林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:雲遅空想美術館( 135 )

雪中叭々鳥図

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詩人・評論家の竹内勝太郎(1894-1935)が富士正晴の師匠だったわけだが、竹内の親しい友人(彼らは「心友」と呼んでいた、親友よりももっと深いつながりがある関係だとか)に昨日の船川未乾と未乾の葬儀委員長を務めた榊原紫峰がいた。

二十歳の富士は昭和八年の十一月から榊原家の家庭教師になり、頻繁に紫峰宅に出入りするようになった。当時の紫峰宅は京都市左京区岡崎町宮の脇にあったそうだが、それは現在の東天王町交差点(丸太町通りと白川通の交わるところ)東南角にある「つる家」の真向かいだったそうだ(真向かいというのは北側?)。

この「左京区岡崎町宮の脇」という住所は島田康寛編年譜によるもの。ただこの地名にはやや疑問が残る。というのは明治二十一年にその辺りは上京区岡崎町となっており(旧・愛宕郡岡崎村)、榊原紫峰がその地へ転居した大正七年に「岡崎」という冠称が廃止された。そして左京区に編入されるのは昭和四年である(以上ウィキ「京都市左京区の町名」参照)。

上の絵は昭和七年作の榊原紫峰「雪中叭々鳥図」。紫峰は動物とくに鳥類を好んで描いた。富士正晴が絵を描くことの基本的な態度を学んだのはその紫峰からであったと思われる。富士の親友だった野間宏は当時の富士を回想してこのように書いている。

《この紫峰の日本画、中国画、洋画、彫刻、装飾、一切を自分のものとして、全生命をあげて画に向かう姿は、その時、彼の眼中に住みついたにちがいない》(「富士正晴の出発」)

野間のいう《彼の眼中に住みついた》はなかなか含蓄のある言い回しだ。

竹内勝太郎は昭和十年に黒部峡谷から転落して死亡、まだ四十一歳だった。富士は竹内の仕事を残すことに生涯をかける。遺稿集を何冊かの単行本にまとめたなかに『詩論』(石書房、一九四三年)があるが、その装幀は富士正晴が手がけている。その表紙がこれ。

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彼の眼中に住みついた》榊原紫峰の「雪中叭々鳥図」が富士流に表現されたものと小生は見たい。「雪中叭々鳥図」を紫峰は何点も描いているのでアトリエで目にした可能性は大いにある。この換骨奪胎こそが富士正晴の真骨頂だろう。そういう観点からすると、ここに描かれている黒い鳥はカラスではなくハッカチョウ(八哥鳥)なのではないだろうか? ま、仮にそうでないとしても紫峰の絵との関連は否定できないように思う。

八哥鳥あるいは叭々鳥(ははちょう)はムクドリ科ハッカチョウ属に分類される鳥で中国大陸南部から台湾、ベトナム、ミャンマー辺りに分布する。西日本、南日本へも飛来し、繁殖した例もあるそうだ。南国の鳥である。そういう意味からすると紫峰の雪中に叭々鳥という設定はどうかなと思わないでもない。

ただ中国では古くから画題として取り上げられているし、中国絵画への追従に終始した江戸絵画にも少なくない作例があるようだ。紫峰はそういう古典に倣ったのだろうかとも思う。叭々鳥についてはもう少し書きたいことがあるが、本日はここまで。

以上の話題も含め、明日のレクチャーでは富士正晴の絵画をあれこれと読み解こうと思っております。ご来場お待ち致しております。



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by sumus2013 | 2016-02-19 20:55 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

未乾の一生

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富士正晴の絵について話をするために榊原紫峰を調べていると船川未乾が登場した。富士正晴『榊原紫峰』(朝日新聞社、一九八五年)に竹内勝太郎と親友だった船川未乾の履歴が載っていたのである。船川については他にあまり情報がないのでここでその要点だけを引用しておく。

上の絵は『PANTHÉON VI』(第一書房、一九二八年四月三日)、船川未乾の特集号より。いずれの図版にも題名はない。

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《船川未乾は本名貞之輔〔貞之助〕、明治十九年〔紫峰より一つ上〕京都市宇治〔京都室町頭〕に旧宮侍の家の〔堂上公卿日野家の家老船川仲(なかつかさ)〕、生まれて間もなく一家をあげて東上。東京太平洋画会に学び、後〔大正三年〕、京都に帰ってからは南禅寺北ノ坊町に居を構えた。》

