林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:喫茶店の時代( 32 )

美作七朗作品展

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いろいろなチラシ類を頂戴したなかに、オッと思う一枚があった。「名曲喫茶中野「クラシック」店主 画家美作七朗 生誕110年記念作品展」。会期は2017年9月8日2018年3月25日だから開催中ということだ。会場は名曲喫茶「でんえん」(国分寺市)、「ヴィオロン」(阿佐ヶ谷)、「ルネッサンス」(高円寺)。

「美作七朗作品展」のお知らせ

美作七朗(本名みまさかしちろう)は、1907年(明治40年)熊本市に生れ21歳で上京、洋画家・小林萬吾に師事し画家を目指す。1930年高円寺に音楽喫茶「ルネッサンス」を開業。戦災で焼失するも1945年9月終戦の翌月には、地を中野に移し名曲喫茶「クラシック」として再開。
1960年頃から油彩画の個展を精力的に開催。遺作展では小説家・五木寛之から賞賛の文章が寄せられる。

本名は「みまさか」だが画名として「みさく」と名乗ったようである。小林萬吾(1870-1947)は香川県三豊郡詫間町生れ。黒田清輝の天真道場から東京美術学校、白馬会、文展、帝展に出品、東京美術学校教授、帝国芸術院会員と、画家としてはまっすぐな栄達道を歩んだようである。同郷ではないとしたら、いったいどういう縁があったのか、ちょっと気になる。

1950年以降は西荻窪「ダンテ」をはじめ店舗の内装デザインを数多く手がけ1957年国分寺「でんえん」開業の折りは意匠設計の全てをおこなう。
1980年愛弟子寺元健治の阿佐ヶ谷「ヴィオロン」開業に尽力。1989年病没享年82歳。経営は愛娘の良子に、2005年に氏も他界し終戦から60年続いた「クラシック」は遂に閉店し老朽化した店舗は取り壊しとなる。
2007年元スタッフの檜山真紀子・岡部雅子の両氏により中野「クラシック」の内装を移築した高円寺「ルネッサンス」(創業時と同じ店名)が開業。

「クラシック」の血脈が受け継がれているのは慶賀なことである。


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読者の方より美作グッズを頂戴した。深謝申し上げます。美作七朗絵葉書セット、DVD「美作七朗と中野「クラシック」」、クラシックのマッチ(一九七〇年代のもの)。添えられていたコメントも引用させていただく。

中野のクラシックにはもう30年くらい前に一度行きましたが、ミルクがマヨネーズの蓋に入って出てきました。》《DVDでは、マヨネーズの蓋は白かったですが、わたしが行った時はまさしく赤いマヨネーズの蓋で、びっくりしました。店内は薄暗く、歩くと床が少し沈んだ覚えがあります。

DVDなどを買ったのは、阿佐ヶ谷の「ヴィオロン」でしたが、午後2時くらいでお客さんは6人いました。店番の女性がいない時、演奏中のレコードの針飛びがあったら、一番スピーカーの前で本を読んいたお客さんがすかさず針を置き直していました。

東中野の線路際の老婦人がやっていた喫茶店もなくなって随分になります。「モカ」だったと思います。NHKテレビで黒井千次の特集が放送され、インタビューをそこで受けていたので知りました。当時は高円寺に住んでいて、東中野の線路脇は見慣れていたので、すぐに行ったと思います。黒井千次は『珈琲記』*という本を出しているのですね。

黒井千次『珈琲記』紀伊國屋書店 、1997

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美作さんの絵葉書のなかではこの作品が好きだ。一九二九年作。サインが「S. MIMA-」となっている。この時期にはまだ「みさく」ではなく「みまさか」の略だったようである。

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by sumus2013 | 2017-10-28 19:23 | 喫茶店の時代 | Comments(2)

モナミの思い出

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『本の雑誌』41(本の雑誌社、一九八五年四月二〇日、表紙デザイン=亀海昌次、表紙造形=沢野ひとし)。「青木まりこ現象」特集号。「青木まりこ現象」についてはあらためて。今は沢野ひとし「神田川の思い出」に東中野モナミが登場しているので、その部分を引用しておく。

