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古河力作の生涯3岸田劉生「童女像(麗子花持てる)」(一九二一年作)。学生の頃、この麗子が持っている花の名前が知りたいと思っていたところ、たまたま植物に詳しいと自慢する友人ができたので、力試しに「この花なんだ?」と質問をぶつけてみた。彼によれば「これはダリアの一種ではないかな」という返事だった。なるほどダリアと言われればダリアに見える。そして、ダリアは大正時代にはもう一般的な花だったのだな、と感心したことも覚えている。 『古河力作の生涯』によれば、力作が神戸の永井草花店を辞めて上京し印東熊児経営の康楽園(北豊島郡滝野川村一三二番地)に務め始めたのは明治三十六年十一月である。印東熊児の父玄得は嘉永三年紀州新宮の生れ(坪井氏の出)、東京で医学を修め明治十一年に新宮に戻って開業医となった。熊児は明治四年四月七日生れ。ドイツのブラスラウ大学農学部で花卉栽培を学んだ。明治三十六年に帰朝。滝野川に康楽園を開いた。力作は開園の年に入店したということになる。 《敷地千数百坪、宏大な苗圃や栽培花壇をもつ有名な店で、店主の印東熊児は、西洋草花栽培の草分けといわれ、ダリアの権威であった。》 あるいは、出張して庭園の手入れをする力作に対して顧客がこんな声をかける小説的なシーンもある。 《「古河先生……こんどはひとつ、ドイツ産のダリアをわが庭に植えてみてください。ダリアは何といっても、印東先生の金看板じゃでのう」 老伯爵は花を愛するがゆえに、小躯の力作に微笑をなげたかもしれぬ。大八車をひく小男が、小さな胸の中に、どのような闘志を培っていたかは知るよしもなかった。》(七章) 小躯、小男と、水上はどこまでも小柄にこだわっている。 印東熊児の著書『西洋草花』三版の部分コピーを某氏より頂戴したので参考までに掲げておく。初版は明治四十一年九月二十四日、再版が明治四十二年五月五日発行。国会図書館で検索すると本書は図譜とともに二冊である(明治四十四年版の図譜はデジタルコレクションで閲覧できる)。三版は二円もしている(現在の価値ならおそらく一万円以上だろうか)。 この本の目次を眺めていると、すでにこの当時、たいていの西洋草花は出そろっていることが分る。問題はダリア(目次では「ダーリア」)がどうなのか、ということである。本文のコピーはないので目次だけから判断するのだが、花は五十音順に配列されており、ダーリアは本文六四頁、そしてその次のヂギタリスが七七頁となっている。要するにダーリアには十三頁が割かれているという単純な計算になる。これ以外は目次で見る限り、各花ごとに一頁から二頁の説明で済ませていることから判断すれば、ダーリアが「金看板」だったというのは間違いではないようだ。 康楽園は大正三年に閉園したとのことであるが、岸田劉生が描いているように、熊児が普及に力を注いだダリアは日本人にとってなじみ深い西洋花のひとつとなった(日本に初めて持ち込まれたのは天保十三[1842]年)。 ついでに書いておけば、大逆事件の一斉検挙が始まった明治四十三(1910)年五月、岸田劉生は白馬会第十三回展(五月十二日〜六月二十日、上野竹之台陳列館)に九点の作品を並べていた。劉生十九歳(明治二十四年六月二十三日生)。同じ六月生れの力作は二十七だった。処刑は翌四十四年一月二十四日である。
by sumus2013
| 2017-08-13 21:48
| 古書日録
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