林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:喫茶店の時代( 26 )

職業としての小説家

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パリ、午前九時四十五分頃(日本時間午後五時四十五分頃)、ルーブル美術館のカルーゼル入口の階段のところでリックサックと大型のナイフを持った男が「アラー・アクバル」と叫びながら入館しようとして暴れ警備していた国軍兵士に取り押さえられた。兵士は五発ほど発砲。犯人に重傷を負わせた。リックサックには爆発物は入っていなかった。以上のような内容(多少補足したが)の注意喚起メールが在仏日本国大使館から届いたのが午後七時三十五分(メール登録しているので)。《しばらくの間はルーブル美術館付近に近づかないようお願いします。》……今は近づこうにも近づけませんがね。

村上春樹『職業としての小説家』(スイッチ・パブリッシング、二〇一五年九月一七日、カバー写真=荒木経惟、装丁=宮古美智代)をブックオフで見つけた。『サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3』が面白かったのでつい買ってしまったが、この本は正直たいくつだった。ただ喫茶店蒐集家としてはジャズ喫茶(というかジャズバー)「ピーターキャット」の開業の周辺が語られるくだりには興味をもった。

《そういうわけで、とにかく最初に結婚したんですが(どうして結婚なんかしたのか、説明するとずいぶん長くなるので省きます)、会社に就職するのがいやだったので(どうして就職するのがいやだったのか、これも説明するとずいぶん長くなるので省きます)、自分の店を始めることにしました。ジャズのレコードをかけて、コーヒーやお酒や料理を出す店です。》

《でも学生結婚している身だから、もちろん資本金なんてありません。だから奥さんと二人で、三年ばかり仕事をいくつかかけもちでやって、なにしろ懸命にお金を貯めました。そしてあらゆるところからお金を借りまくった。そうやってかき集めたお金で、国分寺の南口に店を開きました。それが一九七四年のことです。》

おお、小生が武蔵野美術大学に入った年である。国分寺の北側には「でんえん」が南側には「ピーターキャット」があったのだ。その頃は三多摩図書(古本屋さん)しか知らなかった。情けない。

《ありがたいことに、その頃は若い人が一軒の店を開くのに、今みたいに大層なお金はかかりませんでした。だから僕と同じように「会社に就職したくない」「システムに尻尾を振りたくない」みたいな考え方をする人たちが、あちこちに小さな店を開いていました。喫茶店やレストランや雑貨店、書店。うちの店のまわりにも、僕らと同じくらいの世代の人がやっている店がいくつもありました。学生運動崩れ風の血の気の多い連中も、そこらへんにうろうろしていました。》

「今みたいに」と書いているが、今だってお金をかけないで開店している若者はたくさんいると思う。

《僕が昔うちで使っていたアップライト・ピアノを持ってきて、週末にはライブをやりました。武蔵野近辺にはジャズ・ミュージシャンがたくさん住んでいたから、安いギャラでもみんな(たぶん)快く演奏してくれた。》

《銀行に月々返済するお金がどうしても工面できなくて、夫婦でうつむきながら深夜の道を歩いていて、くちゃくちゃになったむき出しのお金を拾ったことがあります。シンクロニシティーと言えばいいのか、何かの導きと言えばいいのか、不思議なことにきっちり必要としている額のお金でした。》

このくだりを読むとどうしても井伏鱒二を思い出してしまう。きっちりって……。村上はそれ以前に《新宿の歌舞伎町で長いあいだ終夜営業のアルバイト》をしており水商売には経験があった。

《仕事をしながら暇を見つけて講義に出て、七年かけてなんとか卒業しました。最後の年、安堂信也先生のラシーヌの講義をとっていたんですが、出席日数が足りず、また単位を落としそうになったので、先生のオフィスまで行って「実はこういう事情で、もう結婚して、毎日仕事をしておりまして、なかなか大学に行くことができず……」と説明したら、わざわざ僕の経営していた国分寺の店まで足を運んでくださって、「君もいろいろ大変だねえ」と言って帰って行かれました。おかげで単位もちゃんともらえました。》