僕が小学校の頃の遊び場所は、東中野にあったモナミという西洋料理店の裏庭であった。モナミはその当時活躍していた文化人のたまり場で、とりわけ作家、編集者たちが出版パーティーなどで利用していて、人気のあった店である。店の中は落ち着いた油絵が飾られ、窓には白いレースのかかった上品な雰囲気の店であった。そのモナミでコックをしている人の子供の小田切君が僕とクラスが同じであったために、僕は年中モナミの裏庭で遊んでいた。
 ある日その裏庭のとなりにアメリカ軍が使った軍用品が大量に隠されているという噂が耳に入った。厳重な柵が設けられ、中をのぞくこともできなかった。柵には危険と大書された札がかかっていたが、僕と小田切君は庭の木の上に登り、その柵の中をのぞいた。
「アッ、毒ガス用のマスクがたくさんある」
「本当!」僕は小田切君がのぞいている位置まですぐに登りたかった。
「どんなマスク?」「黒いゴムでできたマスクだ。あれは戦争の時にかぶる毒ガス用のマスクだ」

沢野ひとし氏は一九四四年生れなので、これは一九五四年かその前後のことだと考えていいだろう。そのマスクを盗み出して、となり町の中学生たちとのけんかにそれをかぶって参戦し、バツグンの効果をあげたものの、警官がやってきたため、その夜、沢野氏らは神田川へマスク捨ててしまった……というような思い出である。とにかくもモナミのとなりにそんな軍需物資が保管されていたとは。少しだけ検索してみると下記のような説明文を見つけた。なるほどそうだったか。

中野区は都内の西部に位置し武蔵野台地の一角に位置します。江戸時代は畑作農業と味噌・製粉・醤油醸造など食品工業が発達し、江戸町民の食生活を支えました。明治中期以降、都心からの転居者が急増し、関東大震災以降は浅草から寺院が多数移り住み「小京都」の風情と為りました。戦前は陸軍が駐屯し「帝国軍人の街」と言われ、戦後は米軍が駐屯し米軍の物資横流しが有り闇市が形成され、その過程で駅周辺を中心に商店街が確立しました。》(記:田口憲隆)

銀座の「モナミ」/東中野のモナミ

東中野のモナミに関して下記のサイトを御教示いただいた。

軍人とアナキスト―東中野縁起⑦

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by sumus2013 | 2017-10-26 16:52 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

放香堂

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『KOBEの本棚』第86号(神戸市立中央図書館、二〇一七年七月二〇日)を恵投いただいた。その巻頭に載っているのがこの「放香堂」の記事である。

『豪商神兵湊の魁(ごうしょうしんぺいみなとのさきがけ)』より「放香堂」の店頭の様子/「宇治製銘茶」と「印度産珈琲」の看板が掲げられている》(図版キャプション)

「魁」というのは明治初期に各都市がこぞって(だと思う)発行していた商店案内の冊子(持ち歩きできる横長小型サイズが多い)。銅版印刷の細かい絵柄が特徴(新時代の感覚だろう)。「〜の魁」と題するのが通例で、それらをひとまとめに魁本(さきがけぼん)と呼ぶ。『豪商神兵湊の魁』は明治十五年発行。元町・栄町など雑居地(外国人と日本人が共に居住できる地域)の商店を紹介している。

神戸で最初にコーヒーを販売したのは、元町三丁目の茶商「放香堂」です。放香堂は明治七年(一八七四)開業で主に宇治茶の販売をおこなっていましたが、明治十一年(一八七八)よりコーヒーの販売も始めました。同年十二月二十六日付の読売新聞に、広告を出しています。そこには、「焦製[しょうせい]飲料コフィー 弊店にて御飲用或ハ粉にて御求共に御自由」と書かれており、コーヒーを飲用と粉で販売していたことがわかります。》(神戸とコーヒー)

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説明文の筆者(無記名)は明治二十一年開店の「可否茶館」より十年も前に、日本初の喫茶店が神戸に誕生していたということになります》と書いている。店頭で珈琲を飲めたからといって即「喫茶店」と決めつけるわけにはいかないと思うが、外国人向けというだけでなく日本人においても珈琲の需用が生まれていたと推定してもいいだろう(漢字だけの看板に注意)。郵便切手も売っていたようだ。

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by sumus2013 | 2017-09-06 20:36 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

珈琲文献

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珈琲文献を二点、相次いで頂戴した。御礼申し上げます。まず『珈琲の歴史 日本における珈琲文献』(喫茶萬里、一九七四年八月一日)。編集は「宝塚・清荒神駅前/喫茶萬里内/世界の珈琲を飲む会」。序文は横山純二。これは刊行された時期を考えるとかなり本格的な内容である。徳川時代以降の珈琲文献を引用で列挙した資料集。「はじめに」に文献の系統が分類されていて、それも参考になる。

一、仏蘭対訳『フランソワ・ハルマ』の辞書の流れをくむ、「江戸ハルマ」「ドゥハルマ」の系統。
二、同じく仏蘭対訳『ノエル・ショーメル』辞典から出た「紅毛本草」、「厚生新篇」の系統。
三、長崎蘭通詞等が、オランダ人からの見聞或は蘭書からの翻訳等の日本文献。
四、日本人漂流者の外国における見聞記。
五、幕末から明治へかけての遣外使節、留学生、旅行者の見聞記。
六、在留外国人の日記等