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・大正四年五月、寺町竹屋町の佐々木文具店楼上で小さな個展を開く(船川貞之輔展覧会)。大正四年、京都大学学生会館にて個展。

・すしやのいづうの娘咲子と結婚。知恩院山内樹昌庵に住む。

・大正五年七月の大阪毎日新聞の「画堂の人」に談話が載る。

・大正六年、ロシヤ行きのために「船川未乾油絵会」を計画したが旅費は調達できなかった。

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・第二回個人展を京都帝大学生集会所で開く。深田康算、朝永三十郎らが後援。このころ同志社大学教授園頼三との交友が始まった。詩画集『自己陶酔』(大正八年)、『蒼空』(大正九年)出る。尾関岩二と知り合う。

・大正十一年、京都商業会議所にて個展。

・大正十一年咲子夫人と渡仏。アンドレ・ロートに学び、ピカソ、ブラック、ブラマンク、ビッシェール、ジムミー等と交遊。ブラックの影響を強く受けて大正十二年に帰国。以後静物画に専念した。鹿ヶ谷法然院の西にアトリエを建てる。

・昭和二年、東京丸善にて個展。第一書房主・長谷川巳之吉の知遇を得る。

・昭和三年、大阪丸善にて個展。

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・装幀では、尾関岩二『お話しのなる樹』(創元社、一九二七年)、園頼三『怪奇美の誕生』(創元社、一九二七年)、関口次郎『からす』(創元社、一九二七年)、竹内勝太郎『室内』(創元社、一九二八年)など。

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・フランスから将来したエッチング機械による創作版画に新機軸を生み、尾関岩二との協同による『イソップ画集』百枚を企画したが、数枚を制作しただけで宿病のために斃れた。

・昭和五年四月九日午後七時死亡。十二日、自宅画室にて告別式、花山火葬場にて火葬。葬儀は榊原紫峰を葬儀委員長として盛大に営まれ戒名「龍光院未乾昭道居士」として百万遍墓地の一角に納められた。

・船川の作品は矢部良策。伊藤長造、伊藤熊三、薄田泣菫らが所蔵。北白川宮家に大作が買い上げられた。

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以上は昭和四十一年、未乾の墓を京都市左京区百万遍養源院に建立するための趣意書および竹内勝太郎の書いた未乾論「静物讃」などから富士がまとめたものをさらに短く引用した。

竹内勝太郎は未乾の歿後、その遺言に従って回顧展の開催と画集の発行を企てたが、いずれも実現しなかった。それについて富士はこのように書いている。

《ここまで読んでくれば、未乾には彼の画業を大いに認めている学者、文学者、出版者、その他の本気の知人友人が多く、その画集出版や画展が行われることも時日の問題にすぎぬと思われて当然である。しかし、これらの好条件と思われることが揃っているにもかかわらず、彼の死後現在まで(一九三〇〜一九八四)五十四年たつというのに、遂に画集は出ず、回顧展も一回も行われずにきた。》

《どうも未乾を知っている人で今生きている人は第一書房の長谷川巳之吉、英文学者寿岳文章の二方ぐらいしかわたしには思い当たらない。関口次郎[戯曲家、朝日新聞記者]もすでにいないわけで、未乾の画集、回顧展が不発に終っている理由が疑問であるという外ない。》

《未乾未亡人が友人らを疑って、作品をかくしてしまい、行方をくらましたのだという噂、未乾の家を売ってしまうためにうろうろしていたという港井清七朗[未乾の甥]の手紙、実は獅子文六と同棲していたのだが、まだ公にするわけにはゆかぬがねという関口次郎よりの手紙。とにかく、墓の除幕式の時の未亡人は坂崎咲子であったという。芸術まで葬ったか。》

もうこうなったら後は星野画廊さんのような人を待つしかないか……

船川未乾「南仏風景」


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by sumus2013 | 2016-02-18 20:24 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

おたふくの豆まき

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久しぶりで覗いた尚学堂書店で求めた豆まきの色紙。状態は良くないが、絵は手慣れた筆致だ。「昭和庚午(かのえうま)春」というのは昭和五年。署名は「環山写之」、印は「環山」。ざっと検索した限りでは村瀬環山か。明治十五年生、森寛斎に師事、円山派の絵師。京に住んでいた。

