林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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述語制言語の日本文化

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『季刊iichiko』No.127(日本ベリエールアートセンター、二〇一五年七月二〇日)「特集・述語制言語の日本文化」を某氏より頂戴した。おそらく加藤周一の「日本語 I」を先日引用したので(昨日もリンクしたが)、もっと勉強しなさいという意味合いで恵投いただいたのだろうと思う。深謝です。たしかにこれは勉強になった。

この号の編集は山本哲士であって、その「日本語には主語がない」という述語制を主張するために藤井貞和、齋藤希史、金谷武洋を迎えてエキサイティングな日本語論を展開している。単なる文法論というよりも述語制から見る文化、哲学へと思考は広がって近代以降の価値を転換させることを目論んでいる。

日本語に主語がないとはどういうことか?

《そもそも日本語に「主語」なるものなどは、パロールにおいてもエクリチュールにおいても存在などしていない、それを日本人全員(ひとりのこらずすべての人!)が使い日々表現しているのである。日本語は、ランガージュとして主語無き言語、主語を必要としない言語である。そのあきらかな例として、いつも繰り返しわたしが示しつづけているのは(他の論者たちも例示しているように明解にしてあざやかであるからだ)、川端康成『雪国』と夏目漱石『草枕』の二つの出だしの名文である。
 「国境の長いトンネルをぬけると雪国であった。」
 「山道を歩きながら考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。」
どちらにも、「ハ」も「ガ」もなければ、もちろん主語などどこにもない。述語でしかないのが、日本語の本来であるのだ。》(山本哲士「《主語》という誤認の概念空間:述語制の概念空間へ」)

漱石の引用文、正確には「山路を登りながら、こう考えた。」だが、まあそれはどうでもいい。たしかに主語に当る言葉はない。もちろん川端はこの後「夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。」とガの文を続けているし、漱石の方も「とかくに人の世は住みにくい。」とハの文が続く……のだが、しかしそれらは「主語」ではないというのが述語制の主張である。それを素人の小生がここで説明するのは不可能なので本誌をご覧いただきたいが、江戸時代の漢文訓読から明治時代以降の英文法を下敷きにした日本文法の制定を誤謬と見る考え方はたいへん面白いと思った。チョムスキーがここでもちらりと現れ、一蹴されている。

《英語を中心とする現在の言語学が「普遍文法」としてS(主語)を語るならば我々は日本語という具体例を挙げて多いに反論すべきで、そうした努力こそが「世界語への寄与」(三上章)となるのだ。日本語の言語学者の大半はそれとは逆の方向で、「普遍文法」という美名の下にチョムスキーが提唱する生成文法などでせっせと日本語を記述しようとしているが、誠に寒心に堪えない。生成文法はせいぜい英語学、しかも「現代」英語にすぎないものだ。そもそも古英語の時代にはSOVが基本語順だったし、さらに遡れば主語などなかったのである。》(金谷武洋「述語言語の日本語文法を主語言語の英文法で記述する愚行」)

英語に主語がなかったとすれば日本語に主語ができても別に怪しむには当らないと思うし、これは先日、日本におけるシュルレアリスムの問題で引用した「近代へ」と「近代から」の違いにちょっと似ていなくもないだろう。転形期における無いものねだりである。日本の近代は「主語」を欲したのだ。

もうひとつ興味をひかれたのはランボーの書いた文章が翻訳不能な例として挙げられていること。

《まず、ランボーの有名な一句。
  Je est un autre.
 これは、être 動詞を文法的にずらし、一人称ではなく三人称へ転じた表現だ。文法上で正しくは、Je suis un autre. となる。人称差異がないさらにコプラなどない日本語で、それは翻訳しえない。なのに
 「わたしは他者である。」
と平然と訳すのだ。》(山本哲士、前掲論文)

「Je est un autre」はランボーがポール・ドメニー(先輩詩人)に宛てたいわゆる「見者の手紙 Lettre du Voyant」に出てくる文である(「見者」という訳語もそうとう胡散臭いが)。直訳しようとすると、山本氏の言う通り、たしかに不可能な文章である。

Rimbaud à Paul Demeny (Lettre du Voyant, 15 mai 1871)

ただ、だから日本語とフランス語は翻訳不能としてしまってはあまりにもつまらない。ランボーのいわんとするところは「僕は他人の彼なんです」ということなのではないか。直訳は無理でもランボーの意図は汲み取れるのではないだろうか。また、そもそもフランス語として認められない特異な文章を例に挙げて翻訳できないと主張するのもどんなものか。自らの無学文盲は棚に上げてもう少し適当な例があったのではないかなと思ったりする。

いいちこ」、いろいろな意味で知的刺戟に満ちた雑誌である。

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by sumus2013 | 2016-05-20 20:56 | おすすめ本棚 | Comments(0)
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