ただ、ここに引用されている文章をどこまで信用(誤植等も含め)できるか、少々こころもとない。出典について大雑把にしか記されていない、もしくは明記されていないというのも、残念なところである。テキストが何であるか正確に記してもらえれば、その引用についても信頼度が増すわけである。要するにこの編集では「孫引き」はできないということだ。参考程度にしかならないが、ただガイドとしてはかなり有益なものと思う。検索してみると「喫茶萬里」は現在も営業しているようである。

もう一冊は星田宏司『黎明期における 日本珈琲店史』(いなほ書房、二〇〇三年九月二〇日)。拙著『喫茶店の時代』では星田氏が『日本古書通信』七〇三号に執筆された「日本最初の珈琲店(可否茶館)ーーその記述をめぐる問題点」を引用させてもらっている。本書もその可否茶館の他、ダイヤモンド珈琲店、メイゾン鴻の巣、カフェー・ライオン、カフェー・プランタン、カフェー・パウリスタについて書かれている。よくまとまっているが、ただやはり引用出典がほとんど記載されておらず、とくにかなり詳しく叙述されている可否茶館の鄭永慶の伝についてはいったいどこからそういう話が出たのかまったく分らない。これは非常に残念である。

喫茶店やカフェについては二十一世紀に入って次々に重要な論考が発表され資料が発掘され研究が進んでいるようだ。要するにそういうテーマが大学での研究対象になる時代になったということである。ここに挙げた二冊のような(拙著もむろんそうだ)個人の趣味でアマチュアが集めた(そういう人たちしか興味をもたなかった)時代の文献はもう時代遅れになってしまったようだ。なお拙著では出典はすべて明記してある、掲載ページまで。

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by sumus2013 | 2017-08-23 21:19 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

カフェータワー

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生誕130年記念 秦テルヲの生涯
2017年6月3日〜7月8日

星野画廊
http://hoshinogallery.com


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最初の写真は《第1回個展(京都裏寺町妙心寺)でのテルヲ 1912(明治45)年》、二番目の写真は《カフェータワー開店記念スナップ 1913(大正2)年10月30日》、ともに『星野画廊蒐集作品目録/画家たちが遺した美の遺産 その4 生誕130年記念 秦テルヲの生涯 異端といわれ、無頼と呼ばれた孤独画家の生涯と魂、その求道の軌跡』(星野画廊、二〇一七年五月二〇日)より。

1913(大正2)年秋には、テルヲと晩花が文展会場前の移動式展覧会場、カフェータワーで「バンカ・テルヲ展」を開催した。》という説明も見られる。下はバンカ・テルヲ展(1913年11月23日〜12月5日)の会場スナップ(要するにテント内部)。中央に野長瀬晩花、その後ろ向って左の白い被り物がテルヲ。

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ぜひ見ておきたい展覧会である。図録も力作。

秦テルヲ「カフェー風景」

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by sumus2013 | 2017-05-29 20:46 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

東中野

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『机』第九巻第二号(紀伊國屋書店、一九五八年二月一日、表紙題字=伊藤憲治、表紙デザイン並カット=北園克衛)。編集人も北園克衛である。

少し前に以下のような問い合わせを頂戴していた。

《『喫茶店の時代』 183頁、「女たちの東中野」の見出しで、――

  震災後の中央線開発はまず新宿周辺から始まり、その延長として東中野にはいち早く喫茶店が誕生した。東口に 「ミモザ」「ユーカリ」(「ゆうかり」とも)。中央口に「暫」、線路の右手裏には「夜」があった。

と記述しておられます。これにつき、3件、ご示教をお願い申し上げます。

① 「夜」という店が存在したことは何を典拠とされたものでしょうか。「夜」に言及した文献を探しております。

② 「線路の右手裏」はどちらの方向に向かってのことでしょうか。現在の東京駅(東)、高尾駅(西)方面の、いずれでしょうか。

③ 「中央口」とはどこを指しているのでしょうか。東中野の「中央口」という呼称は珍しいもので、管見では、往時の資料に未確認です。現在の東口、西口の位置関係で具体的に知りたく思います。》

この質問メールをいただいたとき手許に喫茶資料を置いていなかった。なにしろ喫茶店を調べていたのは十五年以上前のことなので、多くの関連書籍は処分し、めぼしい資料も郷里の押入に片付けてしまっていた。つい先日の帰郷で、この質問については失念していたにもかかわらず、たまたま整理中にこの『机』を見つけたのはラッキーだった。

