氾濫していることも相変わらずであった。前記のポッターさんの如きは、たまに英語で話しかけると、「松尾さんは英語がお上手だからね」と皮肉る有様である。日本学専攻の学生ともなればすべて日本語で話しかけてくる。イギリスでは達者な筈の教授でも日本語で話したがらぬ人が多い。

ポッターさんは燕京図書館の館員。

フェアバンク・センター(東アジア研究所)内に相部屋ながら一室もらっていたが、年中出入自由で夜間、休日といえども煖房が通じているので助かった。図書館も平日は一〇時まで開いている。日本関係書は近年予算不足と聞いていたが、使用してみると充実ぶりが一段とよくわかった。日本近代史の分野では、特殊な資料だけ抱えて行けば論文を書くのに不自由しないくらい揃っている。京大にいると、付属図書館・人文研・法・経・教養、さらには農学部まで足を運ばないと揃わぬものが、ハーバードでは低い階段の四層を上下するだけで調達できる。京大ではマイクロ・フィルムさえない東京朝日新聞の縮刷版が、創刊号いらいあって、しかも帯出自由なのである。

アメリカにおける日本近代史研究が進むのも当然であると松尾先生は書いておられる。



[PR]
by sumus2013 | 2017-11-21 21:22 | 古書日録 | Comments(0)

辻邦生 パリの隠者

f0307792_20143772.jpg
辻邦生、高輪自宅の書斎


「辻邦生ーーパリの隠者 TSUJI Kunio : Un anachorète à Paris」展が昨年(二〇一六)、ストラスブール大学とパリの日本文化館にて開催された。本月、恵比寿の日仏会館でも再現されたそうである。その図録とチラシを頂戴した。辻邦生はほとんど読んでいないが、湯川さんの処女出版だということで以前取り上げたことがある。

辻邦生『北の岬』(湯川書房、一九六九年二月二八日)

f0307792_20143524.jpg

同展図録(学習院大学史料館辻邦生小委員会、二〇一六年一一月一日、デザイン=人見久美子)。パリの「辻邦生ゆかりの地」がホテル住まいも含めて詳しく紹介されているのは非常に興味ぶかい。一九五七年にフランス政府保護留学生として渡仏して以来、転々としているが、一九五八年から六一年までまる三年間はカンパーニュ・プルミエール街8bis のアパルトマンに滞在した。その後何度かの巴里滞在を経て晩年(一九八〇年から一九九九年歿年)はデカルト街37番地に部屋を確保して何度も往復していたようだ。

マン・レイ歩きその一

アンリ四世校〜デカルト通り

昭和三十二年、美術史を専攻していた妻佐保子がフランス政府給費留学生となり、辻も私費留学生としてともにフランスに渡った。彼等が乗船したフランス郵便船カンボージュ号には岩崎力、平岡篤頼、加賀乙彦らも乗っていた。加賀と辻はとくに親しくなった。十月九日、マルセイユからパリのリヨン駅へ降り立った。

石造りの彫りの深い端正は町並みに、不思議と長く住んでいた場所に戻ってきたような気持を感じ「自分が本来生れるべき都市[まち]はここだったのではないか」とまで語っている。
しばらくはホテルを転々としていたが、ようやくモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール街8番地に僧院に似た〈隠れ家〉を見つけ、国立図書館と往復しながら、本を繙き、ペンを走らせ続ける生活が始まる。
小説と正面から向き合い、ひたすら文学の可能性を摸索したパリでの日々が〈小説家〉としての骨格を形成したと言っても過言ではないだろう。》(冨田ゆり「辻邦生ーーパリで生き、パリで書く」)

高輪の書斎の写真は日仏会館ギャラリーでの展示チラシより。図録の略年譜によれば一九七一年(四十五歳)に港区高輪のマンションに転居している。

[PR]
by sumus2013 | 2017-11-20 20:47 | 古書日録 | Comments(0)

阪急古書のまち

f0307792_20480273.jpg

阪急古書のまちが移転してから、まだ一度も足を向けていなかった。もう一年にもなるのだが・・・。本日、久々に大阪へ所用で出かけたので、ちょっとのぞいてみた。ご覧のように白木のショーウィンドウが並ぶ姿に目をみはった。

