林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
カテゴリ
全体
古書日録
もよおしいろいろ
おすすめ本棚
画家=林哲夫
装幀=林哲夫
文筆=林哲夫
喫茶店の時代
うどん県あれこれ
雲遅空想美術館
コレクション
おととこゑ
巴里アンフェール
関西の出版社
彷書月刊総目次
未分類
以前の記事
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
お気に入りブログ
NabeQuest(na...
daily-sumus
Madame100gの不...
最新のコメント
「本は宝だ」とある古本屋..
by sumus2013 at 19:31
売れない本はゴミとして処..
by epokhe at 16:01
次作の京都編がいよいよ楽..
by sumus2013 at 11:34
拙著、ご紹介いただき有難..
by manrayist at 09:19
全く幼稚な感想でお恥ずか..
by sumus2013 at 08:06
『新訳ステファヌ・マラル..
by monsieurk at 22:06
それは惜しいことを。貴重..
by sumus2013 at 08:07
先日、宮崎翁にお会いした..
by kinji今村 at 22:15
よかったです!
by sumus2013 at 07:58
小生も一度お伺いしようと..
by sumus2013 at 08:00
メモ帳
最新のトラックバック
天才画家ゴッホの生涯と画..
from dezire_photo &..
ルーベンスの故郷、ヨーロ..
from dezire_photo &..
シャガール、ピカソ、マテ..
from dezire_photo &..
ポン=タヴァン派、総合主..
from dezire_photo &..
視聴率に関係なく選んだ2..
from dezire_photo &..
宝石のような輝をもった印..
from dezire_photo &..
ルネサンス美術の巨匠・ピ..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
既成概念から絵画の解放に..
from dezire_photo &..
過去に来日した傑作を回顧..
from dezire_photo &..
検索
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


カテゴリ:雲遅空想美術館( 111 )

空海

f0307792_20180331.jpg


f0307792_20180255.jpg


f0307792_20175420.jpg
弘法大師の小さな木像を入手した。高さ93ミリ。塗りは漆のような気もするが、専門ではないのでよく分らない。手に持つ法具は失われている(右手に五鈷杵、左手に数珠)。台座には「立」?と墨書。おそらくかつては厨子に収められていただろう。ただこの汚れ方からみてかなり長い間、像だけで放置されていたようにも思われる。

弘法大師空海は讃岐国多度郡の生まれ。小生の実家も真言宗だったため小さいときから祖母に連れられて毎週のようにお寺参りのお供をした。薬師寺と千光寺というふたつの寺が贔屓(?)だった。どちらもおよそ歩いて二十分くらいの距離である。祖母は成田山にも何年かおきに参詣するほど熱心な信者だった。ところが祖母にペットのように連れられていた小生が覚えた念仏はナムダイシヘンジョウコンゴウだけだったのも情けないと言えば情けない。

薬師寺の現住職(だと思うが、最近会ってないので確かではない)は中学校の一年先輩で同じバレーボール部だった(というか入学時に薬師寺の先輩にスカウトされたのである)。高野山で修行した裏話を、もうかなり前に連絡船の中でバッタリ出会ったときに聞いた思い出がある。薬師寺には本堂を半周する地下洞窟が掘られていた。人一人がやっと通れるくらいの幅の通路にはスノコ板が敷かれ、途中に何箇所か祠堂のようなものがあってそこを順番に参詣する。蠟燭の光だけがたよりの薄暗い通路を祖母の後ろからついていくのが、ほんとに怖かった。あのひんやりとした湿っぽい岩の質感が今でも体にしみついている。

千光寺は保育園を経営しており、小生も二年間通わされた。千光寺(真言宗御室派、仁和寺が本山)は実家の檀那寺でもあり祖母も父母も現住職に送ってもらった。昨年は何十年かぶりで千光寺を訪問したが、建物はさほど変っていないようだったものの、とくに幼少時の記憶が甦ってくるということはなかった。お昼寝の時間が嫌いで『キンダーブック』が楽しみだった。

そういう昔ながらの風土に育ったわりには、根っからの不信心者だから信仰としての宗教には何宗であれ興味はない。ただ、思想としての宗教には多少のひっかかりを覚える。密教というのはインド仏教のなかでは最も新しい形態だった。そのため元来のブッダの思想からはかなり隔たった場所に到達してしまっているようでもある。中国へ入った密教がアヴァンギャルドだった時代、空海はそっくりそのまま密教を輸入して日本の宗教界(というよりも思想界か)にブランニューな一派を立てた。それはたちまち貴族階級を虜にした。そういう階級にアピールするゴージャスさ(あの豪勢な曼荼羅図を思い浮かべるだけでよろしい)を密教は持っていたのである。