①は上記『机』第九巻第二号「特集喫茶店」の巻頭、井上誠「喫茶店の変遷」である(第二〜五頁)。該当する記述は第四頁に出ている。

②と③については原文をそのまま引用する。『喫茶店の時代』では要約しつつ言い換えてある。関東大震災後から昭和に移る時期。

中央線の入口になる東中野には逸早く喫茶店が出来ていた。駅の東口にはミモザとユーカリ。中央には暫[しばらく]。また線路の右手の裏には夜があった。まだ見すぼらしい林芙美子が、同じような連れと一緒にその夜に来ていたが、間もなくつぶれた。ユーカリのヨッペは東京不良少女の名流で、そこには銀座の老雄雨雀や、北原白秋や大木惇夫が来ていた。また直ぐ卓をひっくり返すので怕がられた畑山という中央線の顔や、ピストン堀口などもいた。

「中央口」と書いたのは誤りで「中央」としてあるだけだった。訂正しておく。「線路の右手」はどちらなのか? これは井上の記述だけでは判断しかねる。内容が面白いのでもう少し引用しておこう。

小滝橋に少し入るとグローリーには戦旗の上野壮夫達、ナップがいた。第百銀行の頭取の養子の野々村恒夫と壮夫とは、友達でそのこ幸ちゃんを張り合っていたが、飲むといよいよ上機嫌になったり泣き出したりする幸ちゃんは、上手に二人を手玉に取っていた。
 やがて東中野にはざくろやノンシャランが出来た。詩王の余波に乗じた詩洋の同人達が次々に開いた店で、ざくろには阿佐谷から井伏鱒二や久野豊彦が来るかと思うと、辻潤の一派がいたりした。まだ東大の学生であった中村地平は酔うと冬でも裸になって防腐剤を塗った屋内の柱を攀じ登り、忍術使のように逆様になって天井の梁を伝わったりした。ルネには小林秀雄の別れた妻君がよく来ていたた[ママ]。「たかりや姫」と言われていたが、誰でも悦んで飲ませた。哀れな者を慰わる気持を、誰しも持っていたのであった。

小林秀雄の別れた妻君」というのは長谷川泰子のことか。結婚はしていなかったはずだ。

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by sumus2013 | 2017-04-24 20:56 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

職業としての小説家

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パリ、午前九時四十五分頃(日本時間午後五時四十五分頃)、ルーブル美術館のカルーゼル入口の階段のところでリックサックと大型のナイフを持った男が「アラー・アクバル」と叫びながら入館しようとして暴れ警備していた国軍兵士に取り押さえられた。兵士は五発ほど発砲。犯人に重傷を負わせた。リックサックには爆発物は入っていなかった。以上のような内容(多少補足したが)の注意喚起メールが在仏日本国大使館から届いたのが午後七時三十五分(メール登録しているので)。《しばらくの間はルーブル美術館付近に近づかないようお願いします。》……今は近づこうにも近づけませんがね。

村上春樹『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング、二〇一五年九月一七日、カバー写真=荒木経惟、装丁=宮古美智代)をブックオフで見つけた。『サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3』が面白かったのでつい買ってしまったが、この本は正直たいくつだった。ただ喫茶店蒐集家としてはジャズ喫茶(というかジャズバー)「ピーターキャット」の開業の周辺が語られるくだりには興味をもった。

《そういうわけで、とにかく最初に結婚したんですが(どうして結婚なんかしたのか、説明するとずいぶん長くなるので省きます)、会社に就職するのがいやだったので(どうして就職するのがいやだったのか、これも説明するとずいぶん長くなるので省きます)、自分の店を始めることにしました。ジャズのレコードをかけて、コーヒーやお酒や料理を出す店です。》

《でも学生結婚している身だから、もちろん資本金なんてありません。だから奥さんと二人で、三年ばかり仕事をいくつかかけもちでやって、なにしろ懸命にお金を貯めました。そしてあらゆるところからお金を借りまくった。そうやってかき集めたお金で、国分寺の南口に店を開きました。それが一九七四年のことです。》

おお、小生が武蔵野美術大学に入った年である。国分寺の北側には「でんえん」が南側には「ピーターキャット」があったのだ。その頃は三多摩図書(古本屋さん)しか知らなかった。情けない。

