林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:雲遅空想美術館( 111 )

花森安治の仕事 世田谷美術館

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世田谷美術館で「花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼」(〜4月9日)を見た。火曜日だったのだが、意外にと言っては失礼ながら、開館前から待っている人がいるくらいで、入場者はかなり多かった(ただし中高年、とくに女性)。

大政翼賛会時代に花森が関わったポスター類が多数展示されていた。これは見ごたえがあった。戦後における花森のデザイン技術はこれらのポスターを実際に制作した報道技術研究会との共同作業のなかで身につけたと考えてもそう的外れではないようだ。松江高等学校の『校友会雑誌』そして『帝国大学新聞』と編集やエディトリアル・デザインに関わってきた花森がプロのデザイナーたちと交わることにより、さらにもう一段レベルアップしたのがこの時代だったのだろう。

『暮しの手帖』の表紙原画も良かった。かなりの枚数並んでいた。印刷物(表紙)を通して見るのとはひと味もふた味も違う。細部まで繊細に書き込まれた(ある意味、当時の印刷による再現の限界を考慮していない)じつに丹念な仕事であった。

個人的に展示物のなかでいちばん驚いたのは『衣裳』という衣裳研究所時代から初期の暮しの手帖社時代に発行していた小冊子である。以下は本展図録より。第一号は一九四八年一月三〇日発行。十一・十二合併号が一九四九年五月二〇日発行。

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これらは花森装釘集成には収められていない。残念だ。しかし驚いた理由はもう一つある。生活社は戦争末期から戦後にかけて「日本叢書」というシリーズを発行していた。最近でもときおり均一台で見かけるくらいだから、相当に多くのバックナンバーがあったのだろう。以前からどうもその表紙フォーマットが花森なのではないかと疑っていたのである。そんな気持ちで『衣裳』に出会ったためにハッとするほど似ていると思ったのだ。

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これが日本叢書(一)の中谷宇吉郎『霜柱と凍土』(日本叢書、生活社、一九四五年四月二〇日)。縦組みと横組みの違いはあるものの活字や子持ちケイの使い方などに類似が感じられる。戦後は紙質も良くなってケイ線が赤色に変る。以前一冊紹介したことがある。

久保田万太郎『これやこの』(日本叢書三六、生活社、一九四六年三月一五日)

もちろん、あまりに単純な誰でも模倣できるデザインだから、明記されていない以上、花森の手になるとは断言できない。重々承知している。しかしながら花森と生活社との関係を考えれば、あり得ない話でもないと思うのだ。何か証拠が見つかればいいのだが、それがなかなか難しい。

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世田谷美術館


会場のBGMとして花森安治が暮しの手帖社の編集員の前で行った訓示(お説教?)の肉声が流されていた。正直なところ、当時の暮しの手帖社には入社したくないな、と思った。

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by sumus2013 | 2017-04-07 20:33 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

近江八幡散歩

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近江八幡まで足を伸ばしてヴォーリズの遺作などをいくつか見学した。上は二月に『四番茶』を取り上げたときに紹介したが、そこに収録されていた「近江八幡 近江の兄弟の住宅」写真である。その現状が下の写真になる。

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向って左手の建物は吉田悦蔵の住宅だった。以前と較べるとかなり増築されているようだが、全体の雰囲気は残っている。風趣のある煉瓦塀も往事を偲ばせる。ただこの説明の看板はなんとかして欲しい。もう少し目立たないシックなつくりを希望する。大きすぎるし。ここはまだましな方で、町中いたるところ無粋な看板や幟がはためいている。目障りこの上なし。景観保存というか、観光の町なのだからもっと細かな気配りが必要だろう。

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またもう一軒、保存修復が充分行われておらず(二階の床板はボコボコだった)、いかにも危なっかしい旧八幡郵便局もそれはそれでなかなか見所のある建物だった。

近江八幡の旧八幡郵便局

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少年時代のヴォーリズ(二階展示室)


