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火の子の宇宙『火の子の宇宙』(武蔵野書院、一九八三年九月一日)を頂戴した。以前も『ささありき』を送って下さった某氏より。 ささありき 「火の子」は西新宿七の十二の二十三松澤ビルにあったバーで、これはその開店十周年記念として刊行された文集である。発行人は内城育子(うちじょう・いくこ)、火の子のママ、経営者。制作が冬樹社だからレイアウトは『カイエ』風のフォーマットで決まっている。執筆陣を見てびっくり。谷川俊太郎、大江健三郎らから、山口昌男が最多登場であろうと思うが、文壇、論壇、画壇、出版、映画、音楽、広告などの世界の人々がざっと130人……質量ともに驚くべき人脈である。 ざっと目を通しただけだが、いずれも達者な書き手が揃っており、火の子とは直接関係のないエッセイとして書かれたものも多く、読み応えは十分だ。矢内原伊作「ジャコメッティの墓」、武満徹「ピアノ放浪記」、車谷長吉「桃の木の話」などが印象に残る。山口昌男の「私の「アマデウス・コンプレックス」」、栗本真一郎「ひのこのひ」なども面白い。掲載写真から三点ほど引用しておく。 《十七歳の春、結核の宣告は、私の人生を断崖からつきとばすように変えた。バレーシューズ、トーシューズ、稽古着すべて北上川になげ捨てた。美術研究所で描いていただいた多くのデッサンも写真も、舞踊を思い出すものは全部焼いた。》 療養生活七年、なんとか回復し、二年後に東京へ出た。住み込みの女中から水商売へ。キャバレーやクラブを転々とした。そして「キャロット」に勤める。 《その日もあてどなく新宿の街をフラフラ歩いていて、ふと「キャロット」という看板に心ひかれて立ち止まった(その後、「火の子」を開いてから大変お世話になったグラフィックデザイナーの原弘先生に、それは僕がつくったのだよと言われ、不思議な御縁におどろいた。)恐る恐るドアを押すと、端正なお顔の外国人がピアノに向ってひくシャンソンが美しく響いていた。》 「キャロット」は伊藤鐘治郎の経営。伊藤は戦前から新宿で喫茶店や酒場を経営していた人物(車屋の歴史)。椅子は岡本太郎、オブジェは勅使河原蒼風、サム・フランシスの絵が掛かっていたという。また若き武満徹は岡本太郎の紹介で「キャロット」でピアノを弾いたことがあるそうだ、なんと下駄履きで(上記回想記による)。その後「どれすでん」「風紋」「バッカス」と渡り歩いて「火の子」を開店したのが一九七三年。店名は母親の名ヒノから。 《店で働いての大きな喜びが人の出会いなら、一番悲しいのは人との別れだ。特に、花や葉をいっぱいつけたまま台風でもぎとられたような突然の死は、こんな悲しいことはない。最近では、陶芸の八木一夫氏、「海」編集長塙嘉彦氏、英文学の小野二郎氏、デザイナー杉浦康平氏夫人富美子さん、歴史資料館館長榎本宗次氏、人類学の蒲生正男氏……もう店を閉じてしまいたくなる。》 ほんとうの閉店は、下記ブログを読むと、どうやら二〇〇二年のことのようである。 2002年9月9日号(ユニテ開店) 他にも「火の子」の思い出をつづったブログがいくつかあった。 西新宿にあった文壇バーの「火の子」 Banquet 新宿文壇バー今昔 「火の子」の記憶 昔「火の子」という店がありました
by sumus2013
| 2015-12-18 20:03
| 喫茶店の時代
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Comments(4)
いつも楽しく拝見しております。その昔、人に連れられて「火の子」にいったことがありました。小生は酒をたしなみませんし、なによりも敷居が高くて「火の子」の常連になることはなしでした。この店にいったときに女主人から「火の子の宇宙」を見せられ、なんとかわけてほしいと思いましたが、それっきりで終わっています。このときに隣の席にいらした「おぎちゃん」と呼ばれていた作家 加賀乙彦さんは「雲の都」の登場人物に「火之子」と名付けています。もちろんここは、山口昌男組の縄張りでもありました。
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sumus2013 at 2015-12-19 21:07
そうなんですか! さすがです。なるほど山口さんが写真にも文章にもあちこちに登場しているはずですね。
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大島なえ
at 2015-12-19 22:10
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山口昌男さんは「火の子」の主のようだったとか。車谷長吉さんが作家になる前に何度も通っていて、失業して関西で
下働などの仕事を転々とした後に東京に職を得て戻ってきてから また「火の子」にいきだして、山口さんにチョーキツと呼ばれて 可愛がってもらったそうです。「贋世捨人」にママの話などがそのまま出てきます。 嫁はんも火の子で働いていて知り合ったと思います。亡くなってしまいましたが(嫁はんは生きてます)
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sumus2013 at 2015-12-20 08:42
たしかに山口組だったんですね。「文壇バーの時代」という本が書けそうです、もう誰か書いているかもしれませんが。
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