阪急古書のまち お引っ越し(毎日新聞)


f0307792_20480734.jpg


せっかくだから何か買いたいなと思って、あちこちのぞいて、というわけではなく、梁山泊だけのぞいて、文庫本棚から何冊か。そのうちの一冊がこちらダニエル・ブアスティン『本はいつごろから作られたか 大発見4』(鈴木主悦・野中邦子訳、集英社文庫、一九九一年九月二五日)。マーカーで線引きあり、100円。

f0307792_20481145.jpg

この冒頭「第三部自然(承前)」は植物誌・動物誌についての記述である。そのなかに、先日このブログでも触れたヒエロニムス・ボックについて、このように書かれていた。

ドイツ植物学第三の父ヒエロニムス・ボック(一四九八〜一五五四年)は、ある意味ではさらに異彩を放っている。最初は、ドイツ国内の自分の住む地方に生育する植物をギリシアやラテン名と照合しようとしたボックは、さらに一歩を進めて、著書『新植物誌』(一五三九年)で、家の近くで見られるすべての植物を自在に描写したうえ、土地の植物を土地の言葉で記述するという、かつてない新しい課題ととりくんだ。

彼らの植物学上の教義は、ルター派の教義にも似て、二律背反的であった。神聖なるディオスコリデスの浄化された原文にたちかえっていった一方で、彼らはルター派の人びとの聖書と同様、植物学研究を市井の言語に翻訳したのである。

なるほど、アルブレヒト・デューラー(1472-1528)の緻密な植物写生画は、ボックの植物研究と同様に、ルターの精神に基づいたものだったのだ!

ヒエロニムス・ボックの『Kreutterbuch』

[PR]
by sumus2013 | 2017-11-17 21:08 | 古書日録 | Comments(0)

新風よ吹きおこれ

f0307792_16470519.jpg

先日話題にした『京古本や往来』の創刊号(京都古書研究会、昭和五十三年八月二十五日発行)巻頭エッセイのコピーを牛津先生より頂戴した。ありがとうございます。寿岳文章「新風よ吹きおこれー『京古本や往来』の創刊に際してー」。

大正期の初めの少年の日、寄宿舎の生徒側監督に給与される僅かな手当を懐にして、月一回、丸太町通りの古本屋回りをするのを無上の楽しみとした。日曜だからとて休む店はまず無かった。午前九時ごろ、電車を寺町丸太町で下りて東へ歩くと、鴨川にかかった橋の手前、南側に、国井という奥の深い古本屋があった。ドイツ語の医学書が本命であったと記憶する。しかし哲学や文学などの古書も、結構たくさん持っていた。主人はむすっとした無口者であったが、本のことをよく知っており、いつのまにか一中学生の私を、三高生や京大生なみに、客の一人として遇してくれた。今思いかえしてみると、私はこの国井の主人からいろいろと洋書の知識を得たようである。すでに英文学を志望していた私は、この店でマクミラン社版の英文学書を当時二冊か三冊買った。いつもたっぷり一時間を国井の店ですごし、橋を渡り、通りの南側の古本屋を一軒一軒見て歩くが、多くの場合、国井ほどには時間はかけない。熊野神社前あたりへ来ると、丁度正午近くなっているので、見あたり次第のうどんやへ飛び込んで腹ごしらえをし、午後は、通りの北側にある古本屋を、東から西へと巡礼する。

うどんやは今も丸太町通り東大路通りの西南角にある(同じ店かどうかは定かではないですが)。当時の古本屋は午前九時ごろから開店していたことが分かる。昨今では三密堂さんくらいかな? 午前九時に開けているのは。戦前、丸太町通り沿いにどんな古本屋があったかは神保町のオタさんが調べてくれているので引用させてもらう。

『全国主要都市古本店分布図集成 昭和十四年版』(雑誌愛好会、昭和14年5月)で丸太町の古本屋を見てみると、東大路から寺町にかけて、北側は、不識洞、一信堂、創造社、マキムラ、仙心洞、進文堂、丸三、細井、田中、狩野、古田、日ノ出、春正堂、麻田、佐々木、南側は、いく文、三書堂、翰林堂、マルヤ、堀田、吉田、国井、彙文堂である。

今昔の感を深くする。このなかで個人的には狩野さんに思い出があるが省略。寿岳少年は国井の筋向こうの木村進文堂へたどりつくころにはくたびれ果て、暮色も濃くなっていたという。その他、寺町界隈にも言及しておられる。

新京極を三条通りへつきあたった杉田大学堂、歴代の学者とつながる竹苞楼で修業した羽田竹僊堂、仏書に詳しく時には高僧評論も展開する其中堂、苛烈な戦時中、恐らく私を何者とも知らず、岩波文庫の徹底蒐集に助力してくれた貝葉書院など、私の記憶に濃く影をおとすパーソナリティをあげればきりがない。

