林哲夫の文画な日々2
by sumus2013
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空海伝の基本問題

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上山春平『空海』はまず著者自らと空海との関わりを述べておいて、伝記の基本中の基本として生年の確定、そして得度の年齢の確定、というふたつの大問題の再検討に着手する。基本中の基本であるはずが、それらを明瞭にすることはそう容易ではない。

空海の伝記資料としてまず空海の著作『三教指帰』の序が挙げられ、次いで最も古く(古さではもっと古いもののあるが)正史の記録として正確さを期待できる「崩伝」(空海の略伝、『続日本後紀』貞観十一年[八六九]撰上、に所載)が俎上に乗せられる。

《空海死去の日付けは承和二年三月二十一日であり、そのときの年齢が六十三歳(数え年)であるということは、承和二年(八三五)から六十二年前の宝亀四年(七七三)が生年ということになる。しかし困ったことに、宗門の定説では、生年は宝亀五年(七七四)ということになっており、一年のくいちがいが生じることになる。

この食い違いは宗門が空海伝の基準としている『御遺告(ごゆいごう)』では死去した承和二年における空海の年齢は六十二歳としてあるからだ。『御遺告』は空海の真筆という《タテマエ》になっているそうで、宗門としてはこの説を取るしかない。

この問題を解決するため上山は資料を読み直して最澄の手紙に注目する。空海が最澄の元へ自分の「五八の詩」(空海が四十歳を迎えて作った「中寿感興の詩ならびに序」)を送って、これに和してくれと頼んで来た。ところがその空海の漢詩に分らない語句があった。最澄は空海の元に送り込んでいた弟子の泰範に宛てて語句の意味を空海に聞いてくれないかと頼んだ、その手紙の日付が弘仁四年十一月二十五日。ということは弘仁四年(八一三)に空海は四十歳になった、すなわち生年は宝亀五年(七七四)と考えてまず間違いない。空海「五八の詩」はこういうものだった。

 黄葉索山野
 蒼々豈始終
 嗟余五八歳
 長夜念圓融
 浮雲何処出
 本是浄虚空
 欲談一心趣
 三曜朗天中

五言が八句、四十語に作られている。上山は四十の寿について

《今日の常識からすれば、長寿を祝うのはせいぜい六十の還暦以上であるが、空海の時代には四十の寿を祝うという風習があったのだろうか。それとも、とくに空海が、四十という歳に、特別の思いを託していたのでもあろうか。》

と書いているが、これは上手の手から水が漏れた。少し長いが拙稿の一部を引用しておく(これは還暦について調べた原稿で未発表のままになっているもの)。

四十を初老として祝う風習は奈良時代からあった。漢詩集『懐風藻』には長屋王の四十(シの音を嫌って五八と言い換える)を祝う刀利宣令「五言。賀五八」や伊與連古麻呂「五言。賀五八年宴」が選ばれている。後者は次のような詩である。

晩秋長貴戚。五八表遐年。真率無前後。鳴求一愚賢。令節調黄地。寒風変碧天。已応螽斯徴。何須顧太玄。

 「五八表遐年」の遐年(かねん)とは遐寿、遐命ともいい、長寿を意味する。また天平十二年(七四〇)には興福寺の良弁が聖武天皇四十の賀を金鐘寺で執り行った例もあるし、もっと下って平安時代には、フィクションながら当時の風習を正しく反映しているとされる『源氏物語』若菜上巻の例がある。ここでは光源氏のために四十の賀が三度も開かれている。正月に玉鬘、十月に紫の上、十二月に秋好中宮と夕霧がそれぞれ賀宴を主催した。その折の光源氏の感想は四十男の切なさを表しているようで興味深い。引用は与謝野晶子訳。

「過ぎた年月のことというものは、自身の心には長い気などはしないもので、やはり昔のままの若々しい心が改められないのですが、こうした孫たちを見せてもらうことでにわかに恥ずかしいまでに年齢を考えさせられます。中納言にも子供ができているはずなのだが、うとい者に私をしているのかまだ見せませんよ。あなたがだれよりも先に数えてくだすって年齢の祝いをしてくださる子の日も、少し恨めしくないことはない。もう少し老いは忘れていたいのですがね」

「私はもう世の中から離れた気にもなって、勝手な生活をしていますから、たって行く月日もわからないのだが、こんなに年を数えてきてくだすったことで、老いが急に来たような心細さが感ぜられます」

「四十の賀というものは、先例を考えますと、それがあったあとをなお長く生きていられる人は少ないのですから、今度は内輪のことにしてこの次の賀をしていただく場合にお志を受けましょう」

 文中「この次の賀をしていただく場合」というのはむろん五十の賀を意味しているのだろうが、四十、五十、六十、七十などの年齢に達したことを祝う「賀」は中国の古い習俗で、算賀、賀寿などとも呼ばれる。とりわけ唐代末から宋代にかけて長寿を祝って詩を贈ることが流行したらしく、その影響が先に引いた『懐風藻』に現れているということになる。

思いを託していたも何もミーハーな空海らしく中国風に四十を祝いたかったわけであろう。四十を初老と呼んだりするのはこの風習がもとになっていると思われる。

もうひとつの謎、空海の得度の年齢。宗門の通説は二十歳。「崩伝」は三十一歳。どちらが正しいのか? 得度とは出家して沙弥(しゃみ、具足戒を受ける前の出家者)になること。当時、得度は原則として国家機関の承認を必要とする「官度」であって、その承認を経ない「私度」は禁止されていた。毎年、得度できる人数も決められていた。

ここで上山が注目したのは空海得度に関する太政官符の写しである。そこには《右は去る延暦二十二年四月七日、出家入唐せり。省、宜しく承知し、例に依って之を度すべし。符到らば奉行せよ》(原漢文)とある。日付は延暦二十四(八〇五)年九月十一日(出家の二年後!)。これは野里梅園『梅園奇賞』(文政十年刊)に模写が収録されているので知られていたが、元は石山寺に所蔵されていたものらしい。その原本らしきものはその後、古文書学者中村直勝のコレクションに入っていた(大和文華館所蔵)。上山はこの公文書(の写し)に延暦二十二年とあるところを別の資料によって二十三年(八〇四)の誤写ではないかと推理し、それならば三十一歳得度である、と推断する。

どうやら、空海が遣唐船で唐に渡ったとき、いまだ得度していなかった。「官度」の僧ではなかったのである。それでいてよくぞ留学できたものと思われなくもないが、このあたりも空海らしい腕力なのかもしれない。ただ同行した時の遣唐大使藤原葛野麿から厚い信頼を得た。中国語あるいは漢文の力量を十二分に発揮して大使一行を大いに助けたようだ。空海より一足早く延暦二十四年に帰国した葛野麿は空海を正式に「官度」させる命令書を発行させた。だからこそ得度手続きは留学直前なのに発令の日付は一年以上後になっている。

いずれも細かい話のようだが、この推論に到るには空海を取り巻く様々な事情を理解する必要がある。容易でないはずである。何しろ一千二百年前のことなのだから……

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by sumus2013 | 2015-02-22 21:39 | 古書日録 | Comments(0)
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