林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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京二中 野球部記

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京二中鳥羽高ものがたり』(京二中鳥羽高校同窓会、二〇一六年二月二四日)の著者である藤田雅之氏より京二中の野球部および淀野隆三に関する資料を恵投いただいた。すでにコメント欄でご教示いただいたように淀野は野球部の捕手として活躍していた。その試合記録などが鳥羽高校に保存されている「野球部記」に克明に記されているのである。

まだじっくり目を通していないが、ハイライトはもちろん第一回全国中等学校優勝野球大会(一九一五)の優勝ということになる。ただしこのとき淀野はまだ二中に入学していない。その三年後、一九一八年の第四回大会で淀野も加わった二中野球部は京都予選を勝ち抜き、鳴尾浜球場で行われる全国大会へと駒を進めた。

《尼崎の宿舎に入って、組み合わせ抽選も終えた時に、信じられないことが起こります。この年、七月二三日、富山県魚津の「越中の女一揆」に端を発した「米騒動」が全国に波及し、野球どころではない事態となり、痛恨の中止決定となりました。二中の選手は泣きながら荷物をまとめて帰京することになりました。》(京二中鳥羽高ものがたり』第一巻より)

この件について淀野隆三のご子息がこういう思い出話をしてくださった。

《それから親父の野球ですが、中等野球で1年生の時に、甲子園の前の鳴尾浜球場に京都滋賀の代表で出場、相手が一回戦は弱いものだから、淀野出してやる、と言われていたそうです。ところが米騒動で大会が中止となります。その頃の写真で記憶に有るのは、NHKの野球の名解説者だった小西得郎さんが、現在の明治大学選手として、京都二中に指導にこられた全員の記念写真があります。》

また「野球部記」にはこういうことも書かれている。昭和二十一年、京津予選に優勝し、戦後初めての夏の大会出場(西宮球場)が決定した。予選で優勝した七月二十八日、OBが選手たちを招いて四条縄手上ル寸田氏邸の屋上でスキ焼パーティを催した。寸田氏というのは第一回優勝メンバーの野上実(のち寸田)である。日誌には《寸田、淀野、小城、小西、寺田……諸氏》と淀野隆三の名前も記されている。

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この件についてもご子息隆さんは以下のような思い出話をしてくださった。

《戦後第一回の中等野球では、予選から優勝までの全試合を親父に連れられて見に行きました。親父はその頃の向島で畑をやっていました。もちろん農家に手伝ってもらっていたのでしょうが、毎試合にそこで取れるトマトをいっぱいぶら下げて、私も持たされ差し入れしていました。優勝したのですが、その時に一塁手だった下村というよく打つでかい選手が、親父のスパイクを履いていました。いつもピカピカでずーっと靴箱に保管されていたのです。親父の靴が甲子園の土を踏んだことになります。

余談ですが、電通のSP局の企画部長で、故、森川英太郎というのがいました。ある日仕事で行った私のところにやってきて、
「あんたは淀野のボンボンですか?」
と聞かれ、
「そうですけど」
と答えたら、あの浪商との優勝戦まで、「レフトで7番を打っていた」というわけです。「あの頃お父さんに連れられて、トマトを運び応援に来てくれていたあのボンボンですかいな」てなことになり、他の連中も驚いたわけです。当人同士はそれから極めて仲良く仕事させていただきました。彼は京都「浜作」さんのご長男で、映画監督になりたく、店は弟に任せ松竹の助監督。松竹がつぶれて、電通に入って来られたようです。

ついでに言えば、一高三高の45歳以上の試合というのがありました。親父は三塁手(三高からキャッチャーから三塁手に転向)でしたが練習なしでも、飛んでくると結構うまく球をさばいて、一塁に送るわけで、びっくりしました。この中に、宇野ガンボーと言われていたスラッガーがいました。現役時代からスラッガーだったらしいのですが、この方が巨人軍の当時の球団代表でした。私が中学2年生で親父は、三笠書房の編集長と明治の講師だった時です。

藤田氏に頂戴したコピー(当時の新聞記事)によれば昭和二十一年の試合ではたしかに一塁で四番の下村、左翼の森川の名前がある(森川は予選決勝では九番)。宇野ガンボーというのは宇野庄司(一九〇三年兵庫生まれ、神戸二中〜三高〜京大〜読売新聞社)のことであろう。

京二中鳥羽高ものがたり』は他にも面白い話がいろいろ出ているので改めて紹介したい。

なお、ご子息、淀野隆氏についてネット上で捏造話が流布されているようだが、御本人は事実無根と一蹴しておられるので、念のために記しておく。

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by sumus2013 | 2017-02-25 17:45 | 古書日録 | Comments(5)
Commented by 藤田雅之 at 2017-02-27 14:33 x
早速UPしていただいてありがとうございます。さらに、淀野隆氏の、小西得郎との写真のこと、戦後のトマトの差し入れのこと、スパイクのことなど面白い話題にびっくりしました。実は、林さん装丁の隆氏の『二人だけの「愛・宇宙」』という小説?を読み・・躊躇っていたのですが、勇気を出して連絡してみます。
Commented at 2017-02-27 14:48 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by sumus2013 at 2017-02-27 15:27
どうぞ、お名前はお伝えしてあります。小生は1974年入学ですのですれ違っているかもしれません。にんにくらーめん、うーむ、記憶にないですね、コロッケ・カレーとかよく食べてました。
Commented by 藤田雅之 at 2017-02-27 16:34 x
白梅短大から朝鮮大学校の角、上水公園の向かい側に、東華園という中華屋があり(最近閉店)、量が多くてニンニクをがっつり入れるので、我々は朝鮮ラーメンとか呼んで、毎日のように食べてました。朝大の学生が多かった。高校では美術部だったので、武蔵美前の画材屋に出入りしたり、文化祭を覗いたり、女子大生に声を掛けたりしてましたよ。
Commented by sumus2013 at 2017-02-27 20:36
そういえば中華料理店はあったように思いますが、入った記憶はないです。学食専門でした……。武蔵美にはやや高級なカフェのような学食と安くていかにもという学食があって、もっぱら後者でした。校門前の画材店は国分寺駅の北側にもたしかありました。学内に土井画材もありましたが、新宿の世界堂が安かったのでよく買いに行きました。なつかしい。
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