林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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榛地和装本 終篇

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藤田三男『榛地和装本 終篇』(ウェッジ、二〇一〇年三月二五日)を頂戴した。その少し前に『榛地和装本展』(東京堂書店、二〇一四年一〇月一〇日)の図録を別の方より頂戴していたので、本が本を呼ぶという事例がまたひとつ増えた。

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榛地和(しんち・かず)という装幀者については前著『榛地和装本』(河出書房新社、一九九八年)で初めて知ったわけだが(と言っても小生は架蔵しないが)、当時はこの本の噂でもちきりだった。

榛地和は知らなくてもその本の姿は知っている。三島由紀夫『サド侯爵夫人』、足立巻一『やちまた』、『コレクション・都市モダニズム詩誌』そして『保昌正夫一巻本選集』。編集者の余技という雰囲気は全くなく専門のデザナーの仕事と等価である。

保昌正夫の名が出たから書くと、本書には「「東京」の人 追悼・保昌正夫」という一文が収められている(初出は『槻の木』二〇〇三年四月号)。藤田氏は早稲田高等学院の生徒として保昌先生に出会った。保昌先生と同僚の浅見淵、都筑省吾は文学的盟友であった。

《学院から移られた武蔵野美術大学での教え子の話によれば、保昌さんは学園闘争の最中にも、きっちりと講壇に立ち、高橋和巳の「悲の器」から「わが解体」に話が及ぶと、声を詰まらせ涙を流しながら講義を続けた、という。

小生が保昌先生の授業を受けたのはこういう時代から七、八年も後のことである。涙は流されることはなかったが、その語り口は今もって忘れられないくらい独特な調子があった。田舎者の小生はこんな高座(講座)は聞いたことがなかった。

保昌さんは、徹頭徹尾よくも悪しくも「東京」の人であって、地方人(田舎者)の膨張指向、新奇なるものへの希求を嫌った人であった。保昌さんがもっとも嫌ったのは「弁[わきま]えのない」(田舎者流)ということで、日常よくこの言葉を使った。○○は弁えのない男(女)という科白は、保昌さんの最高の侮辱であり、拒否の姿勢であった。

保昌さんには人の先頭を切って暴走すること、人を押しのけることは、結局時勢に対して媚を売ることに他ならない、という確固たる信念があり、しかし攻めこまれたときは、自説は絶対に枉げない、妥協しないというガンコさ、くせ[二文字傍点]のある人でもあった。

そう言う意味で保昌先生が鑽仰したのは浅見淵、岩本素白、山内義雄の三人だったという。ここで藤田氏は山内義雄に関する逸話を披露しておられる。河出書房新社が『日夏耿之介全集』を刊行することになり監修者を矢野峰人、山内義雄、吉田健一の三人に依頼した。ところが山内義雄には断られた。

《「小生の日夏氏への敬仰と長年にわたる友情は別として、その全集監修者として名をつらねること、これはいささか僭越の思を禁じ得ず……文藝史家として第一級の矢野禾積、吉田精一氏をもって足れりとすべく単に友情につながる小生などの出る筋合でもないやうに思はれます」》

こういう手紙をもらって困った藤田氏は齋藤礒雄を訪ねて相談した。齋藤は山内の手紙を一読、「ともかく山内さんに君がお目にかかって、監修者の名前を、ゆっくり、はっきりと申上げてみなさい」とアドヴァイスしてくれた。

その指示通り藤田氏は山内を訪ね、煙草の灰だらけの書斎で監修者の名前をゆっくり、はっきりと告げたところ《ちょっと照れくさそうに、お引き受けしましょう、と言われた》。

藤田氏はこの顛末保昌さんに報告した。

《ほんとうにうれしそうに、感じ入った風に「山内さんだなあ、すごいなあ」と言い、一転顔を引き締めて、「あの方(もう一人の監修者)は弁えのない人、ダメよ、ダメよその人は」と吃りがちに保昌さんは言った。

いやあ、面白い! もう一人の監修者も東京人ですけどね。ま、実のところ東京であろうとなかろうとそれはどうでもいいのだ。「野暮は嫌い」に尽きるのだろう。文中「吃りがち」とあって保昌先生の口吻が甦ってきた。

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by sumus2013 | 2016-03-27 20:26 | 古書日録 | Comments(0)
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