林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:雲遅空想美術館( 100 )

養病行遊

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七言律詩のマクリ。年初だったか、某書店にて。落款は香川景徽[御教示いただいた]、印は「景緊」「公琴」だろう。香川景とくれば香川景樹のファミリーなのかとも思うが、これまた検索してもはっきりしない。詩の方も難しい字が多くて良く読めないが、例によってめくらめっぽうで。乞御教示。

養病行遊洛水淡
春芳一転入南薫
九潮斜別千章楼
12高飛五彩雲
北海猶応傾34
東山5又6紅裙
杜鵑留後7亭夜
莫使僕帰啼向君

寄憶白8君在京

12は菱闕、34は碧甕、5封?、6破、7郵、8麟、という御教示をいただきました。なるほど、改めてお教えいただくと弁別できないほど難しい字ではない、字書の引き方を工夫しないといけないようだ。

別の方より御教示いただいた。北洛としてあったところは北海(なるほどそうですね)、杜鵤としてあったところは杜鵑(たしかに)、そして6は酔であろうと(酔か破は迷ったのです。「、」があるので酔ですか)、7の次「亭」は「寄」であろうと(ただ後書きにある寄のように「、」がないので亭かと思いました[、がなくても寄の例もありますが]、また郵亭という熟語もあります)。

なお、よくよく紙背を眺めていたらエンピツで小さく《香川公琴 大阪ノ人 小竹門人》と隅っこに書かれていた。これだけ分れば上出来だろう。

さらにデジタル版日本人名大辞典に香川琴橋が立項されている(と御教示いただいた)。

香川琴橋 かがわ-きんきょう
1794-1849 江戸時代後期の儒者。
寛政6年生まれ。安芸広島藩浪人の父北川五助(介)にしたがって大坂に出,香川子硯の養子となる。劉琴渓にまなび,家塾をひらいた。嘉永(かえい)2年10月18日死去。56歳。名は徽。字(あざな)は公琴。通称は一郎。著作に「浪華名勝帖」。


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by sumus2013 | 2016-07-02 22:06 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

国立西洋美術館展覧会総覧 1960-2009

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『国立西洋美術館展覧会総覧 1960-2009』(淡交社、二〇〇九年九月一一日)を借覧。この本は開館五十周年を記念して刊行され、同館で開催された展覧会、出品作についての情報が細かく記録されている。同館に保存されている全カタログから基礎データを入力し検索できるようにした労作である。

コルビジェ?

先日はセザンヌ展(一九七四年三月三〇日〜五月一九日)が小生における最初の西洋美術館体験ではないか、記憶があいまいだと書いた。本書の「展覧会一覧」をゆっくり眺めてみたのだが、どうも最初ではないような気がする。ただそれ以前と言うと、上京してセザンヌ展が始まるまで(あるいは高校時代の修学旅行か? 東京だったことは間違いなく、工芸高校なので美術館も行ったような気もしないでもないが、どうもはっきりしない。宿は上野辺りだったと思う。日光東照宮へ行ったのは覚えている)ということになる。

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もし上京後だとしたら、初めて見たのは常設展示(松方コレクション)であろう。常設で好きだったのはこの作品、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ「貧しき農夫」。この画像はその当時買った絵葉書(今も手許にある)からスキャンしたもの。うらさびしい絵なのだが、みょうに引きつけられた。

セザンヌ展のあと四月から六月にかけてモナ・リザ展があった。行列が嫌いなので見なかった。九月から十一月に「ヨーロッパ絵画名作展:ドイツ民主共和国ドレスデン国立美術館所蔵」が開催され、そこでフェルメールにシビレタ。「窓辺で手紙を読む娘」(現在は娘から「女」に成長)。

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このおよそ二年後、アムステルダムで「牛乳を注ぐ女」他(王立美術館にフェルメールだけの小部屋があった)、ウィーンで「アトリエ」も間近に見ることになるのだが、そのときよりもこの娘の方が印象は強烈だった。フェルメールのなかでも最も濃密な描写がうかがえる傑作だと思う。

七五年にはヨーロッパ素描名作展、ホドラー展、英国の肖像画展、全米美術館収集世界名作展、七六年にはヴァン・ゴッホ展、七七年にはエルミタージュ美術館展、ルネッサンス装飾美術展、七八年のボストン美術館展、七九年のヨーロッパ巨匠素描展などそれぞれ断片的ながら記憶にはっきり残る展覧会ばかり。こうやって振り返ってみると西洋美術館にはお世話になっている。ありがとうNMWA。

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by sumus2013 | 2016-06-28 21:12 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

