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駒井哲郎展『第17回オマージュ瀧口修造 駒井哲郎展』(佐谷画廊、一九九七年七月一日〜三一日)図録。『幼年画』を紹介したとき駒井哲郎に触れたから、というわけでもないだろうが、書棚整理中にこんな図録が出てきた。佐谷画廊の図録は洒落た装幀である。デザイナーが誰なのかは明記されていないが、画廊主のこだわりがあるのだろう。 オマージュ瀧口修造とあるように駒井哲郎を引き立てたのは瀧口である。駒井美子のエッセイ「1950年代の瀧口修造と駒井哲郎」に駒井のR夫人宛書簡が引用されており、次のように書かれている。 《12月16日[一九五〇年]瀧口氏が会いに来て、僕の春の作品をもう一度全部見たいといってきたので見せた。瀧口氏はもう可成りの年輩の人で慶応の英文科を出たそうだ。とてもおとなしい人で、にやけていなくて感じのよい人だ。もう頭は白くなりかかっているけれど。詩も書くそうで詩集を出すような時には、是非挿画をたのむとのことでした。それでとにかく、〔白い黒ン坊〕其他を、すいせんしてくれるようにたのんでおきました。》 かなりの年輩と言っているが、瀧口まだ四十七歳。駒井は三十歳。瀧口の詩に駒井の挿画という企画は実現しなかったにしても二人は急速に親しくなる。 《駒井は翌年[一九五四年]3月からパリに留学し、55年に帰国した。あくる年10月、結婚したのだが、結婚式では瀧口先生にお祝辞を頂いた。岡鹿之助先生、堀口大学先生にもお言葉を頂戴したが、三人ともお声が小さくて、マイクもないし、どんなことをおっしゃっていただいたか全然分らなかったのは、今でも残念でならない。仲人をたてない人前結婚式だったから、私はこのお三人をお仲人と思わせていただいている。》 久しぶりでこの図録を眺めていると、図版の最後のところに一九六一年の暑中見舞(エッチング)が掲載されているのが目に付いた。フランス語で詩のようなものが書き付けられている。 En été ma main Est foisonnée de cheveux Lourdie comme la jambe En été ma main Ne caresse jamais Attaque seulement Ton coeur violemment Tetsuro Komaï 大岡信宛である。大意は「夏、わたくしの手は毛むくじゃらになり足のように愚か//夏、わたくしの手は決して愛撫することなく、ただおまえの心を荒々しく攻める」……なかなか。
by sumus2013
| 2015-08-12 20:50
| 古書日録
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Comments(4)
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yf
at 2015-08-13 09:27
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小生が版画入りで、最初に購入したのが、駒井哲郎オリジナル入りの「青柳瑞穂」訳の「マルドロウルの歌」でした。
ある時、駒井哲郎の「手のひらにとげとげしい針が廻りを囲む作品を、金策の為に売ろうしたところ、知人の画廊主から「こう言う作品は売れません」と安く買われました。(貧乏人はつらい)処が「版画芸術」誌、の最後の頁、各画廊のデータ頁にとんでもない値段で知人の画廊が出したいるのです。 近くの喫茶店(H)で会った時「売れましたか」聞きますと「さすが「駒井哲郎」直ぐ売れましたの返事、彼は小生が売ったことを忘れているのでした。
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sumus2013 at 2015-08-13 20:02
古本も絵も持っている者が勝ち(価値)です。釈迦に説法とは思いますが。
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kaguragawa at 2015-08-17 21:56
駒井哲郎は実験工房のメンバーとして名前だけは見知っていたのですが、ことし堀田善衛の『海鳴りの底から』の初出誌「朝日ジャーナル」を順に追った折、各号に載っている駒井の作品に惹かれ、堀田本文の掲載誌と単行本の異同確認などという作業はそっちのけになってしまいました。駒井の全挿画を復刻した『海鳴りの底から』が世に出たらと・・・と、願いますが。
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sumus2013 at 2015-08-18 11:41
朝日文庫の表紙くらいしか知りませんが、全部揃えば凄いでしょうねえ……
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