林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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京二中鳥羽高ものがたり

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先日、二中時代の淀野日記を引用した。そのなかに「塾」という言葉が何度か出ていた。それについて具体的にどんなものか分らなかったのだが、藤田雅之『京二中鳥羽高ものがたり』(京二中鳥羽高校同窓会、二〇一六年二月二四日)には詳しく説明されていて腑に落ちた。ありがたいことである。

一九二二年十二月三日
私がまだねむつて居たとき芳兄がたづねてくれた。私はしばらく清水とねながら話して居た。後、十一時頃から二人は書斉で話し合つた。彼は又塾での出来事を話した。それによると寮長と五年の生徒とが会見して、塾生の自由〜それは青年としての自由〜を尊重することを守らしめることを約したんだそうだ。今塾生は団結して居る、そしてこの団結が貴いのである。この力をもつて塾風改善に努力するならば必ずよくなることを信ずるのである。》(淀野日記)

この「塾」、正しくは「浴風塾」というそうだ。

《この「浴風塾」というのは、かつてその場所にあった、京都二中の寄宿舎(寮)の名前です。
 「浴風塾」は、京都二中開校二年目の一九〇一年(明治三四)年に完成し発足しました。
 最後、一九三四(昭和九)年、室戸台風の強風によって全館倒壊し、そのまま閉鎖されるまでの三三年間、常時二〇〇名あまりの少年達が、日夜寝食を共にして青春を謳歌していたのです。
 「浴風」とは中国の故事から山本良吉教頭が命名したもので、初代寮長は山本教頭でした。
 それが、三年目から中山再次郎校長がみずから塾長として住み着きました。そして校長退職後の塾の最後のときまで、先生はほとんど塾周辺に住まわれたのでした。》(本書

この中山再次郎という初代校長がじつに興味深い人物だ。『中山再次郎先生を憶う』(京二中同窓会、一九六四年)という書物も出ているそうだが、その拾遺として面白い記述が本書にも収められている。いろいろ引用したいが、くわしくは本書を参照していただきたいので、ここでは夏目漱石との関わりについてのみ引用してみる。

同い年の漱石と中山再次郎は同じ年(明治十七)に大学予備門(当時五年制、十九年より四年制の一高になる)に入学したそうだ。二人ともにボートに熱中していた。再次郎は熱中のあまり手を痛めて一年落第、漱石は腹膜炎で留年、ふたたび同じ学年になる。明治十八年大学予備門の成績表というものが残されている。それによれば中山再次郎は二十六位、塩原金之助(漱石)は二十七位、南方熊楠は三十九位、山田武太郎(美妙)は六十四位、正岡常規(子規)は六十九位(不合格)。なんとも凄い学生が同学年にいたもんだが、この他にも中川小十郎(立命館創立者)、柴野是公(中村是公、満鉄総裁〜東京市長)、芳賀矢一(国語学者)、平岡定太郎(樺太庁長官、三島由紀夫の祖父)らを数えるという。単なるエリートというよりも何かもっとずっと濃〜い学生たちである。

《ただし、全員を調べてみると、地方の中学校長、旧制高校教授などを終生勤めた人物も多数存在しています。あの漱石も、東京帝大卒業後、まず松山中学校(『坊ちゃん』の舞台)に赴任しています。
 当時はまだ、全国に中学校は少なく、その教師のポストは難関でした。さらに中学校の校長・教頭は、天皇から直接任じられる奏任官でした。実は、宮内庁書陵部の『明治天皇御手許書類』の中に、一八九八(明治三一)年の中山再次郎の任官書類が存在しています。閲覧はできませんが、目録で確認できるのです。それほどに社会的な地位の高い、おまけに給与の良い職業でした。
 中山再次郎が、帝大卒業でありながら、「エリートコースを外れて、生涯一教師に甘んじた変わり者」というような、ためにする大げさな形容は、決して正しいとは言えません。》(本書)

『坊ちゃん』に描かれる教師たちのどこか鷹揚な感じはこのあたりの事情からきているのかもしれないと納得できるような気がする。ただし漱石は必ずしもそうは思っていなかった。それもまた『坊ちゃん』に描かれる通り。漱石詩集にはもっと直接的な恨みがましい表現が見える。例えば漱石が松山で作った七言律詩のひとつから尾聯。引用・読み下しは『漱石詩注』(吉川幸次郎、岩波文庫、二〇〇二年)より。

 一任文字買奇禍 ひとえにまかすもんじのきかをかうを
 笑指青山入予洲 わらうてせいざんをさしてよしゅうにいる

買奇禍について吉川は《予想しない災難をひっかぶる。何かそうした事件が、そのころの先生にあったのであろう。しかしそんなことはどうでもいいというのが、「一任」の二字》と註している。それに続く「笑って伊予に入る」というのがどう読んでも負け惜しみだ。あるいは同じ頃の五言律詩はこうである。全文(松山の下宿から東京の正岡子規に宛てた葉書にしたためられている)。