夷隅郡

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古写真。そこそこイケメンの青年二人が芸もなく椅子に座っている。どうしてこんな写真を撮ったのだろうか? 時代はおそらく明治後半だろう。裏面はこうなっている。

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 中魚落郷沼君

 千葉県夷隅郡中根村
     小高文助君


中魚落村が大原町になったのは明治三十二年(一八九九)だそうだから単純に考えてそれ以前に撮影されたと思われる。

夷隅郡とは、千葉県の南東部にある郡である。

和服の青年は地下足袋のようなものを履いている。デジャヴュの感じがあるなと思ったら、以前のブログでこんな記事を書いていた。

号外配りの出で立ち

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by sumus2013 | 2016-06-24 20:40 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

飛鳥寺

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所用あって奈良県の明日香村へ。近鉄・橿原神宮前駅(日本中どこにでも見られる地方都市の顔つき)から車が市街地を抜けて明日香村へ入るやいなや、水を湛えて鏡のように光る水田が広がって眩しいくらい。こんな田園風景、小生の田舎でももう残っていないような気がする。街並も瓦屋根、白壁(そして奈良特有だという黒壁)板壁の懐かしき風景を保っているようだ。

案内されて飛鳥寺へ。初めての訪問。図版などでは見知っている印象的な風貌の飛鳥大仏を拝む。

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本堂には初老のガイドさんがおり、飛鳥寺や大仏について独特の口調で説明してくれた。庭へ出ると小学六年生の女子が八人ほど観光案内のバイトいや課外授業(?)をやっていた。四人一組で順番に口上を述べる。しばらく立ち止まって聞き入ってしまった。以下は手渡された手書きパンフレットより。

《飛鳥寺は、日本最古の寺です。
 飛鳥寺は、887年と1196年の落雷のため、火災にあい本堂が焼失しましたが、江戸時代に再建されました。
 飛鳥大仏もほ修されましたが、顔の1部と左目、右手中央の指3本だけは、当時のまま残っています。
 飛鳥寺は昔は今の20倍の広さがあったといわれています。》

《飛鳥大仏は、今1408才です。東大寺の大仏より150才年上です。1420〜30年にかけて造られました[?]。
 飛鳥大仏は少しほほえんでいるのは、アルカイックスマイルといいます。
 飛鳥大仏は、中華人民共和国をモデルに造られました。》

飛鳥時代に”中華人民共和国”はまだなかったと思うのだが……。寺の西側には蘇我入鹿の首塚がある。


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《入鹿の首塚は、飛鳥寺の境内を西にぬけたところにたっています。
 入鹿の首塚は、岡にある板蓋宮で、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿をたおし、その蘇我入鹿の首が飛んで転がってきたといわれる場所です。

板蓋宮があった場所は首塚から南の方角に遠望できる。数キロはあろうかと思われるが、飛んできたんだったら相当な執念だ。塚の向いの小高い丘(甘樫丘)には蘇我氏の邸宅があったそうである(二〇〇七年、遺構が発掘された)。


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藤原時代の木造阿弥陀如来像。この仏像が無造作に堂内に置かれてあることに感激した。


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by sumus2013 | 2016-06-17 20:56 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

コルビジェ?

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国立西洋美術館で最初に見た展覧会のひとつ。これがほんとうの最初かどうかははっきり思い出せないが、大学に入ってすぐに見たのは間違いない。その頃は日記もつけていなかったので正確なことは分らないにしても入学以前には訪問していないと思うのだが……あいまい。

コメント欄でご指摘いただいたように小生は無意識にコルビジェと書く派である。どっちでもいいやと思っていたのだが、せっかくだから調べてみた。国会図書館蔵書より。

・近世建築 第95号 コルビュジエ氏近作集 洪洋社 1928

・建築芸術へ ル・コルビユジヱ 宮崎謙三訳 構成社書房 1929

・形式主義芸術論 中河与一 新潮社 1930 コルビジエの橫柄

・建築學研究 147 1948-09 ル・コルビジエ / 木田幸夫

・伽藍が白かつたとき ル・コルビュジェ 生田勉, 樋口清訳 岩波書店 1957

コルビジェの手紙 山田あつし 環境建設設計 1981

現在ではコルビュジェと書く方が優勢のようである。フランス語の発音を聞いても日本人の耳にはどちらにも聞こえるように思う。

「Le CORBUSIER」というのはペンネーム。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ(Charles-Edouard Jeanneret-Gris)。スイス生まれ。一九二〇年に画家のオザンファンと二人で『レスプリ・ヌーヴォ L'Esprit nouveau』という雑誌を創刊したが、そのときにこのペンネームを使い始めたそうだ。母方に南仏アルビ出の祖先がおり「ルコルベジエ Lecorbésier」と名乗っていた、そこから取ったとのこと。

