林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:雲遅空想美術館( 125 )

金子國義死去

金子國義死去のニュースが届く。Bunkamura Gallery で「美貌の翼」という個展があったばかりだったので予期していなかった。版画でもいいからオリジナルが欲しいなと思ってはいたが、さすがに手の届く範囲内には転がっていない。絵葉書を取り出して見る。

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金子國義展「不思議の国のアリス」
1999年12月17日〜30日
伊勢丹

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Barbie-chan 1995


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Histoire de l'origine 1995
金子國義展
2011年1月19日〜30日
ギャラリー アクシズ


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愛書狂 Le bibliomane 2003


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Holy Night 2003
"Holy Night" 金子國義展
2003年12月17日〜25日


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La graine d'Adam 2006
アダムの種
2006年1月26日〜27日
Bunkamura Gallery


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Madame Edwarda 2008
魅惑の起源
2008年2月2日〜12日
Bunkamura Gallery


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The Dressing Room
美貌の翼
2015年1月31日〜2月11日
Bunkamura Gallery


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金子國義・富士見ロマン文庫コレクション内容見本





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by sumus2013 | 2015-03-17 21:00 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

号外が

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先日、某書店で均一台を漁ろうとしたら、先客が張り付いており、ちょっと割り込める雰囲気ではなかった。しばらく待てばよかろうと思い直し別の売り台をちょいちょいと覗いていると、扇子ばかりまとめて何十本も放り込んだ段ボール箱があった。ちょうど時間つぶしにいいやと思い、ひとつひとつ開いては扇面の絵を調べたのである。いつもなら面倒なのでそんなことはしない。こういうところに積み上げられている扇子はたいてい印刷か安手の木版画である。肉筆が交じっていても素人の手遊びていど。時間のムダ……ところが余儀なき時間つぶしが役に立つとはこういうことか、そのとき発見したのがこの一本である。

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絵も字も肉筆。しかもかなり流暢な手である。

 号外が
  絵葉書に
    なる
  その
   早さ

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絵も達者ではないか。前書きと落款もある。ただしこれがよく読めない。いつもながらなさけない。

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 宮比連月並
  狂句合巻中抜章
   喜久はたはし免盲評 [印=始]

印は「始」だという御教示をいただいた。たしかに! ということは「はし」と読んでいいようだ。とすると「あ(愛)」かと思ったが、そうではなくて「た(堂)」か? 宮比連についてもほとんど手がかりはないものの、ひとつだけ前田雀郎の事蹟を記したページに《大正三年(一九一四)、十七歳の時、宮比連(狂句)の運座に加わる》とあった。雀郎は阪井久良岐(伎)に師事したので阪井の主宰した連であろうか? また骨の頂と扇面の狂句の頭に「人」とある。後者の「人」は朱印だ。この「人」は評価(天地人の人)ではないかという御教示をいただいた。なるほど、句会などのグループ活動には縁がないので気付かなかったが、それで間違いないだろう。御教示に深謝。

描かれているこの号外配りの出で立ちもすこぶる興味深い。ブルーのストライプの股引と鉢巻。この縞柄が某新聞社のトレードマークでもあったのだろうか。履いているのは地下足袋か。参考までに先日このブログで紹介した新聞配り、その他、画像検索で見つけた新聞売り子の姿をリンクしておく。


『絵画辞典』しんぶんくばり
http://sumus2013.exblog.jp/23561271/

ビゴー作 号外売り
http://roudouundoumeiji.com/rekisi-8.html

『号外売』明治後期
http://www.nikkei.co.jp/events/art/boston_comp_1.html

明治初期の新聞売り
http://homepage1.nifty.com/eagle_dan/photo253.htm





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by sumus2013 | 2015-03-16 21:27 | 雲遅空想美術館 | Comments(4)

川端彌之助作品展

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川端彌之助作品展が京都市南区東九条の「長谷川歴史・文化・交流の家」で開催されている。川端彌之助の回顧展は一九八四年に京都市美術館でたしか見たような記憶があるのだが、久しぶりにもう一度と思って出かけた。会場の長谷川家住宅というのにも興味があった。