半日歩いただけで、くまなく見て回ったわけではないが、ヴォーリズとは直接関係のない八幡小学校が素晴らしかった。

近江八幡市立 八幡小学校


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by sumus2013 | 2017-03-24 17:52 | 雲遅空想美術館 | Comments(3)

麗日

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麦僊と印のある桜の枝の下絵。ちょうど一年ほど前に安価で入手したものだが、とりあえず土田麦僊作としておきたいと思う。

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この下絵と似た枝振りの白い花が描かれている本画はこちら「麗日」(昭和五年頃、『土田麦僊展』図録、一九九七年より)。

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花見のつづき。

『漱石研究年表』(集英社、一九八四年六月二〇日)をめくっていると、ロンドンでの花見の記述を見つけた。漱石自身はChesnut(栗の木)の花の咲く頃、花見に出かける人が多いことに驚いたということしか書いていないようだが(明治三十四年?五月)、その補注に次のような引用が添えられている。

「一寸断つておくが、栗の花見といふと、例の汚ない臭い長い花房を思ひ出すが、英吉利には、赤い栗の花があつて、之が何百何千本と列んだ青い鹿爪らしい栗の木の葉の間から見えるのは、一寸綺麗である。」(原文総振り仮名)(杉村楚人冠『大英遊記』)

杉村楚人冠がここで栗の木と言っているのは horse chesnut (すなわちマロニエ=セイヨウトチノキ、Aesculus属)ではなかろうか。赤い花と白い花があり、花房が上向きに咲く。日本の栗(シバグリ)はクリームかかった白い雄花が下向きに垂れる。chesnut のみなら日本の栗と同属(Castanea)で花も似通っている。どちらでもよろしい。イギリスにも花見はあった。

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by sumus2013 | 2017-03-21 20:40 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

和ガラスの美を求めて

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MIHO MUSEUM で「和ガラスの美を求めてーー瓶泥舎コレクション」展を見た。信楽山中、春の気配はいまだしながら日差しは和らいでいた。風は少々冷たかった。

瓶泥舎は二〇一一年に開館した伊予松山の私設美術館。大藤範典[だいとうのりさと]氏が五十年にわたって蒐集してきた和ガラスを収蔵・展示するスペースである。そのコレクションを代表する逸品がミホに並べられている。

瓶泥舎 びいどろ・ぎやまん・ガラス美術館

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ガラスというのは世界中でさまざまに造型されてきたものだ。その国国によって時代時代によって技術も趣味もかなり極端に異なっているのが面白い。

ガラスと言えば、かつてヴェネチアのムラーノ島にあるガラス博物館(Museo del Vetro murano)を訪れたときのことは忘れられない(今、その博物館のサイトを見ると、四十年前からは想像できないほど小綺麗になっているのにビックリ! そのときは小生の他には誰も観覧者はいなかった、シーズンオフだったし、たまたまのことかもしれないけれど)。ガラスの素晴らしさを改めて感じたものだ。

今展の和ガラスもそれらとはまた別の意味で息をのむ美しさである。ほとんどが江戸時代に作られた作品だという。細かく述べる余裕はないが、江戸の工芸の奧深さ、趣味の多様性(ひねりにひねっている感じか)を思い知らされた。ガラスの加工技術そのものは、そう高いレベルではない、と言うのだが、細密・精巧に作るばかりが能ではない。多少厚ぼったくてもムラがあっても(だからこそ)曰く言い難い味わいをかもしているし、大方の器にはグー(趣味)の良さを感じる。今にも壊れそうな、スリルというか、はかなさが、またよろしい。

和ガラスの美を求めてーー瓶泥舎コレクション

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by sumus2013 | 2017-03-17 20:19 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

ビーズ

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このビーズのブレスレットはパリのアフリカ・オセアニア美術館(musée national des Arts d'Afrique et d' Océanie)のミュージアム・ショップで求めたもの。一九九八年春のことだからもう十九年前になる。アフリカのどこだったか、今ちょっと忘れてしまったが、このシブ派手にすっかりまいってしまったことを思い出す。