緋色の着物に松の模様の打ち掛け、めでためでたというところ。顔立ちからして「おたふく」であろう。お多福というのは「おかめ」の面のことだそうだ。狂言では「乙御前(おとごぜ)」「乙(おと)」と呼ぶ。「おと」は弟あるいは妹のこと、または末子。「おたふく」の「おた」は「おと」の訛とも。

なお尚学堂書店のご主人は今年の初めに亡くなられたそうだ。ご冥福をお祈りしたい。夫人とお嬢さんが営業を続けて行かれるという。ひと安心である。

交遊録

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by sumus2013 | 2016-02-03 20:52 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

蝸牛廬句會

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昨年末に求めていたのだが、正月に紹介しそびれてしまった短冊。柿衞文庫(かきもりぶんこ)で俳画の展覧会が開かれるという案内を頂戴して思い出した。

 残る燈の町見下すや初詣  炭翁

状態もいいし、もちろん筆もよろしい。炭翁とは誰か? 林田安平(1873-1955)、本名松三郎、炭翁。鎌垣春岡に師事し漢詩人としても名を成した。池田史談会、同郷土史学会を設立。池田町長。書斎号を蝸牛廬文庫。林田家は炭商を業とし「群雀」という銘柄で酒造業にも携わっていたと言われ幕末にもっとも栄えたそうだ。

蝸牛廬文庫の成立


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短冊の裏面には「昭和八年一月」という記述の下に「蝸牛廬句會」の印がある。この印も洒落ている。

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by sumus2013 | 2016-01-23 21:02 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

M!DOR!

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M!DOR! さんのコラージュ葉書などが届いた。「書架彷徨展」に出品しておられ、初めてお名前を知ったのだが素晴らしいコラージュ作家である。プレヴェールやシュビッタースはもとよりたいていのコラージュが好きなので(いちおう自分でも制作しております)このブログでもできるだけ取り上げるようにしている。新春早々いい作品を見せてもらった。いずれ現物を拝見したいもの。


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***



コラージュと言えば「第32回銀座古書の市」の目録に佐野繁次郎のコラージュが出品されていた(えびな書店)。これは書架(えびな書店目録)に載っていたのだろうか? 記憶が定かではないが(さいきんボケてますから)、同じページの古茂田守介は掲載されたことがあると思う。

パリ好きの佐野はコラージュとは言わずたいてい「パピエ・コレ」と言う。今更ながらであるが念のために書いておくと「糊張りする」という意味の動詞コレー(coller)の名詞形がコラージュ。パピエ・コレは文字通りには「糊張りされた紙」でコラージュのことも指す。コレはコレーの過去分詞。エルンストらのシュルレアリストが作品としてこの分野を確立した。

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by sumus2013 | 2016-01-07 21:18 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

ハヌマン

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昨秋、衝動買いしてしまったジャワの影絵芝居の人形。買ったときにはこれが何の人形なのか気にもしていなかったが、調べてみるとどうもラーマヤーナに登場する猿族の戦士ハヌマンらしい。そんなに手のこんだ作ではないにしても申年にちなんでこれは都合がよろしい。

ジャワにはワヤンと呼ばれる演劇が幾通りかある。影絵芝居のワヤン・プルワとワヤン・ゲドッグ。人形劇のワヤン・クリティックとワヤン・ゴレック。仮面劇のワヤン・トッペンと仮面を用いないワヤン・ウオン。絵芝居のワヤン・ベベル……。

ワヤンは「影」から転じて「演劇」を意味するようになった。要するに影絵芝居が芝居のオリジンということである。最古の形がワヤン・プルワ(物のはじまり)で遅くとも十一世紀には完成の域に達していたそうだ。

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《ワヤン・プルワに用いられる人形は水牛の皮で作ったもので》《まず水牛の皮を太陽でよくかわかし、かわききったら摩擦して、表面の毛を取りのぞく。それから砥石でこすって平らにし、丸竹で磨いて、さらにルンプラスという木の葉で仕上げをおこなう。

 こうして皮ができ上ると、人形の下絵をその上において、針で輪郭をたどり、素描きができたところで、下絵をとり去って、小刀でさらに針のあとをなぞる。素描きは、これでいっそうはっきりしたものになり、小刀で輪郭の線を切っていくと、人形のかたちが切りとられる。