《(編集部注)文中国井書店、木村進文堂は戦後廃業いたしました。また杉田大学堂は現在河原町通三条下るで盛業中です。貝葉書院は、現在主に仏教書専門の出版をされています。

大学堂書店





[PR]
by sumus2013 | 2017-11-03 17:25 | 古書日録 | Comments(0)

四季草

f0307792_17493516.jpg

平貞丈『四季草  冬』(安永七 1778 跋)。百万遍での一冊。春、夏、秋、冬と分かれ七冊。大本(タテ27cm)、版元は岡田屋嘉七……本書は七冊目で最終巻なのだが、奥書に《此一冊孫々が為に記しぬ云々 安永七戊戌十一月七日伊勢平蔵貞丈著》とある。下記サイトにて全冊閲覧できるのでご興味ある方はどうぞ。

早稲田大学図書館 四季草. 春草,夏草,秋草,冬草 / 平貞丈 述



『四季草』というタイトルで植物の挿絵があるため、てっきり植物図鑑かと思っていたら、とんでもない恥じかきであった。平貞丈は『貞丈雑記』で知られる有職故実家だった。貞丈雑記』なら名前だけは知っていたんだが……。ウィキを部分引用しておく。

伊勢 貞丈(いせ さだたけ、享保2年12月28日(1718年1月29日) - 天明4年5月28日(1784年7月15日))は、江戸時代中期の旗本(幕臣)・伊勢流有職故実研究家。江戸幕府寄合・御小姓組蕃士。旗本・伊勢貞益の次男、兄は貞陳。子に娘(伊勢貞敦室)。幼名は万助、通称は兵庫、平蔵。安斎と号した。有職読みでテイジョウと呼ばれることもある。》《貞丈は特に中世以来の武家を中心とした制度・礼式・調度・器具・服飾などに詳しく武家故実の第一人者とされ、伊勢流中興の祖となった

早稲田本をざっと見ると、挿絵のあるのはこの第七冊だけ。ここでは檀と梓の図の一部分を掲げたが、要するにこれは弓の材についてウンチクを傾けているのであって植物学ではありませんでした。とほほ。

森鷗外は『細木香以』のなかで貞丈の随筆についてこう書いている。

わたくしは少年の時、貸本屋の本を耽読たんどくした。貸本屋が笈おいの如くに積み畳かさねた本を背負って歩く時代の事である。その本は読本よみほん、書本かきほん、人情本の三種を主としていた。読本は京伝きょうでん、馬琴ばきんの諸作、人情本は春水しゅんすい、金水きんすいの諸作の類で、書本は今謂う講釈種だねである。そう云う本を読み尽して、さて貸本屋に「何かまだ読まない本は無いか」と問うと、貸本屋は随筆類を推薦する。これを読んで伊勢貞丈ていじょうの故実の書等に及べば、大抵貸本文学卒業と云うことになる。わたくしはこの卒業者になった。》(森鷗外『細木香以』「森鴎外全集6」ちくま文庫、1996)

鷗外は文久二年(1862)生れなので少年の時と言えば十歳として明治五年頃だろうか。とすればやはりこのような和本を借出していたに違いないように思われる。例えば国会図書館には貞丈雑記』なら天保十四年(1843)序の丁子屋平兵衛(文渓堂)版、および嘉永六年(1853)の吉川半七版などが所蔵されている。


[PR]
by sumus2013 | 2017-11-02 20:52 | 古書日録 | Comments(0)

第41回秋の古本まつり

f0307792_19121245.jpg

今年は参加できるかどうか微妙だったのだが、予定が変わって、例年のように初日参戦することができた。もう、本がどうこうよりも、参加することに意義があると言う感じです。例によって臨川書店で寄り道、扉野氏と季村さんに遇う。昨年はここでちょっと珍しい紙モノを買ったのだが、今年は特になし、と言いつつ二冊ほど。

f0307792_19125150.jpg


f0307792_19122123.jpg

例によって雑和本の箱の前に並ぶ。すでに四人の先客、ビニールが開くのを待っている。三人さんは中国の方。もう一人は昨年も顔を合わせたお方。ビニールが開かれるとさらに五人くらいが取り付いてきて、もうてんやわんやの状態になる。こちらもめぼしいものは抱え込んで後で吟味の態勢にならざるを得ない。皆が皆、掘り返し、掘り返ししてもうグチャグチャである。三十分もしたらやっと人がまばらになった。和本に群がってくるのは半数以上が中国の方々であった。こちらは最後まで粘って人がいなくなってから、ゆっくりと残った全てのクズ和本を手にとって調べ直す。今年は漢詩集が一冊もなかった。これは寂しい。それでも端本ながらやや見所のある徳川時代及び明治の写本などを数冊手に入れることができた。何となくこれで一安心、気が抜けた。