長谷川歴史・文化・交流の家
http://hasegawa.okoshi-yasu.net

地下鉄の十条駅から歩いて七、八分。一般の住宅街のようでありながら、このあたりは寺院や古い農家が点在して歴史を感じさせる地域だった。

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長谷川家住宅の長屋門から母屋へのアプローチ。戸を開けて入場すると上品な婦人が応対、そして一部屋ごとに案内してくださった。チラシの文章をよく読んでいなかったのはうかつだが、この長谷川邸は長谷川良雄の住居だったのだ。長谷川の姉と妹(姉の歿後)が川端に嫁いでいるため二人は義理の兄弟にあたるのである。

長谷川良雄は一九〇二年に創設された京都高等工芸の第一回入学生で浅井忠や武田五一に学び、浅井死後、絵筆を放棄した時期があったようだが、家業の地主を務めながら発表する意図をまったく持たずに数多くの水彩画を制作した。

長谷川の水彩画を京都市美術館で見たのはいつだったか。九〇年代の後半だったと思う。そのときまでまったく知らない作家だったのだが、なんとも見事な水彩テクニックに感嘆した。浅井忠と同じく透明さを極限まで生かす筆運びながら、浅井よりももう一歩踏み込んだ描写になっている。京都、とくに洛南の風景を多く残しているが、その爽やかさ、渋さは小生のもっとも好むところである。

描きためた水彩画は長らく人知れず納戸に保管されていた。『長谷川良雄画集』(長谷川景子、一九九四年)の発行をきっかけとして再評価が始まったそうだ。長谷川邸には常設の展示場が設けられており、作品はもちろんのこと絵具、パレット、筆、ペインティングナイフ(ナイフを使ってひっかく浅井直伝のテクニックを得意としていた)などの遺品も展示されていた。久々に長谷川作品に触れることができ心が洗われる思いだった。

また、良雄の父・清之進はかなり熱心な歴史研究家だったらしい。清之進の蒐集した幕末の地図各種や黒船関連の同時代資料、各種の時計、地球儀なども見所のひとつだ。襖の書は江馬天江、宮原節菴。円山派の絵師による衝立や南蘋派の花鳥画軸なども。

川端彌之助の作品では、パリ時代がいずれも佳作だったが、とくに印象に残るのは画家が自ら手作りしたたくさんのぬいぐるみ人形。竹久夢二の創作人形を連想させるヨーロッパ調のスラリとしたもの。あるいは川端が留学していた当時のパリにそのような形のプペがあったのかもしれない。

土曜の午前中をゆったりと過ごすことができた。土日祝のみの開館なのでご注意を。




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by sumus2013 | 2015-02-28 21:20 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

一枝春信

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濱田杏堂「一枝春信」を入手した。特に佳作ではないものの、それなりに見所はつくっている。杏堂についてはすでにある程度詳しく紹介しておいたので参照されたし。


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印は「世憲」と「子徴氏」。杏堂は梅を得意としていたようである。

昨今、梅花で連想されるのが広島カープに戻ってきた黒田博樹投手。彼が好きな言葉として披露してヤンキースの選手たちに感銘を与えたと言われるのが「耐雪梅花麗」だ。この句を白抜きに刷ったトレーニングウエアを黒田は着用し、チームメイトにもプレゼントしたという。ちょっと演歌チックなこの句は西郷隆盛の「示外甥政直」と前書きの付いた五言律詩からとられている。この詩は各所で引用されているので全文は示さないが、ここのところは対句になっている。

 耐雪梅花麗
 経霜楓葉丹

雪に耐えた梅の花はうつくしい、霜を経た楓の葉は真赤だ。苦難に耐えて大成しろと甥(妹の三男)市来政直が渡米するに当って贈った詩だそうだ。黒田投手にはピッタリである。