《ありがたいことに、その頃は若い人が一軒の店を開くのに、今みたいに大層なお金はかかりませんでした。だから僕と同じように「会社に就職したくない」「システムに尻尾を振りたくない」みたいな考え方をする人たちが、あちこちに小さな店を開いていました。喫茶店やレストランや雑貨店、書店。うちの店のまわりにも、僕らと同じくらいの世代の人がやっている店がいくつもありました。学生運動崩れ風の血の気の多い連中も、そこらへんにうろうろしていました。》

「今みたいに」と書いているが、今だってお金をかけないで開店している若者はたくさんいると思う。

《僕が昔うちで使っていたアップライト・ピアノを持ってきて、週末にはライブをやりました。武蔵野近辺にはジャズ・ミュージシャンがたくさん住んでいたから、安いギャラでもみんな(たぶん)快く演奏してくれた。》

《銀行に月々返済するお金がどうしても工面できなくて、夫婦でうつむきながら深夜の道を歩いていて、くちゃくちゃになったむき出しのお金を拾ったことがあります。シンクロニシティーと言えばいいのか、何かの導きと言えばいいのか、不思議なことにきっちり必要としている額のお金でした。》

このくだりを読むとどうしても井伏鱒二を思い出してしまう。きっちりって……。村上はそれ以前に《新宿の歌舞伎町で長いあいだ終夜営業のアルバイト》をしており水商売には経験があった。

《仕事をしながら暇を見つけて講義に出て、七年かけてなんとか卒業しました。最後の年、安堂信也先生のラシーヌの講義をとっていたんですが、出席日数が足りず、また単位を落としそうになったので、先生のオフィスまで行って「実はこういう事情で、もう結婚して、毎日仕事をしておりまして、なかなか大学に行くことができず……」と説明したら、わざわざ僕の経営していた国分寺の店まで足を運んでくださって、「君もいろいろ大変だねえ」と言って帰って行かれました。おかげで単位もちゃんともらえました。》

《国分寺南口にあるビルの地下で、三年ばかり営業しました。それなりにお客もついて、借金もいちおう順調に返していけたんですが、ビルの持ち主が急に「建物を増築したいから出て行ってくれ」と言い出して、しょうがないので(というような簡単なことでもなく、いろいろと大変だったのですが、これも話し出すと実にキリがないので……)国分寺を離れ、都内の千駄ヶ谷に移ることになりました。店も前より広くなり、明るくなり、ライブのためのグランド・ピアノも置けるようになって、それはよかったのですが、そのぶんまた新たに借金を抱え込んでしまいました。》

二十代も終りに近づく頃、千駄ヶ谷の店の経営もようやく軌道に乗ってきた。一九七八年四月のよく晴れた日の午後、村上は神宮球場にヤクルトVS広島戦を見に行った。そのとき天啓が村上を襲う。エピファニー(epiphany)という言葉を使っている。「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」……《空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分でした》。そして仕事の合間に完成させたのが『風の歌を聴け』だった。

これを写していて気付いた。「話し出すと実にキリがない」ところを書いてくれないからこの本は退屈なんだな。

もうひとつ、これはべつにこの本に限ったことではない。原発について書かれているくだりにこうあった。

《原子力発電は資源を持たない日本にとってどうしても必要なんだという意見には、それなりに一理あるかもしれません。》

日本にエネルギー資源がないなんて刷り込み以外の何物でもない。何より温泉があるじゃないか。火山エネルギーは日本のいたるところで入手可能なものだ。地熱発電ほど効率のいいものはない。海だってあるし(海底には石油やガスが埋蔵されている)、水は豊富だ。反原発というコンテキストでこれは書かなくてよかっただろう。

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これがカバー。タイトルを隠す帯とは、さかしまなアイデアである。

***

宍戸恭一さんが亡くなられたことを知った。心よりご冥福をお祈りしたい。

京都の名物書店前店主死去 三月書房、宍戸恭一さん

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by sumus2013 | 2017-02-03 20:34 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

劇画人列伝

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桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛人だった下巻 劇画人列伝』(東考社、一九八五年六月一五日)。この本は初めて手にすると思っていたが、かなり昔、漫画のことを調べていた頃に読んだかもしれないと思い当たるふしがあった。まあ、どちらでもよろしい。面白い本である。前半は『ガロ』に連載され、一九七八年にエイブリル・ミュージック(後のCBSソニー出版)から単行本として出る時に後半「劇画人列伝」が書き足された。本書では列伝中の「白土三平」と「さいとうたかを」が省略されている。なお東考社は昭和三十六年に桜井昌一が設立した出版社である。

先日紹介した岡崎武志『気がついたらいつも本ばかり読んでいた』に国分寺の喫茶店「でんえん」が登場していて、そのことについてわずかばかりの思い出話を披露したが、本書の「永島慎二」の章では話題の中心が「でんえん」なので驚いた(というか、このくだりをかすかに昔読んだような気がするのだ)。