 つぎには、ノミで、目、口、鼻、耳、頭髪、冠から、衣裳の細かい部分を彫っていき、その入念な細工が終ったところで彩色し、金箔をつける。

 腕と手は別に作られ、肩と肘と手首の三ヶ所を骨の釘や皮ひもでとめて、自由に関節が動くようにする。
それを動かすためには、手首のところに水牛の角や竹でつくった小さな棒をつけ、その棒によって操作する。

 一方、人形のからだを支えるために、水牛の角または竹でつくった心棒が、頭や冠の先から足にかけて、まがりくねりながら縦に通され、その下端にはさらに伸びて、人形つかいの握る胴ぐしとなっている。

 ワヤン・プルワの人形は一組百数十個から成り、それらがランプの光で白い幕の上に投影されると、その映像には、人形の薄い皮にいろどられた色彩がほのかに浮かび出し、夢幻的な効果をいっそう高めることになる。》(「ジャワの影絵芝居」光吉夏弥)

具体的な上演の様子はネット上にいろいろ出ているので参照のほどを。例えば下記ブログ。

西岡美緒によるジャワ舞踊・ガムランのブログ


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by sumus2013 | 2016-01-02 10:00 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

モランディ

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兵庫県立美術館へ。「ジョルジョ・モランディ 終りなき変奏」を見る。東北震災のために中止になったモランディ展よりは少しばかり規模が小さくなってしまったようだが、それはそれとしてこれくらいの数(約百点)のモランディ作品に接することが出来る機会は日本では滅多にない(大規模な回顧展は三度目)。

『ジョルジョ・モランディ』(フォイル、二〇一一年)

Morandi 1890-1964

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兵庫県立美術館は寂しい雰囲気だった。妙に疲れる美術館だ。その分ゆっくり見られたのでよしとする。

しばらく実作を見ていなかったせいもあって、その色彩がじつに繊細だったことを再認識した。画集などの印刷物を通してモランディの絵を見たつもりになっているとそれは大間違い。印刷はどうしても色が強くなるから(今回のカタログはとくにどぎつい)どうしてもモランディの本質から離れてしまうだろう。印刷の方が良く見える絵ももちろんある。モランディはそうじゃない。

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もうひとつ注目したのは額縁。ごっつい立派な額縁に入っている作品もあったけれども(日本の国際美術館の所蔵品など)、簡素なガラスも入っていないような渋い額縁が目立った。それがよくモランディに似合っていた。モランディの絵は額なしでも生きるし、クラシックな額縁にも違和感なく溶け込む。

水彩画額のマットのようなやや幅広い枠に入っている作品が何点かあった。これは真似できるなと思ってスケッチしておいた(上の図はそれとは別の額縁です)。

帰途、阪神電車の岩屋から乗って武庫川下車。言うまでもなく街の草詣で。例によって本の山を引っ掻き回して満足。案に違わずいくつか収穫あり。これがたぶん買い納め……。



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by sumus2013 | 2015-12-24 20:48 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

写真だけ!

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ラ・ユヌでのエリオット・アーウィット展へ足を運ぶ。先日、閉店の報道を引用したのだが、どうやら写真専門のギャラリー(および書店)としてやっていくようだ。


LA PHOTOGRAPHIE,
TOUTE LA PHOTOGRAPHIE,
RIEN QUE LA PHOTOGRAPHIE

写真、すべての写真、写真しかない

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一階は入ってすぐ左手の部屋が写真集のみの展示コーナー、右手は写真のパネルやマットに入ったプリントを販売している。価格帯は数百ユーロから。二階がギャラリー。壁は白、床は淡い木目色、天井はグレー。真黒のカーテンが空間を引き締める。さすがと言うしかない。白木の額縁がまた空間によく合っている(写真に合っているかどうかは微妙)。

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アーウィット展が写真ギャラリーとしてはこけら落としということになる。モンローをはじめとしたセレブリティを撮った作品から、子どもやファミリー、風景など、二十数点だったと思うが、アーウィットの才知と限界がよく見える内容だ。価格は最高が6500ユーロ。お手頃な値段……かな?