《国分寺南口にあるビルの地下で、三年ばかり営業しました。それなりにお客もついて、借金もいちおう順調に返していけたんですが、ビルの持ち主が急に「建物を増築したいから出て行ってくれ」と言い出して、しょうがないので(というような簡単なことでもなく、いろいろと大変だったのですが、これも話し出すと実にキリがないので……)国分寺を離れ、都内の千駄ヶ谷に移ることになりました。店も前より広くなり、明るくなり、ライブのためのグランド・ピアノも置けるようになって、それはよかったのですが、そのぶんまた新たに借金を抱え込んでしまいました。》

二十代も終りに近づく頃、千駄ヶ谷の店の経営もようやく軌道に乗ってきた。一九七八年四月のよく晴れた日の午後、村上は神宮球場にヤクルトVS広島戦を見に行った。そのとき天啓が村上を襲う。エピファニー(epiphany)という言葉を使っている。「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」……《空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分でした》。そして仕事の合間に完成させたのが『風の歌を聴け』だった。

これを写していて気付いた。「話し出すと実にキリがない」ところを書いてくれないからこの本は退屈なんだな。

もうひとつ、これはべつにこの本に限ったことではない。原発について書かれているくだりにこうあった。

《原子力発電は資源を持たない日本にとってどうしても必要なんだという意見には、それなりに一理あるかもしれません。》

日本にエネルギー資源がないなんて刷り込み以外の何物でもない。何より温泉があるじゃないか。火山エネルギーは日本のいたるところで入手可能なものだ。地熱発電ほど効率のいいものはない。海だってあるし(海底には石油やガスが埋蔵されている)、水は豊富だ。反原発というコンテキストでこれは書かなくてよかっただろう。

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これがカバー。タイトルを隠す帯とは、さかしまなアイデアである。

***

宍戸恭一さんが亡くなられたことを知った。心よりご冥福をお祈りしたい。

京都の名物書店前店主死去 三月書房、宍戸恭一さん

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by sumus2013 | 2017-02-03 20:34 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

劇画人列伝

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桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛人だった下巻 劇画人列伝』(東考社、一九八五年六月一五日)。この本は初めて手にすると思っていたが、かなり昔、漫画のことを調べていた頃に読んだかもしれないと思い当たるふしがあった。まあ、どちらでもよろしい。面白い本である。前半は『ガロ』に連載され、一九七八年にエイブリル・ミュージック(後のCBSソニー出版)から単行本として出る時に後半「劇画人列伝」が書き足された。本書では列伝中の「白土三平」と「さいとうたかを」が省略されている。なお東考社は昭和三十六年に桜井昌一が設立した出版社である。

先日紹介した岡崎武志『気がついたらいつも本ばかり読んでいた』に国分寺の喫茶店「でんえん」が登場していて、そのことについてわずかばかりの思い出話を披露したが、本書の「永島慎二」の章では話題の中心が「でんえん」なので驚いた(というか、このくだりをかすかに昔読んだような気がするのだ)。

永島慎二は昭和三十年に鷹の台の都営住宅へ越して来たそうだ。その後、昭和三十三、四年頃に桜井ら劇画工房の連中の住んでいる国分寺へ移った。

《前にも書いたことだが、喫茶店「でんえん」の仕事を手伝っていた美人をヒモにしてしまい、自分の妻にしてしまうという悪業をしたのはこのころだった。「でんえん」は当時の我々の溜まり場で、その時分の劇画工房の連中の作品を見ると、誰もが必ず「でんえん」の看板のある建物を何度か描いているほどである。誰もが毎日、一度は通った。「でんえん」という文字は、劇画工房の一つのシンボルであった。
 永島は、ひどいときには、一日に二度も三度もこの「でんえん」に足を運んだ。美人に会いたい一念であった。しかし、いくらお気に入りだといっても、用もないのにいつも一人で顔を出すというわけにはいかなかった。そこで、人の顔を見るとだれかれの見境なく「お茶を飲もう」といってさそった。劇画工房の仲間たちは、そんな彼の気持ちを見抜いていて、永島におごらせるなら「でんえん」でとやっていた。ぼくたちも「でんえん」の美人にはのぼせあがっていたが、衆をたのんでたかをくくっていた。
 結局、永島はトンビが油あげをさらうように美人を引っさらっていってしまったが、そのときには、ぼくはあっけにとられたものだ。》

