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日本のシュルレアリスム『彷書月刊』の初期号を何冊か頂戴した。深謝です。終日雨、PCに向かって現在進行中の書籍レイアウトと苦闘する。その合間の息抜きに同誌をパラパラと。通巻12号(弘隆社、一九八六年八月二五日)は特集が「日本のシュルレアリスム」。執筆者は鶴岡善久、中野嘉一、諏訪優、白石かずこ、ジョン・ソルト、針生一郎。 諏訪優「北園克衛のブックデザイン それでも彼は詩人だった」に北園の書斎の様子が少しだけ描かれていた。 《馬込時代の彼の家は六畳二間ほどの借家であったが、あまり大きくない仕事机の前にあぐらをかいた彼は、机の上のエンピツとペンと、小皿にとり出した水彩絵具の数滴で、わたしたち若い詩人に、アッと言う間に見事な栞を作ってくれたりしたのである。 極言すれば、詩人の仕事机の上から、ノリとハサミとエンピツで、あれら多くのすぐれたブックデザインは作られたのである。》 中村書店のしおり(北園克衛デザイン) ジョン・ソルト「蝙蝠傘の失跡」は日本におけるシュルレアリスムの性格について。 《日本のシュールレアリスムを研究していて意外であったのは、この点に関しての日本のシュールレアリスムの態度が、ヨーロッパのそれ[二字傍点]とは大きく異なっていた点であった。ブルトンは積極的にシュールレアリスム的存在の発掘を展開した。しかし、日本のシュールレアリスムは、どちらかといえばその活動を自己のフィールドの内側に限定し、時空の逸脱に消極的であったように映る。》 ソルト氏はその理由をこう説明している。 《「近代への[二字傍点]自由」こそが日本のシュールレアリストにとっての切実な問題であった。それゆえほとんどあらゆる過去の文化や伝統は、揚棄の対象として以上の意味をもちにくかったのではないだろうか。 ヨーロッパのシュールレアリスムが、すでに人間にとっての規範と化した「近代から[二字傍点]の自由」を対象としたものであったと仮定すれば、日本のそれは脱亜的に進行しつつあった「近代への[二字傍点]自由」へとそのベクトルを向けていた。》 要するに、日本は未開国だった、それこそもしブルトンが日本に興味を抱いたとすれば、奇想の作家や画家を歴史の闇のなかから引き出したかもしれない(たとえば今ではフランスにも専門の研究者がいるらしい若冲のような画家だとか。カチナドールを集めるようにこけしを収集するブルトンを想像するのも楽しい)、そんな国、シュルレアリスムの対象となる国だった、ということだ。 ここで未開と言ったのはあくまでパリの運動から見た価値であって、パリには存在しない「豊かさ」と考えていいだろう。パリに集まったシュルレアリストたちの多国籍性を考えれば、空間を超越した感応力がブルトンの才能だったのである。だから既成の価値観にこだわらない自由さを発揮できた。 その極東の未開国にブルトンの精神をもって時間と空間を眺めることができるシュルレアリストがいたのかどうか。戦後の瀧口修造は新しい特異な造型作家を見出すという意味においてはブルトンに似た仕事をしたと言えるとは思うが。ただし第二次世界大戦後は世界そのものが全くと言っていいほどシュルレアリスムになってしまったので、その時点で本物のシュルレアリストが日本に次々現れたとしても(本誌に針生一郎がそんなことを書いている)それはむしろ当然のことなのである。 第一次大戦の申し子であるシュルレアリスムはあくまで二大戦間における精神の物差しとしてもっとも大きな意味を持っているように思う。その意味では柳宗悦の民芸運動あるいはその蒐集品などを見ると、柳こそ日本のブルトンと呼ぶにふさわしい人物ではないだろうか。日本のシュルレアリストを既成の見方で測ろうとするとつまらないものになってしまう。 柳宗悦『蒐集物語』
by sumus2013
| 2016-05-10 17:03
| 古書日録
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