林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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カテゴリ:雲遅空想美術館( 109 )

夜雪庵金羅

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このところ毎日この俳句を眺めて苦悩している。署名は「夜雪」印は「金羅」、それはいいとして、上五からどう読んでいいのか分らない。「□□に(丹)」だろうか。中七は…ね(?)、り(?)、き、る(?)、空、や(?、の?)。下五は「遠蛙(とほかはつ)」と思うのだが。ならば季は春となる。御教示を乞う。

近藤金羅(天保元 1830〜明治二十七 1894)。江戸湯島の生まれ。三世金羅に学び、夜雪庵金羅四世を継いだ。名は栄治郎、別号に三万堂、珍斎其成。正岡子規以前に「俳句」という言葉を使い始めた宗匠だと言う。

夜雪庵金羅(四世)



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by sumus2013 | 2014-12-24 20:23 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

中国の古画

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昨日、絵画などは除外すると書いたが、ことさらに除外すると言うほど買ったわけではないし、買えるはずもない。それでも隙間を狙って保存状態の良くない無名(銘)の半端もの(結局は本と同じような基準です)をいくつか求めた。そのなかで少しましなのがこちら。絹布に描かれているが、ご覧のように傷だらけ。おそらく本来は屏風か何かもっと大きな作品だったのだろうが、いつしかバラされてこのような軸物に仕立てられてしまったようだ。その表具がまた安っぽい。

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士大夫が酒肴(かとも思ったが、あるいは陶磁器の自慢の品々かもしれない)の配されたテーブルを前にして寛いでいる。目前の早咲きの梅に寄って来る小鳥をものうげに眺めながら。彼が体を預けている四角い物体は肘掛け椅子とも思えないのだが、ひょっとして本か(まさか?)。築山と言い人工の水路と言い展望楼と言い、ひとかどの人物であろう。前景に立っている紳士はおそらく招かれた客人。琴を童に運ばせている。客が視線を投げている左の遠景に何か重要なモチーフがあったのかもしれない。

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時代はそれなりにあるだろうが、比較するための知識がないので判然としない。とりあえず、けっこう古いぞ、と思っておこう。超一流の画師でないにしても雅味のある筆遣いはなかなかのもの。これが新刊の単行本二冊くらいの値段なのだから嬉しい買物である。


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by sumus2013 | 2014-12-14 20:45 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

バルチュスの視線

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バルチュスの「コメルス・サンタンドレ小路」を昨年の七月に取り上げてそのモチーフとなっているであろう街景を数枚の写真で紹介した。

コメルス・サンタンドレ小路
http://sumus.exblog.jp/20688139/

ところが先日、この記事を読んでくださった方がパリでクール・デュ・コメルス・サンタンドレ(Cour du Commerce-Saint-André)を歩かれた。そのときにまさにバルチュスが描いた街景を発見されたのだ。以下のようなメールを頂戴した(写真も添付されていた)。

出かけるまえに、昨年7月5日の貴ブログ《daily sumus》の「コメルス・サンタンドレ小路」を 読ませていただいていましたので、“Cour du Commerce-Saint-Andre”の入口はすぐに見つかりました。「なるほど、ここがあのバルテュスの絵の舞台なのか」とつぶやきながら、写真を数枚撮りました。

そして、この細い「中庭」をサン・ジェルマン大通り側の出口へ向かって歩きはじめました。数分後、出口のほんの少し手前のところでT字路に出くわしたのです。

このT字路を右へ曲がるとサン・ジェルマン大通りと交わる通りへ出るものと思い、曲がってみたのです。曲がって数メートル進んで振り返ってみたところ、そこはなんとあのバルテュスの絵とソックリだったのです。(添付-1)のGoogle地図に示した三角マークの方向から撮った写真が(添付-2)です。

ここは手前の通りにも屋根はありませんし、バルテュスの絵(添付-3)と見較べてみますと、右側の建物がカフェになりテラス席が道路に張り出していること、左側のレストランの吊り看板、街燈などが加わっていることなどを除けば、バルテュスが描いた当時とほとんど変わっていないことがわかります。


