林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:雲遅空想美術館( 109 )

フォンタナ/イラン/メープルソープ

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パレ・ド・トーキョーでルチオ・フォンタナの回顧展を見た。キャンヴァス切り裂きはあまりに有名。そのフォンタナが具象彫刻から始めていたとは知らなかった。一九三〇年代にはモダニズム風の構成的な形の立体制作になり、戦時中には半具象の陶芸作品を作り、戦後「空間概念」と題した穴あき、切り裂き画面へと展開する。

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TVなどに取材された画像を編集した映像が流されていたのでしばらく鑑賞する。穴あき作品を制作する映像で新鮮だったのは、大きな画板に穴を次々あけて行く音がリズミカルでドラムのようだったこと。

さらに同じ建物の別のフロアでやっている「Unedited History 1960-2014」展(わざわざ英語を使っている)。イラン美術および映像の半世紀を編集しないでありのままに展示した、という意図であろう。編集しないといっても選択はされているわけだが。

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『A NOUS PARIS』(駅に無料で置いてある情報誌)652号にこの展覧会の紹介が載っていたので興味をもった。大雑把に1960-78年はシャーと妃のファラ・ディーバによる現代化の時代、1979年イラン革命とイラン・イラク戦争(1979-88)時代、そして1989から今日までと区分されている。

グラフィック・デザインも展示されていた。

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絵画はともかく写真はすぐれた作品が多かった。あとは現代美術のインスタレーション。 Chohreh Feyzdjou のちょっとボイスやキーファーを思わせるような質感で巨大な倉庫のような空間を構築している作品が圧巻だったように思う。


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パレ・ド・トーキョーからメトロで二駅のグラン・パレへ。南東ギャラリーで開催されているメープルソープの回顧展を見る。日本でも何度か見ているので、さほど驚きはない。イランの写真を見たばかりの目には、善し悪しは別にして、何とも不思議な感じ。十八歳未満入室禁止の展示室もあった。ま、たしかに。こういう世界もあるのだ。

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by sumus2013 | 2014-06-19 04:08 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

KATI HORNA

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ジュ・ド・ポームで「カティ・オルナ」展などを見る。オルナ展はチラシ(上)によれば、最初の本格的な回顧展である。一九一二年ハンガリーのユダヤ人家庭に生まれ、二〇〇〇年にメキシコで歿している。同郷のロバート・キャパとは十代のころから友人だった。若い頃から写真に興味を持ち、構成主義者・活動家のLajos Kassakの影響で写真を社会改革の一手段とみなすようになる。

一九三〇年、カティはベルリンへ行きベルトルト・ブレヒトと会っている。友人のキャパとエメリコ・ワイス(Emerico Weisz)とともに、ハンガリー人シモン・グットマン(Simon Guttman)のDephot写真店で働いた。もうひとりの同国人ラズロ・モホリ・ナジのつてでバウハウスでも学んだようだ。ナチが政治的に台頭してくるとカティはブダペストへ戻る。そこでジョゼフ・ペシ(Jozsef Pecsi)とともに写真を教えた。

一九三三年末、パリへ行く。コスモポリタンな都市、シュルレアリスムの最盛期だった。シュルレアリスムはカティの仕事に大きな影響を与えた。コラージュ、二重露光、フォトモンタージュなどの技法を駆使するようになる。リュテシア・プレスのために仕事をする。

一九三七年、共和政府の招きでスペインを訪れた。三九年にかけてスペイン各地を旅し、再びキャパやチキ(Chiki エメリコ・ワイス)と合流したが、彼らのドラマティックな写真とは違ってカティは庶民生活を落ちついた共感をもって撮影している。市民戦争が勃発。カティは雑誌『Umbral』のために仕事をし夫となるアンダルシア人ホセ・オルナと出会う。三九年に二人はパリへ脱出。

ナチズムを逃れてニューヨークへ、さらにメキシコへ移る。メキシコシティのタバスコ通りに落ち着き、そこは多くの人々が集う創造の場所となった。レオノラ・カリントン、レメディオス・バロ、バンジャマン・ペレ、エドワード・ジェイムス、アレハンドロ・ホドロフスキー、前衛的なメキシコの画家、作家、建築家たち。カティはいくつかの雑誌のために写真の仕事を続け、大学や美術学校でも教鞭をとった。