他に西郷の漢詩で有名な句は「感懐」の《不為児孫買美田》だが、小生は「失題」が好きだ。

 雁過南窓晩
 魂銷蟋蟀吟
 在獄知天意
 居官失道心
 秋声隨雨到
 鬢影与霜侵
 独会平生事
 蕭然酒数斟

明治六年、野に下って以降に作られたもの。通奏する無力感がいい。


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by sumus2013 | 2015-02-26 21:04 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

空海

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弘法大師の小さな木像を入手した。高さ93ミリ。塗りは漆のような気もするが、専門ではないのでよく分らない。手に持つ法具は失われている(右手に五鈷杵、左手に数珠)。台座には「立」?と墨書。おそらくかつては厨子に収められていただろう。ただこの汚れ方からみてかなり長い間、像だけで放置されていたようにも思われる。

弘法大師空海は讃岐国多度郡の生まれ。小生の実家も真言宗だったため小さいときから祖母に連れられて毎週のようにお寺参りのお供をした。薬師寺と千光寺というふたつの寺が贔屓(?)だった。どちらもおよそ歩いて二十分くらいの距離である。祖母は成田山にも何年かおきに参詣するほど熱心な信者だった。ところが祖母にペットのように連れられていた小生が覚えた念仏はナムダイシヘンジョウコンゴウだけだったのも情けないと言えば情けない。

薬師寺の現住職(だと思うが、最近会ってないので確かではない)は中学校の一年先輩で同じバレーボール部だった(というか入学時に薬師寺の先輩にスカウトされたのである)。高野山で修行した裏話を、もうかなり前に連絡船の中でバッタリ出会ったときに聞いた思い出がある。薬師寺には本堂を半周する地下洞窟が掘られていた。人一人がやっと通れるくらいの幅の通路にはスノコ板が敷かれ、途中に何箇所か祠堂のようなものがあってそこを順番に参詣する。蠟燭の光だけがたよりの薄暗い通路を祖母の後ろからついていくのが、ほんとに怖かった。あのひんやりとした湿っぽい岩の質感が今でも体にしみついている。

千光寺は保育園を経営しており、小生も二年間通わされた。千光寺(真言宗御室派、仁和寺が本山)は実家の檀那寺でもあり祖母も父母も現住職に送ってもらった。昨年は何十年かぶりで千光寺を訪問したが、建物はさほど変っていないようだったものの、とくに幼少時の記憶が甦ってくるということはなかった。お昼寝の時間が嫌いで『キンダーブック』が楽しみだった。

そういう昔ながらの風土に育ったわりには、根っからの不信心者だから信仰としての宗教には何宗であれ興味はない。ただ、思想としての宗教には多少のひっかかりを覚える。密教というのはインド仏教のなかでは最も新しい形態だった。そのため元来のブッダの思想からはかなり隔たった場所に到達してしまっているようでもある。中国へ入った密教がアヴァンギャルドだった時代、空海はそっくりそのまま密教を輸入して日本の宗教界(というよりも思想界か)にブランニューな一派を立てた。それはたちまち貴族階級を虜にした。そういう階級にアピールするゴージャスさ(あの豪勢な曼荼羅図を思い浮かべるだけでよろしい)を密教は持っていたのである。

この小さな弘法大師像を入手した次の日だったか、某書店の均一台に並んでいた上山春平『空海』(朝日新聞社、一九八一年九月三〇日)を買い求めた。司馬遼太郎の空海は読んでいたが、あれは小説。論文ふうの伝記が読めるかどうか危ぶんだ。しかしさすがに上山春平、じつに明快で俊才の走り過ぎ気味の筆がきわめて面白く、空海とその時代に改めて興味を掻き立てられた。空海そのものを読んでみたいと思っているところ。その『空海』の内容については明日。





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by sumus2013 | 2015-02-21 21:39 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

松阪帰庵

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松阪帰庵の一行書「長江鴨洗頭」。昨年入手していたもの。この文言は明代臨済宗の僧『象崖珽禪師語錄』の第三巻にある問答から(ただし他にも用例はあるようだ)。

