林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:雲遅空想美術館( 117 )

碧梧桐へきごとうHEKIGOTOU

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同展ちらしより


柿衞文庫で碧梧桐展を見た。書家としての碧梧桐を堪能した。歿年は昭和十二年である。前衛的とも言えるし、マンガ的とも言える書風なのだが、伸びやかに風格をもって迫ってくる。

MORIS「河東碧梧桐」展

インパクトの強い作風は模倣しやすい。実際、弟子たちの作品のあるものは師匠と見分けがつきにくいくらいだ。以前〈碧梧桐は無理でもお弟子の短冊くらい手に入れたいものだ〉と書いたのだが、最近ようやく実現した。もちろん手に入れるだけならいつでも可能ながら、極力安価にと思うと、これが容易ではない。この短冊も少々イタミがある。根っからの貧乏性なので仕方がない。


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川西和露「門松や貯炭所空地ある久し」。近頃収穫の短冊ではこれがいちばん嬉しかった。和露について渡辺一考氏が『なまず』に発表された論考より年譜を編んでおく。

川西和露年譜
1875年 神戸市兵庫区東出町に生まれる。鉄材商を営む。本名徳三郎。
1907年 この頃より碧梧桐に師事。
1910年 摩耶会を起こす。玉島俳三昧に参加。玉島俳三昧とは備中の玉島で全国行脚中の碧梧桐を中心に十数名の同人が一つ宿に一週間ほど寝食を共にして催された俳三昧を指す。
1914年 第一和露句集上梓。
1915年 12月、第二和露句集上梓(短律見ゆ)。海紅同人。
1916年 12月、第三和露句集上梓(短律多し)。射手同人。
1914〜1916年 和露主宰の俳誌「阿蘭陀渡」発行。
1920年 第四和露句集上梓。碧梧桐外遊に贐けして。
1925年 10月、第五和露句集上梓。碧梧桐銀婚式を祝して。
1938年 和露文庫俳書目をひむろ社より上梓。
1944年 須磨月見山へ転居。和露荘と名づく蔵書の散逸を恐れ、古俳書を天理図書館へ収め、明治以後の活字本を神戸市立図書館へ寄贈。
1945年 死去。享年七十一。

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by sumus2013 | 2017-05-14 20:09 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

つき白み

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去年だったか一度に扇子を三本ほど求めた。むろん新刊単行本一冊にも価しなかった。二本は漢詩で、それらはちょっと読むのに骨が折れそうなのでそのままになっているが、この一本は俳句ということで何とか読める。

 つき白み
 もとの
 独に
 成にけり

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署名はこちら。「未足」(でいいようです)。未足という俳人もいたようではあるが、詳しくは分からない。印も読めないと書いたところ「守分」か「守半」ではないかというご教示を賜った(いつもながら深謝です)。語として意味が通るのは「守分」だが、俳名が「未足」(いまだたらず)なのだから「守半」(なかばをまもる)で呼応しているということにでもなるのかな? 印の出来は良さそう。和紙に蝋引きの紙扇。そんなに古いとも思えないにしても幕末くらいはあるだろう、たぶん。

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by sumus2013 | 2017-05-12 20:12 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

漱石と京都

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夏目漱石『明暗』(左)と『道草』


大山崎山荘美術館で「生誕150年記念 漱石と京都ーー花咲く大山崎山荘」展を見た。漱石の書画が出ているんじゃないかと期待したのだが、加賀正太郎宛書簡、京都滞在を中心とした日記帳などが主な展示物だった。絵葉書、原稿、画稿、初版本なども少しあった。加賀正太郎は以前にも簡単に紹介したが、大山崎山荘の主で蘭の栽培で知られていた実業家。

「ロベール・クートラス 僕は小さな黄金の手を探す」展

漱石が大正四年(歿する前年)に京都に滞在したとき、加賀は漱石を未だ建設中だった大山崎山荘へ招いた。そして山荘の命名を依頼したのである。漱石は約束はしたものの名案が浮かばずそのまま打っちゃっておいた。加賀は何度も催促をした(《度々の御催促》と書中にある)。重い腰を上げた漱石は一日つぶして俳書や漢詩集を広げあれかこれかと適当な名前を探したのである。そしてなんと十四もの候補を並べた手紙を加賀に送った。その手紙が展示されていた。大正四年四月二十九日付。ずらずら〜っと候補とその出典などの説明を並べてこう結んである。

まあこんなものですもし気に入つたらどれかお取り下さい気に入らなければ遠慮はいりませんから落第になさいもつといゝ名があるかも知れませんが頭が疲れる丈で厭になるから今回はこれで御免蒙ります 以上

