林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:関西の出版社( 20 )

季刊ブックレヴュー

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以前の『ソムニウム』に関する投稿をご覧になられた方よりエディシオン・アルシーブの雑誌『季刊ブックレヴュー』二冊が送られて来た。しばらく借覧させていただく。

ソムニウムNo.2 No.3
http://sumus.exblog.jp/21161543/

ソムニウムNo.4
http://sumus.exblog.jp/20952531/

創刊号の戸田ツトムのデザインが気に入って池袋西武の「ぽえむ・ぱろうる」で求められたのだそうだ。《詩書を始めとしたマイナーな本との出会いであり、ジャケ買いとも言える本の購入傾向を決めたように思います。》とのこと。

まずは『季刊ブックレヴュー創刊号』(エディシオン・アルシーブ=京都市左京区一乗寺東水干町28 メゾンきしな309、一九八一年八月一六日)。誌名は奥付の表記に従う(表紙では「ブック・レビュー」と中黒が付いている)。ブックデザインは戸田ツトム。エディトリアル・ディレクションは後藤繁雄。オビ付き!

巻頭には「パブリッシュ・イメージ」という創刊の辞が置かれており、かなり意欲的な意見が開陳されている。

《一つのメディアは、読者、書店、取次、版元、印刷屋、著者の総体のインターチェンジである。一冊の本の中にもそれらの各現場のリアリティがすみこんでいるのだ。営業こそが思想をこえたり、レイアウトがあらゆるアートをこえたりするそんなメディアでありたいと思っている。編集内容(テーマ)だけでなく、現場そのものをエディトリアルしていくメディアにしていくつもりだ。『ブック・レヴュー』です。よろしく。(エディシォン・アルシーブ編集部)》

あるいはこんなきわめて今日の変革的な状況に通じると思われる言葉もある。

《今こそ野武士的エディトリアル・スピリットを持った野武士的編集者の登場こそが望まれる。今、地域性や経済構造を変革しうるのは、一見あたり前のことのようだが編集者の熱い魂と自在な方法なのだ。》

記事のなかで注目はこちら「愛書狂1=愛書狂ダンディズム 神戸南柯書局 渡邊一考」というインタビュー。聞き手は編集部藤木薫。

《神戸、新開地の山手、通りの傾斜によって家々が重なり合うかのように見える一角に南柯書局はある。かつて、知る人ぞ知る「水曜会」なる饗宴が夜を明かして開かれた書局の二階は、書棚が鋭角をかたちづくって向かい合い、三角形とも五角形とも見分けのつかぬ変則的な天井が眼を遊ばせる。万巻の書が薄銀色に鈍く光るその部屋に、編集部は南柯書局主人渡邊一考氏を訪ねた。


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談話の内容は忘れられた作家について。まず京都の山田一夫から始まり、野溝七生子、泉鏡花の「黒猫」、そして郡虎彦のダンディズムへなだれ込むが、話はここでプツリと途切れているのがまったくもって惜しい。

巻末には「書架東西」として東京四谷・文鳥堂木戸幹夫、京都三月書房の宍戸恭一の談話(?)が掲載されていて注意を惹かれた。宍戸さんの発言はこちら(読めないでしょうか……)。

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そして第二号、特集[店]から[見世]へ。発行は創刊からちょうど一年後の一八[ママ]八二年八月二五日である。オビがあるように見えるが、これはオビではなく表紙に印刷されている。表紙、裏表紙、特集記事の一部(七彩工芸のマネキン)。

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記事のなかではソルボンヌ留学中の田中義廣(ベアリュ『水蜘蛛』の翻訳者)が「本のスーパーマーケット」と題してフランスの書店事情を報告してくれているのが参考になる。

一九七三年に書籍小売業界にFNACが進出し《二割引を売り物に、セルフサーヴィス式のいわば本のスーパーマーケットを開いた》ことによってすでに自由価格制(一九五三年以来)をとっていたフランスの書籍流通に大きな混乱が生じた。

一九七九年には、それまでの定価(出版社希望小売価格)表示が法律によって禁止され、本から定価が消えた。それを受けて一九八一年五月シャン・ゼリゼのグラン・パレで第一回「本のサロン」が開かれた。フランスの七百あまりの出版社が一堂に出店し展示即売をしたのだ。その際、FNACに対抗して購入価格の二割相当の図書券を買手に配ったという。これに反対してミニュイ社とスーイユ社は参加を拒否した。

この混乱状態を見かねた新大統領ミッテランは固定価格を復活させ一九八一[ママ、二]年一月から実施されることになった。《さて、これが単にFNACの本の値上げという結果のみに終わるのか、それとも読者を含めた出版界全体に好影響をもたらすものとなるか、今のところ予測はつかない。》