添付1
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添付2
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いや、これは知らなかった。昨年紹介したのは、この写真では突き当たりの左右に通っている路である。小生もパリ滞在中には何度も歩いたのだが、こちら側(正面から奥へ向かう)抜け道のような通路は通った記憶がない。少し古い地図(刊行年不詳ながら五〇年代か)を見ると、左右の通りがパッサージュ・コメルス・サンタンドレとなっている。ということは言うまでもなく絵の方も正面に向かって左右に通っている路がコメルス・サンタンドレ小路である。絵柄からしてなんとなく手前から奥へ通じている路かなと思っていたため(以前のブログにもそう書いているが)、ぴったりくる街景に出会わなかったのだ。思い込みにすぎなかった。お教えくださった方に深謝したい。もし再びパリを訪れる機会が与えられれば是非ともこの路上に立ってみたいと思っている。

それにしてもバルチュスは細部までほぼ正確に建物を描写していることが分る。また改めてパリの街の姿が大きく変っていない(意識して、努力して変えていない)ことにも敬意を表したくなる。京都ももっと早くから景観保存に取り組んでおけば……。




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by sumus2013 | 2014-11-22 19:46 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

南画大体

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墨画の短冊を買った。作柄は悪くないと思う。筆は達者で素人臭くはない。ただし、そんなに古いものではないだろう。遡っても幕末、大方明治か。落款はおそらく「蠓成写」。印は「[?]徳」。誰だか分らない。

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ユニテでの個展の折、来場くださった某氏より石川淳『南画大体』(日本文化研究第二巻、新潮社、一九五九年二月一五日)を頂戴したので、このところ読みふけっていた。いかにも石川淳らしい真っすぐな迷路といった趣の文体によって日本南画、特に大雅と蕪村についてやや饒舌に語られている。

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そもそも石川淳は池大雅によって南画に目を啓かれた。

《わたしが大雅の画からはじめてつよい感動を受けたのは、たしか昭和十年ごろか、上野表慶館の屏風展覧に於て、山水楼閣図六曲一双を見たときであった。そのときまで、わたしは南画一般についてわるい概念をもっていた。いつのまにか、わたしのうちに南画観のできあがったものがあって、見えるかも知れぬ目筋までそのためにふさがれていたようであった。それというのも、今かえりみれば、わたしは幼少のみぎりから祖父の居室にぶらさがった南画のたぐいを見なれてはいたが、ちとの文晁をのそいては、その多くが春木南岳【誤植? 春木南溟か】とか山本梅逸とかいう三流の材料であったせいだろう。もっとも、文学のほうにもマイナーポエトというものはある。三流、かならずしもこれをきらわない。とくに南画の流では、マイナーポエトと目されるものの中にも、たとえば立原杏所のようなものになると、これはどうか。まんざらでもないだろう。これを壁に展べれば、ぴんとした気合である。

石川淳の祖父は当たり前ながら二人いる。おそらくここで言うのは省斎こと石川釻太郎(きゅうたろう)であろう。幕臣・御家人で儒学、和学に長けていた。維新後は官職に就かず漢詩集を編集したり寺子屋のようなことをやっていたそうだ(渡辺喜一郎『石川淳傳説』)。上の文章に続けて石川は山水楼閣図の鑑賞についてこのように説いている。

《ひとは大雅の世界観から幸福感というみやげをもらうことになる。ところで、このあたたかいみやげの折詰はただではもらえない。ここは元来詩書画三絶の境である。もしかすると、琴棋もまじっているかも知れない。したがって、この境に招待されるほうの身にしても、早判りの解説という観光バスに便乗する代りに、すこしは自分の足に灸をすえて、てくてくあるいて参上するだけの義理はあるだろう。すなわち、いくぶん身銭を切って、詩書画のにおいぐらい嗅ぎわけるような鼻は平常からやしなっておかなくてはなるまい。しかし、これではどうもはなしがちがう。せっかくただの画と見て、線と色とに還元してながめていたところに、ここで詩書なんぞという余計ものに割りこんで来られたのでは、鑑賞上ちと約束がちがうではないか。いかにも、そのとおり。南画というものは所詮こういうものである。やむをえざる仕儀と合点するほかない。

こいう文章を「真っすぐな迷路」と思う次第。

大雅と言えば、平成二十五年に閉館した池大雅美術館のコレクションが京都文化博物館へ寄贈された。それを記念した展覧会が十一月八日から始まる。これは久々の大雅から幸福感というみやげをもらうチャンスであろう。

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by sumus2013 | 2014-10-15 20:20 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