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店番のお姉さんと若者がけっこう愛想がよかったのは好感触。こちらは労働者の風体をしているので、ギャラリーでは冷たくあしらわれがちながら(そうでなくてもパリの店員は無愛想だ)入る時も出る時もちゃんと挨拶をしてくれた。これで印象はまったく違う。いくらパリでもこれからはそうあって欲しい。

残念なこと。ラ・ユヌから出てボナパルト通りをセーヌ河の方へ歩く。美術学校を過ぎ、狭き門書店(La Porte Etroite)のところまできて、ビックリぽん。「BAIL À CÉDER(賃貸権譲渡)」の張紙が! 理由は引退のため。店は閉まっていたが、中はまだ本が整然と並べられたまま。電話をすれば店主が出てきてくれるようだ。この書店が消えるのはあまりに寂しい……

「ラ・ポルト・エトロワット書店」

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by sumus2013 | 2015-10-28 03:29 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

30年代美術館

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パリ郊外のブーローニュ・ビランクール(BOULOGNE-BILLANCOURT)にある一九三〇年代美術館(Musée des Années Trente)を訪ねる。ランドウスキー・センター(L'Espace Landowski)という、美術館の他に映画館、図書館などの入る文化施設の一角にある。ランドウスキー(1875-1961)はブーローニュ・ビランクールにアトリエを構えていたヒューマニストの彫刻家である。数々のモニュメントを制作しているが、たぶん最も知られているのはリオデジャネイロの両手を広げるキリスト像。

パリ西南郊にあるこの地域には二十世紀の初め頃から多くの芸術家が住み着いていたという。この美術館はそういう画家や彫刻家たちの作品を中心に蒐集しているようだ。とくに著名な人物はいない。珍しいと思ったのは絵本作家ブーテ・ド・モンベルの油絵、他にはタマラ・ド・レンピッカ、モーリス・ドニあたりが有名どころ。ほとんどの絵も彫刻も知らない作家ばかり(小生が無知なだけかもしれないが)。ある意味、フランス近現代美術史のもうひとつの側面がうかがえる非常に新鮮なコレクションだとも言える(こういう姿勢は日本の地方美術館ももっと見習ってもらいたいもの)。

またいわゆる美術作品とは別に建築、家具、銀食器などやはりアールデコの影響下にある装飾美術作品も幅広く集め、三〇年代に限らず戦後にいたるまでの工業製品(フランスだけでなく外国のデザイナーの作品も収蔵)を蒐集展示しているのもひとつの特徴となっている。日本製品ではソニーのトランジスタ・ラジオとポータブル・テレビが並んでいた。スペースとしてはやや物足りないが、このくらいの規模の方がさっと鑑賞するにはちょうどいいかもしれない(アール・ゼ・メティエの工業博物館は広過ぎて…)

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面白かったのは常設よりも企画展示。「ブーローニュのクリーニング業」。

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ブーローニュ・ビランクールという土地には十七世紀から洗濯屋が存在しており(セーヌ河で洗濯女がじゃぶじゃぶやっていた)、十九世紀になるとパリの人口膨張、洗濯技術の工業化もあってブーローニュは一大クリーニング工場となっていったらしい。その過程を道具類から機械類、石鹸洗剤、絵画、書類、書籍、ポスターやクリーニング工場の模型、設計図などかゆいところに手の届くコレクションによって再現している。動画も各所でモニター上映。洗濯屋の文化史、このまま一冊のヴィジュアル本になるだろう。一昨年見た連続殺人犯ランドリュ展も興味深かったが、それ以来の目からウロコの展覧会。

ランドリュって誰?

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by sumus2013 | 2015-10-22 03:10 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

骨まで愛して

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パリの植物園(Jardin des Plantes)のなかにある古生物学比較解剖学展示館を訪問した。内容等については下記サイトが詳しいので参照されたし。当方はただただ写真を撮っただけ。

パリ自然史博物館・古生物学比較解剖学展示館

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一階が現存する動物の骨格および解剖模型などの展示。二階が古代生物の化石など。三階は小型の化石類がずらりとショーケースに入っている。標本は細部を見るとやや雑な接着だし、説明も旧態然として観客に親切な展示とは言い難いのだが、建物といい、そのレイアウトといい、インスタレーションというか、ひとつのアート作品のような感じを受ける。自然科学にさほど興味がなくとも一見の価値ありだ。

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by sumus2013 | 2015-10-16 00:07 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)