少し補足すると七九年の法令は当時の経済大臣モノリー(René Monory) の名前から「モノリー布告」と呼ばれた。それに対する反動、八二年の書籍再販制度では定価表示、5%までの割引許可、初版後二年を過ぎかつ最終仕入れから六ヶ月を経た書籍の自由価格販売(時限再販)、公共機関などに対する定価の適用除外などが決められ今日にいたるようだ。

他には愛書狂2として白川静インタビューもある。それから『ソムニウム』No.5「ニュー・ロマンティック」ノヴァーリスの鉱物精神から近代霊学まで、という近刊広告が出ている。

また興味深い予告についての「お詫び」ある。

《ブック・レヴュー2号予告において、長らく富士正晴氏のエディターズ・ノート、濱坂渉氏のイタリアのメディア(メディアの解剖)の掲載の旨をお伝えして参りましたが、編集部内の全く一方的な事情により、今回掲載を延期させて頂くことになりました。富士氏、濱坂氏、読者のみなさまにご迷惑をおかけ致しましたことを、ここに深くお詫び申し上げます。

富士正晴の「エディターズ・ノート」、読んでみたかった。


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by sumus2013 | 2014-02-20 21:24 | 関西の出版社 | Comments(2)

松浦琴鶴

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先日、松浦琹鶴訂正篆書字引』を紹介したが、この人物が気になったのでもう少しだけ掘り下げて調べてみた。たしか方角の本を持っていたはずだと思い、封印していた和本箱を開いてみたところ、案の定パンドラ状態を呈してシマッタとほぞを噛んだものの、それでもまだ完全にもうろくしたわけではないようで、目当ての『三元秘用方鑒図解(はうかんづかい)』巻之五(刊記はないが、天保八年刊のようだ、五冊)がたしかに櫃底から現れた。


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『日本人名大事典』(平凡社、一九七九年覆刻版、元版は一九三八年)にはこう出ている(一部を除き旧漢字は改めた)。

《マツウラキンカク 松浦琴鶴 徳川中期の易占家。大阪の人。東雞の男。名前は純逸、号は琴鶴、観濤閣。家学を父に受け、観相をもつてその名大いに著はる。天保頃の人。[著書は略す](大阪人物誌)》

付け加えるなら息子に逸成と逸順があったことが本書冒頭の記述で分る。また父親の松浦東雞も立項されていた。

《マツウラトーケイ 徳川中期の易占家。名は久信。長門掾と称し、東雞と号す。文政の頃大阪に住す。瓦屋橋の東に住し、地理風水方位などの諸学に精通し、易の名家と称せられる。男に琴鶴あり。著書に家相図解、家相図説大全がある。(続大阪人物誌)

実は東雞(東鶏とも)にはもう一人の息子國祐があった國祐は『平安人物志』の文政五年版と文政十三年版に登場しており、その内容はおおよそ以下の通り。(『平安人物志』HPより)

松浦国祐 文雅家。字は子徳。星洲又は泉隣居、又は風水園と号した。通称松浦肥後掾。大阪瓦屋橋東の宅相家、松浦長門掾の嫡子。京に出て三条室町西に住み相宅をこととし、家相図説大全、吉方一覧。風水園筆草、和歌独草、吉野山水図説等の著がある。文化十年加茂季鷹六十賀宴歌集に祝歌を寄せている。

肥後と言い、長門と言い、これは北九州一帯で古代から勢力を保っていた松浦(まつら、まつうら)一族に列するのであろう(といっても系統は多岐にわたるが)。そうすると大陸との関係も深かったわけだから比較的容易に中国の新しい易占術や方位学の知識に触れることができた、かもしれない。

琹鶴と琴鶴が同一人物だとして、ではいったいどうして篆字の字典の著者に名を連ねているのか……残念ながら、この点についてはもう少し何か確かなエヴィデンスが出て来ないと判断のしようがないです。

なお松浦琴鶴の直系という松浦長生館なる鑑定所が現在も京都市下京区高倉通四条下ルで営業しておられる。ただ、どういう理由からか琴鶴を初代としているのが不思議と言えば言えなくもない。

ともかく琴鶴の著書を重版も含めて列挙してみる。上記『三元秘用方鑒図解』をちょっと読んでみたところなかなか文章も上手で実例を挙げて分かり易く書かれているのに感心した。幕末から大正にかけての隠れたベストセラー作家だったと言えるかもしれない。


