林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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故郷

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小杉放庵『故郷』(龍星閣、一九五七年三月一五日)。放庵の故郷日光に関する絵、歌、随筆を集めた一冊。特装版もあるようだが、こちらは普及版。それでも背布の継ぎ表紙、本文袋綴じという凝った造本である。

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故郷の自然や風俗を描いた文も悪くはないが、面白いと思ったのは五百城文哉(いおきぶんさい)と田岡嶺雲についての回想記である。

五百城は放庵の師匠。先祖は土佐の出らしいが、水戸に生まれ、水戸藩士、明治になって東京へ出て農商務省に勤めながら高橋由一塾で油絵を学んだ。陽明門の図を描くため日光に逗留しそのまま居着いてしまったそうだ。中央の美術界からも遠ざかり山中に隠棲する生活となった。黒田清輝が日光へ来て萩垣面(はんがきめん)の高照庵に泊まったとき、そこに隠居する老僧を黒田が「昔語り」の僧のモデルに所望した。五百城が僧に頼んで黒田は寺の庫裡で上人を写生したと放庵は書き留めている。ただし一般にはこの「昔語り」の僧のモデルは京都静閑寺住職の岩佐恩順だとされるようだ。放庵ははっきり《上人そのままの姿よくも似たものであつた》と書いているので無下に記憶違いとも判断しがたい。

昔語り下絵(僧) 文化財遺産データベース

黒田清輝と小杉放菴 小杉放菴記念日光美術館 学芸主任 田中正史

その妙中上人の描写にこういうくだりがある。

《或はその座禅の石かと思うのだが、和尚さまがこの頃うらの原で石を動かして居なさると聞いた、やがてその石を寺の庭まで運んで来た、何丁もの距離を只一人で鐵挺[かなてこ]一本の働き、少なくも人夫四五人はかかるであろう大きさ、据えて見れば上面平たくみごとな形です、倦まず休まず気長に毎日、石をだましだまし持つて来たろう、えらい根気だと師匠も驚いて居ました》(「萩垣面」

以前紹介したこの絵を思い起こさせる。

小杉放菴「荘子」

田岡嶺雲は療養先の日光で歿している。日光では放庵の父が世話をした。

《日光へ行つて見たいから閑静な家無かろうかと相談されて、日光の父に頼んで稲荷町の人の離れ座敷を借りた、警察にも東京から連絡が廻つて居ます、父は国学者平田篤胤の孫弟子で、骨髄の尊皇愛国だがよく世話をして居た、嶺雲の人柄に好感をもつて、警察の注意など気にしなかつたと見えます、小川芋銭も嶺雲と親しかつたが、或時芋銭が田端の私の宅に来るとて牛久沼の蓴菜を缶に詰めて出かけた、たちまち其筋の連絡、小川が爆弾の如きものを提げて上野行きに乗つたと云う事で、王子警察から再再角袖が私の宅へ聞合せに来た、当の芋銭は遂に来らず、沼名物の蓴菜は他の友人の酒の肴となつたでしよう、彼の隠棲の画人も、幸徳の平民新聞にさし絵をかいたので、目を付けられて居た時代です。》(「嶺雲處士」)

こっけいではあるが、こんな時代が二度と来ないように願いたいものだ。


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by sumus2013 | 2016-09-30 21:12 | 古書日録 | Comments(0)
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