四方八面來時如何。
霧裏龍生角長江鴨洗頭自有藏身處堪笑不堪愁。

四方八方からやって来たときはどうする? 龍は霧の中、鴨は長江の水、だれにでも身を置くところはある、心配無用……というような解釈でいいのだろうか。

帰庵は明治二十五年岡山の美作町生まれの僧侶。昭和五年に父旭宥の後を継いで岡山市三野法界院住職となっている。昭和三十四年に歿するまで法務のかたわら書を学び、書を楽しみ、歌を作り絵も数々描き残した。「いま良寛」と呼ばれたという。

たまたま古本屋の反故箱から拾い上げた「今様良寛帰庵和尚遺墨展」のパンフレット(東京日本橋三越本店、一九七一年、観音折り一枚)を見て初めて名前を知ったのだが、ここに載っている秦秀雄の一文によれば『季刊銀花』一九七〇年春号に秦が紹介記事を書いてから有名になったらしい。

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秦は昭和四十四年正月初めて帰庵を知った。のびやかな書風に惹きつけられ、早速岡山を旅して和尚の墨跡を尋ね歩き、その生涯について取材した。

《色衣を着ない。錦襴の袈裟をまとはない。いつも白衣に手染めの木綿の黒衣をつけ、三日に一度剃髪する。五十四年肉食妻帯しなかった。蚤や蚊をさへ殺生しなかった。この戒律僧が唯一の道楽趣味は習字と篆刻と自然田園の写生と歌作であった。それがどうした事か、終戦の年すゝめに従い結婚した。肉食さへ時に口にし酒さへもたまさか人にすゝめられゝば楮口に三ばいを口にした。外見の堕落。この外相を見て世評は今良寛と崇めていた清僧に厳しい批判をあびせかけた。
 
 しかし多年の戒律をゆるめたのは意固地に自分という人間を人間らしい人間への解放ではなかったか。世人らしい世人、凡俗の暮し、その平凡な暮しの中にこそ仏道が密着して生きる道があると感づいたのは和尚にとって肌で感じた仏教の真髄の開眼ではなかったか。何事も無理をしない。この暮し方、生き方が多年の自分を戒めた戒律僧故にひとしほ感じいったことだろうと想像する。

 この清僧から真僧への開眼開放が和尚の書にあらわれだしたのは和尚結婚後の事である。書家らしい上手な書風は一変してつゝましやかな書が豪放磊落な自由奔放の姿、形をとゝのえて来た。

豪放磊落、自由奔放……どちらも少し違うと思うが、帰庵の生涯には興味深いものがある。心境の変化については敗戦が何らかの打撃を帰庵に与えたのかもしれないと思ったりもする。

同じくパンフレットに収録されている富岡大二「帰庵さんの歌」から何首か引いておく。文字遣いは原文のまま。繰り返し記号は繰り返しに改めた。


 筆のさが かたくななれば わがさがを
    ふでにあわせて かゝざらめやも


 きみをおもい わがといくれば きみもまた
    われをおもいて ゐるところなり


 からばやと おもいしくさの あおあおと
    のびたるをまた うつくしとみつ


 きのかげの すゞしきもあり とにかくに
    ひとのこの世は たのしからずや


帰庵の作品は割合に数多く出回っているようだ。よって、そう高価ではない。もう数点欲しいところ。

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by sumus2013 | 2015-02-02 20:36 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

夜雪庵金羅

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このところ毎日この俳句を眺めて苦悩している。署名は「夜雪」印は「金羅」、それはいいとして、上五からどう読んでいいのか分らない。「□□に(丹)」だろうか。中七は…ね(?)、り(?)、き、る(?)、空、や(?、の?)。下五は「遠蛙(とほかはつ)」と思うのだが。ならば季は春となる。御教示を乞う。

近藤金羅(天保元 1830〜明治二十七 1894)。江戸湯島の生まれ。三世金羅に学び、夜雪庵金羅四世を継いだ。名は栄治郎、別号に三万堂、珍斎其成。正岡子規以前に「俳句」という言葉を使い始めた宗匠だと言う。

