カテゴリ
全体古書日録 もよおしいろいろ おすすめ本棚 画家=林哲夫 装幀=林哲夫 文筆=林哲夫 喫茶店の時代 うどん県あれこれ 雲遅空想美術館 コレクション おととこゑ 京洛さんぽ 巴里アンフェール 関西の出版社 彷書月刊総目次 未分類 以前の記事
2022年 09月2022年 08月 2022年 07月 more... お気に入りブログ
NabeQuest(na...daily-sumus Madame100gの不... 最新のコメント
メモ帳
最新のトラックバック
検索
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
こころに効く「名言・名セリフ」岡崎武志『読書で見つけたこころに効く「名言・名セリフ」』(光文社知恵の森文庫、二〇一六年四月二〇日、カバーデザイン=長坂勇司)が届いた。もう一冊『ここが私の東京』(扶桑社)も同時に届いたのだが、これはもう少しゆっくり読ませてもらってから紹介する。 中江有理さんの帯、いいなあ(笑)。《ただの名言集ではありません。「読む楽しさを共有する本」です。》まさにその通り。あれこれ拾い読んでいると時間を忘れる。花森安治の言葉も採られていた。 《世界はあなたのためにはない》 う〜ん、これを抜いてくるか、さすが岡崎氏。 《『一銭五厘の旗』(暮しの手帖社)という随筆集に収められている。春に、学校を卒業する若い女性に向けた言葉だが、ずいぶん厳しい。普通なら『世界はあなたのために手を広げて待っている』と、前途ある若者に景気をつけたいところだ。 しかし花森は、そうしない。ここで三十三歳という若さで死んだ一人の女性編集部員の話をするのだ。林澄子、旧姓藤井澄子は、暮しの手帖社が初めて社員を公募した一九五七年に入社。一番の成績だった。彼女は二年後に結婚し、男女二人の子を産み、産休、育休をとって、そのつど職場に復帰してきた。昭和三十年代、女性は結婚あるいは出産を機に退職し、家庭におさまるのが一般的だった。》 彼女は働く女性すべての立場を代表するように懸命に頑張った。 《彼女が入社した十年後、暮しの手帖社の入社試験には、三名の採用に二百名もの応募があったという。》 十年後と言えば『花森安治の編集室』の著者・唐澤平吉さんが試験を受ける四年前である。そんな難関だったわけだ。花森は林澄子の有能さと死を語り、こう書いているという。 《「世界は、あなたの前に、重くて冷たい扉をぴったり閉めている。それを開けるには、じぶんの手で、爪に血をしたたらせて、こじあけるより仕方がないのである。」》 そして岡崎氏は《この言葉は今も有効である》と結ぶ。鮮やかな手並み。 一方、唐澤氏も林澄子のことを取り上げている。唐澤氏はこのエッセイで花森が訴えたかったことは三つあるとする。 《ひとつは、林澄子さんの生き方、しごとへの取り組み方のすばらしさと、その人を失ったことへの深いかなしみでした。 ふたつめは、暮しの手帖社のしごとの大へんさです。》 《そして三つめは、女性が社会に出て働くことの意味についてでした。》 こう分析して雑誌創刊時代の苦労話を引用し、暮しの手帖社に就業規則がないことを「オトナの常識」だと締めくくる。 《そして就業規則のないしごと場こそ、花森安治にとってリーダーとしてのカリスマ性をぞんぶんに発揮できる、最良のしごと場だったのではないでしょうか。 「ぼくがいったり、やったりすることは、世間よりも十年早いんだ。いや、二十年くらい早いかもしれん。あんまり早すぎて、わかってもらえんことのほうが多い」》 これは花森に対する痛烈な批判ではないか? 唐澤氏はもちろんそんなことはこれっぽっちも書いていない。この常識がなければ『暮しの手帖』というユニークな雑誌は生まれなかったと断言しておられる。ただ、唐澤氏によれば林澄子さんの死因は脳出血だった。今なら遺族に訴えられても仕方がないような働き方だったのかもしれない。 「世界はあなたのためにはない」……非情な名言である。
by sumus2013
| 2016-04-11 20:46
| おすすめ本棚
|
Comments(6)
Commented
by
唐澤平吉
at 2016-04-12 06:04
x
ことばたらずと語弊を承知で言えば、一所(一生)懸命、この道一筋、生涯現役とかの「美学」が小生にもあって、それゆえ忸怩たるものがつきまといます。手帖社は、定年制がなく生涯正規雇用でした。だから使い捨ての非正規雇用とはちがい、たとえ過労死でも、労災というよりも、殉職というような受けとめ方をしてしまいます。花森じしんも、その意味では壮絶な殉職なのです。いまは出版業界も、労働環境は「改善」されてきているようですが・・・。
0
Commented
by
sumus2013 at 2016-04-12 08:43
まさにそこが、花森の対極として富士正晴を考えたいところなのです。同じ中学に学んだ同世代の二人がまったく異なる生き方をしてどちらも稀有な雑誌を残したわけですが、富士正晴の名言は「どうなとなれ」です。この違い、ひとつには花森の従軍が昭和12〜15年、富士が19〜21年というところにあるのかな、と思わないでもありません。
林さま、いつもながらのご配慮、ありがとうございます。唐澤氏との、コメントによる対談(?)も興味深く拝読しております。今年から来春いっぱい、花森安治の話題が続きそうですね。洲之内徹をドラマ化したものも、見てみたい。
Commented
by
sumus2013 at 2016-04-12 17:17
とと……とりあえず、九月末までに唐澤さんとともに花森安治の装幀集をまとめるつもりで努力しております! 岡崎さんもいよいよご活躍のようす、体調だけは気をつけてください、危ない年頃ですからね。
Commented
by
唐澤平吉
at 2016-04-12 18:58
x
見当違いかもしれませんが、富士と花森は、合わせ鏡のような関係におもえます。その鏡に映っている顔は、たがいに「非情」であって「無情」ではない、きわめて自意識の人であったのじゃないかしら。それをもたらしたのは、やはり戦争体験だったようにおもえます。
Commented
by
sumus2013 at 2016-04-12 20:20
おっしゃる通りです。元々おちこぼれな富士(三高中退)とエリートの花森ではあらゆるものに対する考え方にかなりなへだたりがあったとは思いますが、それをさらに決定的にしたのは勝ち戦体験と負け戦体験だったような気がします。「世界はあなたのためにはない」……だからこそ「どうなとなれ」と開き直るのが富士哲学なのかも。
|