というようなチラシの文章をかいつまんで紹介してみた。なかなかいい写真だ。二枚目の図版はジュ・ド・ポムの六月〜九月の展覧会案内、この表紙もカティの作品「女性と仮面」(1963)。



カティ・オルナは一階ギャラリー。二階ではオスカル・ムニョス(OSCAR MUNOS)の「PROTOGRAPHIES」展が開催されていた。ムニョスはコロンビアの映像作家。絵画と写真と映画を合体させた「プロトグラフィ」を提唱している。

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ムニョスの仕掛け絵、百聞は一見にしかずなのだけれども、あえて説明する。例えば、石の上に水をつけた筆で顔を描く、それを撮影しているわけだが、水は描いているうちに乾いて行く…描き直す…すぐに乾き始める…という映像をそれぞれ絵柄が別の五つの画面で映写する。

床にシャワーの排水穴にはめる丸い金属が置いてあり、その穴の中に水が流れて行く映像を投影する。黒いインクのようなものが水に混ざって穴の中に流れ去る(これは映像)、また最初から水が満ちてきて流れ去る。金属は実物。

細長いテーブルの上に大小の写真がたくさん置いてある。その写真をめくってゆく手が現れ、あちらこちらの写真をめくる。手と写真は映像である。天井から映写されている。机と写真が映写される白い紙(スクリーン)は実物。

本や雑誌を模倣した作品もあった。遠目には印刷してあるように見える本、近くでよく見ると、小さな穴が無数に開いている。しかもその穴は火で焼き切ったものである。穴の周辺が焦茶になって、すなわちドット(網点)となって、それが絵や文字に見える。

その他さまざまな視覚と現実の交錯を仕掛けた作品が並んでおり、楽しんで見られる展示だった。

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小学生の団体さん。「どう、これは何に見えますか?」などという先生の質問に子どもたちがけっこう真剣に答えていた。ジュ・ド・ポムはこういう教育的な鑑賞に積極的のようである。

【注】人名のアクセント記号は省略しました。カタカナの読みは正しいかどうか分かりませんのでご教示を。

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by sumus2013 | 2014-06-13 23:53 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

岡田半江 樹々皆秋色

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岡田半江ということで求めた山水画の軸物、文字は「樹々皆秋色山々只落暉/半江田粛写」(季節外れもいいところでスミマセン)、印は「岡田粛印」「半江」。半江はいろいろな作風で描いているため、にわか愛好者にはこれが本物なのかどうか判断できない。緻密な作品も多いが、これはザッと仕上げたタッチではある。そのためさほど高価ではなく小生でも入手できたと言える。


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半江と言えば、先日取り上げながらその釈文をかかげられなかった「新園雨足更幽恬」の漢詩。某氏の御教示を頂戴して、おおよそなんとか読むことができた。まだ多少おぼつかないところもなきにしもあらずながら、まずはだいたいこんなところかとも思う。乞御叱正。


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新園雨足更幽恬

苕帚筠箕迹尚霑

渫井浚泉点茶榻

洗篁得月読書巌

車停紅葉非追牡

門橦青松異讃

啻願員従緑堂歩

一盃濁酒與吾拈

緑堂介川員和拙詩見示再用前韻
茶亭寄時後園秋栄落成
            半江田粛

新しい庭にじゅうぶんな雨が降ったあとはいっそう静かだ
葦の穂の箒、竹の箕はまだ濡れている
井戸をさらい、泉をさらい、茶をたてる椅子
雨に濡れた竹林、月が出る、読書の岩
車停めの紅葉は牛には届かない
門の板に青松が変った讃をつける
ただ願う、しばしば緑堂の歩にしたがって
一杯の濁り酒を吾とともに手にすることを

浚」としたところ本文では手ヘンになっている。読書岩(巖とは少し崩し方が違うようではあるが?)はひょっとしたら以前紹介した小杉放菴の絵のような岩かもしれないと思うしだい。「非追牡」と「押(?)異讃」のところはよく分らないのでとりあえず。「員」もほんとうは打ち込みのノがあるべきだろうが、他に思いつかないので員(しばしばの意か)とした。




所用のためしばらくブログを休みます。



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by sumus2013 | 2014-05-07 20:48 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

新園雨足更幽恬

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某氏より掛け物を見せて欲しいと求められて、何かまともなものはないだろうかとしばらく迷っていた。たいした数でもなし、またとっておきの浜田杏堂はもう公開してしまったしなあ…と思って、押入を物色していると「忘れていた、これがあった!」と取り出したのがこちら。

