林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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ろまん文庫・花森松三郎

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写真は昭和二十七年の東京日本橋の巡回貸本屋。
『通販生活』205号(二〇〇一年夏)より


『『暮しの手帖』と花森安治の素顔』からもうひとつ。「花森松三郎とろまん文庫」のこと。『東京古書組合五十年史』に昭和二十三年に神戸で発足したろまん文庫は本人の住所さえ確認できれば保証金を取らずに信用貸しをする方法を採用し大いに繁昌したとあり《ろまん文庫の経営者は「暮しの手帖」の花森安治氏の弟松三郎氏であった》と書かれているそうだ(五十年史……持っていたのだが)。

河津氏はこのことについてこう発言している。

《これは本当に驚きなわけです。花森が『暮しの手帖』創刊号を出し、菊池寛賞受賞に至るかたわらで、このような貸本屋の動向があり、しかもその発祥が弟の松三郎にあったとはまったく知らされていなかった。》

花森はどういうつもりかこの画期的な事実を秘密にしていた(あるいは人に語らなかった)。ろまん文庫については五十年史の記述だけなのだが、その方式を受け継いだネオ書房については司会の小田氏が補足説明をしている。その一部を引用する。

《この方式は同じく神戸の宮本一三兄弟のネオ書房によって強力に推進され、ネオ書房は大坂にも出店し、大阪市内だけで八〇店、さらに横浜や東京にも進出し、昭和二十八年には東京の大田区にも開店するに至る。》

検索してみるとネオ書房の思い出がつづられているブログが見つかった。どうやら宮本兄弟のお一人である。かなり詳しくネオ書房の開店から解散までを書き残しておられるのがたいへん参考になる。要点だけを引用するが、全文を読まれることをおすすめしたい。

88歳:昭和/平成の思い出をつづる
「古本屋から保証金無しの貸本屋へ」のこと

《神戸の何処かで「古本屋」でなく「貸本専門」の「ろまん文庫」というのが創業・開店しました。「米穀通帳」などの身分証明の呈示によって無料会員になり、「保証金無し」で本を持ち帰り、返すとき日数に合わせた「貸本料金」をはらうという、画期的な制度でありました。
「東京古書組合五十年史」によると「ろまん文庫」は「暮しの手帖」の花森安治氏の弟花森松三郎氏がはじめたとの事です。
 そして、その方式が、あっという間に近隣の古本屋に伝染し、我が家の「古本屋」にも恐慌をきたしました。お客が来なくなってしまうのです。急遽、どんなやり方なのかを研究して「貸本屋」に転業であります。
 もともと難しい本を売っていた訳でないので、本質は変わらないのですが「保証金無し」というのは「スゴい事」です。マンガ本などの貸し賃は当時一日一円が相場でした。子供がお小遣いの「五円」を持っているとして、売価三〇円ぐらいの漫画本をいっぺんに五冊借りて家に持ち帰り、翌る日返しに来ると「五円」だけ払えば良いのですから……》

むろん戦前にも貸本屋はあったが、そのシステムは保証金を払って会員になり割引価格で本を買って帰り、返しに行くと何割りか返してくれるといったようなものだったらしい(他にもいろいろなシステムがあったと思います。詳しくないので間違っていたら訂正してください)。田河水泡は子供のころ、二銭で「立川文庫」を一冊借り、返すと一銭を払い戻してくれたと書いている(『のらくろ一代記』)。このブログの記述通りだとしたら、ただで本を借りて帰り、返すときに借り賃を払うように読めるが、それで商売が成立ったとしたら嘘のような時代だった。

《兄達は二人とも、結婚すると鉄工所経営のかたわら、新居でこの貸本屋を奥さんを店番に内職として始めました。その店は最初は古本を仕入れて開店したのですが、そのうち思いついて、古本売買は一切行わず、「新刊本(小説・マンガ・雑誌)」を卸屋から仕入れてきてそれを貸し出すということを始めました。この「新刊貸本」というのが時勢に合いました。
 古本屋から貸本屋への転業が昭和二三年に始まったのですが、長兄も次兄も内職の「貸本店」が思ったより収入がいいので、結局鉄工所を解散して、こちらに本腰を入れることになりました。
 そして狭い神戸よりも大阪に活路をと、昭和二四年から二五年にかけて、父は大阪「阿部野橋」、長兄は「守口」、次兄は生野区「大友町」で相次いで開店。
 古本を市で買ってきて、古本屋を始めるのでなく、新刊の書籍・マンガ・雑誌を仕入れてきて「開店」。週二回くらい「卸屋」さんへ通って、次々と新しい本を仕入れるのです。看板も「新刊貸本専門店」と従来の古本屋の「貸本」と違うところが大きく受けたようです。これは兄貴達のアイデアのようです。新刊の卸書店も大阪松屋町筋の「T書房」さんと特約。
 店の名前は「N書房」。「N」というのは「新しい」という意味の接頭語で次兄の命名です。経営は別でも、みなこの「N書房・○○店」という名前にしました。》