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たまたま二〇〇四年に国立西洋美術館で開催された「建築探検─ぐるぐるめぐるル・コルビュジエの美術館」展のちらしを頂戴したので掲げておく。西洋美術館、何時以来のご無沙汰だろうか、増築してから二回?くらいしか訪問した記憶がないが、ちらしに載っている建物の細部の写真がなんとも懐かしい。そうそう、こういう不思議なスロープや階段があったあった。

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コルビジェ自身が自作について語る映像を集めた番組をYou Tube で見ることができる。



神奈川近美館長の水沢勉氏がFBにこんなことを書いておられた。

《上野の国立西洋美術館など「ル・コルビュジエの建築作品」が世界遺産登録勧告へ。・・・のニュースが駆け巡る。個人的には弟子の坂倉準三さんが先んじた、世界初の「無限成長美術館」モデル、1951年竣工の「鎌倉近美」の現状のほうがずっと「美しい」と思ってしまうのだが・・・》

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そうそう、鎌倉もわりとよく通った。ビンボー美術学生の身としては交通費(小平市の鷹の台から鎌倉まで!)が馬鹿にならないので頻繁に通うというわけにはいかなかったが。まだ土方定一館長の時代だったと思う。都心では見られないような展覧会が多かった印象がある。そうだ! ポール・デービス、これは間違いない。図録も買った(当時、図録を買うというのは小生にとってはかなり重い出費であった)。その他……何だったか、神奈川県近美のサイトで展覧会歴をチェックしてもあやふやだ。チケットはすべて保存してあるのだが、残念ながら郷里に置いてあってすぐに確認できないのが残念。

たしかにこの建物もオシャレだなと思った。西洋美術館よりは見やすかったし名前の通り近現代美術にも対応できる空間だった。ただし池を眺められるという構造がもうひとつピンとこなかった。作品を見る空間でどうして池や樹木を見る必要があるんだ? そんな疑問が浮かんだような気がする。若かったんだと思う。


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by sumus2013 | 2016-05-24 20:03 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

ザイールの腰布

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SOPHIE CURTIL『N'TCHAK』(MUSEE DAPPER, 1991)。「ンチャク」とはクバ族のダンス用の腰布である。アフリカ中央部の国ザイールで古くから作られてきた。この本はその「ンチャク」の模様で遊ぶ子ども向けの絵本のようなもの。パリの十六区にあるダペー美術館が発行している。

Musée Dapper - 35 bis, rue Paul Valéry - 75116 Paris

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例えば模様を切り抜いて示しておき、くりぬいて来た元の布を次の頁に掲載する。

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または、次のような扉を開けると細長い「ンチャク」が現れる仕掛けもある。

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クバ(KUBA)の言い伝えによれば、魔法の力によって王になった奴隷の息子がこの布の織り方と刺繍をもたらしたそうだ。

この王は Chyaam a-Mbul と言い、あらゆる芸術家たちをかり集めて衣服、家具、楽器、食器などから果ては人々の肉体にまで装飾をほどこした。Chyaam a-Mbul に続く王たちは玉座に着く度に新しい模様を考え出さなければならなかったため、何百年もの間に多くのデザインが生まれた。

一九二〇年頃、Kot Mabintch 王は近隣の部族を訪問してその住居の装飾を写した。宣教師たちはその王に手に入れたばかりの新しいオートバイを見せた。しかしその現代テクノロジーの産物は王の注意をまったく惹かなかった。彼を魅了したのは砂の上についたオートバイの車輪の跡だけだった。王はすぐさまそのパターンを写し取ったのである。

これらの布は王宮のアトリエで王やロイヤルファミリーのためにハーレムの女性たちによって作られた。とりわけ Itul の祭のためには何ヶ月も何年もかかって特別な布が織られ刺繍を施された。Itul の祭は二日間続き莫大な費用をかける。王の娘たち、母や女たちが上半身裸で腰からくるぶしまである腰布「ンチャク」を身につけて踊るのである。「ンチャク」はラフィア椰子(palmier-raphia)の葉から作られる。

ザイールの Kasaï 地方、赤道地帯の広大な森のはずれにクバ族は暮らしている。BUSHOONG にある王の住む街 MUSHENGE に入ることは許されない。異邦人は死を覚悟しなければたどりつけない。その街の住人は王の腰巻きを作っていた。かつては BAMBALA(シーツの民)と名付けられたほど布製品に囲まれて暮らしていたという。