方鑑口訣書 松浦観涛閣 天保3 1832

地理風水家相一覧 2冊 銭屋惣四郎他 天保4年 1833
地理風水家相一覧(全) 弘業舘 明治27年

方鑑辨説 天保5年 1834
方鑑辨説 全 小林米造 明17年
神殺撰要 方鑒弁説(全) 文陽堂 明治38年

方鑑類要 7冊 観涛閣蔵板 天保5年 1834

地理風水家相一覧 2冊 井筒屋・河内屋他 天保5年 1834
地理風水家相一覧(全) 弘業舘 明治40年
地理風水家相一覧(全) 弘業舘 大正2年

家相一覧・家相大全 5冊 松浦久信 井筒屋・河内屋他 天保5年 1834

三元年月本命的殺即鑑 観濤閣蔵版 銭屋惣四郎他 天保6年 1835

三元秘用方鑒図解 5冊 観寿閣蔵版 天保8年 1837
三元秘用方鑒図解 3冊 明治24年

家相秘伝集 2冊 観濤閣蔵版 天保11年序 1840
家相秘伝集 2冊 誠之堂 明治21年
家相秘伝集 2冊 光世館 明治26年
家相秘伝集 文陽堂蔵版・岡本仙助 明27年
家相秘傳集 文陽堂蔵版、靑木嵩山堂 明治36年
家相秘伝集(全) 文陽堂 大正2年 
家相秘伝集 発売=布袋屋書店 大正9年

方鑑秘伝集 2冊 河内屋他板 天保11年 1840
方鑑秘伝集 2冊 観濤閣蔵版 北畠茂兵衛 天保12年 1841
方鑑秘伝集 2冊 明治21年
方鑒秘伝集 2冊 文盛堂 明治23年
方鑒秘伝集(全) 文陽堂 大正1年

方鑑家相経験精義 全 天保13序 1842

三元九星吉方図解 明17年

増訂医道便易 明27年 

九星図説日要精義大成 乾坤揃2冊 浪華/観濤閣蔵梓 東京/北畠茂兵衛・出雲寺萬次郎ほか 明治27年

新増補正陰陽方位便覧 3冊 白井為賀先生纂輯 松浦琴鶴先生増輯 井澤駒吉 明治27年1月15日 1894
新増補正陰陽方位便覧 2冊 白井為賀纂 松浦琴鶴増輯 月窓書屋 明治33年
新増補正陰陽方位便覧(全) 白井為賀・松浦琴鶴増輯 鴨書店 昭40年


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by sumus2013 | 2014-02-17 21:33 | 関西の出版社 | Comments(0)

番傘のスミカズ

久し振りのスミカズさん。『番傘』第六号(関西川柳社、一九一四年八月一二日)と第七号から宇崎純一の挿絵がある頁のコピーを頂戴した。これは有り難い。存在は知っていたが、現物はまだ見ていなかった。御礼申し上げます。大正三年あたりスミカズの仕事は脂ののった時期で、小さなカットにもピリッとしたところがあって好感がもてる。

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本文も見るともなく見ていると「京都」というお題が目に留まった。いくつか引いてみる。


  京極でお踏みやしたと言ひ募り   只英

  茄子歯が馬鹿に嬉しい京言葉    柳舟

  射る真似をして見る三十三間堂   卯木

  伯父さんの家には水車上京区    汀果

  そうどすかそうやおへんに乗過し  汀果

  先斗町行合ふ傘を上と下      當百

  彦九郎の座つた辺り牛の糞     當百


『番傘』は大阪の結社であり雑誌なのだが、彼らが京都へ吟行(と言うのかどうか知らないが)に来るとやはりその言葉の異様さがまず耳についたようである。茄子歯(なすびば)はお歯黒のこと。三十三間堂はまさに今でも中学生がやっていそうな光景。水車は上京区の小川(現在は埋められて小川通り地下の暗渠となっている)沿いに点在していたようである。乗過しは下車していいかどうかを電車に同乗していた娘たちに尋ねたということだろうか。先斗町の路は今も狭い。彦九郎は三条橋の東詰めに銅像が立って(座って)いるあたりをさすのだろうが、大正初めだと牛(牛のひく車)が普通に通っていたようだ。


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by sumus2013 | 2014-02-08 20:38 | 関西の出版社 | Comments(2)

露伴遺珠

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ラジオから幸田文の声が流れてきた。作品やその容姿から想像していたのとは、まったく違った、江戸っ子の、やや甲高い軽快なしゃべりだった。江戸っ子といっても大川の東側で自然がまだまだ豊かな時代に育ったそうで(露伴は江戸っ子と言われると否定していたそうだ)、いわゆるチャキチャキというのではなく広い意味で関東弁の響きが感じられる。こういう言い方はなんだが、とても「カワイー」のである。

上は世田谷文学館の「幸田文の栞」(二〇一三年九月一日)。法輪寺の三重塔をバックにしている。この塔を建てるために晩年の幸田文は奔走したのだという。文の言うには自分たちは露伴のなかでもよく売れた作品「五重塔」の印税で暮らしたというようなところもあって、法輪寺の塔の再建が挫折しているのがどうも他人事とは思えなかったらしい。「五重塔」の上演料を寄付したり、講演に奔走したり、当時文化庁長官の今日海出に直訴したりとさまざまに尽力し、斑鳩町に一年半住んで塔の建築を間近に見たそうだ。

