林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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戦艦武蔵

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吉村昭『戦艦武蔵』(新潮文庫、一九九〇年三十七刷)。ポール・アレン氏が武蔵の船体を発見したというのは大ニュースだった。小生、戦艦にはほとんど興味はない。しかし何年か前に吉村昭の出世作であり代表作であるこの『戦艦武蔵』を読んでいたため船体発見には驚かざるを得なかった。

この小説、じつによく書けている。吉村では『わが文学漂流』が忌憚のない筆致と正確な描写がたいへん参考になる作品でもっとも好きなのだが、武蔵は別の意味で作者の特長が良く引き出された傑作だと思う。小説と実録の中間やや実録より。しかも面白い。

だいたいが大和や武蔵などという大鑑を建造するという方針そのものが誤りだった。日清・日露時代からそのままの方針でやっているのでは航空機が主役になった時代に遅れをとるのも当然だ。それでも日本海軍は卓越した砲撃技術に対する信頼があったため巨艦巨砲主義から容易に脱却できなかった。小銃の例でもそうだが名人芸に頼っていては技術の進歩に追いつけなくなる。ずっと後までレーダーさえ備えていなかったというのだから。

《しかし一方には、航空機の急速な発達に注目した航空主兵主義が、山本五十六海軍大将、大西滝治郎海軍少将らを中心に海軍部内を支配しはじめ、その表われとして開戦と同時に航空機による真珠湾攻撃という形をとったのである。そして、その二日後におこなわれたマレー沖海戦では、航空兵力が海上兵力に優位を示すことが決定的な事実となってあらわれた。
 渡辺は、横須賀海軍工廠で建造中の第三号艦につづいて呉工廠造船ドックで起工されていた第四号艦が、工事半ばで中止命令を受け、ひそかに解体されたことを知らされた。

実際、武蔵も米軍の航空機に執拗に攻撃されて沈没したのであった。昭和十九年十月二十二日ブルネイを出撃。フィリピン諸島北部パラワン島の水路で摩耶の乗組員を救助。ミンドロ島南方を迂回してシブヤン海に進んだ。そこで米軍につかまった。さて、ここから沈没までの描写が壮絶なのだが、それは直接読んでいただいた方がよかろう。十月二十四日、沈没の直前から沈没までを部分的に引用しておく。何次にもわたる攻撃で多数の直撃弾を受け多くの魚雷を命中させられた武蔵。

《猪口艦長は、シブヤン海の北岸に座礁することを考え、艦首をその方向に向けて進ませたが、機関室へも海水が流れこんで、途中で機関がとまってしまった。同時に二次電源も消えて艦内は闇になった。
 艦長は副長に命じて、
「総員上甲板」
 という指令を出させた。》

《「退艦用意」
 副長の口から声がもれた。かれの顔は、激しくゆがんでいた。この艦は沈まないという思いがまだ残っている。が、退艦発令の時機を失してしまえば、多くの乗組員の生命がうばわれるのだ。
 その時艦の傾斜が或る限度を越えたのか、突然、右舷に集められた重量物が轟音を立てて左舷へ動きはじめた。滑ってくる重量物に圧しつぶされる者の叫びが所々であがった。》

《艦の傾斜速度は急に早まり、海水を大きく波立たせて左に横転すると、艦首を下にして、徐々に艦尾を持上げはじめた。艦にしがみついている乗組員たちの姿が、薄暗くなった空を背景に艦尾の方へしきりと移動しているのが見える。
 艦首が没し、やがて艦橋が海中に没すると直立するように艦尾が海面に残った。それでも人々の移動はつづき、スクリューにも十数名の尚も上方へ上方へと這いのぼる人影がくっきりと見られた。艦尾とともにそれらの人影が海面から消えたのはそれから間もなくであった。

全乗務員二千三百九十九名中千三百七十六名の生存者は、駆逐艦清霜、浜風に救助されてマニラへ向かったが、マニラに上陸させては武蔵の沈没が知られてしまうという理由でコレヒドールへ送られた。

《海軍にとって、かれらは、すでに人の眼から隔離しておきたい存在だった。武蔵乗組員という名は、かき消したかったのだ。かれらの所属はどこにもなかった。》

生存者の半数は瀬戸内海の小島へ移送され軟禁同様の生活を強いられ、残りの半数は現地でマニラ防衛隊などに配属され多くが戦死したという。

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by sumus2013 | 2015-03-10 20:49 | 古書日録 | Comments(0)
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