この美術館はパリ市内の東の端、十二区、ポルト・ドレーにあった。一九三一年の植民地博覧会の会場として建てられ、その後、植民地博物館(musée des colonies)、海外フランス領博物館(musée de la France d'outre-mer)そしてアフリカ・オセアニア美術館として二〇〇三年まで使われていた。その後、ケ・ブランリ美術館(musée du quai Branly、二〇〇六年開館)ができることになったためアフリカ・オセアニア美術館の収蔵品もそちらに移された。二〇〇七年から移民歴史博物館として再開しているそうだ。

そのときちょうど閉館時間が迫っていて(時間を勘違いして遅れた)三十分くらいしか残っていなかった。小走りにその豊穣なアフリカおよびオセアニア美術の展示を見て回ったため息があがってしまったほどだった。しかし見ておいて良かった。ケ・ブランリの方がもちろんずっと規模も大きく収蔵数も桁違いなのだが(アンドレ・ブルトンのコレクションも一部はここに収まっている)、とくにアフリカ美術のまとまった展示を見たのは初めてだったので印象はずっと深いものがある。

ミュージアム・ショップも品揃えのセンスが良かった。この点でもお土産屋然としたケ・ブランリより上等だったような気がする。そこで、あれかこれか目移りしながらこのブレスレットに惹きつけられたというわけだ。直径は五センチ。なんとか小生の腕にもはまる。

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国立民族学博物館の『月刊みんぱく』四七四号(二〇一七年三月一日)ビーズ特集。だから上のブレスレットを取り出してみた。六月六日までやっているビーズの展覧会、これは見ておきたい。

開館40周年記念特別展「ビーズ―つなぐ・かざる・みせる」

《かつて、ダチョウの卵殻からできたビーズは人類が最初に作ったビーズであるといわれていた。四万年も前のことである。現在では、貝の方が古くて、一〇万年も前のことになっているが、いずれにしても、わたしたち人類が誕生してから現在まで、ビーズは存在し続けてきた。》

《世界中のビーズをみていると、人類によるものともののつなぎ方には、普遍的な特性がありそうだ。一列にして円状にするのが、どこでも基本のようである。しかし、その形は類似していても人びとはそれぞれ独自の意味づけをおこなってきた。古代エジプトでは、青緑色のファイアンスビーズが使われており、死からの再生のための祈りが込められている。チベットでは、石でできたビーズは魔除けである。数珠[じゅず]は、仏教では一〇八個をつなげることに意味をもったりするほか、イスラーム教、キリスト教のカトリックでも共通にみられ、人びとの祈りの場面には欠かせないものだ。》(池谷和信「世界はビーズでつながっている」より)

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by sumus2013 | 2017-03-07 21:25 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

長寅

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「長寅」と署名されたマクリを入手。虫食い穴(上部で鳥のように見える)もあり、きわめて安価だった。長寅というからには与謝蕪村の系統かなと思って検索してみると、どうやら名古屋のブルジョア画家・立松義寅ではないかと推察できた。

立松義寅
文化7年熱田大瀬子町生まれ。富豪・鈴木七左衛門長の八男。名は義寅、字は長寅、通称は太左衛門。号は嘉陵。幼い頃は野村玉渓について四条派を学び、のちに京都に出て松村景文に師事した。また、清水雷首の教えも受けている。中国南海の山水、名勝をさぐって研鑚につとめ、名古屋に戻り宇治川先登の図を熱田神宮に納めて画名をあげた。笠寺の富豪・立松太左衛門義民の養嗣となり、家業のかたわら画を描き、のちに名古屋市島田町に隠棲した。明治16年12月16日、74歳で死去した。名古屋四条派、松村景文の系譜

下のような義寅の絵もあるので先ず間違いないだろう。

立松義寅 擬月渓翁採芝図

言うまでもなく月渓は蕪村の弟子である。

「俳画の美 蕪村・月渓」

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印文……上は「長寅」だろうが、下は「疑…?」。

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by sumus2013 | 2017-03-03 16:44 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