以上、説明文の一部を拙訳してみたが、興味尽きないものがある。

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by sumus2013 | 2016-05-21 21:37 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

写真家・福島菊次郎

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「WILL:意志、遺言、そして未来 報道写真家・福島菊次郎」展を堀川御池ギャラリーで見た。福島菊次郎についてはみずのわ出版から出ている那須圭子さんの写真集を装幀させてもらった縁がある。(本展の会場でも販売されております)

那須圭子My Private Fukushima 報道写真家福島菊次郎とゆく』(みずのわ出版、2013年

《戦後、10年にわたり原爆症に苦しむ家族を記録した作品により報道写真の世界へ入った福島菊次郎は、全共闘運動、三里塚闘争、自衛隊と兵器産業、環境問題など多岐に渡るテーマで激動する時代を写真に収めてきました。権力に迎合しないことを信念に撮り続けた写真は、戦後の日本が歩んできた道、残してきた課題を私たちに伝えています。本展はこれまで700を越える会場に展示された福島自作パネルによる写真展です。》

以上のようにチラシには書かれているが、福島の壮絶な人生はウィキの略歴からでもひしひし伝わってくる。


これで九十四まで闘ったのだから相当に強運と強靭な肉体の持ち主である。個人的には自衛隊と兵器産業をあからさまに描いてみせた一連の写真は新鮮だった。戦闘機の前で他愛なくニカッと笑っている二人の工員、寒気のする凄い写真だ……。いわゆる平和憲法によってこのパンドラの函に蓋がされてきたわけであるが、函のなかではプレッシャーが高まっていた。もうパンク間近ではないのか? あらためて人間は懲りない動物だと思い知る。

福島自作パネルはたしかに福島のテーマをコンパクトに伝えるには効果的だ。そういう展示はそれで続けるべきであろう。が、しかし福島亡き今こそ「写真家(報道写真家ではなく)・福島菊次郎」としての批判的な回顧展が必要だろう。初出紙誌、写真集などの資料展示も含め福島の全体像を知りたいと思った。テーマや生き様を通してだけでなく福島の写真そのものを直視するべきではないか。それだけの力を福島の写真は持っている。

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by sumus2013 | 2016-05-17 20:56 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

マニフ. 1979

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昨年十月シャンペレ古本市で購入した紙焼写真。段ボール箱いくつかに生写真ばかり何百枚と放り込んで並べている業者がいた。写真の種類はいろいろでアンティーク調のものから映画俳優の肖像やエロテッィクなものまで揃っていた。それらのなかにひとまとめにこれらデモの写真が紛れ込んでいた。おそらく三十枚以上はあっただろう。裏に捺されたスタンプから同じ写真家の作品だと分る。一枚一枚はそう高いものではなかったが、1ユーロ、2ユーロでもなかった。できれば全部買い占めたかった。結局かなり迷った末、気に入った絵柄を六枚だけ入手。

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黒いスタンプは以下の通り。

Gérald BLONCOURT
REPORTER - PHOTOGRAPHE
117 Av. du Bois de Vérrière
92 ANTONY
MENTION DU NOM OBLIGATOIRE
DROITS RÉSERVÉS

ジェラール・ブロンクールで検索してみるとご健在。ブログで作品を公開しておられる。

LE BLOG DE GERALD BLONCOURT

ブロンクール氏は一九二六年、ハイチ生まれ。画家、詩人、写真家。一九四六年に政権交替によって追放され八六年までフランスに住んでいた。ブログにも作品がたくさんアップされているが、労働者をとらえた作品はなかなかに印象的である。

青い色のスタンプは写真の説明。

12 et 13 Fevrier 1979 - LONGWY en lutte contre les licenciements dans la sidérurgie

ロンウィ(LONGWY)はロレーヌ地方の鉄鋼業の町。十九世紀から栄えていたようだが、一九七〇年代には衰微してしまい、七八年十二月にレーモン・バール政権は二万一千人の解雇を発表した。それに対する労働者の激しい抵抗、騒乱が相次いだ。ブロンクール氏が撮影したのは七九年二月十二、十三日のデモの様子である。

もう一種類、同じ七九年、五月十七日、パリでの教育改革に反対するデモの写真が二枚混じっていた(最初の写真の手前の二枚)。バスティーユからパレ・ロワイヤルまで(パリの中心街)を練り歩いたようである。写真下部分に手書きで次のように書かれている。