国分寺時代には桜井はさほど永島とは親しくなかった。東考社を興してから意識的に付き合うようになり、真崎守の紹介で阿佐ヶ谷の永島宅へ初めて原稿をもらいに出かけた。

《こうした事情のもとで、ぼくは阿佐谷の永島の家を訪ねていった。彼は気持ちよく迎えてくれた。
 部屋にはいると「あら桜井さん」と奥さんにいきなり声をかけられたが、この声の主が、かの「でんえん」の美人であったことを、ぼくはうっかり忘れていた。永島が彼女と結婚していたことは知っているのだから、当然彼女が家にいるであろうことは頭にあっていいはずなのだが、人間はこういう忘れかたをするときもあるものらしい。
 彼女は椅子に座るようにいってくれたが、ぼくは、どぎまぎしていたのだろうか、ボーリングのピンをさかさまにしたような籐で編んだ椅子らしきものに座った。とたんに彼女はふきだして「それはゴミ入れですよ」といった。永島は顔面神経痛にかかっていて、苦しそうに顔をしかめていたが、ぼくにはやさしい声で愛想よく応接してくれた。》

当時まだ永島は虫プロに務めており新作はなかった。このときにもらった原稿は旧稿『殺し屋人別帳』だったが、それは圧倒的に売れたという。そのすぐ後に永島は虫プロを退社し漫画雑誌に描くようになった。

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もうひとつ面白いのは桜井が永島を将棋で負かし、その数ヶ月後に長井勝一宅で復讐されてしまう話。

《長井社長宅に現れた永島は、ぼくの顔を見ると早速に将棋の復讐戦にとりかかった。酒は、ほとんど飲まなかった。永島の棋風は熟考するほうである。ぼくは誰よりも早く指すので、時間をもてあました。長井社長も将棋は好きで、テレビの将棋番組にもチャンネルを合わすほどである。真剣な表情で盤面に見入るので、話をすることもできなかった。二番指したが二番ともぼくが負けた。永島は以前よりも、たしかに強くなっていた。それでも長井社長は、「激戦だった」とその内容をいっていたし、ぼくも酔っぱらっていなければ、と残念だった。
 その日、夜おそくなって永島と二人で帰路についた。阿佐谷の駅に向かいながらマンガのことを話しあった。》

私事ながら、永島さんの阿佐ヶ谷のお宅には一度だけお邪魔したことがある。美人の奥様にもお会いしている。永島さんと将棋も指したことがある(これは奈良の武蔵美寮でのこと)。棋力はそれほどでもなかったが、たしかに真摯に考えるタイプであった。永島さんが亡くなられたのは二〇〇五年六月というからもう十二年もたってしまったのである……。


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by sumus2013 | 2017-01-31 20:51 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

おもかげ

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永井荷風『おもかげ』(岩波書店、一九三八年七月三〇日二刷)。下鴨で三冊五百円のうちの一冊。二刷、函が傷んでいるので、まあそんなところ。函の背が抜けていた。似た色の厚紙をピッタリの大きさに切って蓋をした。糊は木工用ボンド。輪ゴムで固定する。
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表題作の「おもかげ」に喫茶店が登場する。主人公はタクシーの運転手。たまたま死んだ女房にそっくりの踊子を見つけて毎日のように浅草の劇場に通っている。そんなとき偶然に雑沓でその踊子「つゆ子」を見かけ、彼女のあとをつける。

《やがて此の裏通が又もや賑な通を突切つて向側に並んださま〴〵な飲食店の中で、硝子戸の外にコトヤ喫茶店とかいた白い暖簾の下げてある店へ駆け込んだ。
 覗いてみると、さほど広くない店の正面には、どこの喫茶店にもあるやうな洋銀の銅壺がひかつてゐて、白い上着に白い帽をかぶつた男が二人。見渡す壁には油絵らしい額の間に、ココア拾銭、コーヒ五銭、ホットドッグ五銭など書いた紙が貼つてある。ぢゞむさい小娘が二三人、長いテーブルのあちらこちらに坐つてゐる入込みらしい客の前に物を運んでゐる。客の中には新聞を読んでゐるものもある。

露子は踊子仲間と合流したのだった。「おれ」は隅のテーブルに座ってコーヒーを注文して露子の様子をじっとみつめていた。

《露子さんはおれと同じコーヒーにジャミトーストをあつらへ、その出来あがるのをおそしとコップを取り上げたのに、始めて気がつき、おれも同じやうにコップの取手へ指をかけようとして、見るともなく見ると、袖口の白いシャツに、何だか赤いものがついてゐる。赤いのは血なんだ。手首のところ、二寸ばかり、引掻いたやうに疵がついてゐる。そして腕時計は物の見事になくなつてゐるぢやアないか。はつと思つて、ヅボンの尻のかくしに入れた銭入を探すと、これも無い。》