新発見 花森の原画

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花森安治による雑誌『文明』(文明社)の表紙原画である。これらは某氏が古書店で求めて画像を提供してくださった。以前いくつかすでに紹介したが、今回はみつづみ書房での26日のトークにおいて全三十二点、見ていただけることになった(画像だけですが)。むろん初公開。どうぞふるってご参加いただきたい。

表紙版下だけでなく扉絵およびカットの原画も含まれる。ここではごく一部だけ紹介しておく。

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この『煙管』の扉の原画にはホワイト修正がほどこされている。参考までに印刷された扉と表紙も掲げておく。

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2017年2月26日(日曜日)
14時〜16時
【無事終了しました】

古書 みつづみ書房

古書 みつづみ書房Facebook

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by sumus2013 | 2017-02-25 20:39 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

あさ日にむかって

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昨年、入手した平野威馬雄の色紙。絵は、なんだろう。玩具? 供え物? まさか動物そのもの?


 あさ日に
 むかって
 大きな
 伸びを
   して
 しみじみと
 秋を吸う


「秋」のところKYO様に御教示いただいた。秋のヘンとツクリが逆になっているわけだ! こんな字があるとは知らなかった。

どうしてこの色紙を出して来たかというと何日か前に届いた『北方人』第二十六号(北方文学研究会、二〇一七年二月)に掲載されていた池内規行「色紙について」を読んだからである。池内氏は『人間山岸外史』(水声社、二〇一二年)などの著者。

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色紙の書き手は、青山光二、長篠康一郎(太宰治研究者)、山下肇(ドイツ文学者)、山岸外史、出隆(哲学者)、野長瀬正夫、大木実、真壁仁、坂村真民、船山馨、黒岩重吾、藤本義一、今西祐行。とくに肩書きを付けなかった人々は小説家か詩人である。むろん池内氏個人と関わりの深い作家や好みの書き手たちばかりなのだが、なかなかに渋いラインナップだ。

《最初に手にした色紙は、青山光二先生から頂いたものだった。昭和四十八年秋に青山先生とご縁が生じ、先生の住まわれる小田急線の和泉多摩川とは隣駅の登戸のアパートに住む私は、通勤の帰りに、また休日にたびたびお訪ねしたが、四十九年十二月、川越の外れに建売住宅を購入して転居した。そして、引っ越しのお祝いとして次のような色紙を贈っていただいた。

 もっとも許す
 こと多きもの
 もっとも愛す[文言は図版より] 》

その後、青山が蔵書を処分するときに田村書店を紹介して二枚もらった。月の輪書林の目録『ぼくの青山光二』に協力して月の輪さんから色紙を二枚もらい、さらに表紙に使われた「宙ぶらりんが好きだ」を購入したという。

その他、それぞれに想い出が語られていて興味深い。古書店ばかりでなくヤフオクで買った色紙があるのもまたいい。掲載図版のなかでは出隆の色紙が欲しいなあ。

***

中野美代子『三蔵法師』をボチボチ読んでいる。こんなくだりに出会ってなるほどと思ったりする。

《思い立つと、かれは仲間を募って朝廷に出国許可を求める請願書を提出した。答えは、「許さず」だった。
 そのころ、唐朝のあるじは李世民すなわち太宗になっていた。かれは、父の李淵すなわち高祖が在位中に、皇太子であった兄の李建成と、その兄に荷担していた弟の李元吉を、いわゆる玄武門の変で殺し、父に退位をせまって第二代皇帝になったのである。隨を倒し唐を興した最大の功労者であったのに、太子に立てられなかったことを不満としてのクーデターであった。

むろんこんなことは歴史上に洋の東西を問わずいくらでも転がっている話だとは思うが……。結局、玄奘三蔵は朝廷の許しを得ずに西域へ旅立つことになる。

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by sumus2013 | 2017-02-21 20:45 | 雲遅空想美術館 | Comments(4)