昨年の高津宮観桜会に持参してそのまま御蔵入りしていた。観桜会ではまず軸を褒められた。この軸先はそうとうに凝ったものだそうだ。「この軸先だけ見て買うても間違いがないもんですなあ」とA先生。軸先が凝っていれば、当然中味もいいだろうと想像できる、という意味(軸物は巻いてあるので、絵はいちいち開いてみないとどんなものか分らないのです、だから軸先を見てまずその善し悪しの見当をつけるわけです)。書と絵を一軸に表装しそれらの周辺を細い金箔で廻しているのも珍しいようだ。

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それは嬉しいが、肝心の書画の方はどうなのか。書は岡田半江。父は岡田米山人で伊勢藤堂藩の大阪蔵屋敷に務めて居り、画家としても知られていた。米屋だったところから米山人と号した。その子、粛(半江)も父の跡を継いで蔵屋敷に務めながら文人画家として活躍し、頼山陽ら多くの文人たちと交際した。

ということで、これは介川緑堂(すけがわ・りょくどう)の新園が落成した記念に贈った七言詩のようである。不勉強ですらりと読めない。よって読まないことにする(読める方御教示ください)。

介川緑堂、名は通景(みちかげ)、通称亀治、東馬、号は緑堂、静斎。久保田藩(秋田藩)の重臣だった。文政の末頃、秋田藩大阪蔵屋敷留守居役を勤めていたようだ。文政十一年(一八二八)、秋田藩の儒員だった大窪詩仏は緑堂の仲介により大阪で頼山陽らと舟遊びをしているという。たぶん半江も同席していたのではないだろうか。

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絵の方にも讃はあるものの、ここに出てくる固有名詞を検索してみたが、何も分らない。「庚戌仲秋作柴大夫」とある。庚戌は一八五〇年(弘化三)とみなすのが妥当か……? 以下の七言絶句は半江よりよほど上手いように思う。署名は「生香舎達」、印は「皆可」。なかなかチャーミングな絵だ。ただし下手ではないけれども、プロフェッショナルとも思えない。まあ、だから貧生でも入手できたとも言えるわけだが。

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要するに今のところこれらの書と絵との因果関係は見出せない。実際何かの因縁があったのか、それとも単なる取り合わせの妙として表装したのか、その辺り、推理しようにも術がないのがちょっと歯痒い気持もする。



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by sumus2013 | 2014-04-27 21:17 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

年画造酒仙翁

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昨日が旧暦の元日だった。ということでおめでたい造酒仙翁の年画を掲げる。

中国年画造酒仙翁
http://www.microfotos.com/?p=home_imgv2&picid=1518960


造酒仙翁だけでなくさまざまな神様たちが祀られるようだ。漢代からあるとも言われる民間信仰らしい。

青苗之神/造酒仙翁/火德星君/張仙之神/和合二聖/五道之神

青木正兒『抱樽酒話』(アテネ文庫、一九四八年三月二五日)によれば、中国には大別して二種の酒がある。黄酒と焼酒。黄酒は日本の清酒にあたる。焼酒は焼酎である。焼酒は元代に南方から伝来したものらしく、中国本来の酒は黄酒であったろうという。

黄酒は浙江省紹興の酒が有名で、その名は黄酒だが実際には茶褐色をしている。ただ「竹葉清」と呼ぶ酒は日本酒に似ているそうだが《私は未だ曾て嘗めたことは無い》。昔の酒は日本酒のように琥珀色なのが普通であったらしい。それは有名な李白の「客中行」の詩に

 蘭寮ノ美酒ハ鬱金色 玉椀ニ盛リ来タル琥珀光

とあるので分る。唐以来の酒は淡黄色なのが普通だったが、他に特殊な酒として緑・紅・白の三種があった。白と紅はきわめて古く『周礼』に出ている。緑の酒は遅れて『文選』所載の晋の左思の「呉都賦」に出るそうだし、陶淵明の詩に「緑酒、芳顔ヲ開ク」ともある。

白酒はどぶろく。原始的な酒ながら、優良品もあったらしく蘇軾はとくに白酒を好んだ。緑酒は唐から六朝に流行し、紅酒は宋代に盛行したもののようである。

わが国では古くは黒酒(くろき)・白酒(しろき)といった濁酒が作られていたが、奈良朝になって唐から清酒の製法が伝わったようだ(引用者註;文献的には諸説あってはっきりしていないが『延喜式』[九二七年]には清酒の製法が記されている)。そのころから日本酒は琥珀色を輝かしていたに違いないと述べ、