f0307792_19123237.jpg

f0307792_19124343.jpg
後はぶらぶら。スタンプ2000円分でクリアファイルがもらえると言うのでなんとか達成して本部で受け取っていたらヨゾラ舎さんとバッタリ。床几に座って雑談していると、善行堂が飯を食うと言うのでいつものメンバーと進々堂へ。ヨゾラ舎の自虐ネタで盛り上がる。何とかしようよ、ヨゾラ舎さん!

[PR]
by sumus2013 | 2017-11-01 19:35 | 古書日録 | Comments(2)

青空と古本まつり永遠にあり

f0307792_16150886.jpg

『秋の古本だより「青空」5号 古書研40周年記念記念号』(京都古書研究会、平成29年)を東京在住の某氏より頂戴した。最近、古書研のどの店とも懇意にしていないため(もちろん店頭均一でお買い物させていただく店はございます)百万遍の目録は誰も送ってくれない。だからこれは有り難かった。というのも四十周年記念号には二十八名の方々が古本まつりや古書研についてエッセイを寄稿しておられるからである。読み応えあり。

秋の古本だより「青空」5号が発行。

小生が古書研と関わったのは一九八一年に京都へ移り住んだときからだった。まず山崎書店の山崎さん(現在は古書研メンバーではないですが)と知合い、古本まつりのポスターを描いて欲しいと頼まれた。以後毎年春夏のポスターを十年くらいは手がけさせてもらったのである。古書研の機関誌『京古本や往来』にも何度か寄稿させてもらい、終刊号(100号)にも書かせてもらっている。古本修行は古書研とともにあったと言っても過言ではない。四十周年は慶賀なり。

寄稿されているエッセイには二〇一四年に亡くなられた松尾尊兊先生の追悼文もいくつか見られる(松尾先生については小生も短い追悼を以前ブログに書いた http://sumus2013.exblog.jp/23494758/)。

なかでは書砦梁山泊の島元健作氏が古書研三十周年記念のバッグについて書いておられるのが印象的だ。島元氏は松尾先生とは古書目録の客としては古くからの付き合いだったが、初めて会ったのは三十周年記念のパーティ会場だったという。

この古本まつりには、先生を最年長に、他に小生を含めて五人ほどの初期のころからの熱心な常連がいて、長年古本を買い漁った功績によってか、その創立三十周年のパーティには全員招待を受けました。そしてその記念品として一澤帆布店のすてきなバッグを貰いました。バッグそのものより、松尾先生と同じものをいただけたことに感激したことを思い出します。》「(追悼 松尾尊兊先生)お別れのことば」告別式での弔辞)

その一澤帆布店のすてきなバッグは小生も頂戴した。上の写真がそれである。十年経ってもビクともせず有り難く使わせてもらっている。(ちょうど信三郎帆布と分裂したころだったので、古書研は一澤帆布なんだと思った記憶がある)

京都古書研究会三十周年記念

古本屋は学者ではありませんから、学問内容のことはほんとうはよく分かりません。ただ生意気なようですがその先生が本物かどうかは、不思議にそれとなく分かるものです。身銭の切り方、道の遠しをいとわぬ熱心さ、つまり文献や資料への情熱が自ずと伝わってくるのです。その点で松尾先生は古本屋から見て第一級の学者先生でした。しかも少しも偉そうにはされず、一介の古本屋にもゆっくりていねいに、そして熱くお話をして下さる。京都のまともな古本屋なら、みんないくつもの思い出を持っている筈です。

追記 告別式が終って出棺を待っていると、先生の娘さんが近づいてこられて「言ってられたバッグは柩の中におさめたんですよ。もう使いふるしてかなりオンボロになっていました」とおっしゃった。悲しみのうちにも何かとてもほのぼのとした気持ちにもさせられて、先生のお人柄に一層の親しみを覚えたものでした。