世田谷文学館の栞に森まゆみと堀江敏幸の対談が載っている。そのなかで堀江氏にこういう発言がある。

《2000年でしたか、『文藝別冊』の特集で、小石川のお宅に伺って青木玉さん、奈緒さんにお話をうかがう機会がありまして、その折にあれこれ読み返したのですが、僕は結局、幸田文の作品を、書かれた言葉としてしか理解していなかった、口に出された言葉であったことが分っていなかったと大いに反省をしたんです。》

この発言は幸田文が実際にしゃべっているのを聞くとじつによく納得できるのである。あの文体は彼女のパロールのなかから生まれてくるに違いない。

幸田文と言えば、daily-sumus で湯川成一さん旧蔵の著者サイン入り『幸田文随筆集』(角川文庫、一九五四年八月一五日)を取り上げたことがあった。

http://sumus.exblog.jp/17504304/

そのとき、きっと交渉があったのだろう、などと寝ぼけたことを書いたのだが、そりゃそうだ、湯川書房は幸田露伴の本を出しているじゃないですか。

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肥田皓三編『露伴遺珠』(湯川書房、一九五三年五月一日)。肥田先生の「後記」によれば全集に洩れた佚文捜しは森銑三が先鞭をつけたようで、当時すでに肥田先生も二十年近く捜索していたのだという。その間に三十篇以上をさぐりあてた。そういった内容を『季刊湯川』創刊号に執筆したところ、湯川さんが「是非ともその本を作りましょう」と申し出てこの一冊が生まれた。

だから当然、著作権者である幸田文にもコンタクトしたであろうし、サイン入り文庫本も何らかの返礼だとすればスッと納得できる。大分前からこの本を持っていたのにまったく気付かなかったとはうかつにもほどがある。

肥田先生も書かれておられるが、短文のなかにも露伴の魅力は十分感じられる。例えば「修文談」は文章作法について語りながら理想の文学的境地を示すという点で興味深い。修文には四期あるという。

《例へば月を描くのにブンマワシを遣ひツ放しにするのは一期で、先づ雲を描いて月に見せるのが二期で、描かぬ月の影を水に見せるのが三期で、ツマリ月も畫かず、雲もあらぬ冬の夜の、何處か月の寒い心持を、或る物体に移して見せるのが四期ではないか、ブンマワシの月を、刷毛で塗り隠す位なら、誰でも出来る、が、その月を月と云はずして、月の心持を見せるのは、経営惨憺の極で無くては出来ぬ》

メタファーということなのだろうが、これはまるでステファヌ・マラルメの詩法を解説してくれているような気さえする。露伴とマラルメのコレスポンダンス! 他には細かいところで、次のような発言も印象的だ。

《漢字は我國で出来たものでないからして、我國の言語としつくり合つては居ない、恰好丸い器物に、四角な蓋をした様なものである。》(漢字の新研究法)

だから漢字をもっと研究せよ、しかるのちに採否を決定せよと主張している。大正元年に書かれているが、漢字問題については戦後だけでなくずっと言われて来たとみえる。

もうひとつ、これはさらに細かいこと。「全然」の使い方。

《私の「五重塔」は此の話をして呉れた倉と云ふ男を全然ではないが、幾分かモデルに使ひ、其れに始めに話したのツぽりの綽名を少し変へて用ひ、其の外聞いた話なども加味して直ぐ近所にあツた五重塔へもツていツて綜合したのです。》(自作の由来)

明治三十年八月発表。全然オッケー。

そうそう肥田先生と言えば、昨年十一月、第二回水木十五堂賞を受賞された。めでたし。



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by sumus2013 | 2014-01-28 20:56 | 関西の出版社 | Comments(4)

短冊型の世界

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川崎彰彦詩集『短冊型の世界』(編集工房ノア、二〇〇〇年六月一〇日、装幀=粟津謙太郎)を購入。『夜がらすの記』を読んで以来、川崎さんの本がないかと探していた。探すとなるとなかなか見つからないものだ。むろんそれ相応の金額を支払えばめぼしいものは揃えられるが、そこまでするかとためらう気持ちもあるし、実際問題として『夜がらすの記』五千円、『まるい世界』四千五百円、『冬晴れ』三千百五十円という値段となると、そうおいそれとは注文できないのである。

ただし原点叢書の『まるい世界』と『私の函館地図』はそんなに高くない。いずれ注文しよう。『短冊型の世界』は『まるい世界』に対応したタイトルだろう。本文中に同名の詩篇がある。


 朝 ベッドから車椅子に移り
 居間へ移動する
 そのまま一日中
 本を読んだり テレビを視たり
 正面に玄関の硝子戸
 残暑のころから風と猫の通い路に
 すこし明けはなしたまま
 上部は暖簾で隠された短冊型の世界
 ぼくの唯一の外界だ
 [以下略]


本書は川崎彰彦の第五詩集。「I」が二度目の脳卒中で倒れた後、大和郡山で暮らし始めてからの作品(「短冊型の世界」を含む)、「II」がそれ以前の奈良市高畑住まいの時期の作品、および「III」が大阪読売に連載したコラムから成る。資質から言えば、詩人というより散文の人だろうが、それはそれとして味のある詩集になっているように思う。「II」から「山椿」