瓢吉庵油坊主展2

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大阪市淀川区(最寄駅は阪急の南方)の海月文庫アートスペースにて本日より開催の「瓢吉庵油坊主展2」を見る。池上博子さんの書画・ハンコなどの展覧会。バッグや洋服もキャンバスになっていた。チェッカーの赤い紙にはすべて「木」と書かれている。

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これまでに制作したハンコ(篆刻作品)を収録した印譜、七帙、勢揃い。四十年間にわたるというから、そうとうなキャリアになった。確認してみると『ARE』第十号で池上さんのハンコを紹介させてもらったのは一九九八年だ。う〜む、もう二十年になろうとしている。二十二日まで。お近くの方はぜひ。古本の品揃えもいいですよ、驚いた。また行こう。

海月文庫 Facebook

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by sumus2013 | 2017-02-16 19:52 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

安井巳之吉日記より

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安井巳之吉「蕪図」一九二六年



『劉生と京都』図録に収録されている安井巳之吉日記より、大正末頃の京都生活をほうふつとさせる描写などを引用しておきたい。「戔」としたところ実際は略字(横三本線の)になっている。

大正十四年

十月二十二日《午後岸田方へ出かけた、もう町は大そうな人出である、(時代祭行列)を見る為の人出だ。寺嶋氏が来たので、奥さんと三人して西本願寺の飛雲閣(桃山時代腱[ママ]築)を見に出かける、仲々の人出で、行列も電車の中にて見ることが出来た。飛雲閣の建築には驚ろいた、実に立派なものだ他に妙法院等行きたく思ってゐたが、時間の都合で後日にして京極の料理店にて、天丼を食す》

十一月一日《十一時頃出かけて京都座に行く、つまらぬ舞踊等多くありたり、天華はさすがにいゝと思った。大そうな人出であった。四條から電車で帰る、食後しばらくして余帰宿す、奥さんは村田氏と出られたと言ふ、余は麗子をつれて京都座に行ったわけである。》

天華は松旭斎天華、奇術師である。

十二月二日《今日家から金を送って来た、五円の金だが実に感謝すべきだ、皆懸命に働いてくれる金だから、つまらぬところあれこれ費やすことは出来ない。そう思ひながらも今日村上があまり行きたがっていゐ[ママ]るので松竹座にて活動を見、石井バク氏、石井小浪氏のダンスを見たが、どうしても自分にはわからないのか知らぬが、いゝものと思えなかった、活動は皆見るにあまり面白くもなく、力抜けのしたものであった、今日送ったき[ママ]来た金は、之と、絵具一色、(前から欲しいとねがってゐたもの)スケッチ板二枚を求めた、絵具が上がってゐるので全く平伏する》

松竹座は近年まで新京極通りにあった。石井バクは石井漠。モダンダンスの先駆者。

十二月二十日《夕頃村上と二人で散歩に行く、日頃なじみの絵具店にて村上が一度家に帰って又来るまでこゝに待つことにした、今日は此の店には客人が多い。仲々忙しくしてゐる、全くくだらなぬ絵がウインドに並べてあった、長く待ってゐたあげくもう帰ろうかと思った頃村上がやって来た、或る画商(三條通りの三角堂)の店に出てゐる絵を見てゐると、かたわらで、セキをした男があった、聞きおぼえがあるなあと思って見ると山岸兄であった、互いに驚ろく、十字屋楽器店にて楽譜を求む、画戔堂にて山岸兄絵具を求む、ビックリキツネとか言ふものを食べる、その大きいのに平[ママ]かうした、山岸兄の用事にて再びアオイヤに行く、四條にて村上に別れ自分は山岸兄と一しょに先生方に行く、もう大分おそかった、先生は床に入っておられた、明日は先生日本画を描かれるので、行くことにした、十二時頃帰る》