おれは主人にわけを話して金を取りに帰ろうとする。

《手首の疵とシャツについた血とが何よりの証拠だから、店の人も見てゐるお客も、みんな気の毒さうな顔をする。店のおぢさんは、コーヒーの一杯ぐらゐ、おついでの時でようござんすと云ふ。其傍から露子さんが、「アラ痛さうね。」と眉を寄せ、「おぢさん何か薬でもつけてお上げよ。」と云つてくれた。其声は死んだおのぶとはまるで違つてゐた。年も傍でよく見ると、大分上で、二十五六にはなつてゐるらしい。然しおれは涙のでるほど嬉しかつた。拝みたいほどありがたかつた。》

……この後には悲劇が待っているのだが、それはいいとして、白い暖簾、白服のボーイ、洋銀の銅壺、油絵などの昭和初期の喫茶店の雰囲気がみごとに描かれていると思う。

この本には荷風の写真が二十四葉収められている。大方が東京の街景である。そのなかから「牛籠舊居」。

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次は偏奇館だろうか書斎の一隅。

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他にもいろいろとオマケが付いていた。それも気に入ったのだが。まず前見返しに蔵書票「AKEDO'S LIBRARY」。後ろの遊び紙には半分剥がされた大阪大丸書籍売場のレッテルと蔵書印「平野蔵書」。

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もうひとつ荷風の検印。ちょっと変った文言。

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薄いけれど「永井氏著作権章」だろう。明治時代の初め頃にあったような文句である。

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by sumus2013 | 2016-10-06 21:38 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

漆繪の扇

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パウリスタで追加しておきたいのが『辻馬車』18号(波屋書房、一九二六年八月一日)に掲載されている浅見淵の小説である。浅見淵(1899-1973)は神戸市出身。早稲田大学文学部卒。小説家、文芸評論家。

「漆絵の扇」は神戸情緒をかきたてる小品だ。トアロード(トーア路)の異国趣味をふりかざしているところはやや土産物屋じみたところもあるが、今となってはそのために却って貴重な記録にもなっている。主人公は小説を書こうとしている大学生。大学に入った当座は夏休みに神戸へ帰省するのが楽しみだったが、だんだん億劫になってきたというところから始まる。

《じつさい、私は神戸へ帰つて二三日もすると、すつかり退屈してしまふのだつた。顔馴染のカフエや小料理屋は無いし、中学時代の友達もたいてい疎遠になつて、ひとりか二人しかゆききしてなかつた。それで、一週間に一度金曜か土曜かの晩にヒリツピン人のバンド付きで映す、オリエンタル・ホテルの活動写真を見に行くとか、海岸通のエム・シー薬舗で二円五十銭で買つて来たアツシユのステツキを振回しながら、汗みどろになつて裏山を歩き回るなどといつた気紛れを除くと、大方昼寝をして暮した。そして、昼寝に倦きると毎日のやうに、トーア路をとほつて三ノ宮のステイシヨンへ出掛け、そこで二三種類の東京の新聞を買求めて、トーア路が鉄道の踏切を越えたところにあるカフエ・パウリスタに引返し、一二杯の珈琲と一二本の安葉巻をたのしみながら、隅から隅までその二三種類の東京の新聞にゆつくり目を曝した。

当時の三宮駅は今よりも西の方に位置していた。このパウリスタは移転前の踏切脇の店である。新築移転したのは大正九年だから、浅見の年齢からしても大正七年か八年頃だろう。