さすが松尾先生、この帆布のバッグがボロボロになるまで使っておられたのか! あらためて松尾先生ともう少しお話する機会をもちたかったなあと残念でならない。

他にも顔見知りの古本猛者(いや古本修羅かな)の方々が執筆しておられる。びわこのなまず先生(川島昭夫氏)の五車堂・久保田さんの追悼記も懐かしかったが、ふと目がとまったのは蘇枕書さんの「京都の古本屋と私」。京都大学文学研究科・院生の肩書き。八年ほど前に来日され、京都大学周辺の古本屋を踏破しておられたころの回想に次のくだりがあった。

善行堂もその頃オープンしたばかりであった。毎日通学の際、小さい書店が少しずつ完成していく様子を見守りながら、楽しみにしていた。ある日の夕方、細い格子から漏れた明かりから、静かなジャズが流れてきて、きれいに揃えた文庫本や単行本も見えた。近所にまたもう一軒本屋が増えることが嬉しかった。

蘇さん、存じ上げないなあと思いつつ検索してみると、以前あるところで一抱えほども日本文学の研究書を買っておられた女性であった。

f0307792_16151091.jpg


[PR]
by sumus2013 | 2017-10-31 17:39 | 古書日録 | Comments(0)

歩く作家 走る作家

f0307792_16440811.jpg

村上春樹『村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた』(新潮社、一九九六年六月二〇日五刷、絵=安西水丸)。ディケンズとウォーキングのつづきになってしまうが、たまたま、この本を手にしたら、冒頭から「一に足腰、二に文体」というメッセージとともにこう書かれていた。

今でも多くの人は、作家というものは毎日のように夜更かしをして、文壇バーに通って深酒を飲み、家庭なんかほとんど省みず、持病のひとつやふたつは抱えていて、締切が近くなるとホテルで缶詰になって髪を振り乱している人種だと信じているみたいだ。だから僕が「夜はだいたい十時に寝て、朝は六時に起きるし、毎日ランニングをして、一度も締切に遅れたことはない」と言ったら、しばしばがっかりされる

毎日ランニングどころか周知のように村上春樹はボストン・マラソンに参加するのである。

だいたい十二月の声を聞く頃からボストン・マラソンへの準備は始まる。この頃から身体はだんだん、まるで大事なデートの前の午後みたいに、そわそわとしてなんとなく落ち着かなくなってくる。五キロ、十キロといった短いそのへんのレースを足慣らしにいつくか走り、一月二月にけっこう長い距離を走り込み、三月あたりにひとつハーフ・マラソンに出てレース・ペースの確認をしてから(今年はニュー・ベッドフォードのハーフに出たけど、これはなかなか楽しいレースだった)、いよいよ「本番」へと臨むわけだ。

五キロ、十キロ……て、ディケンズの毎朝五十キロのウォーキングが、ウォーキングだとしても、いかに凄いか分ろうというもの。


f0307792_16440518.jpg

もう一冊、ポール・オースター『ガラスの街』(柴田元幸訳、新潮社、二〇〇九年一〇月三〇日)の冒頭にもウォーキングについて書かれている。主人公クインはウィリアム・ウィルソンというペンネームでミステリーを書いている作家だった。

およそ一年に一冊の割合で刊行されて、それによってニューヨークの小さなアパートメントでつましく暮らすのに十分な収入が得られていた。一冊の小説に費やす時間はせいぜい五、六か月だったから、一年の残りは好きなことをしていられた。本をたくさん読み、美術館に行き、映画に通った。夏はテレビで野球を観た。冬はオペラに行った。だが彼が何より好んだのは、散歩だった。ほとんど毎日、雨でも晴れでも、暑くても寒くても、アパートメントを出て街を歩き回った。理由があってどこかへ行くのでは決してなく、どこであれ単に足が向いた方へ行ったのである。
 ニューヨークは尽きることのない空間、無限の歩みから成る一個の迷路だった。どれだけ遠くまで歩いても、どれだけ街並や通りを詳しく知るようになっても、彼はつねに迷子になったような思いに囚われた。街のなかで迷子になったというだけでなく、自分のなかでも迷子になったような思いがしたのである。散歩に行くたび、あたかも自分自身を置いていくような気分になった。街路の動きに身を委ね、自分を一個の眼に還元することで、考えることの義務から解放された。それが彼にある種の平安をもたらし、好ましい空虚を内面に作り上げた。世界は彼の外に、周りに、前にあり、世界が変化しつづけるその速度は、ひとつのことに長く心をとどまらせるのを不可能にした。動くこと、それが何より肝要だった。

