林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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劇画人列伝

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桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛人だった下巻 劇画人列伝』(東考社、一九八五年六月一五日)。この本は初めて手にすると思っていたが、かなり昔、漫画のことを調べていた頃に読んだかもしれないと思い当たるふしがあった。まあ、どちらでもよろしい。面白い本である。前半は『ガロ』に連載され、一九七八年にエイブリル・ミュージック(後のCBSソニー出版)から単行本として出る時に後半「劇画人列伝」が書き足された。本書では列伝中の「白土三平」と「さいとうたかを」が省略されている。なお東考社は昭和三十六年に桜井昌一が設立した出版社である。

先日紹介した岡崎武志『気がついたらいつも本ばかり読んでいた』に国分寺の喫茶店「でんえん」が登場していて、そのことについてわずかばかりの思い出話を披露したが、本書の「永島慎二」の章では話題の中心が「でんえん」なので驚いた(というか、このくだりをかすかに昔読んだような気がするのだ)。

永島慎二は昭和三十年に鷹の台の都営住宅へ越して来たそうだ。その後、昭和三十三、四年頃に桜井ら劇画工房の連中の住んでいる国分寺へ移った。

《前にも書いたことだが、喫茶店「でんえん」の仕事を手伝っていた美人をヒモにしてしまい、自分の妻にしてしまうという悪業をしたのはこのころだった。「でんえん」は当時の我々の溜まり場で、その時分の劇画工房の連中の作品を見ると、誰もが必ず「でんえん」の看板のある建物を何度か描いているほどである。誰もが毎日、一度は通った。「でんえん」という文字は、劇画工房の一つのシンボルであった。
 永島は、ひどいときには、一日に二度も三度もこの「でんえん」に足を運んだ。美人に会いたい一念であった。しかし、いくらお気に入りだといっても、用もないのにいつも一人で顔を出すというわけにはいかなかった。そこで、人の顔を見るとだれかれの見境なく「お茶を飲もう」といってさそった。劇画工房の仲間たちは、そんな彼の気持ちを見抜いていて、永島におごらせるなら「でんえん」でとやっていた。ぼくたちも「でんえん」の美人にはのぼせあがっていたが、衆をたのんでたかをくくっていた。
 結局、永島はトンビが油あげをさらうように美人を引っさらっていってしまったが、そのときには、ぼくはあっけにとられたものだ。》

国分寺時代には桜井はさほど永島とは親しくなかった。東考社を興してから意識的に付き合うようになり、真崎守の紹介で阿佐ヶ谷の永島宅へ初めて原稿をもらいに出かけた。

《こうした事情のもとで、ぼくは阿佐谷の永島の家を訪ねていった。彼は気持ちよく迎えてくれた。
 部屋にはいると「あら桜井さん」と奥さんにいきなり声をかけられたが、この声の主が、かの「でんえん」の美人であったことを、ぼくはうっかり忘れていた。永島が彼女と結婚していたことは知っているのだから、当然彼女が家にいるであろうことは頭にあっていいはずなのだが、人間はこういう忘れかたをするときもあるものらしい。
 彼女は椅子に座るようにいってくれたが、ぼくは、どぎまぎしていたのだろうか、ボーリングのピンをさかさまにしたような籐で編んだ椅子らしきものに座った。とたんに彼女はふきだして「それはゴミ入れですよ」といった。永島は顔面神経痛にかかっていて、苦しそうに顔をしかめていたが、ぼくにはやさしい声で愛想よく応接してくれた。》

当時まだ永島は虫プロに務めており新作はなかった。このときにもらった原稿は旧稿『殺し屋人別帳』だったが、それは圧倒的に売れたという。そのすぐ後に永島は虫プロを退社し漫画雑誌に描くようになった。

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もうひとつ面白いのは桜井が永島を将棋で負かし、その数ヶ月後に長井勝一宅で復讐されてしまう話。

《長井社長宅に現れた永島は、ぼくの顔を見ると早速に将棋の復讐戦にとりかかった。酒は、ほとんど飲まなかった。永島の棋風は熟考するほうである。ぼくは誰よりも早く指すので、時間をもてあました。長井社長も将棋は好きで、テレビの将棋番組にもチャンネルを合わすほどである。真剣な表情で盤面に見入るので、話をすることもできなかった。二番指したが二番ともぼくが負けた。永島は以前よりも、たしかに強くなっていた。それでも長井社長は、「激戦だった」とその内容をいっていたし、ぼくも酔っぱらっていなければ、と残念だった。
 その日、夜おそくなって永島と二人で帰路についた。阿佐谷の駅に向かいながらマンガのことを話しあった。》

私事ながら、永島さんの阿佐ヶ谷のお宅には一度だけお邪魔したことがある。美人の奥様にもお会いしている。永島さんと将棋も指したことがある(これは奈良の武蔵美寮でのこと)。棋力はそれほどでもなかったが、たしかに真摯に考えるタイプであった。永島さんが亡くなられたのは二〇〇五年六月というからもう十二年もたってしまったのである……。


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by sumus2013 | 2017-01-31 20:51 | 喫茶店の時代 | Comments(0)
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