YMCAでロシヤ郷土芸術音楽会があると知ってひまつぶしに出かける。そこでパフォーマンスした亡命ロシヤ人の家族、とくに末娘アレキサンドラの美しさにひきつけられる。

《その冬のことだつた。或晩、私と同じ中学を出て美術学校の洋画科へ入つてる友達が明石に帰省して、久振りで私を訪ねて来た。そして、九時近くにパウリスタへ珈琲を飲みに行かうといふので自家[うち]を出た。
 私の自家からパウリスタへ行くのには、中山手の暗い大通を抜けてトーア路をとほらなければならなかつた。で、その晩も二人でぶらぶらその路をやつて来たが、トーア路の中ごろまでやつてくると、突然聞き慣れない異様な合唱[コーラス]が街筋のどつかから聴こえて来た……。
 一体、このトーア路といふのは、山ノ手の外人街の入口にある、赤い屋根をもつたクリーム色のお伽噺のお城のやうなトーア・ホテルの横から始まり、鉄道の踏切や電車道を越えて波止場に面した竝木の多い、旧居留地へ通じてゐる坂路だつた。そして、山ノ手の外人街から神戸の銀座といふべき元町通へ出るには、どうしてもその路を通らなければならなかつた。で、しぜん、その路をゆききするものには外国人が多く、街の様子も外の街とは毛色が変つてゐた。例へば、アカシヤの竝木を前にした理髪店の二階に玖馬領事館があつたり、ゴシツク風のオール・セインツ・チヤアチの傍らに紅殻[ベンガラ]塗の牧師館があつて、その庭に熱ぽつたい夾竹桃の花が咲いてゐたり、さうかとおもふと高い煉瓦塀を周りに廻らした、二階の窓に朱塗の鳥籠が覗いてる支那人の金持の家があつたりした。又、埃塗れの安ホテルやソーセーヂ専問[ママ]のドイツ人の店や支那人のペンキ屋などがごちやごちや竝んでゐたりした。そして、夜になると、露地の奥の売春窟には赤い軒燈が燈りたいていの家は戸を締めてしまつて、ひよいとどつかの二階の鎧窓が開いたかとおもふと、ジヤツク・ナイフが閃めいて女の金切声が聞こえ、また直ぐにその窓は締まつて元のしんとした寂寞に帰るといつた、『カリガリ博士』の活動写真に出てくるやうな鬼気がその街一帯に漂つて来た。

コーラスというのは例のロシヤ人一家によるものだった。

《それから数分の後、私達は談笑しながらパウリスタの片隅で珈琲を飲んでゐた。そして、私は友達に漆絵の扇の話をした。
 そのうち、友達はあらぬ方をぢつと見詰めてゐたが、ふいと私のはうへ振返つて、
『君、君』と言つた。
『スミツト老人が来てるぜ』》

漆絵の扇とはアレキサンドラが舞台で持っていた安っぽい土産物である。スミツト老人というのは彼らが勝手に付けた綽名だった。彼はロシア人で、その落ちぶれた風采がドストエフスキーの『虐げられし人々』に登場する人物にぴったりだというところから中学生たち(彼ら大学生は中学生のときからパウリスタに入り浸っていたことになる)はそんな綽名を付けたのだった。

主人公はアレキサンドラとスミツト老人を登場させる『鳩の巣』という小説を構想する。

『鳩の巣』というのは、神戸にある世界的に有名な毛唐の売春窟である。
 港町では鳥渡した特徴のある招牌[かんばん]のイルミネイシヨンとか軒燈の色とかいつたものが、そのまま阿片窟とか売春窟の目じるしになつてゐた。そして、船乗の手から手へ渡る地図をたよりに、港に上陸した船乗たちはその目じるしを探すのであつた。ーー『鳩の巣』は、軒下にたくさんの鳩を飼つてることがその目じるしになつてゐた。

が、しかし、その小説は完成することはなかった。アレキサンドラの印象があまりに可憐だったから……。要するに甘ちゃんな小説だが、トアロードのダークサイドが描かれているところは非常に面白い。


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by sumus2013 | 2016-09-26 20:32 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

噛み茶

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【『喫茶店の時代』正誤・増補 006 薬局からカフェへ】

41頁脚注[8]
《コヒーノキ》以下二行削除

42頁1-2行目 《おそらく実をビンロウのようにそのまま噛んでいたか、あるいは潰して液状にして用いたようである。》の行に脚注[9]を追加。内容は以下の通り。

《[9]ビルマの山地民は茶の葉を乳酸発酵させた漬物レッドペッドを持ち、北部タイには噛み茶ミエン、雲南省西双版納[シーサンバンナ]にはニイエン(食べる茶)などがある。茶の初原的な食べ方か。『太陽』平凡社、一九八四年五月号、四一頁。

ビンロウは「台湾チューインガム」とも呼ばれ、弱い覚醒作用のあるヤシ科常緑樹の果実。アジアでは他にキンマ、パーン、カートなどと呼ばれる同様の嗜好植物が現在も広く用いられている。》

キンマ(蒟醤) Wiki

ビンロウとはどのようなものか?