華洲と瓢水

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夜の気温が下がってはっきりと秋らしい空気を感じる。ということで多少早いがお月見の短冊を出してみた。署名も印章もともに「華洲」。もし船川華洲だとすれば円山派の画家で山本春挙の弟子、京都の人。

と、これ一枚では寂しいのでもう一枚。こちらは瓢水とあるが、おそらく瀧瓢水(たきのひょうすい)であろう。kotobankによればこのような人物である。

生年: 貞享1 (1684)
 没年: 宝暦12.5.17(1762.7.8)
江戸中期の俳人。通称は,叶屋新之丞のち新右衛門。別号は富春斎,一鷹舎,剃髪して自得。播磨国別府(兵庫県加古川市)の富裕な船問屋。一代で没落させた。俳諧においては,小西来山系の前句付作者として出発,のち松木淡々に師事。おおむね郷里を中心として,雑俳点者の地歩を固めていった。『続俳家奇人談』は,「俳事に金銀を擲ちて後まづしかりしも,心にかけぬ大丈夫」と,その人品を伝える。『五百韻』『播磨拾遺』など,編著は多い。画事もよくしたという。<参考文献>長谷川武雄『俳人滝瓢水』 (楠元六男)

『近世畸人伝』ではその人柄をこのように描いている。

播磨加古郡別府村の人、滝野新之丞、剃髪して自得といふ。富春斎瓢水は俳諧に称ふる所なり。千石船七艘もてるほどの豪富なれども、遊蕩のために費しけらし。後は貧窶になりぬ。生得無我にして酒落なれば笑話多し。酒井侯初メて姫路へ封を移したまへる比、瓢水が風流を聞し召て、領地を巡覧のついで其宅に駕をとゞめ給ふに、夜に及びて瓢水が行方ヘしられず。不興にて帰城したまふ後、二三日を経てかへりしかば、いかにととふに、其夜、月ことに明らかなりし故、須磨の眺めゆかしくて、何心もなく至りしといへり。又近村の小川の橋を渡るとて踏はづし落たるを、其あたりの農父、もとより見知リたれば、おどろきて立より引あげんとせしに、川の中に居ながら懐の餅を喰ひて有しとなん。京に在し日、其貧を憐みて、如流といへる画匠初、橘や源介といふ。 数十張の画をあたへて、是に発句を題して人に配り給はゞ、許多の利を得給んと教しかば、大によろこび懐にして去りしが、他日あひて先の画はいかゞし給ひしととふに、されば持かへりし道いづこにか落せしといひて、如流がために面なしと思へる気色もなし。所行、大むね此類なり。はいかいは上手なりけらし。おのれが聞ところ風韻あるもの少し挙。》(滝野瓢水

上記文のあとに代表作とされる俳句もいくつか引用されている。

 消し炭も柚味噌に付て膳のうへ

 手に取ルなやはり野に置蓮華草

 さればとて石にふとんも着せられず

 有と見て無は常なり水の月

 ほろほろと雨そふ須磨の蚊遣哉

もうひとつ、別のサイトで引用されていたものを。

 浜までは海女も蓑着る時雨かな


禅のディアレクティックか。悪くない。「石にふとんも着せられず」は耳にしたことのあるフレーズだ。

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ということで、これが読めないのだが、例によって読めるところまで読んでおくので、読者の皆様、ご教示よろしく。

 在竹老人を
 いたみて

 娑婆はみな別れてまさる[?]かな  瓢水

【ご教示いただきました。「?」のところ、漢字「寒」ではないかと。たしかにそうですね、季題にもなりますし、寒(さむさ)で決まりです】

瀧家の探墓を行っているブログもあった。石にふとんも着せられず」の「石」を見つけ出した。これは興味深い。

滝瓢水研究①

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by sumus2013 | 2014-08-29 21:19 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

the passing of On Kawara



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河原温さん死去という新聞記事を見て面白く感じたのは《河原さんの作品を扱う米国のディビッド・ツバイナー・ギャラリーが明かした》というくだり。遺族でなく画廊が画家の死去について発表するというのはアメリカ流なのだろうか? この死亡記事に付けられた写真は「どこから探し出してきたの?」と思うような笑顔のまぶしいものである。悪くないと言えば悪くないけれど、これが自分ならいやだな。河原温は顔写真公表を拒否していたそうだから、近影というのは一切出ないわけで、するとこういう結果になっても仕方ないのかもしれない。なおツバイナーはツワーナーだろうか。上の絵葉書はどちらもフランクフルト・アム・マイン現代美術館所蔵の作品。