永島慎二は昭和三十年に鷹の台の都営住宅へ越して来たそうだ。その後、昭和三十三、四年頃に桜井ら劇画工房の連中の住んでいる国分寺へ移った。

《前にも書いたことだが、喫茶店「でんえん」の仕事を手伝っていた美人をヒモにしてしまい、自分の妻にしてしまうという悪業をしたのはこのころだった。「でんえん」は当時の我々の溜まり場で、その時分の劇画工房の連中の作品を見ると、誰もが必ず「でんえん」の看板のある建物を何度か描いているほどである。誰もが毎日、一度は通った。「でんえん」という文字は、劇画工房の一つのシンボルであった。
 永島は、ひどいときには、一日に二度も三度もこの「でんえん」に足を運んだ。美人に会いたい一念であった。しかし、いくらお気に入りだといっても、用もないのにいつも一人で顔を出すというわけにはいかなかった。そこで、人の顔を見るとだれかれの見境なく「お茶を飲もう」といってさそった。劇画工房の仲間たちは、そんな彼の気持ちを見抜いていて、永島におごらせるなら「でんえん」でとやっていた。ぼくたちも「でんえん」の美人にはのぼせあがっていたが、衆をたのんでたかをくくっていた。
 結局、永島はトンビが油あげをさらうように美人を引っさらっていってしまったが、そのときには、ぼくはあっけにとられたものだ。》

国分寺時代には桜井はさほど永島とは親しくなかった。東考社を興してから意識的に付き合うようになり、真崎守の紹介で阿佐ヶ谷の永島宅へ初めて原稿をもらいに出かけた。

《こうした事情のもとで、ぼくは阿佐谷の永島の家を訪ねていった。彼は気持ちよく迎えてくれた。
 部屋にはいると「あら桜井さん」と奥さんにいきなり声をかけられたが、この声の主が、かの「でんえん」の美人であったことを、ぼくはうっかり忘れていた。永島が彼女と結婚していたことは知っているのだから、当然彼女が家にいるであろうことは頭にあっていいはずなのだが、人間はこういう忘れかたをするときもあるものらしい。
 彼女は椅子に座るようにいってくれたが、ぼくは、どぎまぎしていたのだろうか、ボーリングのピンをさかさまにしたような籐で編んだ椅子らしきものに座った。とたんに彼女はふきだして「それはゴミ入れですよ」といった。永島は顔面神経痛にかかっていて、苦しそうに顔をしかめていたが、ぼくにはやさしい声で愛想よく応接してくれた。》

当時まだ永島は虫プロに務めており新作はなかった。このときにもらった原稿は旧稿『殺し屋人別帳』だったが、それは圧倒的に売れたという。そのすぐ後に永島は虫プロを退社し漫画雑誌に描くようになった。

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もうひとつ面白いのは桜井が永島を将棋で負かし、その数ヶ月後に長井勝一宅で復讐されてしまう話。

《長井社長宅に現れた永島は、ぼくの顔を見ると早速に将棋の復讐戦にとりかかった。酒は、ほとんど飲まなかった。永島の棋風は熟考するほうである。ぼくは誰よりも早く指すので、時間をもてあました。長井社長も将棋は好きで、テレビの将棋番組にもチャンネルを合わすほどである。真剣な表情で盤面に見入るので、話をすることもできなかった。二番指したが二番ともぼくが負けた。永島は以前よりも、たしかに強くなっていた。それでも長井社長は、「激戦だった」とその内容をいっていたし、ぼくも酔っぱらっていなければ、と残念だった。
 その日、夜おそくなって永島と二人で帰路についた。阿佐谷の駅に向かいながらマンガのことを話しあった。》

私事ながら、永島さんの阿佐ヶ谷のお宅には一度だけお邪魔したことがある。美人の奥様にもお会いしている。永島さんと将棋も指したことがある(これは奈良の武蔵美寮でのこと)。棋力はそれほどでもなかったが、たしかに真摯に考えるタイプであった。永島さんが亡くなられたのは二〇〇五年六月というからもう十二年もたってしまったのである……。


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by sumus2013 | 2017-01-31 20:51 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

おもかげ

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永井荷風『おもかげ』(岩波書店、一九三八年七月三〇日二刷)。下鴨で三冊五百円のうちの一冊。二刷、函が傷んでいるので、まあそんなところ。函の背が抜けていた。似た色の厚紙をピッタリの大きさに切って蓋をした。糊は木工用ボンド。輪ゴムで固定する。
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表題作の「おもかげ」に喫茶店が登場する。主人公はタクシーの運転手。たまたま死んだ女房にそっくりの踊子を見つけて毎日のように浅草の劇場に通っている。そんなとき偶然に雑沓でその踊子「つゆ子」を見かけ、彼女のあとをつける。