《ところが近年琥珀は段々色が薄くなつて来た。聞けばわざわざ薬品で色を抜くとのことだが、何と云ふ手間のかかつた馬鹿な事をするのだらう。》

としめている。現代の人間には日本酒が琥珀色というイメージはないだろう。しかしながら以前 daily-sumus でも紹介した元禄時代の酒はまさに琥珀色だった。

 
『抱樽酒話』では触れられていないが、同じく青木先生の『中華飲酒詩選』(筑摩叢書、一九八七年九刷)には琥珀と紅の酒が出ているものが挙がっている。前半のみ引用する。


   将進酒   李賀

 瑠璃鐘 琥珀濃 グラスの盃には琥珀色が濃く
 小槽酒滴真珠紅 小さな酒船に滴る酒は真珠(ルビー)のやうに紅い
 烹龍炮鳳玉脂泣 龍を煮たり鳳を焼いたり脂がぢうぢう
 羅幃繍幕圍香風 薄絹の幃や刺繍の幕で香風を囲む


李賀についてはやはり以前少し触れた事がある。ご覧のように龍や鳳凰がポンポン飛び出してくる派手な作風だ。

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by sumus2013 | 2014-02-01 21:22 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

浜田杏堂

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おおよそ一年ほど前に浜田杏堂「山水人物図」を入手した。ほとんど知られていない画家だから値段はあってなきがごとくであった。先日の古今日本書画名家辞典』には次のように書かれている。

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《濱田杏堂(はまだけうだう) 名は世憲(せいけん)、字は子微(しび)、杏堂は其号又癡仙(ぎせん)と号す、通称希菴(きあん)大阪の人、少より画を好み先哲の遺蹟を学びて大に山水花卉を能くせり 文化の頃の人。》

このくらいの情報である。五行。これを多いとみるか、少ないとみるか。それはともかく小生がこの画家を知ったのは中谷伸生氏の論文「近世絵画における浜田杏堂」(『関西大学東西学術研究所創立六十周年記念論文集』)による。そこで中谷氏はまず藤岡作太郎『近世絵画史』における杏堂像を考察している。

《「濱田杏堂、名は世憲、字は子徴、通称を希庵といひ、別に痴仙の号あり、医を業とす。幼より畫を好みて福原五岳等に学び、かつ行書をよくす、山水蕭疎にして頗る気韻あり、文化十一年、四十九歳にして没す。」と述べている。杏堂は、木村蒹葭堂、森川竹窓、谷文晁、篠崎小竹らと交流しているが、墓碑銘に刻まれた碑文は、小竹が撰し、竹窓が書いたものである。杏堂は行書や詩文にもすぐれていたと伝えられ、能もよくしたという。墓所は高津中寺町の法雲寺である。蒹葭堂没後の十三回忌書画展には、《淡鋒山水図》を出品した。

杏堂についてはこの記述で充分だろうが、もう少し中谷論文から補足すると。生年は明和三年(一七六六)、歿したのは文化十一年(一八一四)十二月二十二日。呉北汀が所蔵する明人の墨竹を杏堂は見事に模写したという言い伝え、そして頼山陽に杏堂を讃えた詩がある。たとえサインがなくても杏堂の作品は一目で分るという意味のようだ。

 尺幅渓山爾許長 雲嵐清潤墨猶香
 何妨紙尾無題識 数筆知吾老杏堂

また田能村竹田『山中人饒舌』に《大雅翁に至っては則ち其躅を踵ぐ者、五岳福元素最も著はる。杏堂、春嶽、熊嶽の数子皆五岳の門より出づといふ》とも。

以下は杏堂の作品分析。まず中国絵画からの影響、そして文人画から写生画へと変る作風についても触れられているが、ここでは省く。作品としては《大きな特徴や目立った個性を示すものではない》けれども《東アジアに共通する文人画、あるいは水墨画として、文化史的、文明史的な意味を担っていると考える必要があろう》、《杏堂らを軽視してきた従来の価値評価では、日本美術史研究は成り立たない状況を迎えつつある》という結論である。