 部屋の出窓の
 北東面のガラスを透して
 こんもりとした椿の茂みがみえる
 張り出した厠にさえぎられて
 全部はみえない
 でも朝のひかりに葉簇は照り
 赤い花々は蘂を吐いている
 暦のすすむにつれて花数が増えてきた

 椿が好きだ と自覚したのは
 四十過ぎてではなかったろうか
 それまで 落ち首を忌むサムライの美学に
 とらわれていた
 花は桜木……なんて

 朝鮮戦争下の高校三年のとき
 反戦運動も 文化運動も弾圧され
 私は学校を追われた
 文芸部の雑誌『噴火』もつぶされた
 根絶やし後の暗鬱な季節に
 後輩たちが小さな文芸誌をつくった
 『山椿』ーー
 わるくない誌名だと思った
 それは後輩たちの さみしく純な心情を示していた

 椿のなかでも赤い椿
 濃い葉のあいだに小ぶりの花の簇り咲く
 山椿が好きだ

 いま部屋の窓からみえるのも
 山椿だろう
 もともと自生していたのを
 隣の家が建つとき 庭に囲いこんだ
 そう思いたがっている私がいて
 部屋にさしこむ朝日の縞のなかで
 山椿の繁みの明暗をみている


本書巻末の「川崎彰彦著作目録」を引き写しておく。



まるい世界   構造社 1970
        ファラオ企画 1991
わが風土抄   編集工房ノア 1975
私の函館地図  たいまつ社 1976
竹薮詩集    VAN書房 1979
虫魚図     編集工房ノア 1980
訳詩集アレクサンドル・ブローク 十二 編集工房ノア 1981
月並句集    編集工房ノア 1981
夜がらすの記  編集工房ノア 1984
二束三文詩集  編集工房ノア 1986
もぐらの鼻唄  海坊主社 1986
冬晴れ     編集工房ノア 1989
蜜蜂の歌    海坊主社 1991
樹の声鳥の歌  すみれ通信舎 1991(共著)
詩集『合図』  編集工房ノア 1992
新編竹薮詩集  海坊主社 1994



以上(なお『蜜蜂の歌』は本書では『蜜峰の歌』となっている)。この後になお二冊が続く。



くぬぎ丘雑記   宇多出版企画 2002
ぼくの早稲田時代 右文書院 2005



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『ぼくの早稲田時代』(右文書院、二〇〇五年一二月二五日、装幀=林哲夫)カバー。




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by sumus2013 | 2014-01-23 20:58 | 関西の出版社 | Comments(0)

岡崎桃乞コレクション

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『岡崎桃乞コレクション 宋元画名品図録 付岡崎桃乞油絵』(思文閣出版、一九七八年一二月一日)より「茄子図」(元、絹本着色)。

いつだったか、均一ではなく、例えば五百円とか、そのくらいの値段で買ったように思う。今、探してみると「日本の古本屋」には在庫せず、相当な値段を付けている古書サイトもあったが、そんなに珍しいという本ではないだろう。

桃乞コレクションは怪し気なところもありつつ、それでも財閥などではない一個人でこのくらい宋元画を蒐集したとすれば、それなりに評価すべきと思う。落ち穂拾いの感じも好感が持てる。上の図に思い当たる方もおられるかもしれない。岸田劉生が模写している。模写というか劉生なりに描き直している。

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出来ははっきり劉生の勝ち(?)なのだが、紫の花の可憐さには捨て難いものがあるし、何よりバックグラウンドの時代を経た表情は何もにも代え難い(本当に元の時代の絵なのかどうかは疑問)

もうひとつ、本図録より章継伯「茄子瓜図」(斉、絹本着色)。

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この茄子に似た絵も劉生はいくつか描いている。そのうち三重県立美術館にある作品「冬瓜茄子之図」(一九二六)が下図。他にも花籠の絵などに桃乞コレクションからインスピレーションを得たと思われるものが幾つもあるようだ。

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コレクションの主・岡崎桃乞(雅号の発音はいちおう漢音としてタウキツと読んでおくが、タウコツでもいいかもしれない、国会図書館はトウコウとしているようだ)は、図録の略伝によれば以下のような人物である。

《本名は義郎、一九〇二年五月岐阜県不破郡十六村に生まれた。十四歳四月大垣中学校に入学し油絵に初めて接した。翌年名古屋に移住し在住の洋画家達と交遊をもち、西洋画に関心を向けた。》