加賀はその手紙を掛物に仕立て箱の蓋の内側にこう書き付けている。

大正四年四月廿九日書翰 山荘名撰主人意に満たず尓今大山崎山荘とす 昭和七年九月十七日 正太郎

せっかくだからどれか選べばよかったのに……と思うのは他人事だからかな。

展示物で良かったのは津田青楓の墨彩の軸である。「漱石先生読書閑居之図」(一九二一)。おそらく漱石山房(早稲田南町)を南画ふうに描いたのであろう。洋画家のタッチを残しながらも文人画の勘所を捉えた佳作である。色調も清々しい。というわけで津田青楓が装幀した漱石の本二冊『明暗』(岩波書店、一九一七年)と『道草』(岩波書店、一九一五年)を取り出してみた。もちろん復刻版です。

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漱石の加賀正太郎宛の書翰はもう一通展示されていた。大正四年四月十八日付。それは東京へ戻ってすぐに出した礼状である。留守中の手紙などの処理がたまっていて山荘の名前まで考える余裕がないというようなことが書かれている。そして山荘にちなんだ俳句をサービスした。

  宝寺の隣に住んで桜哉

宝寺というのは蕪村の俳句に出ていたはずだと漱石は書いているが、山荘の隣にある宝積寺(ここも訪問して和尚と歓談したそうだ)をかけているわけである。山荘の入口のところにこの俳句をあしらった碑が建っている。うっかり誰の手か確認しなかった。少なくとも手紙にしたためられた漱石の字ではない。

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それにしても四月十八日付から二十九日付まで十日ほどである。《度々の御催促》とは加賀もなかなか「いらち」な人物だったか。

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by sumus2013 | 2017-04-27 20:42 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

没後35年 文承根 藤野登 倉貫徹

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鄭相和


ART OFFICE OZASA で「没後35年 文承根 藤野登 倉貫徹」展を見る。六〇〜七〇年代にかけての仕事ばかり。当時(こちらは高校生から美大生の頃)は雑多な作家が雑多なことをやっているようにしか写らなかったのだが、五十年を隔てて残ったものを見るとかなり新鮮に思えるから不思議だ。

文承根(藤野登)は三十四歳で早くに歿したにもかかわらず、ひとかどの仕事を成し遂げた感がある。倉貫氏は会場におられて少しお話できた。一九六八年だったかに鴨川の河川敷で現代アートの野外展が行われていたそうで(これもビックリ)、そのときの図録も見せてもらえた。著名になった作家も多く、それがまたその後の作風からは想像もつかないような作品を出品しているのに驚かされた。みんな若かったのだ。

なかに奥田善巳(先年、兵庫県立美術館で大規模な作品展が開かれた)のロープとレンガ(?)を芝生の上に並べただけというような作品写真があって
「奥田さん、こんなの作ってたんですね!」
と画廊主のOZASA氏に向って驚いてみせた。
「奥田善巳さんと言えば、京都で展覧会がありましたよね」
「ひょっとしてトアロード画廊ですか? 京都に開店したというのは知ってましたけど、こっちに移ったんですかね」
「いえ、神戸の方はそのままで、たしかお客さんがトアロード画廊京都として開いたんだと聞きましたけど」
「画廊がトアロードにあったころにはよく通ってましたよ(神戸の震災後元町へ移転)。奥田さんや奥さんの木下佳通代さんなんかと同席したことも何度もありました。そう言えば、鄭相和(CHUNG Sang-Hwa)さんが作品をテーブルの上に広げて画廊主と交渉しているところにも出会ったなあ」
「鄭相和ですか!」
OZASA氏はさっと鄭相和・李禹煥・文承根の三人展の図録を取り出して見せてくれる。鄭氏は当時からパリに在住しており、たまたま帰国していたときだったのだろう。トアロードの主が「君も一枚どうや」ということで頒けてもらったのが上の作品だった。木版画二色摺り、エディションは10。

トアロード画廊へは毎月のように京都から通っていた時期で、本当にいろいろな作家に出会ったし様々な作品に接することができた。
「トアロード画廊で個展をさせてもらったこともあります」
こう言うとさすがにOZASA氏はビックリ(というか絶句)していた。何しろベタな写実なもので。

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by sumus2013 | 2017-04-26 21:34 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

金福寺

都合により一週間ほどブログを休みます。

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「ぽかんのつどい」のため一乗寺へ出かけたので、せっかくだからと金福寺を訪れた。初めて。小雨の後で潤った苔の緑が目にしみる。上は蕪村が呼びかけて再興した芭蕉庵。