この小さな弘法大師像を入手した次の日だったか、某書店の均一台に並んでいた上山春平『空海』(朝日新聞社、一九八一年九月三〇日)を買い求めた。司馬遼太郎の空海は読んでいたが、あれは小説。論文ふうの伝記が読めるかどうか危ぶんだ。しかしさすがに上山春平、じつに明快で俊才の走り過ぎ気味の筆がきわめて面白く、空海とその時代に改めて興味を掻き立てられた。空海そのものを読んでみたいと思っているところ。その『空海』の内容については明日。





[PR]
by sumus2013 | 2015-02-21 21:39 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

松阪帰庵

f0307792_20243227.jpg

松阪帰庵の一行書「長江鴨洗頭」。昨年入手していたもの。この文言は明代臨済宗の僧『象崖珽禪師語錄』の第三巻にある問答から(ただし他にも用例はあるようだ)。

四方八面來時如何。
霧裏龍生角長江鴨洗頭自有藏身處堪笑不堪愁。

四方八方からやって来たときはどうする? 龍は霧の中、鴨は長江の水、だれにでも身を置くところはある、心配無用……というような解釈でいいのだろうか。

帰庵は明治二十五年岡山の美作町生まれの僧侶。昭和五年に父旭宥の後を継いで岡山市三野法界院住職となっている。昭和三十四年に歿するまで法務のかたわら書を学び、書を楽しみ、歌を作り絵も数々描き残した。「いま良寛」と呼ばれたという。

たまたま古本屋の反故箱から拾い上げた「今様良寛帰庵和尚遺墨展」のパンフレット(東京日本橋三越本店、一九七一年、観音折り一枚)を見て初めて名前を知ったのだが、ここに載っている秦秀雄の一文によれば『季刊銀花』一九七〇年春号に秦が紹介記事を書いてから有名になったらしい。

f0307792_20410238.jpg

f0307792_20410476.jpg

秦は昭和四十四年正月初めて帰庵を知った。のびやかな書風に惹きつけられ、早速岡山を旅して和尚の墨跡を尋ね歩き、その生涯について取材した。

《色衣を着ない。錦襴の袈裟をまとはない。いつも白衣に手染めの木綿の黒衣をつけ、三日に一度剃髪する。五十四年肉食妻帯しなかった。蚤や蚊をさへ殺生しなかった。この戒律僧が唯一の道楽趣味は習字と篆刻と自然田園の写生と歌作であった。それがどうした事か、終戦の年すゝめに従い結婚した。肉食さへ時に口にし酒さへもたまさか人にすゝめられゝば楮口に三ばいを口にした。外見の堕落。この外相を見て世評は今良寛と崇めていた清僧に厳しい批判をあびせかけた。
 
 しかし多年の戒律をゆるめたのは意固地に自分という人間を人間らしい人間への解放ではなかったか。世人らしい世人、凡俗の暮し、その平凡な暮しの中にこそ仏道が密着して生きる道があると感づいたのは和尚にとって肌で感じた仏教の真髄の開眼ではなかったか。何事も無理をしない。この暮し方、生き方が多年の自分を戒めた戒律僧故にひとしほ感じいったことだろうと想像する。

 この清僧から真僧への開眼開放が和尚の書にあらわれだしたのは和尚結婚後の事である。書家らしい上手な書風は一変してつゝましやかな書が豪放磊落な自由奔放の姿、形をとゝのえて来た。

豪放磊落、自由奔放……どちらも少し違うと思うが、帰庵の生涯には興味深いものがある。心境の変化については敗戦が何らかの打撃を帰庵に与えたのかもしれないと思ったりもする。

同じくパンフレットに収録されている富岡大二「帰庵さんの歌」から何首か引いておく。文字遣いは原文のまま。繰り返し記号は繰り返しに改めた。


 筆のさが かたくななれば わがさがを
    ふでにあわせて かゝざらめやも


 きみをおもい わがといくれば きみもまた
    われをおもいて ゐるところなり


 からばやと おもいしくさの あおあおと
    のびたるをまた うつくしとみつ


 きのかげの すゞしきもあり とにかくに
    ひとのこの世は たのしからずや


帰庵の作品は割合に数多く出回っているようだ。よって、そう高価ではない。もう数点欲しいところ。

[PR]
by sumus2013 | 2015-02-02 20:36 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

