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林哲夫の文画な日々2
by sumus2013


狐のだんぶくろ3

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田河水泡『凸凹黒兵衛』(『婦人倶楽部』一九三三年六月号付録)。

『狐のだんぶくろ』の「漫画オンパレード」を読んで腑に落ちた。まず澁澤少年が滝野川中里にいた頃、近所に小野寺秋風という漫画家が住んでいたという話からはじまる。

《小野寺秋風には評判になった連載物もなく、講談社を中心に活躍していた当時の漫画家のなかでは、彼はあまりぱっとした存在ではなかった。「のらくろ」「凸凹黒兵衛」「蛸の八ちゃん」の田河水泡、「冒険ダン吉」の島田啓三、「長靴三銃士」の井元水明、「団子串助漫遊記」の宮尾しげを、「日の丸旗之助」の中島菊夫、「タンク・タンクロー」の阪本牙城、「コグマノコロスケ」の吉本三平、「虎の子トラちゃん」の新関健之介、「カバさん」の芳賀まさを、それに澤井一三郎や倉金良行や帷子(かたびら)ススムや石田英助にくらべても、小野寺秋風はずっと地味な存在だったのではないかと思う。

猫野ニャン子先生 小野寺秋風・画

これらの内小生が架蔵するのは『のらくろ』復刻版を除けばわずかに上の『凸凹黒兵衛』のみ。マンガは専門家にお任せするのがよろしい。なかでも澁澤は「タンク・タンクロー」がいちばん印象深いと言う。

《まあ、「タンク・タンクロー」はナンセンス漫画のはしりみたいなものであろう。あるいは一種のSF漫画と考えてよいかもしれない。当時、つまり昭和十年前後には、それが非常にめずらしかったから、少年の私は強烈な印象を受けたのである。

このくだりを読むと以前このブログで《やっぱり澁澤の好みはメリメよりも誰よりもマンガに親近しているようである》と書いたことの裏付けを得たようで、ついウンウンと頷いてしまう。また黒兵衛についてはこう述べている。

凸凹黒兵衛」は『婦人倶楽部』の別冊付録だったから、私は本屋の前で母にせがんで、よく雑誌を買ってもらったものだ。子どもにせがまれて、読みたくもない雑誌をしぶしぶ買った母親が、当時はずいぶんいたのではなかったろうか。思えば講談社も罪なことをしたものである。

罪なことというか、なかなかの戦略であろう。

昭和二十年四月十三日。年明けからくり返されたB29による東京(および全国主要都市)への空襲がついに澁澤の住んでいた地域にも及んだ。

《晴れた夜空をわがもの顔に低く飛ぶB29は、サーチライトに照らされて銀色に光り、まるで不気味な魚のような感じであった。空襲警報のサイレン、爆弾の音、焼夷弾の音、高射砲の音、ひとびとの叫び声。やがて方々から火の手があがって、夜空は昼のように明るくなった。》

《ここはどうしても逃げるしかない。とはいえ、どっちへ行っても火の海なのである。家々が焼けくずれ、電信柱が燃えあがり、火の粉がもうもうと風に渦巻いている。逃げまどう群衆とともに、私たちもしばらく逃げ場を求めて右往左往した。》

そして山手線のトンネルのなかに逃げ込んだ。そこで一夜を過ごす。

《朝になって、ようやく火勢がおさまったころ、トンネルから外へ出てみて驚いた。見わたすかぎり、まっくろな焦土で、まだぶすぶすと燃えくすぶっている。余燼から立ちのぼる煙のため、ほとんど目をあいていることができない。あたりには灰と異臭がただよって、天日もどんより暗くなるほどである。
「えらいことになったものだ」と十六歳の私はそのとき思った。「こういうことは生きているあいだに、そう何度もぶつかることではあるまい」と。
 それでも、さすがに若かったから、なにもかも灰になってしまったのにはそれほど悲観もせず、むしろ好奇心がむらむらと頭をもたげてくるのをおぼえ、その日、足にまかせて焼け跡をやみくもに歩きまわったのをおぼえている。》

澁澤の描く四月十三から十四日にかけての空襲では330機のB29が東京中を無差別爆撃した。翌十五〜十六日には横浜川崎へと移った。映画「ドイツ青ざめた母」(ヘルマ・ブラームス監督、一九八〇年)は徹底的に破壊されたベルリンの惨状を見事に描写していたが、ドイツでも日本でも米軍は戦争終結をにらんでバクダンの在庫一掃を図ったのである。

このとき目の当たりにした焦土と大好きだったマンガが戦後の澁澤龍彦を形成した、そう小生は思っている。サドへの共感も自ずから納得できるだろう。

by sumus2013 | 2015-03-15 20:25 | 古書日録 | Comments(0)
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