29771日生きた人

河原温についてはdaily-sumusでも取り上げたことがあるが、そこでも書いたようにギャルリーワタリで一九八三年に見た展示は今もって強く記憶に残る。

ONE MILLION YEARS

6 AŬG.1992 河原温



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by sumus2013 | 2014-07-16 20:31 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)

滞欧作品展

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バルテュス展の前に神宮道にある星野画廊を訪ねた。これまでも何度か紹介しているが、いつもユニークな展覧会をやっておられる。今回は日本人洋画家の滞欧作品ばかりを集めた内容で、前期(明治〜大正)・後期(大正〜昭和)に分けての開催。前期はパリ滞在中だったため拝見できず少々残念。

有名な画家も幾人か選ばれてはいるものの、その多くはあまりよく知られていない画家たちの絵である。画廊の壁面いっぱいに所狭しと並んでいた。これまでいろいろな展覧会を見て来たにもかかわらず、そんな晴れ舞台にはほとんど登場することのない無名画家たちの情熱というのか、こういう埋もれたマイナーポエットたちが無数に活動していたのだということが痛いほど分って興味は尽きなかった。矢崎千代二や船川未乾の絵を見られたのも収穫だった。

園頼三[詩]+船川未乾[画]『自己陶酔』
http://sumus.exblog.jp/13673714/

竹内勝太郎『西欧芸術風物詩』
http://sumus.exblog.jp/10488289/

図録がたいへん良い資料となっている。澤部清五郎旧蔵資料として大正時代にパリで撮影された日本人画家たちの記念写真が五点掲載されているのも貴重。安井曾太郎や梅原龍三郎、小杉未醒らの顔も見える。その中の一枚。

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大正二年紀元節の日(二月十一日)にフォンテーヌ・ド・ロプセルヴァトワール(Fontaine de l'Observatoire)で在仏日本人美術家たちが集まって記念撮影した写真。解説によれば安井曾太郎は体調が悪く不参加だったそうだ。後ろの彫刻はカルポーの作。

ポール・ロワイヤルの近くで、モンパルナスの外れといったところ。後年この後ろに見えている並木を佐伯祐三が描く(「リュクサンブール公園」1927)。先日紹介したザッキン美術館も徒歩三分くらい(むろんこの時代には住んでいなかったが)。マン・レイも近所に住んでいたことがある。また、写真で画家たちが向いている方向右手直ぐにヘミングウェイが愛したカフェ「クロズリー・デ・リラ」が見えているはず。

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この建物一階部分がクロズリー・デ・リラ。この右手奥に噴水がある。

小生、今回の滞在ではここから歩いて数分のところに宿をとっていたので毎日のように噴水を眺めてバス停まで歩いていた。

亀の噴水
http://sumus.exblog.jp/20638715/



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by sumus2013 | 2014-07-06 21:10 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

バルテュス京都再臨

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京都市立美術館でのバルテュス展、初日。まとめて見るのは同館での一九八四年の回顧展以来。このときは「バルテュスって誰?」という感じで知る人ぞ知る作家だったし、また京都だけの展示だったため東京からわざわざ友人たちが上洛してきたのを覚えている。

今ではすっかり巨匠になってしまった。あられもない少女の裸体画をズラズラ並べて真っ昼間堂々と大勢の老若男女がぞろぞろ見て回るという光景はある意味頽廃の極みと見えなくもないが、バルテュスはバルテュス自身が狙ったほど頽廃味は持ち合わさない作家なのかもしれない。

作品の選択も悪くないし、晩年のアトリエの再現展示や写真パネル、蔵書や遺品の展示もあってそれなりに楽しめる。

出品目録に手持ちのシャープペンでメモをしていると、衛士(というか見張り)のおばさんが「すみません、会場ではボールペンもシャープペンも使えないので、こちらをお使いください」と上の写真のようなペンを渡してくれた。このペンの先端には短い鉛筆の芯が付いている。別にシャープペンと大した違いはないのにとも思ったが素直に受け取っておいた。


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by sumus2013 | 2014-07-05 22:32 | 雲遅空想美術館 | Comments(2)

ザッキン美術館

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ザッキン美術館を訪ねた。宿から歩いてすぐ。常設展は無料だそうだ。アサス通りに面した建物と建物の間の隙間を通り抜けると内庭のように巨大な樹木が繁っている。その一角にかつてザッキンの住居とアトリエだった建物があり、それが美術館として公開されている。

