林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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旅する巨人2

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渋沢敬三をただのパトロンだったように書いてしまったが、そうではなく、彼も民俗学者として重要な著作を数多く著している。上の写真は『宮本常一コレクションガイド』に掲載されている宮本常一旧蔵の渋沢敬三著作ひと揃い。『日本魚名集覧』『祭魚洞雑録』『豆州内捕漁民史料』『日本釣魚技術史小考』『日本魚名の研究』。《特に水産史研究、民具研究、塩業研究は、渋沢のライフワークであり、その研究姿勢、豊かな構想力と実行力に宮本も多大な影響を受けた。》(図版キャプション)

宮本常一と武蔵野美術大学の関係を拾っておく。昭和三十八年、早稲田大学教授で武蔵美の評議員でもあった武田良三から武蔵美に勤めてみないかと声がかかった。武田とは昭和二十七年の能登調査で知り合っており、宮本に学位を取ることを勧めた。それまでも大学奉職の誘いはあったようだが、渋沢敬三が許可しなかった。アカデミズムの垢にまみれさせたくなかったのだという。しかし武蔵美の話が来たときには「いいだろう」と首を縦にふった。渋沢は自らの死期を感じ、自分の死後の宮本を案じたのである。それから間もなく同年十月二十五日に渋沢は歿した

三十九年四月に非常勤教授になり昭和四十年四月から教授。昭和五十二年三月に退職している。五月に名誉教授を授与された。小生が入学したのが四十九年四月である。当時のノート類などは郷里に置いてあるので今はっきり思い出せないが、とにかく一年間、宮本先生の「民俗学」の講義を受けた。たしか七号館の大講義室だった。ここは当時ムサビでもっとも広い講義室だったと思う。

何年か前にその頃のノートブックを見つけて書棚に差してあったのだが、引っ越しのときにどこかへ移動させたか直ぐに見つからない。毎回休まず出席しているわけでもなかったけれど、講義の概要は分るくらいの内容はあったように覚えている。瀬戸内海の話が中心だったようにも思うが、ひとつだけハッキリ記憶しているのは、宮本常一という名前についてである。

父は常に一番になれと付けてくれた。けれども、わたしは人間は常に一人だ、と理解している。

だいたいこのようなことを宮本先生は学生たちの前でしゃべった。かっこいいと思った(だから忘れられないのだが)。ただ、この話は『旅する巨人』では採用されていない。宮本の父善十郎は明治六年生れ。祖父市五郎の代に火事を出して没落したため善十郎は小学校にあげてもらえず、村の綿屋、塩の行商、染物屋の奉公などをした後、オーストラリア・フィジー島へ渡り甘蔗栽培人夫として働いた。しかし疫病のため一年足らずで引き上げる。その後はずっと郷里で農業に携わり養蚕や果樹栽培の指導もしたという。

その父が、大正十二年四月十八日、常一が大阪へ出るとき、これだけは忘れぬようにせよと取らせた十カ条のメモというのが素晴らしい。常一十六歳、父は五十である。以下部分的に引用する。

1 汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。
2 村でも町でも新しく訪ねていったところは必ず高いところへ登ってみよ。
3 金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。
4 時間のゆとりがあったらできるだけ歩くことだ。
5 金というものは儲けるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。
6 三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十をすぎたら親のあることを思い出せ。
7 自分で解決のできないようなことがあったら、郷里へ戻って来い。
8 これから先は子が親に孝行する時代ではない。親が孝行する時代だ。
9 自分でよいと思ったことはやってみよ。
10 人の見のこしたものを見るようにせよ。そのなかにいつも大事なものがあるはずだ。

父の忠告はその後の常一に大きな指針となった。10番目は渋沢敬三の忠告とまったく同じであることに驚く。……このくだりを読んで思ったのだが、こんなに解明なお父さんが「常に一番になれ」というような名前をつけるだろうか? どうも宮本先生のフィクションなのではないか……などと今になっていきなり邪推しているしまつ。

宮本が大阪へ出て入ったのは逓信講習所だった。養成期間は一年。卒業後各地の郵便局に配属されることを条件に、授業料、食費、寮費とも免除された。大阪の逓信講習所は桜宮にあったそうだ。木造二階建ての校舎が三棟、淀川の葦原にそって建てられていた。

このくだりも印象深い。というのは先年亡くなった義父がやはり大阪の逓信講習所を出ている。昭和三年生れで年齢を一歳ごまかしたと言っていたから昭和十八年に入所した。一年後に卒業し、満州からモンゴル国境へ送られたと聞いた。敗戦間近である。現地で肺結核にかかりそれでも命からがら帰国した。要するに、もし、年齢をいつわらなければ義父の人生はまったく違ったものになっていた。

宮本の方は高麗橋郵便局へ配属された。しかし通信係の待遇は酷いものだった。同僚たちが結核でバタバタ倒れたため、このままでは自分も危ないと思った宮本は天王寺師範学校二部へ入学して教師の道へ進むことになる。

時代は二十年ほどもへだたっているが、宮本と義父の人生が逓信講習所への入所をきっかけに大きく歪んだことは確かである。この事実を知っただけでも本書を読んだ価値はあった。なお、同所は無料だけに定員百人のところ千人以上の受験生が詰めかけたという。

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by sumus2013 | 2017-08-03 20:56 | おすすめ本棚 | Comments(2)
Commented by 大島なえ at 2017-08-04 19:31 x
なんだか縁でつながってますね。そうならば、私のダンナも
宮本常一の講義を受けたのでしょうね。本人はおそらく記憶
してないと思いますが。林さんとアブラの同期だったのに全く
知らないし(笑)
島田への坂が暑さで登れません・・・ 本当に毎日のこの暑さ
は体に答えます。ご自愛ください。
Commented by sumus2013 at 2017-08-04 20:05
そうですか、同期でしたか。お名前は? 大島さん?
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