林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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損をしてでも良書を出す2

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河本亀之助は国光社の印刷部門を取り仕切っていたが、金尾文淵堂が企画した『仏教大辞典』が頓挫、そのため生じた損失の責任をとって辞任したようである。負債は九千円にのぼったという。明治四十年のこと。これをきっかけとして亀之助は印刷業(出版業)を始めることを決意した。

《追悼録によれば、蔵書三千余冊を売り払って得た六百円をもとにしたという。》

もちろん六百円では資本の一部にしかならないだろう。この金策については金尾種次郎が智恵をつけたのだと宇野浩二が書いている。

《その頃(明治四十一二年頃か)築地印刷所の重役をしてゐた、河本亀之助は、金尾をあまりに信用し過ぎて、金尾に大きな穴をあけられたのが元で、築地印刷所を引いて、洛陽堂という出版屋になった。しかし又、河本が、洛陽堂をはじめる時に、その資本として、蔵書を売る智慧をつけ、その相談をしたのも、前に書いたやうに、金尾であつた。》(『文学的散歩』)

「築地印刷所の重役」は誤伝、またこのとき亀之助が始めたのは洛陽堂ではなくて千代田印刷所であった。宇野の回想は割合と正確だと思うが、この記述は少々不正確に過ぎる。千代田印刷所の開業は明治四十二年二月二日。そして洛陽堂として山本瀧之助『地方青年団体』を出版したのが同年十二月十日である。すでに述べたように同年同月十五日発行の『夢二画集春の巻』が先に出来上がった。明治四十三年四月一日には『白樺』の発行名義元となり四十三年二月には武者小路実篤『お目出たき人』を刊行……以下の活躍ぶりは本書をごらんいだたきたいが、損をしてでも良書を出す生涯を貫くことになる。

恩地孝四郎は一ファンとして洛陽堂に竹久夢二の住所を尋ねたというが、その夢二の推薦で恩地が手がけた最初の装幀本は洛陽堂から出た西川光二郎『悪人研究』(明治四十四年刊)だった。

《国家社会主義者であつた西川光二郎氏が転進してたしか義勇教悔[誨]師といつたやうなことをやり初めの頃、その経験をかいた本。昔なつかしい洛陽堂刊。四六判五六分厚さの紙装のカバアに面、鬼のやうなのをいろいろかいたのである[。]僕、美術学校入りたて位の時か、夢二全盛時代、夢二君がやつてみないかと云はれて初めて公刊本の表紙といふものをかいたのである。明治末であつたらう。》(恩地孝四郎「装本回顧」)

古書関係でもっとも注目したのは亀之助の弟・哲夫が神田で古書店をやっていたというくだりである。カリフォルニア大学に留学して帰国したのが大正五年秋。

《私は、その当時、麹町平河町に居住して、しばらくの間、洛陽堂の企画、編集に参加しつつあったが、その後、神田神保町の電車通りで、「新生堂」という看板をかかげて、古本屋を開業していた。古本屋という商売には、全く無経験の私であったが、幸い、知人の紹介で、牛込の加藤古本店主人の指導を受けて、この商売について少しずつ勉強しながら、毎日、風呂敷を背負って古本の買い出しに出かけたり、古書の競り市場にもたびたび行ったものである。開店に際し、少しばかりの資本と、自分が在米中買い集めていた、約千冊ほどの洋書と、海外から輸入した、キリスト教や、美術書の古本などを加えて、開業したのである。当時の店の位置は神保町の電車通りで、今の都電停留所専修大学前で、富士見町教会からは、九段下を下れば、直ぐ近くにあったので、植村正久先生は、たびたび店に来られた。また、その当時のキリスト教会知名の先生や、作家、画家なども、この変わりだねの店の顧客であった。作家では、有島武郎、大仏次郎、武者小路実篤、木村荘八氏なども顔なじみの客であった。》(日本キリスト教出版史夜話(8)新生堂とその時代)

亀之助は大正九年に歿したため、哲夫は洛陽堂から完全に退いてキリスト教書の販売と出版に専念するようになった。そこへ関東大震災がふりかかる。商品家財のすべてが焼けてしまった。しかし新生堂古書店が焼け跡で復興するのは早かった。

《神田古本屋町の焼け跡へ真先に古本店を復活させたのは旧洛陽堂の主人の実弟河本哲夫氏で北神保町の新生堂がそれだ焦土の上で第一番に誰が何を買つたか「それは印半纏を着た労働者風の青年で一冊廿銭の古い聖書を買つて行きました九月廿八日のことです」それから一週間位の客は殆どすべてが労働者で一円以下の安い物ばかりが売れた、講談や小説の古雑誌が彼等に喜ばれるであらうといふ予期に反して有島武郎氏訳の「リビングストン伝」内村鑑三氏の地人論や「クリスト信徒の慰め」などが腹掛けの丼に収められた、最近漸く学生が一日二百名位づゝ来るが漁るものは大抵教科書、受験用書、辞書類である主人河本哲夫氏は加州大学の出身で芥川龍之介、宇野浩二の諸文士にも知られ同窓の学友にも篤志者があつてこんどの罹災に深く同情し神戸からは早速バラックの店を建てゝ呉れる仙台からは蔵書三千冊を無条件で送つて呉れるといふ有様で古本屋町第一の先駆をなし得たのもこれら学友の後援があつたからだと氏は敬虔に感謝してゐた》(読売新聞、大正十二年十月十二日)

他にも本書で知った小川菊松『出版興亡五十年』を代筆した中山三郎についてだとか、『白樺』編集中の原稿紛失事件などはきわめて面白い逸話であるし、そうそう柳屋三好米吉も登場する。いずれにせよ『洛陽堂河本亀之助小伝 損をしてでも良書を出す・ある出版人の生涯』が明治から大正にかけての印刷出版業における興亡に新たな光を当てた労作だということは何度でも強調しておく価値はあると思う。

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by sumus2013 | 2016-06-08 21:12 | おすすめ本棚 | Comments(0)
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