追記。上の写真はキンマ(?)の容器と思うが、出自は不明(御教示を)。かなり前に京都のアンティーク店で求めたもの。キンマとはその容器そのものおよびそこに施された漆塗りの技法をも意味する。


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by sumus2013 | 2016-09-01 20:36 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

茶館「露兄」

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石原輝雄『マン・レイへの写真日記』(銀紙書房、二〇一六年八月二七日、限定二十五部)。前著からほぼ二年、石原氏のマン・レイとの関わりをコレクションとともに開陳した写真入り回顧録と言っていいだろう。ギャラリーときの忘れものブログを元にしつつ書き下ろしを加えたとのこと。詳しくは下記。ただし、ほぼ即日完売……さすが。

『マン・レイへの写真日記』刊行のお知らせ

小生は石原氏の存在を知ったのが一九八三年。この本にも書かれているが、京都三条高瀬川のビルにあったRギャラリーで氏の「マン・レイ展」を見たときだった。すごいコレクターがいると驚いてしまった。その印象が強くあって『sumus』第二号(二〇〇〇年一月)にインタビュー記事を掲載させてもらうことになったのである。久しぶりに読み返してみたが、我ながらよくまとまっている。他にも一九七五年のシュルレアリスム展、トアロード画廊(小生はこの画廊で個展をさせてもらっている!)、児玉画廊、アトリエ・チサト……などが本書には登場して、小生自身の歩みを振り返る場面も多かった。

マン・レイと京都の人たち 三條白川橋上る

光の時代展カタログ


***


『陶庵夢憶』より「露兄」。喫茶店の話である。

《崇禎六年[1633]、好事家が茶館を開いた。泉は正真正銘の玉帯泉[ぎょくたいせん]、茶は正真正銘の蘭雪茶、湯はいま煮たばかりのもので古い湯は使わぬ。器はその都度洗って、よごれた器は使わぬ。その火加減、湯加減も時に天の引き合わせかと思われるものがある。わたしはこれを喜んで、その茶館に「露兄」という名をつけてやった。米顛(米芾)の「茶甘く露に兄あり」の句から取ったのである。》

張岱はさらに『闘茶の檄』を作った。要するに広告文である。

《水淫と茶癖は、今日なお古風が残っていますし、瑞章と雪芽は、昔から越絶(越の特産)と称せられています。》

瑞章[ずいそう]と雪芽は茶の名。雪芽茶を張岱は蘭雪茶と名付けた。

闘茶には蘭雪茶を使います。瓜の種、炒豆には、何も瑞章橋辺のものでなければということもありますまいが、蜜柑、柚、査梨[さり、ヒメリンゴ?]は、仲山圃の中で出来たものであります。

お茶に合わせるスィーツは果物であった。仲山圃は不詳。

《『七碗は飲みきれぬ』といった廬〓[どう、やね+工]は、茶の味を解する人とは申せません。いでや茶壺を囲み払子を揮いつつ、思うさま清談を楽しみ、半榻[はんとう]に香を焚いて共々におちゃけ[四字傍点]酔払おうではありませんか》

廬〓は唐の詩人。「筆を走らせて孟諌議が新茶を寄せらるるを謝す」という詩に「七碗にして喫し得ず」とあることを指している。おちゃけに酔うの原文は「白酔」だとのこと。

茶と酒は対立して論じられることが常であった。青木正児『抱樽酒話』(アテネ文庫、一九四八年)に納められている「酒茶論」によれば、もともと茶は酒の敵ではなかったが、茶は南方の飲料として晋代頃からようやく流行し始め、唐の中頃に陸羽『茶経』が著されたあたりから盛況を呈して来た。

《製法も進んで精品を出すやうになつた。かうした趨勢で茶の飲料としての品位が次第に高まり、遂に増長して「酒」と勲功を争う「茶酒論」の如きものが戯作さるゝに至つたわけであらう。我が蘭叔の「酒茶論」の出現も、室町時代茶の湯の勃興した世相の反映たるに外ならぬ。結局此の論戦は和漢共に新興勢力の旧勢力に対する抗争と見なすべきである。》

おそらく張岱グループの茶館というのも、あるいはそんなヌーヴェル・ヴァーグの文化的アイコンだった、のかもしれない。松山省三のカフェー・プランタンも同様な現象だったと思われる。