《貸本屋がそんなに専門知識が無くても、良い場所に店舗を構えれば、そこそこ収入が上がる事が分かった時点で、父がお人好しというか、世話焼きで、親戚や知人に無料で指導してあげ、名義料も何も取らずに、「N書房」の看板をあげることを許したので、この三~四年で大阪および近郊にには五〇を超える「N書房」ができました。
 当時(昭和二四年)は戦後の混乱期で、なかなか就職難でもありましたから……、それでも開店資金は要りますから、昔からあった「頼母子(たのもし)講」を小金を持っている親戚知人も交えて何口も作り、それも「親」の特権も使わずに世話をしたのです。》

《次兄と兄嫁は関西弁でいう「おっちょこちょい」な面もありましたが、とにかくよく働き、よく遣う、という活動的な性格でした。そのうちに「狭い大阪」で店をやっているより、天下の「首都東京」で一旗揚げよう……といい出しました。
 兄嫁の親戚が東京の品川区「武蔵小山」に住んでいる事がわかり、そこを足がかりに上京し、東京で「N書房・貸本専門店」を出そうという訳です。
「永和」にいた長兄と「布施」にいた私に声がかかりました。私も「Tミシン」が少し傾きかけていたので、この際「学歴」などにこだわらず、「事業」としての「貸本屋」に賭けてみる気になり、お金持ちの親戚から資金を借りる算段をした上で、三人で(いや兄嫁と私の妻も同行)東京に出掛けたのが昭和二八年夏。結婚翌年の事でした。
 首尾よく長兄は「学芸大学」次兄は「旗の台」私は「戸越銀座」の駅前通り商店街にそれぞれ貸店舗を見つけ、仕入れ先「書籍卸店」も大阪の取引先の支店が「神田」にありOK。店の造作をして開店。「新刊貸本専門店」は東京でも上々の出だしでした。
 この東京進出は東京の「古本業界」に衝撃を与えたようです。》

《昭和二九年には父も上京してきたので、父を社長、長兄を専務、次兄を常務、私が取締役経理部長の分担で、川崎市に本社を置く「株式会社」を設立。都内と周辺に十数店舗開店しました。個人の店舗は個人持ちのママです。》

《これも東京に移ってからですが「N書房連合会」から「N書房商業協同組合」ができて、組合員七〇名以上だったと思います。店員さんを入れて一五〇人近い団体で、箱根や日光などに毎年一回「慰安旅行」しました。
 テレビ放送開始は昭和二八年、N書房東京進出と同じ年でした。「貸本」は大衆娯楽として大人気でした。》

《私たちの「貸本屋」への転業も素早かったですが、逃げ足も速やかったです。
 昭和三四年には兄弟でやっていた「株式会社」の店が十数軒ありましたが、辞めたり、譲ったりと整理して「会社解散」。
 でも「個人」で営業していく分にはまだ、じゅうぶん採算が取れます。つい最近まで「貸本屋」を営業していた親戚がいます。ただ古本「売り」兼業のようでしたが…
 要は「借金」して「貸店舗」を借りて「店員」を雇って、利益を上げていく事は、難しくなってきたのです。それに、同業・貸本屋も増えてその面からの売上低下傾向もありました。事業というのは「赤字」になり始めると逆落としに速いですから、早めに店じまいです。
 長兄と次兄は「ルノー」の関係から共同で「自動車修理工場」をはじめました。私は学歴を利用して「会社」勤めを目指しました。》

《ほぼ此の十年間の「貸本」経営が、ある程度余裕のある生活の基礎になりました。》

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大正12年夏、安治11歳(中央後ろ)松三郎5歳(右端)
津野海太郎『花森安治伝』より


明治も早い頃の貸本屋はこういうシステムだったようだ。以前のブログに書いていた。

集書会社は貸本屋である。


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by sumus2013 | 2016-12-05 21:19 | 古書日録 | Comments(4)
Commented by 唐澤平吉 at 2016-12-05 23:13 x
弟の松三郎さんは、花森の葬儀の折、姫路から出てこられたので、小生はお目にかかっています。ただ、松三郎さんは、花森とそりが合わなかったらしく、妹さんたちとちがって批判的で、部員たちの前に兄のわがままぶりをぶちまけたいようすでしたが、さすがにその場ではないと察し、口をつぐんでしまわれたのが印象にのこっています。そのとき、小生をふくめ皆も、花森の弟さんが貸本屋をやっていたとは、知らなかっただろうとおもいます。むろん、だから兄弟仲が悪かった、という意味ではありません。花森は、外で家族の話をすることが、ほとんどない人でした。
Commented by sumus2013 at 2016-12-06 08:24
貴重な情報有り難うございます。親族は親族なりにいろいろあってあたりまえですね。
Commented by 牛津 at 2016-12-13 18:54 x
岡本周辺には昭和30年代まで、貸本屋が4軒もあり、いずれも盛況でした。本の背に針金を通し、補強してありましたが、古くなると払い下げていました。5円玉があると豊かな世界が広がり、少年マガジンもサンデーも貸本屋で読みました。小学校の頃はまだ手塚の『宝島』が棚に並んでいたのを覚えています。荒俣少年が『少年ケニヤ』を貸本屋で借りて、独占したく、溝に本を流してしまったという衝撃的な話を先日聞きました。
Commented by sumus2013 at 2016-12-13 20:14
黄金時代ですねえ!!!
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