 海南千里遠 かいなんせんりとおく
 欲別暮天寒 わかれんとほつしてぼてんさむし
 鉄笛吹紅雪 てつてきこうせつをふき
 火輪沸紫瀾 かりんしらんをわかす
 為君憂国易 きみのためにくにをうれうるはやすく
 作客到家難 きやくとなりていえにいたるはかたし
 三十巽還坎 さんじゅうそんにしてまたかん
 功名夢半残 こうめいゆめなかばざんす

流謫の心境だったとしか思えない。三十にして人生終わったな……。

むろん中山再次郎は漱石とは違ったのだろう。しかし、その言動は風変わりだったと本書にはある。

《何より、その変人振りを雄弁に物語るのは、その服装・風貌でした。
 いつでもどこでも、上下黒の詰襟服の一点張りに、古ぼけた中折れ帽子、生徒と同じゲートルを足に巻き付けて、ランドセルを背負うという質素な服装は、いつしかトレードマークとなりました。大きな会場に入ろうとして、受付の係官に怒鳴られたというエピソードもありました。》(本書)

何かもっとずっと濃〜い」と上に書いたのはこういうところも含めてのことである。

たまたま先年、古書店の店頭で見つけた「京都府立京都第二中学校一覧表」(昭和六年)。何かの参考になるかと買ったままでよく調べてもいなかったが、本書を読んだ後だと、見え方が変ってくる。

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目に留まったのは教員や生徒数とともに記されている「浴風塾」の現在人員。一年一、二年三、三年八、四年十七、五年九、合計三十八である。昭和六年ともなると塾生も減っていたようだ。他府県出身の生徒が三十四人いるのだが、学年別でみると必ずしも塾生とは重ならない。

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by sumus2013 | 2017-03-02 21:25 | おすすめ本棚 | Comments(7)
Commented by tobiranorabbit at 2017-03-03 07:28 x
 鳥羽高を卒業しています。前身が府立二中だということで、大島渚が講演に来ました。ちょうどビートたけしのフライデー事件の直後で、たけしがいかにチャーミングな人物かを語り弁護していました。人間のチャーミングさは大人になるとともに減っていく、だから君たちも、という話でした。
 多田道太郎さんも二中出身。僕が入学したことを喜んでくださった。多田さんに聞いたのは、「二中の立ち弁」という名物(?)があり、足腰を鍛えるため校庭で立って弁当を食べたという話です。
 昭和初頭のスクラッチタイル貼りのモダンな校舎が懐かしいです。
Commented by sumus2013 at 2017-03-03 08:07
鳥羽高だったの! 意外でした。でも素晴らしい学校じゃないですか。
Commented by 藤田雅之 at 2017-03-03 09:09 x
大きく取り上げて頂いて感激です。また、昭和6年の「一覧表」には驚きました。裏面の「設備概要」の図面は、本校にある『創立三十周年祝賀記念誌』(昭和六年)という冊子にほぼ同じものが掲載されています。この年、京都府営繕課技師・十河安雄設計のレンガ造りの校舎、つまり現鳥羽高校の校舎が、竣工し、創立30周年とあわせて壮大な記念式典が行われました。それに関連する配布物と思われます。表面は未見ですのでいずれ調査させてください。大島渚さんの講演(2000年)は、病中の不自由が痛ましく聞き辛いものでしたが、生徒としてしっかり受け止めてくれたと聞いてうれしいです。英映画『Kyoto my mothers place』にも鳥羽を歩む大島が出てきます。・・・それから、京大では生田耕作も二中です。
Commented by 藤田雅之 at 2017-03-03 09:28 x
フライデー事件は、1987年ですね。その年にも講演に来られていたとは知りませんでした。2000年の時は「戦争が終わって、学校では野球ばかりしていた。あの頃、野球しかなかった。野球しかなかったんだよ。」と繰り返し続けるばかりで「大島渚が壊れた・・・」とショックでした。
Commented by sumus2013 at 2017-03-03 12:36
ご存知ない資料でしたか。では近日中にお送りします。生田耕作も! ますます凄い学校です。
Commented by 藤田雅之 at 2017-03-06 12:03 x
上記の資料、いま拝受しました。重ね重ねありがとう存じます。生徒数、身体状況、経費などの明確な数値など、極めて貴重な資料です。本に掲載するとともに、府立総合資料館に登録し、本校図書館の二中コーナーに展示させて頂きます。よく購入されましたね。・・・新潮の日本文学小辞典に「京都一中、三高、東大という京都人秀才コースを歩む。一中では独創を、三高では冒険を、京大ではフランスを学んだ。」と桑原武夫の項にあります。そのコースに、湯川秀樹、朝永振一郎、今西錦司、西堀栄三郎、貝塚茂樹など続々。とても敵いません。因みに桑原の項目は、多田道太郎が執筆。多田と生田耕作は、二中41回の同期です。一中は学術・二中は体育の校風。偉丈夫の生田耕作はスポーツしていたかも。鳥羽は今も体育会的校風です。最近では大相撲の宇良が有名です。
Commented by sumus2013 at 2017-03-06 17:41
> 藤田さま お役に立てば何よりです。
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