夜雪庵金羅

f0307792_19583224.jpg
f0307792_19583076.jpg

このところ毎日この俳句を眺めて苦悩している。署名は「夜雪」印は「金羅」、それはいいとして、上五からどう読んでいいのか分らない。「□□に(丹)」だろうか。中七は…ね(?)、り(?)、き、る(?)、空、や(?、の?)。下五は「遠蛙(とほかはつ)」と思うのだが。ならば季は春となる。御教示を乞う。

近藤金羅(天保元 1830〜明治二十七 1894)。江戸湯島の生まれ。三世金羅に学び、夜雪庵金羅四世を継いだ。名は栄治郎、別号に三万堂、珍斎其成。正岡子規以前に「俳句」という言葉を使い始めた宗匠だと言う。

夜雪庵金羅(四世)



[PR]
by sumus2013 | 2014-12-24 20:23 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

中国の古画

f0307792_20123294.jpg


昨日、絵画などは除外すると書いたが、ことさらに除外すると言うほど買ったわけではないし、買えるはずもない。それでも隙間を狙って保存状態の良くない無名(銘)の半端もの(結局は本と同じような基準です)をいくつか求めた。そのなかで少しましなのがこちら。絹布に描かれているが、ご覧のように傷だらけ。おそらく本来は屏風か何かもっと大きな作品だったのだろうが、いつしかバラされてこのような軸物に仕立てられてしまったようだ。その表具がまた安っぽい。

f0307792_19574985.jpg

士大夫が酒肴(かとも思ったが、あるいは陶磁器の自慢の品々かもしれない)の配されたテーブルを前にして寛いでいる。目前の早咲きの梅に寄って来る小鳥をものうげに眺めながら。彼が体を預けている四角い物体は肘掛け椅子とも思えないのだが、ひょっとして本か(まさか?)。築山と言い人工の水路と言い展望楼と言い、ひとかどの人物であろう。前景に立っている紳士はおそらく招かれた客人。琴を童に運ばせている。客が視線を投げている左の遠景に何か重要なモチーフがあったのかもしれない。

f0307792_20123044.jpg


時代はそれなりにあるだろうが、比較するための知識がないので判然としない。とりあえず、けっこう古いぞ、と思っておこう。超一流の画師でないにしても雅味のある筆遣いはなかなかのもの。これが新刊の単行本二冊くらいの値段なのだから嬉しい買物である。


[PR]
by sumus2013 | 2014-12-14 20:45 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

バルチュスの視線

f0307792_19202129.jpg


バルチュスの「コメルス・サンタンドレ小路」を昨年の七月に取り上げてそのモチーフとなっているであろう街景を数枚の写真で紹介した。

コメルス・サンタンドレ小路
http://sumus.exblog.jp/20688139/

ところが先日、この記事を読んでくださった方がパリでクール・デュ・コメルス・サンタンドレ(Cour du Commerce-Saint-André)を歩かれた。そのときにまさにバルチュスが描いた街景を発見されたのだ。以下のようなメールを頂戴した(写真も添付されていた)。

出かけるまえに、昨年7月5日の貴ブログ《daily sumus》の「コメルス・サンタンドレ小路」を 読ませていただいていましたので、“Cour du Commerce-Saint-Andre”の入口はすぐに見つかりました。「なるほど、ここがあのバルテュスの絵の舞台なのか」とつぶやきながら、写真を数枚撮りました。

そして、この細い「中庭」をサン・ジェルマン大通り側の出口へ向かって歩きはじめました。数分後、出口のほんの少し手前のところでT字路に出くわしたのです。

このT字路を右へ曲がるとサン・ジェルマン大通りと交わる通りへ出るものと思い、曲がってみたのです。曲がって数メートル進んで振り返ってみたところ、そこはなんとあのバルテュスの絵とソックリだったのです。(添付-1)のGoogle地図に示した三角マークの方向から撮った写真が(添付-2)です。

ここは手前の通りにも屋根はありませんし、バルテュスの絵(添付-3)と見較べてみますと、右側の建物がカフェになりテラス席が道路に張り出していること、左側のレストランの吊り看板、街燈などが加わっていることなどを除けば、バルテュスが描いた当時とほとんど変わっていないことがわかります。