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芭蕉庵の脇を山手へ少し登ると与謝蕪村の墓所がある。周辺には江森月居、松村呉春、松村景文、吉分大魯、森川曾文、青木月斗らの墓も築かれている。

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芭蕉庵から本堂と庭を見下ろす。本堂にも蕪村や村山たか女の関連遺品が展示されている。梁川星巌の漢詩屏風が気に入った。

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白川通りの一乗寺下り松町バス停からまっすぐ山側へ上がって行く道、正面の桜は本願寺北山別院の門前。その手前を右に折れるとすぐ金福寺になる。

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by sumus2013 | 2017-04-15 21:20 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

親愛なる親指へ

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タダジュン『Dear, THUMB BOOK PRESS 親愛なる親指に』出版記念展(〜4月20日)を見るために学芸大学まで。ウィリアムモリスが閉店してから出かけた。SUNNY BOY BOOKS は午後十時まで営業。東急東横線の学芸大学駅から地図をたよりに徒歩五分少々。途中ブックオフもあった。他にも古書店があると教えられたが、とにかくこの日はここだけに。

店は狭いのだが、なかなかのセレクトぶり。雰囲気のいい古本屋だった。タダジュンさんの作品も良かったのでわざわざ足を伸ばした甲斐があった。

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帰途、東口駅前通りの立ち食い蕎麦で夕食。これが意外に美味しかった。学芸大学、いいじゃないですか。

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by sumus2013 | 2017-04-08 21:23 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

花森安治の仕事 世田谷美術館

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世田谷美術館で「花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼」(〜4月9日)を見た。火曜日だったのだが、意外にと言っては失礼ながら、開館前から待っている人がいるくらいで、入場者はかなり多かった(ただし中高年、とくに女性)。

大政翼賛会時代に花森が関わったポスター類が多数展示されていた。これは見ごたえがあった。戦後における花森のデザイン技術はこれらのポスターを実際に制作した報道技術研究会との共同作業のなかで身につけたと考えてもそう的外れではないようだ。松江高等学校の『校友会雑誌』そして『帝国大学新聞』と編集やエディトリアル・デザインに関わってきた花森がプロのデザイナーたちと交わることにより、さらにもう一段レベルアップしたのがこの時代だったのだろう。

『暮しの手帖』の表紙原画も良かった。かなりの枚数並んでいた。印刷物(表紙)を通して見るのとはひと味もふた味も違う。細部まで繊細に書き込まれた(ある意味、当時の印刷による再現の限界を考慮していない)じつに丹念な仕事であった。

個人的に展示物のなかでいちばん驚いたのは『衣裳』という衣裳研究所時代から初期の暮しの手帖社時代に発行していた小冊子である。以下は本展図録より。第一号は一九四八年一月三〇日発行。十一・十二合併号が一九四九年五月二〇日発行。

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これらは花森装釘集成には収められていない。残念だ。しかし驚いた理由はもう一つある。生活社は戦争末期から戦後にかけて「日本叢書」というシリーズを発行していた。最近でもときおり均一台で見かけるくらいだから、相当に多くのバックナンバーがあったのだろう。以前からどうもその表紙フォーマットが花森なのではないかと疑っていたのである。そんな気持ちで『衣裳』に出会ったためにハッとするほど似ていると思ったのだ。

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これが日本叢書(一)の中谷宇吉郎『霜柱と凍土』(日本叢書、生活社、一九四五年四月二〇日)。縦組みと横組みの違いはあるものの活字や子持ちケイの使い方などに類似が感じられる。戦後は紙質も良くなってケイ線が赤色に変る。以前一冊紹介したことがある。

久保田万太郎『これやこの』(日本叢書三六、生活社、一九四六年三月一五日)

もちろん、あまりに単純な誰でも模倣できるデザインだから、明記されていない以上、花森の手になるとは断言できない。重々承知している。しかしながら花森と生活社との関係を考えれば、あり得ない話でもないと思うのだ。何か証拠が見つかればいいのだが、それがなかなか難しい。

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世田谷美術館


会場のBGMとして花森安治が暮しの手帖社の編集員の前で行った訓示(お説教?)の肉声が流されていた。正直なところ、当時の暮しの手帖社には入社したくないな、と思った。

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by sumus2013 | 2017-04-07 20:33 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

近江八幡散歩

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近江八幡まで足を伸ばしてヴォーリズの遺作などをいくつか見学した。上は二月に『四番茶』を取り上げたときに紹介したが、そこに収録されていた「近江八幡 近江の兄弟の住宅」写真である。その現状が下の写真になる。