《やがて此の裏通が又もや賑な通を突切つて向側に並んださま〴〵な飲食店の中で、硝子戸の外にコトヤ喫茶店とかいた白い暖簾の下げてある店へ駆け込んだ。
 覗いてみると、さほど広くない店の正面には、どこの喫茶店にもあるやうな洋銀の銅壺がひかつてゐて、白い上着に白い帽をかぶつた男が二人。見渡す壁には油絵らしい額の間に、ココア拾銭、コーヒ五銭、ホットドッグ五銭など書いた紙が貼つてある。ぢゞむさい小娘が二三人、長いテーブルのあちらこちらに坐つてゐる入込みらしい客の前に物を運んでゐる。客の中には新聞を読んでゐるものもある。

露子は踊子仲間と合流したのだった。「おれ」は隅のテーブルに座ってコーヒーを注文して露子の様子をじっとみつめていた。

《露子さんはおれと同じコーヒーにジャミトーストをあつらへ、その出来あがるのをおそしとコップを取り上げたのに、始めて気がつき、おれも同じやうにコップの取手へ指をかけようとして、見るともなく見ると、袖口の白いシャツに、何だか赤いものがついてゐる。赤いのは血なんだ。手首のところ、二寸ばかり、引掻いたやうに疵がついてゐる。そして腕時計は物の見事になくなつてゐるぢやアないか。はつと思つて、ヅボンの尻のかくしに入れた銭入を探すと、これも無い。》

おれは主人にわけを話して金を取りに帰ろうとする。

《手首の疵とシャツについた血とが何よりの証拠だから、店の人も見てゐるお客も、みんな気の毒さうな顔をする。店のおぢさんは、コーヒーの一杯ぐらゐ、おついでの時でようござんすと云ふ。其傍から露子さんが、「アラ痛さうね。」と眉を寄せ、「おぢさん何か薬でもつけてお上げよ。」と云つてくれた。其声は死んだおのぶとはまるで違つてゐた。年も傍でよく見ると、大分上で、二十五六にはなつてゐるらしい。然しおれは涙のでるほど嬉しかつた。拝みたいほどありがたかつた。》

……この後には悲劇が待っているのだが、それはいいとして、白い暖簾、白服のボーイ、洋銀の銅壺、油絵などの昭和初期の喫茶店の雰囲気がみごとに描かれていると思う。

この本には荷風の写真が二十四葉収められている。大方が東京の街景である。そのなかから「牛籠舊居」。

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次は偏奇館だろうか書斎の一隅。

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他にもいろいろとオマケが付いていた。それも気に入ったのだが。まず前見返しに蔵書票「AKEDO'S LIBRARY」。後ろの遊び紙には半分剥がされた大阪大丸書籍売場のレッテルと蔵書印「平野蔵書」。

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もうひとつ荷風の検印。ちょっと変った文言。

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薄いけれど「永井氏著作権章」だろう。明治時代の初め頃にあったような文句である。

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by sumus2013 | 2016-10-06 21:38 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

漆繪の扇

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パウリスタで追加しておきたいのが『辻馬車』18号(波屋書房、一九二六年八月一日)に掲載されている浅見淵の小説である。浅見淵(1899-1973)は神戸市出身。早稲田大学文学部卒。小説家、文芸評論家。

「漆絵の扇」は神戸情緒をかきたてる小品だ。トアロード(トーア路)の異国趣味をふりかざしているところはやや土産物屋じみたところもあるが、今となってはそのために却って貴重な記録にもなっている。主人公は小説を書こうとしている大学生。大学に入った当座は夏休みに神戸へ帰省するのが楽しみだったが、だんだん億劫になってきたというところから始まる。

《じつさい、私は神戸へ帰つて二三日もすると、すつかり退屈してしまふのだつた。顔馴染のカフエや小料理屋は無いし、中学時代の友達もたいてい疎遠になつて、ひとりか二人しかゆききしてなかつた。それで、一週間に一度金曜か土曜かの晩にヒリツピン人のバンド付きで映す、オリエンタル・ホテルの活動写真を見に行くとか、海岸通のエム・シー薬舗で二円五十銭で買つて来たアツシユのステツキを振回しながら、汗みどろになつて裏山を歩き回るなどといつた気紛れを除くと、大方昼寝をして暮した。そして、昼寝に倦きると毎日のやうに、トーア路をとほつて三ノ宮のステイシヨンへ出掛け、そこで二三種類の東京の新聞を買求めて、トーア路が鉄道の踏切を越えたところにあるカフエ・パウリスタに引返し、一二杯の珈琲と一二本の安葉巻をたのしみながら、隅から隅までその二三種類の東京の新聞にゆつくり目を曝した。