画風としては大人しくて物足りない、これは見た通りだ。ただ、素直に気持ちのいい絵じゃないかな。むろん中谷氏も基本的にそこを認めての論考であろうと思うが。

後日、中谷先生にこの絵を見ていただく機会があった。「杏堂です。間違いない。杏堂の贋物というのは見たことないですね」と。これも少々さびしい話ではあった(著名作家ほど贋物が多い)。





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by sumus2013 | 2014-01-11 20:51 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

サンタ・レジーナ

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少し前に某書店で求めた聖画像。ブリキの板に描かれた民画である。タテ25cm。おそらくメキシコあるいはラテンアメリカのどこかで描かれた「レタブロ retablo」であろう。フリーダ・カーロはレタブロを蒐集していたそうだが、たしかにこの素朴な描写にはカーロの強靭さと繊細さに通じる一種独特な魅力がある。

レタブロ(ラテン語「後ろの絵」から)はスペイン語で、中世以来、祭壇の背後に飾られた聖者像などのパネル画を指した。十八世紀後半、スペイン帝国が統治したラテンアメリカへ持ち込まれたが、そこでは民衆のための小さな宗教絵画のことを意味するようになり、聖者像の他にエクス・ヴォート(ex-voto 神の加護に感謝するために奉納する絵、絵馬)をもおしなべて「レタブロ」と呼んでいるようだ。

この聖者は右手に棕櫚の葉を持っている。シュロは殉教者のシンボル。足下には《Santa Regin[a] Brigen Mralir》(?)と書かれている。サンタ・レジーナが聖者の名前だろう。後半は不明(御教示をまつ)。


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サンタ・レジーナはスペイン語の呼び方だが、調べてみると元はフランスの殉教者「サント・レーヌ Sainte Reine」のようである。二五二年、ローマ帝国支配下のフランス中東部のアレジア城塞の近くで羊飼いをしていたレーヌという名前の十六歳の信心深い少女がいた。総督だったオリブリウス(Olibrius, または Olimbrius)が彼女をみそめてわがものにしようとした。けれどもレーヌは結婚も改宗もきっぱりと拒み、首をはねられてしまったという。

当然ながら、まだキリスト教は公認されていなかった(公認は三一三年のミラノ勅令による)。後にその地方ではサント・レーヌを崇める宗派が生まれた。独立運動のシンボルだったのかもしれない。アレジアのアリーズ・サント・レーヌ(Alise-Sainte-Reine)村ではサント・レーヌを讃えるために受難を再現した秘儀劇が九世紀以来行われており、それは今日まで継続されているフランスの最も古い秘儀劇(le plus ancien mystère célébré sans interruption en France)とされているようだ。

レタブロに関する情報は下記に。

山本容子美術館 フリーダ・カーロ博物館

芹沢銈介美術館 ブリキに描かれた宗教画・レタブロ

Muntkidy 聖カタリナ像

***

クリスマスソングをメールで頂戴しました。ありがとうございます。ナイス!

Eddie Higgins Trio - Christmas Songs

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by sumus2013 | 2013-12-25 21:05 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

短冊三枚


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最近求めた古短冊。まず俳句で「山端を誘ひに来るや時鳥」。署名は「喜明?」

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こちら「水鳥」の和歌は「浪たてハ阿さり争ふかたはらに/うちとけてぬる鶴ハも……」。署名は「千野?」

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「三良」とあるからは酒井三良かととびついたわけだが、ネット上で見る「三良」とはどうも筆跡が違うようだ。ただし「米代(よねだい)」が会津の地名だとすれば、河沼郡柳津町出身の三良であってよいはずである。筆跡は時代によっても違ってくるので難しい。




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by sumus2013 | 2013-12-18 21:16 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

僕、馬

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『藤井豊写真集 僕、馬 I am a horse』の発刊記念展がメリーゴーランドで開催されたときに求めた作品が届いた。いい写真だ。ほんとは他にもう四五枚欲しかった……。藤井氏の手紙が添えられていた。

《林さんのブログを見て「僕、馬」を買って恋人(?)にプレゼントしたという方が、東京の個展に二人でいらっしゃいました。
二人はすべてのカットを収めたコンタクトシートブックをゆっくり見て、これが良かったと これが見れた良かったと、三人で長いこと話をしました。
ゆっくりですが、たしかに「僕、馬」が届いているという実感があります。》

届いてますよ!
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by sumus2013 | 2013-10-27 16:53 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)