《十七歳上京し本郷絵画研究所へ入ったが、最初は作画に熱が入らず、苦悩と放蕩のうちに過した。二十三歳頃より宋元画の研究に熱中した。この年牛込を引きあげ鎌倉由比ガ浜へ移転、岸田劉生と深い交遊をもったが、油絵よりも宋元画の蒐集に没頭した。一九二八年三月二十七歳の折京都へ転宅したが、祇園先斗町で遊びまわる毎日であったという。二十九歳結婚。三十歳初めての個展を京都寺町アヅマギャラリーで開催したのを手始めに、山口市で俵道陽二と二人展、大阪丸善で椿貞雄と二人展など次々に開催した。

京都寺町アヅマギャラリーというのは一九六九年まで存在していたようだ。俵道陽二は一九二五年に東京美術学校を卒業している。椿貞雄は岸田劉生の弟子として有名。

《三十二歳蒐集の宋元画を芸艸堂より出版するが、この頃より桃乞と名乗っている。三十三歳京都若王子山内の和辻哲郎宅を譲り受け画業に精進し、十一月本郷の研究所時代の先輩西田武雄の厚意により、東京麹町室内社で個展を開催したが、予期に反して大成功であった。

和辻哲郎が住んでいたのは「語庵」である。原三渓の大番頭だった古郷(ふるごう)時侍が古材を使って建てた数寄屋住宅で、桃乞の後は梅原猛が買い取った。(http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-203.htm

《戦後は画壇との交渉をたち自由に制作に従事、一九七二年四月七十年の生涯を閉じた。》

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岸田劉生「岡崎義郎氏之肖像」(一九二八)。本図録にも挨拶文を執筆している梅原は『芸術新潮』の一九七八年四月号に桃乞のことに触れてつぎのように述べている。

《全くの奇人で、彼は、頑ななまでに名利を拒絶して、隠者に徹した。美濃の十六村の素封家の出身であるが、子供のときからわがままで、中学一年で退学して絵かきを志した。》

《二十二歳のとき銭瞬挙の絵を見て、彼はここにもっとも高い絵の理想があると思い、宋元画の研究に熱中した。

《彼は絵に対しては、恐ろしくまじめであった。私は前に二、三点、彼の画を見たことがあるが、それはきびしすぎて柔らかさがなかった。どうしてあんなワイ談ばかりしているでたらめな男が、こんな固い絵をかくのか不思議に思ったが、それは見方が甘かった。桃乞という人の中には、きまじめすぎる芸術家と、自由な遊蕩児の二つの人間が矛盾共存していたらしい。》

桃乞の画について言うべき言葉はないが、彼の二面性は「矛盾」ではないような気がする。

思文閣美術館五年の歩み
http://www.nk-net.co.jp/sakyo/tayori/tayori_156.pdf






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by sumus2013 | 2014-01-22 21:14 | 関西の出版社 | Comments(0)

古今日本書画名家辞典

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松雲堂編輯所編『古今日本書画名家辞典』(石塚書舗、一九二〇年九月二〇日三版)を借覧中。本編が一〜十まで十冊、増補の部が二冊(十一、十二)、そして「索引」と「年表系図」がそれぞれ一巻、合計十四冊に帙が付く。「索引」の巻頭「題言」(漢文序)には《大正三年改春於松篁影動處/奚疑居士識》とあるので、初版は大正三年に出たと考えてもいいかもしれない(改春は新年の意)。また「増補の部 十一」の「序」は《大正七年 著者識》となっているから、第二版は大正七年だったようだ。

古本夜話273に前田大文館から昭和十四年に発行された『増補古今日本書画名家辞典』が取り上げられているが、その解説から推して本書の再刊本と見てまず間違いないようだ。その著者は玉椿荘楽只である。この玉椿荘楽只が誰なのかは、にわかには分らない。ただし、検索するとかなりの著書がある。

『唐詩選新註』(玉椿荘主人、石塚松雲堂、一九〇九年)
『和漢骨董全書』六冊(石塚松雲堂、一九二八年)
『古今書画便覧』(石塚松雲堂、一九二九年)
『古刀鍜冶名家一覧 : 附評価一覧表』(楽只先生輯、石塚松雲堂、一九三二年)
『和漢骨董全書』(趣味の教育普及会、一九三二年)
『古今日本書画名家辞典 乾之巻』(石塚松雲堂、一九三二年)
『古今日本書畫名家辭典』(大文館書店、一九三三年)
『日本古今書画便覧』(巧人社、一九三三年)
『日本古今書画便覧』(浩文社、一九三三年)
『日本書畫名家辭典』(大文館書店、一九三四年)
『大日本骨董全書』(大文館書店、一九三四年)
『古今刀剣のしるべ 附武具弓』上下(大文館書店、一九三四年)
『増補古今日本書画名家辞典』(大文館書店、一九三四年)
『古今刀剣のしるべ 附武具弓』上下(大文館書店、一九三七年)
『日本古今書画便覧』(浩文社、一九三八年)
『増補古今日本書画名家辞典』(大文館書店、一九三九年三版)

