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ぽかんのつどい冊子「ぽかんのつどい」のために作られた冊子。200円(恵文社一乗寺店などで入手できると思います)。中野もえぎ、服部滋、林哲夫、外村彰、福田和美、佐久間文子、佐藤靖、佐藤和美、澤村潤一郎、井上有紀、岩阪恵子、内堀弘、涸沢純平、能邨陽子、出海博史、山田稔、秋葉直哉、郷田貴子、扉野良人、真治彩……それぞれがぽかんの読者にすすめる五冊を選び短いコメントを添えている。「ぽかんの読者にすすめる」というところがポイントである。各人が気配りをし(しないで)書いているのが面白い。知らない本がたくさんあって楽しいな。 ちょっと讃岐へ戻っていた。書棚を整理していたらこんな雑誌が出てきた。『海燕』第九巻第四号(福武書店、一九九〇年四月一日、表紙画=国吉康雄、表紙|目次|本文構成|=菊地信義)。特集が「文芸雑誌と私」。そこで山田稔さんがこう書いておられる。「「ちとせ」の一夜」。太字のところ、原文は傍点。 《京都の四条畷を下った西側に「ちとせ」という酒場があった。今から三十年ほど前の雨の日の夕方、私は河出書房の坂本一亀氏に会いにその店に足を運んだ。坂本氏の「日記」(「『文藝』復刊まで」)によるとそれは一九六一年六月二十七日のことである。坂本氏は「文藝」復刊に備えて新しい書き手を発掘すべく、京阪地方にのりこんで来たのであった。 「ちとせ」には私のほかに多田道太郎、高橋和巳、杉本秀太郎、沢田閏の四名が集った。当時の「VIKING」の同人または会員のうちの大学教師組である。》 《その夜どんな話が出たかこまかいことは忘れたが、ひとつ憶えているのは、伝統ある「文藝」復刊の意気ごみに燃えて「小説をかいてください!」とかきくどく坂本氏の話はそっちのけにして、私たちが冗談ばかりとばして大いにいちびったことである。こいつら何だ、と彼は憤慨したにちがいない。いや、大いに楽しんだのか。そのことは「日記」には触れていない。このいちびりのなかで高橋和巳だけはまじめに話を聞いていたらしく、坂本氏の目にとまった。彼をこれを機に『悲の器』を完成し「文藝賞」を受賞する。》 《声を大に「小説を、文学を」と熱っぽく叫ばれても、照れくさいというか、アホラシ、という気分になってしまうのだった。いまでもこうした京都の「冷却的」雰囲気は大して変っていないと思う。》 山田さんはほぼこれと同じことを「ぽかんのかい」でも喋ってくださった。高橋和巳の受賞祝賀会に集った教授連中が祝辞で揃いも揃って「小説なんぞ書いていないで研究に身を入れろ」とぶったというのも学都ならではの興味深い逸話であった。山田さんはこれを自身が周囲に与える「冷たさ」についての説明として語られたわけだが、その当否はおくとして、しかしさすが坂本編集長だ、この人選は当を得ている(たしか杉本秀太郎にも高橋和巳の追悼としてこのときのことを書いた文章があったように思う)。 なお「ちとせ」は生田耕作氏の生家で氏の父上が富山から出てきて修業した後、昭和十二年に開店、その後を次いだのが生田誠氏の父上(耕作氏の弟さん)である。少なくとも小生が知っている感じでは居酒屋というのとは少し違う。ただ料理屋というほど敷居が高いわけではなく、その中間くらいの店だった。 現在は誠氏の弟さん(三代目)が経営されており、店舗は小川通り丸太町下ルに移転している。こちらはまさに居酒屋と呼ぶにふさわしい庶民的な店作りだ。
by sumus2013
| 2017-04-22 20:33
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