なかなかうがった見方である。「動くこと、それが何より肝要だった」ディケンズもまさにそうだったのではないだろうか。


f0307792_16440988.jpg


『盛林堂の本棚 盛林堂書房古書目録二〇一七年臨時號』(盛林堂書房、二〇一七年一〇月二八日)が届く。一九六〇年代の創元推理文庫にこんな値段が……う〜む。たしかにカバーの装幀もゴーカなメンバーだ、杉浦康平、日下弘、和田誠、松田正久、真鍋博、司修……。いいことを教えてもらったなあ。

古本屋ツアー・イン・ジャパン
10/25文庫本ばかりの目録



[PR]
by sumus2013 | 2017-10-30 17:28 | 古書日録 | Comments(0)

ヒエロニムス・ボック植物図


f0307792_19552719.jpg
f0307792_19552044.jpg

ヒエロニムス・ボック(Hieronymus Bock)の『Kreutterbuch』(植物本)から切り取られた一葉を入手した。これらふたつの図は一葉の表と裏である(画像検索してみるとこの本は小口側に註記があるようなので、奇数ページを表と考えておく)。

表の植物には「Scharlach」と記されているのだが、現代ドイツ語としては「水疱瘡」あるいは「スカーレット(朱色)」らしい……。裏面の「Salbey」は「Salbei(ザルバイ)」で二種類の「セージ」である。

ボックは植物学を基礎付けた人物の一人。一四九八年にドイツのハイデルスハイム(Heidelsheim)あるいはハイデルスバッハ(Heidersbach)で生まれた。一五二三から三三年までツヴァイブリュッケン(Zweibrucken)のパラティネ・ルードヴィヒ伯爵(Count Palatine Ludwig)のために植物園の運営に当った。ルードヴィヒ伯歿後は一五五四年に死去するまでホルンバッハ(Hornbach)のルター派教会の牧師として過ごした。彼は医師でもあった。植物学者のオットー・ブリュンフェルズ(Otto Brunfels)に植物学の本をドイツ語で書くように頼まれた。

一五三九年、初版はドイツ語によって出版されたが、そのときには植物の図は付されていなかった。一五四六年には図入りの版が刊行された(図の作者はDavid Kandel)。この本は一五五二年にラテン語版が出てから世に知られるようになった。ボックの書は彼自身の観察が記されていること、および分類の重要性を主張していることによってそれまでの植物学書とは一線を画した。……以上は下記サイトの要約です。

The Three Founders of Botany ; Hieronymus Bock


本としては下のようなものだろう。一例として引用してみた。版ごとに版面が異なるようである。

f0307792_19553224.jpg
f0307792_19553606.jpg

[PR]
by sumus2013 | 2017-10-27 20:52 | 古書日録 | Comments(0)

淀川左岸

f0307792_20015778.jpg

真治彩さんより、ぽかん別冊『淀川左岸』(ぽかん編集室、二〇一七年一〇月七日、六〇〇円)が届いた。A5判、本文二十八頁。美しい表紙だ。『遅れ時計の詩人』出版記念と副題があり、山田稔、佐久間文子、樋口塊、畠中理恵子、扉野良人、真治彩、伊東琴子、服部滋、能邨陽子、そして坪内祐三「編集工房ノア探訪記」(『本とコンピュータ』二〇〇二年秋号より転載)という内容である。真治編集長の行動力に感心することしきり。

涸沢純平『編集工房ノア著者追悼記 遅れ時計の詩人』

伊東琴子さんが編集工房ノアが最初に入ったビルに今現在住んでおられるというのは驚いた! また能邨さんの書店人としてのスタート時代が語られている。これが面白い。出だしのところだけ引用してみよう。

九八年秋、京都の本屋・恵文社一乗寺店でアルバイトとして雇われた私に一番最初に課せられた仕事は、主に日本の文芸が集る棚を作り変えること、だった。ふつう入ったばかりの人間にそんな大切な指示は出さないと思われるが、取次の配本をいっさい受けない、というスタイルでやってきた店だけにそのあたりも妙におおらかでアバウトだった。「できるやろ?」「え?」といったやりとり。取次の意味もろくに理解していない新人にやらせる仕事でもなかろう、と思うのだが、振り返ればその大雑把さに感謝したくなる。当時二十代後半。

そこで思ったのは「じゃあ山田稔の本を入れてみよう」だったそう。恵文社一乗寺店、すごすぎる。もちろん本冊子も恵文社一乗寺店で販売されていると思いますので、ぜひお求めいただきたい。

ぽかん編集室

[PR]
by sumus2013 | 2017-10-21 20:41 | 古書日録 | Comments(0)