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by sumus2013 | 2016-08-21 17:31 | 喫茶店の時代 | Comments(2)

コヘイ

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【『喫茶店の時代』正誤・増補 005 明治のコーヒー店

コピー資料のなかにこの西洋料理店「南海亭」のメニューを見つけたので増補しておく。読みはこんなものだと思うが、間違っていたら御叱正を。


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西洋料理 此度相改御手軽ニ
     奉差上候間御来
     駕奉希上候以上

ソーフ    日本ノ吸物   価 二匁五分
フライヘイシ  〃 天婦ら  〃 一匁五分
ヒフテキ   牛のてりやき  〃 二匁七分
パ ン    舶来小麦製   〃 一匁六分
コヘイ    ひき茶代リ   〃 一匁二分
 右一席御一人前     金二朱ト
               銀二匁

ライス   日本上白米御穣  価 一匁二分
シチウ   牛。鳥うまに   〃 二匁五分五リン
 右一席御一人前     金一朱

ビイル   麦酒 大一本ニ付 価金三朱ト
                 銭三百文
同     〃  小一本ニ付 〃金一朱ト  
                 銭四百五十文
同     〃  コツフ
         一盃ニ付  〃金一朱ト  
                 銭百文

右之外西洋諸酒御好次第奉
願上候以上       九檀坂上富士見丁
                 三番地
  月 日              南海亭
    御客様



検索してみるとこの広告は明治四年頃のものらしいが、明治政府が円・銭の使用を決めたのが同じ明治四年である。そして明治七年に古金銀停止を命じた。ということで江戸時代の貨幣価値を調べなければ、と思って探してみたところ便利なサイトが見つかった。


金一両は現代で約75,000円
金一両は銀貨六十匁
金一両は六千五百文

金1両=4分=16朱
金1朱約5,000円弱

銀1貫=1,000匁=10,000分
銀1匁は現代で約1,250円
銀1分は現代で約125円

銭1文は現代で約12円

この換算でいけばコーヒーは一匁二分だから約1500円。スープからコーヒーまでフルコースならお一人様金二朱ト銀二匁すなわち約12,500円。シチューとライスで約5000円。妥当かどうか分らないけれど、もしこの数字ならば、西洋料理といえどそんなに法外な値段ではなかったかもしれない。

『値段の明治大正昭和風俗史』(朝日文庫、一九八八年二刷)を見ると、天保年間の遊女の揚代(呼出、この時期には茶屋へ遊女を呼び出すようになっていた)が銀六十匁(一両=約75,000円)だそうだから、まあそんなものか(?)。

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by sumus2013 | 2016-07-13 21:23 | 喫茶店の時代 | Comments(2)

明治のコーヒー店

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【『喫茶店の時代』正誤・増補 004 明治のコーヒー店

28頁脚注[5]に追加。上図も。

《コーヒーの広告が初めて登場したのは『萬国新聞』第一五号(一八六九年)横浜のエドワルズ氏が「生珈琲幵焼珈琲」の販売を報せたものとされる(岡田睦子「珈琲というメディア」『珈琲王国』第四八号、珈琲文化研究会、二〇〇二年一二月三〇日)。》

生珈琲には「きこをへい」、焼珈琲には「やきこをへい」とルビがある。

29頁最終行  ×明治十年末  ○明治十一年

30頁脚注[11] ×林杖二  ○林丈二

32頁最終行《コーヒー三銭は可否茶館の倍額である。》につづけて以下の文章を挿入。

《参考までに明治二十年代東京市中、芝、牛込あたりの商賈職工たちを顧客とする飯屋では一人前平均八、九銭より十銭くらいの勘定だった。[脚注]松原岩五郎『最暗黒の東京』岩波文庫、一九九九年版、一一一頁。》



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by sumus2013 | 2016-06-22 21:25 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

煎茶の流行と茶屋の発展

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若冲「売茶翁」(部分)


【『喫茶店の時代』正誤・増補 003 煎茶の流行と茶屋の発展】

21頁後ろから3行目

《ところが江戸時代に入ると、嵯峨天皇の在世以来途絶えていた煎茶が復活する。》

とあるところ

江戸時代に入ると、同種かどうかは別として、平安時代初期以来の煎茶が復活する。

に差し替える。

23頁に若冲「売茶翁」の図または田能村竹田の「高遊外翁像」を挿入する。若冲(一七一六〜一七八〇)は実際に売茶翁と親しくしていたのでこの面貌には信頼がおけると考えていいだろう。魁偉と形容してもいいような面構えではないか。ただ描き方としては中国風の型にはまった表現を残して格調を保っている。