画材店の画箋堂は今も健在。アオイヤも画材店のようだ。

十二月二十七日《今日は割引券を持って五十戔で三等に入ることが出来た、始めの映画は全くくだらないものであった、二番のキッドは面白いところもあるが、只笑ってすませる様なものである、三番にやった、フヤバンクスのロビンフットは只見にはあれでよかる別に大して感心したところもなかった、松竹を出て寺町にて村上に別れる》

大正十五年

一月十日《朝起きてみると京都ではまれに見る大雪だった、一尺位はあったと思はれる、寒さは非常なものであった。》

一月十九日《家から金五円を送って来たのでうれしかった、全く感謝にたえない》《今日岸田奥さんとマキノキネマへ活動を見に行く約束あった為早く村上の家を切り上げて、絵具を求め直ぐ岸田方に行く、村上も今日来てゐたわけである、奥さんと二人で行ったころは大分おそくて、もう、目的のチャップリンのゴールドラツシは半ば終ってゐた、がチャップリンの骨ケイ[ママ]は仲々いゝ。近代ではチャップリンは一とう上手であらふ旧劇は面白なかった、佐竹の奥さんが来ておられた、帰りに、スシ屋に入り、味よいところを食し、十一時半頃岸田方に帰る》

京都マキノシネマ、西陣にもあったようだが、ここは新京極通りの小屋か。

一月二十五日《朝九時頃起きる、骨董屋へ行き、先生が買はれた、机とジク物を持って来た、机は古くて仲々いゝものである》

一月三十日《文房堂から送ってきた、ボールドカンパスを取りに郵便局に出かけた、見ると仲々いゝカンパスである、昨日の六号静物を描く、午后から村上を訪問した》

文房堂は神田の画材店。健在。

二月十四日《今日は春陽展出品画の最後の制作である、朝から夕頃まで腱命[ママ]にやった、夕頃運送店に行き絵を送る、冬瓜の絵を出品しようか、しまいかと大そう気にしたが意を決して出すことにした》

岸田劉生は大正十四年四月すでに春陽会は退会していたが、やはり出すとすれば春陽会ということになるのだろう。

二月二十日《朝九時頃まで眠った、午後麗子のベン當を持って行った帰りに岡崎公園を歩む、陳列館の庭から蹴上の山を見たところが、描いたらさぞ面白いと思った》《余も早く床につく、麗子に猫の話しや、雑誌苦楽に出てゐる、きみ悪い絵をみせて、こはがらせた、皆今日は早く床につく、》

二月二十三日《朝起きて京極の風景(小品油絵)を描く》《夕頃から出かける、一しょに来る、京極でチョットした鉛筆村上西角スケッチをした、祇園にて花を買って先生方へ出かける》

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安井巳之吉「京都京極夜景の図」一九二五年


二月二十六日《十時頃から、村上、西角の三人で余の宿に出かけた、三人して郊外写生をやった、水彩をやったが思はしく出来なかった、夕近くから松竹座へ活動を見に行く、つまらぬ映画ばかりだったが、面白かった、十時頃画戔堂で絵具を求む、(今日金を送って来てゐた)》

三月十六日《運送屋が早くから来てくれて萬事よくしてくれて非常によかった。皆かたづいたが、下宿で一人居るのが淋しかった》《村上を訪ふ、ちょうど帰って来て居た、西角と二人で活動へ行ってゐた、帰ってゐるから今日国へ立つことは止めにして、一晩ゆっくり最後として話し合ひ明日帰ることにした、今日彼の父と能のこと等話し合って非常に面白かった、村上と東京のこと等、展会のこと等も話し合った、 山本斯光が自分の絵をほめて居た、(東京毎夕新聞に)

晩おそくまで村上と話す、花合せをしたり、寝静った[ママ]頃、腹がすいて、茶づけのゴハンはうまかった、明日は晝中に色々歩いて晩帰ることにしてゐる。》

巳之吉としてはこのままいっしょに劉生たちと鎌倉へ行って、勉強を続けたかったようだが、親の意向で帰郷することになった。まじめで心優しい青年であった。

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by sumus2013 | 2017-02-14 21:27 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)