林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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フランスの画家たち

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岡鹿之助『フランスの画家たち』(中央公論美術出版、一九六八年七月二五日、限定千七百部の内本書其の五一五番)。裸本。みつづみ書房にて。カバー、化粧箱、外箱もあるようだ。これは単純に読んでみたかったので裸本で十分。昭和二十四年に旧版が中央公論から出ている。その内容に手を加えて刊行されたのが本書で、さらに一九八四年にも再版された。

岡鹿之助がパリに渡ったのは一九二五年二月。滞在中に出会ったフランスの画家たち、岡の愛する画家たち、そして藤田嗣治について回想を交えながら描いている。藤田については二篇のエッセイ「ドランブル時代の藤田嗣治」と「藤田嗣治さん追悼」が収められており、どちらにも藤田の使っていたアトリエを岡が引き継いだことが書かれている。ただそこにちょっと気になる齟齬があるのだ。

《パリ到着早々、私は日本で聞いていたモンパルナス裏のドランブル通り五番地に藤田嗣治さんを訪ねた。だが、藤田さんは数日前にアンリ・マルタン通りに引移ったという。
 私は更にマルタン通りに藤田さんを追ったのであるが、このマルタン通りは、上流の人々の住宅区域で、ドランブル通りの貧乏くさい風景とはがらりと変って立派だった。数日前まで藤田さんが住まっていたドランブル五番地の画室にやがて私が住むことになるのであるが、ここは十数世帯で一つの便所を共用するようなひどいアパートであった。》(ドランブル時代の藤田嗣治)

と岡はこのように書いているのだが藤田嗣治展図録(NHK、二〇〇六年)の年譜(尾崎正明編)では藤田がアンリ・マルタン街に移ったのは一九二四年とされている(『ユキの回想』より)。今のドランブル街はそんなに貧乏人が住むような地域ではないものの直ぐ近くに歓楽街が広がっているのは変らない。ひとつの建物(アパルトマン)にトイレが一つというのも昔はそう珍しいことではなかったらしい。

岡はここで藤田の貧乏時代をすべてドランブル時代としているように思われるが、年譜によれば渡欧した一九一三年から一九一七年にドランブル街に住み着くまでの方が身辺落着かない摸索時代だったようだ。一七年にはフェルナンド・バレーと結婚しているし画廊で発表できるようにもなっている。

《藤田「私は貧乏時代からの延長、苦闘時代のドランブル街にあるガレージを画室代用にしていた。それを岡君にゆずってあげたのだね。大工の仕事台の大きなのをテーブル代りにしていたね。」
岡「それにもう一つ忘れることのできないのは、藤田さんがあの『わが画室』に描かれた戸棚ね。あれが置いてありました。」
藤田「あれはブルターニュのパン入れの古い戸棚です。それもそっくり譲った。」》(ドランブル時代の藤田嗣治)

ここで言及されている『わが画室』はこの絵だろう。


上の会話だと藤田から直接譲り受けたような話になっている。ところが追悼文では少しニュアンスが違う。

《このアトリエに藤田さんをたずねたが会えなかった。ほかにこれといってたよる人のいないパリだったので、いっしょに行った友人と共にホテル住いをしながらアトリエを捜していた。当時世界各国からパリを目ざして画学生が集まっていたので、アトリエを見つけるのはなかなかむずかしかった(パリの町には、貸アトリエがいくらもある)。だが、モンパルナスのキャフェで出会ったフランスの女性画家がよいアトリエがあるから紹介するという。そこではいったのがこのアトリエなのである。その婦人は藤田さんといっしょにいたのだが、三、四日前に藤田さんが出て行ってしまったという。たよる藤田さんに会えないうちに藤田さんがいたアトリエが使えるのもなにかの縁だろうと思って、私はそのアトリエに落ち着くことにきめた。》(藤田嗣治さん追悼)

その婦人は藤田さんといっしょにいた」と言うのだからフェルナンド・バレーのことである。年譜によれば、一九二四年、

フェルナンド・バレーと別居しリュシー・バドゥー(ユキ)と16区のアンリ・マルタン街17番地に住む。

三、四日前に藤田さんが出て行ってしまった」という岡の記憶するフェルナンドの言葉が意味深長ではないか。これだと藤田から譲ってもらったどころか、藤田と直接会う前にアトリエを借りていたことになる。下の絵は岡が借りたドランブル街の部屋にやってきた藤田が一時間ほどで描き上げた絵だそうだ。


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藤田のなかでも好きな作品のひとつ。どうして藤田がいきなり昔のアトリエを描く気になったのか、その気持ちがフェルナンドと結びつけてみるとなんとなく分るような気がするのである。

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by sumus2013 | 2016-06-14 22:01 | 古書日録 | Comments(0)
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