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向って左手の建物は吉田悦蔵の住宅だった。以前と較べるとかなり増築されているようだが、全体の雰囲気は残っている。風趣のある煉瓦塀も往事を偲ばせる。ただこの説明の看板はなんとかして欲しい。もう少し目立たないシックなつくりを希望する。大きすぎるし。ここはまだましな方で、町中いたるところ無粋な看板や幟がはためいている。目障りこの上なし。景観保存というか、観光の町なのだからもっと細かな気配りが必要だろう。

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またもう一軒、保存修復が充分行われておらず(二階の床板はボコボコだった)、いかにも危なっかしい旧八幡郵便局もそれはそれでなかなか見所のある建物だった。

近江八幡の旧八幡郵便局

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少年時代のヴォーリズ(二階展示室)


半日歩いただけで、くまなく見て回ったわけではないが、ヴォーリズとは直接関係のない八幡小学校が素晴らしかった。

近江八幡市立 八幡小学校


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by sumus2013 | 2017-03-24 17:52 | 雲遅空想美術館 | Comments(3)

麗日

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麦僊と印のある桜の枝の下絵。ちょうど一年ほど前に安価で入手したものだが、とりあえず土田麦僊作としておきたいと思う。

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この下絵と似た枝振りの白い花が描かれている本画はこちら「麗日」(昭和五年頃、『土田麦僊展』図録、一九九七年より)。

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花見のつづき。

『漱石研究年表』(集英社、一九八四年六月二〇日)をめくっていると、ロンドンでの花見の記述を見つけた。漱石自身はChesnut(栗の木)の花の咲く頃、花見に出かける人が多いことに驚いたということしか書いていないようだが(明治三十四年?五月)、その補注に次のような引用が添えられている。

「一寸断つておくが、栗の花見といふと、例の汚ない臭い長い花房を思ひ出すが、英吉利には、赤い栗の花があつて、之が何百何千本と列んだ青い鹿爪らしい栗の木の葉の間から見えるのは、一寸綺麗である。」(原文総振り仮名)(杉村楚人冠『大英遊記』)

杉村楚人冠がここで栗の木と言っているのは horse chesnut (すなわちマロニエ=セイヨウトチノキ、Aesculus属)ではなかろうか。赤い花と白い花があり、花房が上向きに咲く。日本の栗(シバグリ)はクリームかかった白い雄花が下向きに垂れる。chesnut のみなら日本の栗と同属(Castanea)で花も似通っている。どちらでもよろしい。イギリスにも花見はあった。

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by sumus2013 | 2017-03-21 20:40 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

和ガラスの美を求めて

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MIHO MUSEUM で「和ガラスの美を求めてーー瓶泥舎コレクション」展を見た。信楽山中、春の気配はいまだしながら日差しは和らいでいた。風は少々冷たかった。

瓶泥舎は二〇一一年に開館した伊予松山の私設美術館。大藤範典[だいとうのりさと]氏が五十年にわたって蒐集してきた和ガラスを収蔵・展示するスペースである。そのコレクションを代表する逸品がミホに並べられている。

瓶泥舎 びいどろ・ぎやまん・ガラス美術館

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ガラスというのは世界中でさまざまに造型されてきたものだ。その国国によって時代時代によって技術も趣味もかなり極端に異なっているのが面白い。

ガラスと言えば、かつてヴェネチアのムラーノ島にあるガラス博物館(Museo del Vetro murano)を訪れたときのことは忘れられない(今、その博物館のサイトを見ると、四十年前からは想像できないほど小綺麗になっているのにビックリ! そのときは小生の他には誰も観覧者はいなかった、シーズンオフだったし、たまたまのことかもしれないけれど)。ガラスの素晴らしさを改めて感じたものだ。

今展の和ガラスもそれらとはまた別の意味で息をのむ美しさである。ほとんどが江戸時代に作られた作品だという。細かく述べる余裕はないが、江戸の工芸の奧深さ、趣味の多様性(ひねりにひねっている感じか)を思い知らされた。ガラスの加工技術そのものは、そう高いレベルではない、と言うのだが、細密・精巧に作るばかりが能ではない。多少厚ぼったくてもムラがあっても(だからこそ)曰く言い難い味わいをかもしているし、大方の器にはグー(趣味)の良さを感じる。今にも壊れそうな、スリルというか、はかなさが、またよろしい。

和ガラスの美を求めてーー瓶泥舎コレクション

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by sumus2013 | 2017-03-17 20:19 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)