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誤植の効用『歴程三百号記念』(歴程社、一九八三年一〇月一日)。この雑誌をペラペラめくっていると(いつものように)高橋新吉の文章が目に留まった。「小林秀雄のこと」。 京橋にあるウィンザーというバーで小林と喧嘩をした。それ以来親しく話したことはないと書きつつ、小林をこきおろす。そしてここいうところにケチをつける。 《新潮社の「波」というPR雑誌に、白洲正子が、次のように書いていた。「小林秀雄さんがいつか私に、『洲之内という人は今一番の批評家だね』といったことがある。ーー」 これを読んで私は、噴飯ものだと思ったが、同時に小林の敵意を感じたのである。 私は、「気まぐれ男へ」の中に「こんな男に、芸術のことなどわかる筈はない。」と、洲之内のことを書いている。これは洲之内が中国で特務機関か何かにいた時、中国へ一度も行ったことのない小森盛と、土方定一が北京から連れ立って、洲之内を訪ねてきたように、土方に愛媛新聞に書かせていたので、こんなウソを言う洲之内には、美術批評などできる筈はないと思ったからである。》(「小林秀雄のこと」) 白洲正子に対してはかなり気を遣っているが、洲之内徹には容赦なく攻撃が続く。 《洲之内の売名工作のうまさ、処世術の巧みさは、驚くばかりであるが、大和民族のように、罪に寛大な人種も少ないようだ。》《森敦や洲之内徹のように、私を狂人のように言いふらすのは許せない。私は狂人でないことをここに書き添えておく。》(「小林秀雄のこと」) ということで洲之内徹が高橋新吉についてどのように書いているのか知りたくなった。どうしてそんなに高橋新吉が怒っているのか? こういうときに『sumus 05』の気まぐれシリーズの人名索引がこの上なく便利。すぐに答えが出た。高橋新吉は『気まぐれ美術館』に二度、『帰りたい風景』に一度、『さらば気まぐれ美術館』に二度登場している。ところが、段ボール箱に納めてあるそれらの本を取り出すのに酷く骨が折れた。やれやれ。 それらによると高橋新吉は洲之内徹とは親しくしていたようだ。同じ愛媛県出身ということもある。田村泰次郎のころの現代画廊で水墨画展に参加したり、後には案内状に解説を書いたりもしている。ではどうして? 『さらば気まぐれ美術館』(一九八八年)所収の「誤植の効用」を当ってみると、そこに怒りの謎解きがしてあった。 高橋は土方定一が書いた文章(松山で開かれた洲之内コレクション展の図録)に登場する「小森盛」という人物が中国などには行ったことがないのを直接知っていた。ところが土方が中国で洲之内に紹介した小森は「小森武」だった。武と盛の間違いが高橋新吉をして洲之内徹をペテン師呼ばわりさせることになった。 《銀座の永井画廊で《高橋新吉書画展》が開かれたが、その会場で高橋さんが小森盛氏の、自分は中国へは行ったことがないという返事の手紙をゼロックスでコピーして、来る人みんなに配り、洲之内というやつはこういうやつだ、こういうありもしないことを土方定一に書かせたんだ、と言っていたらしい。》(「誤植の効用」) ここまで洲之内が悪者にされるには理由がある。 《それにしても、高橋さんはなぜそんなに怒っているのか、それが私にはわからない。私がそう言うと、私にその話をする人は、洲之内はオレのことを強盗と書きやがった、娘の嫁入りの邪魔になる、と言って高橋さんは怒っているというのだ。》(「誤植の効用」) 強盗発言は洲之内徹が「虫のいろいろ」と題して書いたエッセイにある(『帰りたい風景』一九八〇年、所収)。 《汁粉屋の頃、いちど高橋新吉氏が、東京から帰ったといって訪ねてきた。その高橋さんに何も知らない私の女房が汁粉を出したが、これには流石の高橋さんもたじたじの態に見受けられた。高橋さんは紫色の小さな風呂敷包みをひとつだけ持っていて、その中には立派な硯がひとつと、包丁が一本、『強盗の研究』という本が一冊入っていた。そして、私に、 「お前はこの頃、原稿料でだいぶ稼ぎがあるだろう」 と、まるで本物の強盗みたいなことを言ったが、これでも判るように、実はその頃私は小説を書いていて、ほんの二、三年の間であったが、何回か作品が文芸雑誌にも載ったりしたのである。》(「虫のいろいろ」) この描写がなかなかいい。そのためにとばっちりを受けたか。「誤植の効用」には次のように書かれている。 《私としては郷土の大先輩であり、伝説的人物でもある高橋さんに対する親愛の情をそんなふうに書いたつもりだけれども、高橋さんがそれで怒っているとすればしかたがない。 しかたがないが、しかし、こうなるとやっぱり笑い話だ。ある日、戸田達雄氏と電話で話したとき、私はこの話を戸田さんにした。戸田さんは大正時代の未来派美術協会やマヴォにもいた人で、詩人であり画家であった尾形亀之助とも親しかった人だ。私が、 「何だかしらないけど、高橋新吉がばかに怒っているんですよ」 と言って、笑い話のつもりでこの話をすると、電話の向こうで戸田さんはすこしも笑わず、ひどく真面目な声で、 「高橋新吉とはそういう人間ですよ」 と言った。私は、私の軽薄さを戸田さんにたしなめられたような気がした。そうなのだ。笑い話ではないのだ。高橋新吉とはそういう人なのだ。》(「誤植の効用」) そして後日談。 《去年だったか一昨年だったか、地下鉄銀座駅のホームで、私は高橋さんにぱったり会った。 「高橋さん」 と、私が声を掛けると、高橋さんは一瞬、悪びれた子供のような顔をして、 「お前のことをいろいろ書いてやったが読んだか」 と言い、私をそこへ残して、入ってきた電車の、開いた扉の中へ消えた。私が高橋さんを見たそれが最後である。先頃、高橋さんは亡くなった。》(「誤植の効用」) 高橋新吉が歿したのは一九八七年六月五日。洲之内徹は同じ年の一〇月二八日、後を追うように歿している。 つい書いてしまったことから思わぬとばっちりを受ける……ブログを書く身としても気をつけないといけない。気をつけても防げるものではないだろうが。
by sumus2013
| 2017-05-11 20:39
| 古書日録
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