竹田(一七七七〜一八三五)は売茶翁(一六七五〜一七六三)歿後の生まれ。若冲らによる既存の肖像画からインスピレーションを得たのだろうが、リアリティという意味では、実際にはこんな爺さんだったんじゃないかと思わせる深みがあるように思う。頭頂部の形とか禿げぐあいだとか、頬髭、のど仏から胸にかけての皺など非凡である。それでいて雅味を失わない。竹田の禀質だ。

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田能村竹田「高遊外翁像」(部分)



◉26頁2行目《と呼ばれる茶粥であろうか。》の次に以下の文章を挿入。

《奈良の茶粥の作り方は様々だが、米一水八〜十で炊き、煮上ってくると「茶ん袋」を入れてよくまぜ、余熱で仕上る。袋を取り出し少しさまして食べるのが本格的だという。「茶ん袋」には粉茶を入れる。他に東大寺には粥をザルでこしておもゆを除き、煎茶をかけて食べる「あげ茶」が伝えられている。【出典脚註=『あまカラ』四六号、一九五五年六月、二六〜三〇頁】また、和歌山県日高地方では番茶で白米を煮て作る【出典脚註=『あまカラ』七一号、一九五七年七月、六三頁】

《 九や三を二が連れて行く万年屋
という川柳がある【出典脚註=藐姑柳 (はこやなぎ)』(天明五年=一七八五)四篇】。これは厄年に当る人々が川崎大師に参詣することを詠んでいるのだが、女の厄年十九と三十三、男の厄年四十二、それぞれを略して詠んだところが手柄だろう。六郷川の西畔にあった万年屋は奈良茶漬けで有名だった。》

茶屋で食事を出すようになったのは明暦の大火(一六五七)以降のことだという。

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by sumus2013 | 2016-05-23 20:21 | 喫茶店の時代 | Comments(0)

茶店の成立

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天橋立・住吉社図屏風より茶店



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上杉家本洛中洛外図屏風より「一服一銭」


【『喫茶店の時代』正誤・増補 002 茶店の成立】

上杉家本洛中洛外図屏風」(十六世紀中頃)には言及している(p19)が図版は掲載していなかった。新たに知った「天橋立・住吉社図屏風」に描かれている茶店には屋根と椅子も備えられており、本格的なものである。



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『喫茶往来』(十五世紀初)に描写される「喫茶之亭」を金閣寺に似ているようだと書いたが(p19)、上の記事は銀閣寺から御影石の導水管が発見されたという内容(1993年10月27日付朝日新聞;神戸)。

《国際日本文化研究センターの村井康彦教授は「銀閣寺東求堂内にある同仁斎という部屋が、囲炉裏の間だったと分かっている。義政が茶の湯をたしなんでいたとの説があり、石樋の精巧さは、その説を裏付ける」と話す。》

質素だとされる銀閣寺、実は豪華な庭園だった可能性が強まった、と記事は結ばれている。



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p20で言及している「南大門一服一銭請文」は東寺百合文書の中にあり「南大門前一服一銭茶売人道覚等連署条々請文(なんだいもんまえいっぷくいっせんちゃうりにんどうがくとうれんしょじょうじょううけぶみ)」が正式名称。「前」が抜けていた(20頁7行目)。この資料は京都府立総合資料館蔵。図版は2002年10月17日付『朝日新聞;京都』より。請文の内容は以下の通り。

一 如根本令居住南河縁堆為行時不可移住門下石階辺事

一 鎮守宮仕部屋雖暫時不可預置茶具足以下事

一 同宮幵諸堂香火不可取事

一 灌頂院閼伽井水不可取事

《石段付近で営業しない▽道具を宮仕部屋に預けない▽火種を寺の香火から取らない▽寺の井戸水をくまない、の4項目。》

東寺が登場したついでに明治時代の東寺付近。茶畑に囲まれていた。

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2001年3月3日付朝日新聞;京都より


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by sumus2013 | 2016-05-09 20:14 | 喫茶店の時代 | Comments(0)