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オシップ・ザッキンは一八九〇年にロシアのヴィテブスク(Vitebsk)に生まれた。幼年時代はスモレンスク(Smolensk)で過ごし、一九〇七年父親にイギリスへ送られた。ザッキンがパリへやって来たのは一九〇九年。まずラ・リューシュ(15区のブラッサンス公園近くにある集合住宅、二十世紀初頭多くの芸術家が住んだことで知られる)に入り、続いてヴォージラール通り、ルッセレ通り、そして一九二八年アサス通りに居を構えた。

モディリアーニ、サンドラール、マックス・ジャコブ、ヘンリー・ミラーらと親しくしていたそうだ。第二次世界大戦中はアメリカへ逃れていた。一九四五年にパリに戻り、アカデミー・ド・ラ・グランド・ショーミエール(画塾、アサス通りのアトリエから徒歩五、六分くらいのところに現存する)で教鞭をとった。結局、十七歳でイギリスへ渡って以後、終生ロシアへ帰ることはなかった(墓はモンパルナス墓地)。

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ザッキンの妻で、画家だったヴァランティーヌ・プラックス(Valentine Prax, 1897-81)によってパリ市へ遺贈され、美術館として公開されている。

周囲を高い建物に囲まれた、パリ市内とは思えない静かな空間。こじんまりとした庭も気持ちがいい。大きな美術館で疲れた足をこういうところで休めるのもいいかもしれない。



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by sumus2013 | 2014-06-28 00:05 | 雲遅空想美術館 | Comments(3)

エメット・ゴーウィン

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メトロにエメット・ゴーウィン展のポスターが貼ってあったので、これは見たいと思って検索すると、宿から歩いて行ける場所だった。

FONDATION Henri Cartier-Bresson
http://www.henricartierbresson.org

古い建物の一部、地上階から四階までを占めるこじんまりとした美術館。一階に受付、展示場は二階と三階で、四階はちょっとしたコンフェランスができるくらいの多目的ホール(下写真)。

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エメット・ゴーウィン(Emmet Gowin)は一九四一年アメリカ合衆国のヴァージニア州ダンヴィル(Danville)にメソジストの牧師の父と音楽家の母のもとに生まれた。キルケゴール哲学、フレデリック・ソマーやミーチャード(R.E. Meatyard)の作品に影響され、ロードアイランドのデザイン学校ではハリー・キャラハン(Harry Callahan)の学生となったそうだ。

妻のエディス(Edith)や子どもたち、または親戚や友人を撮影したファミリー写真がひとつのジャンルを形成している。たしかにハリー・キャラハンの素直な影響を感じ取ることができるが、モダニズム様式のキャラハンよりももっとシュルレリストに近い感性を見せている。実際、コラージュのような、ソラリゼーションのような、または版画のような表現を用いている写真もある。

一九八〇年代からヘリコプターを使って空撮した地表の写真が始まる。これがまたただの航空写真ではなく、絵画的というか、シュルレアリスティックな何とも言えない魅力を示している。特にネヴァダの核実験場跡を取った写真は強烈だ。荒涼たる平原にクレーターのような穴がボコボコ空いている。これが全て核爆発によって作られたものだとすれば、アメリカはもっとも深刻な被爆国であろう。いい展示だった。


パリにはいたるところに菩提樹(tilleul)がある。独特な香りを放って印象的だ。そろそろ花盛を過ぎようとしており、無数の花びらが地上を黄色く染めている。

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サッカーW杯、フランス第三戦はエクアドルだった。二勝しているのでスターティング・メンバーを六人入れ替えた。そのためかどうか、レッドカードで一人少なくなったエクアドルに0-0の引き分け。決定的なシュートは何度もあったけれど相手のキーパー(ガルディアン)にことごとく阻まれた。サポーター(フランス語でもサポター)たちはちょっと不満げだったが、TVのサッカー解説(解説というよりも井戸端会議といった感じです)ではもうトーナメント初戦のナイジェリアのことしか眼中にない話し振りである。なおサッカーはフットボルと言い、フットと略する。応援のフレーズは「アレ・レ・ブル Allez les bleus」(アレはgoの意味、レ・ブルーは代表チームのこと)で、これを連呼する。








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by sumus2013 | 2014-06-27 02:40 | 雲遅空想美術館 | Comments(0)