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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


夜想

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式場隆三郎『夜想』(大元社、一九四六年七月一〇日、装幀=鈴木繁男)。下鴨で装幀に惹かれて購入。鈴木繁男という名前に覚えがなかったので興味を持った。調べてみると柳宗悦に内弟子として入門した漆芸家で『工藝』の漆による意匠を手がけたりしている。式場と親しくても不思議ではない。

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もうひとつ「咢堂と語る」につぎのようなくだりがあったのをフト認めて買う気になった。昭和二十一年二月、式場は米海軍大尉O・Cや写真家の坂本万七らと熱海の尾崎咢堂を訪ねた。そのときの尾崎の会話が記録されている。O・Cは旧蔵者の書き込みによるとオーテス・ケーリである。祖父が同志社の神学教授で、父親も北海道や神戸で教鞭を執った親日家。ドナルド・キーンと同級生だという。このとき尾崎は自らの議員生活をふりかえっていきなりこう切り出す。

《五十幾年の議員生活といつても、これは失敗の歴史でして、始終虐められて敗北ばかりしてゐました。それでも藩閥を倒しました。むろん先輩その他の助けによることですが……。薩摩と長州といふものを完全に征伐しました。私はその陣頭に立つて一生懸命に働きました。これが一番の私の手柄です。海軍は薩摩人、陸軍は長州人でなければ上の方になれないといふのが、あの明治初年からの日本の情勢でした。ですから明治の末までは、元帥などいふとみな薩摩と長州の人ばかりで他の国のものは決してなれなかつた。》

《それを打破つて、日本人であれば誰でも元帥になれる。つまり元帥を薩摩、長州の手から離してひろく日本のものにした。これを私どもは大層得意にしてゐました。しかし、かうして陸軍と海軍は薩摩と長州の手を離れて日本のものになつたとはいへ、日本の人民のものにはならなかつた。日本全体が薩摩長州の残した形に入つてゐて、それが今日の戦争にまきこまれたのだと思ひます。》

不思議なこともあるもので、この日の夜にどこかのえらい人が長州閥の継続を自慢げに語ったというニュースを見た。尾崎はこの後、日露戦争での勝利が日本人をのぼせさせて狂人にした、それが第二次大戦へ入った原因だと分析しているが、雑駁すぎて論の体はなしていないにしても、これは小生がこれまで何度か書いて来たことと同じである。

それにしても長州閥の永続とは……またまた戦争への道を歩むということを意味しているのか。

by sumus2013 | 2015-08-13 21:04 | 古書日録 | Comments(0)
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