玉椿荘・楽只(ぎょくちんそう・らくし)と切るということが編著者名から分る。いくつかの図書館が玉椿・荘楽只と分けていたが、それは間違い。念のため。「楽只」は『詩経』に「楽只君子」と出ていて、主な用例は常に楽只君子」で「楽しきかな君子」と読むのが通例である。

楽只先生、初期は松雲堂の専属だったが、昭和八年頃から出版権が売られた(おそらく松雲堂が解散したか斜陽になったため)ようで複数の版元から同じ本を出している(まったく同じかどうかは現物を見ないと分らないですが)。

本書の編者は松雲堂編輯所名義ながら題言の内容から奚疑居士が中心だったように思う。奚疑居士の名前で検索すると二冊著書が見つかった。

『実業家偉人伝 : 成功立志』(新世界社、一九〇九年)
『実業家偉人伝 : 成功立志』(榎本書店、一九一三年)

これらはどちらも大阪の版元である(上記、楽只先生の本もほとんどが大阪本)奚疑居士イコール玉椿荘楽只だったのかもしれない。断定はしないけれども。



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by sumus2013 | 2014-01-09 21:14 | 関西の出版社 | Comments(0)

小謡四季目録

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正月なのでめでたい画像を。南里亭其楽編『小謡四季目録』(河内屋儀助、文政六年 1823 三月)の口絵。絵師は浪華の人、荑楊斎関牛(蔀関牛)。本書には小謡百十六番の歌詞(アクセント記号付き)が収録されている。

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各ページの上欄は文章を草するためのさまざまな知識を示したいわゆる「往来物」で、小謡とは直接の関係はない。本文巻頭の挿絵(上図)が寺子屋(「てらこや」は上方の用語、江戸では手習指南所)の正月、新年初登校のような図なので、本書も教科書として用いられることを想定していたのかもしれない。巻末には『千歳小謡常磐松』『当流小謡種玉大成』『字尽小うたひ』『幼学千字文』『御家流筆海用文章』の広告が出ている。謡と手習いの教本であろう。

版元、河内屋儀助は心斎橋筋通北久太良町にあり、検索すると『解体新書』や『物類品隲』の版元のひとつだし、備中や摂津など各地の大絵図を出している。かなりの大手出版社だったようだ。

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  高砂

 ところハたかさごのおのへのまつも
 としふりておひのなみもよりくるや
 このしたかげのおらばかくなるまて
 いのちながらへてなをいつまでか
 いきのまつそれもひさしきめい
 しよかなめいしよかな



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by sumus2013 | 2014-01-02 16:26 | 関西の出版社 | Comments(0)

墨場必携 増補題画詩集 森琴石編集

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しばらく前に森琴石編輯『墨場必携 増補題画詩集 五』(吉岡平助、北村宋助、吉住音吉、明治十三年九月十六日)を某氏より頂戴した。見ての通り長辺が8.2cm、短辺が5.7cmとほぼ名刺と同じくらいの大きさ、袖珍本(というより豆本に近い)である。非常に緻密な線描による銅板印刷。

森琴石については「森琴石.com」が詳しい。そこで検索すると『題画詩集』には何種類も版があるようだ。目下、上中下続の四冊本(吉岡・北村・吉住、明治十三年)、増補版・壱貳三四の四冊本(同前)、上下二冊本(山田浅治郎、明治十三年)、新編四冊本(青木恒三郎、明治二十四年)、新編四冊本(青木恒三郎)異装本、の五種類が紹介されている。

森琴石.com 調査情報
http://www.morikinseki.com/chousa/h1811.htm

ということでこの「五」は寸法が増補版四冊本(明治十三年?)とまったく同じなので、じつは増補版は五冊本だったのかも知れない(?)。しかも内容は「題画詩集附録 題跋落款小式」である。要するに、絵のなかにどういうサインを入れたらいいのか、例を挙げて示している。

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誰それが描いた、という意味だけでも、試筆○○、作於…○○、写此○○、揮毫…○○、○○絵(エガク)、○○写、写○○、弄筆○○などと色々なヴァリエーションがある。これを袖にしのばせて揮毫するときの参考にしたというわけだ。アンチョコ。

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巻末の書店一覧、「発兌書肆」はおそらく「取り扱い書店」くらいの意味と考えていいのだろう(?)。奥付に「出版」とあるのが今日の「発行」に近い。「発行」は明治六年の新聞紙条例に初めて現れ、明治二十年の出版条例に用いられたが、明治三十二年の著作権法ではっきり「発行」の語が明定された(『出版事典』出版ニュース社)。

大阪は別として、岡山、和歌山の取り扱い書肆が多いのが徳川時代以来の文化的な背景を感じさせる。讃岐高松は一軒だけか…。

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by sumus2013 | 2013-12-19 20:24 | 関西の出版社 | Comments(0)