添付1
f0307792_19212319.jpg


添付2
f0307792_19212156.jpg

いや、これは知らなかった。昨年紹介したのは、この写真では突き当たりの左右に通っている路である。小生もパリ滞在中には何度も歩いたのだが、こちら側(正面から奥へ向かう)抜け道のような通路は通った記憶がない。少し古い地図(刊行年不詳ながら五〇年代か)を見ると、左右の通りがパッサージュ・コメルス・サンタンドレとなっている。ということは言うまでもなく絵の方も正面に向かって左右に通っている路がコメルス・サンタンドレ小路である。絵柄からしてなんとなく手前から奥へ通じている路かなと思っていたため(以前のブログにもそう書いているが)、ぴったりくる街景に出会わなかったのだ。思い込みにすぎなかった。お教えくださった方に深謝したい。もし再びパリを訪れる機会が与えられれば是非ともこの路上に立ってみたいと思っている。

それにしてもバルチュスは細部までほぼ正確に建物を描写していることが分る。また改めてパリの街の姿が大きく変っていない(意識して、努力して変えていない)ことにも敬意を表したくなる。京都ももっと早くから景観保存に取り組んでおけば……。




[PR]
by sumus2013 | 2014-11-22 19:46 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

南画大体

f0307792_19195551.jpg


墨画の短冊を買った。作柄は悪くないと思う。筆は達者で素人臭くはない。ただし、そんなに古いものではないだろう。遡っても幕末、大方明治か。落款はおそらく「蠓成写」。印は「[?]徳」。誰だか分らない。

f0307792_19195723.jpg


ユニテでの個展の折、来場くださった某氏より石川淳『南画大体』(日本文化研究第二巻、新潮社、一九五九年二月一五日)を頂戴したので、このところ読みふけっていた。いかにも石川淳らしい真っすぐな迷路といった趣の文体によって日本南画、特に大雅と蕪村についてやや饒舌に語られている。

f0307792_19195820.jpg


そもそも石川淳は池大雅によって南画に目を啓かれた。

《わたしが大雅の画からはじめてつよい感動を受けたのは、たしか昭和十年ごろか、上野表慶館の屏風展覧に於て、山水楼閣図六曲一双を見たときであった。そのときまで、わたしは南画一般についてわるい概念をもっていた。いつのまにか、わたしのうちに南画観のできあがったものがあって、見えるかも知れぬ目筋までそのためにふさがれていたようであった。それというのも、今かえりみれば、わたしは幼少のみぎりから祖父の居室にぶらさがった南画のたぐいを見なれてはいたが、ちとの文晁をのそいては、その多くが春木南岳【誤植? 春木南溟か】とか山本梅逸とかいう三流の材料であったせいだろう。もっとも、文学のほうにもマイナーポエトというものはある。三流、かならずしもこれをきらわない。とくに南画の流では、マイナーポエトと目されるものの中にも、たとえば立原杏所のようなものになると、これはどうか。まんざらでもないだろう。これを壁に展べれば、ぴんとした気合である。

石川淳の祖父は当たり前ながら二人いる。おそらくここで言うのは省斎こと石川釻太郎(きゅうたろう)であろう。幕臣・御家人で儒学、和学に長けていた。維新後は官職に就かず漢詩集を編集したり寺子屋のようなことをやっていたそうだ(渡辺喜一郎『石川淳傳説』)。上の文章に続けて石川は山水楼閣図の鑑賞についてこのように説いている。

《ひとは大雅の世界観から幸福感というみやげをもらうことになる。ところで、このあたたかいみやげの折詰はただではもらえない。ここは元来詩書画三絶の境である。もしかすると、琴棋もまじっているかも知れない。したがって、この境に招待されるほうの身にしても、早判りの解説という観光バスに便乗する代りに、すこしは自分の足に灸をすえて、てくてくあるいて参上するだけの義理はあるだろう。すなわち、いくぶん身銭を切って、詩書画のにおいぐらい嗅ぎわけるような鼻は平常からやしなっておかなくてはなるまい。しかし、これではどうもはなしがちがう。せっかくただの画と見て、線と色とに還元してながめていたところに、ここで詩書なんぞという余計ものに割りこんで来られたのでは、鑑賞上ちと約束がちがうではないか。いかにも、そのとおり。南画というものは所詮こういうものである。やむをえざる仕儀と合点するほかない。

こいう文章を「真っすぐな迷路」と思う次第。

大雅と言えば、平成二十五年に閉館した池大雅美術館のコレクションが京都文化博物館へ寄贈された。それを記念した展覧会が十一月八日から始まる。これは久々の大雅から幸福感というみやげをもらうチャンスであろう。

f0307792_20153379.jpg







[PR]
by sumus2013 | 2014-10-15 20:20 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