夜雪庵金羅(四世)



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by sumus2013 | 2014-12-24 20:23 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

中国の古画

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昨日、絵画などは除外すると書いたが、ことさらに除外すると言うほど買ったわけではないし、買えるはずもない。それでも隙間を狙って保存状態の良くない無名(銘)の半端もの(結局は本と同じような基準です)をいくつか求めた。そのなかで少しましなのがこちら。絹布に描かれているが、ご覧のように傷だらけ。おそらく本来は屏風か何かもっと大きな作品だったのだろうが、いつしかバラされてこのような軸物に仕立てられてしまったようだ。その表具がまた安っぽい。

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士大夫が酒肴(かとも思ったが、あるいは陶磁器の自慢の品々かもしれない)の配されたテーブルを前にして寛いでいる。目前の早咲きの梅に寄って来る小鳥をものうげに眺めながら。彼が体を預けている四角い物体は肘掛け椅子とも思えないのだが、ひょっとして本か(まさか?)。築山と言い人工の水路と言い展望楼と言い、ひとかどの人物であろう。前景に立っている紳士はおそらく招かれた客人。琴を童に運ばせている。客が視線を投げている左の遠景に何か重要なモチーフがあったのかもしれない。

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時代はそれなりにあるだろうが、比較するための知識がないので判然としない。とりあえず、けっこう古いぞ、と思っておこう。超一流の画師でないにしても雅味のある筆遣いはなかなかのもの。これが新刊の単行本二冊くらいの値段なのだから嬉しい買物である。


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by sumus2013 | 2014-12-14 20:45 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

バルチュスの視線

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バルチュスの「コメルス・サンタンドレ小路」を昨年の七月に取り上げてそのモチーフとなっているであろう街景を数枚の写真で紹介した。

コメルス・サンタンドレ小路
http://sumus.exblog.jp/20688139/

ところが先日、この記事を読んでくださった方がパリでクール・デュ・コメルス・サンタンドレ(Cour du Commerce-Saint-André)を歩かれた。そのときにまさにバルチュスが描いた街景を発見されたのだ。以下のようなメールを頂戴した(写真も添付されていた)。

出かけるまえに、昨年7月5日の貴ブログ《daily sumus》の「コメルス・サンタンドレ小路」を 読ませていただいていましたので、“Cour du Commerce-Saint-Andre”の入口はすぐに見つかりました。「なるほど、ここがあのバルテュスの絵の舞台なのか」とつぶやきながら、写真を数枚撮りました。

そして、この細い「中庭」をサン・ジェルマン大通り側の出口へ向かって歩きはじめました。数分後、出口のほんの少し手前のところでT字路に出くわしたのです。

このT字路を右へ曲がるとサン・ジェルマン大通りと交わる通りへ出るものと思い、曲がってみたのです。曲がって数メートル進んで振り返ってみたところ、そこはなんとあのバルテュスの絵とソックリだったのです。(添付-1)のGoogle地図に示した三角マークの方向から撮った写真が(添付-2)です。

ここは手前の通りにも屋根はありませんし、バルテュスの絵(添付-3)と見較べてみますと、右側の建物がカフェになりテラス席が道路に張り出していること、左側のレストランの吊り看板、街燈などが加わっていることなどを除けば、バルテュスが描いた当時とほとんど変わっていないことがわかります。


添付1
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添付2
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いや、これは知らなかった。昨年紹介したのは、この写真では突き当たりの左右に通っている路である。小生もパリ滞在中には何度も歩いたのだが、こちら側(正面から奥へ向かう)抜け道のような通路は通った記憶がない。少し古い地図(刊行年不詳ながら五〇年代か)を見ると、左右の通りがパッサージュ・コメルス・サンタンドレとなっている。ということは言うまでもなく絵の方も正面に向かって左右に通っている路がコメルス・サンタンドレ小路である。絵柄からしてなんとなく手前から奥へ通じている路かなと思っていたため(以前のブログにもそう書いているが)、ぴったりくる街景に出会わなかったのだ。思い込みにすぎなかった。お教えくださった方に深謝したい。もし再びパリを訪れる機会が与えられれば是非ともこの路上に立ってみたいと思っている。