当時の三宮駅は今よりも西の方に位置していた。このパウリスタは移転前の踏切脇の店である。新築移転したのは大正九年だから、浅見の年齢からしても大正七年か八年頃だろう。

YMCAでロシヤ郷土芸術音楽会があると知ってひまつぶしに出かける。そこでパフォーマンスした亡命ロシヤ人の家族、とくに末娘アレキサンドラの美しさにひきつけられる。

《その冬のことだつた。或晩、私と同じ中学を出て美術学校の洋画科へ入つてる友達が明石に帰省して、久振りで私を訪ねて来た。そして、九時近くにパウリスタへ珈琲を飲みに行かうといふので自家[うち]を出た。
 私の自家からパウリスタへ行くのには、中山手の暗い大通を抜けてトーア路をとほらなければならなかつた。で、その晩も二人でぶらぶらその路をやつて来たが、トーア路の中ごろまでやつてくると、突然聞き慣れない異様な合唱[コーラス]が街筋のどつかから聴こえて来た……。
 一体、このトーア路といふのは、山ノ手の外人街の入口にある、赤い屋根をもつたクリーム色のお伽噺のお城のやうなトーア・ホテルの横から始まり、鉄道の踏切や電車道を越えて波止場に面した竝木の多い、旧居留地へ通じてゐる坂路だつた。そして、山ノ手の外人街から神戸の銀座といふべき元町通へ出るには、どうしてもその路を通らなければならなかつた。で、しぜん、その路をゆききするものには外国人が多く、街の様子も外の街とは毛色が変つてゐた。例へば、アカシヤの竝木を前にした理髪店の二階に玖馬領事館があつたり、ゴシツク風のオール・セインツ・チヤアチの傍らに紅殻[ベンガラ]塗の牧師館があつて、その庭に熱ぽつたい夾竹桃の花が咲いてゐたり、さうかとおもふと高い煉瓦塀を周りに廻らした、二階の窓に朱塗の鳥籠が覗いてる支那人の金持の家があつたりした。又、埃塗れの安ホテルやソーセーヂ専問[ママ]のドイツ人の店や支那人のペンキ屋などがごちやごちや竝んでゐたりした。そして、夜になると、露地の奥の売春窟には赤い軒燈が燈りたいていの家は戸を締めてしまつて、ひよいとどつかの二階の鎧窓が開いたかとおもふと、ジヤツク・ナイフが閃めいて女の金切声が聞こえ、また直ぐにその窓は締まつて元のしんとした寂寞に帰るといつた、『カリガリ博士』の活動写真に出てくるやうな鬼気がその街一帯に漂つて来た。

コーラスというのは例のロシヤ人一家によるものだった。

《それから数分の後、私達は談笑しながらパウリスタの片隅で珈琲を飲んでゐた。そして、私は友達に漆絵の扇の話をした。
 そのうち、友達はあらぬ方をぢつと見詰めてゐたが、ふいと私のはうへ振返つて、
『君、君』と言つた。
『スミツト老人が来てるぜ』》

漆絵の扇とはアレキサンドラが舞台で持っていた安っぽい土産物である。スミツト老人というのは彼らが勝手に付けた綽名だった。彼はロシア人で、その落ちぶれた風采がドストエフスキーの『虐げられし人々』に登場する人物にぴったりだというところから中学生たち(彼ら大学生は中学生のときからパウリスタに入り浸っていたことになる)はそんな綽名を付けたのだった。

主人公はアレキサンドラとスミツト老人を登場させる『鳩の巣』という小説を構想する。

『鳩の巣』というのは、神戸にある世界的に有名な毛唐の売春窟である。
 港町では鳥渡した特徴のある招牌[かんばん]のイルミネイシヨンとか軒燈の色とかいつたものが、そのまま阿片窟とか売春窟の目じるしになつてゐた。そして、船乗の手から手へ渡る地図をたよりに、港に上陸した船乗たちはその目じるしを探すのであつた。ーー『鳩の巣』は、軒下にたくさんの鳩を飼つてることがその目じるしになつてゐた。

が、しかし、その小説は完成することはなかった。アレキサンドラの印象があまりに可憐だったから……。要するに甘ちゃんな小説だが、トアロードのダークサイドが描かれているところは非常に面白い。


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by sumus2013 | 2016-09-26 20:32 | 喫茶店の時代 | Comments(0)