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花森安治の仕事 世田谷美術館世田谷美術館で「花森安治の仕事 デザインする手、編集長の眼」(〜4月9日)を見た。火曜日だったのだが、意外にと言っては失礼ながら、開館前から待っている人がいるくらいで、入場者はかなり多かった(ただし中高年、とくに女性)。 大政翼賛会時代に花森が関わったポスター類が多数展示されていた。これは見ごたえがあった。戦後における花森のデザイン技術はこれらのポスターを実際に制作した報道技術研究会との共同作業のなかで身につけたと考えてもそう的外れではないようだ。松江高等学校の『校友会雑誌』そして『帝国大学新聞』と編集やエディトリアル・デザインに関わってきた花森がプロのデザイナーたちと交わることにより、さらにもう一段レベルアップしたのがこの時代だったのだろう。 『暮しの手帖』の表紙原画も良かった。かなりの枚数並んでいた。印刷物(表紙)を通して見るのとはひと味もふた味も違う。細部まで繊細に書き込まれた(ある意味、当時の印刷による再現の限界を考慮していない)じつに丹念な仕事であった。 個人的に展示物のなかでいちばん驚いたのは『衣裳』という衣裳研究所時代から初期の暮しの手帖社時代に発行していた小冊子である。以下は本展図録より。第一号は一九四八年一月三〇日発行。十一・十二合併号が一九四九年五月二〇日発行。 これらは花森装釘集成には収められていない。残念だ。しかし驚いた理由はもう一つある。生活社は戦争末期から戦後にかけて「日本叢書」というシリーズを発行していた。最近でもときおり均一台で見かけるくらいだから、相当に多くのバックナンバーがあったのだろう。以前からどうもその表紙フォーマットが花森なのではないかと疑っていたのである。そんな気持ちで『衣裳』に出会ったためにハッとするほど似ていると思ったのだ。 これが日本叢書(一)の中谷宇吉郎『霜柱と凍土』(日本叢書、生活社、一九四五年四月二〇日)。縦組みと横組みの違いはあるものの活字や子持ちケイの使い方などに類似が感じられる。戦後は紙質も良くなってケイ線が赤色に変る。以前一冊紹介したことがある。 久保田万太郎『これやこの』(日本叢書三六、生活社、一九四六年三月一五日) もちろん、あまりに単純な誰でも模倣できるデザインだから、明記されていない以上、花森の手になるとは断言できない。重々承知している。しかしながら花森と生活社との関係を考えれば、あり得ない話でもないと思うのだ。何か証拠が見つかればいいのだが、それがなかなか難しい。 会場のBGMとして花森安治が暮しの手帖社の編集員の前で行った訓示(お説教?)の肉声が流されていた。正直なところ、当時の暮しの手帖社には入社したくないな、と思った。
by sumus2013
| 2017-04-07 20:33
| 雲遅空想美術館
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Comments(2)
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唐澤平吉
at 2017-04-08 16:03
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花森安治の生涯にわたる「しごとの全体性」を見せたいとの主催者のおもいが、よく伝わってくる展覧会であり図録になっていました。ごちそうをお腹いっぱい食べさせてもらったような満足感がありましたが、人が多くてちょっと疲れました。
あの花森の「叱咤」も、たしかに編集室では日常茶飯事でした。小生おもうにきっと、いまの日本の立憲主義の危機に対する天上からの花森の警世に模したかったのでしょう。しかし、混雑した会場にあっては、あたかも町中の雑踏で、花森ひとり虚しく吠えているかのようで、謦咳に接することのなつかしさよりも、小生せつなさをおもい、じっと佇んで聞いてはおれませんでした。おぞましい世の中になりましたね。
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sumus2013 at 2017-04-08 20:31
「叱咤」の音源が残っているだけで貴重です。よく録音しておいたものだと思います。入社はしたくないですが、発言内容は花森安治とその時代を知るためには必要不可欠なものに違いありません。全体的に一歩踏み込んだ展示になっていると感じました。
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