それにしてもバルチュスは細部までほぼ正確に建物を描写していることが分る。また改めてパリの街の姿が大きく変っていない(意識して、努力して変えていない)ことにも敬意を表したくなる。京都ももっと早くから景観保存に取り組んでおけば……。




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by sumus2013 | 2014-11-22 19:46 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

南画大体

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墨画の短冊を買った。作柄は悪くないと思う。筆は達者で素人臭くはない。ただし、そんなに古いものではないだろう。遡っても幕末、大方明治か。落款はおそらく「蠓成写」。印は「[?]徳」。誰だか分らない。

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ユニテでの個展の折、来場くださった某氏より石川淳『南画大体』(日本文化研究第二巻、新潮社、一九五九年二月一五日)を頂戴したので、このところ読みふけっていた。いかにも石川淳らしい真っすぐな迷路といった趣の文体によって日本南画、特に大雅と蕪村についてやや饒舌に語られている。

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そもそも石川淳は池大雅によって南画に目を啓かれた。

《わたしが大雅の画からはじめてつよい感動を受けたのは、たしか昭和十年ごろか、上野表慶館の屏風展覧に於て、山水楼閣図六曲一双を見たときであった。そのときまで、わたしは南画一般についてわるい概念をもっていた。いつのまにか、わたしのうちに南画観のできあがったものがあって、見えるかも知れぬ目筋までそのためにふさがれていたようであった。それというのも、今かえりみれば、わたしは幼少のみぎりから祖父の居室にぶらさがった南画のたぐいを見なれてはいたが、ちとの文晁をのそいては、その多くが春木南岳【誤植? 春木南溟か】とか山本梅逸とかいう三流の材料であったせいだろう。もっとも、文学のほうにもマイナーポエトというものはある。三流、かならずしもこれをきらわない。とくに南画の流では、マイナーポエトと目されるものの中にも、たとえば立原杏所のようなものになると、これはどうか。まんざらでもないだろう。これを壁に展べれば、ぴんとした気合である。

石川淳の祖父は当たり前ながら二人いる。おそらくここで言うのは省斎こと石川釻太郎(きゅうたろう)であろう。幕臣・御家人で儒学、和学に長けていた。維新後は官職に就かず漢詩集を編集したり寺子屋のようなことをやっていたそうだ(渡辺喜一郎『石川淳傳説』)。上の文章に続けて石川は山水楼閣図の鑑賞についてこのように説いている。

《ひとは大雅の世界観から幸福感というみやげをもらうことになる。ところで、このあたたかいみやげの折詰はただではもらえない。ここは元来詩書画三絶の境である。もしかすると、琴棋もまじっているかも知れない。したがって、この境に招待されるほうの身にしても、早判りの解説という観光バスに便乗する代りに、すこしは自分の足に灸をすえて、てくてくあるいて参上するだけの義理はあるだろう。すなわち、いくぶん身銭を切って、詩書画のにおいぐらい嗅ぎわけるような鼻は平常からやしなっておかなくてはなるまい。しかし、これではどうもはなしがちがう。せっかくただの画と見て、線と色とに還元してながめていたところに、ここで詩書なんぞという余計ものに割りこんで来られたのでは、鑑賞上ちと約束がちがうではないか。いかにも、そのとおり。南画というものは所詮こういうものである。やむをえざる仕儀と合点するほかない。

こいう文章を「真っすぐな迷路」と思う次第。

大雅と言えば、平成二十五年に閉館した池大雅美術館のコレクションが京都文化博物館へ寄贈された。それを記念した展覧会が十一月八日から始まる。これは久々の大雅から幸福感というみやげをもらうチャンスであろう。

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by sumus2013 | 2014-10-15 20:20 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)