林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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日本名所図絵3

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上田維曉(文斎)著作・青木恒三郎校正『内国旅行日本名所図絵 巻之一 五畿内之部』(嵩山堂、一八八九年一一月二九日発行)。本書には奥付が二枚あり、早い方は明治二十一年十月三日発行としてあり、定価金三十銭。遅い方が明治二十二年十一月二十九日発行で金四十銭。どうやら巻末に新しい奥付を貼付けただけように見受けられる(ということは再版ではなく単なる値上げ)。

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『近代大阪の出版』(創元社、二〇一〇年)をどこに仕舞ったか、ここ数日捜していた。嵩山堂についての論考を読み返そうと思ったわけだが、少し前に本棚整理で移動したため行方不明になっていた。やっと発見。

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そこに収められている青木育志「青木嵩山堂の出版活動」より、適宜引用してみる。

青木嵩山堂は明治一〇(一八七七)年代半ばから大正一〇年(一九二一)頃まで活動した。

《始まりの時期は明らかではない。大坂府立中之島図書館発行の『大阪本屋仲間記録』では明治一三年(一八八〇)一月六日、青木嵩山堂の創始者である青木恒三郎が入会届けを出したことが記述されている。

青木嵩山堂の経営者は青木恒三郎で、文久三年(一八六三)生まれ、大正一五年(一九二六)死去の人物である。恒三郎は上田家の出身であり、大阪の町医者で薬局経営の上田文斎の三男であった。上田家は代々蘭学の町医者であった。

文斎の次男上田貞次郎は家業の薬学の知識があり、関西薬学校(大阪大学薬学部の前身)を設立、初代校長を務める一方、心斎橋筋北詰に写真材料店を開業した。自ら写真を写し、写真の収集と聖書の収集で知られる。》

上田貞次郎はママ。本ブログでも上田貞治郎の著書『実地製造化学』を先日紹介したところ。恒三郎は自身で執筆もし、また親兄弟の本を出版していたわけだ。

貞次郎の弟恒三郎は大阪の青木家に養子に入り、出版業「青木嵩山堂」を起こした。そして心斎橋北詰と東京日本橋に店を出した。

《恒三郎は出版業で成功し、その資金で不動産売買や骨董収集に精を出した。》

《「嵩山堂」という商号は、もちろん中国の「嵩山」からとっている。》《「青木」嵩山堂としたのは、多くの同時代の他の「嵩山堂」から自己を区別するためであった。志賀直哉の『暗夜行路』によれば、東京日本橋の青木嵩山堂の近くに「小林」嵩山堂があった。明治出版の研究者によれば、小林嵩山堂は江戸時代から続いていた老舗らしい。》《それから言えば、どうも青木の方が小林を真似したというのが真相らしい。》

おそらくここで言う小林嵩山堂は小林嵩山房であろうかと思うが確証はない。

青木嵩山堂は出版、印刷、小売りを兼業していた。書店としては他社の出版物も扱った(洋書も含む)。通信販売を他に先駆けて行った。出版目録をほぼ毎月発行していた。雑誌以外のあらゆるジャンルの出版物を扱った総合出版社であった。文芸における代表的な出版物では幸田露伴『五重塔』、村上浪六『当世五人男』、黒岩涙香『噫無情』など。

《自社発行件数は大正七年では約一一六〇件であったが[『大正書籍総目録』大正七年]、明治四四年(一九一一)では約一五七〇件であった(『明治書籍総目録』の明治四四年版)。》

《世界旅行案内書の『世界旅行萬国名所図絵』は経営者の青木恒三郎自身の編集によるもので、七巻シリーズで、明治一八年(一八八五)半ばから翌年末までに順次刊行された。日本旅行案内書の『内国旅行日本名所図絵』は恒三郎の実父の上田文斎(号は維曉)の著になるもので、同じく七巻シリーズであり、明治二二年(一八八九)半ばから翌年末までに順次発行された。いずれも非常な人気であったと言う。

本書の二枚奥付に従えば『日本名所図絵』の初刊は明治二十一年のようである。なお、おそらくが文斎であろう。

『大正書籍総目録』から言えば、大正七年から一二年の間に廃業したらしい。『大正書籍総目録』では、大正七年版には社名が載っているが、大正一二年版には載っていないからである。前掲の湯川本[湯川松次郎『上方の出版と文化』]では、大正一〇頃廃業したとの記述がある。

廃業の理由については青木の後継者が出版業を嫌ったからという湯川松次郎説を採りながらこう結論している。

《前掲の湯川本では次のように記されている。すなわち、「かくして商状は益々盛大だったが、(青木恒三郎)氏に二人の娘があり、その婿君は二人共高商出身だったが、双方とも出版業を嫌ったのか、氏の意向であったのか、大正一〇年ごろ出版物の紙型及び在庫品の一切を市会開催して売払い閉店して終った」。》

《これは、いわば経営者・後継者の出版業嫌悪説とでも言うべきものである。湯川の話では婿が二人となっているが、正しくは三人の婿に二人の息子であって、恒三郎本人を入れて六人ともが嫌ったというのが真実のようである。》

潔いとも言えようが、やはり本屋は一代ということなのだろう。以下参考までに巻之一より京阪の主要スポットを描いた銅版画を紹介しておく。

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左「疏水開鑿之景」、右「三条橋之景」


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左「鉾之図」、右「新京極通之景」


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「新京極通之景」拡大


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「梅田停車場之景」


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「心斎橋之景」


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「道頓堀之景」


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「宝塚温泉之景」








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by sumus2013 | 2015-04-09 17:28 | 古書日録 | Comments(0)
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