華洲と瓢水

f0307792_20255761.jpg

夜の気温が下がってはっきりと秋らしい空気を感じる。ということで多少早いがお月見の短冊を出してみた。署名も印章もともに「華洲」。もし船川華洲だとすれば円山派の画家で山本春挙の弟子、京都の人。

と、これ一枚では寂しいのでもう一枚。こちらは瓢水とあるが、おそらく瀧瓢水(たきのひょうすい)であろう。kotobankによればこのような人物である。

生年: 貞享1 (1684)
 没年: 宝暦12.5.17(1762.7.8)
江戸中期の俳人。通称は,叶屋新之丞のち新右衛門。別号は富春斎,一鷹舎,剃髪して自得。播磨国別府(兵庫県加古川市)の富裕な船問屋。一代で没落させた。俳諧においては,小西来山系の前句付作者として出発,のち松木淡々に師事。おおむね郷里を中心として,雑俳点者の地歩を固めていった。『続俳家奇人談』は,「俳事に金銀を擲ちて後まづしかりしも,心にかけぬ大丈夫」と,その人品を伝える。『五百韻』『播磨拾遺』など,編著は多い。画事もよくしたという。<参考文献>長谷川武雄『俳人滝瓢水』 (楠元六男)

『近世畸人伝』ではその人柄をこのように描いている。

播磨加古郡別府村の人、滝野新之丞、剃髪して自得といふ。富春斎瓢水は俳諧に称ふる所なり。千石船七艘もてるほどの豪富なれども、遊蕩のために費しけらし。後は貧窶になりぬ。生得無我にして酒落なれば笑話多し。酒井侯初メて姫路へ封を移したまへる比、瓢水が風流を聞し召て、領地を巡覧のついで其宅に駕をとゞめ給ふに、夜に及びて瓢水が行方ヘしられず。不興にて帰城したまふ後、二三日を経てかへりしかば、いかにととふに、其夜、月ことに明らかなりし故、須磨の眺めゆかしくて、何心もなく至りしといへり。又近村の小川の橋を渡るとて踏はづし落たるを、其あたりの農父、もとより見知リたれば、おどろきて立より引あげんとせしに、川の中に居ながら懐の餅を喰ひて有しとなん。京に在し日、其貧を憐みて、如流といへる画匠初、橘や源介といふ。 数十張の画をあたへて、是に発句を題して人に配り給はゞ、許多の利を得給んと教しかば、大によろこび懐にして去りしが、他日あひて先の画はいかゞし給ひしととふに、されば持かへりし道いづこにか落せしといひて、如流がために面なしと思へる気色もなし。所行、大むね此類なり。はいかいは上手なりけらし。おのれが聞ところ風韻あるもの少し挙。》(滝野瓢水

上記文のあとに代表作とされる俳句もいくつか引用されている。

 消し炭も柚味噌に付て膳のうへ

 手に取ルなやはり野に置蓮華草

 さればとて石にふとんも着せられず

 有と見て無は常なり水の月

 ほろほろと雨そふ須磨の蚊遣哉

もうひとつ、別のサイトで引用されていたものを。

 浜までは海女も蓑着る時雨かな


禅のディアレクティックか。悪くない。「石にふとんも着せられず」は耳にしたことのあるフレーズだ。

f0307792_20255595.jpg
ということで、これが読めないのだが、例によって読めるところまで読んでおくので、読者の皆様、ご教示よろしく。

 在竹老人を
 いたみて

 娑婆はみな別れてまさる[?]かな  瓢水

【ご教示いただきました。「?」のところ、漢字「寒」ではないかと。たしかにそうですね、季題にもなりますし、寒(さむさ)で決まりです】

瀧家の探墓を行っているブログもあった。石にふとんも着せられず」の「石」を見つけ出した。これは興味深い。

滝瓢水研究①

[PR]
by sumus2013 | 2014-08-29 21:19 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

the passing of On Kawara



f0307792_20071115.jpg


f0307792_20071274.jpg

河原温さん死去という新聞記事を見て面白く感じたのは《河原さんの作品を扱う米国のディビッド・ツバイナー・ギャラリーが明かした》というくだり。遺族でなく画廊が画家の死去について発表するというのはアメリカ流なのだろうか? この死亡記事に付けられた写真は「どこから探し出してきたの?」と思うような笑顔のまぶしいものである。悪くないと言えば悪くないけれど、これが自分ならいやだな。河原温は顔写真公表を拒否していたそうだから、近影というのは一切出ないわけで、するとこういう結果になっても仕方ないのかもしれない。なおツバイナーはツワーナーだろうか。上の絵葉書はどちらもフランクフルト・アム・マイン現代美術館所蔵の作品。