17/5/79. Manif. fonctionnaire Bastille- Palais-Royal

パリとロンウィ、同じ労働者でもまったく違う雰囲気なのも当然ながらたいへん興味深い。いちばん気に入っている写真はこちら。やや作りものめいた感なきにしもあらずだが、それはそれで決まっている。

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by sumus2013 | 2016-04-27 21:42 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

木村伊兵衛パリ残像

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美術館「えき」で「木村伊兵衛パリ残像」を見た。思わず「木村伊兵衛って写真上手だなあ」と口走って近くにいた人にへんな顔で見られた。パリ写真なんて誰でも撮っている。かくいう小生も含め。しかし誰が撮っても同じようで同じじゃないところに写真の奥深さがあるだ。

木村は一九五四年から五五年にかけてパリに滞在し、アンリ=カルチェ・ブレッソンやロベール・ドアノーらとともにパリの街景やパリで暮らす人々を撮影をした。富士フィルムが開発したカラーフィルムを使ったという。それがむちゃくちゃ渋い色合いで昭和三十年のパリを映し出す。

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玩具のような自動車やスクーターが走り抜けるエトワル広場。これだけでシビレた!


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佐伯祐三のパリが色濃く残っていた時代である。小生が初めてパリの地を踏んだ一九七六年にもまだまだ残っていたように思うが、現在のパリからはきれいさっぱりこういう匂いは払拭されてしまっている。歎いてもはじまらないけれど。

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by sumus2013 | 2016-04-15 20:39 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

けられとてちん

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こんな戯画を買った。「來山戯記」と落款がある。小西来山ということであったが、さてどうだろう。印はふたつ、「窓者?」「來山」。


  堂らち袮ハ
   可ゝれとて
      ちん
  三味線のわか
   はち飛九を
  なてすや
    ありけん 


酒席のナンセスを即興で描いたとも思われるからあまり文言を穿鑿しても意味はないのかもとは思ったが、念のため検索してみると、これには本歌があった。花山僧正遍昭の一首(後撰集1240)

 たらちめはかかれとてしもむばたまの我が黒髪をなでずやありけむ

 【通釈】母は、まさかこのようなことになると思って、幼い私の黒髪を撫でたのではなかったろう。(千人万首「遍昭」

来山は三味線が頭にコツンと当ったのをとらえて当即妙に遍昭の歌をパロッた。なかなかよくできている。これがもし小西来山(承応三1654〜享保元1716)なら伴嵩蹊『近世畸人伝』にも取り上げられている奇行の俳人。以下全文(岩波文庫、一九八七年版、旧漢字は改めた)。

来山は小西氏、十万堂といふ。俳諧師にて、浪華の南今宮村に幽栖す。為人曠達不拘、ひとへに酒を好む。ある夜酔いてあやしきさま にて道を行けるを、邏卒[めつけ]みとがめて捉へ獄にこめけれども、自名所をいはず。二三日を経て帰らざれば、門人等こゝかしこたづねもとめて、官も訴しにより、故なく出されたり。さて人々いかに苦しかりけむ、とどぶらへば、いな自炊の煩らひなくてのどかなりし、といへり。又あるとしの大つごもりに、門人よりあすの雑煮の具を調じて贈りたれば、此比は酒をのみ呑て食に乏し。是よきものなり、とて、やがて煮て喰て、

   我春は宵にしまふてのけにけり。

と口号たり。妻もなかりし旨は、女人形の記といふ文章にてしらる。其中、湯を呑ぬは心うけれど、さかしげにもの喰ぬはよしといひ、また舅は何処[いづこ]の土工ぞや。あら、うつゝなのいもせ物語や、と筆をとゞめて、

   折ことも高ねのはなやみた計

といへるもをかし。すべて文章は上手にて、数篇書きあつめたるを、昔ある人より得たるが、ほどなく貸うしなひて惜くおぼゆ。発句どもは人口に膾炙するが多き中、箏の絵賛を、禿[ちぎれ]筆してかけるを見しと人のかたれるに、その物を育んとて、其物を損ふ、と詞書して、

   竹の子を竹にせんとて竹の垣

といへるなど、行状にくらべておもへば、老荘者にして、俳諧に息する人にはあらざりけらし。さればこそ、其辞世も、

   来山はうまれた咎で死ぬる也それでうらみも何もかもなし

といへりとなん。

レアリストでありニヒリスト。《俳諧に息する人にはあらざりけらしと嵩蹊は評するが、それはどうなのだろう。俳諧にはこのタケノコ弁証法が欠かせないのではないだろうか。


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by sumus2013 | 2016-04-08 21:36 | 雲遅空想美術館 | Comments(3)