村上華岳自筆墓誌

十一月二日、JR長岡京駅前のバンビオ広場で開催された「天神さんからおでかけ一箱古本市」をのぞいた。なかなかに濃いメンバーなので、粒ぞろいのいい本が多かった。各箱をじっくり見ているとかえって迷ってしまったが、結局はみどり文庫さんから渋いのを三冊ほど頂戴した。そのなかの一冊が足立巻一『石の星座』(編集工房ノア、一九八三年四月二五日、装画=須田剋太)。

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この本に惹かれた理由は「村上華岳自筆墓誌」と題された一篇に岸百艸が登場していたからである。

《追谷墓地に村上華岳の墓をたずねた。
 岸百艸さんが案内してくれた。百艸さんは若いころは、阪妻のシナリオを書いていて『開化異相』はその作であるが、いまは市井に隠れ住んで、気ままに晩年を送る俳人・郷土史家であり、ことに近年は墓めぐりを一つのたのしみにしている。追谷墓地は家の近くなので、毎日かよっては、おびただしい墓を調べたそうである。》

《この墓地には神戸の歴史が化石になって密集しているように思われ、一つ一つ暇にまかせて洗ってみた。初代神戸市長の鳴滝幸恭から、華岳と関係の深かった四代市長鹿島房次郎、船成金の八代市長勝田銀次郎など歴代市長の墓があるし、鈴木商店の創設者岩次郎や、その大番頭金子直吉一族の墓、あるいは天下の金貸しといわれた乾新兵衛、航空機工業をおこした川西清兵衛、花隈を開発した関戸由義、生田川の流路を変えた加納宗七の墓もここにある。生田神社の社家だった後神(ごこう)家の代々の墓もならんでいる。》

《わたしも百艸さんの案内で、そうした墓を見て回っていたのであるが、とりわけ興味をそそられたのは、清朝末期の南画家胡鉄梅と悦夫人との墓である。》

《それとともに、元町に寺子屋を開いていた間人(はしうど)茶村、写真館を早く開いた市田左右太、牛肉業の先達森谷類造、最初の西洋料理屋外国亭を営んだ鬼塚仁右衛門、早くバナナを輸入した長谷川佐吉などの墓があるのも、いかにも神戸らしく開化の世相をしのばせる。》

《そうして村上華岳の墓の前に立ったのである。村上家の墓は、第十九区という、かなり奥まった高所にあった。雨後の神戸港がよく見えた。突堤には、外国船が並んでいる。》

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《この「村上華岳之墓」の文字は、華岳みずから書き残していたものである。没後に遺作・遺稿を整理していると、この揮毫があらわれたので、そのまま墓に用いたと、長男常一朗さんはいわれる。》

《わたしが墓のスケッチをしていると、百艸さんがぼそぼそとした口調で語った。
「三ノ宮の"ブラジレイロ"に、よくコーヒーを飲みに来ていた。日本人ばなれがしていたな。ヨーロッパ人というんではなく、インド人、あるいは南方の外人といった感じだった。顔色は浅黒くて、くすりのせいか、色つやはわるかった。一度も話しかけたことはなかったが……」》

《花隈の華岳邸には、おびただしい蔵書があった。常一朗さんが『神戸新聞』(昭和四十九年一月二十五日)に書かれた文章によると、地理・宗教の本が最も多く、アメリカの東洋学者グリフィスや、ドイツの東洋学者ル・コックの大著述もあり、イタリア中世の宗教画家ジォットーやアンジェリコ、イギリスの詩人・画家ブレークの画集を座右にしていたという。日本人の詩集も多く川路柳虹・千家元麿・日夏耿之介・萩原朔太郎・竹内勝太郎・宮澤賢治などの詩集が目立ち、そのかわり小説類はほとんどなく、あってもほとんど開いてなかったそうである。》

宮澤賢治の詩集があったというのは気になる。華岳の歿年が昭和十四年、賢治は昭和八年歿、生前の詩集は『春と修羅』(一九二四年)だけだから、ほとんど売れなかったというこの詩集を華岳は持っていたのか?

《制作・読書・思索に疲れると、華岳は散歩に出る。花隈の坂を元町のほうへくだって、洋書などを輸入し寿岳文章『ブレイク書誌』などを出版した"ぐろりあ・そさいて"[ママ]に必ず立ち寄り、ロゴス書店や骨董屋をのぞき、画集・宗教書やインド・中近東の工芸品をしきりに買った。そのとき一服するのが元町一丁目に近いコーヒー店"ブラジレイロ"で、常一朗さんもよくつれていってもらったという。百艸さんはそんな日の華岳を見かけたわけである。》

華岳の暮らし振りは理想的ではないか。


岸百艸『百艸句稿 朱泥』
http://sumus.exblog.jp/11588991/

『書彩』第九号(百艸書屋、一九六〇年五月)
http://sumus.exblog.jp/6368808/

『書彩』3
http://sumus.exblog.jp/11652790/
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by sumus2013 | 2013-11-05 20:40 | 関西の出版社 | Comments(2)