29771日生きた人

河原温についてはdaily-sumusでも取り上げたことがあるが、そこでも書いたようにギャルリーワタリで一九八三年に見た展示は今もって強く記憶に残る。

ONE MILLION YEARS

6 AŬG.1992 河原温



[PR]
by sumus2013 | 2014-07-16 20:31 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

滞欧作品展

f0307792_20012380.jpg

バルテュス展の前に神宮道にある星野画廊を訪ねた。これまでも何度か紹介しているが、いつもユニークな展覧会をやっておられる。今回は日本人洋画家の滞欧作品ばかりを集めた内容で、前期(明治〜大正)・後期(大正〜昭和)に分けての開催。前期はパリ滞在中だったため拝見できず少々残念。

有名な画家も幾人か選ばれてはいるものの、その多くはあまりよく知られていない画家たちの絵である。画廊の壁面いっぱいに所狭しと並んでいた。これまでいろいろな展覧会を見て来たにもかかわらず、そんな晴れ舞台にはほとんど登場することのない無名画家たちの情熱というのか、こういう埋もれたマイナーポエットたちが無数に活動していたのだということが痛いほど分って興味は尽きなかった。矢崎千代二や船川未乾の絵を見られたのも収穫だった。

園頼三[詩]+船川未乾[画]『自己陶酔』
http://sumus.exblog.jp/13673714/

竹内勝太郎『西欧芸術風物詩』
http://sumus.exblog.jp/10488289/

図録がたいへん良い資料となっている。澤部清五郎旧蔵資料として大正時代にパリで撮影された日本人画家たちの記念写真が五点掲載されているのも貴重。安井曾太郎や梅原龍三郎、小杉未醒らの顔も見える。その中の一枚。

f0307792_20012879.jpg
大正二年紀元節の日(二月十一日)にフォンテーヌ・ド・ロプセルヴァトワール(Fontaine de l'Observatoire)で在仏日本人美術家たちが集まって記念撮影した写真。解説によれば安井曾太郎は体調が悪く不参加だったそうだ。後ろの彫刻はカルポーの作。

ポール・ロワイヤルの近くで、モンパルナスの外れといったところ。後年この後ろに見えている並木を佐伯祐三が描く(「リュクサンブール公園」1927)。先日紹介したザッキン美術館も徒歩三分くらい(むろんこの時代には住んでいなかったが)。マン・レイも近所に住んでいたことがある。また、写真で画家たちが向いている方向右手直ぐにヘミングウェイが愛したカフェ「クロズリー・デ・リラ」が見えているはず。

f0307792_14274889.jpg
この建物一階部分がクロズリー・デ・リラ。この右手奥に噴水がある。

小生、今回の滞在ではここから歩いて数分のところに宿をとっていたので毎日のように噴水を眺めてバス停まで歩いていた。

亀の噴水
http://sumus.exblog.jp/20638715/



[PR]
by sumus2013 | 2014-07-06 21:10 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

バルテュス京都再臨

f0307792_22142649.jpg

京都市立美術館でのバルテュス展、初日。まとめて見るのは同館での一九八四年の回顧展以来。このときは「バルテュスって誰?」という感じで知る人ぞ知る作家だったし、また京都だけの展示だったため東京からわざわざ友人たちが上洛してきたのを覚えている。

今ではすっかり巨匠になってしまった。あられもない少女の裸体画をズラズラ並べて真っ昼間堂々と大勢の老若男女がぞろぞろ見て回るという光景はある意味頽廃の極みと見えなくもないが、バルテュスはバルテュス自身が狙ったほど頽廃味は持ち合わさない作家なのかもしれない。

作品の選択も悪くないし、晩年のアトリエの再現展示や写真パネル、蔵書や遺品の展示もあってそれなりに楽しめる。

出品目録に手持ちのシャープペンでメモをしていると、衛士(というか見張り)のおばさんが「すみません、会場ではボールペンもシャープペンも使えないので、こちらをお使いください」と上の写真のようなペンを渡してくれた。このペンの先端には短い鉛筆の芯が付いている。別にシャープペンと大した違いはないのにとも思ったが素直に受け取っておいた。


[PR]
by sumus2013 | 2014-07-05 22:32 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)